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智山學報 第67 - 007大谷 由香「日宋交流と鎌倉期律宗義の形成」

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) 抄録   入宋僧俊 芿 (一一六六 〜 一二二七、入宋:一一九九 〜 一二一一)は、自身が留学前に日本で学んだ日本天台の円戒思 想を中国に伝えた。俊 芿 は留学中、如庵了宏(?〜一二〇〇〜一二一一頃)に師事し、俊 芿 同様に了宏に師事していた 鉄翁守一は、俊 芿 が紹介した日本天台の菩薩戒単受の思想に影響され、新しい南山宗義の解釈を主張するに至る。これ に反論したのが上翁妙蓮(一一八二〜一二六二)である。守一・妙蓮両者の間には論争が繰り返された。   商船に乗って日中間を往来する多くの日本僧が二人に師事した。南宋代南山宗内の論争は、彼らによって、リアルタ イムで日本に伝えられたと考えられる。   特に入宋して妙蓮に師事した真照(?〜一二五四〜一三〇二、入宋:一二六〇〜一二六三)は、後に東大寺戒壇院の 長老となる凝然 (一二四〇〜一三二一) と同門であった。このため、 凝然は妙蓮に至る系譜を南山宗の正統に位置づけ、 日本においては守一が異端、妙蓮こそ正義と決定している。さらに凝然は、この論争の後、中国においては正しい戒律 が行われなくなったと述べ、正統は日本にこそ残ったと示唆する。

0.はじめに

  入 宋 し た 俊 は、 帰 国 間 際 に 戒 律 に 関 す る 五 十 三 条 の 質 問 状 を 南 山 宗 僧 に 回 覧 し た。 そ の 質 問 状 は、 宋 僧 か ら 得 ら れ

日宋交流と鎌倉期律宗義の形成

 

  谷

 

  由

 

  香

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智山学報第六十七輯 た三種の回答を付して構成され、 『律宗問答』と呼ばれて現在に伝わっている( 『続蔵』巻五九所収) 。   肥後国に生まれた俊 は、幼い頃から天台教学を中心に学び、十八歳の時に太宰府観世音寺で受具足戒した。   日本においては、唐僧・鑑真(六八八 〜 七六三)の来朝によって、天平勝宝六年(七五四)東大寺盧舎那仏前にて受 戒が行われて以来、東大寺戒壇院・下野薬師寺・筑紫観世音寺で、四分律にもとづいた具足戒が授受され、それによっ て僧籍を得る制度が確立されていったと考えられている。ところが最澄(七六七 〜 八二二)がこれに反発し、弘仁九年 (八一八) 「山家学生式」を定めて、それら具足戒を「小乗戒」として退け、梵網経による菩薩戒単受が提唱された。結 果 と し て 弘 仁 十 四 年( 八 二 三 ) に は 義 真 を 戒 和 上 と し て、 比 叡 山 に お い て 初 の 受 菩 薩 戒 が 行 わ れ( 『 叡 山 大 師 伝 』) 、 さ らに天長四年(八二七)には比叡山に菩薩戒単受のための戒壇が建立された( 『山門堂舎記』戒壇院) 。こうして日本に は、僧籍を得るための二重規範が成立する。   俊 が 宋 僧 に 回 覧 し た 質 問 状 は、 ま さ に こ の 両 者 間 の 相 違 を 明 確 化 し た も の で、 基 本 的 に 日 本 天 台 の 円 戒 思 想 の 立 場 から、鑑真を輩出した南山宗の立場を問うものであった。日本天台の詳細を知らない宋僧からしてみれば、応えようが ない「問い」だっただろう(大谷由香[二〇一六] )。   俊 が披露した日本天台の円戒思想にもとづく 「問い」 に触発されたのが、 俊 が入宋中に師事した如庵了宏の弟子、 つ ま り 俊 の 同 門 だ っ た 鉄 翁 守 一 で あ る。 彼 の 短 編 集 で あ る『 終 南 家 業 』 三 巻 は、 上 巻 部 分 が す べ て 俊 の「 問 い 」 へ の 回 答 で あ り、 中・ 下 巻 部 分 は、 そ の 問 答 に よ っ て 派 生 し た 問 題 点 に つ い て 論 じ た も の で、 全 体 と し て 俊 へ の オ マ ー ジ ュ で あ っ た と み る こ と が 可 能 で あ る。 俊 に よ っ て 宋 国 に 紹 介 さ れ た 日 本 天 台 の 円 戒 思 想 に 影 響 を 受 け た 守 一 は、 俊 帰国後、 南山宗義そのものを円戒化していった * 1 。これに危機感を覚えた妙蓮が、 守一に対して反駁書を提出して、 両 者 間 に 応 酬 が 始 ま る。 俊 を 皮 切 り と し て、 そ の 後 多 く の 日 本 僧 が 入 宋 す る 中、 こ の 両 者 の 南 山 宗 義 を め ぐ る 論 争 の 経緯は、日本に伝えられることとなった。   本論文では、宋国における論争の内容を明らかにし、日本にその論争がどのように紹介され、また当時東大寺戒壇院

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) の長老で律宗の教学復興を担っていた凝然が、この論争に関してどちらに軍配を上げたのか論じたい。

1.南宋代における南山宗義論争

(1)守一の主張   『 律 宗 問 答 』 に は、 上 巻 部 分 に 南 山 宗 に お け る 観 法 で あ る 三 観 に 関 す る 問 い が 三 十 問 ま と め ら れ て い る。 南 山 宗 祖・ 道宣の著作である 『行事鈔』 「沙弥別行篇」 ・『羯磨疏』 「諸戒受法篇」 * 2 、並びに 『行事鈔』 「懺六聚法篇」 * 3 、『羯磨疏』 「懺 六 聚 法 篇 」 * 4 に は、 い わ ゆ る「 南 山 三 観 」 が 説 か れ て い る。 南 山 三 観 に 関 し て は、 古 く 唐 代 の 湛 然( 七 一 一 〜 七 八 二 ) が『 止 観 輔 行 伝 弘 決 』 の 中 で 難 を 展 開 し て お り * 5 、 こ れ を 端 緒 と し て 両 宗 間 に 観 法 を め ぐ る 議 論 が 存 在 し て い た こ と が 推 察 さ れ る。 『 律 宗 問 答 』 上 巻 部 分 の 三 十 問 は、 こ う し た 以 前 か ら 顕 在 化 し て い た 両 宗 間 の 観 法 解 釈 の 相 違 を 明 確 に す る意図があってのものだったと考えられる。すなわち受戒・持犯に関する問いを中心とした下巻部分の二十三問とは、 趣 旨 が 異 な る「 問 い 」 と も 考 え ら れ る が、 い ず れ に し て も『 律 宗 問 答 』 の 上 下 巻 は と も に 俊 が 天 台 宗 の 立 場 か ら 南 山 宗 の 立 場 を 問 う も の で あ り、 守 一 は 俊 の「 問 い 」 の 姿 勢 そ の も の に 触 発 さ れ、 南 山 三 観 を、 天 台 の 三 諦 三 観、 一 心 三 観と同一視して解釈しようとする。   本来南山三観は、小乗人の行である性空観、小菩薩の行である相空観、大菩薩の行である唯識観の三つを挙げるもの で、立場によって観法の対象が異なってくることを示すものである。またこの観法は基本的に懺悔滅罪のために修され ると解釈される。ところが守一は、道宣『釈門帰敬儀』の中で、真諦訳『摂大乗論』の「知塵無所有通達真、知唯有識 通 達 俗、 若 不 達 俗 無 以 通 真、 若 不 通 真 無 以 遣 俗、 以 俗 無 別 体 故 也 」 と い う 文 が 引 用 さ れ て い る * 6 こ と に 注 目 し、 実 は こ の文は南山三観が天台の空仮中の三観と同一であることを示さんとして道宣が使用したものであると主張する。 祖師 (=道宣) 、仏懐を克究し、 深符開会して、 直には 『摂大乗論』 〈『帰敬儀』 に引く〉 の 「塵無所有を知りて 〈空観〉 、 真に通達す〈真諦〉 。唯識有を知り〈仮観〉 、俗に通達〈俗諦〉す。若し俗に達せざれば、 以て真に通ずること無し。

