• 検索結果がありません。

Vol.65 , No.2(2017)050内田 みどり「パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Vol.65 , No.2(2017)050内田 みどり「パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方」"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

殺人を意図したものでないからである.但し仏陀は無条件に投身を認めたわけで はないとは言える3)

ところが,律とは相違して,『サンユッタニカーヤ』における三経中に登場する 自殺を遂げた比丘たち Godhika4),Vakkali5),Channa6)(登場順)は般涅槃に入った と仏陀に言明されている(Channa は anupavajjaṃ「非難されずに」).しかし,これら 自殺を遂げた比丘たちは同じ『サンユッタニカーヤ』内では互いに離れた,項目 も別々の場所に置かれており,これらの経は「自殺」という括りで捉えられてい ないことが推察できる.何故なら,この中で Godhika は Māra-saṃyutta という,修 行の障碍を退ける集成中にある.Vakkali は,Khandha-vagga という五蘊の滅を説 くことによって無常・苦・無我を述べる部分に属する.Channa は Saḷāyatana-vagga において内外六処とそこに生じる心の働きの滅を説いた上で,無常・苦・無我と いう正しい認識を得ることを述べるためのものであり,各人とも同章中の他の比 丘たちは自殺を遂げてはいない.これらのことは教理説明のために設けられた『サ ンユッタニカーヤ』における自殺者の立場は,パーリ律内の「自殺」とは必ずし も等しくないことを想定させる.従来,仏教における自殺を論ずる際にしばしば, これら三経が取り上げられるが 7),その際に,『サンユッタニカーヤ』の構成から 得られる経の意図を解釈に導入する必要性を提案したい.

3.Kassapa-Saṃyutta

更に,パーリ律では科罪に相当しかねないが,『サンユッタニカーヤ』において は別の意図で使われているのが第 2 集,Nidāna(因縁篇)内の Kassapa-Saṃyutta の 第十経 Upassayam(『住処』,S II 214–217)・第十一経 Cīvaram(『衣』,S II 217–222)で ある.ここでは,Kassapa-Saṃyutta 第十一経:Cīvaram(『衣』)を引用する. アーナンダが遊行していた時,共住者である三十人の比丘たちは還俗してしま い,多くは少年たち(kumārabhūtā)であった.マハーカッサパはアーナンダの指導 力のなさを責め,彼を「子供(kumāraka)呼ばわり」した.

Atha kiñcarahi tvam āvuso Ānanda imehi navehi bhikkhūhi indriyesu aguttadvārehi bhojane amattaññūhi jāgariyam ananuyuttehi saddhiṃ cārikaṃ carasi // sassaghātam maññe carasi kulupaghātam maññe carasi // //

Olujjati kho te āvuso Ānanda parisā palujjanti kho te āvuso navappāyā // navāyaṃ kumārako mattam aññāsīti // // (S II 218) さて,尊者アーナンダよ,あなたは何故,感覚器官の門を守らない,適切な食事量を考 パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方(内 田) (239)

パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方

――『ヴィナヤ』と『サンユッタニカーヤ』を中心として――

内 田 み ど り

1.初めに

パーリ語における仏教文献中に見出される資料には,ニカーヤとヴィナヤに共 通の題材が存在する.しかし,他方では,ヴィナヤにおける第三波羅夷罪の中に 取り上げられる自殺を遂げる比丘たちの例と『サンユッタニカーヤ』における自 殺比丘たちの例には共通点がない.この理由として,教団保持のための規則が述 べられたヴィナヤの中の自殺と教理の説明がまとめられた『サンユッタニカーヤ』 における自殺は,それぞれの用途目的に合わせた異なる観点による編集の下で提 示されていることが想定できる.本研究ではこれに加えた事例を提示する.

2.ヴィナヤ(パーリ律)における自殺とニカーヤにおける自殺

パーリ律(Vinayapiṭaka)において自殺に関する条文(学処)は第三波羅夷罪1) の,仏陀が説いた不浄観(asubhabhāvanā)による多数の比丘たちの自殺の後に述べ られた学処であるが,これは本来,殺人戒である.

yo pana bikkhu sañcicca manussaviggahaṃ jīvitā voropeyya satthahārakaṃ vāssa pariyeseyya, ayaṃ pi pārājiko hoti asaṃvāso ʼti // (Vin III 71)

何れの比丘であっても,故意に人体の命を奪おうとし,或いは,刀を持つものを求める のであれば,この者は波羅夷(pārājika)であり,不共住である.

