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シェイクスピアの 'art' 観 : 『冬物語』を中心に: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

川本, 真由子

Citation

英米言語文化研究 = British & American language and

culture(45): 53-66

Issue Date

1997-03

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10344

(2)

一『冬物語』を中心に−

川 本 真 由 子

「冬物語」の中で、パーデイタとポリクシニーズの問にかわされる'art'対 'nature'に関する議論は、あまりにも有名であり、数々の批評家が大きな注 意を払って来た。’その理由はおそらく、シェイクスピア自身の深い関心を 彼らが感じとってきたからだと考えられる。あるいは、この議論を突破口に して、シェイクスピアを突き動かしていた創作の原動力の一部を垣間見るこ とが出来ると直観したと言った方が正確かもしれない。この小論では、『冬 物語』を中心に、シェイクスピアの他のさまざまな作品をも参照しながら、 彼が'art'というものをどのようなものとして捉えていたかを探ってみたい と思う。 I まず、絵画という'art'については、「本物そっくりの絵」と、「本物よりも 生き生きとした紺の2種類の捉え方が出てくる。1,2,例を挙げておこう。 5ass・FairPortiascounterfeit!Whatdemi-god Hathcomesonearcreation?Movetheseeyes? Orwhether,ridingontheballsofmine, Seemtheyinmotion?HereareseverIdlips, Partedwithsugarbreath;sosweetabar 1G.WilsonKnight,TheCrownofLife(London:Methuen,1948),Howard Felperin,5九ahespeareanRomance(PrincetonUniversityPi℃ss,1972)など。 53

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Shouldsundersuchsweetfriends.‘.. (TheMerc伽α航ofVセ"ice,III.ii.115-120)* あるいは、 Poet Admirable!Howthisgrace Speakshisownstanding!Whatamentalpower Thiseyeshootsforth!Howbigimagination Movesinthislip!Toth'dumbnessofthegesture Onemightinterpret. Pα加ter.ltisaprettymockingofthelife... Poet Iwillsayofit, Ittutorsnature.Artificialstrife Livesinthesetouches,livelierthanlife. (T加onofAthensXi^O-SSy Lookwhenapainterwouldsurpassthelife Inlimningoutawell-proportionedsteed, Hisartwithnature'sworkmanshipatstrife, Asifthedeadthelivingshouldexceed... (Vb"邸sα"dAdonis,289-292)*

前者は、「絵画は実物とそっくりである点で賞賛されるべきだ」という考

え方を、後者2例は「芸術家の目的は、自然をコピーすることではなく、理

想化することだ」という考え方を反映しているといえるかもしれない。こう

27ソxeRiversideS加hespeare(Boston:HoughtonMifflin,1974). 3Ibid. 4Ibid.

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いった考え方は当時のエリザベス朝には普通にあった考え方であり、6彼が自 分の詩や劇作品の中で上記のように書いたところでそれがシェイクスピア自 身の絵画芸術に関する考え方かどうかは確定することができない。 ところが、絵画ではなく、詩、芝居といった、シェイクスピア自身の深く 関わっている'art'については、我々はずっと個人的な響きを、そして深い関 心を聞き取ることができるように思う。例えば「ソネット集』を見てみよう。 創作年代については諸説あるが、おそらく1593∼6年の間に書かれたこの 詩集の中で、シェイクスピアはある青年の美を讃え、熱烈な愛1情をうたって いる。そのうち、いくつかのソネットに出てくるモティーフは、青年の美を 不滅のものとするための結婚の勧めと、自らの詩句の中で青年が永遠の命を 持ち続けるだろうというものである。詩人は第1番から第16番まで、繰り 返し、「時」に対抗するために子孫によってその美を保持するように勧めた 後、第17番でためらいがちに、そして第18番で確信をもって自らの詩に言 及する。有名な一篇だが挙げておこう。 ShalllcomparetheetoasummerIsday? Thouartmorelovelyandmoretemperate: RoughwindsdoshakethedarlingbudsofMay, Andsummer'sleasehathalltooshortadate: Sometimetoohottheeyeofheavenshines, Andoftenishisgoldcomplexiond血m'd. Andeveryfairfromfairsometimedeclines, Bychanceornature'schangingcourseuntrimm'd Butthyeternalsummershallnotfade, Norlosepossessionofthatfairthouow'st. NorshallDeathbragthouwand'restinhisshade. 5DavidKlein,Elizabe肋α〃Drα"Lα〃stsAsCritics(Westport:Greenwood Press,1968),pp.257-259.

