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Vol.65 , No.1(2016)056藤本 庸裕「遍行随眠における「遍行」の語義について」

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(1)

・見苦所断の非遍行随眠    見苦所断の法(主に随眠)   所縁が断じられること ・見滅所断の無漏縁の随眠   滅諦(択滅無為)       所縁を智慧で見ること ・見滅所断の有漏縁の随眠   見滅所断の法(主に随眠)   所縁が断じられること 見苦・見集所断の遍行随眠と見滅・見道所断の無漏縁の随眠は,先に示したよ うに同種の随眠(邪見・疑・無明等)から構成されていることに加え,「所縁」と 「断じられ方」の 2 点,即ち「四諦の 1 つを所縁とする」点と「所縁を智慧で見る ことで断じられる」点で,上記の枠組みにおいて同じ位置にある.この同じ位置 付けから判断すれば,遍行随眠は無漏縁の随眠と類似した構成を持つと考えられ る.無漏縁の随眠が「無漏[の法](滅諦または道諦)を所縁とする随眠」である ことから類推すると,遍行随眠,即ち「あらゆる所に行き渡る随眠」とは,「あら ゆるものを所縁とする随眠」の意であると推測される.また,完成された有部の 教理では,見苦・見集所断の遍行随眠の所縁である苦諦(結果としての有漏法)と 集諦(原因としての有漏法)は,いずれも有漏法全体を包括する.従って,遍行随 眠の所縁は無漏法をも含む「あらゆるもの」ではなく,実質的には有漏法の中で の「あらゆるもの」,即ち「あらゆる有漏法」であることが含意される4).以上の ように,見所断の随眠の枠組みに基づけば,遍行随眠の「遍行」とは「あらゆる 有漏法を所縁とする」という意であると推測することができる.

3.『婆沙論』における「遍行」の語義解釈 

『婆沙論』は遍行随眠の「遍 行」について 4 通りの語義解釈を挙げている5).ここで注目したいのは,語義解 釈の全てに「あるものを所縁とする」という趣旨の記述が含まれ,さらにその所 縁が,第 1 解釈では「あらゆるもの」,第 2 解釈では「あらゆる有漏の事物」(即 ち,あらゆる有漏法),第 3,第 4 解釈では「五部の法」(即ち,見苦所断ないし修所断 の法)とされていることである.第 1 解釈を措くとしても,これは,「遍行」の語 には第一に「あらゆる有漏法,または五部の法を所縁とする」という意が込めら れていたことを意味している6).有部の教理において「あらゆる有漏法」と「五 部の法」が範囲を同じくする点を考慮すれば,以上の『婆沙論』の語義解釈は, 前節で推測した「あらゆる有漏法を所縁とする」という「遍行」の語意が妥当で あることを示している. だが,なお問題となるのは,遍行随眠の所縁を「あらゆる有漏法」とする解釈 と「五部の法」とする解釈は,いずれが本来的であるのかという点である.後者 の解釈は『婆沙論』以後の論書にも頻出し,この 2 つの解釈が全く同一のものと して扱われている場合も見られる7).しかし,両解釈は説明の仕方が違う以上, 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (183)

遍行随眠における「遍行」の語義について

藤 本 庸 裕

1.問題の所在 

説一切有部(以下,有部)の煩悩論において主要な体系を成し ている九十八随眠は,見所断(見苦所断ないし見道所断)の 4 部の随眠と修所断の 随眠との計 5 部に分類され,さらに見所断の各部の随眠は,遍行(sarvatraga)と非 遍行(asarvatraga),無漏縁(anāsravālambana)と有漏縁(sāsravālambana)という区分 によって,便宜的に次のように二分される(以下,欲界の場合を例示する). ・見苦所断の遍行随眠………有身見・辺執見・邪見・見取・戒禁取・疑・無明(不共・相応) ・見苦所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見集所断の遍行随眠………邪見・見取・疑・無明(不共・相応) ・見集所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見滅所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見滅所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取 ・見道所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見道所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取・戒禁取 この中,遍行随眠は『識身足論』に初出するが1),「遍行」(sarvatraga,あらゆる 所に行き渡る2)の語に関する教理的解釈が現れるのは『婆沙論』以降であり,そ の解釈も一様でない.では,本来この遍行随眠の「遍行」には,有部の教義体系 上いかなる意味が込められていたのか.また,何故に多様な語義解釈が生じたの か.小稿では,最初に見所断の随眠の基本的な枠組みに基づいて「遍行」の語意 を推測した後,『婆沙論』に見られる語義解釈からその妥当性を検討する.さら に,異なる解釈が生じた理由についても部分的な解答を提示する.

