Title
『コリオレーナス』研究 : 自己、社会、そして自然
Author(s)
川本, 真由子
Citation
英米文学 = Studies in British & American literature(39): 6-19
Issue Date
1991-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10325
『.'ノオレーナス』研究
一 自 己 、 社 会 、 そ し て 自 然
川 本 真 由 子 コリオレーナス、コーディーリア、そしてハムレット。シェイクスピアの悲劇に登場するこれらの人物達は、一見、何ら共通点を持たぬように見えな
がら、ある一点において非常な類似点を持っている。それは、自己への誠実
という一点である。この小論ではこの問題をめぐって、『コリオレーナス』を
中心に、シェイクスピアがいかに自己への誠実というこのテーマに関心を寄
せていたか、そしてそれをどのように人間の悲劇の一要因として表現してい
るかを考察してみたい。 I『コリオレーナス』で、悲劇を招き寄せる主人公の'性格が目立ち始めるの
は、一幕九場あたりからである。しばし劇の展開に添って彼の言動に注目し
よう。ローマの軍人ケーアス・マーシャスは、コリオライとの戦闘において無敵
の戦いぶりを示し、味方を勝利に導いたので、同僚の将軍達は彼を誉め讃え
る。しかし彼は、かたくなと言ってよいほど賞讃されることを拒む。そして
兵士達の歓呼には、ありありと嫌悪の情を示す。そんなに大げさな歓呼をも
ってはやしたてられると、まるで自分が、「小さな手柄を嘘で味つけした称賛
にくるんで食べてもらいたがっているようだ」(I.ix.49-52)'と彼は言う。
1PhilipBrockbank,ed.,Cb畑"""s[TheArdenShakespeare](London:
Methuen,1976).以下、『コリオレーナス』からの引用あるいは行数の指示はこの版
による。また、日本語訳は、小田島雄志訳『コリオレーナス』(白水社、1983)によ
る。 6『 コ リ オ レ ー ナ ス 』 研 究 7
自分の武功が語られることも、それが賞讃されることも好まぬマーシャスの
言動は、一見、謙虚な人間のそれと一致する。しかし、この言動が謙虚さと
正反対のもの、つまり、ある種の微’慢さのあまりであることは劇中の他の人々
も気づいている通りである。コミニアスの、好意的なマーシャス評によれば、
マーシャスにとっては、自分らしく生きることだけが問題なのであって、他人の評価などは何の意味も持っていないのだ(11.ii、124-129)。2一方、民衆
は、彼の功績と無欲さは認めるが、その徹慢さが鼻持ちならない、と言う。
市民1は劇の冒頭で「民衆の敵」として、マーシャスの微‘慢さを指摘する(I.
i.6-7,35-39)。そして、マーシャスが栄誉の印として、「コリオレーナス」
という新たな称号を得て凱旋し、やがて元老院に現われようという時、役人
1と2は彼を次のように評する。コリオレーナス−と、これ以後呼ぶこと
にする−は、民衆に愛されようが愛されまいが少しも気にかけない上に、
民衆に対する軽蔑を隠そうとしない、と彼らは言う(11.ii、5-23)。この評が
正鵠を射ていることは、すぐに証明される。というのは、元老院において執
政官に推挙されたコリオレーナスは、民衆の賛同を得るために、謙虚さのし
るしである粗末な外衣を身につけ、戦場で受けた傷跡を示すという儀式を経
なければならぬはめに立ち至るが、この試練に見事に失敗するからだ。まず、
彼はおおいにこの儀式に抵抗し、「それではまるで民衆の賛成を買いとるため
にのみ傷を負ったみたいだ」(II.ii.149-150)と苦しむ。しかし、メニーニ
アスに説き伏せられて、結局、この儀式に臨むことになる。彼がするべきこ
とは、市民1が言うように、ただ、「心から頼む」("askitkindly"11.iii.75)
ことだけなのだが、彼にはそれが出来ない。この失敗について、メニーニア
スは、「彼はこの世に生きるには高潔すぎるのだ」(1II.i.253-258)と言う。
事態を収拾するため、コリオレーナスの母ヴォラムニアは、彼に演技をする
2イーグルトンは、コリオレーナスの悲劇を、自己の"integrity"と社会的責任
の相克という観点から、見事に分析している。TerenceEagleton,Sノbα々e幼”〃α"a
