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斡里札河の戦いにおける金軍の経路

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論 文

斡里札河の戦いにおける金軍の経路

白石 典之

Route of Jin army in the Battle of the River Ulz

s

hiraishi

Noriyuki

Abstract

The purpose of this study is to clarify the war situation in the “Battle of the River

Ulz(Ulja)” fought in 1196 between the Jin dynasty and the Tatars(Zubu). This battle is

also famous for the fact that the young Chinggis khan participated in it on the Jin side. By contributing to the Jin victory, Chinggis khan obtained the backing of the Jin and grew powerful. The main documentation for the study is the Serven khaalga inscription discovered by the authors in Bayankhutag District, Khentii Province, Mongolia. It consists of two inscriptions, one in Chinese and one in Jurchen, and the major portion of both notes the names of the places which the Jin army passed through during the Battle of the River Ulz. By carrying out a multilateral examination of these place names, from a historical, geographical and archaeological perspective, the authors managed to show clearly the route of the Jin army on a map. They were also able to shed light upon the historical and geographical situation in the eastern part of the Mongol plain at that time. The results of the study should greatly contribute to our understanding of the Jin dynasty’s control of the Mongol plain and the prehistory of the rise of the Mongol Empire.

Keywords

Battle of the River Ulz, Chinggis khan, Jin dynasty, Serven khaalga inscription, Tatars(Zubu)

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はじめに

中国北部を支配した金朝にとって,モンゴル高原の遊牧部族の入寇は政権を揺るがす大問題であ った。入寇が12 世紀末に一層激しくなると,金朝はたびたび遠征をおこなって遊牧部族の弱体化 をはかった。そのひとつに1196(明昌 7)年の「斡里札河の戦い」がある。この戦いは右丞相完顔 襄率いる金軍が遊牧部族のタタル(阻䪁)1を斡里札河で撃破したというものである。斡里札河はモ ンゴル高原東北部を流れるオルジャ(Ordja)河だと考証されている(箭内 1930: 555)。この河は ウルジャ(Ulǰa)河ともよばれてきたが(村上 1970: 292),現在モンゴル国ではオルズ(Ulz)河と よぶので,本論では,「斡里札河の戦い」という事件名を除き,地理的表記を「オルズ」とする。 この戦いは金朝の北伐の中で比較的よく知られている。なぜならモンゴル族のテムジン(チンギ ス・カン)が金朝側で参戦したと『元朝秘史』などの史料が伝えるからだ。その時の武功によりテ ムジンは金の辺境防備の部隊長に任命されたという。そのことでテムジンは金朝との結びつきがで き,モンゴル高原で頭角をあらわすことにつながったともいわれる(松田2015: 8)。 斡里札河の戦いについて,わが国では箭内亙(1917/1930: 553-556)や外山軍治(1964/1979: 481-484)らが論究している。とくに後者は『金史』にもとづいて戦いの経緯を詳述した優れた研究であ る。ただ,史料の内容が断片的なので,具体的な戦況の復元までには至らなかった。 近 年 そ の 欠 を 補 う 進 展 が あ っ た。 そ れ は モ ン ゴ ル 国 ヘ ン テ ィ(Khentii)県バヤンホタグ (Bayankhutag)郡にあるセルベン・ハールガ(Serven khaalga)碑文2の発見である。碑文はヘルレ ン(Kherlen)河南岸にそびえるセルベン・ハールガ山の自然石に刻まれた女真文と漢文の 2 碑 からなる。女真文碑の存在は1986 年には学界で知られていたが,未解読だった(Shagdarsüren 1991)。一方で,漢文碑は 1991 年に加藤晋平と筆者ら日本・モンゴル共同調査団によって発見された。 花崗岩の粗い面に刻まれ,風化剥落も激しかったので判読はきわめて困難だったが,「襄」「明昌七 年六月」など一部が読めたことから,加藤(1992)はこれを斡里札河の戦いの戦勝碑文だと理解し た。その後,加藤の女真文模本を引用して,吉本智慧子(愛新覚羅2003),穆鴻利・孫伯君(2004) が女真碑の釈読を公表し,斡里札河の戦いに関する碑文であることを追認したが,模本が不正確だ ったので,解読の大きな進展には至らなかった。 その間にも筆者らは数次にわたる現地調査を実施し3,2001 年に女真文,2004 年に漢文を採拓し 1 『元朝秘史』と『集史』は「タタル」の名称を用い,『金史』は「阻䪁」を用いる。本論では基本的に「タタル」 と「阻䪁」を併記し,場合によっては書き分ける。なお,タタルに関しては「韃靼」と,阻䪁に関しては「阻 卜」との関係(近年では劉浦江2008 に詳しい)に触れる必要があろうが,本論では斡里札河の戦いにおける 金朝の対戦相手という範囲内で「タタル」「阻䪁」の名称を用い,それらの族属問題や系統関係などは今後の 課題として,ここでは言及しない。 2 北緯 47 度 27 分 15 秒,東経 111 度 15 分 37 秒,海抜 1132m にある(図 3 参照)。 3 筆者は 1991 年(加藤晋平,読売新聞,東海大学情報技術センター,モンゴル科学アカデミー歴史研究所と), 1992 年(加藤,三宅俊彦,読売新聞,モンゴル科学アカデミー歴史研究所と),2001 年(加藤,三宅,加納

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た。そのうち漢文拓本(図 1)は松田孝一に,女真 文拓本は吉本智慧子に釈 読を依頼した。残念なが ら,両碑とも全文解読に は至らなかったが,漢文 と女真文が同じ内容で, 文章の多くが金軍の経由 地の羅列にあてられてい ることがわかった(松田 2006,Aisin Gioro 2006)。 斡里札河の戦いの戦況の 解明に,本碑がきわめて 重要であることを改めて 認識した。 そこで本論では,経由 地 と 思 し き 文 字 の 判 読 と,それらの位置の比定 をおこなうことで,斡里 札河の戦いにおける金軍 の行軍経路を具体的に復 元してみたい。それが明 らかになれば,不明部分 の多い戦況の解明と,金朝と北方遊牧部族との関係の分析に,裨益すると考える。

Ⅰ.戦いの概要

まず,斡里札河の戦いの始終を概観しておく。わが国ではすでにあげた箭内亙,外山軍治のほか, 近年では松田孝一(2006)もこの戦いについて優れた整理をおこなっており,屋上屋を架すの感も あるが,本論の展開上必要なので,筆者の考えを含め改めて触れておく。 斡里札河の戦いの発端には,つぎのような事件があった4。尚書左丞相夾谷清臣は明昌6(1195) 哲哉,モンゴル科学アカデミー歴史研究所と),2002 年(加藤,魏堅,モンゴル科学アカデミー歴史研究所と), 2004 年(三宅,モンゴル科学アカデミー考古研究所と),2009 年(松川節,武内康則と)の計 6 回の現地調 査を実施した。 4 「五月(中略)庚戌,命左丞相夾谷清臣行省于臨潢府」(『金史』巻10 章宗 : 236),「六年,遷儀同三司,進拝左丞相, 図1 セルベン・ハールガ漢字碑拓本

