Title
[巻頭論考]近世琉球におけるウコン専売制の起源と展開 :
夫役がささえるウコン経営
Author(s)
里井, 洋一
Citation
琉球王国評定所文書, 18: 7-58
Issue Date
2001-03-25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19204
Rights
浦添市立図書館
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近世琉球におけるウコン専売制の起源と展開
ー夫役がささえるウコン経営│
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琉球王府の財政を支える柱として砂舶の専売制度がある。砂備についての研究は古くは伸古朝助﹃沖縄県備業 論﹄、安次富松蔵﹃旧琉球藩ニ於ケル楠業政策﹄にはじまり、 一 九 六0
年代の仲原普忠﹁砂輔の来歴﹂、﹁砂輔の来歴 補遺﹂、渡口真消﹁黒崎市守売の起源﹂などの優れた研究がある。しかしながら、各間切、村において砂舶の生産がど のような形でおこなわれたのか、史料の制約もあっていまだに明らかになっていない。 Ij 小論では砂加と同線、硫球王府の市立川物であったウコンに焦点をあて、間切・村におけるウコン生産が王府の夫役 によって岱まれていることを明らかにした。この新たなウコンに関する知見から、間切・村における砂柿生続・も同様 sぬ ! iA に干一附の夫役経営によって行われていると閉椛した。なお、間切・付に焦点をあてる前拠として、ウコン・砂舶の咋 売制度の変濯を研究史および史料から盤埋し、新たないくつかの知見も提出しておく。 F岳 h・・ヒ
}¥ 一 、 硫 疎 王 府 専 売 の 開 始 ウ コ ン ・ 一 六 四 七 年 、 砂 穂 ・ 二 ハ 五 一 年 ウコンの専売の開始を醇姓家譜(四世賀相続)と平姓家諦(一世噴陣)は次のように記している‘ ︻ 史 料 1 ︼蒔姓家譜 ︿ 順 治 V 三年丙成三月、於御害届招請士、原従大利有御銀四百貫目御借有其御返排見詰之存寄者可比伸之官、向山 平氏常問縦書上勉陳描論而仲情稿作於百姓間金砂鮪禁止私之宵町公口取之間仕上関心付多利潤予・ぷ々、川法 4 川 先 雌 布施府之利而儲御在書記平行諏防本工右衛門問、告訴一十雌州以仕上世米内五卜削之代鋭可口蹄金民主取興南側問税 供買蹄金六千斤、岡四年丁亥耳差上子姥州宵代銀十二町目、有多利故偽疲賞賜米十削(背御花番奉行鎌田左京殿 也 一 史 料
2
︼平姓家譜 順泊三年内成三丹、先此、能障州借銀九千両雛以六年為必償之期然不能、加問同百論上御容 u m お前鋭於償之見当 有 (f.H
者 承 可 具 {I" 等之
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於 姓 卸 金 砂 鮪 禁 在 、4
'J l; 'i1 手取之泊予繭州有多利潤乎云々、由足法司繭其司、先地山村大利之御澗.山伴御布需奉行一訓品本仁お術門とん、山日夕・ 機州、以仕上位米之内五十桝之代銀可買欝金局主取与賀親俣買借金六千斤、同問年丁亥夏差上- r
鹿児府河代鋭卜 貫 固 有 多 利 依 爵 褒 賞 賜 米議
官 御 在 番 奉 行 鎌 田 左 尿 殿 也 ︻ 史 料 1 ︼ 、 ︻ 史 料2
︼の二つの家譜を合わせてみると次のことがわかる a { 3 -①順泊三年、すなわち一六凹六年三月、御客屈に崎球王附家版凶を集め、﹁ h ハ年﹂までに返済しなければならない薩摩藩に借りた借銀四百賞、九千両(一両
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銀四十四匁)の返清方法を諸士に古った。 ②平氏世間親雲上重陳と醇氏古波蔵筑賛之親雲上賀親は相談し、ウコンと砂舶の﹁私完R
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すなわち白山売口 を禁止し、王府が百姓から独占的に買い上げる﹁公買﹂にしたならば多大な利潤をもたらすであろうと提案し た 。 ( 4 V ①三司官、宜野間正成・大型良安・岡頭朝季は提案をよしとし、まず在番奉行一点訪木工布術門に飯原諸の潤いに なることを伝え、ついで随摩藩へも上奏した。その結娘、ウコンの目い取り代金.として隣席滞への年此(仕上側 米)の中から五十石をあて、買い取り責任者(主取)に賀親と頂陳をあて、-一人はウコン六千斤を W H い 付 け た ミ @あくる順泊四(一六四七)年、経服部でウコンを光った代銀は十二円匁、多大な利俗をあげ山間賞として米十. h
を賀親と車陳は下賜された。この時の在需孝行は錯間在京であった。 ①は随臨時藩に借りた併銀問掴の家臣団への下問である。 随摩藩への借財は何般に生じたのであろうか。 上原兼普氏はこの時期の雌服部の借財状況を次のようにいう。 借倒額はまた小刻みにm
え 純 け 、 一六四四年の入費が銀六百何不足に及び、同年、 一 六 ・ 二 八 年 の 行 当 り 二 匁 と い 考 う出銀を皆済できない未進衆は知行召し上げという負制転化策が行われたが、百姓収綜の上に打ち出された山川 A命 銀、出米課徴が妓m m
をあげず借財を借財でおぎなうしかない状況であった。 碩 琉 球 王 国 ・ も 陣 岬 中 部 借 財 負 姐 転 嫁 の 例 外 で は な く 、 一六刊五(寛永 4 . . . )年、尚一行に付き出鋭 . . 分(稲山鋭)、琉 巻 球回中の男女老若関係なく一人に付鋭一一分あての出鋭(御合力銀)が求められ、問六年の八川には伴済するように、 -6 } という次のような施摩藩からの命令が出されているう )t.i、 」 ︻ 史 料
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︼ 党 高 堂石
付 出 銀 弐 分1
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去 年之
出 銀m
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一御分間中男女老若不残為御合力、銀宣人ニ付戚分充之可為出銀之事 一重出銀御合力銀八木ニ而被納候者、直成之儀者可為加御定候事 右瑞球へ可被申渡候、去年出米難被仰付幌、米下直ニ依伝之、御借県相型候問、加此候、有﹂一口之帯、来ル 八月限ニ皆済可在之様ニ、一 m h 可被中付者也 寛永廿二年二月一一日 山川氏部少輔 l i -J 1 1H
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川 十 . 凶 幡 守 白 川 岬 u n ' 却はサ . -H 且問問 -E -h h 山 V I I -E ・ " " " 阿 多 内 腕 . 化 問 二 司 官 金 . 武 王 子 前年(一六四四年)の出米は米の価怖が下がったため上納すべき出掛制に足りず.小足分は疏球王府の借財となり、 第一条但し書きでその分も合めている η このような負担転館策は琉球側の薩摩藩への借財蓄積を生み出したと見ることができよう。このような借財転嫁策の上に更に琉球が薩摩滞から借財しなければならない状況がこの時期存在して ( 7 } い た 。 ﹁ 中 山 世 譜 附 巻 ﹂ の 次 の 記 古 墳 群 を み て み よ う 。 ︻ 史 料 4 ︼ 本年︹順治二年︺。局捷報花指揮来臨。兼諦借金銀事。遣紅氏我謝筑殿正安。到薩州。五月間闘。 本年︹順泊三年︺。鴎捷報開指揮来臨事。遺能氏石川里之子宜秀。六月到薩州。本年同図。 本年︹順泊三年︺。掲悪報進貢費銀融乏事。遺比賀子。到薩州。(未知姓名並円日) 順治二年(一六四五年)、南明の福王広光帝から追わされた花指押が来たという報告と合わせて借金の申し込みが 薩摩藩にされている。あくる一六四六年、今度は南明の隆武帝によって派遣された閲指揮が正月にやってきて、四月 { 9 } に源遣する隆武帝への進貢のための銀が不足しているということを報告する使者が薩摩藩に源遣された。 以上のような薩臨時藩による負担転化による借銀返済と、さらなる南明政権との外受費用調達のために一六四六年三 丹、返済奇聞が醇・平両家の家識にみるような形で行われたと考えることができよう。 考-②は歯間重陳と古被蔵賀親によるウコンと砂舶の専売提案である。この提案をもって仲吉朝助は﹁地租ノ幾分ハ砂 { 叩 ) 縮ヲ以テ換納セシメ以テ其歳入ヲ増加スルノ法ア設けた﹂すなわち﹁貢騎﹂の起源であるとしている。それに対して 論 安次富松蔵は、基本的に仲吉説をひきつぎながらも、③にみるようにウコンのみが買い上げられ砂摘に閲する記述が 一六四六-七年﹁貫聴﹂実施には疑問を提示している。仲古・安次富の﹁貢糖﹂起源説に対し 頭 な い こ と を と り あ げ 、 巻 て仲原普忠は﹁貫輔﹂ではなく専売(買い上げ)の起源だということを論証した。その論証の過程で仲原は﹁硫球一 ( ロ ) 件帳﹂を引用し﹁砂摘が琉球館に届られたのは、正保三年ウコンと同時だったことは確かであろう﹂という。 一 六 回
