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中央学術研究所紀要 第41号 068天谷忠央「教学の自由と立正佼成会の未来」

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一 はじめに

 中央学術研究所の勧めで本稿をまとめることになったが、これは研究論文などと言 えるものではなく、私の、教学というものに対する信念と、立正佼成会(以下本会と いう)の未来における創造的発展に向けての思いをつづったものにすぎない。  はじめに本稿の結論を述べれば、教学なくして宗教としての本会の存在はなく、教 学の自由なくして本会の未来にける創造的発展はないということに帰結する。ところ でなぜ、私が教学の問題を選んだか、なぜ教学の問題に思いを寄せてきたか、本稿の 動機を述べねばならない。  私の人生において、法華経の思想や信仰に触れ、教学というものに触れる最初の機 会をあたえてくれたのは父であった。父天谷昌弘は若きころ日蓮聖人の思想と実践に 傾倒し、大学の研究室で政治学を学ぶ傍ら、法華経信仰に生きていた。世界大戦によ ってビルマ戦場に送られたが、無事生還したものの敗戦日本の惨状を見て、学問を断 念し信仰の世界に身を投じた。立正安国をめざして法華経広宣流布に全生活をゆだね ているとき、本会の信仰にめぐりあったのであった。父は入会後五年の間故郷である 福井県を中心に北陸布教に献身していたが、その後本部からの要請によって東京に移 り、教学部長に任ぜられ、役を果たしていく。そうした父の勧めもあって、私は立正 大学の仏教学部に進み、そこで仏教の基礎的な知識を学んだ。  このころの本会は真実顕現の幕開けの時代であり、教義の体系化とともに幹部や会 員に対する教学の研修が進められていた。順次刊行された庭野日敬開祖(以下、開祖 という)の『法華経の新しい解釈』とそれを踏まえた本会の新しい教学体系は、伝統 的解釈を越えて現代に求められる内容を具備しているのではないか、そしてまた本会

天 谷 忠 央

一 はじめに 二 教学とはなにか 三 本会における教学と教団運営 四 本会の未来と教学の自由

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を通じて、法華経の世界が現代によみがえりつつあるのではないか、当時の私にはそ のように思えた。  大学を卒業した1964(昭和39)年は大聖堂完成の年であり、開祖の英断によって学 林が設立された年である。幸運にも私はそのまま学林に進んだ。とりわけ学林講師と なられた増谷文雄先生の、人間の立場から仏教の全体と本質をとらえようとする講義 に接し、私は教学の根本を教えられたような記憶がある。後に出版された、増谷博士 の『根本仏教と大乗仏教』は、本会教学の基盤ともなる重要な書物ではないかと思う。 開祖と増谷博士との間で、すでに1959年に『佼成』誌の対談の中で、仏教の本質につ いて膝を打つような高いレベルの対話が行なわれていたことを私は後で知った。  卆林後私は、青年育成の現場で16年間を過ごした。この間本会は、強力な布教活動 とともに、その組織力を背景にさまざまの社会的活動を起こして強力に推進するよう になっていた。それは宗教活動の軸を個人救済中心から社会救済優先へ移したような 印象であった。そのいっぽうで、教団は教学の振興を担った教学部を廃止する。私が 学んだ学林は、当初教学部に置かれていたこともあり、ある種の疑問を抱いたのは事 実である。布教の現場からは、あまりに諸活動が拡大していく中で、ひとりひとりの 教化・救済の場である法座や会員の米櫃の中まで心配するといわれた手取りが、ほん らいの姿を失っていることに、懸念や心配の声が聞かれるようになっていた。  社会活動を担当するようになった私は、いつしかそうした流れに乗っている自分を 感じつつも、やはり自分のどこかで割り切れないものを感じていたのであろう、本部 の企画室に異動となり組織運営の現実を内側から知ることによって、純粋な信仰と教 団運営について問題意識をもつようになっていた。  『立正佼成会史』の発刊(1983年)がちょうどそのころで、歴史を知り歴史を読み解 くことの重要性を教えられた。その後布教の現場で四年間を過ごしたが、教学研修を 通して学んだ信仰の本質や諸法門を十分に活かすこともできず、また信仰と教団運営 と諸活動の関わりについての課題も残したまま、中央学術研究所に移った。  研究所での12年間は、私に多くの学びの機会をあたえてくれ、宗教学、仏教学その 他各分野を代表する諸先生との交流を通じて、じつに多くの知見を得ることができた。 この間、脳死・臓器移植問題への対応、オウム真理教事件をきっかけとした宗教法人 法改正問題への対応、本会の諸儀礼や会規改正などの検討会議への参画、あるいは開 祖の入寂にともなう諸事案への対応など、教義的見地からの取り組みも必要とされ、 教学の必要性を再確認することとなった。  最後の職務となった教学委員会での2年半は、委員会の諸体制が整っていなかった こともあり、会長の教学諮問機関としての職責を果たすことができなかったが、法華 経や開祖の思想・信仰を学び直し、教学の問題について考える絶好の機会となったの は幸いであった。その思考に加えた自分なりの方法は、歴史と歴史の中で生きる人間

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に視点を当てることであった。  この結果私なりに到達した結論は、釈尊を動かし、諸仏教を動かし、法華経を動か し、開祖を動かし、そして本会を動かしてきた熱い原動力、そのこころざしは教義や 信仰のあり方などの問題を自由に考えたり議論したりできる教学の自由な営みにある というものであった。気がつけば、私もまたそうした教学の自由によって、仏教徒の 一人として生きてくることができたのではないかと思う。  かけがえのない人生を生きることのできた感謝の思いから、それを証明し、本会の 未来における創造的発展にいささかでも寄与したいというのが、本稿の動機である。 学問的な動機からも、学問的な内容からも程遠いことは十分承知しているが、教団附 置研究所のもつ理念にゆえに、この拙論を提出したことをお許しいただきたいと願う ものである。

二 教学とはなにか

 教学とはなにか。自明のようにみえて、じつはあまり深く考えられていない問題の ように思える。本会の歴史をみるとき、教学の定義は必ずしも明確ではなく、教学に 対する認識が時代によりさまざまであることが分かる。そしてその認識は教学の取扱 いをはじめ、信仰や教義や布教などの重要なことがらにも、重大な影響をおよぼして きていることが認められる。  その意味において、本会の未来における創造的発展を期すためには、教学とはなに かの答えは重要である。その答え如何によって、信仰、教義、儀礼、布教・教化、諸 活動は無論のこと本会の運命がおおきく左右されることは間違いない。  そこで本章では、宗教における一般的な教学あるいは神学などの定義について、哲 学的な方法によって考察するのではなく、あくまで本会の問題に限定して、本会にお ける教学の推移を検証し、信仰と教学の最高当事者である開祖や会長の思想・教説を 参考にして、教学とはなにか、その答えを探っていきたい。 ◆本会における教学の推移  本会の歴史の時代区分については定説があるわけではない。そこで所説を参考にし て私なりの時代区分を立て、以下のごとく教学に対する認識やその取扱いの概要をま とめた。 〔草創時代〕本会の創立から真実顕現が宣言された1958(昭和33)年ころまでのいわゆ る方便時代  この時代は、教学の重要性についての認識がほとんどなく、関心すらなかったと言 えよう。別の表現を用いれば、一貫して行尊学卑⑴の認識がもたれていた。すなわち行 と学、実践と教学を明確に区別し、しかも対立的な概念として認識していることであ

