Issue Date
2014/6/25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/17788
Ⅰ は じ め に 本稿はかつて泡瀬干潟に存在した魚垣(石干見) について概観したものである. 魚垣とは遠浅の海 に浜側から沖へと石垣をUの字(馬蹄形)に積み, 潮の干満を利用して魚を捕る原始的な漁具のこと である. わが国(九州・有明海,五島列島,奄美諸 島)をはじめ韓国,台湾等の東アジア,東南アジア, 南太平洋の島嶼などの広域で行われてきた(松岡 1943; 小野 1973; 喜舎場 1997). 近年,近代的な 漁法の普及により姿を消しつつあるが,その文化 的価値が再評価され,復元などが行われている. な お,わが国では,この漁法を石干見とよばれてい るが,沖縄ではカチ(魚垣)という名称が一般的 である. 本稿においても以下カチという名称を使用 する. ところで魚垣に適した場所は,適当な潮だまり があり,魚の餌であるアーサや海藻類が沢山存在 している場所が適している. 満ち潮となり,エサを 求めて垣を越えて内側へ入ってきた魚は干潮時に は垣に行く手を遮られ,逃げ出すことができなく なる. それを人間が銛や網などを用いて捕るという ものである. 沖縄において有名な糸満漁民のような専業漁民 達が魚を獲ることを仕事として日々を暮らすのに 対し,魚垣で漁をする人々は半農半漁の生活を送 る人々がほとんどである. 魚垣漁をする人々は,畑 仕事を終えた後,海に向かい魚垣で魚を捕りそれ を食べて暮らしていた. そのような魚垣が沖縄本島 中部,泡瀬干潟から北中城村にかけての海岸に分 布していた(泡瀬復興期成会 1988; 北中城村史編 集委員会 1996). 魚垣に関する沖縄における研究 事例は石垣・宮古・八重山地方での研究例は多数 発表されているが,沖縄本島の魚垣の研究事例は 沖縄地理 第14 号
65-74 頁 (2014) No.14, p.65-74 Okinawa Journal of Geographical Studies (2014)
沖縄市泡瀬干潟におけるカチ ( 魚垣 ) の遺構について
小 川 護
*・中 村 勝太郎
**・長 浜 雄 介
**(
*沖縄国際大学経済学部,
**沖縄国際大学学生)
字誌に一部紹介される程度であまり調査は行われ ていない. ところで,魚垣に関する先行研究では,文化人 類学の視点から西村朝日太郎の一連の研究が知ら れている. ちなみに西村は魚垣を「転石などを半月 形・馬蹄形その他種々の形状に汀線あら沖に向かっ て積み上げ,潮の干満を利用して魚類を採捕する 定置漁具」(西村 1969)と定義づけている . さらに, 西村は人類がこの採集方法を魚類が潮だまりに残 される現象から学んだと考え,「漁具の生ける化石」 とよんだ(西村 1969,1974,1979). 調査研究は 1960 年~ 70 年代にかけて西村を中心に実施され, 有明海,奄美,沖縄の魚垣の構造や所有関係など が明らかにした. また,同時期に藪内芳彦は地理学 から魚垣漁の分布を世界地図の上にまとめ,魚垣 の分布論を展開した(藪内 1958). 1980 年代以降は魚垣研究がほとんどみられなく なった. その理由として,第 1 に田和正孝は「西 村らの研究がひとつの到達点に至ったというこ と」. 第 2 には漁業種類の主体が生産力の高い漁業 船へと移行することによって石干見が漁具として の有効性を徐々に失いその結果,研究対象として 顧みられなくなった」(田和 2002,2007)と述べ ている. 1990 年代では,多辺田政弘が農民の漁法という 視点で沖縄・九州,ミクロネシアの魚垣の研究を 行っている(多辺田 1995). 多辺田は陸であり海 である空間,つまり両義性をもつイノーや干潟, 渚といった空間に関心を示し,そこに築かれる魚 垣を研究することで,共有財産としての海の意義 を明らかにした. 