Title
リカードの公債論研究
Author(s)
平良, 恵三
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 6(2): 21-42
Issue Date
1966-04-01
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10983
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ドの公債観
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公債に対する研究が種々の観点からなされたことを挙げれば、枚挙にいとまがない。しかし、これ等の研究に共通するものは、それが異った時代において研究されたとしても、その経済社会において極めて意義深いものを有してい たということでろう。 古典学派の公債観は、自由放任主義的国家観にもとずく。すなわち国家が私経済に干渉することは、市場の自立的 再生産を阻害するものであるとし、強く否定される。したがって、国家活動は、すべて不生産的であり、そのような 経費は不生産的経費である。 そこには、租税収入で以って一切の経費支弁をなす均衡予算原則が支持される。この均衡予算の主要な論処は、財 政赤字が貨幣創出や民間貯蓄によってまかなわれではならないということである。げだし、たとえ赤字財政が民間貯 それは単に不生産的用途にのみ向けられ、したがって資本蓄積を阻害し、経済発展 蓄によりまかなわれたとしても、 をさまたげるものであるからである。更に古典学派によれば、赤字支出は政府の放慢な支出増大傾向を促進しやすい ものであるという観点に立却している。 このような論処からは、公債が山同定される場合のあることを見出すことは不可能である。しかし、その否定の度合 はそれぞれ異る。アダム・スミスは、公債利子の経済的作用は、より生産的な者からそうでない者への支払いであ り、したがって宮の減少ないしは破壊であるとの見解に立ち公債を徹底的に排撃するのである。これに対レリヵ
l
ド の見解は異る。彼によれば、公債利子は移転的経費であり、国富の増減には何等関係はないとするのである。 スミスと同様均衡予算原則を支持するリカl
ドが公債観に対して異るのは、彼等の置かれたそれぞ こ の よ う に 、 れの経済社会の相異にも大きく左右されるであろう。貨幣経済が発達したのは、 スミスの時代よりリカl
ドの時代で あった。そこに企業資本ないし生産資本の外に貸付資本の存在を明確に区分することができたであろう。これらのこ とが公債に対する異った見解をもたらしたであろう。すなわちリカ1
ドはスミス程公債を否定せず、むしろ或る程度是 認 し た よ う で あ る 。 斯るリヵ
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ドの公債観を彼の公債処理観l
減償基金論l
を通して考察し、その公債観を批評しようとするのが小稿 の 課 題 で あ る 。一
一
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リカ
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ドの公債処理観
リ ヵl
ド時代の公債累積の状況 リカードの時代におけるイギリスの公債累積は、異常な程の巨額に達し、それによる経済的影響は一層増大する傾 向にあった。すなわち一六九七年の公債元金は、一四百万ポンドであったのが一七一四年には三六百万ポンドに達1
一七四八年には七五百万ポンドに増大した。更に一七六六年の七年戦役には、遂に一三三百万ポンドの巨額に達 したのである。だがイギリスの公債累積は、ここで止まらず戦争やその他でその増加の道を辿ったのである。ド七八 六年の公債累積額はニ四三百万ポンドに増大し、ナポレオン戦争によって八四三百万ポンドに膨脹したのであ到。公レ
満累積は、約一ニ0
年聞に六O
倍強に達したのであり、 制 と 評 し て い る 。 ア シ ュ ト ン は 、 このことを国家は、常習的な債務者であっ これらの公債累積が如何に巨額であったかは、国富との比較によって一層明確にすることができよう。フイスクの 国 富 統 計 に よ れ ば 、 一六九七年の国富は三ニO
百 万 ポ ン ド 、 れ は 五OO
百万ポンドである。そしてナポレオン戦争時の国富は、ニ七OO
百万ポンドである。この国富に対する公 一 七 一 四 年 が 三 七O
百 万 ポ ン ド で あ り 、 一 七 六 六 年 の そ二 四 債 の 割 合 を み る と 、 一 六 九 七 年 の そ れ は 約 三 ・ 四 % 、 一 七 一 四 年 が 約 一 O % 、 一七六六年は約二六・六%であり、ナ ポレオン戦時のそれは約三一%である。これは国民所得のほぼ三倍近くであり、公債費用はその一O%に達したと推 定されてい針。公償は、約一ニ