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年陰暦5 月に章宗の命で行尚書省事として臨潢府(内モンゴル赤峰市バリン[巴林]左旗)に赴き, 北辺の鎮撫を担当した。その清臣がハルハ(合勒)河方面へと軍を進め,フルン湖(栲栳濼)にて 叛乱部族を鎮圧して帰還する時,配下の北阻䪁5の斜出が戦利品を掠取するという事件を起こした。 金朝は北辺の部族を懐柔して辺境防備に当たらせる,いわゆる“ 夷を以て夷を制す ” という政策を 採っており,北阻䪁もそのひとつであった6。清臣はこの件で斜出を厳しく責めた。これに反発し, 北阻䪁は金朝に叛いた。 同年11 月,この一件で章宗は清臣を更迭し,代えて尚書右丞相・任国公の完顔襄を行尚書省事 に任命した7。それを拝命した襄は臨潢府に赴いた8。着任まもなく「大塩濼」という所で事件が起こ り,襄は自ら兵を率いこれを鎮撫した9。「大塩濼」は内モンゴル東ウジュムチン(烏珠穆沁)旗の エジノール(額吉淖爾)湖とされる(松井1915: 328,箭内 1930: 556,譚 1982a: 50)。エジノール 湖はこの方面最大の塩湖として知られる。「大塩濼」事件の内容は明らかでないが,同じころコン ギラト(広吉剌)族が「大塩濼」に攻め込み,群牧使を殺害するという事件10も勃発している。 襄は「大塩濼」の守備作戦を立案し,裁可を得るため中都(今の北京)に赴いた。戦況報告を 済ませて臨潢府に帰還すると11,時をおかずに行動を起こした。西北路招討使完顔安国を「多泉子」 に派遣し,自らも密詔を受け出兵した。この密詔の内容が阻䪁討伐だったとその後の経緯からわか る。斡里札河の戦いの始まりである。 襄の出征時期を史料は明記していない。だが,中都を出て臨潢府に向かったのが明昌7 年陰暦 2 改封密。受命出師,行尚書省事於臨潢府。清臣遣人偵知虚実,以軽騎八千,令宣徽使移剌敏為都統,左衛将軍充, 招討使完顔安国為左右翼,分領前隊,自選精兵一万以当後隊。進至合勒河,前隊敏等於栲栳濼攻営十四,下之, 回迎大軍,属部斜出掩其所獲羊馬資物以帰。清臣遣人責其賧罰,北阻䪁由此叛去,大侵掠」(『金史』巻94 夾 谷清臣伝: 2085)。 5 「北阻䪁」は阻䪁のなかの一派であったと想定する。『元朝秘史』では阻䪁を「タタル」とよんでいるが,タ タル部族には複数の支族がいたことがわかっている(村上1970: 68-69)。 6 「(明昌 5 年 9 月)甲申,命上京等九路并諸抹及乣等処選軍三万,俟来春調発,仍命諸路并北阻䪁以六年夏会 兵臨潢」(『金史』巻10 章宗本紀 : 233)とあり,北阻䪁は臨潢府に召集されるほどの存在であった。 7 「上遣責清臣,命右丞相襄代之」(『金史』巻 94 夾谷清臣伝 : 2085),「(明昌 6 年 11 月)戊子,左丞相 夾谷清臣罷,右丞相襄代領行省事」(『金史』巻10 章宗本紀 : 237)。 8 「命襄代将其衆,(中略)時胡里乣亦叛,(中略)襄至,遣人招之,即降,遂屯臨潢」(『金史』巻 94 襄伝 : 2088)。 9 「是月(12 月),右丞相襄率駙馬都尉僕散揆等進軍大塩濼,分兵攻取諸営」(『金史』巻 10 章宗本紀 : 237),「頃 之,出師大塩濼」(『金史』巻94 襄伝 : 2088)。 10 「承安元(1196)年春正月(中略)大塩濼群牧使移剌覩等為広吉剌部兵所敗,死之」(『金史』巻 10 章宗本紀 : 238)。 11 「承安元年…二月…丁卯,右丞相襄,左丞衡至自軍前。己巳,復命還軍」(『金史』巻 10 章宗本紀 : 238),「復 遣右衛将軍完顔充進軍斡魯速城,欲屯守,俟隙進兵。絵図以聞,議者異同,即召面論,厚賜遣還」(『金史』 巻94 襄伝 : 2088)。

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月19 日12だったということはわかっている。中都と臨潢府は直線で約500km 離れていて,急いで も半月はかかった。そうならば襄の臨潢府到着は早くても陰暦3 月初頭であった。出征はそれ以降 とみるべきだ。 金軍は西道と東道に分かれて北進した。襄は西軍を率い,東軍は瑤里孛迭が率いた13。その東軍 がヘルレン(龍駒)河で阻䪁14に包囲されてしまう。包囲は3 日に及び,襄に救出を求めてきた。 襄は味方の加勢を待つべきとの周囲の意見を退け,夜を通して駆けつけ,休息もとらず早朝に阻䪁 を急襲して東軍を救った。阻䪁は輜重や家畜を残してオルズ河方面へ奔走した。襄は安国に追討を 命じた15。安国は別働隊を率い,すでに「多泉子」で戦果をあげていた16。東軍救出作戦の際に待っ ていた「味方の加勢」とは,この安国隊だった。安国隊は東軍救出直後に本隊と合流したようだ。 安国隊は食糧不足ながらも1 万の兵で疾駆してオルズ河に至り,部長メグヂン・セウルトゥを降し た。天候も金側に味方し,凍える雨の中で阻䪁は自壊した17。 『元朝秘史』には決戦地を「ウルヂャ河のクストゥ・シトゥエン,ナラトゥ・シトゥエン」と 明記している(小沢1986: 61)。この「シトゥエン(šitü’en)」の意味には祈祷場所とする説(小澤 1997: 166)と,塁垣とする説(村上 1970: 284,Rachewiltz 2004: 490-419)があり,確定していない。 ただ,後続して「砦を築き」「砦より捕え」という語句もあらわれることから,タタル18が何らか の防御施設に立てこもっていたのは確かなようだ19。 12 前註の「 承 安 元 年 … 二 月 … 己 巳 」 は 2 月 19 日( 陳 1962: 141)。なお,『金史』(巻 10 章宗本紀 : 240) によると,承安改元はこの年の11 月戊戌なので,この出来事は明昌 7 年中のことである。 13 「未幾,遣西北路招討使完顔安国等趨多泉子。密詔進討,乃命支軍出東道,襄由西道」(『金史』巻 94 襄伝 : 2088)。 14 メインの敵は後述のようにセルベン・ハールガ碑文から北阻䪁(北朮孛)だったとわかる。だが,『金史』 襄伝が「阻䪁」と記しているのは,執筆した史官が細部まで拘らなかったからか,あるいは戦闘に他の阻䪁 系支族が含まれていたからか,定かでない。 15 「承安元年,丞相襄北伐,孛迭為先鋒副統,進軍至龍駒河,受囲,会襄引大軍至,得解」(『金史』巻 94 瑤里 孛迭伝: 2095),「而東軍至龍駒河為阻䪁所囲,三日不得出,求援甚急,或請俟諸軍集乃発。襄曰:『我軍被 囲数日,馳救之猶恐不及,豈可後時?』即鳴鼓夜発。(中略)遅明,距敵近,衆請少憩。襄曰:『吾所以乗夜 疾馳者,欲掩其不備爾。緩則不及。』嚮晨壓敵,突撃之,囲中将士亦鼓譟出,大戦,獲輿帳牛羊。衆皆奔斡 里札河。遣安国追躡之」(『金史』巻94 襄伝 : 2088-2089)。 16 「承安元年(中略)既而右丞相襄総大軍進,安国為両路都統,大捷於多泉子。襄遣安国追敵」(『金史』巻 94 完顔安国伝: 2094)。 17 「僉言糧道不継,不可行也。安国曰:『人得一羊可食十余日,不如駆羊以襲之便。』遂従其計。安国統所部万 人疾駆以薄之,降其部長」(『金史』巻94 完顔安国伝 : 2094),「衆散走,会大雨,凍死者十八九,降其部長」(『金 史』巻94 襄伝 : 2089)。 18 既述のように『元朝秘史』では阻䪁を「タタル」とよんでいる。 19 「ウルヂャ河のクストゥ・シトゥエン,ナラトゥ・シトゥエンに,タタルのメグヂンを頭とせるタタル族, そこに砦を築きありき。チンギス可汗,トオリル汗二人,かく砦を築きし者どもを,メグヂン・セウルトゥ をかの砦より捕え,メグヂン・セウルトゥをそこに殺め,銀の揺籃,大珠ある衾をチンギス可汗そこに取れ

