Title
「死」を問うことの意味 −私たちは近代を前史とする
ことができるか−
Author(s)
下村, 英視
Citation
生命倫理 = Journal of the Japan Association for Bioethics,
17(1): 160-167
Issue Date
2007-09-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/9485
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一私たちは近代を前史とすることができるか-A s
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一下 村 英 視
Hidemi SHIMOMURA ⑨宮崎産業経営大学.KEY WORDS
尊厳死 (deathwith dignity) 近代思想 (modernthought) 意志の力 (powerof man's wi 11) 財としての健康 (hea1 th as good)要 旨 自分らしい死を自らに取り戻すこと、言い換えれば、自己決定権に基づく権利として尊厳死をとらえること の大切さが語られる今日、このことが重度の障害者や老人を脅かすことになるのではないかと危'1,具される。社 会 に 役 立 つ 人 間 と し て あ ら ね ば な ら な い と い う 強 迫 観 念 が 人 々 の 間 に あ る こ と が 、 そ の 原 因 と レ て 考 え ら れ るO 本稿において、筆者は、このような意識の在り方が近代思想の特徴であることを明らかにしようとするO そこでは、意志の力によって生産性を無限に高めることに価値が見いだされる社会において、健康もまた財と して扱われていることが説かれる。強い者にとっての豊かな社会の実現は、弱い者にとって、たとえ豊かさの 分け前は与えられるとレても、無慈悲な社会社となりうる可能性があるO そのような社会からの脱却を展望す る た め に も 、 死 の 学 び は 、 私 た ち に と っ て 不 可 欠 な の で あ る 。 私 た ち の 際 限 の な い 欲 望 を 制 す る た め 、 そ し て、私たち人聞はこの現実世界に住まわせてもらっている存在者であることの認識を共有するために。 一一一一一一SUMMARY
Nowadays we discuss‘death with dignity' in order to claim death back from the hospitals for ourselves and recognize our right to freedom of choice. At the same time, we are apprehensive about the current trend which menaces the handicapped and the aged. We are obsessed with the thought that one must contribute to the society, which may in turn cause our apprehension. In this paper, 1 will clarify how 'modern thought'provokes the current state of our consciousness in a so -ciety, where everyone admires the power of the human wi 11to increase productivity endlessly, and which tends to view health as a good. People in good health wi 11real ize an affluent society, which however may in fact be a cruel society for people in poor health, even if a portion of the abundance is provided to them. We must learn about ‘death' in order to be freed from this cruel society, restrain our boundless desires, and hold a common awareness that we are allowed to live our 1 ives in the real world.
問題の所在