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る。  人が貧病争の苦しみから救われるには、ただひたすら両先生(庭野開祖と長沼脇祖) や幹部の指導を信じて行ずることが肝要であり、学問や頭で考えた理屈で人が救える わけではないとされた。才覚無益という言葉がよく使われ、人間の浅はかな知識や知 恵に依存するあり方が否定された。その証拠には、本尊の問題や開祖の修行や信者の 救済指導のほか教団の運営などについて、神示⑵によって決められることがほとんどで あった。  とはいえ、本会の所依の経典である法華経についての知的理解や、いかなる教義を 立てるかなどの教学的な営みがまったくなかったわけではない。開祖においては、来 るべき時代のために、法華経の研鑽、日蓮遺文の研鑽など真剣に行なわれていたと言 わねばならない。この一見行尊学卑と矛盾するような状況が、教学とはなにかを考え る上に重要な示唆をあたえてくれていると考えられる。 〔真実顕現時代〕真実顕現の年から大聖堂完成(1964年)のころまで  草創時代の方便的な信仰や行法などを改めて、教学の力によって、法華経精神にも とづく真実の教団形成をめざした、いわゆる真実顕現と称する教学全盛の時代である。  戦後教勢が著しく伸びたことにより、本会の方便的な信仰が社会の批判を浴びるこ ととなった。そしてジャーナリズムによる非難報道⑶、外部からの宗教法人解散命令請 求⑷、国会法務委員会による喚問など、本会はおおきな危機に直面する。その危機か ら本会を救い、真実顕現時代へと導いたのが教学の力であった。  この危機に臨んで、開祖は、法華経の教説をもって、本会に対する誤った認識や非 難中傷は真の法華経教団が受ける試練であるとするいっぽう、方便の信仰を反省し改 めよとの神仏の説法であると説き、また方便とは真実に至るための重要な道筋であっ て、ここに本会が法華経を所依とする真実正統の仏教教団であることが証明されたと する見解を打ち出したわけである。⑹  開祖は、教学の重要性をくりかえし説き、自ら『法華経の新しい解釈』を著わすな ど、本会の教義の要諦を説き示していった。そして新たな人材を登用して教義の整備・ 体系化を図り、真実の法華経教団にふさわしい信仰を確立するよう、会員に教学研修 の徹底を促した。これらすべては教学の営みによるものであり、教学を軽蔑否定して いた幹部たちもこのことは認めざるを得なかった。  つまり、教学とは本会の教義や信仰の内容を明らかにする人間の営みなのである。 そして、ときに佼成教学と称して教義そのものを意味するほどに、草創時代に比べて 教学に対する認識におおきな変化が起きたのである。 〔大衆教化時代〕大聖堂完成後から法燈継承が行なわれた1991(平成3)年ころまで  大衆教化という言葉は、もともと政治浄化と対をなすものとして、本会がはじめて 統一候補を立てた1962年の参議院選挙の年あたりから使われ出した。

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 大衆教化とは、私の理解では、個人がいかに救われても、社会全体が平和にならな い限り真の幸福は得られない、宗教のもう一つの使命は、多数の力の結集によって、 よりよい社会を実現することにある、このような考え方にもとづいて、できるだけ多 くの人たちを対象として、宗教の道に導き入れようとする組織的取り組みによる布教 活動をいう。ひとりひとりの苦悩やニーズに応じ、性質やものの考え方などに応じて 救済や教化を行なう個人的布教・教化活動に対比されよう。  さらに1965年には、第二バチカン公会議の会期中に開祖とローマ教皇との会見⑺が実 現した。この出来事は、本会の存在と活動が世界的に認められことを意味し、宗教が 平和に貢献するための道を拓くおおきな分岐点となったと受け止められた。  かくして個人教化から大衆教化に宗教活動の中心を移行させていき、会員の量的拡 大を図る大規模な布教活動(集団布教)と、政治浄化活動、明社運動、宗教協力運動、 国際平和活動などの対外的社会活動を精力的に展開していくのが、この大衆教化時代 である。  では、教学の認識についてはどうであったか。真実顕現の宣言いらいの教学体系の 整備と教学研修の徹底により、会員の信仰は充実し大聖堂も完成したことにより、教 学はその役割を終えた、そして大衆教化こそが本会の真の目標であって、これまでの 教学の徹底はそのための足ぶみであったと説明される。  確かに教学研修の徹底と組織改革によって獲得した組織力は絶大であった。しかし ながら、教学は大衆教化ための手段として認識されたことになる。教学研修のマイナ ス面を挙げ、その行き過ぎを戒める開祖の法話⑻まで『佼成』誌に掲載された。  組織・運営面から教学の取り扱いをみると、教学部を廃止して大衆教化を推進する 布教本部を置き、その中に教育部門を設ける。自由な教学研修の場は姿を消し、教育 という形式に変わった。それまで製作され用いられていた教学研修用テキストが廃止 され、開祖の著書や法話⑼がそのままテキストとして用いられていく。  教育に変わったというのにはどんな意味があるのか。そのひとつは、開祖の教えが 根本であるからそれ以外の解説は不要であって、その教えをそのままあたえ学ぶこと が当然なのだということである。また教育の実態から考えると、教育は、ある一定の 人を対象とし、一定のテキストを用いて、一定の時間を定め、マニュアルにもとづい て行なうなど、きわめて限定された条件で成り立っていると考えられ、(テキストなど はあるものの)教学研修の自由な形式とは質的に異なるという意味がある。  教育は、布教師制度にもとづく布教師養成の教育や役割別教育のほか、家庭教育、 カウンセラー養成教育、社会福祉教育などが新たに開発され進められていく。これら 各種教育に共通しているのは、本会の教義的な内容や表現を避け、一般に開発された ものを導入したことである。教育の対象を未会員にも広げやすくなることで、大衆教 化活動を側面から支えるものとして期待された。