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Whenineternallinestotimethougrowst. Solongasmencanbreatheoreyescansee, Solonglivesthis,andthisgiveslifetothee.

「かつて他の男が結婚するかどうかを気にした男がいたろうか」と、このソ

ネット中の、執拘な結婚の勧めについて当惑を表明した批評家がいたが、?こ

のことを、'nature'対'art'という図式で見てみれば、結婚の勧めはそれほど

奇妙でもない。生殖によって親の形質が子へと受け継がれてゆくのは

'nature'の力である。ただし、シェイクスピアの力点はやがて、'nature'の力

による再生産というアイデアから、自らの'art'によるそれへと移ってゆく。

'Time'(「時」)の仕業によって衰えゆく美という現実を、'art'の力によって

修正するというアイデアはシェイクスピアにとって魅力的であったにちがい

ない。確かに、第1番から第16番をついやした結婚の勧めと比べれば、第

17番から第19番のみの詩の力の主張は慎ましい感がある。しかし、これら

の詩を続けて読んでゆくと、'nature'の力に頼ることを前面では強く勧めな

がら、そのかげに、詩という'art'によって愛する者に永遠性をあたえようと

いう野心、とまではいかなくても、ひょっとして与えうるのではないかとい

うかすかな希望の響きを、我々は聞き取ることができるように思う。

さて、芝居という'art'についてシェイクスピアがどのような考え方を持っ

ていたかを推察するデータとしては、ハムレットの有名な、「芝居は現実に

掲げる鏡」といったセリフをはじめ、枚挙に暇がないが、この小論では、シ

ェイクスピアの劇作品の中の劇中劇的なものに焦点を絞って考察していきた

いと思う。即ち、劇中人物が芝居という‘art'についてどのような意見を述べ

ているかではなく、劇中で、芝居という'art'がどのような使われ方をしてい るかを見ることによって、彼の考え方を探ってみたい。 6TheRiversideS加"espea7e, 7C.S.Lewis,EnglisノiLiterα虹『e加仇eSixteentノiCentury(ExcludingDrama) (OxfordUniversityPress,1954),p.503.

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IT シェイクスピアの劇中劇の中で、もっとも有名なものは、ハムレットが演

出する"mousetrap"(「ねずみおとし」)であるが、これは言うまでもなく、

芝居という'art'の力を利用して、隠された真実一クローデイアスの兄殺し− を暴こうとするものである。しかし、ここで注目したいのは、このような厳 密な意味での劇中劇ではないけれども、劇中劇的なもの、即ち、ある劇中人 物が劇作家あるいは演出家となって他の劇中人物に虚構を信じさせる、とい った類のものである。 例えば、「リア王」の中で、エドガーが死を望んでいる父、盲目のグロス ター伯の前で農夫を演じ、また、巧みな描写によって彼らがいる場所をドー ヴァーの崖であると信じさせる箇所がある。グロスター伯は、いわばエドガ ーの演出し、また演じる芝居の中の、自殺を決行する人物を演じることで、 −より正確には、自殺を疑似体験することで−人生にたいする認識に変化 を来たし、自殺の誘惑から逃れる。このくだりは、『ハムレットjにおける ような本格的な劇中劇ではないが、ともに、芝居という'art'が現実に何らか の影響を及ぼすというアイデアをシェイクスピアが抱いていたことを証明す るものと受け取れる。 これらは、芝居という'art'によって劇中人物が、現実についての認識を深 める例として一括することができる。言わば、「現実にむかって鏡を掲げる」 類の芝居であり、もしも強いて絵画と対応させるとすれば、「本物そっくり の絵」の系統に属すると言えないこともない。 ところが、架空の死、虚構の死を演ずることで本物の死を逃れる、あるい は死に等しいほどの窮地から逃れる、といった枠組みはグロスター伯の場合 と同じであるが、上に述べた、「現実を描写する」型というよりもむしろ、 「現実を修正する」型の劇中劇的なものがある。その例は『ロミオとジュリ エツト』において見られる。モンタギュー、キャピュレット両家の不和を 苦々しく思っていた僧ロレンスは、両家の息子と娘が恋に落ちたのを幸い、