六・七年砂縮専売起漉の立喝である。 ﹁琉球一件帳﹂は︿砂備上納の初﹀として次のように記している ν ︻ 史 料
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︼ (前略)正保年間ノ頃館内情銀の重高利に返済の子術無之段々吟味の趣釘之御凶厄へ巾上砂鮪焼山道賢せ惜釦均 口納由、且惨金は素より出産為有之宮山米相伝不山中、-止保年間の頃より砂鮪同級仕上せ釘之幌 仲限がいうように﹁疏稼一一件帆﹂はウコン・砂備ともに・止保年間(.六問問i
四七年}に﹁仕上せ﹂が始まったと いう認識である。では十九防紀前半に成立したと与えられる﹁地域一件帳﹂が事実必織として正しいのであろうか その鵡論を仲原はしていない。 一方、源武維は安次富と同州側、一六四六・七年起源に疑問を舵 . . 小 し 、 AM 四-施されたという。その論拠は﹁中山償却附巻﹂の次の記事による。 . 、 ・ 1 、 ド r f A & n A -E ' 〆E L f-・
9 S I -﹁ 口 上 制 ﹂ ( 匂 必 制 ぜ tJI ・~ ︻ 史 料6
︼ 本年︹順治七年︺。鴎調寛償還鋭両年問事。遣法司川。向氏問蛸m
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判 A F C 到雌州 h 明年阿川M
附 。 ( 間 指 抑 。 偶 臨 本 園 。 時 無 備 接 待 之 資 。 無 奈 之 何 。 得 制 円 相 問 州 , 抑 常 ・ 阿 古 ・ 八 品 川 山 . U 川 H u q q 羽 目 n h H M t ' μ WE
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・ 7 ・ 咽担問問・ /h-以縞償還。然不能如期而還。依遺使以鴎品寛) 順治七年、すなわち一六五O
年、借銀の返済期日を待ってもらうために、 :JA 川- H
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賄 側 季 を 隊 出 午 滞 に 派 遣 し た と い { げ ) う記事である。その剖注で、福州で即位した雨明の降武帝によって崎球に誠泊された間指押を持仕付するための柑川を宮古八重山を抵当に九千両を借り、六年で償還するつもりであったができないため、許しを諦うために使者を源遣し た と あ る 。 源武雄は前記の家諦資料とこの﹁中山世議附巻﹄を総合して判断し、黒糖質上制度は借金の返済が附難になった. 六 五
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年以後実施されたという。この源武雄説を・つけて漉口真消は黒縮専売の起源を、一二司官国頭刺季が帰国したあ 一六五二年と推論する。この渡口真消の一六五二年起源説を名高正八郎や金城功は継承している d く る 年 、 源武雄、渡口真消両氏とも︻史料2
︼ ﹁ 六 年 返 済 ﹂ 、 ﹁ 九 千 両 ﹂ と い う 家 譜 資 料 と ︻ 史 料6
︼ ﹁ 中 山 償 請 附 巻 ﹄ の . 致 から、借金の元は問指押接待費用にあると考えているようである。確かに歴代宝案によると閲指抑は一六問六年・止川 { 創 ) ( M U ) 一干一日に来琉し、四月には首里王府は慶賀耐として毛泰昌を派遣している。このような状況の一六凹六年一二川にた しかに資金の調達を廻って諸士を集め杏問せざるをえない必然性は理解できる。しかしこれから資金調達をしようと いう奇聞ならわかるが︻史料1
・2
︼にみるような薩摩滞への借金返済のための杏聞というのはあまりにも早すぎる ように思う。この問題点を源武雄は﹁政庁の年譜﹂すなわち﹁中山世譜附巻﹄が民間の家譜よりも信頼度が高いもの であるという。一方波口真消はさらに進めて︻史料1
・2
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に み る 具 申 は 、 一 六 五O
年三司官国側朝季が借金延期願 考 いの際に行われたものであろうと推論する、すなわち家譜の一六四七年のウコンの買い上げは隣摩のためのものであ り、琉球王府の専売ではなく、繭・平両氏の提案は一六五O
年に行われたと漉口は判断している。 治 しかし、源の判断では︻史料1
・2
︼が無視されること、渡口の判断では︻史料6
︼に記されていないことまで推 頭 論 す る と い う 問 題 が お こ る 。 巻 次に︻史料1
・2
︼以後一六五O
年までのウコン買い上げに閲する史料をみてみよう。静姓家識には一六四七年以 後もウコン買い上げが行われたであろうことを示す次のような記述があるの四 順 治 年
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就 御 銀 御返
鱗 屑 欝 金 奉 行 輿 平 氏 宮 間 親 守安 ー上 重 陳 { 具 型i 謁8
順 治 六 年 、 一六四九年にも薩摩への借錦返済のために当間車陳と古披麓賀親は修金奉行に任命されている ω 酔 叫 町 家 譜だけでなく新参交姓家譜(伊良波家)にもウコン買い上げがおこなわれたであろうことを示す次のような記述がで ( お } て く る 。 自 国 治五
年 戊 子 為 欝 金 奉 行 筆 者 目 欝 金 差 上 子 擁 州 有 利 潤 故X
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褒 賞 賜 米 削 この記事は伊良波長興が順治五年、すなわち一六凹八年欝金奉行準者として修金を口上げ、隊出市へウコンを送り利 潤をあげたので褒賞として米三石を与えられたというものであるの これらの記事は、渡口が言うようなウコン買い上げが融摩のためだけのものではないことを示し、隊僚への市銀返 済のために行われたことを示す史料に他ならない。 では砂備の買い上げはいつから始まるのであろうか c 容姓家譜(普久里家) . . 世宗治には次のような記事があるべ ︿順治﹀九年壬辰為砂糖座大屋子 順 治 九 年 、 一六五二年、与那械筑登之親雲上宗治が砂楠陸大岡崎子になったという記事である‘この記事から砂舶はすくなくとも一六五二年には買上げが始まっていたことになる。 こごで鯵金奉行と砂輔奉行の関係について考えてみたい。﹁琉球国由来記﹂中、砂楠座が管掌する物品として砂楠 { 犯 ) その次にウコンがあげられている。この点から砂糖奉行の職掌の中に欝金が含まれていたと認識できる。したがって 轡金奉行の業務の中に砂糖の買上げが始まった段階で砂糖座・砂結奉行に名称が変更されたといえよう。そうなると 家譜で現在確認できる一番遅い轡金奉行の設置が前述の一六四九年であることから、砂糖座および砂糖奉行の設置、 すなわち砂楢買上げは一六五
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一六五二年の聞に行われたと考えられる。状品的には源武雄や漉口真消が注目した 一 六 五O
年三司官国頭朝季を代表とする返清猶予暁願のための上国(瞳摩行き)使節帰国後の二ハ五一年が最も妥当 ( 鈎 } ではないかと今のところ考えている。二
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ここで、また︻史料 1 ・2
︼、すなわち両家の家諦にたちもどる。①にあるようにウコン買上げの資金として薩摩 考 藩へ支払う米五十石があてられたとある。仲原普忠は薩摩藩への貢米の代りとして薩摩藩に漉される部分が狭義の貢 { 却 } ( 引 叫 } 脳だといい、この貢簡は一八三一年、薩摩藩の調所による財政改革によって始まったという。この定義からするなら 急A"
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一六四七年のウコンロ上げの始まりは﹁貢ウコン﹂とでもいうべきものである。したがって古波麓・当間両氏が 回員 仕上せたウコンは擁摩滞に米五十石以上の価値、銀一二貫目をもたらしたのである。しかし、この利益は渡口がいう 巻 ように薩摩藩の一方的な富の独占だけではなく琉球の借財の減少にも結びついたと考えることができる。なぜならば 前出の一六四五(寛永二二)年二月薩摩藩の家老から疏球王国摂政金武王子・三司官に出された文書には-貢米として 五ー<.