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 しかし大衆教化時代は、在家の幹部や会員に多くの教育の受講、集団布教の導き活 動の取り組み、社会的諸活動、教会や支部の諸行事、道場管理の奉仕などを課すこと となり、その精神的、肉体的、財政的な負担はピークに達していた。問題を指摘する ならば、教団がこうした状況を見つめ、本会の理念や信仰の本質から問い直し改善す る冷静な教学的な営みを置き去りにしていたことにあるのではないか。教学を抜きに して、布教・教化は可能なのか、あるいは教団の運営が正しく機能するのか、この問 題は第三章で考えてみたい。 〔法燈継承時代〕法燈継承式が行なわれた1991(平成3)年から現在まで  1958年にはじまった本会の近代化のあゆみは、大衆教化時代にはピークを過ぎ、そ の勢いは1980年代から徐々に後退しはじめる。布教新体制による改革⑽も不完全なまま で、大衆教化時代のひずみを解消するまでには至らなかった。そのような中、本会初 の「法燈継承」⑾が行なわれ、開祖に替わって第二代庭野日鑛会長(以下、会長という) 統理下の時代を迎える。全体としては、やはり教学の重要性に対する認識度は低い。 しかし法燈継承時代はまさに現在の時代であり、未来に直結している意味から、でき るだけ詳細にみておきたい。  当然のことながら、この時代は、会長の宗教観や人生観がおおきく作用しているこ とが認められる。釈尊時代の原始教団をモデルとした教団のあり方をイメージに置き、 大衆教化時代の反省からか、信仰の面でも運営の面でもこれまでの本会を見直し、新 たな教団づくりをめざす動きをみることができる。本会の基本目標である「ひとりひ とりの心田を耕す佼成会」や「信仰新生」といったスローガンからも分かるように、 仏教信仰は個人の自覚が基本であって、それぞれの主体性にゆだねるべきであるとし、 無常、清貧、自立など個人の内面的、倫理的側面が強調されている。  教学に関しては、教義なり教学の体系化は人びとの信仰を縛り統制化につながるこ とがある、本会では開祖の教えが根本であるから、必ずしも教義や教学を体系化せず ともよい、などの認識がこれまで一貫して表明されてきた。  しかし新たな変化が起きる。2007年の3月、教学委員会に対し会長から4項目にわ たる初の諮問が出された。⑿2011年には答申はすべて提出され、翌12年1月に、会長の 裁定が下ったとして、教団本部から『佼成教学』と題する小冊子が発表された。  この変化にはどのような背景があるのだろうか。一つの要因と考えられるのは、継 承後会長の考え方がしだいに明らかとなっていくにつれ、開祖と会長の解釈や指導に 違いがあるのでは、という声が聞かれようになったことである。その見方が正しいか どうか、一概に判断しがたいことがらではあるが、いずれにしろ根拠ある説明が必要 になってきたのは当然であった。この問題の背景には、単に宗教観などの問題だけで なく、法燈とはなにかという本会の信仰の根本的な課題や、開祖と会長の宗教上の位 置づけや権能にも関わる重大なことがらがあるからだ。

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 こうした状況を受けてか、会長と教学委員会との間で協議が行なわれた。会長の見 解は従来と基本的には変わってはいないが、重要なことは、いろいろの状況があるこ とに配慮する必要を感じて、ある程度の佼成教学があってもよいとの見解が出された ことにある。それが「ある程度の佼成教学体系とは何か、その概要を明らかにするこ と」という四番目の諮問につながったわけである。  『佼成教学』の概要によって、法燈継承時代の、そして会長の教学の認識や取扱いを みてみよう。第一章「佼成教学の成立」には、「教団理念の根底であり土台となる教 義・教学を整えておく必要を感じ」、「簡潔にして実践的な教学を」との庭野会長の意 を受けて制作した、と経緯を述べ、「佼成教学は、立正佼成会によって体系化され、公 式に認知された教学」であると述べている。また「はじめに」では、理事長名で「佼 成教学は、教育方針や教育体系などの施策の基盤となるものであり、教団運営、布教、 儀式などにも反映されるもの」と記されている。私の知る限り、教団においてこれま で、このような明確な考え方を示した文書はない。  この説明からは、『佼成教学』は明らかに本会の布教や儀式、教育や教団運営につな げる意図をもって製作されたと解釈することができる。第三の諮問項目である「心田 を耕すを基本にした簡潔な教学体系を明らかにすること」と合わせて考えると、問題 が浮き彫りになる。一つには、前に取り上げたように、教義なり教学の体系化は人び との信仰を縛り、統制化につながることがあるとする会長の教学観に反してはいない かという問題、二つには、法燈とはなにかという本会の信仰の根本的な課題や開祖と 会長の宗教上の位置づけや権能にも関わる問題である。  その意味において本書は、動機、経緯、目的、内容、そして本会の理念、いずれの 視点からみても矛盾や問題が内在しているのではないかと思われ、今後の取り扱いや 現場の対応が注目されよう。法燈継承時代の教学が、つぎの世代信仰と実践になにを 遺し、本会の未来における創造的発展にどうつなげていこうとするのか、本会につら なるひとりひとりの課題ではあるまいか。  以上のように、教学の認識や取扱いが、時代によりこれほどおおきく変わっている 状況をどのように考えればいいのか。そこにはどんな理由や背景があったのだろうか。 それについて、私は三つのことがらを指摘しておきたい。  すなわち、教学に対する認識が一定せずしかも共有化されていないこと、教団の運 営が教学より優先すること、教学に深く携わってきた人の思想信念や、信仰体験、人 生経験などが教学におおきく影響をあたえていることの三つである。そしてこの三つ のことがらは複雑に関係しあっていると考えられる。これらの指摘は、このあとの中 で確認していきたい。 ◆教学とはなにか  本会の教学に関する認識と取扱いの推移を歴史を追ってみてきたが、そこには、教

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学とはなにかを考えるための貴重な見解や経験が積まれていることに気付く。これら を参考に本会における教学の定義を探ってみる。これは同時に教学の役割でもある。 箇条書きにした。 1  教学とは、本会や他の宗教の信仰、教義、儀礼、布教、教化のあり方など、宗教 上のことがらについて研鑚・研究・解釈する知的、学問的な営みである。 2  教学とは、本会の信仰、教義、儀礼、布教、教化のあり方など、宗教上のことが らを整備・体系化する知的、学問的な営みである。またそれらについてときに改め るための知的、学問的な営みである。  この定義には、若干の付記事項が必要である。すなわち、 ①  教学の営みは不断に適切に行われねばならない。適切に行なわれる教学の営みは、 会員の信仰を高め、深める。ひいては本会の結束を強め、存続させ、本会の信仰の 輪の拡大につながる。 ②  教学の営みに、行き過ぎがあってはならない。教学の行き過ぎは教義を固定化し、 信仰を統制化することにつながる。無益な教義論争を助長し、分裂の要因となるこ とがある。また、狂信を生み、無益な宗教間の対立を生む要因ともなる。 ③  教学の軽視や排除は、正常な宗教活動をゆがめ、あるいは堕落させる要因となる。 また、盲信や狂信を生む要因ともなることを知っておかねばならない。 ④  教学の営みの行き過ぎや軽視が起きないよう、また、教学の営みを途絶させるこ とがないよう、自律的に抑制し適切に行なわれるための工夫が講じられることが必 要である。 ⑤  教学の営みは、特定の人に限定されるのではなく、すべての人に開かれていなけ ればならない。  この見解にもとづいて、再度本会の歴史に即して教学の問題を考えてみよう。  まず知的営みとしての教学は、真実顕現時代にのみ存在していたのではなく、どの 時代にも行なわれていたと考えるべきである。草創時代には組織的に教学が行なわれ ていたわけではないが、教学の営みがなければ本会の危機を乗り切ることはできなか ったし、真実顕現時代を実現することもできなかった。また教学をしりぞけたように みえた大衆教化時代にも、やはり教学の営みは存在していたと考えるべきである。  草創時代は、行の面ではすぐれていたものの、やはり盲信や狂信に似た信仰が行なわ れていたことは否めず、教学の力もそれを抑えることはできなかった。開祖の法話⒀ それを物語っている。  教学と実践とは、行学二道と言われるように、対立概念としてみるのではなく、い ずれが欠けてもならないし、補完し合う関係とみるべきである。これが歴史から学ぶ 知見である。教学の力だけでは現証(悟りや功徳)を得ることはできないし、反対に 教学の裏付けのない実践は、正しい悟りや功徳を保証することはできない。また、と