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智山学報第六十七輯 若し真に通ぜざれば、以て俗を遣ること無し。以て俗に別体無し」等の義〈上は真俗の相を顕すこと即ち空諦と為 し、空仮不二なるを中観と為す〉に依りて、中道妙観を立てて、出家の学の本と為す。 祖師、 克究仏懐、 深符開会、 直依摂大乗論〈帰敬儀引〉 、 知塵無所有〈空観〉 。通達真〈真諦〉 。知唯識有〈仮観〉 、 通達俗〈俗 諦 〉。 若 不 達 俗、 無 以 通 真。 若 不 通 真、 無 以 遣 俗。 以 俗 無 別 体 等 義〈 上 顕 真 俗 相 即 為 空 諦、 空 仮 不 二 為 中 観 〉。 立 中 道 妙 観。 為出家学本。 (『終南家業』巻上本「教観撮要」 (一二四二年成立) 、『続蔵』五九、 七一七頁下)   すなわち道宣の引用した『摂大乗論』の文は、空観により真諦に到達し、仮観により俗諦に到達し、これら二観のそ れぞれにとらわれずに並べ用いるのが中観(中道妙観)であるということを指したものであるという。ここには天台三 観のそれぞれの用語が意味もそのままに使用されている。実は真如を対象とする天台の三諦三観こそが本来の南山三観 であり、道宣はこのうちの中道妙観こそ南山宗の出家の本懐であるとするのである。   この「中道妙観」=「唯識妙観」は、これから受戒する初心者が得る境界であるとされ、受戒によってこれを得るこ とで、一受一随、一止一作がすべて法界真如と同等になるという。 故に吾祖南山は、佛懐を克究し、深符開会して、唯識妙観を立て、神方に融導せん。疏鈔中の如きは、初入道に示 し、唯識を以て出家の本と為す。彼の初心をして便ち帰趣を知らしむる。彼の受者の心をして上品を発せしめ、了 境唯識、及び納体、隨行、悔罪等の文、並びに妙観を以て枢要と為す。意は一受一随せしめば法界にあらざること 無く、一止一作は悉く是れ真如なり。一開一遮は即ち上乗と為し、一軽一重は皆な常住に帰す。則ち知んぬ、吾祖 の弘律は、全く妙観を以て主と為す。 故吾祖南山。 克究仏懐。 深符開会。 立唯識妙観。 為融導神方。 如疏鈔中。 示初入道。 以唯識為出家本。 令彼初心。 便知帰趣。 教 彼 受 者。 心 発 上 品。 了 境 唯 識。 及 納 体 随 行 悔 罪 等 文。 並 以 妙 観 而 為 枢 要。 意 便 * 7 一 受 一 随 無 非 法 界。 一 止 一 作 悉 是 真 如。 一開一遮即為上乗。一軽一重皆帰常住。則知吾祖弘律。全以妙観為主。 (『律宗会元』 巻上 「二諸文観法門」 (成立年不名) 、『続 蔵』六〇、 一頁上)

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) なぜなら受戒=唯識妙観によって獲得される戒体は、法界真如に他ならない。守一は受戒によって法界真如を受得し、 受者その人のあらゆる所作が真如へと導かれると考えたのである。 則 ち 法 界 是 れ 戒 法 の 体 な り。 ( 中 略 ) 要 ず 受 者 を し て、 法 界 心 を 以 て、 法 界 境 を 縁 じ、 法 界 法 を 受 せ し む。 只 だ 一 法界にして、異法界無し。能所泯亡し、究竟一相なり。故に得。 則法界是戒法之体(中略) 。要使受者、 以法界心、 縁法界境、 受法界法。只一法界、 無異法界。能所泯亡、 究竟一相。故得。 (守一『終南家業』巻上「教観撮要」 、『続蔵』五九、 七一八頁上 〜 中)   ちなみにこの時の受戒方法に関して守一は、受具足戒であっても、受菩薩戒であっても、あるいは従他・自誓を問わ ず、法界真如と同一視される「円宗戒体」を得ることができると考える。この点において守一は受菩薩戒によって比丘 性と菩薩性を円満に獲得すると考える日本天台の円戒と質的同等な見解を南山宗において展開したといえるだろう * 8 。   このように守一は南山三観を天台の三諦三観と同一視し、しかもこれこそが道宣教学の本懐であり、南山宗の本義で あるという。 (2)妙蓮の主張   一 方 の 妙 蓮 は、 守 一 へ の 反 駁 書 と し て『 蓬 折 箴 』( 一 二 五 五 年 成 立 ) を 執 筆 * 9 し、 「 三 種 の 理 観 は、 律 に 随 う。 経 祖 の 教 観 は、 宜 し く 之 れ を 用 い る べ し * 10 」 と 述 べ て い る。 す な わ ち 妙 蓮 は 南 山 三 観 は あ く ま で 持 律 す る に あ た っ て 必 要 な 観法を述べたまでであり、そこにそれ以上の意味はないとする。   また続けて「有処の戒・観の両門、須く心境を分かつべし。戒は防禁を以て心と為し、罪悪を境と為す。観は契会を 以 て 心 と 為 し、 寂 理 を 境 と 為 す * 11 」 と も い い、 戒 門 と 観 門 と は そ の 心 も 対 象 も 全 く 別 で あ る と し て、 守 一 の よ う に 戒 門と観門とを一つのものとして解釈していくことに違和感を訴えている。   妙蓮の南山三観についての解釈は以下の通りである。

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智山学報第六十七輯 三 種 の 理 観 は、 律 に 随 う。 経 祖 の 教 観 は、 宜 し く 之 れ を 用 い る べ し。 有 処 の 戒・ 観 の 両 門、 「 観 事 生 滅 」 の 句 有 り と雖も、此は是れ事境なり。 『智論』の因縁所生法の如きなり。諦境を謂うに非ず。 雖有観事生滅之句、此是事境、如智論因縁所生法也、非謂諦境、 (妙蓮『蓬折箴』 、『続蔵』六〇、 八〇頁下) 若し『懺篇』中に、三種の理観を列するは、智に任せて縁を観ぜしめ、化制を双行し、業本を除かんが為なり。又 復た滅する所は、乃ち已に成すところの罪なり。当に須らく無生懺を成ぜんと融導すべし。戒行とは同じからず。 未だ起きざるを遮る。恒に須らく禁を防ぐには非ず。妄情すべからず、戒と観とは両分なり。当に此くの如く知る べし、 若『懺篇』中、 列三種理観、 令任智観縁、 化制双行、 為除業本 * 12 、又 * 13 復所 * 14 滅、 乃已 * 15 成罪、 当須融導、 成無生懺、 不同戒行、 遮 * 16 未起、非恒須防禁、不可妄 * 17 情、戒観両分、当如此知、 (妙蓮『蓬折箴』 、『続蔵』六〇、 八一頁上) 前に述べたように、道宣は『行事鈔』 「沙弥別行篇」 、『羯磨疏』 「諸戒受法篇」 、『行事鈔』 「懺六聚法篇」 、『羯磨疏』 「懺 六聚法篇」にそれぞれ三観を説いている。以上に挙げた妙蓮の文は、これらのいずれの文章によっても、南山三観は自 ら犯した罪を対象とする懺悔法として説かれていることが明らかであることを述べているものであり、真理を観得の対 象(諦境)とする天台の三諦三観とは異なっていることを主張するものである。   ま ず「 「 観 事 生 滅 」 の 句 」 と は、 道 宣 著 作 の『 行 事 鈔 』「 沙 弥 別 行 篇 」 と『 羯 磨 疏 』「 諸 戒 受 法 篇 」 に 説 か れ る 南 山 三 観のうち、 「一には小乗人の行、 事の生滅を観じて、 我人善悪等の性無しと知る。二には小菩薩の行、 事の生滅を観じて、 我 人 善 悪 等 の 相 無 し と 知 る 」( 一 者 小 乗 人 行。 観 事 生 滅 知 無 我 人 善 悪 等 性。 二 小 菩 薩 行。 観 事 生 滅 知 無 我 人 善 悪 等 相 ) とある性空観・相空観を取り上げるもので、妙蓮はこれらの観法の対象は『大智度論』に説く因縁所生法(原因によっ て作られたもの)であり、真理を観得の対象(諦境)とする天台の三諦三観とは異なっていることを主張している。   ま た 道 宣 は『 行 事 鈔 』『 羯 磨 疏 』 い ず れ に お い て も 懺 悔 法 に つ い て 述 べ る「 懺 六 聚 法 篇 」 に て 三 観 を 述 べ て い る が、 これらの文章は、罪過が本来空であり、無相無生のものであると観察して罪障を滅すること(無生懺)を意図したもの