2.見所断の随眠の枠組みから推測される「遍行」の語義 

最初に見所断の 随眠の基本的な枠組みを示すと,それは次のようになる3)(見集所断と見道所断の随 眠は,それぞれ見苦所断と見滅所断の随眠の場合に準じる). 〈随眠〉      〈所縁〉       〈断じられ方〉 ・見苦所断の遍行随眠     苦諦(有漏法)        所縁を智慧で見ること (182) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 343 ─

(2)

・見苦所断の非遍行随眠    見苦所断の法(主に随眠)   所縁が断じられること ・見滅所断の無漏縁の随眠   滅諦(択滅無為)       所縁を智慧で見ること ・見滅所断の有漏縁の随眠   見滅所断の法(主に随眠)   所縁が断じられること 見苦・見集所断の遍行随眠と見滅・見道所断の無漏縁の随眠は,先に示したよ うに同種の随眠(邪見・疑・無明等)から構成されていることに加え,「所縁」と 「断じられ方」の 2 点,即ち「四諦の 1 つを所縁とする」点と「所縁を智慧で見る ことで断じられる」点で,上記の枠組みにおいて同じ位置にある.この同じ位置 付けから判断すれば,遍行随眠は無漏縁の随眠と類似した構成を持つと考えられ る.無漏縁の随眠が「無漏[の法](滅諦または道諦)を所縁とする随眠」である ことから類推すると,遍行随眠,即ち「あらゆる所に行き渡る随眠」とは,「あら ゆるものを所縁とする随眠」の意であると推測される.また,完成された有部の 教理では,見苦・見集所断の遍行随眠の所縁である苦諦(結果としての有漏法)と 集諦(原因としての有漏法)は,いずれも有漏法全体を包括する.従って,遍行随 眠の所縁は無漏法をも含む「あらゆるもの」ではなく,実質的には有漏法の中で の「あらゆるもの」,即ち「あらゆる有漏法」であることが含意される4).以上の ように,見所断の随眠の枠組みに基づけば,遍行随眠の「遍行」とは「あらゆる 有漏法を所縁とする」という意であると推測することができる.

3.『婆沙論』における「遍行」の語義解釈 

『婆沙論』は遍行随眠の「遍 行」について 4 通りの語義解釈を挙げている5).ここで注目したいのは,語義解 釈の全てに「あるものを所縁とする」という趣旨の記述が含まれ,さらにその所 縁が,第 1 解釈では「あらゆるもの」,第 2 解釈では「あらゆる有漏の事物」(即 ち,あらゆる有漏法),第 3,第 4 解釈では「五部の法」(即ち,見苦所断ないし修所断 の法)とされていることである.第 1 解釈を措くとしても,これは,「遍行」の語 には第一に「あらゆる有漏法,または五部の法を所縁とする」という意が込めら れていたことを意味している6).有部の教理において「あらゆる有漏法」と「五 部の法」が範囲を同じくする点を考慮すれば,以上の『婆沙論』の語義解釈は, 前節で推測した「あらゆる有漏法を所縁とする」という「遍行」の語意が妥当で あることを示している. だが,なお問題となるのは,遍行随眠の所縁を「あらゆる有漏法」とする解釈 と「五部の法」とする解釈は,いずれが本来的であるのかという点である.後者 の解釈は『婆沙論』以後の論書にも頻出し,この 2 つの解釈が全く同一のものと して扱われている場合も見られる7).しかし,両解釈は説明の仕方が違う以上, 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (183)