大谷いづみによれば、「尊厳死の考え方が広まる につれて、老人や重度障害者が生きていることに引 け目を感じるようになるのではないか」という主旨 の新聞記事を材料に行われた高等学校の授業におい て、「生命の質が低くなった老人や重度障害者が、 社会の負担を減らすために自ら死を選ぶべきだと考 えるように援助することこそが、進化した社会であ るJと論じた生徒の答案が見いだされたという1)。 与えられた命の意味を自己の意識にのせ、死とい う最後の瞬間までどのように生きるべきかを自律し た主体が自分の問題として考えることを促すという ことに、生命倫理教育の意味があることには異論は ないだろう。しかし、そのような教育が行われた結 果として、障害者が健常者に疎外されたり、あるい は障害者が健常者に遠慮して生きなければならない ような社会の空気を作ってしまうようなことは、 あってはならない。答案に見られる一高校生の意見 は、生き続けることが困難な状態になった人には、 早々にこの社会から退場してもらうのが本人にとっ ても社会にとっても幸せなことではないか、という 考えが具体的に表れたものであり、この点に危慎を 抱く大谷の指摘は重要であるへ 「死の教育(学び)
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の中で取り扱われる尊厳死に ついての学びが、障害のある人たちのことを劣った 者、迷惑な存在と見なすような意識をつくってしま うようであれば、そのような学びは失敗である。な ぜなら、私たちは、障害者(たまたま障害を伴って 生きることになった者3)) と健常者(たまたま健常 でいられる者)がともに喜びゃ悲しみを分かちあえ る社会の実現を望ましいものとしてきたはずだから である。その理想、に近づく努力を損なうようなこと があってはならない。 健康であること、健常であることに価値を置く健 常者は、自分が事故や病気で障害をもつことになる とか、老化してQOLが低くなるということについ て、不安を感じている。自分の能力を発揮して、誰 の世話にもならなくても生きていくことができる (とd思っている、 実は誤りなのだが)現在の在り様 から、能力が衰え、欠如し、他者の介護に支えられ なければ生きて行けない自分を考えることは心配で 仕方のないことなのだ。もしそうなったらどうしよ う。この不安や怯えから逃れることが、尊厳をもっ て死ぬことに他ならない。それは、誇り高く生きて きた自分が、惨めに生き長らえることに対する怯え を断ち切ることである。そして、この怯えの原因に ついて、大谷は、「そのひとつjという仕方で譲歩 しながらも、「役に立つ人間でなければならないと いう強迫観念J
ではないかと述べ、「その怯えと強 迫観念はいったいどこから来るのか、その正体を 探ってみたいJと言うへ 恐らくは、この間に対する答えは、大谷によって 準備されつつあるのであろう。しかし、それとは別 に、私たちもこの間に答えてみたいと思う。そうす ることによって、[死の教育(学び)
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に付帯する難 問(尊厳死にかかわる議論を学ぶことが、弱者を脅 かすということ)を克服することを、試みたいと思 うからである。そして、「死の教育(学び)J
を進め ることによって、私たちが学ぶべきことは何かにつ いて、はっきりとした視点を持つことができると考 えられるからである。死を考えない社会とは、人間 の欲望だけが肥大した無慈悲な社会だと考えられ、 死についての考察を現代において行うことの普遍的 価値を [死の教育(学び)
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は提供してくれると考 えられるからである。以下の考察は、この論証に充 てられる。2
財としての健康
前節で述べられたように、私たちはQOLの低ド に怯え、その怯えの根本には、社会に役立つ人間で なければならないという強迫観念がある。ではな ぜ、そのような強迫観念を持ったり、怯えたりする のだろうか。もちろん、この問いに答えるためには 社会学や心理学の手法を駆使した調査や考察が必要 なのであろう。しかし、私たちは、それらに訴えな くても、今できる方法で考えてみたい。それは、現 行の社会とその中で行動する私たちの意識の在り方 を反省するという哲学の方法によってである。 私たちは、医療を消費するようになって久しい。 病院で私たちの症状に適切な処置(治療)を提供し てもらい、それに相応しい代価を払う。私たちは自 分の健康を取り戻すために、金銭を支払う。そこで は、健康とは財である。それはちょうど、食糧が今 生命倫理VOL