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年聞に六O倍強に増大したのに対し.国富は一O増にも達しておらないのである。 この公債額は、当時のイギリスにおいては、過重な負担であった。ちなみに日本の昭和ニ入年.一ニO年.三一年の園 a a ' 窟に対する公債の割合をみると、それぞれ九%、七%及ぴ六%であが。 巨額の公債は、富の分配に問題点を生じせしめる。イギリスのこのような巨額の公債もその例にもれなかったので ある。アシュトンは、この公債による宮の不平等な分配を次のように述べている。 一六人入年のグレゴリl
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喝弓百回巴から一八一二年のカフl
ン 包 ・ 。 。 -ρ吾
E H H ) に至るまでの統 計家達の概算によると、種々の社会階層の所得の聞には相当大きなひらきがあったのは明らかであるが、これに加え て公債の登場は、益々その不平等を激化した。 一七八一年からは、巨額の公債がイギリスの貴族、地主、法律家、引 退した商人及びその他裕福な諸階級によって保有されるようになった。一人一五年には、イギリスの貨幣国民所得の 恐らくは約十分の一、又一八二七年はその十二分の一に相当する金額が、貧民を含む納税者から比較的富裕な公債所 有者の手に移されたのである。勿論、富の不平等な分配については、公債以外の要因によって左曲されるととを否定 はしないが、しかし斯る巨額な公債が、その不等な分配の原因となり得たことは論をまつまでもないであろう。 そこでイギリスにおいては、このような巨額の公債を返還すべきであるという議論が沸騰し、その努力のもとに一 七一六年に減債基金制度が設立された“しかしこの減債基金制度には、それを実施している中に種々の不備があり、 一七二七年の公債利子率の引下げ等による改革を伴いながら、漸次改革され、一七人六年にピット氏の誠償基金制度 が設立されるに及んだのである。もとより斯る改革された減償基金制度が、複利累積機構をもっという点では何等本"
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質的に変ることはなかったのである。 ところがリヵl
ドは、この複利機構をもっ減債基金制度が、その本来の目的を忠実に施行きれていないと考えるの である。形式的には、減償基金が租税で以って充当されていても、それが実質的には公債によって調達されておれ ば、公債の減少とはならないのである。このことが現実の誠償基金制度に杏在していたとリヵl
ドは考えるのであ り劇。すなわち現実の減債基金制度そのものに、その基金を他に流用する性格が害在していたのである。そこでは、形 式的には租税で以って調達されていても、実質的には公債で以って減償基金は調達されていたのである。更にイギリ スにおける公債の増加は、もっぱら戦争の結果であった。そこで戦争が始ってからは、収入の余剰がなくなり、若し ろ公債増大の役割をなすのはピットの減償基金であった。減債基金制度は維持されたが、充当すべき財政余剰がな く、したがって基金くり入れのために又公債を募集するということになったのである。ここに彼は、公債処理のため のピットの減償基金制度の欠陥を指摘し、彼の減償基金論を主張するのである。 註 時 匂 ω 関B
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田 村 、 井 手 共 訳 佐藤進箸 近代税制の成立過程第四章 ﹁ 軍 事 公 債 論 ﹂ 一 │ 二 九 頁 二 五一 一 六 (9) (8) (7) 田 村 、 井 手 共 訳 ﹁ 前 掲 書 い 一
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ニ 九 頁 田村、井手共訳前掲香七 O J 七二頁 佐藤進著 前 掲 書 ﹂ 第四掌2
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ド
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公債処理観(一)
リ ヵ l ドは、このような現状を打解するための公債処理としての減償基金調達方法を一応三ツに限定する。 減債基金を租税で以って賄う方法これである。リヵl
ド は 、 いをも含めて四O
百周ポンド、その才入が四一百万ポンドと仮定すれば、その国は百万ポンドの減債基金を所有する こととなるであろう。すなわち財政余剰による公債返還の方法である。そして彼は後に述べるように、この方法こそ げ) 一国が平和状態にあり、且つその経費が公債利払 最も賢明な方法であると考えるのである。けだし、この百万ポンドは、複利で累積してゆくであろう。かくして減償 基金は、年々増加し、やがては全公債を償還することがで前るからである。 制快に彼は、租税を増徴することなく、しかも減償基金の機構を維持するために百万ポンドだけ増加する国を想 定すも公債償還を赤字財政により解決しようとすることである。この場合彼は、その国が公債の減少を進捗しない であろうことは明白である。その国は、委員達の手許において、以前の場合と同様にして基金を累積するであろう が、確定公債あるいは流動公債を増加することによって、かかる公債に対する利払いに必要な額を同様にして、常に 借りることによっていその国は減償基金を毎年百万ポンドだけ累積したのと同様に、その公債百万ポンドを毎年複利 で累積するであろう。その公債利子も又公債で以って支弁する方法は、公債償還の目的に答える課 題ではないとする。げだし、リヵ 1 ドは、財政々策の指導原則の中に均衡予算原則を支持するのであり、赤字財政を この減債基金の資金を公債で調達レ、 否定するのであるからである。 今一つ残された方法としては、租税と公債の組合せである。リヵ