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きには教学を優先させ、ときには実践を強調することがあっても、教学の営みがある 程度組織的にかつ不断に行なわれる体制が整備されていなければならない。  まさに大衆教化時代に教学をしりぞけた問題の重要性はここにある。実態的には教 学部を廃止し教学研修の行き過ぎを戒めたのであって教学の営みそのもの排除したわ けではなかったが、依然として底流にあった、教学を不要とする見方に押された形で 大衆布教を推進しようという教団運営の優先に傾いたと考えられるのである。  教学の行き過ぎを戒め、マス・プロパゲーションといった表現を使って集団布教を 推進しようというような開祖の法話なども、そうした状況の反映であると同時に、法 話の発信すらすでに教団の仕組みの中で行なわれるようになっていて、開祖ひとりの 教学ですべては進行しないほどに教団運営が独走していたのであった。 注 ⑴  教団史編纂委員会『立正佼成会史』(以下『会史』という)第一巻133頁「行ひと つの信仰生活を送る者を蔭として尊び、学・理論を口にしての信仰を表といって軽 蔑する…いうなれば佼成会の誕生以来、…20年間における佼成会の信仰生活の特色 を一口で表現すれば、行尊学卑ということが出来る。」 ⑵  神示とは、神が人を通じていろいろの予言や指示を下すことを言うが、本会では、 長沼妙佼(副会長のちに脇祖と称される)が霊友会時代にその修行を身につけた。 草創期にはたびたびその神示が下り、ことごとく的中するということで、信者の側 でも妙佼を生き神として崇めるようになった。神示は個人的な問題から本会の諸問 題にまでおよんだ。 ⑶  1952年ころから56年ころまで、NHKや週刊誌などで、本会がジャーナリズムの批 判攻撃を受けるようになる。ことに読売新聞の攻撃は執拗をきわめた。詳細は、『会 史』第一巻181頁「ジャーナリズムの攻撃」を参照。 ⑷  白石重なる人物が、1954年2月に東京地裁に提出したもの。内容は、本会の教義、 姓名鑑定、総戒名など数々の事項について、宗教法人法に抵触するとして解散命令 の請求を起こしたもの。詳細は、同右参照。 ⑸  読売新聞の批判報道などに便乗する形で、衆議院の法務委員会により、計七回に わたって本会の幹部が喚問を受けた出来事である。⑶⑷⑸をまとめて言えば、こう した社会からの批判に対する答弁や反論が、本会をして教義の整備を進めるきっか けとなったわけである。 ⑹  開祖は「悪口罵詈の法難的中を悦ぶ」と題する『佼成』(1956年5月号)の法話 で、法華経の経文および日蓮聖人の遺文を根拠に、本会に対する社会からの批判攻 撃を法難と受け止め、経文に符合したことで、本会が真実の教団であることが証明 されたと説いた。

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⑺  開祖とローマ教皇パウロ六世との単独会見は、1965年9月15日、サンピエトロ大 聖堂で行なわれた。 ⑻  開祖法話(『佼成』1964年8月号)「足ぶみと前進」では、教学研修のあり方に対 する戒めともとれる具体的な記述がみられる。たとえば、研修に出なさいと言われ るからというので、教学のつめ込みに終わってはならない。そういう態度であると、 教学講義を聞いているほうが、導いて歩くことよりも楽で良い、教学用語を使って 結ぶことが教学の実践化だと思うような傾向が出てくる、といった具合である。 ⑼  開祖の著書は、仏教関係では『法華経の新しい解釈』(1961年/佼成出版社)をは じめ、『新釈法華三部経』(1964年/右同)、『仏教のいのち法華経』(1969年・右同)、 自伝関係では『無限への旅』(1963年/右同)、『庭野日敬自伝』(1976年/右同)、教 義関係では『立正佼成会における本尊勧請の経緯』(1968年/右同)など多数があ る。また開祖の法話をまとめた『庭野日敬法話選集』全八巻(庭野日敬法話選集編 纂委員会1978年/右同)、そのほか機関紙誌や諸行事などにおいての法話は膨大な量 に上り、現在佼成文書館がその収集と整理・保管を行なっている。 ⑽  本会創立いらいの50年間を振り返り、布教体制の軌道を修正しつつ新たな展開を めざしもので「布教新体制」と名付けられた。しかし保守的な考えと改革的な考え との間の十分な合意や趣旨の徹底が不十分なまま実施に移されたため、かえって布 教現場では混乱がみられ、さほどの成果は現われず中途半端な改革に終わったと言 える。 ⑾  1991年11月15日、法燈継承と称して式典が行なわれ、本会の会長位が、庭野日敬 開祖(初代会長)から、長男の庭野日鑛氏に譲位された。本会は、1960年の会規改 正より会長は世襲制となり、そのときすでに次代会長の指名が行なわれていた。 ⑿ 四項目の諮問事項は次の通りである。  1 教義・教学・教育の用語の概念規定とその用法を明らかにすること。  2 本会の会規第八条に基づく教義内容(概要)を明らかにすること。  3 「心田を耕す」を基本にした簡潔な教義体系を明らかにすること。  4 「ある程度」の「佼成教学」体系とは何か、その概要を明らかにすること。 ⒀  開祖法話(『佼成』1959年1月号)「総力結集の年に題す 信仰の寸心を改めよ」 から一部を引用する。    「全会員が方便時代の初歩的な信仰観を、真実顕現以来説き来った本質的な宗教観 へ切り換えねばいけない…祈祷信仰や呪術信仰乃至は啓示信仰や霊魂信仰、特に或 る一定のお札やマンダラや仏像等が救ってくれるというような偶像信仰は、仏教や 法華経の本義から照らして仏教の皮をかぶった似て非なる幼稚な宗教で、こんな低 級な信仰では吾々を救ってくれるどころか、逆に一身一家を滅ぼし、国家をも亡ぼ す邪法であるから…。」