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日の社会システムの中で財となってしまい、より裕 福な者がより自由な仕方で食糧という財を手に入れ ることができるように5)、より経済力に富む者が、 より高額な代価を支払って、より高度な医療によっ て健康という財を手に入れることができている。社 会的に成功した者、より豊かな国に住む者が健康と いう財を手に入れ、逆に、貧しい者、貧しい国に住 む者には健康という財が手に入らない。 そうすると、競争に勝った者、経済力に勝る者 が、健康という財を手に入れることができ、そうで ない者は諦めなければならないという世界が出現す る。医療というこれほどまでに人間として生きるこ とができるかどうかということに直結する問題が、 力の有無に依存するとはどういうことだろうか。適 者生存ということは生物界一般のルールであるとし て、これを人類、も受け入れて生きることにしたとい うのなら仕方のないことであろうが、私たちはそう ではない社会の実現を理想としたはずではなかった か。 健康に恵まれなかった者を健康に恵まれた者が助 けて生きる、有能な者が能力において劣った者を支 えて生きる。無条件に与えられた健康や能力に感謝 し、他者に援助の手を差しのべることができる力が 与えられていることに感謝し、また支えられる者も そのようにして生きることができることに感謝し て、共に感謝と喜びを分かち合うことができる社会 の実現を、私たちは理想としたはずであったへ なるほど身近な医療は多くの人々の健康増進に寄 与しているし、これによって社会の幸福が図られて いる。また、難病治療のために努力が重ねられてい る高度な医療のおかげで、余命を伸ばすことができ た入、社会復帰ができた人、諦めていた自分たちの 子を持つことができた人たちがいる。まぎれもな く、それらの医療は、疾患に苦しむ人々にとっては 福音であり、社会に幸福をもたらしていることは否 定するわけにはいかない。 しかし、今日、東南アジアの国々の中には、移植 による医療の提供を海外に向けて発信する国が現れ るようになった。アメリカ合衆国や日本のような国 で移植医療を受けた場合にかかる費用の半分とか三 分のーで、同じ治療を受けることができると、喧伝 される。そこでは、移植医療のための臓器や組織が
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健康や生存のための手段と見なされ、医療は健康と いう財を手に入れるための手段として扱われるよう になっている。そして、その財を所有することにお ける国家間の経済力による格差、個人の経済力に依 存する格差を埋めることは今のところできそうにな い。加えて、医療研究者たちも、彼らが開発しよう としている技術がすべての人類に等しく公平に提供 されることを、本気で考えてはいないのではない かの。 このような状況を見る限り、健康に恵まれた者、 経済力において優位に立つ者が、障害者やQOLの 低下した老人を劣った者と考えることはありうるこ とであり、さらにまた、健常な人々も劣った者とみ なされることを恐れ、そうなることに怯え、それゆ え、そうならないことに力を注ぐことになる。そし て、健常であること、 QOLの低下を招かないよう にしようと努力すること自体が、それらを願っても 得られない人々を疎外することとなり、差別するこ ととなり得るのである。もちろん、このような差別 構造を意図的に好む者はいないはずだ。それにもか かわらず、そういう差別を生む空気があるとすれ ば、それはいったいどこからやってくるのか。今、 私たちはこの問題に切り込まなければならない。そ して、この検討のためのヒントが、強い主体、意志 の主体として生きることを理想とした近代思想を検 証することにあると思われる。3
背後の思想ーデカル卜の哲学一
「主は三つの驚嘆すべきことを行った。無からの 創造、自由意志、神人。8)J
デカルトの言葉である。周知のように、デカルト は心身を峻別した。世界は考えるものrescogItans と延長的なものresextensaとの二元的要素からなる ものとされた。私たちの身体を含めて、動植物(生 物)一切はよくできた機械(自動機械)として位置 づけられた。荒唐無稽な過去の一世界観にしか思え ないようなこの考え方も、人間の表象的世界9)の考 察に照らしてみると、それほど見当違いでもない。 人間以外の他の生物が現実世界に根を張って生き ており、自己の感覚器官によって形成された現実の 物理世界を表す感覚的知覚に対応した仕方で行動し ているのに対し、私たち人間だけは現実の物理世界を覆う意味の世界(表象的世界)を自己の意識の内 に形づくり、この独自の表象的世界の住人として振 舞ってきた。考えるものとは表象的世界を形成し、 その中に生きるものであり、同時に身体に結びつい ている限りにおいて、身体を通してこの現実世界 (客観的物理世界)に結びつき、これに働きかけ、 これを改変して生きてゆくものである。他の生物同 様生まれて死ぬという特徴から、人間が生物である ことは疑いないが、それならば、あらゆる生物の中 でただひとつ例外的な生物である。そして、その本 質は、表象的世界を持つということである。 表象的世界の中に生きる他はない人間の偉大さ を、デカルトは次のように表現したりもする。