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ことを勧める(III.ii、46-51)。そして、「こう手をさしのべ」、「こう膝をつい て」と、演技の指導までやってみせるn1.ii.72-82)。コリオレーナスは反 発しながらも従うが、その苦‘悩は甚しい。 Well,Imustdo't. Awaymydisposition,andpossessme Someharlot'sspirit!Mythroatofwarbeturn'd, Whichchoiredwithmydrum,intoapipe Smallasaneunuch,orthevirginvoice Thatbabieslullasleep!Thesmilesofknaves Tentinmycheeks,andschoolboys'tearstakeup Theglassesofmysight!Abeggar'stongue Makemotionthroughmylips,andmyarm'dknees Whobow'dbutinmystirrup,bendlikehis Thathathreceiv'danalms!Iwillnotdo't, LestIsurceasetohonourmineowntruth, Andbymybody'sactionteachmymind Amostinherentbaseness. (I11.ii.110-123 自らの「真実をみずから汚し、からだの動き一つ一つでもって消しがたい卑 しさを心に教える」演技を、断腸の思いで実行することを決意し、コリオレ ーナスは広場へおもむく。しかし、民衆の味方を自認するブルータスとシシ ニアスに挑発されたために、彼は演技への意志を貫くことができない。たと えターペイアの崖から突き落とされても、自分は甘言をもって民衆の哀れみ を乞うつもりはない、と言い放ち、ついにローマから追放される。
『コリオレーナス』研究 9 II ここで我々は、ある儀式での演技の拒否、その結果の追放というパターン
をどこかで見たことに気づく。それは、『リア王』の冒頭の場面である。リア
は退位を表明し、どうやらすでに三分してある王国の領土について、もっと
も自分を愛してくれる娘に、もっとも豊かな分け前をやろうと言う(I.i.36-53)。3リアが、自分がもっとも愛する娘コーデイーリアに、もっとも多くの
ものを譲ろうとしているのは明白である。彼はまた、三人の娘のうち、彼女
がもっとも自分を愛していることを確信している。彼が求めているのはただ、
宮廷の人々の前での、その愛の表現であり、そういった形式を踏むことによ
って、王国の他の構成員達に彼女の権利をはっきりと認めさせたかったにす
ぎない。4しかし、彼が出会うのは、かたくななまでの、この儀式の拒否であ
る。コーデイーリアは、リアが計画した儀式の筋書きに添って役割を演じる
ことを拒否し、ただ、「親子の紳に従って」("Accordingtomybond"I.i.
92)リアを愛すると答えるのみである。彼女のかたくなな態度の裏には、口
先ばかりで愛を唱える二人の姉達への反感があることは明らかであろう。し
かし、リアは、あたかも彼女が、"naturalbond"をも拒否したかのように激
怒し、彼女を勘当し、お前の"truth"のみを持参金にせよ、と言う(I.i.108)。
一方、『コリオレーナス』で、広場に集まった民衆の前でコリオレーナスが
要請されているのは、二人の護民官ブルータスとシシニアスを相手の、民衆
への愛の表明比べである。民衆を愛するどころか軽蔑しきっている彼にとっ
て、これはコーデイーリアが要求されたこと−父親への自分の愛をただ述
3G.K.Hunter,ed.,Kツ"gLear[TheNewPenguinShakespeare](Harmonds-worth,1972).以下『リア王』からの引用あるいは行数の指示はこの版による。
4この冒頭の場の儀式‘性については、西出良郎氏が、「『リア王』の重層'性一
視点の分裂について」、Quest,1(京都大学大学院英文学研究会、1987年)ですぐれ
た分析を行なっている。くる("Speak"I.i.86)だけ−よりさらに至難の技である。当然のことな がら彼は失敗し、ローマから追放され、自らもローマの民衆を追放する、と 宣言する("Ibanishyou!"I1I.iii.l23)o コーディーリアは、リアに勘当され、フランス王の妃として祖国を後にす る。他方、世界はローマだけではない("Thereisaworldelsewhere!"III. iii.135)と言い捨ててローマを後にしたコリオレーナスは、宿敵オーフイデイ アスのいるコリオライの町アンシャムに行き、彼と手を組んでローマに復讐 をはかる。コーデイーリアもコリオレーナスも、自分にも他人にも正直であ ろうとするあまり、社会が要請する演技に失敗する、あるいはそれを拒否す る。そして、二人とも追放され、異国の軍勢を率いて祖国と敵対するに至る。