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三 本会における教学と教団運営

 本章では、二で指摘した教団運営のあり方が、教学や教義におおきな影響をおよぼ してきた歴史を検証する。 ◆御旗本尊の制定  最初に草創時代における御旗本尊の制定に関する事例を取り上げたい。法華経系の 教団では本尊の問題は教学や宗学上の最重要課題とされているが、本会も例外ではな い。それだけに本尊やその勧請形式などについては、たびたび変更が行なわれてきた。 ここで取り上げる御旗本尊は、創立の際、開祖が霊友会在会時に拝受した軸装の曼荼 羅を本会の本尊として勧請したのであるが、それを2年後(1940年4月5日)に変更 したものである。  御旗本尊とは、中央に「南無妙法蓮華経」、向かって右に「天壌無窮」左に「異体同 心」と文字で謹書した御旗形式のものである。本会の史料⑴によれば、この本尊は神示 によって制定したとされている。すなわち長沼脇祖が眼病にかかり医師に不治と宣告 されたのだが、脇祖を通じて本尊の眼を出すようにとの神示が下り、その神示にもと づいて考案されたことになっている。  この本尊の内容や形態については、具体的にどこまでが神示の指導によるものかは 定かではなく、直接神示を受けた開祖の言を信じるよりほかはない。神示の存在を疑 うものではないものの、御旗本尊の制定は、当時の教団の事情あるいは時代状況など を勘案し、本会の信仰や教義との整合性を慎重に検討して決定するに至ったのではな いか、と考えられるのである。  時代状況に目を向けると、日蓮系の宗派や教団の多くは、南無妙法蓮華経の題目を 中央に据え、釈迦如来を囲むようにして、諸仏諸菩薩をはじめ諸天善神を配置する形 態の曼荼羅を本尊とする。その中には日本国の皇祖神である天照大神も配置されてい る。当時我が国はこのような本尊を崇拝する行為を不敬に当たるとみなし弾圧の手を 加えつつあった。  明治維新後、我が国は天皇制を国体の中心に置き、あらゆる面で国家主義的な政策 を遂行してきていた。戦争への機運が高まるにつれて、宗教や思想団体に対する統制 を強めていたことはいうまでもない。すでに治安維持法がその威力を発揮していたし、 本会創立の年である1938年には国家総動員法が公布されていた。  本会が御旗本尊を制定した1940年は、宗教団体法が施行された(4月1日/前年4 月に公布)年に当たる。本会は、団体法によって宗教結社とみなされ、法の適用を受 ける立場となった。当時の社会からは、本会のような新興教団は、淫祀邪教の類ある いは類似宗教とみなされ、弾圧を受けるかも知れない立場に置かれていた。本会も、 そうした宗教界の置かれていた時代状況を、十分に承知していたと考えるのが自然で

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あろう。  「天壌無窮」は『日本書紀』や『古事記』に出てくる言葉で、日本国の中心である皇 室の永遠性や宗教性を示す意味があるとされる。この言葉は1890(明治23)年に公布 された『教育勅語』にも採用されていた。「異体同心」は日蓮の遺文にもある言葉で、 みなが心を一つにしていく意味から、法華経の精神にも叶っている。その上御旗本尊 は、日蓮教学における本尊形態のうち題目を主体とする主題本尊の一形式とみること ができるのだ。  このように御旗本尊は、その形式と内容において、当時の教団内外の状況をきわめ て的確にとらえ、あえて国策に逆らわず、法華経信仰の根本をしっかりと堅持し、慎 重な検討によって考案されたものと考えざるを得ない。またそのプロセスからみても、 神示に逆らわず、むしろ神示を活かした、教学という人間の知的営みの結果によるも のであったと言えるのである。  本会は団体法施行後の4月4日、直ちに宗教結社の届け出を行ない、その翌日には 御旗本尊を先頭に立てて街頭行進を行なっている。そして太平洋戦争開戦後の1942(昭 和17)年5月、初めて建設した本部道場のご宝前に、この御旗本尊を掛軸表装して勧 請した。そのご宝前の左右には、皇室の写真と教育勅語が掲げられていた。 ◆大衆教化路線への転換  つぎに取り上げる事例は、本会が組織運営を最優先し大衆教化路線におおきく踏み 出していくいっぽうで、教学をしりぞけていく事例である。  大衆教化とは個人教化に対するもので、本会の導きを目標化し組織的に行なう集団 布教と、広く対外活動などを推進して平和を実現する社会布教という二つの要素から なっている。社会布教は、宗教協力運動、明るい社会づくり運動、政治浄化活動など の対外活動のほか、社会福祉教育をはじめ家庭教育研究所、カウンセリング研究所、 教育者教育研究所などの各種教育活動の展開につながっていく。  本会では真実顕現の宣言いらい、大聖堂の建設、『法華経の新しい解釈』の発刊、本 仏釈尊本尊像の造立勧請、教学研修による菩薩の自覚をもった会員育成など、在家主 義仏教教団としての態勢が整いつつあり、あらゆる面で充実感が高まっていた。  ちょうど同じころ、排他独善的な折伏布教によって急激に教勢を拡大している新興 の宗教勢力があった。創価学会である。1960年、第三代会長に就任した池田大作がそ の就任演説⑵で、立正佼成会折伏を宣言したことから、本会は学会との全面的な対立に 直面することとなった。  創価学会は当時、法華経は紙くず同然であって末法の法華経は日蓮聖人のご遺文で あるといい、釈尊本仏論に対して日蓮本仏論を唱え、諸宗教の存在を否定して排他独 善の立場から折伏活動を展開し、その上王仏冥合・国立戒壇⑶を目標に掲げて政治進出 を企てるなど、本会とはおおきく考え方を異にしていた。

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 本会では、学会からの激しい折伏を受けて一段と教学の徹底が進み、幹部・会員を 問わずかえって自らの信仰や教義を確信することとなった。  創価学会との直接的な軋轢は1967年に幕を閉じる。とはいえ学会の勢力拡大が日本 の宗教界にあたえた衝撃はおおきく、本会としてもこれを看過することはできなかっ た。これらの出来事が、本会をして大衆教化路線を推進する要因のひとつになったと 考えられるのである。  大聖堂完成直後の1964(昭和39)年4月、本部に長期計画委員会が設置され、教団 の経営戦略が練られた。その結果支部ごとの導き目標を設定し成果を数値で評価する 目標管理方式、百万世帯達成五カ年計画、会長の指導体制を強化するための会長室の 設置などさまざまの施策が打ち出される。1968年には大衆教化の全権を担う布教本部 が設置され、支部を教会に法座を支部に昇格させる布教組織の改編、教会の大量新設 と布教拠点建設、普門館や団参会館の建設など、会員の増加を想定した諸計画がつぎ つぎに進められた。ちなみに百万世帯は1972年に達成され、その後も教勢は拡大の一 途をたどっていく。  さらに集団布教の一翼を担いこれを可能にしたのが文書布教戦略である。文書布教 体制は、すでに『佼成新聞』の発刊⑷にはじまり、1958年に縦割りの支部組織とは別に 文書担当を配置して地域別の配付体制を採用して、ブロック制布教組織の先駆けとな っていた。さらに1966年には出版部を株式会社化し、事業の拡大を図る。このような 経過の後に、本会は新しい集団布教手段としてマスメディア(大衆媒体)の活用を打 ち出すのである。開祖の法話がこの施策をフォローしている。⑸  マスメディアは、大量の人を対象にし、無差別に一律に一度に情報を伝えることが できる。本会が最も力を入れたのが文書媒体であった。文書は会長の教えや本部の指 導を会員に直接早く伝達徹底させるとともに、本会の教えや活動を社会に広く理解せ しめる対外的なねらいがあった。文書布教は、教団と佼成出版社の一体的な取り組み によって進められ、じっさいおおきな成果をもたらしたかにみえた。  だが文書布教による集団布教は、成果をもたらす反面で、しだいに新たな問題を生 んでいく。一つは布教・教化のあり方が〈人対人から文書対人〉に質的な転換が起こ ったことである。別の言い方をすれば、人間に代わって文書が布教をする、布教者は 信仰力や教学力あるいは人格を問われることなく、文書配付という機械的な作業を受 け持つのである。さらには、文書布教と会員制度を組み合わせる戦略を採用したこと である。通常、会員は入会すると会費を納入し、総戒名を祀ることが原則となってい る。ところが、会費相当分を機関紙誌購読代として納入することで入会とみなす、通 称購読会員制度が採用された。この運用措置により集団布教が飛躍的に伸展したこと はいうまでもない。かくして本会の教勢はついに六百万会員を越し、巨大教団として 宗教界における指導的地位を確立していく。