「人 間における最高の完全性は、人間が意志によってす なわち自由に活動することにあるのであって、 した がってまた、ある独自の意味において、意志が自分 の行為の作者であり、またこのような行為によって 称賛に値するということにあるのです。 ωj このデ カル卜の自由産志論の魅力とは何か、と尋ねられれ ば、自分の意志的な努力によって自分の価値をいか ようにも高めることができることにある、と答える ことができる。デカルトの哲学においては、真理 は、世界の何であるかを表す本質であり、独自の存 在を有する11)。そういう存在としての真理をひとつ ずつ暴いてゆく、発見してゆくことによって、私た ち人間はより多くの知恵を得たことになるわけだ が、そうすることは真理を創造した神に一歩一歩近 づくことにもなる。考えるもの(思惟実体)である 私たちは、思惟(考えること)をその属性attributus とし、その属性の様々な在り様として、個々の思惟 (観念)を思惟の様態modusとして持つω。考える もの(思惟実体)は、それが何であるかという本質 を表す真理という存在を認識することによって、そ の存在を思惟の一様態として、自らの内に持つこと になる。このように、真理の認識において進めば進 むほど、存在により多く一致し、より多く在ること になる。そのようにして存在者としてのレベルを高 めていくことができる存在者が、ただひとつ私たち 人間なのである13)。 デカルト自身、私たちに「自由な意志jがあるこ とに驚いた。意志の力で、知性を活用し、世界の真 理を暴いて行くことができるこの人間とは一体何だ ろう。そう考えたとき、デカルトがたどりついた結 論は、考えるものである私たちは、物理的、客観的 (私たちを取り巻く環境)世界から独立に存在し、 これに対時し、これを認識の対象としているという ことだ、った。 二元論はそこから必然的に導かれた。 だから、二元論が、精神を認識の主体としてたて、 物体(自己の身体を含めて)を認識の対象として置 くのは当然であって、これが二元論の本来の意味で ある14)。 世界(物体)のメカニズムを知り、これを可能な 限り活用することは精神に与えられた特権であり、 この力を活用しないことは怠慢である。 貧しさを克 服し、自然の脅威に脅かされることなく暮ら し、豊 かで幸-せな生(世界)を実現するためには、努力し て世界を知り、世界にはたらきかけ、世界を改変し なくてはならない。そういう務めが私たちにはあ る。世界を知る精神が世界を生きる際に結びついて いるのが身体であり、この心身合一体として健康に 幸せに生きることができる世界をっくり出すことが 人間のなすべきことであって、それが「よく生き る」ことなのだ。そこに、他の生物には見られない 人間の偉大さがある。デカルトの確信は揺らぐこと がない。念のため言っておくが、デカルトがそう考 えたということが重要なのではない。そう考えたデ カルトの考えに人々が集い、そのようにして近代が 展開したということが重要なのだ。 このようにして、世界を認識する主体、判断の主 体として自己を形成してゆける主体として存在する ことに、人間としての尊厳が求められる。そうする と、自ずとそうでない存在者は、価値の劣った存在 とならざるを得ない。白らのアイデンティティーを 確かなものにするためには、私たちは活動の主体で なければならない。しかもただ何かをすればよいと いうのではなく、人々にとって価値があると思われ るものをつくり、価値があると思われることをする 主体でなければならない15)。 自らが考えるものとしてあることの偉大さに驚嘆 したとき、私たちは強い主体、有能な主体としてあ ることを望ましいと考え、さらに、そうあらねばな らないと自らに命じたのである。デカルトの『方法 序説』冒頭の言葉に見られるように、理性はすべて の人に等しく備わっている。だから、この理性を磨 生命倫理 VOL.17NO.1 2007.9 163
いて活用しなければならない。努力の主体として生 きるという言い方は、私たちの道徳感情を幸福な仕 方で充たしてくれる。逆に、そうしないこと、君、惰 であることは、人間性に反する。怠惰であったり、 能力を発揮できない自分とは、忌まわしい、避けら れるべき存在なのである。そのようなものとして自 分をとらえることは、否定的、消極的、価値の劣っ たものとして自分をとらえることであり、生きる意 味が希薄になった自分をとらえることなのである。 自分の努力によって自分の価値を高めなければな らない、そこに他の生物と異なった人間の偉大さが ある、このように人間をとらえることによって近代 精神は成立した。だからこそ、人類は、その努力を 積み重ね、世界を改変することに成功した。近代 は、それ以前とは比較にならない仕方で、産業文明 を発達させ、その創造的な力に陶酔し、自己の尊厳 をそこに見いだした。その一方で、そのような能力 に欠けるところ、劣るところがあるということを認 めることは、自分を否定的にとらえることでしかな くなった。