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戦いが終わると襄はその戦功を「九峯石壁」に刻ませて凱旋した。襄は陰暦9 月に中都に参内し, 左丞相,監修国史を拝命し,常山郡王に封じられた20。 以上が史料から知れる斡里札河の戦いの全容である。以下の論述のため,要点をつぎのように整 理しておこう。 ①完顔襄率いる金軍の作戦は1196(明昌 7)年陰暦 3 月から 9 月の間におこなわれた。 ②金軍の対戦相手はタタル族(阻䪁)であった。 ③襄の出征の地は臨潢府であった。 ④部隊の編成は,襄が率い西道を進んだ西軍,瑤里孛迭が率い東道を進んだ東軍,完顔安国が率い 「多泉子」方面に派遣されていた別働隊から成っていた。 ⑤襄率いる本隊(東軍・西軍)と安国率いる別働隊はヘルレン河で合流した。 ⑥オルズ河にタタル(阻䪁)を追撃したのは安国隊であった。 ⑦オルズ河の戦場は「クストゥ・シトゥエン,ナラトゥ・シトゥエン」で,そこには砦のような防 御施設があり,タタル(阻䪁)が立てこもっていた。 ⑧戦勝を記念する碑文が襄によって「九峯石壁」に刻まれた。

Ⅱ.セルベン・ハールガ碑文の内容

1.碑文の再検討 セルベン・ハールガ碑文のうち,漢字碑文は幅97cm,高さ 110cm の碑面に 9 行 88 文字が,女 真字碑文は幅130cm,高さ 135cm の碑面に 9 行 143 文字が刻まれていた。 筆者らが採った拓本にもとづく碑文の研究としては,松田孝一の漢文釈読(2006),吉本智慧子 の女真文釈読(Aisin Gioro 2006)と,その後に発表された吉本による漢文と女真文とを合わせた総 合的な釈読(図2,愛新覚羅 2006)がある。両氏の読みを比べてみると,漢字の判読などいくつか の相違点がみられた。その解消を図るべく,筆者も独自に判読を継続した。その結果,漢字碑文の 地名部分の内容を,おおむね理解することができた。そこで本論では主に漢字碑文にもとづいて行 軍経路の検討をおこなう。 まず,判読結果を下記に掲げる(碑文は縦書き。冒頭の数字は筆者が便宜上付けた行数である。“□” は判読できない文字)21。そのうえで漢字碑文の内容を述べ,これが斡里札河の戦いの戦勝碑である ことを再確認し,行軍に関連する箇所を明示する。 り」(『元朝秘史』巻4: 133 節 ; 小沢 1986: 61)。 20 「遂勒勲九峯石壁。捷聞,上遣使厚賜以労之,別詔許便宜賞賚士卒。九月,赴闕,拝左丞相,監修国史,封 常山郡王」(『金史』巻94 襄伝 : 2089)。 21 加藤の案(1992)をベースに,2 行目の「相」は松田(2006: 32),5 行目「箚」「不論」・6 行目「緇」・9 行目「巤」 は吉本(愛新覚羅2006: 51-52),5 行目「直」・7 行目「滅過半打核」・9 行目「鵰」は松田(2006: 44-45)の 判読案を,現地調査で再確認して容れた。6 行目「追來」と「河」は筆者が現地調査で新たに判読。

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1 大金開府儀同三司尚書丞 2 相任國公 宗室襄奉 3 帝命帥師討北朮孛背叛由 4 阿剌胡麻乞罕赤勒裊斡禮 5 賴伯速訛直箚里馬不論 6 打剌追來至烏緇河晨 7 滅過半打核□回□□ 8 班師時明昌七年六月 日 9 命□山名曰鵰巤巖 大意は「大金国開府儀同三司, 尚書右丞相,任国公の宗室(完 顔)襄,帝の命を奉じ師を帥い て北朮孛の背叛せるを討つ。阿 剌胡麻乞,罕赤勒裊,斡禮賴, 伯速,訛直箚里馬,不論打剌よ り追い来りて,烏緇河に至り, 晨(早朝)に過半を滅ぼし,[未 解読],班師(凱旋)す。時に 明昌七(西暦1196)年六月日 なり。命じて[?]山名を鵰巤 巖と曰う」となる。 この碑文が完顔襄により撰文されたことは明らかだ。彼は1195(明昌 6)年陰暦 1 月に「尚書右 丞相」に昇進し「任国公」に封じられている22。女真文の1,2 行目にも同様の官職名,爵位,そし て襄の名が明記されている(Aisin Gioro 2006: 10-13)。 襄は皇帝の命を受けて出陣した。その相手は「北朮孛」であった。この漢字の推定音価23は朮 *ʂu,孛 *pɔ である(李・周 1999: 191, 194)24『金史』にあらわれる「阻 䪁」の音価は阻*tʂu(寧 22 「庚辰(中略)枢密使襄為尚書右丞相,封任国公」(『金史』巻 10 章宗本紀 : 236)。 23 推定音価についてはつぎのようにした。①時代の近い『中原音韻』の漢字音を当てる,②『中原音韻』に無 い時はやや古い『広韻』の同一韻字で推定する,③対応する女真字が明瞭で推定音価が妥当な時はこれを付 す,④推定は*アスタリスクを付け,声調についての情報は省略する。 24 「孛」は『中原音韻』にはないが,同じ「浦没」切の「勃」より類推。 図2 セルベン・ハールガ女真碑文〈愛新覚羅(2006:53)から転載。 ただし,文字と訳案はそのままで,構成を改変した。〉

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1985: 325),䪁 *pu(李・周 1999: 19)25なので,朮孛と阻 䪁は同一対象と理解してよかろう26。「北」 は部族内で北側にいた支族を指すと考える27。なお,女真文では3 行 11,12 字目が *ürigən(=北), 13 ~ 15 字目が *ʤobogo(=朮孛)と解読されている(Aisin Gioro 2006: 14)。 6 行 6 ~ 8 字目の「烏緇(*u-tsï)河」は斡里札河を指すと考える28「斡里札」は女真語漢字対音 の研究で*o/u-li/ri-ja と復元できるが(孫 2004: 78-79, 110, 290-291),漢字碑には「里 *li/ri」に対応 する文字がみられない29。しかし,女真文の当該部分6 行 9,10 字目の音価が *urisa と推定され(Aisin Gioro 2006: 16-17),しかも 11 字目が河の意の *bira であることから(金 1984: 188-189),「烏緇河」 はオルズ河とみてまちがいない。 9 行目に凱旋した日付を「明昌七年六月 日」と記した箇所があるが,これは史料から導かれた 襄の作戦遂行期間,すなわち同年3 ~ 9 月と矛盾しない。なお,日付は女真文も同じであった(Aisin Gioro 2006: 18)。 以上より,この碑文が斡里札の戦いの「九峯石壁30」戦勝碑文であることに異論をはさむ余地は ない。 2.地名部分の抽出 つぎに,行軍経路が記された箇所を確認しておく。吉本は漢文3 行 11 字目の「由」と 6 行 5 字 目の「至」とが一連の構文を形成し,「~由り~に至る」と考えた(愛新覚羅2006: 51)。具体的に 述べると,「由」と「至」の間(A)と,「至」の直後(B)に地名が入り,「(A)由り(B)に至る」 となる。これに従うと,(B)にはオルズ河が入るのだから,(A)にはオルズ河に至るまでの金軍 の経由地が記されているはずだ。女真碑文の当該部分は4 行 11 字目~ 5 行 17 字目で,吉本の解読 案によると(愛新覚羅2006: 50-52),漢文と同じ内容だとわかる。吉本の見解を容れよう。 筆者の再読で,「至」の直前の2 文字が「追來」という動詞だとわかった31。タタル(阻䪁/北朮孛) 25 「䪁」は『中原音韻』にはないが,同じ「博木」切の「樸・濮」より類推。 26 論旨は異なるが劉浦江(2008: 365)も同様の意見を提示している。 27 既述のようにタタルは複数の支族から成っていた。たとえば『集史』には 6 つの支族があったといい(『集史』 露語版1 巻 1 冊 : 103),『元朝秘史』(153 節)には少なくとも 4 つの支族の存在がうかがえる(小沢 1986: 234)。 28 この部分,松田(2006: 44)は「烏紬局」,吉本(愛新覚羅 2006: 52)は「烏緇水」と読み,意見が分か れ た が ,現 地 再 調 査 の 結 果 ,筆 者 は 「 烏緇 河 」 と 読 む 。 な お ,「 烏 」 の 音 価 は 李・周(1999: 97),「緇 」 の音価は『中原音韻』にはないが,同じ「側持」切の「淄」から類推(李・周1999: 49)。 29 漢字碑では[ul]のような音節末単子音流音のエル[l/r]を厳密に表記していなかったと考えられる。同例 が後出註52 にあり。東京外国語大学荒川慎太郎氏の教示。 30 「九峯」とは 9 つの岩峰のあるセルベン・ハールガ山の山容に由来する(白石 2001: 66)。 31 拓本では「速裊」とも読めるが(愛新覚羅 2006: 51),それは岩の割れ目によるところが大きい。現地で刻 面を詳細に観察した結果,「追來」と判読した。