遍行随眠における「遍行」の語義について

藤 本 庸 裕

1.問題の所在 

説一切有部(以下,有部)の煩悩論において主要な体系を成し ている九十八随眠は,見所断(見苦所断ないし見道所断)の 4 部の随眠と修所断の 随眠との計 5 部に分類され,さらに見所断の各部の随眠は,遍行(sarvatraga)と非 遍行(asarvatraga),無漏縁(anāsravālambana)と有漏縁(sāsravālambana)という区分 によって,便宜的に次のように二分される(以下,欲界の場合を例示する). ・見苦所断の遍行随眠………有身見・辺執見・邪見・見取・戒禁取・疑・無明(不共・相応) ・見苦所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見集所断の遍行随眠………邪見・見取・疑・無明(不共・相応) ・見集所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見滅所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見滅所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取 ・見道所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見道所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取・戒禁取 この中,遍行随眠は『識身足論』に初出するが1),「遍行」(sarvatraga,あらゆる 所に行き渡る2)の語に関する教理的解釈が現れるのは『婆沙論』以降であり,そ の解釈も一様でない.では,本来この遍行随眠の「遍行」には,有部の教義体系 上いかなる意味が込められていたのか.また,何故に多様な語義解釈が生じたの か.小稿では,最初に見所断の随眠の基本的な枠組みに基づいて「遍行」の語意 を推測した後,『婆沙論』に見られる語義解釈からその妥当性を検討する.さら に,異なる解釈が生じた理由についても部分的な解答を提示する.

2.見所断の随眠の枠組みから推測される「遍行」の語義 

最初に見所断の 随眠の基本的な枠組みを示すと,それは次のようになる3)(見集所断と見道所断の随 眠は,それぞれ見苦所断と見滅所断の随眠の場合に準じる). 〈随眠〉      〈所縁〉       〈断じられ方〉 ・見苦所断の遍行随眠     苦諦(有漏法)        所縁を智慧で見ること (182) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 342 ─

(3)

5.まとめ 

以上の結論として,遍行随眠の「遍行」には第一に「あらゆる有漏 法を所縁とする」という教理的な意味が込められていたと考えられる.また,「五 部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,「五部の法を所縁とする遍行 随眠」と「自部の法を所縁とする非遍行随眠」という両随眠の対照的な説明のう ち,前者の説明が「遍行」の解釈に取り込まれた為に生じたものと推定される. 1)遍行随眠の数は『品類足論』で確定して以降,『順正理論』に至るまで変わらな い.   2)AKVy 458, 9–10.   3)藤本(2015, (30)–(35)及び注(14))を参照.この 枠組みは主に『婆沙論』や AKBh に基づいて推定したが,これは『発智論』または『品 類足論』以前に想定されていた可能性が高い.   4)遍行随眠の所縁には更に三界・ 九地による区別があるが,それについては措いておく.   5)第 1 解釈は『婆沙論』 T27, 91c21–24(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a16–19),第 2 解釈は『婆沙論』T27, 91c24–92a3 (『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a19–28),第 3 解釈は『婆沙論』T27, 92a3–8(『阿毘曇毘婆沙 論』T28, 76a28–b3),第 4 解釈は『婆沙論』T27, 92a8–10(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76b3– 5)を参照.   6)その他,「遍行」の語には「あらゆる有情に起こる」という意が掛 けられている可能性もあるが(『婆沙論』第 2 解釈,『曇心論経』T28, 845b2–5,『雑心論』 T28, 901a19–21,TA, D 120a4–5, P 254a2 を参照),この解釈は遍行随眠を他の随眠から殊 別する規定にはなり得ない.   7)『順正理論』T29, 611b20–22,TA, D 121a2–3, P 254b7–8.   8)『発智論』T26, 1025a5–7(『八犍度論』T26, 909b17–18).   9)こ れは『婆沙論』以降の論書(『曇心論』T28, 816a11–19,『雑心論』T28, 902a13–24,AKBh 289, 9–15 等)で各随眠の所縁または所縁随増を説明する際,非遍行随眠との対照的な構 図によって遍行随眠を取り扱っている点からも支持されよう.    〈一次文献と略号〉

AKBh Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research

Institute, 1967.

AKVy Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā. Ed. Wogihara Unrai. Tokyo: Sankibo Buddhist

Book Store, 1971.

TA Abhidharmakośabhāṣyaṭīkā Tattvārthā nāma (Sthiramati): D no. 4421, P no. 5875.

〈二次文献〉 藤本庸裕 2015「見所断の随眠における貪・瞋・慢・無明の史的背景について」『東洋の思 想と宗教』32: (25)–(38). 〈キーワード〉 随眠,遍行随眠,遍行,五部,自部 (早稲田大学大学院) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (185) 異なるものと見なくてはならない.「あらゆる所に行き渡る」という「遍行」の基 本的な語義に「五部の法」を読み込むのは不自然であることからして,何故に遍 行随眠の所縁に「五部の法」を用いたのか,その理由を明らかにする必要がある.