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曲された琉球米の値段が安く、薩滞が﹁指定した銀高﹂にならないので瑞球側の借財とするという論理から考えれ ぱ、貢米の代りとして売りだされたウコンが、薩藩が﹁指定した銀高﹂以上の利益をあげたので琉球側の借財は減少 するということになるからである。この薩藩が﹁指定した銀高﹂が前述の出銀・重出銀・御ム口力銀の合計額と考える こ と が で き よ う 。 したがって、硫球王府によるウコン買上げは﹁貢ウコン﹂として出発したと言える。その後、 { 認 } 臓の買上げH
専売が始まる中で、砂舗と同様、琉球王府が買い、薩摩市渇で売るという専売に転化したのではと推論 { お ) する。その推論の担拠は一六六二年二月三日付、小禄貞任から御物奉行衆・御取次衆に充てられた次の史料である。 一六五一年前後に砂 ︻ 史 料7
︼ 迫る致啓連候、然 s L 此比長崎之左右承候得 S崎、唐ぷ長崎へ商売船参候能、調政御法度被仰付候閥、当年ハ崎 船多参申問敷由、唐人為被申由細々承候、足又疏球之御︿為脱カ﹀へも可罷成 S 仕合ニ存候、併砂梢府国 h b 外高砂又かふちゃしゃもなと、ゆ所ぷ多来申候問、僻辿高直ニハ御座有問敷由出合中候、当分孜々自分之砂 結ハ百斤ニ付廿八九匁売申候、上方之直段三拾二三匁程仕候由風間申候、轡金ハ上方ニゐ五六十め年ニぷ庇 上も可仕由承候、猶文先便ニ申越候菜踊子ハ当分安元ニ奇一石ニ付四五十め仕候由承候、是又為御心得如揃 候、猶期後音之節不能詳候、恐憧譜言 壬二月三日 4 H 陣 貞任 御物奉行衆 御取次衆鹿児島にある端球仮屋の小掃員任が、長崎市場・上方市場などの砂糖・ウコン制均の情報を仕入れ、琉球王府の財 政担当である御物奉行等に報告している状況が読み取れる。砂糖市場価格は唐船減少状況だが、高砂(台湾)やコ l チ、シャム等の砂糖流入により高値を期待できず百斤あたり二十八から二十九匁で琉球の砂糖を鹿児島市場で売った ことや、上方市場では欝金が百斤あたり五
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六十匁、砂輔が三十二i
三匁、菜種が一石当四1
五十匁であると報告し ている。このことから、琉球王府が少しでも高く売れるよう情報を仕入れ、砂楕・ウコンの専売にのりだしている様 子を伺い知ることができる。 三、ウコン・砂輯経営をする地頭層 { 泊 ) では、王府の専売直接、砂糖やウコンを王府は誰から買い上げたのであろうか。次の史料をみていただきたい。 ︻ 史 料8
︼ 党 考 砂精一斤ニ付銭七百文、轡金一斤-一付壱貫弐百文直成ニ被仰出候問、公儀可被売上幌、弥以脇売御禁止ニ候、自然 { 衆 カ ) 相背少々ニても脇売仕候ハヘ到テ地一眠処御沙汰可被成旨、我々ぷ可申渡由候条、暖中堅固ニ可被仰付候、以上 誼 十二月十一日 内 閲 頭 平等側 巻 - 察 カ ︼ 惣地頭処 ( 以 下 略 )じ
J¥ この史料はニハ六七 ( 寛 文 じ ) 年十一円十円、門型王府から九州切の惣地州たちにだされた砂制・ウコンの脇 光、すなわち首盟王府以外のものに売却を禁止する通注文 H 円である。行型
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附の口い取り仙山内は砂制.斤につき七・h
文、ウコン一斤につき一町三百文である c h ハ六九年にだされたM
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悼 の 通 述 ・J A
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に は 行 取 ・ L L 附はこの年砂附.斤につ き八百文、ウコン-斤につき七百文と口い入れ価怖を拠﹂・小している A f品} り、ウコンは五百文の航ドがりである。 J h ハ六七年と比較すると砂舶が行文の航上が -E 岬 V { 訂 ) この貿制を決定したのが J ・ 4 川・げの.人が配附されている御物防であるり次の山人制"をみていただきたい ︻ 史 料9
︼ 一、砂制壱斤ニ付 代錯壱n
百五拾弐文 一、轡金也斤ニ付 代銭古町八拾八文 省当年之砂梢うきんの前段知此相談相済候問、局地頒衆 ι u 吋 彼 山 中 岬 刊 行 也 亥五月十八日 御物陣取次 大川純主上 一六八三年、砂糖一斤につき一貫百瓦ト二文、ウコン一斤につき一R
八 十 八 文 と 、 六六九年に比較すると砂怖 ウコンとも高値で買い入れ価格を決定し、諸地頭に値段を提示している, ちなみにあくる一六八四年、御物鹿取次越来割方が通達した八重山上布 4 疋の値段は銀十八匁五分(銭七十問問 { 話 ) 文)である。換算するとウコン六十八斤で、砂縮六十四斤余で八重山上衛一疋が買える価値ということになる。また ( ぬ } 一 六 八O
年、麦一石が代銭八十貫文、であることから、ウコン・砂備を麦で換算すると、穆金百斤で去が一行一二午六升、砂楯百斤で麦が一石四斗三升七 A 口五勺が買える価値ということになる。 さて、首里王府は地頭建にたいしてウコン・砂輔の買上げ値段を示し、首里王府以外へ売らないようにという通達 を先にみるように出した。ウコン・砂糖以外にも先にみたようにいくつかの価格設定を首里王府は行っているが、ウ コン・砂糖にみるような地頭層限定の価格設定通達は管見の範囲ではみることができない。このことから十ヒ世紀後 半のこの時期、各間切におけるウコン・砂輔の経営は地頭層によって担われていたのではないかと考える。次の毛性 ( 踊 制 } 家譜(伊野波家)の記述をみていただきたい。 ︻ 史 料 叩 } 康照十四年乙卯十一月初五日任平等之側職 康 照 十 年
早
月 日選
監 諸 地 頭 裁 植議
金 甘ぎ
到 於 大 宜 昧 困 顕 久 志 金 武 勝 連 具 志 )11 佃 問。
j 巡 監 之 事己
畢 同 月 十 日 回 此 時普
段 氏 輿 那 械 筑 登之
親 雲上
席 消 白 氏 大 城 筑 登 之 親 骨上
信 邦 也 この記述は真栄里親雲上盛平の記録である。彼は一六八八年、家細目を次ぎ本部間切惣地頭(伊野被親方)となり、 一六九四年には三司官に就任する人物である。前記の資料によると康照十四(一六七五)年平等之側となり、康照十)
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(一六七九)年十二月十日、地頭たちが栽培しているウコンやサトウキビの状況を監察するために大宜昧・国頭・ 考 拾 久志・金武・勝連・具志川、計六間切を巡っている。前出の砂柏やウコンの抜荷禁止の通達を出したのが平等之側で 言 員 あることから、抜荷対策のために各間切を巡ったと思われる。真栄里盛平は六間切のウコン・サトウキビ栽培を監察 巻 して歩いたわけだが、地頭層以外の者の栽培を監察対象にしていない。もし地頭以外の者がウコン・サトウキビを栽 格していたならば、平等之側として間切をめぐる中で抜荷の点検を行ったはずだが、その記述をよみとることはでき 九二