ただ、コーデイーリアの場合は、肉親の紳にひかれ、父親を救うために異国
の軍を率いて来たのに対し、コリオレーナスの場合は、肉親の緋を重んずる
ならば異国の軍の利益に反する行動を取らねばならない。コリオレーナスの 母ヴォラムニアの利益と心'情は、ローマという社会のそれと完全に一致して いる。それ故、父親または母親との再会は、コーデイーリアには喜びを、コ リオレーナスには苦‘悩をもたらす。しかし、それぞれの再会の場に共通なのは、まず子が脆き、次に脆こうとする、あるいは実際に脆く父親や母親を、
彼らがおしとどめる図である。気が狂い、荒野をさまよっていたリアが、コーデイーリアの配下の者達に
よって保護され、長い熟睡から覚めると、コーデイーリアは脆いて、父親の
祝福を乞う。リアはそれを真似て、自分も脆こうとするが、コーディーリア はそれをおしとどめる。そして、リアは正気を取り戻し、コーディーリアを 自分の娘と認識し、自分の仕打ちの許しを求める(IV.vii.)。この場の感動は、 劇のそれまでで、姉娘二人が、父王の上に非道な行ないを積み重ねてゆくさ まが繰り返し描かれていることによって強められている。子が親の前に脆く この図は、まさに当たり前であるが故に、それまでの陰惨な荒野の場と対照 的に、一服の清涼剤のように観客の前に差し出される。コーデイーリアは、 劇中の一人物が評するように、「人間'性」("nature")を呪いから購い出す。『 コ リ オ レ ー ナ ス 』 研 究 1 1 てい コーデイーリアとの再開の前、狂乱の体で荒野を走るリアを見て、一紳士は 言ったのだった。 Asightmostpitifulinthemeanestwretch, Pastspeakingofinaking.-Thouhastonedaughter Whoredeemsnaturefromthegeneralcurse Whichtwainhavebroughtherto. (IV.vi.204-207 一方、コリオレーナスは、オーフイデイアスと共にローマ領土に攻め入り、 明日はローマの城壁に迫るという日、母ヴォラムニアが、ローマの一婦人ヴ ァレーリアと、彼の妻と子をひき連れて嘆願にやって来るのを見、動揺する。 Mywifecomesforemost;thenthehonour'dmould Whereinthistrunkwasfram'd,andinherhand Thegrandchildtoherblood.Butout,affection! Allbondandprivilegeofnaturebreak! Letitbevirtuoustobeobstinate. Whatisthatcurtsyworth?orthosedoves'eyes, Whichcanmakegodsforsworn?Imelt,andamnot Ofstrongerearththanothers.Mymotherbows, AsifOlympustoamolehillshould Insupplicationnod;andmyyoungboy Hathanaspectofintercessionwhich Greatnaturecries,'Denynot'・LettheVolsces PloughRomeandharrowItaly;I'11never Besuchagoslingtoobeyinstinct,butstand Asifamanwereauthorofhimself
Andknewnootherkin. V.iii.22-37
そして、母に挨拶し、脆くが、ヴォラムニアも脆くので、驚樗して母を抱
き起す。 What,sthis? Yourkneestome?toyourcorrectedson? Thenletthepebblesonthehungrybeach Fillipthestars.ThenletthemutinouswindsS
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Murd'ringimpossibility,tomake Whatcannotbe,slightwork! V.iii.56-62)そして、ヴォラムニアは、ローマに攻め入ることをやめ、和睦を結んでほ
しいと長い嘆願の言葉を述べるが、しめくくりとしてもう一度、他の三人と
共に脆く・この二度目に脆かれた時に、コリオレーナスはもちこたえること
ができない。彼は屈服する。5沈黙したまま母の手をとっていた彼はやがて言