最近では矢野敬生,中村敬らが八 重山郡竹富町小浜島の魚垣について報告している (中村 1992; 矢野など 2002). 小浜島にはほぼ全 島にわたって魚垣が分布しており,これらの垣に ついて,名称や個別的特質,形態および構造,漁撈活動,魚垣の経済的価値など詳細な調査を実施 している. また,水野紀一は奄美諸島や五島列島の 魚垣に関する研究を行っており,フィールドで試 みられた漁具の詳細な計測や生態学的な視点に基 づく潮流の計測など,様々な手法を提示している (水野 1980). 石垣島白保海岸の魚垣漁も盛んに行われていた ようで,白保海岸のほとんどに設置され16 基もの 魚垣があったとされている. 現在は,台風などに より大きく壊れたこともあり次第に使われなくな り,魚垣の石は市街地の埋め立ての際に運びださ れ,点在する石が当時の面影を残すのみとなって いる. 白保の保全協会などが子供達の体験学習を行 う目的として,沖縄県知事の特別の認可を受けて 復元され活用されている. また,宮古島の魚垣に関しては,佐渡山は1945 年にアメリカ空軍が作成した宮古島の地形図地 (2.5 万分の 1)に魚垣が記載されていることに注目 した. そこで佐渡山は当地形図を転写作成し,魚垣 の配置を明記してその長さと名称を書きこんだ地 図を作成している(佐渡山 1996). なお,佐渡山 の論文と作成した図は2008 年には宮古支庁農林水 産整備課が主催として,狩俣海岸の魚垣の14 基の うちのひとつである最古とされる「むとぅ垣」全 長600 m 魚垣の復元活動に繋がった . 以上のように沖縄においては石垣,宮古,八重 山地方などの離島を中心として魚垣研究が行われ, その文化的価値が再評価されている. そこで筆者ら は,沖縄本島泡瀬干潟におけるカシの存在とカシ が人々にとって果たした役割をについて報告した い. Ⅱ 泡瀬干潟のカチ 1.泡瀬干潟 泡瀬干潟は沖縄県沖縄市沖中城湾に存在する干 潟および浅海域のことである(図1). それらの面 積は干潟が290 ha,藻場が 112 ha ほどの計 402 ha を有し,それらの浅海域の広がりは南西諸島でも 最大級の規模を誇るといわれている. 干潟のタイプ はサンゴ礁の礁湖に形成される干潟である. 泡瀬干 潟の北側には,かつて川田干潟と呼ばれた干潟が 広がっており,泡瀬干潟とともに中城湾北部の浅 図1 泡瀬干潟周辺における主なカチ ( 魚垣 ) の分布 (2.5 万分の 1:「沖縄市北部」、「沖縄市南部」) 奥武岬付近には,3 か所カチの存在が空中写真が確認できるが , そのうちナカグワーのカチとアガリジョ のカチ以外の名称が不明なカチについては, 図 1 では省略した。
図
1 泡瀬干潟周辺における主なカチ(魚垣)の分布
(2.5万分の1:「沖縄市北部」、「沖縄市南部」)
奥武岬付近には,3か所カチの存在が空中写真が確認できるが,そのうち名称が不明なカチについては,図1では省略した。泡瀬干潟のカチ
イジョーグワ-ガチ
トウグチカチ
ナーカグワーのカチ(左のポイント)
とアガリジョーのカチ
0 1000m
沖縄市泡瀬干潟におけるカチ ( 魚垣 ) の遺構について 海域を形成していた. 現在は 2,170 億円を投じて実 施された「新港地区埋立事業」によって大部分が 消滅している. 泡瀬干潟は中城湾の湾口は広く開けているが, 冬の北東季節風による高波が北東部に位置する勝 連半島に遮られているなどしたため,湾奥部には 広大な干潟が形成されたと考えられている. また当 干潟の埋立事業が,環境保全上の争点となってい る. 2.泡瀬干潟のカチ 上述のように,沖縄本島泡瀬周辺の海は遠浅で 干潟が広がり,古くから人々はこの海の恩恵を受 けて生活をしてきた. 専業漁業によって生計を立て る人々はもちろん,潮干狩りやタコ獲り,藻類を 採取してその日のおかずとりをする人々も多くい る. そのような半農半漁の暮らしをする人々の中 には浅い海に石垣を積み上げ,魚垣と呼ばれる原 始的な漁具を造り,それを利用して魚を取り生活 する人々もいた. 