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 ひるがえって、大衆教化活動の理論的根拠となり、きわめておおきな影響をあたえ たと考えられる、開祖の教学的見解を確認せねばならない。以下に要約する。 ○ 宗教の最重要な使命は布教にあり、本会の目的は人類救済と世界平和の実現にある。 すでに教学の徹底が行なわれ、会員が仏子の自覚に目覚めたからには、大聖堂完成 を契機とし、個人の救いに力を注いできた方便時代のあり方から一歩を進め、大衆 教化の菩薩行に邁進せねばならない。⑹ ○ これまでの教学研修の徹底は、そのような前進のための足ぶみであった。佼成教学 が確立した今、前進のない足ぶみだけの教学であってはいけない。⑺ ○ これからの布教は、個人布教から、無数の人を一度に大きな船に乗せて理想社会へ と導いていく、集団布教のあり方が重要となる。⑻  仏教の特色は対機説法にあるといわれるが、ことに法華経では、ひとりひとりの機 根・性質・動機などに応じて、諸法門を活用しつつ目前の救いから真の救済に導く、 いわゆる開三顕一の法門による教化法を真骨頂とする。法華経には、釈尊が、舎利弗 や富樓那などの弟子たちを相手に教化する情景が細やかに表現されている。これを、 本会の導き・法座・手取りを通じて現代に再現しようしたのが、真実顕現時代の教学 体系の一つであった。  しかし、集団布教体制の下での組織的、集団的、機械的な導き布教と、教学研修に 替わるマニュアル的な教育によって、そうした本質的な導きや教化のあり方を身につ けるための研修や、導き・法座・手取りを通じて行なうひとりひとりの個人教化の取 り組みが置き去りにされていくのである。  確かに時代は高度経済成長を謳歌していたが、そのいっぽうで人間性が失われ、東 西冷戦構造の中で軍拡競争が激しさを増していたのも事実である。漸くにして真実の 教団体制が整った本会が、おおきく社会に目を向け、法華経広宣流布の前進を開始せ ねばならないと考えたのは当然のことであったかも知れない。しかし目的が正しけれ ば、その手段もまた正しくなければならないはずである。大衆教化のための諸施策が、 仏教の本質や本会の行動規範に根ざしているかを省みる、教学の営みの力が必要だっ たのではないか。  また、信仰実践と教学の研鑽という行学二道の地道な営みがあってはじめて、会員 の多くが、個人の救われを感じ、その喜びを使命感に昇華させて、大衆教化や社会的 諸活動に献身するようになるのではないか。このような本質的な信仰が本会会員の中 に深く根を下ろす前に、大衆教化や社会的諸活動の目標実現を急ぐあまり、教団の運 営が先行してしまったように思われるのである。 注 ⑴  『会史』第一巻492頁から496頁参照。および庭野日敬著『立正佼成会における本尊

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勧請の経緯』(前出)28頁から32頁参照。 ⑵  1960年5月3日の本部総会で、池田大作が創価学会会長に就任。その際の就任演 説において、折伏大行進を打ち出し、ことに東の立正佼成会、西の天理教を撲滅せ よ、との大号令を発したとされる。 ⑶  日蓮遺文のひとつ『三大秘法禀承事』からとった言葉で、「戒壇とは王法仏法に冥 じ仏法王法に合して王臣一同に…勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん 最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ…」という一節からきて いる。この予言に従い、末法救済のためには邪教を折伏し、仏法すなわち日蓮正宗 創価学会の教えを国教化し、万民一同がこれを信じるほかはない。そこで勅宣(国 会の議決)によって国立の戒壇を建立し、僧侶を独占的に養成するという構想を立 てたわけである。 ⑷ 1956年6月15日創刊 ⑸  開祖は、法話(『佼成1968年2月号「新しい布教の推進について」)の中で、世界 の情勢をみれば、多くの人を早く救う集団布教(マス・プロパゲーション)を実現 しなければならないとし、具体的には、文書(新聞や雑誌など)やラジオ・テレビ による布教、各種の団体へのはたらきかけ、職域布教の推進を挙げている。 ⑹  開祖法話(『佼成』1964年4月号)「大聖堂完成と今後の会員の心構え」)大聖堂完 成直後の法話である。 ⑺ 開祖法話『佼成』(1964年8月号)「足ぶみと前進」以下にその一部を引用する。    「私はあらゆる機会を通じて、大聖堂完成は佼成会会員の菩薩行の終着点ではな く、スタートであるということを申すと共に、これからは全会員が打って一丸とな り、強力な布教活動を展開しなければならぬということを力説しております。すな わち教団という枠の中に閉じこもり、教学を耳から聞いているだけではならない。」    「会員の内容充実、機根の向上を目的として教学の徹底を打ち出したわけなので す。…そのためには導きということも多少犠牲にして会員の内容充実のために努力 して参ったのです。…それを自覚しない足ぶみは、低迷と信仰の老朽化と疲労があ るのみです。…ただいまから一体となって力強い大衆教化、広宣流布の前進を開始 して頂きたいと念願いたす次第です。」 ⑻ 前掲(開祖法話『佼成』1968年2月号)

四 本会の未来と教学の自由

 これまで教学を中心とした本会の歴史を振り返り、教学が本会のどの時代にも機能 し、すべての分野にいかにおおきく関わってきたかを知るとともに、教学とはなにか、 その本質について考えてきた。その結果、教学の知的営みが不断にかつ正常に行なわ

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れることによって、はじめて宗教としての立正佼成会の存在が成り立つという結論に 至った。しかしその教学が真に機能するためには、さらなる条件として、何人に対し ても開かれた教学の自由が保障される必要があるということである。本稿の最後に、 教学の自由について考えたい。 ◆教学の根本的役割  本会創立の精神は万人の成仏(人格完成)と寂光土(平和境)の建設にあるとされ る。この崇高な理想を実現するため、本会は会員の総意にもとづいて、法華経に内在 する真の仏教精神により、在家仏教の精神に立ち、菩薩行を実践するとの根本理念を 立てている。この軌道から外れて立正佼成会の宗教としての存在はない。  この理念は会規は無論のこと、会員綱領にも明記されている通りで、本会の最高指 導者から末端の会員にいたるまで、つねにこの理念を行動規範とした信仰と活動が求 められているわけである。  本会における教学の根本的役割は、積極的に教義、儀礼などの重要事項について研 究・整備を行なうことは無論のこと、つねにこの理念を確認し、現状の信仰、教義や 儀礼、布教や教化活動のあり方、教団運営のあり方を問い直し、必要な軌道修正を行 ない、創造的な未来を築くための指針を導き出すことにある。その役割を果たすため の根本的な要件が教学の自由である。  確かに、教学はときに両刃の剣となる。護教的な立場は当然のこととして、教学の 矛先は、ときとして教団批判に向けられることがあるかも知れない。しかし教学上の 素朴な疑問はいうまでもなく、教団改革のための建設的な批判を封じたり、分裂の危 険を恐れて自由な教学の営みを制限したり排除したりするようなことがあれば、そう した不満や不信が要因となって信仰の低下をもたらすばかりか、宗教の創造的な発展 を期待することはできないし、いつしか宗教の生命力は失われていくに違いない。 ◆法華経にみる教学の自由  教学は、人間の営みである。このことは重要である。かつて開祖が、神示に関して 神と論争したという事実は、信仰に関する重要な問題を、人間の知的営みと責任に位 置づける選択をしたことを意味している。それはかつて釈尊が歩いた道であり、また 法華経の求法者たちが歩いた道でもあった。それはまた仏教が人間の宗教であること の証でもある。  法華経はその名のごとく法(正法 saddharma)を求め、法を明らかにしようとした 経典である。法を求めて経典の編纂に携わった人たち、法華経の主役を務める菩薩た ちを、経典の訳者は求法者と呼ぶ。求法者たちは、数百年の過去にまでさかのぼって 釈尊の教えを求め、その本質を尋ね論じ合い、再解釈し、実践によって確かめ、記録 し、文章を練り合い、つぎの世代にその作業をつなぎながら、多くの年月を経て編纂 を成し遂げたのであった。