う。 0mother,mother!Whathaveyoudone?Behold,theheavensdoope,
Thegodslookdown,andthisunnaturalscene Theylaughat.0mymother,mother!0! 5この場面の持つ迫力は、依田義丸「コリオレイナスの悲劇とその演劇的表現 の獲得」(『シェイクスピアの悲劇』、研究社、1988)に詳細に論じられている。『コリオレーナス』研究 YouhavewonahappyvictorytoRome; Butforyourson,believeit,0,believeit,. Mostdangerouslyyouhavewithhimprevail'd, Ifnotmostmortaltohim.Butletitcome. 13 V.iii.182-189) コリオレーナスは、息子である小マーシャスが自分に向って嘆願する姿の うちに、"Greatnature"が、"Denynot"と叫ぶ声を聞き(V.iii.33)、母ヴ ォラムニアが脆く姿を見て、この、親が子に向って脆く"unnatural"な情景を
廟り笑う神々の声を聞く。コリオレーナスはかつて自分自身への誠実を貫こ
うとして、演技を自分の本質("nature")を汚すものとして排斥したために、 ローマから追放された。演技を勧める母に彼はこう言ったのだった。 Wouldyouhaveme Falsetomynature?Rathersaylplay ThemanIam. (111.ii.14-16) / 〃今回、彼は、親が子に向って脆く姿を"unnatural"であると感じる、自らの
うちなる"Great^riature"の声に従って、第二の祖国を、コリオライを裏切る。
コーデイーリアは、彼女の属する社会の、ある儀式における役割を拒否は したが、"naturalbond"を否定したのではなかった。そして、彼女が帰国したのは、ブリテンという国に政治的に野心があるためではなく、もっぱら肉
親の‘情愛にひかれたためである(1V.iv.27-28)。コリオレーナスが屈服する
のも、ローマという国家に向ってではなく、"Nature"に向ってである、とい うことができるだろう。川 本 真 由 子 Ill さて、他のシェイクスピア劇で、自らへの誠実を云々する人物と言えば、 実に興味深い人物、ハムレットがいる。『ハムレット』においては、自己への 誠実、国家への責任(社会的役割)、そして"Nature"からの要請はどのよう に描かれているだろうか。 『ハムレット』という劇には、三人の分身達、父親を殺された三人の若者
が登場する。6−人目は、ハムレットの父、先のデンマーク王に、父ノルウェ
ー王を一騎打ちで殺され領地を併合されたフォーティンブラスである。二人 目は、叔父クローデイアスに父親を暗殺されたハムレット、三人目は、ハム レットに父ポローニアスを殺されたレアテイーズである。フォーテインブラ スは、劇の冒頭でホレーショーが噂をする通り、父親が失った領土を取り戻 そうとやつきになっている。彼は、自らの属する国家の利益と、自らの利益 とが完全に一致する軍人であり、社会的役割と、自らのアイデンティティの 間に何らの食い違いも感じていない人間であると思われる。ハムレットは、ポーランドの、「猫の額ほどの土地」(1V.iv.18)'を取りに行く彼の軍隊と偶
然出会い、彼の、疑念というものをいっさい持ち合わさぬ行動の果敢さに自 らをひき比べて慨嘆するav.iv.32-65)。一方、レアテイーズは、肉親の,情 愛に衝き動かされる存在である。彼は父親の復善を蹟躍しない。父の急死の 報を聞いてフランスから帰った彼は、クローディアスを下手人と思い、宮廷 に乗り込んで来る。落ち着くように、と言う妃に向って、彼は「こんな目に 6ジャン・パリスは、この三人の分身関係を見事に解き明かしている。「ハムレ ットー構造分析的試論」(国文社、昭和59年)。分身関係については、また、ファーガソンも指摘している。FrancisFergusson,TheIt加呼A〃eatre(Princeton
UniversityPress,1949),pp.98-142. 7TJ.B.Spencer,ed.,Hamlet[TheNewPenguinShakespeare](Harmonds-worth,1980).以下、『ハムレット』からの引用あるいは行数の指示はこの版による。『コリオレーナス』研究 15 あって、わずか一滴の血でも落ち着いていたら、父の実の子でない証拠だ」 と言う(IV.v.119-122)。また、「王への君臣の誓いなど捨てた、父の怨みさ え晴らせばそれでよい」と言う(IV.v.132-138)。彼にとって、国家の秩序 は眼中になく、神や、あの世への慮りもない。 ハムレットにとって、現在の王は父親の暗殺者であり、王位の墓奪者であ るが故に、息子であり王位継承者であるハムレットの首には、自然から、そ して社会から、復讐かつ秩序の回復という二重の範がかかっている。にもか かわらず、彼がなかなか行動にふみ切れないのは、自己のアイデンテイテイ