l
ドは、その国が公債買い上げに減償基金を 投資する作用をつづけ、才出において不足した百万ポンドを公債募集で埋め合せたと組像し、この公債の利子および 減債基金を支払うために六万ポンドの新税を国民に賦課したと想像せよ。この場合真実にして有効なる減償基金は毎 年六万ポンドであってそれ以上ではないのである。何となれば公債買い上げに投資されるものは、百六万ポンドであ ってそれ以上ではない。しかもそのうち百万ポンドは公債売却によって調達されたものであるから、つまり換言すれ ば、才入は六万ポンドだけ才出に超過しているであろ九叫すなわち減償資金は公債に依杏し、斯る公債利子は租税に よって賄う方法である。 付 担てリヵl
ドによれば、減債基金制度を施行する方法として以上三ツの方法が一応考えられる。これ等三ツの方法 に共通するものはいずれも複利累積の機構を持っているという点である、しかし公償返還に対する効果は各々異る。 方法│減償基金を租税で以って賄う方法は才出に対する才入の余剰である。そして国庫中心主識に立却 けだし附の し均衝予算原則を支持するリヵI
ドは、この方法こそ最も効果的なものであるとするのである。これに対し減債基金 の資金を公債に依容しその利子支弁のためにも公債で賄う方法は基金はあってなきが如きであるとリヵl
ドは考え る。彼によれば減債基金も複利で累積するのであるが、同時に公債も複利で増加する。したがってその国の公債総額 は決して減少しないのである。 e 次に減債基金の資金を公債で調達し、その利子支弁は租税に求める場合の効果をリヵl
ドは吟味する。彼に従え 二 七二八 ぱ、この方は的より劣.るがい刊の方法よりは効果的であるとなす。すなわち帥と比較して利子支弁の方法においてのみ 意 轟 を 認 -め る 引 の で あ る 。 -リ ヵ
1
ドは、以上三つの方法の5
ち仰の方法,が減償基金制度としては最も有益なものであると考えるが、これは次 に述べる点で明白には理解されていなかったように恩われる。 リ ヵl
ドは如何なる減債基金色、若レそれが公共支出に対する公共収入の超過額から引き出されないならば負債を 減少する目的のためには有効でありえな刊として収入余剰は租税収入によって成り立っていると考えている。しかし 財政収入は租税収入のみに限定されるものではないであろう。したがって財政余剰が租税収入のみに限られることは な い で あ ろ う 。 リ ヵl
ドは公債を償還し、財政は租税収入で以って一切の支出を賄う収支均衡原則を支持するのであるが、これは 公債に対する明白会理解がなされていなかった事にも原因があろう。適当な大きさの公債の存在は一国の経済上ない し金融,上の大きな便益となる。公債は投資家にとっての事実上危険のない保証となるから、貯蓄の習慣を一奨励すると 同時に、小企業の冒険に対して極めて便利な担保となる。また.公債の存在とそれに伴う政府、銀行閣の債権債務関 係は、金融当局に金融機関というものがいろいろの型の流動資産を保持する心裂があることを利用して信用統制を行 う手段を与える。それゆえ、原則的には公債は経済にとって有益且つ安定的な影響をもっ面のあることも理解しなか っ た と い え よ う 。 とに角‘彼は公債償還は財政余剰で以って賄うべきであり、その財政余剰は租税収入によるものである。従って公 債償還方法として最上の効果を持つのは仰の方法であるとの観点に立つのである。門時間︺
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公 債 論 で あ る と 称 し て も 誤 り で は な い 。 け だ し 彼 の 減 償 基 金 論 の 中 に は 、 公 債 返 還 に よ る 資 本 へ の 影 響 、 公 債 累 積 の そ れ 等 に つ い て 研 究 さ れ 、 公 債 利 子 と 国 家 の 関 係 に つ い て も 研 究 さ れ て い る か ら で あ る 。 そ 乙 で 彼 一 の 減 償 論 を 研 究 す る に は 決 し て 無 意 味 で は な い と 思 う 。 向 悼 向 山 F 彼 一 の 減 償 基 金 檎 は 岡 村 井 手 共 訳 井 手 共 訳 前掲香 前掲寄 り カ l ド 経 済 原 論 二 九 頁 田 村 長谷川訳一
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頁 二 六 五 頁 一 七 四 頁 (7) (6) 堀経夫訳護