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) であると主張する。そしてその対象はやはり自分自身が犯した罪であり、天台でいうところの三諦、すなわち真理の世 界ではない。すなわち南山三観とは、破戒した時分に必要な懺法として示されたものであるというのが妙蓮の見解であ る。   さらに妙蓮は、戒の勝行について、次のように述べている。 明らかに知んぬ、唯識理上に於いて、縱え妄が業を成じ、妄源に返らんと欲すれども、作法して受具せば、破する 所 は 既 に 除 か れ、 厳 禁 愈 いよ い よ 切 な り。 是 れ 戒 の 勝 行 な り。 何 を や 妙 観 と 言 う や。 故 に『 業 疏 』 に 云 う、 「 善 種 子 を 成ずる、此れ戒体なり」と。凡夫の妄念は妄境に執着するを以て、若し戒解に非ざれば、得脱に由ること無し。故 に『律序』に「縛着は此れに由りて解けん」と云う。円妙理観は仏地なり。未だ忘れず、今初心をして本と為さし めんは持戒なることを。如何んが趣を操りて、妄を了して真を全きとせん。 明 知、 於 唯 識 理 上、 縱 妄 成 業、 欲 返 妄 源、 作 法 受 具、 所 破 既 除 * 18 、 厳 禁 愈 切、 是 戒 勝 行、 何 言 妙 観、 故『 業 疏 』 云「 成 善 種 子、 此 戒 体 也 」、 以 凡 夫 妄 念 執 着 * 19 妄 境、 若 非 戒 解、 無 由 得 脱、 故『 律 序 』 云「 縛 着 * 20 由 此 解 」、 円 妙 理 観 仏 地、 未 妄 * 21 、 今令初心為本持戒、如何操趣了妄全真、 (妙蓮『蓬折箴』 、『続蔵』六〇、 八一頁上) すなわち人間は妄念によって行動し、迷いの世界に留まろうとするものであるが、作法受戒することで、自身のどの行 動を禁じるべきかが明らかになる。これこそが戒の勝れたる面であり、こうした戒の力がなければ、解脱を得ることは 難しい。円妙の理観は仏の立場からみたものであり、私が修すべき観法ではない。だからこそ、初心者に必要なのは、 持戒である、と妙蓮は主張する。   つまり守一は南山三観を天台の三諦三観と同一視し、さらにこの観法を受戒法とも同一視して、受戒によって受者が 真如を獲得する、まさにこれこそが道宣が意図したことであった、と主張するが、妙蓮は戒門と観門はあくまでも別で あり、道宣が意図したことは、もちろん持戒であった、道宣の説く三観はあくまで滅罪法である、と結論づける。両者 の論争は、南山宗の中心的教義が何であるか、という大きなテーマを争ったものであったことがわかる。

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智山学報第六十七輯

2.論争を見守った日本僧

  守一と妙蓮の論争は、海商船に乗って入宋間を往来する日本僧によって、リアルタイムで日本に伝えられたものと考 えられる。   守一 『終南家業』 巻中本 「重受戒 父 (文カ) 」(一二三三年成立、 文字右傍の丸括弧内は大谷による挿入、 以下も同じ) には 「今 日 本 因 り、 忍 師、 泛 舶 し て 遠 来 す * 22 」 と あ り、 「 忍 師 」 が 日 本 か ら や っ て き た こ と を 伝 え て い る。 日 本 側 史 料 で は『 碧 山日録』 に引用された曇照 (一一八七 〜 一二五九、 入宋一二一四 〜 一二二〇、 一二三三 〜 ?) の伝記に 「守一法師に依り、 戒光塔婆律寺に於いて、以て律部を稟ける。其の敏慧を一察し、厚く教誘を加えて、悉く其の法を嗣いで、東帰するな り * 23 」と紹介されており、日本僧曇照が守一のもとへ参学し、守一の法脈を継いで日本に伝えたとする * 24 。 一方の妙蓮『蓬折箴』にも以下のように日本からの参学僧について伝える。 妙 蓮 下 壇 の 時、 日 本 の 法 師( = 俊 ) 来 り て、 略 し て 識 面 を 得 る。 惜 し い か な、 曾 て 与 とも に 言 わ ず。 後 に 其 の 出 す 所の問答を見て、 彼の解行の帰すべきを知る。嘉定より淳祐に至るまで、 果たして学律の者有りて来たり。唯だ忍・ 敬の二法師、相聚すること年を連ね、これと 与 とも に義論すること、頗る稠密を得る。一には別して再び各の処天の一 涯を化す。 其の回国の道況の何如を知らず。 今範法師有りて到来す。 疊衣の過、 我曾て疑難を出して可の答有らば、 忽ちに問う。 妙 蓮 下 壇 時、 日 本 法 師 来、 略 得 識 面、 惜 乎、 不 曾 与 言、 後 見 其 所 出 問 答、 知 彼 解 行 可 帰、 嘉 定 至 於 淳 祐、 果 有 学 律 者 来、 唯 忍 敬 二 法 師、 相 聚 連 年、 与 之 義 論、 頗 得 稠 密、 一 別 再 化 各 処 天 一 涯、 不 知 其 回 国 之 道 況 何 如、 今 有 範 法 師 到 来、 疊 衣 過、 我曾出疑難有可答者、忽問、 (『続蔵』六〇、 九一頁下) 妙 蓮 は 俊 と は、 面 識 が あ る 程 度 で 語 り 合 う こ と も な か っ た が、 一 二 〇 八 〜 一 二 五 二 年 間 に 妙 蓮 の も と へ 訪 れ た「 学 律 の者」のうち「忍・敬の二法師」が長年妙蓮のもとに留まり、細かに議論を行ったことを伝える。両者は『蓬折箴』を