第三波羅夷罪中の自殺そのものの事例は,崖から投身したある比丘が,本人は 死なず,下にいた籠つくり人を死に至らしめたことに対する仏陀の裁定である. anāpatti bhikkhu pārājikassa. na ca bhikkave attānaṃ pātetabbaṃ. yo pāteyya, āpatti dukkaṭassā ʼti // (Vin III 82)

比丘よ,波羅夷罪ではない.しかし比丘たちよ,自ら飛び降りるべきではない,誰であ れ飛び降りるのであれば,[その者は]突吉羅(dukkaṭa)である.

この投身した比丘が,突吉羅(dukkaṭa)2)という軽罪なのは,不運な相手の死が

(238) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月

(2)

殺人を意図したものでないからである.但し仏陀は無条件に投身を認めたわけで はないとは言える3)

ところが,律とは相違して,『サンユッタニカーヤ』における三経中に登場する 自殺を遂げた比丘たち Godhika4),Vakkali5),Channa6)(登場順)は般涅槃に入った と仏陀に言明されている(Channa は anupavajjaṃ「非難されずに」).しかし,これら 自殺を遂げた比丘たちは同じ『サンユッタニカーヤ』内では互いに離れた,項目 も別々の場所に置かれており,これらの経は「自殺」という括りで捉えられてい ないことが推察できる.何故なら,この中で Godhika は Māra-saṃyutta という,修 行の障碍を退ける集成中にある.Vakkali は,Khandha-vagga という五蘊の滅を説 くことによって無常・苦・無我を述べる部分に属する.Channa は Saḷāyatana-vagga において内外六処とそこに生じる心の働きの滅を説いた上で,無常・苦・無我と いう正しい認識を得ることを述べるためのものであり,各人とも同章中の他の比 丘たちは自殺を遂げてはいない.これらのことは教理説明のために設けられた『サ ンユッタニカーヤ』における自殺者の立場は,パーリ律内の「自殺」とは必ずし も等しくないことを想定させる.従来,仏教における自殺を論ずる際にしばしば, これら三経が取り上げられるが 7),その際に,『サンユッタニカーヤ』の構成から 得られる経の意図を解釈に導入する必要性を提案したい.

3.Kassapa-Saṃyutta

更に,パーリ律では科罪に相当しかねないが,『サンユッタニカーヤ』において は別の意図で使われているのが第 2 集,Nidāna(因縁篇)内の Kassapa-Saṃyutta の 第十経 Upassayam(『住処』,S II 214–217)・第十一経 Cīvaram(『衣』,S II 217–222)で ある.ここでは,Kassapa-Saṃyutta 第十一経:Cīvaram(『衣』)を引用する. アーナンダが遊行していた時,共住者である三十人の比丘たちは還俗してしま い,多くは少年たち(kumārabhūtā)であった.マハーカッサパはアーナンダの指導 力のなさを責め,彼を「子供(kumāraka)呼ばわり」した.

Atha kiñcarahi tvam āvuso Ānanda imehi navehi bhikkhūhi indriyesu aguttadvārehi bhojane amattaññūhi jāgariyam ananuyuttehi saddhiṃ cārikaṃ carasi // sassaghātam maññe carasi kulupaghātam maññe carasi // //

Olujjati kho te āvuso Ānanda parisā palujjanti kho te āvuso navappāyā // navāyaṃ kumārako mattam aññāsīti // // (S II 218) さて,尊者アーナンダよ,あなたは何故,感覚器官の門を守らない,適切な食事量を考 パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方(内 田) (239)

パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方

――『ヴィナヤ』と『サンユッタニカーヤ』を中心として――

内 田 み ど り

1.初めに

パーリ語における仏教文献中に見出される資料には,ニカーヤとヴィナヤに共 通の題材が存在する.しかし,他方では,ヴィナヤにおける第三波羅夷罪の中に 取り上げられる自殺を遂げる比丘たちの例と『サンユッタニカーヤ』における自 殺比丘たちの例には共通点がない.この理由として,教団保持のための規則が述 べられたヴィナヤの中の自殺と教理の説明がまとめられた『サンユッタニカーヤ』 における自殺は,それぞれの用途目的に合わせた異なる観点による編集の下で提 示されていることが想定できる.本研究ではこれに加えた事例を提示する.

2.ヴィナヤ(パーリ律)における自殺とニカーヤにおける自殺

パーリ律(Vinayapiṭaka)において自殺に関する条文(学処)は第三波羅夷罪1) の,仏陀が説いた不浄観(asubhabhāvanā)による多数の比丘たちの自殺の後に述べ られた学処であるが,これは本来,殺人戒である.

yo pana bikkhu sañcicca manussaviggahaṃ jīvitā voropeyya satthahārakaṃ vāssa pariyeseyya, ayaṃ pi pārājiko hoti asaṃvāso ʼti // (Vin III 71)

何れの比丘であっても,故意に人体の命を奪おうとし,或いは,刀を持つものを求める のであれば,この者は波羅夷(pārājika)であり,不共住である.