広大な干潟が広がる泡瀬干潟の 海はその魚垣を造るのに適した環境であり,かつ ては多くの魚垣(カチ)が存在していたようであ る. 図 2 は国土情報ウェブマッピングシステムによ る1977 当時の泡瀬干潟の空中写真である . 画像上部西側はかっては塩田地域であり,現在 は埋め立てが行われ開発が進み,住宅が建ち並ん でいる. そして,画像北部に広がるのが米軍の泡瀬 通信施設である. 画像下部,西側に伸びる白い砂州 は奥武岬である. ここを境として,北中城村と沖縄 市の境界となっている. 以下より,図 2 の上部から 下部へと,画像を拡大してカシを確認していきた い(図2 中の矢印). 図3 は図 2 の北部,米軍通信施設付近における 空中写真を拡大したものである. 南西から北東方 向にL 字型に伸びる魚垣の存在が認められる(図 図2 1977年の泡瀬干潟 国土交通省(国土情報ウェブマッピングシステム)による 図2 1977 年の泡瀬干潟 国土交通省 ( 国土情報ウェブマッピングシステム ) による . 図3 米軍通信施設付近のカチ 国土交通省(国土情報ウェマッピングシステム)による 図3 米軍通信施設付近のカチ(1997 年) 国土交通省 ( 国土情報ウェブマッピングシステム ) による .
3 中の矢印). このカチの袖は非常に長く,90 度北 東方向に伸びている袖垣が所々崩れている. このカ チは現在も原型をとどめており, 筆者らも現地で 実物を確認した. 図4 は米軍通信施設付近のカチを実際に撮影し たものだが,このカチは袖垣が非常に長いが,現 在は修復が行われていない.L 字型を形成するカチ の片側袖垣で約200 ~ 250 m あり,両側の袖垣を 合わせると,全長は500 m に達しているのではな いかと思われる. 袖垣の高さは 1 ~ 1.5 m ほどであ る. このカチは 1 つ 1 つの石が非常に大きいこと も特徴である. 最も大きな石(琉球石灰岩)は高さ 約1.5 m,幅 1 m ほどの大きさがある . 現在は魚垣 の右側部分は潮流の影響で砂が堆積し,袖垣は途 中で埋没しているのが認められる. 『泡瀬誌』によると,「戦前,泡瀬の人が所有し た「かち」は,高原の屋号にちなんで東門がち, なかんだかりがち,じょうんたがちという名前で 呼ばれていた」とある. そして,「これら三つの「か ち」は,泡瀬の東の「ユニ」の付近にあった」(泡 瀬誌)と記述されている.「ユニ」というのは海の 潮流によって砂が集積した場所のことで,米軍通 信施設付近の海に存在する. つまり,泡瀬の東の「ユ ニ」と呼ばれる場所付近に魚垣が3 つ存在してい たということであり,これらは戦前に高原の人か ら泡瀬の人に譲渡されたということである. 図3 の魚垣は泡瀬干潟東の「ユニ」付近にある ことから,東門がち,なかんだかりがち,じょう んたがちのいずれかではないかと考えられる.「泡 瀬の人が所有していた3 つの「かち」は終戦後も 残っていたが,米軍の上陸用舟艇による演習で破 壊され,今ではその面影はなく,使用された多く の石は砂の中に埋まったままである」というの記 述が泡瀬誌の中にみ見られるが,既に消失してし まっている垣があること,また,詳細を知る人物 を見つけることはできなかったため,名前の特定 ができていない. 泡瀬誌によるとこれら3 つの魚垣の他にも,泡 瀬の北側に3 つ,古謝の東方の海に 1 つ,合計 4 つの魚垣があったが,これら4 つの魚垣は,海中 道路を築く石として売り払われたという記述があ る. 魚垣の数を合計してみると,泡瀬沿岸には合 計7 つの魚垣が存在したことになる . 図5 は,現在の沖縄県総合運動公園付近の拡大 した空中写真である. 