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 求法者たちの名はどこにも記録されず、数もまた知れない。遺されているのはただ 経典のみである。多くが在家生活者であったために、ひとりひとりはけっして完全な 信仰や知識を備えていたわけではなかったに違いない。だが不完全だったがゆえに、 求法者たちはより謙虚に、より慎重に、より協同して編纂に取り組んだことであろう。  在家生活を主体とする求法者たちは現実の社会に目を向け、差別と貧困にあえぐ民 衆に向き合い、伝統仏教者とも対話し、ともに仏教ほんらいの使命を果たそうと呼び かけていった。求法者たちはまた、未来を見つめて正法の存続を願った。法華経に顕 わされた正法は、釈尊の遺した法の精神を踏まえつつもきわめて革新的で、大胆で、 創造的な内容をもつものであった。まぎれもなく法華経は、求法者たちの自由で真摯 な教学の営みから生まれた経典である。法華経は、本会における教学のモデルとなる ものである。  開祖の教学的態度は、まさに法華経のごとく自由かつ創造的なものであったと言え よう。すなわち法華経の伝統的解釈を参考にしつつも、それを越えて法華経と根本仏 教を会通⑴させ、そこに仏教の本義を見いだした。法華経の一乗精神を現代と世界と人 間の立場から解釈し直し、人間の平等と尊厳に立って人類の救済を掲げた。在家主義 に立って仏教精神の現代化・日常化を図った。世界の平和を実現するという総願を立 て諸宗教の尊重を基盤として宗教協力の運動を提唱実践した。これらの教学は、天台 教学や日蓮教学を越えたといっても過言ではない。  開祖の教学の特色は、過去の伝統に縛られず、仏教や法華経を現代社会に活かすべ く、根本から問い直そうとした革新性と創造性にある。仏教は創造的に発展するとい う開祖の信念からすれば、異なる見解に目も向けず疑問への回答を拒否するような態 度は無縁だったはずである。 ◆すべての会員にあたえられる教学の自由  教学の自由な営みは、原則的にすべての人に開かれ、あたえられることが重要であ るというのが私の見解である。繰り返すようだが、本会ではむしろ特定の人に教学の 営みがゆだねられてきたというのが実態である。あらためてその実態と問題点を探っ てみよう。  草創時代の前半は、明らかに開祖ひとりが教学の役割を担っていたと考えられる。 その後半から真実顕現時代においては、開祖を中心に、岩田日成、鴨宮成介、天谷昌 弘⑵など幾人かの人材が登用されて教学を担っている。最初の二人は日蓮宗の僧籍をも ち日蓮教学にも明るく、もうひとりは大学で西洋哲学や政治学を学んだ研究者で日蓮 教学を独学していた。これらの人たちが教義の整備や教学の徹底に貢献した。また当 時は教学論争が行なわれた形跡があるのも特筆すべきことである。論争があったとい うことは、教学の営みが正常に機能していた証拠とみることができるからである。  大衆教化時代は、教学部の廃止などもあってふたたび開祖のみが担う形になった。

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1969年に、佼成学術研究所(現在の中央学術研究所)が設置されたが、当時の状況か ら、必ずしも教学研究を主体としたものにはならなかった。  法燈継承時代には、会規変更に沿い教学委員会が設置されたが、会長の諮問機関と いう位置付けに止められ、しかも長く機能停止状態に置かれてきた。委員会設置時に、 ある幹部が示した「教義は会長の裁定事項である。教学について議論する場は教学委 員会のみである。委員会以外は信受という立場にある。」という見解はまさしくこの時 代の特徴を物語っている。じっさいにはやはり、会長にゆだねられる形になっている。  ではなにが問題点なのか。一つは、教学が不断に行なわれ開かれた形になっていな いことによって、教学的な人材の輩出や育成・登用がみられないという問題である。  教学的人材とは専門知識もさることながら、釈尊がそうであったように、人間の苦 悩や社会の苦悩をわが身の問題としてのみ考えるのではなく、人類の問題、社会の問 題としてとらえようとする知性や傾向を備えている人たちである。上述した人は、そ うした可能性をもつ宗教を探していた人たちであったからこそ、伝統仏教の保守的な あり方に疑問や失望を感じ、苦悩する人びとの救済に真剣に取り組んでいる本会に出 会い、自らの信念によって本会に飛び込んできたのであった。こうした人たちにとっ て重要なことは、その宗教の組織の大きさや処遇ではなかった。そして宗教の教えや こころざしに魅せられ価値を見いだし、おのれを犠牲にしてもつらぬこうとする信念 にあった。バラモン教に飽き足らず真の真理を説き明かす師を探し求めた釈尊、そし てまた、釈尊に出会った舎利弗や目連尊者がそうであった。  本会にはこうした人材がその後輩出してきていない。真実顕現後のある時期から、 幹部の子弟を仏教系大学などに進ませるよう、開祖自らはたらきかけたことがある。 学林の設置は、ある意味で将来を担う知的人材が集まってくる受け皿として、またさ らに積極的に知的人材を養成する機関として、会員に道を開くものであった。学林か らは多くの人材が広く宗教の問題を研究するために留学しているが、人事方針とも絡 んで、研究者の輩出・登用はけっして十分とは言えない。ことに法華経を所依とする これほどの教団で、法華経研究を専門とする人材がいないのはどう考えても不思議で ある。本会が大学を作らなかったことも、人材不足の要因の一つであろう。さらにい えば、佼成学園の経営と教育の問題、中学生、高校生などをふくむ青年育成と学林、 研究所の連携が実現していれば、状況は大いに違ったと考えられる。  つぎの問題点は、教学の営みが特定の人に限定されるようなあり方は、本会の信仰 の固定化・絶対化を招くことにつながるという問題である。  率直に言えばこの問題点は、会長自身の示した見解と同じである。一般にはこのよ うなあり方を教条主義(ドグマチズム dogmatism)と呼ぶ。教条主義はほんらい仏教 や法華経とは相容れない。仏教の縁起の思想は、すべてのことがらに絶対を認めない。  また人間の宗教である仏教は、たとえ無知低級なる疑問に対しても、善いかな善い