第三波羅夷罪中の自殺そのものの事例は,崖から投身したある比丘が,本人は 死なず,下にいた籠つくり人を死に至らしめたことに対する仏陀の裁定である. anāpatti bhikkhu pārājikassa. na ca bhikkave attānaṃ pātetabbaṃ. yo pāteyya, āpatti dukkaṭassā ʼti // (Vin III 82)

比丘よ,波羅夷罪ではない.しかし比丘たちよ,自ら飛び降りるべきではない,誰であ れ飛び降りるのであれば,[その者は]突吉羅(dukkaṭa)である.

この投身した比丘が,突吉羅(dukkaṭa)2)という軽罪なのは,不運な相手の死が

(238) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月

(3)

 6)S IV 55–60.病苦に耐えかね刀を執り自殺をする.

 7)Louis de la Vallée Poussin は,Encyclopedia of Religion and Ethics(ed. James Hastings [Edinburgh: T. & T. Clark; New York: C. Scriber’s Son’s, 1922])の “suicide(Buddhist)” の 項で,仏教における自殺の扱いに容認・非容認の側から其々の論拠となる文献を挙げ ている.一方,Lamotte 1965 は,第三波羅夷罪には自殺を直接的に禁じる文言はない とした.Wiltshire 1983,藤田 1988,Delhey 2006 も基本的にはヴィナヤには「自殺その もの」を禁じる記述はないとする点では共通している.陣内 1990 は仏教においての自 殺は禁じられていたとする.  8)Frauwallner 1956. フラウヴァルナーは律と経典の共通部分の研究により,律に先立つ 経典の影響を指摘し,また現存する犍度部成立以前に「古犍度部」(Old Skandhaka)を 想定し律とニカーヤ相互の関係を論じた.山極 1994 においては,この問題を扱ってい る.また,平川 1960 は附録として「律蔵に引用される経典」を挙げている. 〈略号〉(パーリ語資料は PTS 版を底本とする.)

S Saṃyutta-nikāya. Ed. M. Léon Feer (vols. 1–5) and C. A. F. Rhys Davids (vol. 6, index). 6

vols. London: Pali Text Society, 1884–1904.

Vin Vinayapiṭaka. Ed. Hermann Oldenberg. 5 vols. London: Pali Text Society, 1969.

〈参考文献〉

Delhey, Martin. 2006. “Views on Suicide on Buddhism: Some Remarks.” In Buddhism and

Violence, ed. Michael Zimmermann, 25–63. Lumbini: Lumbini International Institute.

Frauwallner, E. 1956. The Earliest Vinaya and the Beginnings of Buddhist Literature. Serie Orientale Roma VIII. Roma: Instituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente.

Lamotte, Étienne. 1965. “Le Suicide religieux dans le bouddhisme ancient.” Classe des Lettres et

des Sciences Morales et Politiques 5: 156–168.

Wiltshire, Martin. 1983. “The ‘Suicide᾽ Problem in the Pāli Canon.” The Journal of the

International Association of Buddhist Studies 6 (2): 124–140.

陣内由晴 1990「原始仏典に説かれた自殺について」『東洋哲学研究所紀要』6: 81–106. 高楠順次郎 2003『南伝大蔵経 1』律蔵 1,2,大蔵出版. 平川彰 1960『律蔵の研究』山喜房佛書林. ――― 1964『原始仏教の研究』春秋社. 藤田宏達 1988「原始仏教における生死観」『印度哲学仏教学』3: 38–63. 山極伸之 1994「律蔵と阿含の関連性」『印度学仏教学研究』43 (1): 106–111. 〈キーワード〉 『ヴィナヤ』,『サンユッタニカーヤ』,自殺,第三波羅夷罪,波逸提法 (東京大学大学院) パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方(内 田) (241) えない,不眠の行に励まないこれらの新参比丘たちと遊行したのか.私が考えるに,穀 物を害し,在家の家族を害し遊行した[であろう]. 尊者アーナンダよ,あなたの取り巻きの衆は瓦解した.尊者よ,あなたの新参者達の集 まりは消滅した.この子供は適量を知らない[と言った].