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t 、. 0 仇 U唱 ・
-以上の二点、すなわちウコン・砂踏の王府価絡が地頭たちに限定して通達されていること、持前防止の監察が平等 之側によって、各間切の地頭のウコン・砂街栽培がチェックされていること、これらの引からこの十七世紀後半のウ コン・サトウキビ栽培の経営主体は地頭射であったと私は考える。 その地頭層が各間切でウコンや砂糖の経常をどのように行っていたのであろうか。その一端が示されている﹁諸問 ( 必 ) { 時 制 } 切法式帳﹂次の条項をみてみよう。 ︻ 史 料 日 ︼ 川諸地頭衆萩轡金作立候白之儀、地頗所之品ニる於致不足ハ年目等之儀致熟議論 A H 之上百姓地b
も可是付之 処、百姓費陣相務作毛之畠理不尽奪取、萩掛郡金制付候故、百姓月次之飯米考相違仕致迷惑由候問、以米れ体 之仕方堅致禁止、雌照三十一- m
年ぷ巾波間候、弥古通被制心得時迎犯之お於有之 s h H十 迎 可 致 披 露 市 下 間砂蹄惨金百掛川.応頭・両被作立候砂鮪急百姓壱人ニ付問斤六始日、惨金ハ弐斤三的日ツ¥惣地傾脇地師自分峻 之村必可為此員数、惣地頗間切中b
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お之半分可為、尤用品y z η
御 免 之 方 ハ , 川 品 別 条 市 下ω
右砂踏焼持償金作立候遣犬適有之、百姓迷惑仕山風間ニ付日符遺制定抗侃処、問、不憲法目泊H
晶 向 有 之 山 去 年申出候依、地頒衆致懸引候仰ハ‘人夫余多目沼健無人数ニゐド知述結油断ケ川崎帆布之ニ付、間切砂側冒r
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-間迄ニ奇日例為相立問方然有之山由叩出幌、お通令油断不均ニる日散取候儀ゑ還る. h
仙 川 ぬ ニ 決 憎 成 問 仙 紙 候 問 、 向後夫上中下見合諸法日例可申付幌、尤憲法制定問候るも下知.必般傾向ハ仕晩品向 J 円 台 付 之 候 、 仕 践 辿 次 日 迄 ぬ 仕取候償ハ不成合儀幌、乍此上次日迄山中付候ハ、致地頭民沙汰山中波候問、係数見聞可中山川幌市 F川からは次のようなことがわかる。地頭が経醤している砂騎とウコン畑は地頭所の畑で行われ不足の場合には年目 等の処理の仕方について地域と相談の上で百姓地にも地頭のサトウキビやウコンを植え付けることが許されてきた。 ところが百姓が丹精をとめた畑を奪取、地頭がサトウキビやウコンを植え付けたため百姓は毎日の食にも事欠く状況 だから、康照三十 (一六九二)年から﹁右体之仕方﹂を禁止したという。 とこで問題になるのは﹁右体之仕方﹂とは何を指すかである。すなおに読めば百姓耕作地の奪取禁止である。とこ
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ろが、安次富松蔵、金城功氏、私も百姓地における地頭のサトウキビ・ウコン栽培の禁止と読んできた。しかし、次 の聞とあわせて読むと百姓耕作地の奪取禁止と読むほうが妥当であるように思う。 そこで仰を読んでみると次のようなことがわかる。惣地頭や脇地頭が差配している村にたいして、百姓一人に砂糖 四斤六十匁、ウコン二斤三十匁づっ栽培させることができる。惣地頭は間切全体にたいして、百姓一人に砂鞘二斤三 十匁、ウコン一斤十五匁づっ栽培させる乙とができる。この人口割の栽培額以外は特別許可制とする。村や間切の人 教によって地頭が栽培する砂輔の鼠 H 栽培面積を限定しようというものである。例えば本部間切謝花村の﹁頭数﹂は ( 必 ) 一 六 九O
年﹁評定所余識﹂によると一七六人いる。この村の地頭は砂縮を約八百斤、ウコンを約四百斤の製品を栽培 (M 咽 } できる畑面積に制限されたことになる。この割当量では地頭地の中で十分賄える栽培両横となる。したがって、この J写-ω
の制限があるために百姓地を奪取し、地頭が砂糖やウコンを植える意味がなくなったと考える。 , 諭 次 にω
からは次のようなことがわかる。砂糖やウコンの製品化にともなう労働力の徴収(遺夫) の仕方が焦点に 日 貨 なっている。王府では砂脂やウコンの製品化労働を丸一日労働(日韓遣)と定めたのだが、法を守らない地頭がいる 巻 という訴えがあった。そ乙で地頭たちに聞いたところ、製品化には多くの労働力が必要で、状品によって人散を限定 しなければ指導が徹底せず製品の質が落ちる(油断ケ問敷) ので、砂糖当という役職を設け、砂梢当が毎日の壁と段取り(日例)を決めて製品化している地頭もいると申しでてきた。この地頭たちのす口い分に王府は触発され、今後、 労 働 力 ( 夫 ) の上中下を考え、法による毎日の量と段取り(日例)を決めて製品化しなさいと定めた。但し書きが付 いていて法による段取りで製品化しても地頭による下知が悪ければ材料が残り、残った材料を翌日に使って製品化し ても製品の質は落ちる、今後翌日の製品化が行われたならば地頭を罰するから各自見聞きしたことを報告するように と王府は通達した。この川の規定は鹿児島市場で製品を売る首里王府にとって、商品の質を左右する問題であり、そ の商品の質は王府への売り手である地頭の責任であることを明瞭にしたものと言える。 以上のことから 一六九七年﹁諸問切法式帳﹂以前の地頭層による砂鮪・ウコン経営は次のようになされていたと い え よ う 。 一、地頭たちはサトウキビやウコンを地頭地で栽絡し、状況によっては地頗地のみならず百姓地でも栽焔してい た 。 二、砂糖やウコンの製品化は地頭層の下知によって、地域(閥切もしくは村) の労働力(迫夫}が使役された。 二一、王府はウコンや砂糖の製品化における労働力(遺夫)投与の仕方を丸一日労働(日持追)と定めたが、毎日の 量と段取り(日例)を決めて製品化している地頭もいた。 ま た 、 ( 幻 } 一六九七年﹁諸問切法式帳﹂以後は、地頭たちへのサトウキビ・ウコンの生産量制限が行われ、製品化過程 においては毎日の量と段取りキ﹄決めて製品化しなさいという日例制を定めたのである。
四、王府財政にしめる砂糖・ウコンの位置
王府専売は王府財政の中にどのように位慣づけられたのであろうか。 ﹁御財制﹂中から、ウコンと砂騎の売り上げに関する部分をみてみよう。 ︻ 史 料 ロ ︼ 議士御免高給む万斤諸問切御割懸高七給万斤 一砂描八措七高斤 内 四百八斤成合六勺五才 壱万五千六百八拾五斤九合九勺 御料理座大壁所御用 御奉行方弁諸士所望 五 千 弐 百 八 措 斤 下 砂 踏 ニ 成 大仰紛 S 仕 上 級 砂 拙 間 五 絵 四 万 千 九 給 斤 六 A H 七 勺 三 才 給 弐 万 七 千 五 百 参 拾 五 斤 七 勺 弐 才 運 貿 〆拾四万八千九百九斤三合二勺七才 残る七措弐万千九拾斤六人口七勺三才 百斤付三拾五匁直段 代銀弐百五拾弐民三百八拾壱匁七分三雌五毛五締五才 内 考 高 面 拾八万斤 H員 五姶四万千九拾斤六合七勺三才 巻 一 、 轡 金 一 二 万 斤 代銀拾七貝四百日 春先船ぷ仕上世 大和船ぷ仕上世 一 七 二