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) 上梓した一二五五年時点では帰国しており、その後音信不通であったようだが、この時には別に「範法師」がやってき ていることが示されている。   妙 蓮 に 師 事 し た 日 本 僧 に つ い て 記 す 日 本 側 史 料 と し て は 凝 然 著 作 が 挙 げ ら れ 、 彼 は 『 律 宗 綱 要 』 巻 下 ( 一 三 〇 六 年 成 立 ) に 以 下 の よ う に 真 照 を 紹 介 し て い る 。 こ れ に よ れ ば 真 照 は 、 正 元 ・ 弘 長 中 の 三 年 間 入 宋 (『 円 照 上 人 行 状 』 中 に よ れ ば 、 弘 長 三 年 に 帰 朝 と あ る の で 、一 二 六 〇 〜 一 二 六 三 に か け て の 入 宋 か (『 続 々 群 』 三 、四 八 九 頁 下 )) し 、妙 蓮 と 行 居 に 師 事 し た と い う 。 日本真照律師、大宋朝に入り、蓮宗師(=上翁妙蓮)に随いて、戒を受け律を問い、居宗師(=石林行居)に随い     て 、律 を 学 び 疑 を 決 す 。在 唐 三 年 、乃 ち 正 元 ・ 弘 長 の 間 な り 。    日 本 真 照 律 師、 入 大 宋 朝、 随 蓮 宗 師、 受 戒 問 律、 随 居 宗 師、 学 律決疑、 在唐三年、 乃正元弘長之間也。 (『律宗綱要』 巻下 『大正』 巻七四、 一七頁中)   凝 然『 律 宗 綱 要 』 巻 下 に は「 大 宋 第 十 四 主 理 宗 皇 帝 の 景 定 三 年 壬 戌〈 日 本 国 に は 人 王 第 八 十 九 代 帝 王 御 宇 の 弘 長 二 年 壬 戌 に 当たる〉の正月三日、 極楽庵に卒す。春秋八十有一なり * 25 」と あ り、 妙 蓮 は 一 二 六 二 年 に 示 寂 し た よ う で あ る か ら、 真 照 は 妙 蓮 の 晩 年 に 師 事 し た よ う で あ る。 ま た『 内 典 塵 露 章 』 に は「 行 居 律 師 は、 日 本 の 弘 長・ 文 永 の 暦 に 当 た っ て、 寺 院( = 湖 心 広 福律寺)を住持し、 律法を弘通す * 26 」とあり、 行居は一二六一 〜 一二七五年間に湖心広福律寺の住持だったという。   以 上 の よ う な 関 係 性 を 図 示 す れ ば、 上 図 の よ う に な る で あ ろ う。 (日本)俊芿(入宋:1166 ~ 1227) ↓ 影響 妙蓮(1182 ~ 1262) 守一(1182 ~ 1254 頃?) 文藁一巻(1228 ~ 33 頃) 一書 『終南家業』(1242 頃) 一書 『折蓬』 (1254)『蓬折直弁』 『律宗会元』 (再治) (1255)『蓬折箴』 (波線部は現存文献) (日 本) 「忍敬二法師」(1208 ~ 1252) 曇照(1187 ~ 1259、 入宋:1214 ~ 1220、1233 ~?) 「忍師」(曇照カ?1233 年頃) 「範法師」(1255) 真照(1259 ~ 1264 間に 3 年間) 南宋代南山宗論争と日本僧

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智山学報第六十七輯

3.凝然の差配

  入宋して妙蓮・行居に師事したとされる真照の来歴は、 『円照上人行状』 (一三〇二年成立)に詳しく、これによれば 真 照 は 円 照 に よ り 戒 壇 院 に 招 請 さ れ た 浄 因 の 講 義 に 参 加 し、 そ の 後 浄 因 に 師 事 し た と さ れ る * 27 。 凝 然 は こ の 時 の こ と を 述 懐 し て「 照 公( = 円 照 ) の 門 人、 兼 ね て 因 公( = 浄 因 ) に 投 じ る は、 即 ち 忍 空、 真 照、 凝 然 等 な り * 28 」 と 述 べ て いて、真照とともに浄因に投じた中には、後に戒壇院長老を務める凝然もいたことがわかる。すなわち二人はかなり近 い関係にあったと考えられ、おそらく凝然は、入宋して妙蓮に師事した真照から直接に守一・妙蓮の論争についての話 を聞いたものと推察される。   凝然は『律宗綱要』下に、南山宗の系譜を記して、その正統を明らかにしているが、このうち、第十五祖とされる元 照以降は、次のように続いたとされる。 第 十 五 祖、 杭 州 元 照 大 智 律 師。 ( 中 略 ) 第 十 六 祖、 開 元 経 院 智 交 律 師〈 或 い は 道 標 を 立 て 第 十 六 祖 と 為 す。 真 照 相 伝は交律師を取る。 俊 相承は標律師を取るなり〉 。 第十七祖、 東堂准一律師。 第十八祖、 竹溪法政律師。 第十九祖、 石鼓法久律師。 (中略) 彼の同門に如庵了宏律師有り。 (中略) 日本俊 法師越海入宋して、 彼の門下に至る。 (中略) 如庵門人に守一律師有り。 (中略)第二十祖、 上翁妙蓮律師。 (中略)守一師と宗義を諍論す。 (中略)第二十一祖、 石林行居律師。蓮師に承け律蔵を秉持す。竹溪已下の四人、皆湖心広福律寺に居し、住持遺法、御像教を秉る。日 本 真 照 律 師 は 大 宋 朝 に 入 り、 蓮 宗 師 に 随 い て 戒 を 受 け 律 を 問 い、 居 宗 師 に 随 い て 律 を 学 し 疑 を 決 す。 ( 中 略 ) 大 宋 律宗は、行居已後、連続弘伝して、今に絶えず。上來に震旦古来律法相承の相貌を陳述し竟んぬ。 第 十 五 祖 杭 州 元 照 大 智 律 師。 ( 中 略 ) 第 十 六 祖 開 元 経 院 智 交 律 師〈 或 立 道 標 為 第 十 六 祖。 真 照 相 伝 取 交 律 師。 俊 相 承 取 標 律 師 〉。 第 十 七 祖 東 堂 准 一 律 師。 第 十 八 祖 竹 溪 法 政 律 師。 第 十 九 祖 石 鼓 法 久 律 師。 ( 中 略 ) 彼 同 門 有 如 庵 了 宏 律 師。 ( 中 略 ) 日本俊 法師越海入宋。至彼門下。 (中略) 如庵門人有守一律師。 (中略) 第二十祖上翁妙蓮律師。 (中略) 与守一師諍論宗義。

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) ( 中 略 ) 第 二 十 一 祖 石 林 行 居 律 師。 承 于 蓮 師 秉 持 律 蔵。 竹 溪 已 下 四 人 皆 居 潮 (湖カ) 心 広 福 律 寺。 住 持 遺 法 秉 御 像 教。 日 本 真 照 律 師 入 大 宋 朝。 随 蓮 宗 師 受 戒 問 律。 随 居 宗 師 学 律 決 疑。 ( 中 略 ) 大 宋 律 宗。 行 居 已 後。 連 続 弘 伝。 于 今 不 絶。 上 来 陳 述 震 旦 古 來 律法相承之相貌竟( 『大正』七四、 一七頁上 〜 中) これらの系譜を図式化すると、以下のようになる。 16 15 16 17 18 19 20 21 承 東 堂 准 一 竹 渓 法 政 石 鼓 法 久 智 交 道 標   すなわち凝然は、真照の意見によって、南山宗は第十五祖元照の後、第十六祖智交 ︱ 第十七祖東堂准一 ︱ 第十八祖竹 渓法政と次第し、法政以降は、湖心広福律寺の住持に引き継がれるとして、真照にまで連なる妙蓮・行居の系譜が正統 であることが主張されている。同じく法政の弟子で、 俊 が入宋中の師とした如庵了宏は、 この系図上では異端となり、 もちろん俊 と同門だった守一もまた異端の扱いである。   同じ頃の記事と考えられる性海撰 『関東往還記』 の裏書律系譜 (一二六二年以降成立) 第六表には、 『律宗綱要』 同様に、 第十五祖元照以降、 「第十六   開元経院 知 (ママ) 交律師」 「第十七   東 塔 (ママ) 准一律師」 「第十八   竹 院 (ママ) 法政律師」 「第十九   石鼓法 久律師」 「第廿   上翁妙蓮律師」 「第廿一   石林行居律師」とする系図を挙げており、続けて以下のような記載がある。 已上震旦の律宗相承次第はかくの如し。日本華洛増福寺の真照大徳、大宋朝に往きて妙蓮律師に謁して受戒し、行 居律師に依附して、律の疑を諮り決し、即ち律相承血脈譜を承けてこのかた、即ち真照を以て第二十二代律師と為