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それがやがては両家を和解に導くことを願って、二人を秘密のうちに結婚さ

せる。けれども、彼の描いたシナリオが功を奏する前に、現実の力が否応な

く攻め寄せて来る。即ち、ロミオは追放の身となり、ジュリエットは、重婚

を逃れるため、急いで何らかの手を打たなければならない。そこでロレンス はある薬を使ってジュリエットの仮死という芝居を打つ。人々は願され、こ の芝居がうまく行けば、窮地に陥った恋人たちは救われるはずであった。し

かし再び現実が上手を行き、恋人たちは悲劇的な最後を遂げる。確かに、ロ

レンスの計画は実を結ばなかった。しかし、この劇中に、芝居らしきものに

よって、苛酷な現実を変えてやろうという趣向が見られるのは注目に値する。

僧ロレンスは、魔法の薬の力を借りた一種の劇作家、演出家であると言える

のではないか。彼は、もろもろの草の霊力、効能を知り尽くしているという

資格から、無論その能力に大きな隔たりはあるものの、現実を強力な魔術で

操作する、『あらしjにおけるプロスベローにつながる人物であるとも考え

られる。

『空騒ぎ』には、魔術師を思わせる人物は出てこないが、やはり「仮死」

というトリックが使われ、それを発案する修道僧と、加担する人々、そして

彼らの芝居に編される人々とが出てくる。悪巧みによって身に覚えのない汚

名をきせられた純潔な娘ヒアローは、あまりのことに失神して倒れる。ヒア

ローの無実を信じる修道僧フランシスは、身内の人々を説いて、世間には、

ヒアローは死んだと公表する。彼はこう主張する。

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Shallbelamented,pitied,andexcus'd

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Ofeveryhearer... Letthisbeso,anddoubtnotbutsuccess Willfashiontheeventinbettershape ThanIcanlayitdowninlikelihood. (MuchAdoAboutNot〃〃,IV.i.210-217,234-236) 修道僧は、死の報によって、人々に変化が起こることを期待している。そし てここでは、『ロミオとジュリエット」とは好対照に、事はすべてうまく運 び、ほどなく誤解はとけてヒアローは恋人と結ばれる。 この二人の僧は、偽りの死という狂言によって、事態の好転を計ろうとす る。都合の悪い現実を、広い意味での虚構、芝居によって変えようと試みる。 もっとも、前者では、ジュリエットの仮死のトリックは、ロミオの本当の 死を引き起し、僧ロレンスの演出は裏目に出てしまうし、後者では、ヒアロ ーの死の報が人々に変化を引き起こす暇もなく、ドグベリーという滑稽な警 保官のお手柄によって悪人たちの企みは暴かれて大団円となる。この二つの 例では確かに、芝居という'art'、虚構によって現実になにか良い変化をもた らそう、現実を修正しようという意図はたいして実を結んでいない。しかし、 シェイクスピア晩年の作、『冬物語』において、彼はより大胆に、芝居とい う'art'の力を肯定する方向へ向かっているように思われる。 Ⅲ I 此M〃α・ Sir,theyeargrowingancient, Notyetonsummer'sdeathnoronthebirth Oftremblingwinter,thefairestflowerso'th'season 8TheRiversideS加陀espeare.