画像上部矢印と下部矢印に 2 基の魚垣が残っているのが確認できる. これらの 魚垣は『北中城村史』にも記述がある. それによ ると画像上部のカチがイージョーグヮーガチであ り,画像下部がトゥグチガチである. この航空写 真が撮影された1977 年にはまだ原型を留めていた が,現在ではこの2 基の魚垣は完全に消失してし まっている. また,話者もおらず,所有者,その 他の情報も不明である. 図6 は奥武岬先端付近のカチである . 画像中央部 にカチが存在する. この画像を見る限り 1977 年当 時でもしっかりと痕跡が認められる. だが,『北中 城村史』にはこの魚垣に関する記述は見られない ため,名称,所有者,その他の情報は不明である. 今 図4 米軍通信施設付近の魚垣(2013年12月撮影) 図4 米軍通信施設付近のカチ (2013 年 12 月撮影 )
沖縄市泡瀬干潟におけるカチ ( 魚垣 ) の遺構について 回,地元の人にヒアリングしてみたところカチの 存在について,「魚垣があったことは覚えているが, 誰が持っていたのかは分からない」とのことであっ た. また,「泡瀬の人が管理していたとは聞いたこ とがある」とも話していた. 図 7 は奥武岬付近におけるカチの画像である . そ の写真のうち左側の矢印がナーカグヮーのカチ, 右側の矢印がアガリジョーのカチである. これら 2 基の魚垣の名称はどちらも所有者の屋号に由来し, この2 基の魚垣の所有者はかつて家が近接してい る. カチは所有者がそれぞれ管理しており,宮古 島で見られる「株」のような魚垣管理の方法も見 られず,個人が所有となっている. これら 2 基の カチが造られた時期は明確ではないが,アガリ ジョーのカチに関しては,現在70 歳代の話者の祖 父が造ったとの話であったため,恐らく戦前に造 られたものではないかと考えられる. 当時は魚垣 を持つ家はエーキンチュー(お金持ち)と呼ばれ, 集落内部でも魚垣を持っているものはほとんどい なかったとのことである. また,ナーカグワァー のカチとアガリジョーのカチを作った人物はどち らも比屋根集落出身であるが,魚垣はどちらも北 図5 イジョーグヮーガチとトゥグチガチ 国土交通省(国土情報ウェブマッピングシステム)による 図5 イジョーグヮーガチとトゥグチガチ(1977 年) 国土交通省 ( 国土情報ウェブマッピングシステム ) による . 図6 奥武岬付近のカチ 国土交通省(国土情報ウェブマッピングシステム)による 図6 奥武岬付近のカチ(1977 年) 国土交通省 ( 国土情報ウェブマッピングシステム ) による . 図7 奥武岬付近に位置するナーカグヮーのカチとアガリ ジョーのカチ 国土交通省(国土情報ウェブマッピングシステム) による 図7 奥武岬付近に位置するナーカグヮーのカチとアガリジョーのカチ(1977 年) 国土交通省 ( 国土情報ウェブマッピングシステム ) による .
中城村の海に造られているのが特徴的である. その 理由については話者に聞いてみても詳細は分から ないとのことであった. 3.ナーカグヮーのカチ このナーカグヮーのカチは,右側の袖垣が陸側 ではなく沖側へと伸びているのが特徴である. 前 述の先行研究によると,多くのカチは沖から陸へ 向かってUの字に石を積み,左右の袖垣が交わる 点を捕魚部としている. これに対して,このナー カグヮーのカチの場合は魚垣の周辺にある岩盤を うまく利用して右側の袖垣の一部を造っているた め,右側の袖垣は沖側へと伸びているのである(図 8). 魚垣の周辺にある岩盤は干潮時には水面から 50 cm 程出てくるため,この岩盤を利用すれば,大 きな石を多く積み上げる必要が無いため労力をか けずに済むのである. 図9 はナーカグヮーのカチの沖へと伸びていく 部分から捕魚部を撮影したものである. 画像左に 伸びているのが捕魚部,画像下部へと連なる石が 袖垣だが,現在は崩れてしまい消失している. ま た図10 はナーカグヮーのカチの沖へ伸びた袖垣の 部分である. 