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智山学報第六十七輯 し了んぬ。 已 上 震 旦 律 宗 相 承 次 第 如 是、 日 本 華 洛 増 福 寺 真 照 大 徳、 往 大 宋 朝 謁 妙 蓮 律 師 受 戒、 依 附 行 居 律 師、 諮 決 律 疑、 即 承 律 相 承 血 脈譜而来、即以真照為第二十二代律師了(奈良国立文化財研究所[一九七七]九六頁) ここでは真照が「律相承血脈譜」なる書を持参して帰国しており、南山宗の正統の第二十二祖に真照が配当されること が記されている。   『関東往還記』の裏書律系譜のうち、 第三表は「律宗相承血脈〈四分律〉 」であるが、 これは「釈迦大師」から始まり、 「 法 政 」 の 下 に「 法 久 」 と「 了 如庵 宏 」 が 配 置 さ れ、 う ち 了 宏 の 下 に「 守 一 」 と「 俊 」 が 並 記 さ れ る * 29 も の で、 真 照 持 参 の も の と は 考 え ら れ な い。 ま た 泉 涌 寺 に は 伝 来 不 明 の『 伝 律 祖 裔 図 』 * 30 が 伝 存 し て い る。 こ れ は「 迦 葉 尊 者 」 に 始 ま る律の伝持について、それぞれの師の下にどのような弟子がいたかを示したものである。このうち「南山律師」に「第 一 代 」、 以 下「 允 堪 律 師 」 に「 十 三 代 」 と 注 記 が あ り、 こ の 相 承 は『 律 宗 綱 要 』 な ら び に『 関 東 往 還 記 』 の 裏 書 に 示 さ れる相承と同じである。允堪の下には 「霊玩律師」 「択其律師」 「文捷律師」 の三名が記され、 このうち霊玩に 「十四代」 の注記があるものの、択其の下に元照の名があるので、系譜そのものは凝然等が伝えるものと、大きな異なりはないよ うである * 31 。ただしこちらも元照までの系譜を記すのみであるから、真照持参のものと伝えられる系譜とは異なる。   そもそも禅の印可や密教の灌頂と異なり、受戒に関して「血脈譜」と呼ばれる系譜が成り立つかどうかは難しく、実 際 に 宋 国 で そ の よ う な も の が 作 ら れ て い た の か ど う か に つ い て も 疑 問 が 残 る * 32 。 む し ろ 建 治 三 年( 一 二 七 七 ) 十 月 下 旬に新しく戒壇院長老となる凝然( 『円照上人行状』 )の同門だった真照が師事したのが妙蓮・行居だったので、単純に 南都律宗ではこちらが正統とされ、真照が中国南山宗の正統を鑑真以来再び日本の東大寺に届けたと理解されたという ことではないだろうか。 実際凝然は、守一と妙蓮の論争に触れ、妙蓮義の正統性を主張している。 後問は即ち是れ後に菩薩大戒を受けるや否やなり。宋朝人師、異義は一に非ず。或いは後に必ずしも菩薩戒を受け

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) ず。守一律師等の所解の如きなり。或いは後には必ず彼の菩薩大戒を受くべし。妙蓮律師等の所釈の如きなり。後 に受けるべきは、是れ南山師及び元照師の正本意なり * 33 。 後問即是後受菩薩大戒否也。 宋朝人師異義非一。 或 後 (「後」 の後 「不」 欠するか) 必受菩薩戒。 如守一律師等所解也。 或後必可受彼菩薩大戒。 如 妙 蓮 律 師 等 所 釈 也。 後 可 受 者 是 南 山 師 及 無 (元カ) 照 師 正 本 意 也。 ( 凝 然『 梵 網 戒 本 疏 日 珠 鈔 』 巻 八( 一 二 七 六 年 成 立、 一 二 八 三 年再治) 『大正』六二、 五一頁下) 前に述べたように、守一は一度の受戒によって(その行儀を問わずに)真如を獲得すると考えるので、後に菩薩戒の受 戒を必要としない。 一方の妙蓮は具足戒は単純に自身の行動を正すためのものとみていくので、 菩薩僧となるためには、 受具足戒の後に受菩薩戒を必要とする。凝然はこれら両者の意見について述べ、妙蓮義こそ「南山師(道宣)及び元照 師の正本意」であると述べる。   ま た 東 向 観 音 寺( 京 都 ) に は、 浄 菩 提 寺 の 本 空 の 撰 述 と さ れ る『 守 一 七 難 』( 三 函 四 ) が 伝 わ っ て い る * 34 。 こ れ に は 「 永 仁 四 年〈 丙 申 〉 十 二 月 廿 四 日 於 洛 北 浄 菩 提 寺 書 写 之   沙 門   凝 然 誌 之 也 」「 右 再 校 了   宏 深 」( 八 丁 表 〜 裏 ) の 奥 書 があり、永仁四年(一二九六)に凝然が書写したものが底本に使用されたものであったことがわかる。これは守一の主 張について 「一ニハ自宗相違 ノ 難」 「二 ニハ 円融毀法 ノ 難」 「三 ニハ 能所不斉 ノ 難」 「四 ニハ 機法乖各 ノ 難」 「五 ニハ 法則雑乱 ノ 難」 「六 ニハ 円意不成 ノ 難」 「七 ニハ 聖教相違 ノ 難」という七つの難を挙げて非難するものであり、翻って対論者の妙蓮義を支持する 内容になっている。   こ の よ う に 真 照 の 同 門 だ っ た 凝 然 は、 真 照 の 師 妙 蓮 を 南 山 宗 の 正 統 と し、 妙 蓮 義 を 正 義 と す る。 さ ら に 凝 然 は、 『 三 国仏法伝通縁起』 巻上 「戒律宗」 (一三一一年成立) において、 真照の後、 蒙古が南宋に攻め入った一二七二年以降には、 中国における律法は廃絶したといい、 「如法」ではなくなったという見解を述べている。 宋朝に入りて後三百十三年を経、 第十五主慶宗皇帝の、 咸淳十年甲戌に至るまで、 此の数代の中には、 律法昌行し、 包摂該括して講通開敷し、師資相継して、横竪に弘伝す。然るに 咸 (一二七二) 淳八 年壬申、徳祐元にして咸淳に復す。此の年

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智山学報第六十七輯 蒙 古 は 国 を 伐 つ。 ( 中 略 ) 蒙 古 が 国 を 伐 っ て 已 後、 律 法 は 廃 絶 し て 行 わ れ ず、 講 通 有 り と 雖 も、 事 は 如 法 な ら ず。 越海人に問えば、是くの如くの語を陳ぶ。 入宋朝、 後経三百十三年、 至第十五主慶宗皇帝、 咸淳十年甲戌、 此数代中、 律法昌行、 包摂該括講通開敷、 師資相継、 横竪弘伝。 然咸淳八年壬申、 徳祐元而復咸淳、 此年蒙古伐国。 (中略)蒙古伐国、 已後律法、 廃絶不行、 雖有講通、 事不如法、 問越海人、 如是陳語、 (『仏全』一〇五、 六頁下)   凝然は、真照が南山宗の正統を日本に持ち帰った後、本家の中国ではこれが途絶えてしまったとして、元代における 南山宗の消長には関心を払わない。すなわち真照が持ち帰り、南都律宗にだけ伝わった妙蓮義こそが南山宗の正統であ ると考えていたことがわかる。