と、課せられた役割との間に亀裂を感じているからだと思われる。8クローデ
イアスは、劇の始めから、喪服を着てふさぎ込んでいるハムレットに、現在 の体制を揺るがす不穏な気配を感じ取っていたが、ハムレットが、旅役者達 に芝居を上演させるに及んで、彼をイギリスに送ることにする。うまく行け ば、これはハムレットをデンマークから、そしてこの世から、永久に追放す るはずの計画であった。しかし、ハムレットは、この追放から帰って来る。 それはまるで「デンマークは牢獄だ」(11.ii.243)と以前に言った通り、彼の 生きる世界は他にないかのようだ。帰国後、彼の個としての声は沈黙してし まい、課せられた役割を生きることを彼は自分に納得させようとしているか のようである(V.ii.63-70)。そして、復誉が果たされ、殺人の罪に汚れた 者は死に絶え、社会が浄化されて秩序が回復される大団円が入る。二人の分 身達、ハムレットとレアテイーズは殺し合うが、互いに自分を殺した罪を許 し合って死に、三番目の分身たるフォーテインブラスが、兄弟達の屍の上に 王国を受け継ぐべく初めて舞台上に姿を現わす。 ハムレットは、そこに神意が働いていると感じたにせよ、:最終的に親子の '情愛が要請する復書を果たし、また同時に慕奪者を王座からひきずり落とし て国家の秩序を回復する。従って、劇は"Nature"と、封建社会が個人の上に 8詳しくは、拙論「『ハムレット』における『演技』と『誠実』」(大阪府立大学 英米文学研究会発行『英米文学』第34号、1986)参照。持つ権威を否定しない形で終っていると言えるだろう。"Nature"と、封建的
国家に対する劇の最終的な是認は、ハムレットが、自分を父の仇として殺し
た、肉親の'情愛を至高の価値とするレアテイーズを許し、かつ、自らのよう
に個の意識を持たぬフォーテインブラスを、次の国王として推挙することに
もまた、現われていると考えられる。 IV先に、コリオレーナスは、ローマという国家に向ってでなく、"Nature"に
屈服するのである、述べた。ここでその"Nature"の内容を、もう少し深く探
っておくことも無駄ではあるまい。そこで関連してくるのは、エリザベス朝
人にとっての、秩序("order")、または、位階("degree")の概念の重要
さである。『トロイラスとクレシダ』には、ユリシーズが述べる、位階につい
ての有名な節がある(I.iii.75-137)oエリザベス朝の世界像における、大
宇宙と国家との対応関係が、そこでは述べられている。「天体そのもの、惑星
でも、また宇宙の中心たるこの地球でも、上下の別を、序列を、位置を守り、
さらには規則、方向、釣合い、季節、形式、職務、‘慣習をもすべて正しい秩
序のもとに厳守している」とユリシーズは言う。国家においても、上下の別
はもっとも重んじられるべきなのに、ギリシャ軍においては、統率権の無視
という悪弊がはびこっている、それがトロイをいまだ攻め落せない理由であ
る、と彼は説くのである。上下の別がなくなると、世界は無政府状態となり、
「大海は脹れあがって岸をのりこえ」、「乱暴な息子は父親をなぐり殺し」、自
力 オ ス然界も人間界も大混乱に陥る。この、大混乱の恐'怖は、当時の人々にとって、
現代の我々の想像以上に生々しいものであったと考えられる。'0母親に脆かれ
9RA.Foakes,ed.,Tiり伽sα〃Cress"上%[TheNewPenguinShakespeare] (Harmondsworth,1987). 10E.M.W.Tyllyard,TheElizabe幼α〃Wbγ〃〃b如形(London:Chatto& Windus,1952),p.13.『コリオレーナス』研究 17 たコリオレーナスを震骸させるのは、自然界をも、人間界をも含めた大宇宙 を支配する秩序への侵犯の意識なのではないか。コリオレーナスが屈服する のは、オーフイデイアスが、"thouboyoftears"(V.vi.101)と罵るよう に、一見、ローマの利益を代表してやって来た、自分の母親に向ってである ように見えながら、実はその背後にある、より大きなもの、宇宙の法に対し てであると言える。そして、『リア王』において、リアに対する姉娘達の仕打 ちが、観客に大きな恐′怖と嫌悪感をもたらすのも、この法への侵犯であるが 故だ、と言うことができるだろう。 V コリオレーナスは、「世界はここだけではない」(III.iii.135)と言い放って ローマを去る。しかし、彼が次に属するのは、さしてローマと変りばえのし