写真でははほとんど石も無くなって いるが大きな石が僅かに連なって残っている. ナー カグヮーのカチの袖垣の高さは1m 程で,長さは 左が約100m 程,右側が 120 m 程である . また捕魚 図8 ナーカグヮーのカチの袖垣 (2013年12月撮影) 図9 ナーカグヮーのカチの沖へと伸びて いる部分から捕魚部(2013年12月撮影) 図10 ナーカグヮーのカチの沖へ伸びた袖垣 の部分(2013年12月撮影) 図11 ナーカグヮーのカチの概略図 (作成:中村勝太郎) 図8 ナーカグヮーのカチの袖垣 (2013 年 12 月撮影) 図9 ナーカグヮーのカチの沖へと伸びている部分 から捕魚部 (2013 年 12 月撮影) 図10 ナーカグヮーのカチの袖垣 (2013 年 12 月撮影) 図11 ナーカグヮーのカチの概略図 (中村勝太郎作成)
沖縄市泡瀬干潟におけるカチ ( 魚垣 ) の遺構について 部は高さ約1.2 ~ 1.5 m,奥行きが 2 m 程であった とのことである. このカチの所有者は現在無くなっ ており,詳しく知る人はアガリジョーのカチの話 者のみだった(図11). 4.アガリジョーのカチ アガリジョーのカチについては,左側の袖垣の 長さは約100 m 程であり,袖垣高さは約 1 m 程で ある(図12). そして,ナーカグヮーのカチと同様 に右側の袖垣は石を積み上げるのではなく,元々 残っている岩盤を利用し,それを袖垣の代わりと している. つまり,アガリジョーのカチは左の袖垣 と捕魚部のみ石を積み上げていたということにな り,これは他の地域では見られない形態である. 魚を獲る部分(捕魚部)はキルシ,またはキド シと呼び,キルシの中はカチの袖の部分よりも若 干深くなっており,干潮時には30 ~ 50 cm ほどの 深さになる(図13). キルシの垣の高さは 1.2 ~ 1.5 m 程あり,奥行きは 2 m 程である . 魚を獲る際には, スクイ網と呼ばれる幅50 cm 程の網を用いて,魚 を捕獲した. スクイ網は,丈夫な家庭用の防虫ネッ トなどを再利用して作ったもので,網は先端部が 深くなっており,魚が入ると簡単には出ることが できないようになっている。網を取り付ける部分 と持つ所は竹を使用した. 図14 はアガリジョーのカチの袖垣部である . 原 図12 アガリジョーのカチ (作成:中村勝太郎)
図
13 キルシ(捕魚部)の概略図
(作成:中村勝太郎)
図14アガリジョーのカチ袖 (2013年12月撮影) 図15アガリジョーのカチ捕魚部 (2013年12月撮影) 図14 アガリジョーのカチ袖 (2013 年 12 月撮影) 図12 アガリジョーのカチの概略図 (中村勝太郎作成) 図13 キルシ(捕魚部)の概略図 (中村勝太郎作成) 図15 アガリジョーのカチ袖捕魚部 (2013 年 12 月撮影)今回ヒアリングを行ったカチの持主は,米軍基 地で作業員として働いている. 帰宅後,畑地でサト ウキビ栽培を行い,夜になるとカチを見て回り修 復をしながら,漁を行っていたという. カチ漁では 棒や銛などを持って海面を叩きながら,カチの捕 魚部へと魚を追い込んでいき,スクイ網を用いて 捕魚部で逃げられなくなった魚を掬って捕った. ま た,夜にカチ漁をする時には松明を持ち,海を照 らしながら魚を捕魚部へと追い込んでいった. 漁期には特に決まりごとはなく,一年を通して 漁を行った. 潮の関係上,夏は昼間によく潮が引く ため昼の漁が中心となり,冬は夜に潮がよく引く ため夜の漁が中心となるため,夏と冬では漁を行 う時間帯が異なる. また,漁を行うときは潮回り にも注意を払い,潮がよく引く大潮の前後の日に 漁へ出かけ,小潮や小潮前後の中潮は潮位が高く, カチの捕魚部まで歩いていくことができないため, 漁は行わなかったそうである. 潮が良い時には頻 繁にカチを見て回ったが,魚が入っている時と入っ ていない時の差は激しく,一定の漁獲は得られな かったが,魚が入っているか見て回るのは楽しみ でもあったようだ. 6.