4.遍行随眠の所縁に「五部」を用いた理由 

ここで「五部」の語が「自部」 の語と同時に現れる文脈に着目したい.随眠の中で,所縁が「自部(自らと同じ 部)の法」として纏められるものは,見苦・見集所断の非遍行随眠と見滅・見道 所断の有漏縁の随眠(第 2 節を参照)と修所断の随眠である.一方,非遍行随眠に は,遍行随眠以外の全ての随眠が含まれる.しかし,仮に無漏縁の随眠を非遍行 随眠から除外すれば,非遍行随眠は自部の法を所縁とする随眠と一致することに なる.次の『発智論』の問答8)に対する『婆沙論』の註釈は,その一致が見ら れ,かつ「五部」と「自部」が同時に用いられる文脈の一例である(下線部は『発 智論』の引用を示す). 『婆沙論』T27, 967a9–18:【問】何故に欲界[繫]の非遍行随眠は普く欲界繫の法に対し て随増しないのか.【答】…….【註】こ[の欲界繫の非遍行随眠]は遍行[随眠]となっ てしまう[からである]とは,この欲界[繫]の非遍行随眠は,もし普く欲界[繫]の 法に随増すれば,遍行[随眠]となってしまう.また,そ[の欲界繫の一切法]はこ[の 欲界繫の非遍行随眠]の所縁ではないからであるとは,…….こ[の非遍行随眠]はた だ自らと同じ部(自部,*svanikāya)の法を所縁とするからである.……もし非遍行随眠 もまた普く五部[の法]を所縁とするならば,五部[の法]に対して普く随増すること にな[り,故に遍行随眠となるという過失が生じてしまうであ]ろう. ここで注目すべき点は,非遍行随眠から無漏縁の随眠が除かれ,非遍行随眠の 所縁が「自部の法」として一般化されていることに加えて,非遍行随眠に遍行随 眠の所縁の取り方を仮定した時,「あらゆる有漏法を所縁とする」ではなく,「普 く五部[の法]を所縁とする」という説明の仕方をしていることである.このこ とから,「五部の法」という遍行随眠の所縁の取り方には「自部の法」という非遍 行随眠の所縁の取り方が含意されていること,さらにその前提として非遍行随眠 から無漏縁の随眠が除かれていることが読み取れる.しかし,本来無漏縁の随眠 は非遍行随眠に含まれるから,非遍行随眠の所縁を「自部の法」として纏めるこ とはできない.故に,遍行随眠の所縁を「五部の法」とすることもない.従って, 先の「五部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,当初は存在せず, 上記の「自部の法を所縁とする非遍行随眠」と対照させた遍行随眠の便宜的な説 明が,恰も本質的な規定の如く「遍行」の解釈に取り込まれたことから生じたも のと考えられる9) (184) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) ─ 341 ─

(4)

5.まとめ 

以上の結論として,遍行随眠の「遍行」には第一に「あらゆる有漏 法を所縁とする」という教理的な意味が込められていたと考えられる.また,「五 部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,「五部の法を所縁とする遍行 随眠」と「自部の法を所縁とする非遍行随眠」という両随眠の対照的な説明のう ち,前者の説明が「遍行」の解釈に取り込まれた為に生じたものと推定される. 1)遍行随眠の数は『品類足論』で確定して以降,『順正理論』に至るまで変わらな い.   2)AKVy 458, 9–10.   3)藤本(2015, (30)–(35)及び注(14))を参照.この 枠組みは主に『婆沙論』や AKBh に基づいて推定したが,これは『発智論』または『品 類足論』以前に想定されていた可能性が高い.   4)遍行随眠の所縁には更に三界・ 九地による区別があるが,それについては措いておく.   5)第 1 解釈は『婆沙論』 T27, 91c21–24(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a16–19),第 2 解釈は『婆沙論』T27, 91c24–92a3 (『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a19–28),第 3 解釈は『婆沙論』T27, 92a3–8(『阿毘曇毘婆沙 論』T28, 76a28–b3),第 4 解釈は『婆沙論』T27, 92a8–10(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76b3– 5)を参照.   6)その他,「遍行」の語には「あらゆる有情に起こる」という意が掛 けられている可能性もあるが(『婆沙論』第 2 解釈,『曇心論経』T28, 845b2–5,『雑心論』 T28, 901a19–21,TA, D 120a4–5, P 254a2 を参照),この解釈は遍行随眠を他の随眠から殊 別する規定にはなり得ない.   7)『順正理論』T29, 611b20–22,TA, D 121a2–3, P 254b7–8.   8)『発智論』T26, 1025a5–7(『八犍度論』T26, 909b17–18).   9)こ れは『婆沙論』以降の論書(『曇心論』T28, 816a11–19,『雑心論』T28, 902a13–24,AKBh 289, 9–15 等)で各随眠の所縁または所縁随増を説明する際,非遍行随眠との対照的な構 図によって遍行随眠を取り扱っている点からも支持されよう.    〈一次文献と略号〉