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を追いながらオルズ河に至ったようすが記されているようだ32。そうならば「阿剌胡麻乞罕赤勒裊 斡禮賴伯速訛直箚里馬不論打剌」の23 文字は,金軍が出発してからオルズ河に到着するまでに経 由した地名であろう。これらをたどることで行軍経路が判明するはずだ。

ところで,この23 文字はどのように区切ることができ,何か所の地名をあらわすのか。松田は「阿 剌胡麻乞」と「罕赤勒裊」を見出した(松田2006: 42-43)。また,吉本は女真文の母音調和など文 法上の特徴から「阿剌胡麻乞*alahumaki」「罕赤勒裊hant∫iləniau」「斡禮賴orilai」「伯速baisur」「訛 直*oʤil」「箚里馬 *ʤalma」「不論 *subulun」「打剌速裊 *darasuniau」の 8 つの地名に分けた(愛新 覚羅2006: 51)。しかしながら,すでに述べたように漢文 6 行 3,4 字目の「速裊」は,筆者の再読 で「追來」となったので,「打剌速裊」は成り立たない33。この部分は再考しなければならない。 今回筆者は,松田と吉本に共通の「阿剌胡麻乞」「罕赤勒裊」の他に,吉本が指摘した「斡禮賴」 「伯速」を追認し,さらに,「訛直箚里馬」「不論打剌」とする案を提示する。すでに述べた大意の とおりである。いずれも史料や現地名にそれと思われる場所を見出すことができたからだ34。以下, その理由と詳細を述べながら,これら6 つの地名の具体的な場所を史料と地図から比定してみよう。

Ⅲ.地名の検討

1.阿剌胡麻乞(アラフマキ) 「阿剌胡麻乞」の漢字音価は*ɔ-la-hu-mua-khi と推定されている(李・周 1999: 96, 194, 247, 298, 309)35。また,吉本は女真文の当該部分をalahumaki と推定している(愛新覚羅 2006: 46)。 これは松田(2006: 42)の指摘どおり,『元史』(巻100 兵志 : 2554)にみられる牧地の「阿剌忽馬乞」 のことでまちがいない。その位置は箭内(1930: 604)によりウジュムチン(烏珠穆沁)部内と考証 されていて,『中国歴史地図集(元・明)』にも同様の記載がある(譚1982b: 12)。これらに従う。 もう少し細かくみよう。「阿剌胡麻乞(阿剌忽馬乞)」はモンゴル帝国初期に冊(チンギスの舅の 特薛禅の子)が領有していたと史料からわかっている36。その領域は,北は按赤台(チンギスの甥) 32 「由~[動詞]至~」という用例は,たとえば『金史』には 9 例みられる。また,「追來」という表現は唐代 に成った『北史』をはじめ,以降の史料に散見される。 33 女真文の当該箇所(愛新覚羅 2006: 52)で,「速」に相当する女真文字(5 行 17 字目)は推定音価が定まっ ておらず,「裊」に相当する女真文字はない。 34 モンゴル帝国当時の地名が,今なお名残をとどめて歴史地名の比定研究に大いに役立った例は,少なからず ある(白石ほか2009 など)。 35 「剌」は『中原音韻』にはみられず,『広韻』にもとづく中古音 *lat(李・周 1999: 247)を参考。しかし,明 らかに入声韻尾[-t]は消失していたと考えられるので,以降「剌 *la」とする。荒川慎太郎氏の教示。 36 「申諭按陳曰:『可木兒温都兒,答兒脳兒,迭蔑可兒等地,汝則居之。』諭冊曰:『阿剌忽馬乞迤東,蒜吉納禿 山,木兒速拓,哈海斡連直至阿只兒哈温都,哈老哥魯等地,汝則居之。当以胡盧忽兒河北為隣,按赤台為界。』」 (『元史』巻118 特薛禅伝 : 2919)。

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の領地とバラゴル(胡魯忽兒)河上流37をもって境とし,西はダリ(荅兒脳兒)湖38周辺の按陳(冊 の兄)の領地と接していたとある。そうならば冊はその中間の地域,すなわち現在の西ウジュムチ ン旗の西南部を領有していたと考えられる。 そこにはイフチレンゴル(伊和吉仁高勒)河とバガチレンゴル(巴嘎吉仁高勒)河が流れ,水草 豊かな遊牧に適した地域がある。とくにバガチレンゴル河上流は優れた牧地として知られ,現在で も広大な公営牧場がある。地形からみて,臨潢府のあったバリン左旗方面から西ウジュムチン旗の 草原地帯に至る当時の交通路は,このあたりを通っていたはずだ。現在もバリン左旗と西ウジュム チン旗の治所バヤンウラ(巴顔烏拉)鎮とを結ぶ幹線道がここを通過する。このような地理的環境 も考慮して,バガチレンゴル河上流域こそが「阿剌胡麻乞」だと推断する39。 2.罕赤勒裊(カンチレ湖) 「罕赤勒裊」の音価は*xan-tʂ‘i-lei-niau(寧 1985: 253, 302, 312, 317)と,女真碑文の当該部分は* han-ʧilə-njau(愛新覚羅 2006: 46-47)と推定されている。「裊 *niau」は「尼要 *ni-iau」とも表され, 女真語で濼(湖沼)のことである40。また「赤勒」についても同じく濼の意味があるようだ41。松田 もこの点に言及し,「「赤勒裊」は「濼濼」という表現ということになるため,やや理解に苦しむ ところであるが,湖水を示していることは間違いない」と述べている(松田2006: 43)。この湖に ついて松田(2006: 43)は「大塩濼」か「多泉子」であると想定するが,吉本(愛新覚羅 2006: 53) は「大塩濼」説を否定し,それ以外の「阿剌胡麻乞」とヘルレン河の間に存在する湖沼だと想定し た42。 今回筆者は当該部分を「罕赤勒」+「裊(湖)」と分けてみる。「赤勒」を地名の一部とみなし, そのうえで「罕赤勒」は『遼史』にあらわれる「広済湖」であると考える43。「広済」は*kuaŋ-tsi と 推定され(寧1985: 266, 285),よく発音が類似するからだ。「広済湖」は臨潢府の西方にある塩湖で, 37 現在の西ウジュムチン旗バヤンウラ鎮を流れる。 38 ダライ(達来諾爾)湖とも。赤峰市ケシクテン(克什克騰)旗西端にある。 39 北緯 44 度 10 分,東経 117 度 30 分周辺。 40 「昌州…宝山有狗濼,国言曰押恩尼要」(『金史』巻 24 地理志 : 567)。 41 「桓州…有白濼,国言曰勺赤勒」(『金史』巻 24 地理志 : 566)。ほかに白色の意とする説もある(孫 2004: 281)。 42 内モンゴルに「ハンチルト qančir-t」という湖が記録されているが(柏原・濱田 2002: 790),その所在は旧ア バガ(阿巴噶)右旗(現アバガ旗南部)で,想定される行軍経路から西に大きく外れるので候補地としない。 また,1926 年発行の大日本帝国陸地測量部作製『東亜輿地図(烏得)』には,イフチレンゴル河下流に「ハ ンノール」という湖が示されている。位置的には相応しいが,この場合「赤勒」と「裊」の関係を説明でき ないので,これも除外する。 43 「広済湖」は『遼史』巻 37 地理志上京道(439),巻 60 食貨志下(930),巻 110 張孝傑伝(1487)に記載がある。