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かなと赤子に接するごとく答えて教化する。これこそ釈尊が生涯つらぬいた態度では なかったか。法華経もまさにこのような態度を継承している。釈尊とその弟子たちが 問答を重ねることによって、弟子たちの信解と信仰がいっそう深まっていくさまを、 私たちは法華経にみることができるではないか。  本会は、社会も容認するほどの巨大な宗教組織である。多くの会員によって構成さ れ、知的宗教である仏教を基盤としてさまざまの活動を展開する本会にとって、特定 の人にのみ教学の営みをゆだねるようなあり方は、けっして未来に遺すべきものでは ない。こうした問題について考えるのも、また教学の役割だと私は考えている。  では、すべての会員に教学について自由に考え、意見を表明し、論議する自由があ たえられねばならないとする根拠はなにか。それは本会が依って立つ大乗仏教の在家 主義の理念にある。大乗が主張する仏教者の理想像は、上求菩提・下化衆生を旗印と する菩薩たちである。それぞれの立場において法を求め、それぞれの特性を活かして 法を広める、そうした主体的な仏教者であることこそ大乗なかんずく法華経の理想で ある。その意味において、出家中心主義に立った釈尊教団やその流れを受けた上座仏 教は、いつか克服される必要があった。  立正佼成会は、この大乗の流れを受け、明治に発生した在家主義仏教運動の流れを 受けている。在家会員の献身的なはたらきこそ、本会の財産である。本会の未来にお ける創造的な発展のためには、さらに在家主義を徹底させ、会員があらゆる分野で自 由に菩薩行を発揮できるような仕組みや体制が整備されることが望まれる。  日本国憲法は、ひとりひとりの国民に信教の自由や言論の自由を保障している。本 会においても同様に、最高法規とされる会規⑵に、教学の自由を保障する最も重要な根 拠を見出すことができる。  会規第四条は、「本会は、本会の教義を信奉するすべての会員によって構成され…」 と規定し、第21条では「会員とは、本会の教義を信奉し…」、さらに第22条では「会員 は、三宝帰依を基盤とする菩薩道の実践にはげみ、自らの人格の完成と平和社会の建 設に精進する」と規定している。これらの条項は、会員を本会の重要な構成員とみな しているのであって、この会規の趣旨からは、会員には基本的に教学の自由があたえ られていると解釈すべきであろう。したがって会員には教学について論ずる資格がな いというような見解が出されるようなことがあってはならない。 ◆まとめとして  釈尊の思想と行動から考えてみても、法華経の求法者たちの信仰と実践から考えて みても、また開祖の信仰と実践からみても、そして本会の会規の趣旨からも、すべて の会員に教学の自由があたえられるべきことは明らかとなった。  原始仏教の経典は、当初五百人の高弟たちの結集によって編纂された。詳細は分か らないが、たいへんな編纂会議であったことは想像に難くない。法華経も然りである。

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仏教者や求法者たちにとっては経典に説かれる法がすべての根本であった。かれらは そのすべてを記憶し読誦し、解説し受持し、後世に伝えたのである。これが教学とい うものの本質であり、伝統である。本会もまた然りである。  開祖の開顕した法華三部経の精神を根本的な依りどころとする教学の営みによって 生み出される教義が、本会のすべての活動の基盤とならねばならない。本尊も、大聖 堂も、布教も、法座や手取りの教化活動も、宗教協力運動も、会員も、教師も、そし てまた教団運営も、その一切が本会の教義なくしてはあり得ない。会員の参画と総意 によって営まれる教学の中から、立正佼成会の創造的な未来が開けてくるのではない か。法燈継承後まもなく、第二代会長が会員に送った「会員みんなが、地涌菩薩の自 覚に立って、一列横隊であゆもう」とのメッセージは、いまも私の記憶の底に焼き付 いている。 注 ⑴  増谷文雄『根本仏教と大乗仏教』(佼成出版社 1971年)会通の意味について著者 は「たがいに相反する二つの所見もしくは概念を、相会して疎通せしめ、一意に帰 せしむる」ことと解釈している。 ⑵  岩田日成 新潟県佐渡生まれ。1946年、日蓮宗波木井山円実寺の住職となる。同 年11月、開祖・脇祖と出会い佼成会の存在を知り48年12月に日蓮宗僧籍のまま佼成 会に入会と同時に顧問に就任。そして自坊内に佼成会の支部を設立。    祖山学院(身延山大学)で教学を学び、本会の教学面の充実に貢献。また日蓮宗 門の大同団結にも貢献した。    鴨宮成介 広島県竹原市の日蓮宗寺院本長寺の長男として生まれた。立正大学仏 教学部で日蓮宗学を学び、自らの教学を「純正日蓮教学」と名付け、日蓮宗の伝統 教学を批判する立場に立った。1951年、自ら上京して佼成会の門をたたき入会。佼 成教学研究室主任として研究する傍ら「立正佼成会宗教法人解散命令請求」事件の 対応、真実顕現に際しての本会の教義の整備などの貢献を果たした。『妙佼先生法話 集』の発刊(1951年)、教学テキスト『仏教の本質より観た交成教学』(1959年)な どの編集を行なっている。    天谷昌弘 福井県武生生まれ。1938年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し助 手となる。団扇太鼓を撃って法と師を求めるうち本会の存在を知り、1952年みずか ら本会に入会、その後福井支部長を経て本部教学部長を拝命、真実顕現時代の教学 の徹底につくす。『青年諸君のために「宗教と国家の問題」』(1962年)、教学テキス トとして『「開三顕一の法門とわれらの決じょう(上下)(1962年)、『仏の久遠実成 と日蓮大聖人の自覚』(1962年)、『四諦の法門の意義と活用(上下)』(1963年)など 多数執筆を行ないつつ、教学研修を通じて人材育成に貢献した。

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⑶  1998(平成10)年1月1日付で本会は会規を変更。法燈継承後の立正佼成会のあ り方、またオウム真理教地下鉄サリン事件等を契機として起こった宗教法人法改正 や社会の宗教不信など、さまざまの背景を踏まえての、およそ30年ぶりの改正とな った。 参考文献 立正佼成会版『訓譯 妙法蓮華経幷開結』、平楽寺書店、1985年 庭野日敬『法華経の新しい解釈』、佼成出版社、1961年 庭野日敬『立正佼成会における本尊勧請の経緯』、佼成出版社、1968年 庭野日敬『庭野日敬自伝』、佼成出版社、1976年 月刊『佼成』掲載 庭野日敬「法話」  1956年5月号「悪口罵詈の法難的中を悦ぶ」  1959年1月号「総力結集の年に題す 信仰の寸心を改めよ」  1963年1月号「大聖堂完成と我等の道」  1964年4月号「大聖堂完成と今後の会員の心構え」  1964年8月号「足ぶみと前進」  1966年3月号「平和への願い」  1968年2月号「新しい布教の推進について」  『佼成新聞』掲載 庭野日敬法話1958年1月5日号 教団史編纂委員会編『立正佼成会史』、佼成出版社、1983年 立正佼成会教団史研究室編『佼成教団史の研究』、1980年 庭野日敬法話選集編纂委員会『庭野日敬法話選集』、佼成出版社、1978年 立正佼成会『佼成教学』、2010年 坂本幸男・岩本裕『法華経』(上中下)、岩波書店、2004年 増谷文雄『根本仏教と大乗仏教』、佼成出版社、1971年

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