それが強迫観念となって私たちをますま す創造へと向かつて駆り立てていると考えることが できるだろう。そして、この意識の在り方が、自分 自身に怯え、また障害者を脅かすことになる。 このような意識の在り方が、今、私たちを追い詰 めているということがはっきりと自覚されたなら ば、ここから脱却する動き、新しい人間観、世界観 を形作ってゆこうとする動きが始まらねばならな い。ではそれは何なのか。意志の主体であることは 変わらないとしても、強い主体に価値を置くこと、 独立自尊の主体であることを絶対視することをやめ て、他者との問に壁を設けない平らかで穏やかな存 在者、共存の存在者として生きることを実践するこ とである。 4
無限な意志、自由な存在者
デカルトと彼に続く人々、そして私たちもまた、 無限な意志に驚嘆した。世界を理性の対象として置 き、これを理解する(解釈する)ことに際限なく努 力する意志に人間の偉大を見た。小さな人間にとっ て世界は無限の広がりを見せ、その小さな人間は無 限な意志の力によって、世界の神秘をひとつずつ解 明し、自分たちの幸福のために役立てようとした。1
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そして、それを実践し、成功を収め今日に至った。 それは、不可能を可能にする営みの連続でもあっ た。このことが常態となることによって、私たちは 今現在どんなに不可能だと思われることも、将来に おいては可能になると漠然と信じるようになった。 たとえ根拠がなくても。同様に、私たちには知られ ていないことが無限にあるという認識は自分の謙虚 さを言う限り正しいが、しかしだからといって、ま だ私たちに知られていない地球資源(将来利用可能 な資源)が無限に在るはずだと考えることは、手前 勝手な信還に過ぎない。 そして、世界は無限ではなかった。人間の活動に よって、地球環境が変化していることは周知の事実 である。世界は人間活動の影響を吸収しきれなく なっている。人間活動の影響がなければさらに数億 年も保たれる地球生命が、場合によっては、その影 響のために数百年しか保てないのではないかという 危慎を表明する研究者もいる。あるいはその点には さまざまな議論があるだろうから、これを保留して おくとして、その地球にも誕生があったように、い ずれ終末が訪れる。これには異論がない。 私たちひとりひとりの人生に終わりがあるよう に、人類にも終意がある。人口の減少、資源の枯渇 によって廃虚になる都市群の荒涼とした風景を想像 することは、寂しくもまた悲しくも感じられるかも しれない。しかし、それが、個人の死同様に受け入 れるしかない真実、私たちの自由にならない事実で あるのならば、やはり、そのことを受け入れるため の学びと教育が必要なのだ。それが、表象的世界に 生きる私たち人間の宿命なのである。 もし、そのような学びと教育とを怠ったらどうな るか。消費型の生活を持続することによって、十分 な分け前(消費材)が得られなくなった時、私たち の社会には、欲望をむき出しにした残酷な生存競争 社会が出現するかもしれない。それは、動物たちの ように、本能にプログラムされた通りに粛々と生と 死を営む現実世界の秩序に降り立って生きることと は異なる16)。表象的世界の中でしか生きることので きない人間は、欲望にそそのかされて狭滑と残虐を 尽くし、殺害、侵略、 差別をやってのけるかもしれ ない。自己の生を保存するという合理性のもとに、 果てしのない狂気を発揮することは、歴史を振り返ってみれば大いに考えられ得ることだ。そうなる と、人類はその存続の最終地点をますます近い未来 に招き寄せることになり、その最後は残虐さの色に 染め抜かれるかもしれない17)。 自分で自分の価値を高めて行けるユマニスム18)、 それは素晴らしい。無限な意志の力に神に似たも の、神の似姿をとらえたのも無理はない。人間に は、あらゆる可能性が聞かれているように思えたの であろう。しかし、それは、人間の欲望を抑える歯 止めを外してしまうことにもなりかねなかった。欲 望だけが無限に肥大し、抑えることができなくなっ たとき、偉大は悲惨になる。 すべてを各自の表象的世界の中で処理しなくては ならなくなった人間にとって、特定の真実を見いだ すことは極めて困難になってしまった。多様な生、 多様な文化、そのすべてに人間の真実があるからで ある。すべてが相対的となってしまった真実の中 で、どの真実にそって生きようとするのかを決断し なければならないところに、私たちは生きている。 このとき、「死」を学ぶことは重要なのだ。人間の 有限さを自覚し、際限のない欲望を抑えて、今を生 きることを学ぶことができるからである。そして、 この学びによって、 自分が生命を与えられているこ とに感謝し、障害を伴う人々を助けて生きることが できる力を授かっている場合には、そのことに感謝 し、また、自分が障害を伴っている場合には、助け られて生きることに感謝することができる。