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公
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処
理
観
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以上、リカl
ドの滅償基金の調達方法として三つの方法をみてきた。そしてリヵI
ドによれば減債基金調達方法と しては公債に依容することではなく、又公債と租税との組合せでもなく、すべて租税による公債償還が最も効果的で あるということであった。 一応彼の論点,に立却して減償基金制度の施行により、公債を償還した場合資本を阻害しないのか というこι
と、滅償基金に限度なるものがあるかということを考察したい。 そ こ で こ こ で は 、 先ず公債が償還された場合、資本に対して処何なる影響を与えるかという観点をみよう。この場合、公債が返還怠 れた場合その返還された元利は消費支出に充当されるのか、或は投資支出として即ち資本へ転化されるかである。リ カ1
ドによれば、受けとられた金額は全部資本として使用されるにちがいない。けだし、その金額が資本として使用 二 九。
されないならば、公債所有者は今まで慣習的にそれに頼っていたところの彼の収入を奪い去られるであろうからであ る。このことを裏返せば公債の元利受領者は、若し彼等が公債に応募しなかったならば、その資金は資本として貸付 けられていたであろうということである。したがって公債償還は単に一つの資本を他の資本に取り代えるだけのこと である。かくして資本は阻害されないとリカl
ド は 考 え る 。 それでは資本は阻害されないが、増大するのかという課題が生ずる。この課題に対する答は、租説は資本からか或 は収入 1 所得からかという事柄の解明である。げだし減償基金による公償返還は、結局資本に転化されるのである。 しかるに減償基金は租脱であるから、その税源が資本でなく収入l
所得であれば公債は増大したことになるからであ る。このことについて、納税者は彼が支払った金額を彼以前の収入の外に所有するであろう。そして若しも減債基金 が停止されるならば、彼はその金額を資本に転化するであろう。しかし、彼は又それを収入として使用し、酒、家 屋、馬匹及び衣類等に関する彼の支出を増加せしめるかも知れない。納税者はその金額を彼の資本から支払うかも知 れない。したがって一つの資本の使用が他の資本の使用に代えられるかも分らない。この場合においても減償基金か ら何の利益も生じない。何故ならば、国家は、減債基金の存在の有無にかかわらず、同じ速度で累積してゆくであろ うからである。しかし、若し減償基金のために納められた租税の一部分でも明らかに有益なものである。それは我が 国の土地及び労伯からの毎年の生産物を増加せしめる傾向にあるからである。したがって減債基金が正直に適用され るならば、富の蓄積にとって有益であるとリヵ l ドは考えるのである。 このようにリヵ l ドは、税源は資本か収入かのいずれかであるとなすのであるが、 て納税しよラと努力するとなす。したがって彼は.減債基金制度による公債償還は、資本を阻害するのみかそれを増 一方では納税者は所得を節約し 大するところの作用があることを認めるのである。ところでリヵ
l
ドは、返還された公債はすべて資本に転化するとなすのであるが、このことが可能であるか否かは その時の経済状態に因るといわなければならない。インフレの場合における公債返還は無益である場合もあろう。又 不況における公債の返還の場合、その返還資金を租税に求めるとすれば、そこには資本に転化する可能性は寄在しな いかも知れない。リヵl
ドは租税は収入から取り去られるとする。若しそうであれば、それは消費の節約により可能 であろう。消費の節約は、有効需要の減退←生産の縮少という悪循環を紹くかも知れない。これが資本への需要をも 減少させるであろう。若しそうだとすれば、返還きれた公債が遊休資本としてでなく、常に資本として機能するとい う保証はないであろう。 次にリヵl
ドは巨額の減債基金の累積は危険を伴うか否かの問題を吟味するためにペテイの説を引用し、これに反 駁を加えるのである。 リ ヵ1
ドによれば、ぺテイの見解は次のようである。 一、国民は、巨額な減償基金の累積によって、資本の大なる部分を市場から一度に取りあげられその資本を使用す る適当な方法もなく、また、その資本の価値が去られてしまうという害悪に曝されるであろ引。つまり巨額の減債基 金により公債が償還されつくされた年度においては、その償還された公債が資本として機能するようなことは容易で はないということである。 二、公債の迅速な消滅を計る減債基金制度は、その作用の後年において、非常に巨額にして不均合な金額を金融市 場に放出するであろう。かくて貨弊価値の極めて危険な下落をもたらすおそれがある。 三.次に全公債が償還された場合、換言すればかかる公債の元利は租税で以って賄うという前提に立っているから して、そのような租税から解放された場合、貿易商、製造業者、機械工及びあらゆる部門の商人達の運命は憂慮すべきものと考えられる。