AKBh Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research

Institute, 1967.

AKVy Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā. Ed. Wogihara Unrai. Tokyo: Sankibo Buddhist

Book Store, 1971.

TA Abhidharmakośabhāṣyaṭīkā Tattvārthā nāma (Sthiramati): D no. 4421, P no. 5875.

〈二次文献〉 藤本庸裕 2015「見所断の随眠における貪・瞋・慢・無明の史的背景について」『東洋の思 想と宗教』32: (25)–(38). 〈キーワード〉 随眠,遍行随眠,遍行,五部,自部 (早稲田大学大学院) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (185) 異なるものと見なくてはならない.「あらゆる所に行き渡る」という「遍行」の基 本的な語義に「五部の法」を読み込むのは不自然であることからして,何故に遍 行随眠の所縁に「五部の法」を用いたのか,その理由を明らかにする必要がある.

4.遍行随眠の所縁に「五部」を用いた理由 

ここで「五部」の語が「自部」 の語と同時に現れる文脈に着目したい.随眠の中で,所縁が「自部(自らと同じ 部)の法」として纏められるものは,見苦・見集所断の非遍行随眠と見滅・見道 所断の有漏縁の随眠(第 2 節を参照)と修所断の随眠である.一方,非遍行随眠に は,遍行随眠以外の全ての随眠が含まれる.しかし,仮に無漏縁の随眠を非遍行 随眠から除外すれば,非遍行随眠は自部の法を所縁とする随眠と一致することに なる.次の『発智論』の問答8)に対する『婆沙論』の註釈は,その一致が見ら れ,かつ「五部」と「自部」が同時に用いられる文脈の一例である(下線部は『発 智論』の引用を示す). 『婆沙論』T27, 967a9–18:【問】何故に欲界[繫]の非遍行随眠は普く欲界繫の法に対し て随増しないのか.【答】…….【註】こ[の欲界繫の非遍行随眠]は遍行[随眠]となっ てしまう[からである]とは,この欲界[繫]の非遍行随眠は,もし普く欲界[繫]の 法に随増すれば,遍行[随眠]となってしまう.また,そ[の欲界繫の一切法]はこ[の 欲界繫の非遍行随眠]の所縁ではないからであるとは,…….こ[の非遍行随眠]はた だ自らと同じ部(自部,*svanikāya)の法を所縁とするからである.……もし非遍行随眠 もまた普く五部[の法]を所縁とするならば,五部[の法]に対して普く随増すること にな[り,故に遍行随眠となるという過失が生じてしまうであ]ろう. ここで注目すべき点は,非遍行随眠から無漏縁の随眠が除かれ,非遍行随眠の 所縁が「自部の法」として一般化されていることに加えて,非遍行随眠に遍行随 眠の所縁の取り方を仮定した時,「あらゆる有漏法を所縁とする」ではなく,「普 く五部[の法]を所縁とする」という説明の仕方をしていることである.このこ とから,「五部の法」という遍行随眠の所縁の取り方には「自部の法」という非遍 行随眠の所縁の取り方が含意されていること,さらにその前提として非遍行随眠 から無漏縁の随眠が除かれていることが読み取れる.しかし,本来無漏縁の随眠 は非遍行随眠に含まれるから,非遍行随眠の所縁を「自部の法」として纏めるこ とはできない.故に,遍行随眠の所縁を「五部の法」とすることもない.従って, 先の「五部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,当初は存在せず, 上記の「自部の法を所縁とする非遍行随眠」と対照させた遍行随眠の便宜的な説 明が,恰も本質的な規定の如く「遍行」の解釈に取り込まれたことから生じたも のと考えられる9) (184) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) ─ 340 ─

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