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契丹時代には「大塩泊」または「縻到斯裊」ともよばれたと史料にみえる44。後者は「到縻斯45」の 誤記で,モンゴル語で塩の意のdabusu だという見解がある(田村 1964a: 135)。臨潢府西方でそれ に相応しい塩湖を探すと,現在も当地方最大の塩生産量を誇るエジノール湖が見出せる46。その別 名はダウス(達布蘇)湖である。既述のように,この湖は金代に「大塩濼47」とよばれていた。“濼” と“泊”は同義なので,「大塩濼」と「大塩泊」は同所とみてよい。そこで先学はエジノール湖を「広 済湖」だと理解した(田村1964a: 135,肖 2003: 55,賈 2004: 71)。筆者も先行意見を追認する48。完 顔襄はこの出陣の直前に「大塩濼」の作戦に従事し,その防備案を具申するために前線を離れたこ とは,すでに触れた。この出陣に際し「大塩濼」を経由することには理由があった。以上より「罕 赤勒裊」はエジノール湖だと推断する。 3.斡禮賴(オリライ) 「斡 禮 賴 」の 音価は*wo-li-lai(寧 1985: 296, 316)と復元できる49。女真文の当該箇所は*orilai と される(愛新覚羅2006: 47)。この「斡禮賴」に相当する地名を管見では見出すことができなかった。 ただ,『蒙古遊牧記』にヘルレン河の南に「鄂羅賴50」という場所があると記されている(張1939: 421)。19 世紀中頃のことだが,今知り得る唯一の候補地である。 4.伯速(バイス) 「 伯 速 」 の 推 定 音 価 は*puai-su(寧 1985: 249, 319),女真碑文の当該文字の推定音価 は*bai-sur(愛新覚羅 2006: 47)である。これにあたる地名も見出すことができなかった。ただ, 注目している地名がある。それはバルス(Bars)である。「八兒思 *pua-ɽï-sï」としてその名は元代 44 「大塩泊。周囲三百里,東至上京一千五百里。契丹中更名広済湖,虜中呼為縻到斯裊」(『武経総要』巻 22 蕃 界有名山川: 1124)。 45 推定音価は到 *tau,斯 *sï(寧 1985: 252, 275),縻は『中原音韻』にはないが,同反切字から *mui(李・ 周1999: 37)と類推できる。 46 北緯 45 度 14 分,東経 116 度 30 分。 47 『金史』ではすでに本論で掲げたほか,巻 24 地理志上(564),巻 46 食貨志(1093, 1095),巻 92 曹望之伝(2036) に「大塩濼」はみられる。 48 ただし,エジノール湖の周長は約 20km(当時の 40 里)で『武経総要』のいう「三百里(約 150km)」に合 わない。当地でその規模の湖沼を探すと,同じく東ウジュムチン旗のウラガイゴビ(烏拉盖戈壁)がある。 現在,水源の川がダムにより取水され,大半が干上がっているが,最大時の汀線はほぼ150km と一致する。 ただ,湖水には若干の塩分が含まれるが,塩は産しない。両湖は50km ほどしか離れていないので,『武経 総要』の記述はふたつの湖の情報を混同したのかもしれない。 49 「斡」は『中原音韻』にみえない。中古音は *uat(李・周 1999: 250)だが,入声韻尾が消え近代音は *wo か。 荒川慎太郎氏の教示による。 50 漢語現代音で ɤ-luo-lai(李・周 1999: 148, 296, 352)。

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の史料にみられる51。発音上で「伯速(パイス/バイス)」と「八兒思(パルス/バルス)」は類似 している52。ここを候補地として検討してみる。 地理的,歴史的環境からも「伯速」がバルスである可能性は高いと考える。バルスはドルノド (Dornod)県ツァガーン・オボー(Tsagaan-Ovoo)郡の,ヘルレン河北岸の河岸段丘上一帯である。 そこには契丹(遼)時代の大型土城のバルス・ホト(Bars khot)1 城がある(白石 2008: 6-10)53。こ の城は軍事施設ではなかったが,周囲6.6km にわたり土塁がめぐり,大軍の駐屯に適していた。城 の運営と維持には人や物が必要だったはずだ。おそらく契丹時代には物資や人の往来のために,当 時の首都の臨潢府との間に交通路が整備されていたと考えられる。それを再利用すれば大軍の移動 が安全かつ簡便におこなえただろう。契丹がバルスとその周辺に残したインフラを,金軍が活用し た可能性はじゅうぶんにある。以上の理由から「伯速」をバルスに比定したい。 5.訛直箚里馬(オチチャリマ) 「訛直箚里馬」の推定音価は*ŋuɔ-tʂi-tʂa-li-mua(寧 1985: 253, 293, 313, 322, 329)である。吉本が 推定した当該部分の女真文字の音価は*oʤil-ʤalma(愛新覚羅 2006: 47)であった。 吉本が「訛直」と「箚里馬」に分けていたのを,本稿でひとつの地名としたのは,合致する地名 が史料にみられたからだ。それは『聖武親征録』の「斡禅札剌馬思」である54。同地と思しき場所を『集 史』ではūǰāl-ǰlmq と記している(露訳版 1 巻 2 冊 : 89)55。これは女真字の推定音価に近い。 51 「(至正 25 [1365] 年 10 月)禿堅帖木兒以余兵往八兒思之地」(『元史』巻 46 順帝本紀 : 970)。推定音価は『中 原音韻』による(寧1985: 251, 268)。 52 「兒 *ɽï」に相当する音が欠落している。このような音節末(母音の後)の[r/l]を表記していない例は,前出の「烏 緇*u-tsï」でも「斡里札 *o/u-li/ri-ja」の「里 *li/ri」に対応する部分が欠落していたように,当該漢字碑にみ られる。つまりこれらの音について本碑文は『金史』ほど厳密な書き分けをしていなかったようだ。荒川慎 太郎氏の教示。 53 北緯 48 度 03 分 10 秒,東経 113 度 20 分 50 秒。 54 「照烈部与我近常猟斡禅札剌馬思之野」(『聖武親征録』: 286)。推定音価は「斡」*wo(註 49),「禅」*ʂiɛn(寧 1985: 295),「札」*tʂa(中古音は * ʧæt であるが[李・周 1999: 251],入声韻尾[-t]は註 35 のように近代 音では消失したとみる),「剌」*la(註 35),「馬思」*mua-sï(寧 1985: 268, 329)であった。漢字碑文に「思」 字が無いという相違はあるが,当時のモンゴル地名の漢字転写には同例がみられる。たとえば,ダランダバ(達 蘭達葩)/ダランダバス(答蘭答八思)である(『元史』巻2 太宗本紀[33-34])。ほかに,テムジンとジャ ムカの十三翼の戦いの主戦場だったダランバルジュトも同例だ。『元朝秘史』(129 節)には「荅蘭巴勒主惕 Dalan-balǰud」とあるが(小沢 1986: 12),『元史』では「答蘭版朱思 *ta-lan-puan-tʂiu-sï」(『元史』巻 1 太祖本 紀: 4)である。「思 sï」の付与には複数形との説がある(村上 1970: 277)。なお,「答蘭版朱思」の推定音価 は『中原音韻』(寧1985: 268, 277, 297, 309)によるが,「版」はみえず,同反切字(李・周 1999: 222)から 類推した。 55 女真碑文の当該部分の最後の文字(5 行 13 字)を,吉本は「 *su」と推定している(愛新覚羅 2006: 52)。これなら漢字の「思」と合致する。ただ,筆者の現地での再調査では「叉」と読めた。これだと音価 は「*xa/*ka」と推定され(金 1984: 222),漢字碑に対応する文字は無いが,『集史』の当該地名のペルシャ