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Areourcarnationsandstreak'dgillyvors, Whichsomecallnature'sbastards:ofthatkind Ourrusticgarden'sbarren;andIcarenot Togetslipsofthem. Wherefore,gentlemaiden, 肋"灘e"es, Doyouneglectthem? ForIhavehearditsaid 凡7.. Thereisanartwhich,intheirpiedness,shares Withgreatcreatingnature. P o l . S a y t h e r e b e ; Yetnatureismadebetterbynomean Butnaturemakesthatmean:so,overthatart, Thatnaturemakes.Yousee,sweetmaid,wemarry

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Andmakeconceiveabarkofbasekind Bybudofnoblerrace・Thisisanart Whichdoesmendnamre一change辻rather-but Theartitselfisnature.(IV.iv、79-97)9 今年もだいぶふけましたが、 (パーデイタ

まだ夏が去ったとは言えず、と言って身をふるわせる冬も

訪れてはいません。この季節のいちばん美しい花は、

不実の花カーネーションと、自然の私生児とも呼ばれる

縞石竹でしょうが、あのような花は私どもの庭には

咲いていませんし、私も一茎だってほしいとは

思ったことさえありません。

ポリクシニーズ娘さん、どういうわけで

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Methuen,1963).以下,TheⅧ"蛇ソ*'sTaleからの引用はこの版による。

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あの花をさげすむのだな? パ ー デ イ タ あ の 赤 と 白 と の ま だ ら 模 様 は 、 偉大な造化の自然に人工の手が加わってできたもの、 と聞いておりますので。 ポ リ ク シ ニ ー ズ そ れ は そ う か も し れ ぬ 。 だ が 、 なんらかの手を加えて自然がよりよくなるとすれば、 その手を生み出すのも自然なのだ。したがって、 自然にたいして加えたとあなたの言うその人工の手も、 実は自然の生み出す手に支配されているのだ。いいかな、 野育ちの幹に育ちのいい若枝を嫁入らせることによって、 卑しい木に高貴な子を宿らせることがあるだろう、 これは自然のたりないところを補う、と言うより、 すっかり変えてしまう人工の手だ、しかし実は その人工の手そのものが自然なのだ。)'0 人工対自然の問題は当時の文学ではごくありふれたものであったらしい。'1 また、ポリクシニーズが表明している、「自然を改良する人工の技はそれ自 身、自然の創り出したものである。なぜなら、人間とその能力そのものが自 然のものだから」という意見も、古代とルネサンスにおいてごく一般的なも のであった。'2シェイクスピアがこのdebatesceneを挿入した理由は、この 場に限って言えば、自然そのもののような、素朴な、生命力溢れるパーデイ タ、しかもその気品ある物腰の中に高貴な血統がおのずから現れているパー デイタ自身が、「野育ちの木の幹に継がれた育ちのいい若枝」'3であることを 10小田島雄志訳『冬物語』(白水社、1983)。以下、『冬物語』の日本語訳は、す べてこの版による。 11Pafford,叩.c〃.,p、169. 12Ibid.,p.93. 13TerryEagleton,WilliamS九α虎espea花(London:BasilBlackwell,1986),p.92.

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示唆するためと受け取れる。そのバーデイタ自身が、人工の技art)を否定