4.まとめ

  俊 に よ っ て 海 を 越 え て 宋 国 に 伝 え ら れ た 日 本 円 戒 思 想 は、 本 場 の 南 山 宗 に 大 い に 影 響 を 与 え、 南 山 宗 義 の 円 戒 化 す ら引き起こした。これに歯止めをかけるべく、妙蓮は宗義の円戒化を主張する守一に反駁し、天台義と南山義の明確な 線引きを行おうと試みる。こうして両者間に論争が成立した。   守一・妙蓮のもとへは多くの日本僧が参学し、論争の経緯をリアルタイムで日本へ伝えたが、晩年の妙蓮に師事した 真照と同門だった凝然は、妙蓮義こそ正統とする歴史観を披露していく。凝然は湖心広福律寺の住持を務めた者が南山 宗の正統であるという意見を提出しているが、本家宋国内でそのような認識が存在していたかは確認がとれない。   ち な み に『 関 東 往 還 記 』 裏 書 律 系 譜 の う ち 第 九 表 に 掲 載 さ れ る「 泉 涌 寺 律 宗 相 伝 」 に は、 「 大 智 律 師   道 標 律 師   惟 (准カ) 一 律 師   法 久 (政カ) 律 師   了 宏 律 師〈 已 上 大 宋 〉  俊 不 可 棄 法 師 * 35 」 と い う 系 譜 が 紹 介 さ れ て い て、 妙 蓮 は 挙 げ ら れ て い な い。 こ れ は 前 に 紹 介 し た 第 三 表 も 同 様 で あ る。 俊 は 入 宋 留 学 中、 如 庵 了 宏 に 就 い た た め、 俊 に 至 る 系 譜 上 で は、 妙蓮とは師弟関係をつなぐことができない。すなわち凝然が妙蓮義を正統とした以上、南都律宗と泉涌寺との間に、正

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) 統とする南山宗の系譜に関して相違が生じざるを得なくなったといえる。あるいは、これらは凝然があえて泉涌寺との 決別、あるいは線引きを行った結果ともみることが可能であろう。   はじめに述べたように、日本においては、最澄が大乗戒思想を提出して以来、長きにわたって南都北嶺間両者間に思 想的対立があった。守一義は、ほぼ天台宗義と同一化してしまっており、これを採ることは、凝然にとっては南都律宗 の敗北とも受け取られたのではないか。   彼は建治三年(一二七七)十月下旬、円照の後を継いだ。治承四年(一一八〇)に源平合戦の煽りを受けて炎上した 東大寺の復興は時間を要し、戒壇院は建久八年(一一九七)に堂宇だけは復興した( 『東大寺造立供養記』 )ものの、僧 坊が建立されたのは、 仁治三年(一二四二)のこと( 『円照上人行状』 )で、 それまでは僧が滞留することもかなわなかっ たようである。戒壇院の教学的復興は、やっとこの頃に端緒をつかんだと言え、研究環境や資源が整って、まさにこれ から戒壇院の律学の標榜が可能となる時期に凝然は長老に就任した。そしてこの時期は、入宋僧が爆発的に増え、南宋 での仏教界の情報が日本にスムーズに紹介されるようになった時期にも相当する。   次々と流入してくる南宋代の新しい南山宗義にどう対応するかが凝然に問われた。叡山を批判してきた南都律宗を継 承し、東大寺戒壇院長老として律宗を盛り上げていく使命を帯びた凝然が選択すべき道は、おのずから決定づけられて いたともいえるのではないか。 付記:本研究は日本学術振興会科研費 JP16K21497 の助成を受けたものです。 [参考文献] ○一次資料・略号 『大正』 :『大正新脩大蔵経』普及版、大正新脩大蔵経刊行会

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智山学報第六十七輯 『続蔵』 :『新纂大日本続蔵経』 、国書刊行会 『仏全』 :『大日本仏教全書』 、名著普及会 『続々群』 :『続々群書類従』 、国書刊行会 赤松俊秀監修[一九八四] 『泉涌寺史』本文篇 奈良国立文化財研究所篇[一九七七] 『西大寺叡尊伝記集成』法蔵館 ○二次資料 石田瑞麿[一九五六] 「律宗問答と俊 」、 『印度学仏教学研究』七 大谷由香[二〇一六] 「入宋僧俊 を発端とした日宋間「円宗戒体」論争」 『日本仏教綜合研究』一四 大谷由香[二〇一七] 「入宋僧俊 と南都戒律復興運動」 『印度学仏教学研究』六五 ︱ 二 大谷由香[二〇一八予定] 「南宋代南山宗論争の経緯と論点」 『仏教の心と文化』坂本廣博博士喜寿記念論文集 大塚紀弘[二〇〇六] 「中世都市京都の律家」 、『寺院史研究』一〇 大塚紀弘[二〇一七] 「鎌倉時代の日宋交流と南宋律院 ︱ 律書版本と教学の伝播」 『日本歴史』八二五 土橋秀高[一九七二] 「俊 律師の提起せる菩薩戒重受の問題」 、石田充之編『鎌倉仏教成立の研究   俊 律師』法蔵館 西谷   功[二〇一三] 「鎌倉時代における泉涌寺流の道場荘厳について ︱ 仏画の宗教的機能 ︱ 」『密教図像』三二 東向観音寺調査団[二〇〇六] 「東向観音寺史料目録(二) 」、 『東京大学日本史学研究室紀要』一〇 *1 本 稿 で 述 べ る 守 一 の 主 張 に つ い て は、 「 南 宋 代 南 山 宗 論 争 の 経 緯 と 論 点 」( 『 佛 教 の 心 と 文 化 』 坂 本 廣 博 博 士 喜 寿 記 念 論 文 集、 二〇一八年刊行予定)に詳細を掲載予定である。 *2 六 に 出 家 し て 聖 道 行 を 行 ず る を 明 か す と は、 但 だ 出 聖 の 道 は 無 始 よ り 未 だ 曾 て あ ら ざ る は、 皆 世 に 著 す る の 慣 習 捨 て 難 き に 由る。今既に俗を抜けり、 必ず聖業を行ずべし。経中に乃ち多し、 要をもって三位を分たん。 【①性空観】一には小乗人の行、 事 の 生 滅 を 観 じ て、 我 人 善 悪 等 の 性 無 し と 知 る。 【 ② 相 空 観 】 二 に は 小 菩 薩 の 行、 事 の 生 滅 を 観 じ て、 我 人 善 悪 等 の 相 無 し と

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) 知 る。 【 ③ 唯 識 観 】 三 に 大 菩 薩 の 行、 事 は 是 れ 心 な り と 観 じ、 意 言 分 別 す。 故 に『 摂 論 』 に 云 う、 「 願 楽 位 従 り 究 竟 位 に 至 る を観中と名づく。意言の分別を縁じて境と為せばなり。此れを離れて別の余法無し。 六 明 出 家 行 聖 道 行。 但 出 聖 道 無 始 未 曾。 皆 由 著 世 慣 習 難 捨。 今 既 拔 俗 必 行 聖 業。 経 中 乃 多 要 分 三 位。 一 者 小 乗 人 行。 観 事 生 滅 知 無 我 人 善 悪 等 性。 二 小 菩 薩 行。 観 事 生 滅 知 無 我 人 善 悪 等 相。 三 大 菩 薩 行。 観 事 是 心 意 言 分 別。 故 摂 論 云。 從 願 楽 位 至 究 竟位名観中。縁意言分別為境。離此無別余法。 (『行事鈔』 巻下四 「沙弥別行篇」 、『大正』 四〇、 一四九頁上、 また 『羯磨疏』 「諸 戒 受 法 篇 」、 『 続 蔵 』 四 一( 元 照『 済 縁 記 』 に 引 用 )、 一 九 八 頁 下 〜 一 九 九 頁 上 も ほ ぼ 同 文。 な お【   】 内 は 大 谷 に よ る 挿 入。 以下も同様。 ) *3 然るに理の大要は三種を出でず。 【①性空観】 一には諸法は性空無我なりと。 此の理をもって心を照らすを名けて小乗と為す。 【②相空観】 二には諸法は本より相是れ空にして、 唯だ情の妄見のみと。 此の理をもって照用するは小菩薩に属す。 【③唯識観】 三には諸法は外塵本より無し。 実に唯だ識のみ有りと。 此の理深妙にして、 唯だ意のみ縁知す。 是れ大菩薩・仏果の証行なり。 故に摂論に云う、 「唯識は四位に通ず」等と。 然 理 大 要 不 出 三 種。 一 者 諸 法 性 空 無 我。 此 理 照 心 名 為 小 乗。 二 者 諸 法 本 相 是 空。 唯 情 妄 見。 此 理 照 用 属 小 菩 薩。 三 者 諸 法 外 塵本無。実唯有識。此理深妙。唯意縁知。是大菩薩仏果証行。故摂論云。唯識通四位等。 (『行事鈔』 巻中四 「懺六聚法篇」 、『大 正』四〇、 九六頁中) *4 理 を 観 ず 中 に 就 い て、 【 ① 性 空 観 】 小 乗 の 極 処 は、 人 法 の 二 観 を、 我 に 対 し て 観 柝 す。 唯 だ 是 れ 塵 な り と 見 れ ば、 陰 に 対 し て こ れ を 求 め る に、 但 だ 唯 だ 名 色 の み。 人 を 求 め 法 を 求 め る に、 了 に 得 る べ か ら ず、 是 れ を 空 と 為 す な り。 【 ② 相 空 観 】 大 乗 の 極 処 は、 空 識 を 本 と 為 す。 初 め は 浅 滞 教、 謂 く 境 は 是 れ 空 な り。 了 し て 境 は 本 と 性 唯 識 に 非 ざ る な り。 略 し て 観 門 を 挙 ぐ。 行体は別の如し。 就観理中、 小乗極処、 人法二観、 対我観柝、 唯見是塵、 対陰求之、 但唯名色、 求人求法、 了不可得、 是為空也。大乗極処、 空識為本、 初 浅 滞 教、 謂 境 是 空、 了 境 本 非 性 唯 識 也、 略 挙 観 門、 行 体 如 別。 (『 羯 磨 疏 』「 懺 六 聚 法 篇 」、 『 続 蔵 』 四 一( 元 照『 済 縁 記 』 に 引用) 、三六六頁中 〜 下)