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現在の地名から相当する場所を見出せなかったが,史料によるとテムジンの本拠地に近かった という(『聖武親征録』: 王 1983: 286,『集史』露語版 1 巻 1 冊 : 89)。それはテムジンとジャムカ が戦った「十三翼の戦い」のころで,テムジンは「グレルグ(Gürelgü)山」にいた(『元朝秘史』 129 節 : 小沢 1986: 12)。グレルグ山は現在のヘンティ県ツェンケルマンダル(Tsenkhermandal)郡 の大半を占めるヘンティ山地南の山塊とされる(Bazargür・Enkhbayar 1997: 22)。 「斡 禅 札 剌 馬 思 」 はタイチウト族の一支族のジェウレイト(照烈)族の領域の縁辺で,テムジ ンの領域と接していたという(『聖武親征録』: 王 1983: 286,村上 1970: 49-50)。当時のテムジンの 領域はヘルレン河上流からオノン(Onon)河上流側に広がり,一方,タイチウトはオノン河下流 側を領有していた(白石2001: 50)。おそらくジェウレイトはその中間あたりに居住していたはずだ。 そうだとすると,「訛 直 箚 里 馬 」 はオノン河中流域とヘルレン河中流域とにはさまれた,現在の ヘンティ県とドルノド県の境界あたりと考えるのが妥当であろう56。 6.不論打剌(ブルンダラ) 「不論打剌」の音価は*pu-luən-ta-la(寧 1985: 247, 271, 314,李・周 1999: 247)57と推定できる。 女真文字の当該箇所の推定音価は*bulun-dara(愛新覚羅 2006: 47)であった。「不論打剌」の漢字 4 字をひとつの括りで捉えた理由は,類似する地名がひとつの地域にまとまって現存していたから だ。碑文中であらわれる順序からみて,「不論打剌」がオルズ河にもっとも近いことはまちがいない。 そこで筆者はオルズ河周辺で候補地を探した。 その結果,オルズ河の約30km 南にブルドハン・オボー(Bürdkhan-Ovoo)という山の存在を知 った58。これはブレンハン(Bürenkhan)山ともよばれ(Shagdal 2007: 115),1907 年の古地図にも 「Büringqan aɣula」とある(Futaki・Kamimura 2005: 88, 164)。「不論」の候補となろう。周辺の最高 嶺で良好なランドマークとなる。南麓には「打剌」に相当すると思われるダルト(Dal-t)という 泉があり,両者を合わせて「不論打剌」とよんだ可能性が考えられる。 あるいは,「打剌」はブレンハン山南麓を通る契丹(遼)時代の界壕(白石2001: 24-26)による とも考えられる。界壕がモンゴル語で「ダラン[dalaŋ]」とよばれるからである。 ふたつの案の当否を現時点では明言できないが,いずれを採ってもブレンハン山南麓一帯が「不 論打剌」の地だと推断できる。 語表記の末尾[q]と一致する。この点の検討は後考に委ねたい。 56 十三翼の戦いの発端となった馬泥棒事件の「札剌麻 ǰalama 山」(『元朝秘史』128 節,小沢 1986: 9-11)との 関連が想起されるが,それについてここでは言及しない。 57 剌 *la は前出註 35 のように[-t]が消失しているとみなす。 58 北緯 48 度 56 分,東経 113 度 13 分,海抜 1347m。

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Ⅳ.行軍経路の復元

以上の地名比定にもとづき,金軍の行軍経路を具体的に復元する(図3)。 金軍は完顔襄率いる西軍と瑤里孛迭率いる東軍からなる本隊と,完顔安国が率いる別働隊から編 成されていた。 本隊は明昌7(1196)年陰暦 3 月中に臨潢府を出発した。そこから「阿剌胡麻乞(バガチレンゴ ル河上流)」方面に出るためには,北にそびえる大興安嶺を越えなければならない。もっとも容易 に越えるには,まず西の慶州(白塔子)方面に出ることだろう。契丹時代に上京臨潢府と慶州の間 には道があり,頻繁な往来がみられたという(田村1964b: 256)。現在の大板鎮(バリン右旗)を 経てチャガンムレン(察干沐倫)河を遡る道だ。襄軍もそれを進んだだろう。しかし,慶州には至 らず,その手前で西北に折れ,バルタ(巴爾汰)河沿いに大興安嶺を越えてバガチレンゴル河に至 るルートを採ったはずだ。これが最短で峠越えも容易だったからだ。バルタ河谷は金界壕南線と南 線西支線の分岐点59にあたり,大型の土城も遺存していることから,軍事的要衝だったとわかる。 臨潢府から「阿剌胡麻乞」までの行程は約200km である。これを何日で移動したか。大軍がモ ンゴル高原を移動した例として明の永楽帝の遠征がある。その場合,一日の平均行軍距離は22km と算出できた(白石2002: 200)。これを参考にすると,10 日弱であったようだ。 「阿剌胡麻乞」から「罕赤勒裊(エジノール湖)」までは平原の道で,移動は比較的容易だったはずだ。 バガチレンゴル河から隣接するイフチレンゴル河に出て,河に沿って北へ下れば,ほぼ直線移動で エジノール湖にたどり着く。砂地が多いが,川沿いなので水不足に遭うことはない。「阿剌胡麻乞」 からエジノール湖までは約150km で,前と同様に考えると 7 日ほどの行軍と算出できる。 つぎに「罕赤勒裊」から「斡禮賴」へのルートをみる。エジノール湖からヘルレン河方面に出るには, 北に横たわるエレーン(Ereen)山脈を越えなければならない。その際,どこで越えたかが問題になる。 それを知る手がかりがある。金の田琢が詠んだ『贈燕』という詩の序文だ。明昌7 年陰暦 3 月に従 軍して「合虜里山」という地に至ったことが書かれている60。この時期,モンゴル方面での金朝の 軍事行動といえば,斡里札河の戦いに他ならない(賈1985: 20)。 この「合虜里*xɔ-lu-li 山」はハロール(Kharuul)山のことだと考える61。ハロール山は『蒙古地誌』 に「哈魯勒」(柏原・濱田2002: 773),『中国歴史地図集(清)』も「哈魯勒」(譚 1987: 58)とあり, 1921 年の古地図には「Qaraɣul」(Futaki・Kamimura 2005: 177)と記される。エレーン山脈の北側 にある独峰で,エジノール湖から西方向に約100km 離れている。5 日程度の行軍だったと想定する。 59 北緯 43 度 55 分,東経 117 度 58 分。現在の赤峰市林西県統部鎮付近。 60 「明昌丙辰(7[1196]年),予従軍塞外合虜里山,野舎荒涼難以状言。春末有双燕,亦巣此屋」(『口北三庁志』 巻15 贈燕并序 : 265)。「春末」は陰暦 3 月のこと。なお,『金史』巻 102 に田琢伝があるが,この北伐従軍 については触れられていない。 61 北緯 45 度 27 分,東経 115 度 24 分,海抜 1244m。スフバータル県エルデネツァガーン(Erdenetsagaan)郡にある。 なお「合虜里」の推定音価は『中原音韻』より(寧1985: 255, 309, 322)。