その 時、障害を伴う人々を脅かし、自分がまた障害を 伴ったり、老いて QOLの低下した人生を歩まなく てはならなくなることに怯えることから、私たちは 解放される。 また、私たちは死なないために生きているのでは ない。確かな死を認識し、その死の時までどのよう に生きるかを考えることこそが、 QOLを高めるこ となのだ。QOLは、医療が客観的な数値をもって 決めるのであってはならず、どんなに惨めに見えて も、当人がそう望むのであれば、 QOLは充実して いる。そうであるならば、障害とは決して QOLの 低さを意味しているものではないことを、人々とと もに学ぶことが重要である。人々は、ありのままで よいこと、健康や知力において優劣があるとして も、それは個性の差でしかない19)。自分が健康であ ることは、人よりも優れているととを決して意味し ないことを、私たちは学ぼう。同時に、健康に恵ま れなかった場合にも、それは質の劣った、 哀れな存 在ではない。逆に、苦難に耐える尊い生とみなされ ることも可能である。障害を伴う人たちとは、障害 を伴うことになったかもしれない私に代わって、そ れを背負ってくれている人格であると考えるなら ば、感謝と尊敬の対象となる20)。これらは、障害を 伴う者と健常である者とが助けあって生きてゆくこ とを望ましい生き方として選んだ人間社会が、教育 と学びによって、文化として定着させるべきことで ある。 そのような社会の中には、障害(難病)の克服の ために真撃な努力を重ねている研究者の姿もあり、 その姿は人間のすばらしさを私たちに示してくれ る。自分の研究によって人々を苦しみから救うこと ができるのではないかという意欲に充たされた研究 者の態度には、称賛が伴う。しかし、能力や健康を 価値とみなし、それらを得るように努力することだ けが正しい行為(価値のあること)だと考えること は、望んでもそれがかなえられない者やそのように 望まない者と、能力や健康に恵まれた者との聞に壁 を作ることになる。さらに、障害を個性ととらえず 欠陥とみなし、そういう欠陥は修復(治療)の対象 であるとし、そうしようとしない者を、理解力にお いて劣った者とみなすということになりかねない。 自分の提唱する善さに従わない者を差別することも 起り得る。そこでは、障害者に役立ちたいという善 意が、悪意に転換している。これは、表象的世界に 生きる人間に共通な傾性である。私たちには安定な どなく、常に危ういところ生きていると考えること の方が、これまでの歴史に学べば、私たちを正しく とらえていると言えるのではないだろうか。そうだ からこそ、その過ちとそこから生ずる苦しみから解 放されるための思想を練り上げることが、私たちの 務めなのである。 無限の可能性を許容する表象的世界に生きる私た ち、無限の意志に人間の偉大さを見た私たち、そう いう私たちにとって私たちの自由にならないものと してあるのが、「生jと 「死
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である。一方的に生 命を与えられて生かされた私たちは、一方的に与え られた生命をたとえ意に反しでも返さなくてはなら 生命倫理 VOL.17NO.12007.9 165な い 時 が 来 る 。 私 た ち は 、 必 ず 死 ぬ 。 私 た ち の 自 由 に な ら な い 仕 方 で 、 決 定 的 な 事 実 と し て [ 生jと 「 死 」 が あ る 。 こ の 「 死 」 を 学 ぶ こ と に よ っ て 、 私 た ち は 人 間 の 存 在 者 と し て の 身 分 を 理 解 す る こ と が で き る 。 際 限 の な い 欲 望 に 歯 止 め を か け る こ と が で き る 。 他 者 と 私 と の 間 に あ る 壁 を 取 り 払 っ て 、 一 介 の 小 さ な 生 命 同 士 と し て 今 生 か さ れ て い る こ と を 教 わ る こ と が で き る 。 有 限 な 存 在 者 と し て 、 そ の 最 後 の 瞬 間 ま で 私 は ど の よ う に 生 き ょ う と す る の か に つ い て 考 え る 場 を 、 「 死jの 問 題 は 与 え て く れ る 。 欲 望 に 振 り 回 さ れ た 無 慈 悲 な 社 会 を 避 け る た め に 、 こ の 問 題 を 温 め 続 け る こ と は 、 人 類 と っ て 普 遍 的 価 値 を 持 つ 。 そ の よ う な 学 び の ひ と つ ひ と つ の 実 践 が 、 応 用 倫 理 学 の 学 び な の だ と 、 今 、 私 は 考 え て い る 。 註 1)
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いのちの教育J