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智山学報第六十七輯 *5 南 山 亦 た 無 生 懺 法 を 立 て、 総 じ て 三 種 を 列 す。 一 に は 諸 法 の 性 空 無 我 な り。 此 の 理 心 を 照 ら す を、 名 け て 小 乗 と 為 す。 二 に は 諸 法 の 本 相 是 れ 空 に し て、 唯 だ 情 の 妄 見 な り。 此 の 理 用 を 照 ら す を、 小 菩 薩 に 属 す。 三 に は 諸 法 外 塵、 本 来 実 無 し。 此 の 理 深 妙 な り。 唯 だ 意 を も っ て 縁 知 す。 是 れ 大 菩 薩 仏 果 の 証 行 な り。 南 山 の 此 の 文、 即 ち 拠 有 り と 雖 も、 然 も 第 一 を 判 じ て 小 乗 に 属 す。 小 乗 は 且 ら く 重 を 懺 す る の 理 無 し。 況 ん や 復 た 此 の 位、 已 に 初 心 を 隔 つ る を や。 第 二 第 三、 復 た 菩 薩 及 以 び 仏 果 に属す。 凡夫依らんと欲するに、 心を措くに地無し。 今の所立は、 直ちに凡下を明かす。 大乗を用いて重罪を悔いんと欲せば、 当 に 方 等 普 賢 観 等 に 依 る べ し。 是 の 故 に 南 山 位 を 判 ず る こ と 太 だ 高 に し て、 初 心 分 無 し。 高 位 は 罪 無 し。 何 ん ぞ こ れ を 列 ぬ るを須いん。 南 山 亦 立 無 生 懺 法、 総 列 三 種。 一 者 諸 法 性 空 無 我。 此 理 照 心、 名 為 小 乗。 二 者 諸 法 本 相 是 空、 唯 情 妄 見。 此 理 照 用、 属 小 菩 薩。 三 者 諸 法 外 塵、 本 来 無 実。 此 理 深 妙。 唯 意 縁 知。 是 大 菩 薩 仏 果 証 行。 南 山 此 文、 雖 即 有 拠、 然 第 一 判 属 小 乗。 小 乗 且 無 懺 重 之 理。 況 復 此 位、 已 隔 初 心。 第 二 第 三、 復 属 菩 薩 及 以 仏 果。 凡 夫 欲 依、 措 心 無 地。 今 之 所 立、 直 明 凡 下。 欲 用 大 乗 悔 重 罪 者、 当 依 方 等 普 賢 観 等。 是 故 南 山 判 位 太 高、 初 心 無 分。 高 位 無 罪。 何 須 列 之。 ( 湛 然『 止 観 輔 行 伝 弘 決 』 第 四 之 二『 大 正 』 四六、 二五八頁下 〜 二五九頁上) *6 た だ し 実 際 に は こ の 通 り の 文 言 は『 摂 大 乗 論 』 に は 見 ら れ ず、 真 諦 訳『 摂 大 乗 論 釈 』 に 以 下 の よ う に あ る の を、 抜 粋 し な が ら引用したものと考えられる(傍線部) 。 故知塵無所有是通達真如。 唯有識是通達俗。 復知此識無有生性。 是通達真如。 此識是仮有為通達俗。 若不通達俗。 無以能得見真 。 以離俗無真故。 若不通達真無以遣俗。以俗無別 体 故。所以能通達真俗。由能解唯識理故。 (『大正』三一、 二〇八頁下) *7 「便」字、 『続蔵』中には「使」字に作るも、意味から改めた。 *8 大谷由香[二〇一六] *9 妙 蓮 は 一 二 五 四 年 に『 蓬 折 直 弁 』 を 著 作 し、 翌 年 に こ れ を 再 治 し て『 蓬 折 箴 』 を 著 作 し て い る。 両 書 は 構 成 が 異 な り、 再 治 後の 『蓬折箴』 に多少の増補が見られるものの、 大概は同文である。しかし両書ともに誤写に起因すると思われる誤字が多く、 判読が困難である。 また現在のところ両書ともに 『続蔵』 の底本となった蔵外書院文庫本以外に写本はみつかっていない。 よっ

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) て、 本論文では、 再治後の 『蓬折箴』 (『続蔵』 所収活字本ならびに蔵外書院文庫写本を参照) に依りながらも、 『蓬折直弁』 (『蓬 折 箴 』 と 同 様 ) を 対 校 し て 本 文 を 読 み 進 め た。 ま た い ず れ も タ イ ト ル に 使 用 さ れ て い る「 蓬 」 字 は、 植 物 の ヨ モ ギ を 意 味 す る 語 で、 タ イ ト ル が 何 を 意 味 し て い る の か 不 明 で あ る。 あ る い は こ の 書 の 著 者 妙 蓮 の「 蓮 」 字 を 誤 写 し た も の か と も 考 え ら れる。そうであれば、 『蓬折直弁』は、 妙蓮が(守一説を)折伏して直説するの意であり、 『蓬折箴』は、 妙蓮が(守一説を) 折伏して箴言するの意であろうと考えられる。妙蓮は守一の 『折蓬』 という書物に対応してこれらの書物を記したことが 『蓬 折 箴 』 の 記 述 に よ り 知 ら れ る が、 こ ち ら も『 折 蓮 』 の 誤 写 で あ る と す る な ら ば、 こ ち ら の タ イ ト ル も ま た、 ( 守 一 が )) 妙 蓮 の説を折伏するの意として解釈が可能である。 *10 三種理観、随律之、経祖教観、宜用之(妙蓮『蓬折箴』 、『続蔵』六〇、 八〇頁下) *11 有処戒観両門、須分心境、戒以防禁為心、罪悪為境、観以契会為心、寂理為境(妙蓮『蓬折箴』 、『続蔵』六〇、 八〇頁下) *12 「本」の字、 『蓬折直弁』に無し。 *13 「又」の字、 『蓬折直弁』には「文」に作る。 *14 「所」の字、 『蓬折直弁』には無し。 *15 「已」の字、 『蓬折箴』には「至」に作るが、 『蓬折直弁』にしたがい改めた。 *16 「遮」の字、 『蓬折直弁』には「麤」字に作る。 *17 「妄」の字、 『蓬折直弁』には「忘」字に作る。 *18 「除」の字、 『蓬折直弁』には「深」字に作る。 *19 「着」の字、 『蓬折直弁』には「著」字に作る。 *20 「着」の字、 『蓬折直弁』には「著」字に作る。 *21 「妄」の字、 『蓬折直弁』には「忘」字に作る。 *22 今因日本、忍師、泛舶遠來( 『終南家業』巻中本「重受戒 父 (文カ) 」、 『続蔵』巻五九、 七三六頁上) *23 依 守 一 法 師、 於 戒 光 塔 婆 律 寺、 以 稟 律 部、 一 察 其 敏 慧、 厚 加 教 誘、 悉 嗣 其 法 而 東 帰 也( 『 碧 山 日 録 』 長 禄 三 年( 一 四 五 九 ) 四