0
年代の王府財政の状品がわかる二 凹 百斤ニ付五拾八匁庇段 諸士御免高、すなわち地.曲たちが王府に売った砂踏は十七万斤、諸問切が王府に売った砂糖は七十万斤、合わせて 八十七万斤、その中から、運賃約十-一万斤、那覇駐在の薩摩役人が所望した分一万五千斤余等を差し引くと約七十二 万斤、鹿児島市場で百斤につき三十五匁で売り、代銀は二百五十二貫余となった。 ( 仰 } 一方、ウコンは三万斤、誰が売ったのかは不明である。そして砂臓と異なり週刊誌すの若し引きもなくて一万斤を、一
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斤につき五十八匁で売り、代銀は十七貫余となった。 { 印 ) 次に王府はいくらでウコンや砂臓を買い取ったのであろうか。再度﹁御財制﹂からその部分をみてみよう。 ︻ 巾 九 割 何 回 ︼ 一、銀子百四拾貫目 諸問切砂鮪代梯 百斤ニ付弐始日直段 一、銀子三拾三貫七百五拾目七分八厘 諸士砂糖. b
斤ニ付拾九匁八分五回三毛凹綿抗段 て同拾貫三百三匁六分三原弐毛 諸士惨金代捕 百斤ニ付三拾問匁一二分凹版五毛凹締凹才庇段 諸問切が売った七十万斤の砂鮪に対して、銀百四十買、百斤あたり銀二十匁で王山川は買い、諸士、地蝋肘が出した 十七万斤の砂騎に対しては、銀三十三貫余、百斤あたり銀二十匁弱で買い取っているの諸士に対しての方が苦F
で は { 日 ) あるが買い取り価格が低い。王府の利益は売り上げ二百五十 a 一円余から、諸問切・諸士分、諸経刊をさしひくと銀約 ( 臼 } 七十二貫となる。王府が買い入れた全ての砂舶を百斤あたり銀三十五匁で売ったとして、利益準は約・一間%というこ と に な る 。一方ウコンの方は︻史料日︼、﹁御財制﹂銀の支払いの.項目で売り主が明らかになった。すなわち三万斤の全てのウ コンは、縮士が王府に売ったものである。王府は三万斤を銀十円余、百斤あたり銀一二十四匁余で買い取っている。-土 府の利益は王府の売り上げ十七悶余から買上げ鼠と週貨を差し引くと約五、六町であるの王府の利鈴事は約三二%と い う こ と に な る 。 以 上 の こ と か ら 、 一 七 二
0
年代における王附のウコン・砂鮪商先にかんして次のようなことがいえるように思う刊 ウコンに閲しては、諸士すなわち先述の﹁諸問切法式帳﹂の記述からその多くは地順肘が、独占的にウコンを灯明 王府に売っていた。この地踊層が独占的に王府へウコンを発るという状況は﹁品川切法式服﹂以前も同憾であったと 思 わ れ る 。 一方、砂臓に聞しては一六九じ年の﹁諸問切法式帳﹂以後、地頭肘への砂梢生版制限により、地踊肘の独 占的砂糖生鹿は終府をつげ、間切でも砂梢裁絡が始まり、その後砂臓の生厳尚が多くなるにつれて間切の比市が向 まったものと思われる。ウコンにおいて﹁諸問切法式帳﹂以後地頭肘の独自体制が刷れなかったのは、ウコンの総生 産量が砂摘に比して緩めて小さかったためと忽定している。 { 幻 ) その後、ウコンにおいて也、間切が王府へ売るという状況に至ったであろうことは次の史料から推測できる。 ︻ 史 料M
︼ : > I j ・ 一砂糖之儀、大切成御捕物にあ、荻手入方何分仕候段、前醗首尾書是出候上.救毎々改見分働之普感致差引、 品 歯 尤焼入之問随分取締を以、位丈夫に規取候様厳密に山中波、十月見立井焼出之日賦書差出させ幌市下。H
員 附、御免高引入候節は、見立書にお中行端書可仕候、尤八月見立同断。 巻 一 m g 金作立之間切/¥、前条同断致差引候事。二
五
,
、
この史料は、附地帯行の油述を臨めて.八心九年に制処した﹁川地が行川崎山開帳﹂にみる砂齢制・償金に附する . . 条刷 である。紘哨と商品化の符聞とその縦白川を明ボしている条刷で必る ウコンの条刷では﹁ m p 金作U .
之間切/¥﹂と いうように地踊刷ではなく間切に此任をれわせている,五、ウコンと龍摩藩財政政革
一 八 一 一 一O
年、間刷所広郷によって雌僚滞の改郁がはじまるーこの政情によ 7 て、砂怖の.却は年以・・f
八. h
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の検 4 U ) りとして七十五万斤(同制)が隊服部に送られるようになすたではウコンはどうな 7 たのであろうか.次の史料を ( お } みていただきたい。 ︻ 史 料 日 ︼ @ 然 ・ 忠 一 般 金 之 儀 、 前 t ゑ勝手次第致売払米候処 三位様御内沙汰被為 在、嘉康弐拾亥年右近殿仰渡之御書付、田畑武白術門殿御添書を以被仰越、日比以前ニえ御内沙汰之御盤窓、山引⋮ 田高右衛門殿より坂元.力兵衛殿琉球館書役勤之剛承知仕趣決“之、年 - t -力 斤 宛 百 斤 -一 拾 円 丈 よ り 拾 ・ 九 民 主 迄 、 年限を以値成相究御物御買上之儀御諦中上置候処、終ニ松村係兵衛b
支配被仰付、其時孫兵衛 L 入販表江差雄、銀 A 7 7 } 主方致相談、値成之儀ゑ七貫文より九貫五百拾五貫文迄段老年限相在、値究を以御諦可仕巳日、大板銀主値付之諦 合、証文取添御物b
申出、又候典膳殿より万兵衛殿を以無御拠訳る被仰越趣有之、は取初之値究及制連悦得共、御断難成御調申上、其通孫兵衛
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売出、其後唐物方御計相成、御用聞山田彦左衛門b
支配被仰付候否決、右年限値 究通拾五貫文値成ニ売出来候処、 @道光五酉年上方表追ミ捌立候勢相成候由ニる、彦左衛門より唐物方必願出趣有之、同年より拾ヶ年以前之通彦左 衛門b
支配被仰付、穆金決今壱万斤作重被仰渡、是又御前申上、尤彦左衛門支配付るゑ年ミ御礼金四百両宛上納 有之候処、酉年より四百両相重、布壱万斤作重相成候ハ、猶又弐百両刷車、都合御礼金千両宛年ミ上納仕度旨、 彦左衛門唐物方b
願出有之、欝金値成之儀ゑ此方ニ品同時宜より値上之一筋を戎見込、以前より時ミ仰渡通御諦中 上来事候付、右通上方表捌立候勢相成、御礼金泳段ミ舟願有之候上 S師、館内売出値成浅いつれ相場ニ応し値上可 致込当然之儀ニ毒、彦左衛門ニゑ館内用聞を茂兼相勤居候付、館内b
召寄、値上之儀相々令示談、翌戊年より一 往百斤ニ弐拾弐貫文ニ致値上申請度旨申出有之、右之趣を以唐物方b
及再度値上願中上、亥年より先三ヶ年担為 御試願週値増被仰付、上品之欝金四万斤積属、取締等行届候様被仰渡慣候処、存外其後上方表屯惨金及過分、支 配人共諦取方致難渋、 @同八子年以来多分之斤数館内b
聞置、同十寅年ニ s L 又ミ彦左衛門唐物方b
願出有之候奇、年々売出欝金三万斤ニ 被召減、御礼金四百両、館内値段決拾五質文ニ被白下、其上翌卯年館内囲之欝金凡八万三千五百斤余捨りニ被仰 考 付 左 候 奇 琉 欝 金 万 斤 程 槙護
様?