Api me bhante Kassapa sirasmiṃ phalitāni jātāni // atha ca pana mayam ajjāpi // āyasmato Mahā-Kassapassa kumārakavādā na muñcamāti // // (S II 218)

尊師カッサパよ,私の頭に白髪が生じていても,尊者マハーカッサパの「子供呼ばわり」 から,私はいまだに解放されない. このマハーカッサパのアーナンダを責める態度は,波逸提法 Pācittiya I-II(Vin 1-17,小妄語戒)に相当する.マハーカッサパが,アーナンダと共に遊行した新参 比丘たちが穀物を害し,在家の家族を害したと私は考える,と自分自身で実見し て い な い こ と に 非 難 の 発 言 を し た こ と は Pācittiya I の 「 故 意 の 妄 語 」 (sampajānamusāvāda, Vin IV 4)になる.また kumārakavāda「子供呼ばわり」は,実際

にはアーナンダの発言により,彼の頭部には白髪が生じていることが分かるので Pācittiya II の「侮辱の悪口」(omasavāda, Vin IV 6)に抵触するはずであるが,彼の侮 言が責められる表現はない.Kassapa-saṃyutta として項目に対応した編集を成す 意図による記述の下では,主題に沿った選択・提示がなされていると思われる.

4.終わりに

律は教団の存続・維持のための規定であり,その中で扱われるエピソードは必 ずしも経典で取り扱われる解釈と一致しない.特に『サンユッタニカーヤ』は教 理の説明のために項目別の分類がなされており,上述の「自殺」の例のように, その構成上齎される,律との相違・矛盾による解釈を考慮に入れる必要があるの ではないだろうか.文献学的見地からも律と経典の共通点のみならず8),双方の 目的と構成の相違点が其々の成立過程の検証の一助となることが期待される.  1)Vin III 68–82.  2)突吉羅(dukkaṭa)とは,平川 1964: 274 に,「意訳して 「悪作」 と訳す.」とあり,『薩 婆多毘尼毘婆沙』からの引用「心に悔み念じ,学せば,罪即ち滅するなり」(平川 1964: 276)を挙げる.  3)平川 1964: 287 に,「パーリ律には 「自ら投身するものは突吉羅なり」 として,投身 を突吉羅とし,(中略)ともかく自殺が不可なることは言うまでもない」とある.  4)S I 120–122.何度も精神集中から退転してしまうことに嫌気がさし,刀を執り自殺 する.  5)S III 119–124.病苦に耐えかねて刀を執り自殺をしたいと言い,実行する. (240) パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方(内 田) ─ 799 ─

(4)

 6)S IV 55–60.病苦に耐えかね刀を執り自殺をする.

 7)Louis de la Vallée Poussin は,Encyclopedia of Religion and Ethics(ed. James Hastings [Edinburgh: T. & T. Clark; New York: C. Scriber’s Son’s, 1922])の “suicide(Buddhist)” の 項で,仏教における自殺の扱いに容認・非容認の側から其々の論拠となる文献を挙げ ている.一方,Lamotte 1965 は,第三波羅夷罪には自殺を直接的に禁じる文言はない とした.Wiltshire 1983,藤田 1988,Delhey 2006 も基本的にはヴィナヤには「自殺その もの」を禁じる記述はないとする点では共通している.陣内 1990 は仏教においての自 殺は禁じられていたとする.  8)Frauwallner 1956. フラウヴァルナーは律と経典の共通部分の研究により,律に先立つ 経典の影響を指摘し,また現存する犍度部成立以前に「古犍度部」(Old Skandhaka)を 想定し律とニカーヤ相互の関係を論じた.山極 1994 においては,この問題を扱ってい る.また,平川 1960 は附録として「律蔵に引用される経典」を挙げている. 〈略号〉(パーリ語資料は PTS 版を底本とする.)

S Saṃyutta-nikāya. Ed. M. Léon Feer (vols. 1–5) and C. A. F. Rhys Davids (vol. 6, index). 6

vols. London: Pali Text Society, 1884–1904.

Vin Vinayapiṭaka. Ed. Hermann Oldenberg. 5 vols. London: Pali Text Society, 1969.

〈参考文献〉

Delhey, Martin. 2006. “Views on Suicide on Buddhism: Some Remarks.” In Buddhism and

Violence, ed. Michael Zimmermann, 25–63. Lumbini: Lumbini International Institute.

Frauwallner, E. 1956. The Earliest Vinaya and the Beginnings of Buddhist Literature. Serie Orientale Roma VIII. Roma: Instituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente.

Lamotte, Étienne. 1965. “Le Suicide religieux dans le bouddhisme ancient.” Classe des Lettres et

des Sciences Morales et Politiques 5: 156–168.