漁獲物 カチを利用していた当時は魚が豊富でチヌ(く ろだい),エーグヮー(あいご),ボラ,ウツボ, アバサー(はりせんぼん),タコ,シルイチャー(あ おりいか)やクブシミ(もんこういか)などが良 く獲れ,時折ガーラ(ロウニンアジ)やカライワシ, エイ,サメなどの大型の魚も獲れた. カチで大きな 獲物が捕れた時は管理者同士が協力して獲物を運 んだという. 例えば,以前ナーカグヮーのカチで大 きなカライワシが取れたことがあり,その際には アガリジョーのカチの主とその家族が手伝って大 型魚を運搬したという。また,運搬する際には使 を潜めるウツボを見つけては釣りあげてよく獲っ たとのことであった. カチで獲れた獲物は魚垣の所有者の妻がバーキ (桶)へ入れ,その桶を頭の上に乗せて部落で親 戚や知り合いに売り歩き,イカが取れた時には結 構なお金になり,みんな喜んだそうである. また, ナーカグヮーのカチの所有者の妻とアガリジョー のカチの所有者の妻は仲が良く,二人で部落を売 り歩くと新鮮な魚を求めて多くの人が集まったと いう. 時には,魚垣漁が終わるのを砂浜で待ち,漁 が終わると同時に魚を買っていく人もいたとのこ とで,専業漁民もそれほど多くは無かった当時は, カチで獲れた新鮮な魚は重宝がられ,カチの所有 者の家族だけではなく,他の人々にとっても重要 であったことが伺える. また,時折カチィ泥棒をする者もおり,カチ泥 棒はモリを持ってカチで待機していたので,所有 主である話者達も魚が取られるのを黙って見てい るしかなかった. このようなことが時々起こり,泥 棒よりも先に魚垣で待機するために急いで出かけ るなど,競争のようになり大変なこともあったよ うである. 7. 修復作業 魚垣は家族で利用,管理しており,話者による と魚垣の修復作業は時期を決めて行うわけではな く,魚垣で漁を行うたびにその都度,石を積み上 げて修復を行い,台風によって大きくカチが崩れ た時には家族全員で修復作業を行っていたとのこ とである. 潮が引いている時に石を積み上げる作業 は大変だったが,家族が多かったため協力して修 復をしていたとのことであった. また,男が仕事 や用事などに出ている時は女達がカチを見て回り, 修復したり漁を行った. 8.カチの相続
沖縄市泡瀬干潟におけるカチ ( 魚垣 ) の遺構について アガリジョーのカチは話者の母方の祖父が造っ たものであり,本来ならば,所有者の子供へと相 続されるはずである. しかし,このアガリジョーの カチの場合は誰にも相続がされておらず,所有者 の家族が自由に魚垣を利用して漁を行い,魚を獲っ ていた. 実際に,インタビューでは幼いころから祖 父に連れられてカチへよく魚を取りに行っており, 結婚した後も利用し続けていたとのことで,仕事 が終わった後に「カチィに魚が入っているか見て 来る」と言ってカチで漁を行っていたようである. 話者の祖父が亡くなる前までは兄弟,親戚がよ く利用していたが,話者の祖父が亡くなってから は祖父の娘達が魚を取りに行くことが多くなっ た. 男たちは仕事へ出かけ,次第に漁に出ることは 少なくなっていったようである. 話者の話による と,若い頃は軍作業などの仕事を終えた後にカチ で魚を取りに行ったりしていたが,1975 年頃に公 務員として働くようになってから次第にカチを利 用しなくなくなり,話者の兄弟や親戚も利用しな くなっていったとのことであった. その理由とし て,第1 に修復作業に手間がかかり,次第に獲れ る魚の量も減少したこと.第2 には沖縄本島に次 第に仕事や物が増えてきて,カチを利用しなくて も欲しい物が手に入るようになったことなどが重 なり,カチで漁の必要がなくなったため,後継者 がいなくなったのである. Ⅲ お わ り に これまで泡瀬干潟に存在したカチについてみて きたが,戦前は多くの魚垣が存在していたが,現 在ではその多くが消失してしまっている. その形態 について知るべく,国土情報ウェブマッピングシ ステムの1977 年の空中写真で魚垣が見られないか 探したところ,形を留めた魚垣を確認することが 出来た. 