置需
共 永 良 剖i 島 轡 金 過 分 積 登 抜 荷 取 A 』乙 候 故 を 以 上 方重
段 致 論 下落、国産不詮立候付、沖永良部品其外島ミ穆金作職御差止メ被仰付、琉疎之儀筏両三年ゑ弐万斤位作立候様被 頭 仰付置候処、同十四午年ニ至り、琉球轡金之儀、山田彦左衛門外壱人台支配被仰付慣候得共、右支配御取掛ニあ 巻 以来唐物方御計被仰付候段被仰渡(後略)、 二 七八 @にみるように、ぞれまで鹿児島市場で自由に売っていたウコンは.八-瓦(高段-一十)年、一二校総すなわち藩
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島津重棄の﹁御内沙汰﹂によって松村孫兵衛に独占的に売らざるをえなくなった τ その舶はウコンゴ一万斤、値段は百 斤につき十買から十五貫で王府は合意したつもりであったが、松村は大槻へでかけ百斤につきt
貫から九、五一五円 H で値段をまとめてきたので王府は仕方なく合意した。その後ウコン関係は隣府中藩府物方支配に移り、独占商人る御用 岡山田彦左衛門に替わり、値段も百斤につき十五貫文となった。 ついで、@にみるように一八二五(道光五)年、上方のウコン市渇が勢いづいたのをみた山田彦左衛門は今後十年 納 し 、 の独占的販売と一万斤増額を唐物方に申し出た。それまでの独占的販売で山田彦左衛門は御礼金四百耐を降摩滞に上 一万斤の噌額で二百両、計千両の御礼金上納を約束した。 一八二五年の再任でさらに四百両、 一万、琉球側も 御用聞として鹿児島琉旅館に出入りもしている山田彦左衛門を呼び寄せ一八二六年から百斤につき二十二貫への値ト. げ を 協 議 し 、 一八二七年から試しに三カ年担値上げしてみることで唐物方と話しがつき、上品の欝金四万斤を組んで くることになった。ところが@にみるように、 一八二八年からウコンの在庫が鹿児向琉球館に貯りはじめ、 J't、
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年には山田彦左衛門は以前の通りウコンを一二万庁、御礼金も凹百両、買い取り価指も百斤につき十五円に民すことを 願いでた。ところが一八二九年には鹿児島硫球館の在席八万三千五百斤余を拾て新ウコンを琉球からきし上させた が、沖永良部ウコンを肱荷とする企てにより、上方市場のウコンの値段が暴落した。このことは﹁同時一﹂すなわち隙 摩藩専売の意味が無くなってしまうので、沖永良部その他の島内でのウコン栽培を禁止し、仕上せウコンも二万斤に 減 少 さ せ 、 一八三四年には山田彦左衛門の独占販売から唐物方直接支配へ移行した。 ここまでが調所の財政改革直前までの状況である。 一八一五年それまで鹿児島市場で向山にウコンを販売していた 疏球王府は、鹿児島藩主島津重豪によって、 一鹿児島商人に売らざるを得なくなったのである。陣原滞側はこの商人から四百両の御礼金を上納させていたのである。ところが調所の財政改革によってその経営は一商人から、唐物方支 { 弱 ) 配すなわち薩摩藩の直醤に移行するのである。次の史料をみていただきたい。 ︻ 史 料 時 } 一、疏球欝金之儀者、齢園に類品も無之一種にて格別成御産物之事ニ御座候底、先年来度々御仕向も被相替候得 共、其詮も無之、右者畢覚抜荷過分に有之、上方表直段下落仕居候揮に御座候付、御改革以来沖永良部島井 三島其他島々地方之出産迄も無残掘捨、琉球に限り地面相極究植付方申渡、猶亦製法方之儀も入念為取計、 左候而抜荷取締向之儀朱粉同様蹴重に取計、於京、大坂も段々抜口取締候属、追々直成開立、猶亦去る巾 年、京、大坂御挽口之儀共相改、萱斤拾五匁に直成相立、夫より官分造押通御賀捌相成来候曜、一昨年頃よ り抜口全差塞、勿論京、大坂商人共貯へ置候品也捕底にをよび、捌高格別相増被問問候、数万斤之屯も無多 事罷成申候問、苗冬琉球江作増之儀迄も申越候時宜に成立、以来者年々三商斤宛差萱候仕向に治定仕置候、 然者御改革以後御摘之銀高左之通。 て 穆 金 量 商 斤 代銀百貫目 ( 7 マ ) 但堂斤に付拾匁井 一 、 同 九高斤 但霊斤に付拾五匁宛 代 銀 千 金 百
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戒}貫 商 目 四 千 百 拾 両 考 合銀千四百五拾貫目 論 E員 張 紙 巻 欝金三商斤 但萱斤に付拾五匁宛 A 7 7 } 金に〆七千五百両 代銀四百五十貫目 右者以来年々御挽商右之通治定仕置申候 二 九二
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改革以前は、先にのべたように抜荷のためウコンの値段が暴落している状況があった。この状況に対して調所は、 ①沖永良部、大崎、喜界島、徳之嶋の三島、その他の島々、地方に産するウコンを全て堀り捨てた。①ウコンは琉球 の内、局所を決めて植え付けさせた。③製品化も丁慌'に行わせ、①抜荷の取締まりを厳重に行ない、京大縦でも取締 まりを行った。以上の政策によりウコンの値段が回制限し一八一二六年には J 斤につき十五匁になり、 . ・ ‘ 、 ↓ J a L F r d Z 全 氏 一 , J 一 一 . , , 2 2・
' ' f ' t ' 大械では抜荷が全く流通しなくなり、上方向人が貯えていたウコンも無くなり、需要がm
ぇ、数万斤あった在附もほ とんどなくなり、以後毎年三万斤を疏球は鹿児島へ差上すことになった。この改郁以後のウコンの U 刈り上げ制は銀千 四百五十貫目(金二万四二ハ六両)と記されている。この鮪は百斤換算すると百斤に鋭千匁もしくは千五百匁という 値段である。東恩納寛悼は﹁御財制﹂に記されている疏球側が鹿児向市川崎で売った百斤で五十八匁と比較して餅僚側 の二十倍の繰利、独占事業による搾取だと言っている。仲原普忠は﹁御附制﹂は厳峨部の財政改革の時期のものでは ないと東恩納寛悼の見解を否定し、﹁近世地方経済史料﹄描十巻にある琉旅館の予算写し所収の百斤めたり“. h
十匁 ( 向 調 } を桜拠に、隣摩藩は脱価の十倍で大阪で眠完していたという。では仲原が蝦拠にした史料をみてみょうゆ ︻ 史 料 口 ︼ 一僻金三孤斤 百斤に付百五拾メづ、 代 j~ 口 u一
, a・ ・
文政十亥同十一子両年は、百斤に付瓜百戒十(欠}にて候処、比以米山ド制成、白山成にて支配人へ 相 波 候 也 。{ 飢 } この史料は文末から一八三四(天保五)年のものと推定できる。仲原の一一一員う通り百斤あたり百五十匁と鹿児島での 売り値が記されている。︻史料口︼の但し書きに、 十匁で支配人に売り渡している。支配人はすなわち前述の山田彦左衛門と想定できる。 一八二七・一八二八(文政十・十一)年には百斤につき銀・ 4 百 二 仲原が言うように擁摩藩は原価の十倍で販売したといえるかどうかはわからない。前述の︻史料時}では値段が好 転しウコン一斤が銀十五匁となるのは子年すなわち一八三六年からである。しかし、徹底した抜荷対策による磁摩藩 側のウコン価縞上昇政策は成功し、 一八三九年には、仲原が根拠にした一八三四年に館摩藩に摘みのぼったウコンを 含む数万斤の在庫も高価格で売れたという意味では妥当かもしれない。 では、百斤が銀千五百匁という上方売出し価格は事実なのであろうか。ちなみに一七八九年の大級における﹁仲買 { 飽 } 代六十三匁五分﹂とある。この価絡は百斤につき銀約五十匁 方 薬 組 直 段 曾 ﹂ に は ﹁ 一 一 穆 金 額 百廿七斤 五分ニ付 となる。大坂薬種商人が随暗部から買い取り、 一定の利益を見込んだ値段がこの価格である。値段の高下はあるとし ても、だれしも五十年後三十倍以上という数字に疑義を倒かざるをえない。ここに一八五五年正月鹿児島瑞球館端手 納親方から摂政三司官に送った文書でウコン専売を産物方支配から脱し独自に経営をしたいという内容の資料があ J j ト る。その中にウコンの値段上方、特に京の染め物躍での調査を﹁綴内分﹂で仔った柿本彦左衛門の報告書が入ってい る。その報告書の中にはこの間閣の時期の航段が記されている。その部分をみていただきたい。 ~ 姐 ︻ 史 料 凶 ︼ 地
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﹁ 取 ﹂ 先年庇段下落之瑚込時節ニ帯庇段尚下 s h 可有之宮候仰共、大取去支配人共崎球般金ニ利併合.山父へ脱出叫之胤聞均釘 之由ニー司、京都染極共相附不山叩候付下落ニ相成候由、たより御物御此ニ相成御調へ方行刷、斤い品一御減少ニ奇御前払制成中候処、迫ミ前段制進ミ始ヶ年以来古斤ニ付拾丘・六匁迄之
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料 ニ 制 成 、 ボ の 染 め 物 以 前 制 限 で は 、 一 八 ・ J 九年のウコンの録部を域防伸併合.に利惨金が交じっているという哨がたち‘ h 以の染め 物 M m が口わなくなったのが回附だとし、それに対して、降服部は御物(すなわち抜荷をとりしまり品開作聞をしたウ コ ン ) だけを しかも出向鼠を減らしたので、制段がい H 川鵬し十年以前は.斤につきトhi
十六匁 すなわち訂斤に下 日 比 百1
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ハド日匁の白川純だったという。以上のことから.八問五年以前は二斤につき卜・k
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ハ 匁 の 尚 航 で あ っ た と い ・ づ ことが明らかになった。これらのことから仲脱が・川うように隊峨滞は捕球からのウコン口い取り制約の十怖の利能を おさめていたということができる ι ただし、その利絡は独占的にウコン市川崎をぶれできるという他聞を利川した隣席 滞側の価柿ひきあげ政策によるものであった点をみのがすことはできないれ この高値のウコンは長崎の府ウコン入仰によって、疏椋ウコンの在怖がm
えはじめ.斤につきト匁、すなわ { 似 } ち百斤に千匁へと値下がりが始まった。柿本彦左衛門は絹代報告の山中で‘訂斤に七.白- h
ト 匁 の 師 約 な ら ば い 以 の 山 K M m は d a ・ ' ' 一 J J 府ウコンをやめ崎球ウコンにするという確約を向、縫物方支配から脱し、疏成主附が前線官官口したならば金千六. h
八 ( 箇 v 十一両日銀百十四貫余の利益を仰るであろうという見 M m n を舵出しているしもちろんここまで柿本段々衛門が制打力す るのは、かつての山田彦左衛門と同じくウコンを独占的に被いたかったからであることはパうまでもない ω六、産物方支配下の欝金生産
前述してきたように薩摩藩はウコンから賀大な利益を得た。そのうらづけは徹底した持前対策、数日閣制、H m n
特理にあった。先述した︻史料日︼にみるように﹁疏成に限り地面相極究納付
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中班、踊亦製法庁之備も人念均取山川﹂ と薩闘中部は疏球の内揖所会﹄決めて楠え付けさせ、製品化も.