げだし若し公債が償還怠れて、かかる租税が解放されれば手許に残っているすべての貨物は、 その所有者にとって無価値となってしまうであろう。これらの貨物はかかる租税が実施されている聞に購入され、又 製造されたものである。したがって、その商人や製造業者は、かか冶租税が免除されたのちに同種の貨物を製造する すべての者によって、より安価で浸略されるにちがいないからであ忌。 このように公債償還により、その償還された公債をすべて資本として受け入れる市場があるか否か、即ち遊休資本 となりはしないか或は公債の償還により流通貨幣量の増大を招きインフレを引き起庁可能性はないのかという問題と 既容業者に与える影響を心配するペテイの考え方は、リヵ
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ドによれば妄想的であ加且つ的はずれである。既にみた ようにリヵl
ドは、減債基金は年々収入の一部を資本へ転化する作用を有するとみる。そこで減債基金の累積という 事実は、年々資本に転化せしめられてゆく収入部分が増大してゆくということにほかならない。したがって、資本の 豊富を望むリカードにおいては、公債償還による資本過潮、貨幣価値の下落及び租税免除による従来の製造業者、商 人等への幣害を解︿ぺテイの説は当を得ないものであも それでは、資本の供給過剰という現象は生じないとするリヵ1
ドの見解はどうであろうか。彼は、文明大国におい て必需品に対する要求にせよ或は賛沢品に対する要求にせよ限界はなく無限である。したがって資本の使用は、不断 に増大してゆく資本が雇用するであろうところの増加してゆく人口に対して食糧品及ぴ必需品を供給する我々の能力 と間程度のものであるとす針。すなわち彼は、消費財需要は無限である。そこで例え巨額の公債が償還されて資本へ 転化され拡大再生産が行われでも供給過剰という現象は生じないとする。 このように公債償還は資本の増加をもたらすが、生産過剰を庄ずるものではないとするリヵl
ドは、利潤が低下す ることもあり得ないとの見解に立つ。確かに資本の増大により殻物価格は、差額地代の原理により騰貴するであろ品 川 W ぅ。レたがって賃金も騰貴する。この賃金の騰貴は必然的に利潤の真実の下落を伴うであろ勾。だが最も 宮 める国家 も斯る状態からは遥かに遠いとリヵ
I
ドは考える。若し、いずれかの国がその状態に到達したとしても、それは外国 貿易の助げにより富と人口を無限に増加してゆくことができる。げだし、その増加に対する唯一の障碍物は、食糧品 及びその他の原生産物の不足と、それに因る高価格とであるからである。これ等の食糧品及び原生産物が加工品と引 換えに外国から供給された場合、富の蓄積を止め、又その富の使用から利潤を引き出すことを止めねばならない限界 品 別 時 点の所在を指摘することは極めて困難である。そこで若しこれらの見解が正当であるならば、その時は特殊の 事情 の 下において、減債基金による蓄積された資本が投資市場を見出し得ないであろうとする危険性は存在しなり﹂リヵl
ド は 考 え る 。 次に公債が返還され、それがために租税が免除される場合、生産費が安くなる。そこで租税免除以前の生産物は、 免除後の生産物より高い。したがって従来の製造業者や商人等は、租税免除後の新しい製造業者や商人等に圧迫さ れ、経済を混乱へ導きはしないかと.憂慮するペテイに対し、リヵl
ド は 反 駁 す る 。 彼 は 、A
に は 五 ポ ン ド の 租 税 、 B に は 十 ポ ン ド 、C
には百ポンドの租税を免除することによって、彼等に何等かの損害が加えられる,たろうとはいえな いだろう。けだし彼等が異った額を彼等のそれぞれの資本に加えるならば、彼等の収入は永久に増加し、商品の 量 の 増大に貢献することになる。したがって一般の富裕を増すことになるであろう。資本に対する増加は労初需要を増大 t ω せしめ、人口を増加せしめ、かくして国力を強化せしめるという傾向が断るとなす。 掠て、リカl
ドによれど、租税の免除は資本を増大せしめるものであるとするがこれは早計であろう。租税は、消 費の節約か、貯蓄の減少か或は両者を同時に行うかの三ツの方法により納税する。したがって納税者が租税を免除さ れた場合、従来まで租税として納めていた金額を資本に転化するか、或は消費支出に当てるかは保障の限りでない。そこには必ずしも資本が増大するというリヵ
l
ドの考えは早計の誘を免れないであろう。 四 r"I 注 u (2)(1) 田村、井手共訳 田村、井手共訳 (5)(4) (3) 三田村、井手共訳 三田村、井手共訳 三田村、井手共訳 制三田村、井手共訳 仰三田村、井手共訳 仰井手共文雄著 (9) 三田村、井手共訳 品岬合 H H舗 。
h U 向 u“
u d a w h u 三田村、井手共訳 回村、井手共訳 田村、井手共訳 (14) 前掲番 前掲番 前掲書 前掲書話
番話
番 前掲書 古典学派の財政論 前掲書 前語審 前 掲 香 五 五t
五 六 五 六t
五 七 占ノ
、
四 一t
四 一 一 四 四 三t