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進む方向からみて,ここを通過したのは本隊だった。 おそらく本隊はハロール山で東西2 軍に分かれた。この近くには金界壕でもっとも外側にある界 壕北線が通り,北辺防備の最前線だった。界壕内ではあえて分かれて進軍する必要はなかっただろ う。しかし,界壕を越えた敵地では部隊を分けて進んだ方が効果的だった。巻狩りで獲物を追いた てるように敵を追い詰める作戦上の理由とともに,春まだ浅く,草が芽吹いてない漠北で,軍馬に じゅうぶんな草が行き届くようにするため,一所に集中することを避ける配慮もあっただろう。 『金史』の東軍救出の場面からは,西軍が一夜で駆けつけたように読みとれ,東西両軍はあまり 離れず進んでいたかのような印象を与える。だが筆者は,進む方角を違え,距離も離れて進軍した と想定している。その理由はハロール山以遠の交通路と関係する。 契丹時代には臨潢府とモンゴル高原の拠点(辺防城)との間に,兵員や物資輸送のための交通路 が整備されていたはずだ。金代には廃れていたかもしれないが,ある程度遺存し,高原の遊牧部族 と金との和戦両面での往来に利用されていただろう。モンゴル国東南地域には大きな河川が無く, 泉水も少なく,水場は限られている。さらに,ほとんどが平坦でランドマークも乏しい。大軍を安 全に移動させるためには,既存の交通路をたどったはずだ62。地形的にみて,ハロール山付近で交 通路が左右に分岐していたと考える。左は契丹の「辺防城」として築かれたズーン城(白石2008: 16-18)のある西北に向かい63右はバルス・ホト1 城のある北方向にのびていたと想定する64。左が 『金史』襄伝のいう「西道」,右が「東道」であろう。ちなみにセルベン・ハールガ山は西道沿いに ある。 「斡禮賴」については確定できていない。そこを東西いずれの部隊が通過したかは定かでないが, ほぼスフバータル(Sükhbaatar)県内を北上した西道と東道の位置関係から推測して,同県を中心に, 隣接するヘンティ県東部とドルノド県西部を含む範囲内に「斡禮賴」が所在したと想定できる65。 「伯速」はバルスの地だと想定した。バルスはヘルレン河北岸の河岸段丘上にあり,段丘崖下に は氾濫原がひろがる。東軍が包囲された「龍駒河」の地は,まさにこの辺りに比定されよう。段丘 崖と湿地を巧く利用すれば,無勢でも大軍を脅かすことが可能な場所だからだ。 62 交通路といっても舗装や開削をおこなったものではなく,岩場や泥沼を避け,水場をつないだような簡易な 整備道だ。しかし,それでも大軍や荷車を連ねた輜重隊が移動するには必要なことだった。平坦な草原がつ づくイメージのモンゴル高原だが,じつは良好なルートは限られている。目的地まで最短で安全に移動でき る道筋が古来踏襲されてきた。唐代の「参天可汗道」が宋代に王延徳(「使高昌記」)に使われ,元代に「モ リン道」になったことはその好例だろう(白石2002: 324)。 63 元代の「テレゲン道」(白石 2012: 32, 36)や,永楽帝親征(1410 年)の行軍経路(『前北征録』: 289-290) と一部が重なる。 64 清代の内外モンゴルを繋ぐ主要道のひとつであった現モンゴル国チョイバルサンと内モンゴルのシリンホト 間の道と,かなりの部分が一致する。 65 すでに述べたように 19 世紀にヘルレン河南に「鄂羅賴」という場所があった。『蒙古遊牧記』はそれを「車 臣汗部右翼後旗」の項に記していた(張1939: 421)。右翼後旗はスフバータル県南部にあたる。「鄂羅賴」 もその近くにあった可能性が高い。

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想定どおり東軍がハロール山からバルスへ向かったとしたら,その距離は約340km なので,15 日ほどの行程であったと算出できる。一方,西軍も想定どおりズーン城方面に向かったとし,東 軍と同様に15 日,340km の行軍をしたとすると,セルベン・ハールガ山の近くにまで到達してい たと考えられる66。そこから救出に向かったとすると,セルベン・ハールガ山とバルスの距離は約 150km なので,通常の行軍ならば 7 日ほどかかったはずだ。輜重隊を残して軽騎で急行しても,『金 史』襄伝にあるような電光石火の救出劇は虚構にみえる。 ともあれ,襄率いる西軍はバルスへ移動した。東軍を解放した後,襄は合流した安国別働隊にタ タル(阻䪁)追撃を命じた。その際,本隊がどのように行動したかは明らかでない。セルベン・ハ ールガ山方面に戻り西道を進んだか,あるいは安国隊に後続して進軍したか不明だ。いずれにして も先陣を切ってオルズ河へ向かったのは安国であった。 ここで時間を遡る。バルス到着以前の安国隊について触れておきたい。『金史』によれば,襄が 中都から臨潢府へ戻った後,安国は別働隊を率いて「大塩濼」から「多泉子」に向かった。 「多泉子」とはどこか。ドルノド県タムサグ・ボラグ(Tamsag bulag)に比定する見解がある(譚 1982a: 50)。そこは水場の少ない荒漠なメネン(Menen)平原にありながら,多くの泉水の存在で 知られている。遼金代の遺物が多数採集され67,当時の大きな集落地であったとわかる。明代には「百 眼井」ともよばれ,北元攻略の拠点となった軍事的要衝である68。ここを「多泉子」とする説に同 意する。タムサグ・ボラグからバルスまでは約300km,14 日ほどの行程であった。 ふたたびバルスに戻る。安国隊のバルスからの追撃ルートには,いまだ不明な点が残る。「訛直 箚里馬」の位置が定かでないからだ。ただ,ヘルレン河の北にあったことは,すでに述べたように, 史料の記述からまちがいない。筆者が考えるように「不論打剌」がブレンハン山南麓一帯ならば, 安国隊はバルスからほぼ真北に進んだことになる。そうならば「訛直箚里馬」はバルスの北方で, バルスとブレンハン山との間に存在したことになる。なお,バルスとブレンハン山の距離は70km ほどで3 日強の行程である。 バルスには契丹の城郭があった。また,ブレンハン山麓には契丹の界壕が築かれていた。両者に は何らかの結びつきがあったはずだ。バルスのバルス・ホト1 城は界壕にもっとも近い大型城郭な ので,その居住者は界壕の管理を担っていたと考えられる。そうならば,城と界壕とを往来した道 が遺存し,金軍も利用した可能性がある69。 ブレンハン山麓からオルズ河へは東西にのびる界壕沿いに西に進めばよい。平坦地がつづくので 容易に通行できる。界壕はオルズ河とほぼ並行するので,それに沿って西へ進めば,あたかもオル 66 ハロール山とセルベン・ハールガ山の距離は約 360km。 67 熊本大学小畑弘己氏率いる日本・モンゴル考古調査隊の採集資料実見にもとづく。 68 「諜知元主在捕魚兒海,間道兼程進至百眼井。去海四十里」(『明史』巻 132 藍玉伝 : 3864)。ちなみに 1939 年のノモンハン事件(ハルハ河戦争)時のモンゴル・ソ連軍の基地もここに置かれた。 69 永楽帝もここよりオルズ・オノン河方面に出撃した(『前北征録』: 291)。後代まで引き続き用いられた交通 路の存在が想定される。