し、この人工の技を肯定したポリクシニーズが、こと息子のフロリゼルのこ

ととなると、「野育ち」のパーデイタと結婚させるのに猛反対する、という

ドラマテイク・アイロニーはあるものの、ここでは、シェイクスピアは、ポ

リクシニーズにこの説を開陳させることで、パーデイタの出自と育ちを暗示

しているのだととれる。そしてこの場全体で強調されるパーデイタの素晴ら

しさから、シェイクスピアはポリクシニーズ側にくみしていると、即ち、

'art'を肯定していると取ってもよいのではないか。

興味深いのは、ここで推察される、人工の技(art)の肯定という姿勢が、

この場のみにとどまらず、終幕の彫像シーンにまでつながっていくように思

えることである。なぜそのように思えるのか、次の章で考えてみたい。 ⅡV

『冬物語』においては、ポーリーナが、Ⅱ章で述べた、僧ロレンスや、修道

僧フランシスと似た役割を−もっとも、狂言まわしとして果たす役割はより

大きいし、人物としての存在感もずっと重いのだが−担っている。とりわ

け、『冬物語』と『空騒ぎ」とは、不貞の疑いをかけられた女性を、死んだ

ことにして匿っておき、疑いが晴れた後に実は生きていることを明かす、と

いう趣向においてそっくりである。ただ『空騒ぎ』においては仮面をかぶっ

たヒアローを、彼女の従妹としてクローデイオに紹介し、妻として迎えるこ

とを誓わせた後、正体を明かすのに対して、ポーリーナは、ハーマイオニを

彫像としてレオンテイーズに引き合わせる。両方の場合において、ただ単に

真相を明かすのではなく、まず何か別のものとして紹介することによって劇

的な驚き、見せ場を作っているということが指摘できるだろう。しかしなぜ、

後者の場合は彫像という芸術作品なのか。紳士3は、この彫像に次のように

言及する。

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apiece manyyearsindoingandnownewlyperformedby thatrareItalianmaster,JulioRomano,who,had hehimselfeternityandcouldputbreathihtohis work,wouldbeguileNatureofhercustom,soper-fectlyheisherape:hesoneartoHermionihath doneHermioni,thattheysayonewouldspeakto herandstandinhopeofanswer. (V.ii.94-101) (それはイタリアの巨匠ジューリオ・ロマーノが長い歳月を かけて製作し、やっとこのほど完成したものだが、ロマーノ 自身、自分の作品に息を吹きこむ永遠の力が与えられていた ら、造化の神を欺いてそのまねをしたいと言っているほど、 ハーマイオニ様そっくりのハーマイオニ様の像で、話しかけ れば返事をしてもらえそうだという。) ハーマイオニの彫像はこのように、本物そっくりであると描写され、造化 の神(自然)対芸術家のモティーフが示唆される。そしてついに終幕、ハー マイオニの像がレオンティーズに示されると、彼も信じがたい名工の技に言 及する。 Thenxureofhereyehasmotionin't, Aswearemock'dwithart. (V.iii.60-68) (あの目も作りつけのはずなのにまるで動くようだ、 巨匠の技にまどわされてであろうが。) やがてポーリーナに促されて、像と思えたハーマイオニは動きだし、赦しと 祝福のうちに幕となる。 ジューリオ・ロマーノの手になる像とされたのは、実はハーマイオニその

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人であった。このことから、シェイクスピアは、'art'は'nature'にたちう

ち出来ないことを示しているのだとする批評家がいる。「像が動きだす瞬間、

芸術如きものが、時と共同作業をするあの偉大な造化の自然にたちうちでき

るとする蒙を啓<瞬間」に、この劇のクライマックスがとっておかれるのだ、

と。“あるいは、「彫像シーンは、パーデイタとポリクシニーズの議論にお

ける、パーデイタ側に与するものであって、シェイクスピアは'art'は

'nature'ではないと主張しているのかもしれない」と述べる批評家もいる。'5

しかしながら、debateシーンにおいては、パーデイタ自身が、前にも述べた

ように、「野育ちの木の幹と結婚した育ちのいい若枝」であり、田舎育ちの

活力と、王家の気品を合わせ持つ、'nature'と’art'の傑作であった。ある

いは、見事に成人した現在のパーデイタが、みどり児という、まさに人の手

が加わらぬ自然の状態で野に置かれていたのを、羊飼いが丹精こめて養育し

た結果であることを考えれば、自然を助けてさらに優れたものを生み出す人

工の技という構図が浮かび上がって来る。そして、この自然を助ける人工の

技と言うテーマこそ、シェイクスピアが終幕、ハーマイオニを芸術作品

('workofart')としてレオンテイーズや観客に示した理由であると思われる。

16年後のハーマイオニは、言わば自然のままのハーマイオニではない。自

然のままのハーマイオニならば、粉本である「パンドスト」のベラーリアの

ようにとっくに命を落としていたであろう。彫像として人々に紹介されるハ

ーマイオニは、自然のハーマイオニの上に、ポーリーナの良い魔法が加わっ

た産物である。レオンテイーズもこう認める。

O,she'swarm! Ifthisbemagic,letitbeanart

14フランク・カーモード『シェイクスピア晩年の劇J(研究社、昭和45年)、55-56頁。

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Methuen,1968),p.l49.