に隠されてしまうこと一一「尊 厳 死J
言説をめく守ってJ
~生命の臨界 争点とし て の 生 命 』 松 原 洋 子 , 小 泉 義 之 編 ( 人 文 書 院 2005年)所収p.118 2)この指摘がなされている論文の中で,大谷は,太 田典礼の思想、を検証することによって,尊厳死思 想が優生思想に結びついていることを,かなりの 紙 数 を 割 い て 検 討 し て い る . 前 掲 同 書 p.108~ p.117 3)1
たまたまJ
という表現を用いることによって, 理 解 を 分 か ち 合 っ て お か な け れ ば な ら な い こ と は,障害を伴うことになったことには,何の理由 もないということである.何の理由もなく,ただ -}j的に存在を私たちは与えられたように,障害 を伴う者も伴わない者も,ただそのように在るの であって,今たまたま健常である者が障害を伴う ということもありえたし,またありうることだ: 4)1
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問 い を 育 むj一一「生と死J
の授業からJ
(前 掲同書所収)p.150 5) こ の 点 に つ い て , 松 永 澄 夫 の 指 摘 が 正 鵠 を 射 て い る . 松 永 澄 夫H
食 を 料 理 す るj哲学的考察』 (東信堂2003年)p.215参 照 6)拙稿「福祉の思想J
宮崎産業経営大学法学論集第 16巻第1・2号2007年参照. 7)拙稿「クローン技術の倫理的問題j宮崎産業経営 大学研究紀要第16巻2004年,特に第3節「延命と 障 害J
参照. 8) Descartes, Cogitationes privatae,包uvresde Des1
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cartes publiees par Char1es Adam et Paul Tannery, ]. Vrin tomeX, p.218 この全集については,以ド A.T.と略記. 9)私たちは世界を生きる時,現実の物理的位界に接 触し,その経験の中から生みだされた章味や価値 をこの世界に与えながら生きている. このように して私によって生みだされた意味や価値の世界を 表 象 的 世 界 と 呼 ぶ . 表 象 的 世 界 の 形 成 に つ い て は,拙著『もうひとつの知』第4章「主観性の回 復J
(創言社 1994年)参照. この中で.表象的世 界が形成される過程を,メーヌ・ド・ビランの哲 学に学んで検討した.この表象的世界について, それが,動物たちには存在せず,人間にのみ存在 することを分かりやすく表現したものとして, S.K.ランガーの説明を引用したい.1
犬は単に自 分の名前だけでなく,主人の名前をも理解すると 言われている.なるほど.その通りである. しか し,犬は呼び名という資格においてのみ,その名 前を理解するにすぎない.もし貴方がジヱームス という名前の主人公をもっ犬に対して,I
ジェー ムス j と呼ぶとすれば,犬はその育声をサインと して解釈してジエームスを探すであろう.その名 前で呼ばれている或る人物を知っている人に,そ う言ってみるがよい.そうすると,彼は[ジエー ムスがどうしたんだ]とたずねるであろう.この 簡単な問いは犬にとっては永遠に不可能である. 名前が犬に対しでもちうる唯-の意味は,サイン 作用である.一一主人の名前は彼の匂いや,足音 や,彼の特徴的なベルの鳴らし方などと同じ程度 の意味をもっているにすぎない.だが,人間の場 合には,その名前は,そう呼ばれる戎る人物につ い て の 表 象 を 呼 び 起 こ し , そ し て そ の 人 物 を め く守って, さらに心に描かれるその他の諸表象に対 しでも精神の準備をさせる. したがって,人間は 当然[ジエームスがどうしたんだ]とたずねるの である.J
S.K.ランガー『シンボルの哲学J
矢野 蔦里,池上保太,貴志謙二,近藤洋逸訳c
占波書 庖 1981年)p.73 10)デ カ ル 卜 『 哲 学 原 埋 』 第 宇 部 第37討j A.T.tome VIII -1, p.18 11)デカルトの「永遠真理の創造説jが説くところは, 一貫して,神が被造物の作者であるのと同様に, 本質の作者であるということ,そしてこの本質が 諸 々 の 永 遠 真 理 に 他 な ら な い , と い う も の で あ る.メルセンヌ宛書簡1630年4月15日付,l
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年5 月27日付Descartes包uvresphilosophiques, publieespar FerdinandAlquie, Garnier, tome 1, p.259, p.267 (この全集については,以下AI.と略記),