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に行わせ品質を・両校なものにすることをゼ上命題とし て い た 。 この仕事を担当していたのが唐物方、 一八四四年以後は産物方である。盟見山利行氏の研究によると山刷物H
・ 産 物 方は、横目、附役、足軽など四i
七名から構成され、琉球側にもそれと対応する産物方掛(盛物御用掛)と必物方策 A“
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者が置かれていた。従ってウコンの栽摘と管理は陣原藩産物方の骨煙下に置かれたのである。以下の史料を見ていた ( 四 町 } だ き た い 。 ︻ 史 料 問 ︼ 夫弐拾四人 琉域産物方見聞役{織目) 野元一納右衛門 御問問 小川市兵衛 考 ト 染川周右衛門N
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右者来ル九日早天出立、北谷道人説谷山一術ニ毒、同踊間切斤思納間切品所必償金制収制御として被恭越 頒 候条、例年之通夫手当然滞可被山中波候。此旨巾述候。以上。 巻。
日
織物H
正 月 六 日 親見世I
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一八五五年正月、廃物方から郎新の純見開に山川されたた位動U
の史料である F 点陀物万の附日で、日間内野川.納ト日 衛門、出入りの商人H
御用聞小川市兵衛と染川附釘衛門が、ウコン収砲に屯ち会-つために凶,曲および恩納間切へでか けている状況を示す史料であるむ ただし、産物方の他人が山原にでかけたのはウコンの収時に収ち会うためだけではなかったと忠われる F 制 d をみていただきたい‘ 次の史料 ︻ 史 料 却 ︼ 嗣 峨 取 前 滞 日 / ¥ 同 庁 川 崎 所 見 合 、 間 需 似 M m 制 凋 帥 m M 也 方 制 消 忠 之 川 、 附 役 々 日 . 似 品 込 山 脈 巾 品 MH 綿、日付々山氷山 /¥J 入 行 以々山中氏外騒肋刷所は不断れほ組制改、抑も級必然之保町吋致取締悦リ ウコン収随佐川に九港や適当な川崎所に間需似附を作りM
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伐航悦を続け.村、家、制、山中、院わしいところは所情 わ ず 調 査 し 、 仙 情 的 側 対 策 を. h
全にするように間切符人に折 . . 小している史料であるー したがサて 品川物万世人は抜前対策 体制をも点検していたと々えられる。 このように慌物方がウコン収臨時に0 .
ち会・つために川州地域へ出かけている史料は符M
の範附では.八問七年から.-m
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れ ) 八五九年まで確川崎することができ、.八六O
年からは姿を消す R すなわち.八μ
六年以米統けてきたウコン・紙花を 度物方支配から外したいという闘いは.八五九年 { 拘 ) あ る 。 隊 陣 中 滞 ト 仁 に よ す て 鹿 児 ・ 川 崎 山 仲 仙 川 で 前 持 必 る こ と が 内 川 吋 さ れ た の で七、夫役(強制労働)によるウコン栽培
調所は先にみたようにウコンの専売地域を琉球の特定地域に限定し栽培することを求めた。その地域が同一肌地域 であることは産物方の役人がウコン収郡管理のために国頭地域へ出張していることからも明瞭である。その国頭九間 切の肉、ウコンが栽培されたのは恩納・名誕・羽地・大宜味・国頭・久志の六ケ間切であることが次の一八四八年の { 史 料 剖 ︼ か ら わ か る 。 ﹁琉涼処分﹂時期に作られたと考えられる﹁事々肱脅﹂によると各六ヶ間切のウコン割当制 は次のとおりである。思納間切が五千二百九十五斤、名諮問切が二千五百五斤、羽地問切が八千二百五斤、大宜味問 A 柑 m v 切が七千五庁、回顧問切が四千五百斤、久志間切が二千四百九十斤、合計三万斤である。国頭方の残り一二川一切金武・ { 符 } 今帰仁・本部間切と伊江島は﹁琉謙一件帳﹂によると砂蹄上納を指定された間切である。﹁瑞球一一件帳﹂が一八二九 ( 河 } 年から一八三五年の聞に作成された文書と想定されることから、調所の改革以後はまちがいなく砂樹上納間切とウコ ン上納間切に分けられたと考えることができよう。調所の改革以前については管見の範囲では不明ではあるが‘国頭 地域のウコン栽培六間切にはウコン栽培が盛んであったとは推定できよう。 ︻ 史 料 引 ︼ 考 園 田 金 之 備 a h 国頭方九ケ間切之内、思納・名施・羽地・大宜味・国頭・久志六ケ間切b
作立有之候処、余之作職 論 相替、土地を撰描付両三年越敷替等仕候上、手入・製法別る六ケ般有之、且遠方之所、納方漁船便那覇b
楠E
員 越、子方・位之調部彼是日数相懸、且兼奇団地方役々差越作敢取締、出来高見立堀取候節 S副産物方横目衆始同 巻 心・御用聞、此方より決轡金懸弁重奇団地方役ミを法右六ケ間切江手配ニる差越、諸事取締被仰付、就るゑ多 人数往還人夫出方等ニ至り、百姓共手隙之費及過分l
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この史料によると、ウコンの栽培は上地を選択して楠え付け、﹂;一二年・でウコン裁崎地を符え、手入れやウコン商 品作りはとても難しい上に、同副地域という迫い所で納入も船艇で郎鞠へ迎送せねばならず、位煤やu m m
削 例 代 に 時 間 がかかり、田地方の役人がウコン畑を取締まり、収稽時には綴摩藩産物方の繊日・同心・御用聞や川地方の役人が分 担して恩納・名識・羽地・大宜味・国頭・久志六ケ間切のウコン畑に派遣され管理する c この時の性砲の人夫負担も ばかにできない、とある。 A 叩 印 } では、ウコンはどのような形で純情されたのであろうか。労働力投ドのほがわかる次の史料をみてみよう、 ︻ 山 人 科m
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金敷地、惣坪高四千十一坪七厘二毛にて 百坪に新打四人っ、倒、 一夫百六十人四分間傾 お同二度打百坪に、三人っ、 ↓ d 叫 町 ・ 4 1 a 句 4 4 ' ド E -R、
. a . t 巾 7 -4 . ," t t t " " r, , •• 一 l i l l -A , , , d l J ・ 牛 臥 目 別 F 右向型持越犬百坪に、十五人つ注 . 同 六 百 一 人 六 分 六 凶 作 . 右岡植付夫百坪に、五人っ、 一同二百人五分五厘 右同押カヤ苅取夫百坪に、二十五人つ% 一同千二人七分六 M m 右岡山恕問カヤフシ苅取夫百坪に、百三十五人っ、 J 同 五 千 十 : ・ 人 八 分 間 M m 右岡垣仕合夫百坪に、十人ッ、J
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一 人 一 分 右同一度草取夫百坪に、三人つ注 一 同 百 二 十 人 一 二 分 三 傾) j ' ・ s愉
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巻 右同二皮革取夫右岡 一同百二十人三分三胆 右同堀取夫百坪に、二十五人 一同千二人七分六厩 右同生轡金御免高二前六千四百七十五斤にて、 一 鍋 に 五 十 斤 っ 、 五百二十九鍋半、煮方持符ト小柚取夫寵て 一 鍋 に 一 人 っ 、 一同五百二十九人五分 右岡斤にして五千二百九十五斤、指夫一人に付十八斤つ h 一 同 二 百 九 十 四 人 一 分 六 一 理 右同番所b
納方の時百斤に、二人っ‘ 一同百五人九分 右岡地船へ積入二百斤に、笠人っ、 一同二十六人四分八厘 〆九千七百人一分四座 一人に付、二貫文つ h 賃銭銅銭一万九千四百貫二百八十文 御免高干欝金五千二百九十五斤、百斤に付二重能皮謹二枚宛にて、百五枚九分にて拾五貫文つ為 二十九貫七百五十文 右岡地船より那覇b