四 四 四 四 二 七 四 五t
四 六 前 掲 香 四 八 五O
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ド
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公
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観
リ ヵ1
ドの財政々策の指導理念の一つは、資本蓄積を妨げないこと、産業資本を奪ないことでふω
。それはリカー ドによれば、産業資本家階級の利益は、国民的利的であると考えたのであちしたがって彼によれば、スミスと同様 生産資本の増大のための財政収入としては公債より租税を採用することを支持する。 しかしスミスが徹頭徴尾公債を否定したのに対し、リヵl
ドは必ずしも徹底的に否定しなかったのである。 先ず彼は公債所有者とその公債償還の基金となる租税の支払者を区別する。リヵl
ドによれば製造業者や地主は、 彼等の所得から税額を節約しようとすること民払われ、したがって彼等はこの資源から当該金額を獲得することがで きると考えるのである。しかし彼等にそのことができないとしても、彼等の財産の一部を売却して金に代えること と、又は利子付きでその金を借りること等について何のさまたげがあろうか。金を貸したがっている人々が害在する ことは、政府が容易に、その公債を募集しえることから明らかである。この政府という偉大な借手が市場から退場し て行けば、私人の借手達は、その市場へ這入って行くことができるであろう。只々斯る取引において賢明な規定とよ き法律によって最大の便宜と保証とを与えるであろうh
公債の場合にはA
が 、 , そ の 金 額 を 前 貸 し 、B
がその利子を支 払い、かくてその他のことは以前と変らないであろうと。すなわち彼によれば、納税者階級は製造業者及び地主であ り、貸付資本家は公債所有者であると考えるのである。 ところで、貸付資本家の経済活動は、資本の貸付によって利子を取得することを根本目的とする。もちろん、その 五占 ;;-、 貸付げの対象者は、私人である場合もあり、国家である場合もあろう。リヵ
l
ドによれば、既にみたように公債所有 者は、その公債の償還によって受け取った金額は資本として燥用される。げだし、若し資本として使用されないなら ば、それに慣習的に頼っていた彼の収入を奪小去るであろうむ信ずるのである。 確かに貸付資本家が公債を選訳するか、私債を選択するかは、種々の条件のもとにおいて最も安全的且つ高い所得 を得る組合せを選択するであろう。公債は貸手に受け入れられる利回りでなければ発行されえない。貸手に対し公債 保有は利子所得を獲得させ、他万貨幣保有は利子率のおこりえるよ昇から利益を得る。それ故、市場の動きについて の貸手の主観的見通しのもとで、貸手に種々の利得と安全度に対する彼の態度によって選好する一定の組合せを選好 する。そこで償還注れた公債が資本とて機能する方向に選択を向ける場合もあろう。 リ ヵl
ドのこのような論点から、彼の公債観の一端を知ることは、 は、公債引き受人は常に貸付資本家であり、納税者は製造業者や地主及び商人であるという前提に立却している。更 差程難しいことではないであろう。つまり彼 に彼によれば、貸付資本家の慣習的態度は利子取得である簡に、償還された公債は、私人又は私団体に貸付けられ、 産業資本として作用する。貸付資本家にとっては、公債は資本蓄積のための有力な手段である。したがって、貸付資 本家の立場からすれば、公債を否定する材料はでてこないであろう。そこにリカl
ドが公債を積極的に否定していな い点をみることができよう。 リ ヵl
ドのこのような態度は、彼の公債利子に対する考え方からも伺う事ができよう。彼は、公債利子が支払わら れようと否とに拘らず国家の貧富は変らないであろうとする。けだし、若し財政収入を起債に依存すれば、その利子 は租税に訴えねばならない。しかし公債の代りに租税を以ってすれば、公債利子としての租税収入は免除されるので ある。だが、このことは取引きの本質を替えるものではない。貸付け資本家は国家への債権者とならなければ、それを他の資本家 1 製造業者等へ貸付けるのであり、 したがって、その利子を貸付け資本家へ支払う私的取り引きであ る。他面、財政収入を租税によらず公債に訴え、その利子を租税に依害する場合はどうか。彼によれば、この場合の 利子も国家をより宮ましもしなければ、貧しくもしないとする。公債利子支払い源となる租税は、国家をして公債所 有者に支払われるからであるとする叫すなわちリヵ
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ドは、公債利子は単なる移転的経費に過いきないとみる。これ は、後に述べる如く、リヵl
ドと同様、国家経費を不生産的とみるスミスと比較することにおいて、彼が公債利子に 対しても楽観的態度を採っていたのである。 ところで、リヵl