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Lawfulaseating. (おお、 あたたかい!これが魔法なら、魔法も食事同様 正当な行為と認めよう。) (V.iii.109-111) 悲しみの余り命を落としそうなハーマイオニに、アポロの神託のことを話し てきかせ、日に2,3度は訪れて、希望を持つよう励まし続けてきたポーリ ーナの力あってこその結果である。石像から蘇ったハーマイオニは、脆いて 祝福を乞うパーデイタに言う。「ポーリーナからおまえが生きのびていると 思われる神託のことを聞いたので、私はその結果を知りたさに、いままでこ のように生きのびてきたのですよ」(V.iii.125-128)と。 ボーリーナに、初期の劇作品における僧ロレンスや修道僧フランシスの面 影があることは先に述べた。苛酷な現実の中では生き続けることのできない 女主人公を、彼らは仮死という状態にして命を保たせる。世間に対して打つ 芝居という一種の'art'の力によって、時をやり過ごし、事態の好転を待つ。 シェイクスピアの、芝居という'art'の力に対する信頼一あるいは渇望と言っ た方がよいかもしれないが一は、『冬物語Iが書かれた晩年(1610-11)にい たって、よりはっきりと自覚されて来ているのではないだろうか。取り返し のつかない、残酷な現実の、芝居という'art'の力による修正。シェイクスピ アが、ハーマイオニを『パンドスト』におけるように死なせもせず、『空騒 ぎjのように、女主人公の親類の女性として人々に紹介するのでもなく、芸 術作品(workofart)である彫像として提示したところに、シェイクスピアの、 芸術に対する思い入れの深さが見られるように思う。ハーマイオニが、彫像 として提示されるということは、16年後の彼女が、本来(natural)のハーマ イオニとポーリーナの'art'との合作であることを、象徴的に表現したものだ と受け取れるのではないか。 『ソネット集jでは、詩という'arピは、生殖という'nature'の力と並んで、 否、ひょっとしたらそれ以上の蓋然性をもって、青年の美を後世に伝えるこ

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とのできるかもしれない手だてであった。『冬物語』では、ポーリーナの芝

居という'art'がハーマイオニの本来の生命力を助けて、全く無傷ではないに

せよ−マミリアスは死に、16年という歳月は過ぎ去ってしまっている一幸

福な家族というものが回復きれる。『冬物語』の結末は、ハーマイオニとパ

ーデイタという自然が生み出した無垢な命を、前者はポーリーナが、後者は

羊飼いが、世間から素姓を隠しておくという'art↑でもって維持し、やがて来

る幸せに貢献したという点で、人間の'art'に寄せる賛歌だと言えるのではな

いか。さらに題名が示唆するようにこの物語は、春が巡って来れば必ず緑が

萌える野も、冬は枯れ果てて死んだように見えるという、自然の取る仮死の

状態にヒントを得たものだと取れば、結末は、偉大な生命力を持つ'nature'

への賛歌でもある。

'nature'を助けるものとしての'art'という構図、人間にも宿っている生命

力を自然の一部であるとするなら、その自然を補助する、良き魔術としての

芝居、虚構というモティーフは、以上見てきたようにシェイクスピアのいく

つかの作品で模索されて来たが、『冬物語』において、はるかに明瞭な形を

取るように思える。結末の彫像statuesceneは、ハーマイオニが彫像として

提示される理由を解きあかす鍵となるdebatesceneを伴って、広い意味

での芝居、虚構というものに対するシェイクスピアの積極的な評価、あるい

は祈りにも似た希求を、それ以前よりはるかに大胆に打ち出しているように

思える。そして、シェイクスピア自身が生涯にわたって生み出した数々の芝

居、彼自身の'art'についていうならば、確かにポーリーナや修道僧フランシ

スの「芝居」のように、現実に対して目に見える効力は立証出来ないものの、

彼の芝居を見る、あるいは読むことによって人々の心の中に何らかの変化が

起きるならば、彼の'art'は現実に影響力を持ったと言えるだろう。そしてこ

のことは、常に彼の念頭を去らない関心事であったと思われる。

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