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智山学報第六十七輯 月二八日条、 『増補続史料大成』二〇、 二〇 〜 二一頁) *24 大塚紀弘氏は曇照の別名 「法忍」 に着目 (大塚氏は 「法忍」 を房号とするが、 それを明記した史料は大谷未見) して、 守一 『終 南 家 業 』 に 出 る「 忍 師 」、 ま た 妙 蓮『 蓬 折 箴 』 に 出 る「 忍 法 師 」 は い ず れ も 曇 照 を 指 す 可 能 性 を 示 唆 し て お ら れ る( 大 塚 紀 弘 [二〇〇六] )。 *25 大 宋 第 十 四 主 理 宗 皇 帝、 景 定 三 年 壬 戌〈 当 日 本 国 人 王 第 八 十 九 代 帝 王 御 宇、 弘 長 二 年 壬 戌 正 月 三 日、 卒 于 極 楽 庵、 春 秋 八 十 有一( 『律宗綱要』巻下『大正』七四、 一七頁中) *26 行居律師、当于日本弘長・文永之暦、住持寺院、弘通律法( 『仏全』巻三、 五二頁上) *27 諱真照〈本は清禅〉 。道号寂菴、 是れ宋朝の字なり。本朝房号は、 実乗、 華洛の人なり、 律蔵に精通し、 台宗を譜〈諳カ〉練す。 大宋朝に往き、 決して疑壅に通ず。 宋・和の戒旨、 南・北の律義、 指して陳べること鏡の如く、 照明は玉に同じ。 密教を受学し、 功業運積し、 増福寺を住持して、 大いに所伝を弘む。照公(=円照)和上、 浄因律師を請い、 戒壇院に於いて戒疏を講ぜしむ。 厥の時の学秀の一なり。次で戒光寺に移り、 因公徳に随いて業疏を聴講す。于時に宋に度り、 帰朝の後には、 戒壇院に住す。 六 年 の 間、 三 大 部 を 講 じ、 厥 の 後 に 泉 涌 寺 に 住 す。 十 余 年 中、 思 允 上 人 に 随 い、 律 部 を 研 究 し、 兼 ね て 台 教 に 通 ず。 大 宋 に 在 れ ば、 妙 蓮 律 師 に 謁 し、 戒 法 を 伝 受 し、 行 居 律 師 に 随 い て、 大 部 の 疑 を 決 す。 霊 芝 の 旧 跡 を 拝 し、 如 菴 の 古 処 を 訪 ね、 両 朝を遊歴する者、 当代啻一のみ。師宗多しと雖ども、 照公は是れ本報恩の勤、 今に弥新しく、 遂に和上の等身真影を画して、 戒壇にこれを安じ、永く規矩と為す。寂入・真照は同時受戒、即ち建長六年十月十五日なり。 諱真照、 〔本清禅、 〕道号寂菴、 是宋朝字也、 本朝房号、 実乗、 華洛人也、 精通律蔵、 譜 〈諳カ〉 練台宗、 往大宋朝、 決通疑壅、 宋和戒旨、 南北律義、 指陳如鏡、 照明同玉、 受学密教、 功業運積、 住持増福寺、 大弘所伝、 照公和上、 請浄因律師、 於戒壇院、 令講戒疏、 厥時学秀之一也、 次移戒光寺、 随因公徳、 聴講業疏、 于時度宋、 帰朝之後、 住戒壇院、 六年之間、 講三大部、 厥後住泉涌寺、 十 余 年 中、 随 思 允 上 人、 研 究 律 部、 兼 通 台 教、 在 大 宋 者、 謁 妙 蓮 律 師、 伝 受 戒 法、 随 行 居 律 師、 決 大 部 疑、 拝 霊 芝 之 旧 跡、 訪 如 菴 之 古 処、 遊 歴 両 朝 之 者、 当 代 啻 一 而 已、 師 宗 雖 多、 照 公 是 本、 報 恩 之 勤、 于 今 弥 新、 遂 画 和 上 等 身 真 影、 安 之 戒 壇、 為 永 規 矩、 寂 入 真 照 同 時 受 戒、 即 建 長 六 年 十 月 十 五 日 也、 (『 円 照 上 人 行 状 』 中、 『 続 々 群 』 巻 三、 四 九 二 頁 上 〜 下、 文 字 右 傍

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日宋交流と鎌倉期律宗義の形成(大谷) 山括弧内は元来史料に存する注記) *28 日本真照律師、 入大宋朝、 随蓮宗師、 受戒問律、 随居宗師、 学律決疑、 在唐三年、 乃正元弘長之間也。 (『律宗綱要』巻下、 『大 正』巻七四、 一七頁中) *29 律宗相承血脈〈四分律〉 釈迦大師   迦葉   阿難   末田地   商那和須   優婆毬多   法正尊者   法時尊者〈曇摩迦羅〉   法聡律師 道覆   恵光   道雲   道興   智首   南山   周師   道恒   省躬   恵正   法宝   元表   守言   元外   法栄 処恒   択悟   允堪   択其   元興 知交 准一 法久      守一        道標           了宏〈如庵〉      俊 (奈良国立文化財研究所[一九七七]九三頁) *30 赤 松 俊 秀 監 修[ 一 九 八 四 ] 一 三 頁 に 影 印 が 掲 載 さ れ る。 ま た 泉 涌 寺 心 照 殿 学 芸 員 の 西 谷 功 氏 の 取 り 計 ら い に よ り、 現 物 を 実 見させていただいた。衷心より感謝申し上げます。 *31 た だ し『 伝 律 祖 裔 図 』 に 十 三 代 允 堪 を 継 ぐ の が、 第 十 四 代 霊 玩 と さ れ て い る こ と は 重 要 で、 こ れ に よ れ ば 元 照 は 南 山 宗 の 正 統ではなく、その流れはその後継承されていないと解釈される。 *32 泉 涌 寺 伝 来 の『 伝 律 祖 裔 図 』 は、 宋 国 将 来 と も 伝 え ら れ る が、 疑 問 で あ る。 ま た 本 資 料 は、 前 に 述 べ た よ う に 南 山 宗 の 弟 子 筋の名前を並べたもので、血脈とはまた異なるものである。 *33 こ こ で は「 或 後 必 受 菩 薩 戒 」 と あ る 箇 所 に つ い て、 「 後 」 の 下 に「 不 」 を 補 っ た 訓 読 を 行 い、 守 一 の 意 見 を「 ( 受 具 足 戒 の ) 後 に 必 ず し も 菩 薩 戒 を 受 け る 必 要 は な い 」 と 解 釈 し た。 た だ し「 或 後 必 受 菩 薩 戒 」 の 文 そ の ま ま で「 ( 円 教 の 受 戒 の ) 後 に は 必然的に菩薩戒を受けたことになっている」と解釈することも可能である。 *34 東向観音寺調査団[二〇〇六]に大塚紀弘による解説が掲載される。 *35 奈良国立文化財研究所編[一九七七]九七頁

参照

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