ドは公債累積に関しても、そこに否定するような態度を採らないように思れる。彼によれば、巨 額の負債を累積した国は、不自然な地位に置かれる。故に租税金額及び増大する労伯の価格は、これらの税を納める という避け難い不利益を除けば、外国との関係において他に何等の不利益な地位におかれないであろう。しかも各納 税者にとっては、この支払いを他人に転嫁することが利益となる。かくして彼自身と彼の資本を斯る島知一から免れる ために外国に移動せんとする誘惑は、終に押え難きものとなってくることは人々の自然の成り行きである。しかし、 この不自然な制度に伴う困難の渦中に陥った国にとっては、その財産中から負債償却のために必要な部分を犠牲にし て、それから身を敬うことが賢明な処置であろうがする。 彼のこのような考え方は、公債の累積それ自体には限界はないということである。そこで公債の累積による影響 は、如何なる観点から求められるべきでかということが次の課題である。負債の大なる増加に堪えられないというこ とはないであろう。一つの偉大な国民の力に限界を定めることは困難であろうY
しかし個々人がその母国に生活する という特権のため、永続的課税の形において支払う価格には確に限度が害在す引とリカードは考える。つまり公債の 累積は、公債によってもたらされる租税の重圧という害悪によってであり、これ等│公債と租税との関係において、 七l¥ 品 叩 公債の累積の限界を考察しようとす
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。 招て、リヵI
ドは、利子が支払われようと苔とに拘らず国の貧富は変らない。又公債の累積には限界はなく、その 利子支払いのための課税負担にのみ限界があるという考えに立っている。これ即ち、彼が公債を積極的に否定しなか っ た こ と の 証 在 で あ ろ う 。 リ ヵl
ドのこのような考え方を、彼と同様国家経費を不生産的とするスミスと比較することは興味深いものであろ う。スミスは、公債の累積に対する限度を認め、公債利子については、その作用、負担の面からして公債を徹頭徹尾 d u h u 否定している。彼によれば、土地及び資本的資財が収入の本源的源泉である。そこで公債利子支払いのための課税 は、この所有猪や使用者の収入を減少せしめるものであるとなす。故に土地の管理による生産力の増大が不可能とな り、農業は衰働するのみであるとなす。 次に資本財の所有者又は使用者は、生活必需品及び便益品に課税怠れるため、彼等は、これ等の負担回避のため に、資財をば他国へ移してしまうであろう。そこには、農業の衰徴に続いて製造業及び商業の衰徴という悪循環を辿 るものであるとスミスは考える。 更にスミスによれば、公債利子が公債所有者に支払われる場合における影響においてもリヵl
ドと対象的立場に立 つ。スミスは既述の如く公債利子支払源は土地及び資本的資財であるとなす。そしてこれ等の所有者や使用者は、こ れ等を合理的管理運営によって、生産を増大することに関心をもつものである。しかるに利子を受け取る側│公債所 有者はどうか。スミスによれば、公債所有者は、ある特定の土地及び資本的資財の部分の経営が良好であることには 何等関心をもたない。国家に対する債権者としては、彼はそういう特定の部分については、何の知識さえもないので ある。彼はその世話もしないし、それが荒廃しても場合によっては全く知らない。彼が関心,をもつのは、土地や資本的資財の合理的管理運営により生産が拡大され、公債所有者に利子が支払われるための繁栄のみである。そこで、ス ミスの公債利子の作用に対する考え方は、生産拡大に強い関心をもっ人々から、そうでない人々に収入が移転される のである。しかし、これは単なる移転でなく、富の生産力を減退せしめるものである。スミスは、かように公債利子 は国富の減退をなすものであり、したがって公債は排撃しなければならないとするのに対して、リヵ
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ドは公債利子 が で き よ う 。 は単なる移転的経費であり、国富には何等関係はないとし、スミス程公債を否定せず、或程度認めていたということ"
註 L J (2) (1) 高木寿一著 近 代 国 家 財 政 の 理 論 二四頁 佐藤進著 前掲書 ご ニ 六 頁 六 三 一 J 六四頁 (5) (4) (3) 井手長谷川共訳 前橋書 五五頁 島恭彦抹栄夫編集財政学講座ω
長谷川井手共訳話
番 三O
一 一 貝 リ カ l ド箸 経 済 学 及 び 課 税 の 原 理 二 五 七 J 二五八頁 小泉信三訳 何刷りカ l ド著 前掲書 一 一 六 一 J 二六ニ頁 小泉信三訳 (9) リ カ l ド著 前掲書 二六三頁 小泉信三訳。
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国 家 経 費 は 、 生 産 的 と し た カ ! ル ・ デ ィ l ツ エ ル で さ え も 斯 る 意 味 に お け る 公 債 累 積 の 限 界 を ば 認 め た 。。
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アダム・スミス著 五四頁 大内兵衛訳 国富論。