画像で確認出来た魚垣は 6 基であったが, 文献によるとかつての泡瀬地域周辺の海にはまだ まだ多くの魚垣が存在していたようである. これらの魚垣は海中道路建設の為に売り払われ たり,米軍の演習によって破壊されてしまったよ うである. それらの存在したカチの多さからも,遠 浅で面積も広い泡瀬干潟一帯が魚垣をつくるのに 適した海であり,かつては多くの魚垣が造られ人々 が海の恩恵を受けて半農半漁の生活を営んでき た. これらのカチは石垣や宮古の魚垣と同様に「所 有者の屋号+カチ」という呼び方で呼ばれており, 沖縄全体の魚垣研究をみても一般的な呼び方であ る. また泡瀬,北中城地域の魚垣の特徴としては, 今回最も詳しく話を聞くことが出来た北中城側の 海に存在するナーカグヮーのカチとアガリジョー のカチは,どちらも所有者が比屋根集落出身であ り,またこれら2 つの魚垣は形態も特徴的で,ど ちらも元々存在する岩盤を利用して袖垣を作って おり,ナーカグヮーのカチは袖垣が一部沖へ向かっ て伸び,それから岩盤を利用して陸側へと垣を伸 ばしている. 同様にアガリジョーのカチも岩盤を利 用して袖垣を作っている点は他の地域には見られ ない形態をしているといえる。この2 基の魚垣は 1975 年頃までは使用されていたが,どちらも後継 者がおらず,修復する者がいなくなった. カチで獲れた魚を売り歩き新鮮な魚を提供して 生計を立てていたという話や,その新鮮な魚を求 めて自ら魚垣の主のもとへ出向き,いち早く購入 していく人もいたという話,そして,かつての泡 瀬地域や北中城地域は専業漁民もそれほど多くは 無かったことからも,カチがカチの所有主だけで はなく,集落で生活する人々にとっても重要な役 割を持っていたようである. 当たり外れの多いカチ 漁であったが. カチの所有主にとってはそれが一 つの楽しみであり,家族と騒ぎながら楽しみを共 有し合い,魚垣で獲れた魚を売ることで集落の人々 と交流し,人間関係を作りあげていくという重要 な役割を担っていた。 しかし,食糧を自分で生産することが大切であっ た時代から,沖縄本島に仕事が増加し,物資物が 増えていき,お金を出せば食べ物が自由に手に入 る時代になった. それによって次第にカチで魚を 獲る必要はなくなり,そしてゆっくりと波風によっ てカチは消失していった. 現在でも調査が行われな いまま消失の一途をたどるカチは多くある. さら に,本島におけるカチの遺構調査を進めていきた い. (受付 2014 年 4 月 30 日) (受理 2014 年 6 月 19 日)
永珣編『八重山民俗誌 上巻・民俗篇』沖縄タイムス社, 50-78. 北中城村史編纂委員会(1996):『北中城村史 第二巻 民 俗編』北中城村教育委員会. 佐渡山正吉(1996): イノーの民俗.宮古研究,8,10-21. 多辺田政弘(1995): 海の自給畑・石干見 ―― 農民にとっ ての海.中村尚司・鶴見良行編『コモンズの海』学陽書 房71-143. 田和正孝(2002): 石干見研究ノート ―― 伝統漁法の比較 生態.国立民族学博物館研究報告書,27-1,189-229. 田和正孝(2007):『ものと人間の文化史 ―― 石干見 最 古の漁法』法政大学出版局. 中村 啓(1992): 沖縄・小浜島の石干見漁撈について, 259. 松岡静雄(1943):『ミクロネシア民族誌』岩波書店 . 水 野 紀 一(1980): 奄美大島の石干見漁撈.史観,103, 11-27. 矢野敬生・中村敬・山崎正矩(2002): 沖縄八重山群島・ 小浜島の石干見.人間科学研究,15-1,47-83. 藪内芳彦(1958):『漁村の生態 ―― 人文地理学的立場』 古今書院. 参照ホームページ 「国土交通省国土政策局GIS ホームページへようこそ」 http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/gis/index.html (2013 年 12 月 30 日閲覧)