ない、いわばローマのレプリカであるコリオライであり、''彼はそこで彼自身
と同じく勇猛ではあるが、彼のようにおのれの本質に対する忠実さ、などと いった意識を持ちあわせないオーフイデイアスとその共謀者達の手にかかっ て整れる。ハムレットもコーディーリアも、いったんは追放によって属して いた社会を去る。しかし再び戻って来てそこで滅びてゆく。このことが示唆 しているのは、おそらく、人間というものがいかに社会的存在であり、社会 から逃れ得ないものか、ということであろう。 彼らに共通しているのは、自己に対する誠実への意志であり、それが社会 から要請される役割と衝突するところに悲劇が生まれる。彼らは個に目覚め かけていると言いかえてもよいだろう。しかし、彼らの属する社会はそれを 許すものではない。コリオレーナスの母ヴォラムニアは、母なる国家ローマ を象徴しているとも考えられる。彼女が、コリオレーナスの妻ヴァージリア に、「私にたとえ十二人息子があって、その一人一人が同じようにかわいく、 11MichaelLong,TheIノ""α〃”/S℃ene(London:Methuen,1976),pp.61,77.お ま え の 夫 で あ る わ が 子 マ ー シ ャ ス に 劣 ら ず 大 事 に 思 え た と し て も 、 そ の 一 人が戦にも出ず酒色に溺れた生活にふけるのを見るより、あとの十一人がお 国のためにりっぱに死んでくれることの方を望みます」(I.iii.22-25)と言 うことが暗に示唆するように、ローマは−そしておそらくコリオライも−、 自らの息子達に個'性を認めず、入れ換え可能な兵力としてのみ数える一つの 強力な、非人間的な生命体である。劇の最後で、「個」という、国家を越える 意識を持ったコリオレーナスは殺され、それを持たぬ分身的存在オーフィデ イアスは生き残り、フォーテインブラスがハムレットに対してしたように哀 悼の意を表し、高貴な武人にふさわしい葬いを要求する。 シェイクスピアは、『コリオレーナス』において、人間が、あくまで自分自 身であろうとする意志を持つ時、社会との間に起る葛藤を悲劇として描いた。 自分自身とは一体何なのか。それは、あるいは幻想に過ぎぬものかもしれな い。しかし、イーグルトンも言うように、『コリオレーナス』の偉大さは、あ らゆる虚偽一と彼にとって感じられるもの−を排して、完全に自分自身
であろうとする主人公の苦闘にある。'2そしてそれは、自己表現への苦闘と言
いかえてもよいだろう。主人公は、世俗的には身の不利益を招いても、自己 の本質("nature")にそむくと考えられる行為は、まるで何か神聖なものに 対する冒漬であるかのように峻拒する。彼にとって正しく自己を表現するこ と−それは、簡単に言ってしまえば戦場での勇猛果敢な行動であって、手 柄話をすることや、他人に傷跡を示したりすることではない−は、他者が 介入すべきでない、神聖にして犯すべからざる生の営為と捉えられているの だ。「やつは悪魔です」(I.x.16とヴォルサイ軍の兵士が評し、オーフイデ イアスが、「おれの勇気もやつの毒気にあてられ、やつに会うと本‘性を失って しまう」I.x.17-19)と‘海しがる、彼の人間以上とも以下とも言える血み どろの戦いぶりは、実はこの、自己表現の欲望に駆りたてられているせいで あ っ て 、 ロ ー マ と い う 国 家 の 利 益 − こ の 二 者 は あ る 時 点 ま で 表 面 的 に は 一 12Eagleton,op.cil,pp.121-122.『コリオレーナス』研究 19 致していたものの−をめざすものではないのだ。ここに、周囲の人々が理 解せず、驚'湾し、畏'怖し、嫌悪さえする彼の生き方の謎がある。 シェイクスピアは、『ハムレット』(1600-1)において、自己への誠実と自 己表現という問題を探究した。そして、悲劇の創作のほぼ終わりのこの時期 (1607-8)に、『ハムレット』という劇を豊かなものにしていた、さまざまな 要素を切り捨てることによって、この問題をより鮮明な形で再び探究してい るものと思われる。ハムレットは、劇の終わりで、自己の存在を、神の偉大 な計画の一部として容認するに至る。『コリオレーナス』においても、結末の 暗示する方向はさほど異なってはいない。コリオレーナスは、母親に脆かれ ることで、自己を越える、より大きな存在を感じ、その大きな存在の一部で ある自分というものを受けいれるように見える。しかし、これは、彼自身も