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アダム・スミス著 大内兵衛訳 前掲書 五五頁 九四
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古典学派の時代は、産業資本主畿の経済であり、自由主読経済社会である。この時代においては、生産力は市場経 済の自律的再生産の下においてはじめて最大となり得た。そこで国家活動は、不生産的活動に限定された。かくて、 このような国家経費は不生産的経費である。そこにおける財政規模は、租税収入で以つての経費を支弁する収支均衡 原則を連守する小規模な財政のみが、生産力を増大せしめるとの観点に立つ。 リ ヵl
ドとてその例外ではない。彼も自由主義経済を基盤とする租税国家の確立を、基本的には望んでいたといえ よう。かくてリヵl
ドは、この観点に立却して公債は租税で以って償還することが最も好しいと主張したのである。 しかし、彼が巨額の公債を返還しても、そこには資本市場を撹乱せず、むしろ資本を増大する作用を持っとの考え に対しては大いなる疑問をもっ。彼は既述の知く租税は収入を源泉とするとなす、若し、そうであるならば、それは 消費の節約によって可能であろう。かくして消費の節約は、有効需要の減退となり生産の縮少という現象を引き起す であろう。したがって、そこで返還された公債が常に資本として機能するとは限らないであろう。 次にリヵl
ドは、公債応募者は貸付資本家であると考えているようであるが、このことはその時の流通機構によっ て異る。すなわち公債応募者は、貸付資本家、製造業者、農業者及びその他の一般大衆であるかも知れない。只種々 の階層に占める公債の割合の如何によって、国民所得の分配に及す影響が問題化されるであろう。勿論公債利子が他 の利子に及す影響を決して無視してはならないことは言うまでもない。ところで彼は、公債償還による租脱免除は資本に転佑され労伯需司巣を増大する。すなわち国民経済を 富 ま す と す るが、これは極めて楽観的な考え方といわなければならないだろう。けだし租税は、消 費 、貯蓄のいずれかか ら か 、 或は両方からかによって納脱される。したがって説源が消費の節約に求められる社会において免除された場 合 、それ は再び消費へ振り向けられるかも知れない 。 同様に貯蓄の減少により納税していた 場合 は 、 再 び貯蓄 へ振り向けら れ るかも知れない。故に公債償によりもたらす免税が、そのままそっくり資本へ転化するという考え方は保証の限りで な い で あ ろ う 。 偲て、リカ
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ドは、公債利子は移転的経費であり、富を減少するものではないとし、 ス ミ ス と対象的な考え 方 を し ている。スミスの時代とリヵl
ドの時代とは、同じ自由主義経済社会であっても、信用 経 済 の 発展の度合はリカ1
ド の時代が発展していたのである。そこには貸付資本家と企業資本家の明篠な区分が可能であったであろう。そこで生 産力の増大を望むリ ・ カl
ドの公債利子に対する考え方は、資本蓄積による主産力拡大という観点に立っていたであろっ
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勿論、租税国家の確立は生産力の増大であった。したがって資本の 蓄積 や増大は、生 産 力の増大とは必ずしも 一 致 しない。しかしリヵ l ドは基本的には租説国家の確立を.要望していたのである。そこでリカ1
ドが、この資本の欝 積、増大と生産力の増大を結びつけようとするのは、セイの法則を踏襲しているのであろう。けだし、そこには遊休 資本は存在しない。しかがって 償 還された公債は 資本 に転化するであろう。 ここにおいてもリカ l ドは、公債に対して明確な 認 識を持っていなかったといえよう。 又彼が公債利子は国富の増減には無関係であり単なる移転的経費として問題外に付しているような態度は許 容 し難 い。彼によれば、公債利子支払い者は貸付資本家以外の階剛胆である。そして租税は所得を源泉とする。そこでは、公 四四 債利子が経済に及す影響が生じないとするのは当らないであろう。げだし、製造業や地主の所得の一部が政府を媒介 として借付資本家に移行され、所得の再分配が行われる。この再分配は経済に影響を与えずにはいまい。巨額の公債 利子支払いのためには、それ相当の租税を必要とする。そこで若し貸付資本家が少数にして納税者が一般大衆であれ ばそのような社会の消費性向は減退し、いわゆる経済の悪循環を辿るであろうからである。 としての効果を持つ。すなわち不況期には、租税収入は減少する であろう。ところがこの租税収入の減少に対レて公債利子支払水準は、減少しない。他方、好祝期には、国民所得の 上昇率以上に租税収入は増加するが、公債利子支払水準は一定の水準である。公債利子は景気変動の調節作用を持っ ているのであるが、不況に対する効果的作用を認めることができる。これ即ち公債利子の切