Wiltshire, Martin. 1983. “The ‘Suicide᾽ Problem in the Pāli Canon.” The Journal of the

International Association of Buddhist Studies 6 (2): 124–140.

陣内由晴 1990「原始仏典に説かれた自殺について」『東洋哲学研究所紀要』6: 81–106. 高楠順次郎 2003『南伝大蔵経 1』律蔵 1,2,大蔵出版. 平川彰 1960『律蔵の研究』山喜房佛書林. ――― 1964『原始仏教の研究』春秋社. 藤田宏達 1988「原始仏教における生死観」『印度哲学仏教学』3: 38–63. 山極伸之 1994「律蔵と阿含の関連性」『印度学仏教学研究』43 (1): 106–111. 〈キーワード〉 『ヴィナヤ』,『サンユッタニカーヤ』,自殺,第三波羅夷罪,波逸提法 (東京大学大学院) パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方(内 田) (241) えない,不眠の行に励まないこれらの新参比丘たちと遊行したのか.私が考えるに,穀 物を害し,在家の家族を害し遊行した[であろう]. 尊者アーナンダよ,あなたの取り巻きの衆は瓦解した.尊者よ,あなたの新参者達の集 まりは消滅した.この子供は適量を知らない[と言った].

Api me bhante Kassapa sirasmiṃ phalitāni jātāni // atha ca pana mayam ajjāpi // āyasmato Mahā-Kassapassa kumārakavādā na muñcamāti // // (S II 218)

尊師カッサパよ,私の頭に白髪が生じていても,尊者マハーカッサパの「子供呼ばわり」 から,私はいまだに解放されない. このマハーカッサパのアーナンダを責める態度は,波逸提法 Pācittiya I-II(Vin 1-17,小妄語戒)に相当する.マハーカッサパが,アーナンダと共に遊行した新参 比丘たちが穀物を害し,在家の家族を害したと私は考える,と自分自身で実見し て い な い こ と に 非 難 の 発 言 を し た こ と は Pācittiya I の 「 故 意 の 妄 語 」 (sampajānamusāvāda, Vin IV 4)になる.また kumārakavāda「子供呼ばわり」は,実際

にはアーナンダの発言により,彼の頭部には白髪が生じていることが分かるので Pācittiya II の「侮辱の悪口」(omasavāda, Vin IV 6)に抵触するはずであるが,彼の侮 言が責められる表現はない.Kassapa-saṃyutta として項目に対応した編集を成す 意図による記述の下では,主題に沿った選択・提示がなされていると思われる.

4.終わりに

律は教団の存続・維持のための規定であり,その中で扱われるエピソードは必 ずしも経典で取り扱われる解釈と一致しない.特に『サンユッタニカーヤ』は教 理の説明のために項目別の分類がなされており,上述の「自殺」の例のように, その構成上齎される,律との相違・矛盾による解釈を考慮に入れる必要があるの ではないだろうか.文献学的見地からも律と経典の共通点のみならず8),双方の 目的と構成の相違点が其々の成立過程の検証の一助となることが期待される.  1)Vin III 68–82.  2)突吉羅(dukkaṭa)とは,平川 1964: 274 に,「意訳して 「悪作」 と訳す.」とあり,『薩 婆多毘尼毘婆沙』からの引用「心に悔み念じ,学せば,罪即ち滅するなり」(平川 1964: 276)を挙げる.  3)平川 1964: 287 に,「パーリ律には 「自ら投身するものは突吉羅なり」 として,投身 を突吉羅とし,(中略)ともかく自殺が不可なることは言うまでもない」とある.  4)S I 120–122.何度も精神集中から退転してしまうことに嫌気がさし,刀を執り自殺 する.  5)S III 119–124.病苦に耐えかねて刀を執り自殺をしたいと言い,実行する. (240) パーリ仏教文献における「自殺観」の扱い方(内 田) ─ 798 ─

参照

関連したドキュメント

教育・保育における合理的配慮

②立正大学所蔵本のうち、現状で未比定のパーリ語(?)文献については先述の『請来資料目録』に 掲載されているが

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

 日本一自殺死亡率の高い秋田県で、さきがけとして2002年から自殺防

﹁地方議会における請願権﹂と題するこの分野では非常に数の少ない貴重な論文を執筆された吉田善明教授の御教示

小学校における環境教育の中で、子供たちに家庭 における省エネなど環境に配慮した行動の実践を させることにより、CO 2

図および図は本学で運用中の LMS「LUNA」に iPad 版からアクセスしたものである。こ こで示した図からわかるように iPad 版から LUNA にアクセスした画面の「見た目」や使い勝手