制運賃百斤に、五質文つ三 一同二百六十四民七百五十文 右岡積船より波地の前津口迄、石伝聞二胞にて一般に貨銭十質文つ三 一同二十目文 右同滞日より御蔵迄持貨百斤に、 一貫五百文つ三 一同七十九円四百二十五文 右同御蔵の前にて百斤荷造りの時日用賀百斤に一二口文つ注。 Addq4 ・ 3 ・ ' ・ -4 , 、 、 , E a 、 , 、 、 . ・ 5 ・ ・ ・ ・ ・ ﹄ , 、 一 仁 H P 3 t T I -J F ' J F l,
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. E , 布岡上納済用としてさぱくり一入、文子一人郎刷へ槌賛の時、大・凶日散け日。 同五十n
文 お同さぱくり供夫一日に二人つ¥文子同一日に一人っ、にて〆夫六十人にて、 一 人 に 口 銭 ・J n
文 つ 、 一同百二十買文 一 銅 銭 五 百 七二 八 〆一千二百二十二貫七百七ト五文 成年償金掘取の時、諸雑貨として仕払帳表鵡品物代 一同四百五拾時二百三十八文 右岡夫三百三十八人八分一厘にて、 一人に賃銭二口文つ三 一同六百七拾七貫六百二拾文 〆千百二十七貫九百五十四文 合銅銭二万千七百五十一貫九文 右肩四本行之通、諸雑貨取立御座候、此段首尾中上幌、以上。 亥正月(明治八年乙亥) ( 光 紺 一 死 年 亥 正 月 思 納 間 切 日 記 ) この史料は、すでに多和田真淳が﹁鯵金考﹂、仲原普忠が﹁ウコン往来﹂の中で紹介している。多和田はこの史料 から﹁各間切にどれ程作らしたかまた地棒、植付、収糖、ウコン製法、部減(ぷべり)の諸功程並に経費など﹂は明 らかであり、﹁ウコンは各間切に割当てて栽培させたこと各間切は各村々(いまの各村々)へ、各村々は家々へ削湖 A 剖 } に割り当てたことが分る﹂という。しかしながら、この史料は恩納間切日記であり各間切へのウコン制吋て尚はわか らない。また同史料から村々や家々へ割当たこともわからない。仲服務忠は次のようにいう。﹁この記録は、思納間 切のウコン裁縫の﹃原価計算﹄と見られる。四千十一坪の土地を打起すことにはじまり、納付、刈入、乾燥、包装、 運搬に至るまでの人員、貿銭を計算してある﹂とし、この史料にみる﹁ような原価計第により納入されていたなら、 { 創 ) ウコン作りは、百姓にとっても魅力ある仕事であったかもしれない﹂という。
仲服務忠が思納間切のウコン栽培の﹁原価計第﹂というこの史料を丁寧に読んでみよう u ウコンの敷地、すなわち絞培面積は四千十一坪七版二毛である。この面倒から生ウコン . . 万六千問百七十
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斤がと れるという試算である。この生ウコンを子ウコンに加工すると五千二百九十五斤になる。生ウコン、.トウコンともに 御免高と記般されている。この翻が王府が思納間切に割り当てた公定生産祉ということになる 3 この湘 ψ1H 式は砂制 A m -生産間切でも同様であったと考えられる。 { 幻 } ちなみに同時間疏球より輸出した物品の中にウコン問万- h
千斤を見いだすことができる 3 このウコンは・十ウコンと ( 制 } 考えられ、回一則六間切の御免高に、砂帽で司えば焼過簡にあたる御免耐を越えて生燃したウコンを加えたばと山われ る。ウコン四万五千斤の価柿は一斤につき一n
九 十 凹 文 、 日本川にして約九百八卜・h
川 で 、 九 れ 四万九千三 a h H -十円 輸出制の0
・四%に過ぎなかった c この時点でウコンは利能を生み出す商品ではなくなっていたことがわかるリ さて恩納間切の史料に民る。干ウコン五千二百九十五斤を郎輔の御蔵に収納するまでの続四として約・・HF
七訂円 文が計上されている。この約二万千七百円 H 文は夫約一万八百余人に相当する。疏球王府は思納川切に対して一定の夫 A M回 } 役を負荷する椀利を保持している。その夫役が王府の予算上では践で計上されている。もし川上された犬役が執行さ { 回 開 } れなかったならば、間切は践を納めなければならないことになる。なお先向では殺物で納めている。したがって、思 考 ・ 納間切のこの史料はウコン政略は玉府へ納める夫役によって行われていたことを実証する直型な史料ということがで A合 き る 。 ~ß そういう視点で、恩納間切のウコン畑四千十一坪の納付から上納までの一迎のウコン純情過仰を他の史料と付きあ AMm} わせながらみてみよう。次の史料はウコン納付時の間切役人に対する指示である。z
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楠付之節は、一ト知役検者地雌代惣緋作当共子配を以村々へ去艦、犬地削鎚順々緋作中﹃仕ハ汀列、品約酬明メはかや すすきにておそへ方聞M 4
等丈夫仕合させ、午凶刈 H 州市子共間人無之総由市致取締、在似て川中取寄人念随分 A P 峰 位 、 御定之斤高は勿論成丈け出来過相増売上候様相々可致差引候。 ウコン植え付ける時には王府から間切に源泊されている下知役・検者や間切役人である地一朗代・惣緋作 w J の中で各 村担当を決めると記されている。この事からウコン畑は間切に一つ大腿慌にあるわけではなく、各村に分散してウコ ン畑が存在していることがわかる。そして材相当は、村の役人である夫地蝋・槌・則・緋作当を使って村の行舵たち 一連の作業、すなわち緋転、施肥、垣、内甲山械などの指示を出すという。この時、附切役人は御免尚すなわち公定 生産量以上の収砲をあげるように求められいる。ここで規定された一連の作業は︻史料担︼では次の①1
⑥までの犬 役 に 該 当 す る 。 ①緋す 新打に約百六十人、二度打に約百二十人が計上され、計約二百八十一人(約五百六十二口)が計上されている ω ②肥料投下 肥料を持ってきて畑に入れる夫役﹁嬢持越夫﹂が約六百一人(約千二百・一n
て川ししされている υ ③柏付 植え付けする﹁植付夫﹂が二百人余(四百貨余)が計上されている。 ④カヤ刈り 般も多い約六千十六人が計上されているのがカヤ刈りのための夫役である。カヤ刈りには苗を担うためのカヤ取たと考えられる﹁押カヤ刈取夫﹂千二人余(二千五貫余)と、肥料聞のカヤ取夫﹁型問カヤフシ取夫﹂五千十三人余 ( 一 万 二 十 六 貫 余 ) が 計 上 さ れ て い る 。 ⑤垣づくり 四百一人余(八百二貰余)が﹁垣仕合夫﹂として計上されている。︻史料お︼によれば、垣は子どもや牛馬がウコ ン畑に入ってこないようにするためのものであることがわかる。 ⑥草とり 草取り一回に百二十人余、二回で二百四十人余(四百八十貫余)が﹁草取夫﹂として計上されている。 ︻史料幻︼にはウコンの栽織地は土地を選んで栽培せよという。村におけるウコン栽培地の分布がわかる次頁の凶
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をみていただきたい。図は明治時代の名諮問切幸喜村の集落図である。集落の北、識が分布するくさて森の南側にウ (MW} コン畑が固まって分布していることがわかる。﹃幸喜部落の歩み(幸喜誌)﹂には次のように記されている。﹁明治初 期頃までは部落後方一帯の現宅地になっている簡所はウコン畑であったという。また公有林内名識岳のウキヌの地名 で呼称されている簡所はウコン栽地地でこの名が冠された。鹿児島に上納として強制栽培させらられたともいう。﹂ 次は収種時である。間切役人がウコン収種時に行う指示も︻史料お︼の後に次のように規定されている。 考 ︻ 史 料 自 ︼i
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川堀取前相成候得は、靖子組向無手抜産物方御役々衆被差越候上は、毎物無支相弁候悌差引可入念候。ω
揖取方相仕組候得ぱ、関子用は夫地頭提封印を以椛譜巾波、余は製法子緋方随分入念、柳抜也等無之械堅取締巾 j i.
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巻 付、左候て村所にて委敷調部方之上、折砕もの迄不残致取締、夫地師捉宰舗にて無起滞昏所へ一吋為相納候。 H U E・ F川には産物方役人の披侍を準備せよとあることから一辿の︻史料幻