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ズ河を遡上するかのようだ。『元朝秘史』(132, 133 節)に,襄率いる金軍がオルズ河を遡って敵を 追いあげてきたという場面があるが(小沢1986: 53, 58),その状況とよく一致しよう。 決戦の地はヘンティ県ノロブリン(Norovlin)郡の治所オルズ付近だと想定する。ブレンハン山 麓からの距離は約80km,4 日弱の行程であった。「ナラトゥ・シトゥエン」「クストゥ・シトゥエン」 の場所は特定できないが,「ナラトゥ」は“ 松がある ”,「クストゥ」は“ 白樺がある ” という意味だ。 この周辺にはそれらの付く地名が散見される70。ヘンティ山地の植生はチンギス・カンの時代と今 とで大きな違いはない(佐々木2015: 171-172)。松や白樺を混交する森林が広くみられる当地の景 観から名づけられたとわかる。 付近には契丹界壕に付属する「堡」という小規模の方形城郭が複数残る。そのひとつにオルズ 河畔に築かれた長辺約80m,短辺約 60m の堡がある71。現在でも2m ほどの高さの城壁が残るので, 当時はさらに高く堅固に遺存していたと考えられる。廃城でも補修すればじゅうぶん防御機能があ ったはずだ。タタル(阻䪁)が立てこもった「砦」とは,このような堡の再利用だったと考えられ, オルズ河にもっとも近いこの無名の堡こそが,決戦の場であったと想定する。 戦いが終わり,金軍は凱旋の途中でセルベン・ハールガ山に立ち寄った72。決戦の地からセルベン・ ハールガ山までは南南西に約150km なので,7 日ほどの行程だった。セルベン・ハールガ山方面に 出たのは,比較的高低差の少ない地形がつづき,ブレンハン山方面に戻るよりも容易に移動できた からか73,あるいは,東軍救出に向わなかった西軍の一部がそこに残留していたからだろうが,現 在の資料からは定かでない。 それではオルズ河での決戦はいつだったのか。臨潢府出陣は陰暦3 月初めだった。ハロール山滞 在は詩文に3 月とあるが,出陣から 20 日程度経過していたので,3 月末だったはずだ。ハロール 山からバルスまでは約15 日の行程なので,東軍包囲事件は 4 月中頃と想定できる。バルスからオ ルズ河まではほぼ1 週間の行程なので,決戦は早ければ 4 月末に始まった。一方,碑刻が 6 月中だ ったことと,オルズ河からセルベン・ハールガ山への移動日数が1 週間ほどだったことを考慮すれ ば,遅くても6 月中旬までには終戦していたはずだ74。 70 根拠は明確でないが『中国歴史地図集(元・明)』にもこの付近に「納剌禿失図(ナラト・シトゥエン)」「忽 速禿失図(クストゥ・シトゥエン)」の表記がある(譚1982b: 12)。 71 北緯 48 度 38 分 35 秒,東経 111 度 54 分 15 秒。 72 この地は漢文碑に「鵰巤巖」とあらわれる。推定音価は「鵰」「巤」を同反切字から類推し *tiau-liɛ-iam とす る(李・周1999: 261, 446, 464)。女真字の当該部分の音価は *sarbin haiga と推定され,現地名 Serven khaalga に同じとみる(愛新覚羅2006: 50)。周辺には Öndör khaalga,Baruun Khaalga などハールガ(「門」の意)を 付した場所がある。門のように峰々が狭まってそびえる山容からか,あるいは,ヘルレン河の南北を繋ぐ道 のゲート様の場であったからか。『大清一統輿図』(七排西一: 85)には「額古徳哈爾噶(ha-er-ga)」とある。 『平定朔漠方略』は「欧徳哈爾哈」(巻22: 355 冊 95),「額古特哈爾哈」(355 冊 96)とつくる。さらに『元史』 には「哈兒哈納禿」(巻31 明宗紀 : 700)ともある。 73 現在もノロブリンとチンギス(旧オンドルハーン)とを結ぶ幹線道路がそこを通る。 74 松田(2015: 10)は先行研究を考慮し,戦いは 1196 年の陰暦 5 ~ 6 月に起こったとする。

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それではなぜこの地に碑刻されたのか。本来金朝はモンゴル高原の遊牧部族との間で,ヘルレン 河を国境線と定めていた75。しかしそののち,遊牧部族の南下の勢いにおされ,実質の国境は内モ ンゴルまで後退した。金朝はそこに界壕を築いて守勢にまわり,“ 夷を以て夷を制す ” という消極 策を採ってきた。そのような中で今回のヘルレン河を越えての勝利は,金側にとって失地回復の成 功という意味があった。その記念すべき戦勲をヘルレン河岸に刻んだことには,ここが本来の国境 だと自他に示す意図があったと考えられる。

おわりに

以上の検討結果をまとめる。 ①金軍の行軍経路は,臨潢府(バリン左旗林東鎮)→ 阿剌胡麻乞(アラフマキ:西ウジュムチ ン旗バガチレンゴル河上流)→罕赤勒裊(カンチレ湖:東ウジュムチン旗エジノール湖)→斡禮賴(オ リライ:ヘルレン河南)→伯速(バイス:ドルノド県バルス)→訛直箚里馬(オチチャリマ:ヘル レン河北)→不論打剌(ブルンダラ:ドルノド県ブレンハン山南麓)→烏緇河(オルズ河:ヘンテ ィ県ノロブリン郡)→鵰巤巖(セルベン・ハールガ山:ヘンティ県バヤンホタグ郡)であった。 ②襄率いる本隊は明昌7 年陰暦 3 月に臨潢府を出陣,陰暦 9 月に中都に凱旋している。復元でき た行程から,オルズ河での決戦は陰暦4 月末~ 6 月中旬の間におこなわれたと想定する。これは西 暦(陳1962: 141)で 1196 年 5 月後半~ 7 月前半にあたる。 ③金,タタル(阻䪁)ともに契丹(遼)時代の交通路,城郭,界壕を巧みに利用した戦いを展開した。 ④セルベン・ハールガ碑は斡里札河の戦いの戦勝記念碑であっただけでなく,ヘルレン河が金の 国境だと内外に明示する意図を込めた,いわば「境界石」でもあった。 このように斡里札河の戦いでの金軍の行軍経路が解明されたことによって,この戦いの推移と地 理的展開,当時の交通路,戦況の詳細を,従前より詳しく復元することができたと考える。これら は不明な点の多いモンゴル帝国成立前史の解明の一助になると確信している。 [付記]本論を草するにあたり,松田孝一,吉本智慧子の両氏には本論の基礎になった碑文解読に 多大なご教示とご協力をいただいた。東京外国語大学荒川慎太郎氏には草稿をご一読いただき言語 学からの有益なご教示をいただいた。京都大学武内康則氏には女真字関連史料の検索にご助力を賜 った。加藤晋平,三宅俊彦,加納哲哉,B. Tsogtbaatar,J. Gantulga の各氏には過酷な条件のもとで 75 「皇統之六年(1146)八月,復遣䔥保寿奴与之和,議割西平河以北二十七団塞与之」(『大金国史』: 176)。なお, 「団」は原作では「囲」(182)。すでに「西平河」はヘルレン河と考証されているが(『読史方輿紀要』巻 45: 920),ヘルレン河北には,フルン湖以西に限れば,契丹界壕の堡が 27 か所あり,これを「二十七団(囲)塞」 だと考えると,その考証を支持するものとなろう。また「(臨潢府)長泰,有立列只山,其北千余里有龍駒河, 国言曰喝必剌」(『金史』巻24 地理志上 : 562)とあることからも,金がヘルレン河を自国の版図の中で捉え ていたことがうかがえる。

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採拓にご尽力を賜った。末筆ではあるが深甚なる謝意を表したい。なお,本論は日本学術振興会科 学研究費補助金(課題番号15H02607,26284112)による研究成果の一部である。

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図 3  斡里札河の戦いにおける金軍の進路復元地図

参照

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