・見苦所断の非遍行随眠 見苦所断の法(主に随眠) 所縁が断じられること ・見滅所断の無漏縁の随眠 滅諦(択滅無為) 所縁を智慧で見ること ・見滅所断の有漏縁の随眠 見滅所断の法(主に随眠) 所縁が断じられること 見苦・見集所断の遍行随眠と見滅・見道所断の無漏縁の随眠は,先に示したよ うに同種の随眠(邪見・疑・無明等)から構成されていることに加え,「所縁」と 「断じられ方」の 2 点,即ち「四諦の 1 つを所縁とする」点と「所縁を智慧で見る ことで断じられる」点で,上記の枠組みにおいて同じ位置にある.この同じ位置 付けから判断すれば,遍行随眠は無漏縁の随眠と類似した構成を持つと考えられ る.無漏縁の随眠が「無漏[の法](滅諦または道諦)を所縁とする随眠」である ことから類推すると,遍行随眠,即ち「あらゆる所に行き渡る随眠」とは,「あら ゆるものを所縁とする随眠」の意であると推測される.また,完成された有部の 教理では,見苦・見集所断の遍行随眠の所縁である苦諦(結果としての有漏法)と 集諦(原因としての有漏法)は,いずれも有漏法全体を包括する.従って,遍行随 眠の所縁は無漏法をも含む「あらゆるもの」ではなく,実質的には有漏法の中で の「あらゆるもの」,即ち「あらゆる有漏法」であることが含意される4).以上の ように,見所断の随眠の枠組みに基づけば,遍行随眠の「遍行」とは「あらゆる 有漏法を所縁とする」という意であると推測することができる.
3.『婆沙論』における「遍行」の語義解釈
『婆沙論』は遍行随眠の「遍 行」について 4 通りの語義解釈を挙げている5).ここで注目したいのは,語義解 釈の全てに「あるものを所縁とする」という趣旨の記述が含まれ,さらにその所 縁が,第 1 解釈では「あらゆるもの」,第 2 解釈では「あらゆる有漏の事物」(即 ち,あらゆる有漏法),第 3,第 4 解釈では「五部の法」(即ち,見苦所断ないし修所断 の法)とされていることである.第 1 解釈を措くとしても,これは,「遍行」の語 には第一に「あらゆる有漏法,または五部の法を所縁とする」という意が込めら れていたことを意味している6).有部の教理において「あらゆる有漏法」と「五 部の法」が範囲を同じくする点を考慮すれば,以上の『婆沙論』の語義解釈は, 前節で推測した「あらゆる有漏法を所縁とする」という「遍行」の語意が妥当で あることを示している. だが,なお問題となるのは,遍行随眠の所縁を「あらゆる有漏法」とする解釈 と「五部の法」とする解釈は,いずれが本来的であるのかという点である.後者 の解釈は『婆沙論』以後の論書にも頻出し,この 2 つの解釈が全く同一のものと して扱われている場合も見られる7).しかし,両解釈は説明の仕方が違う以上, 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (183)遍行随眠における「遍行」の語義について
藤 本 庸 裕
1.問題の所在
説一切有部(以下,有部)の煩悩論において主要な体系を成し ている九十八随眠は,見所断(見苦所断ないし見道所断)の 4 部の随眠と修所断の 随眠との計 5 部に分類され,さらに見所断の各部の随眠は,遍行(sarvatraga)と非 遍行(asarvatraga),無漏縁(anāsravālambana)と有漏縁(sāsravālambana)という区分 によって,便宜的に次のように二分される(以下,欲界の場合を例示する). ・見苦所断の遍行随眠………有身見・辺執見・邪見・見取・戒禁取・疑・無明(不共・相応) ・見苦所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見集所断の遍行随眠………邪見・見取・疑・無明(不共・相応) ・見集所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見滅所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見滅所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取 ・見道所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見道所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取・戒禁取 この中,遍行随眠は『識身足論』に初出するが1),「遍行」(sarvatraga,あらゆる 所に行き渡る2))の語に関する教理的解釈が現れるのは『婆沙論』以降であり,そ の解釈も一様でない.では,本来この遍行随眠の「遍行」には,有部の教義体系 上いかなる意味が込められていたのか.また,何故に多様な語義解釈が生じたの か.小稿では,最初に見所断の随眠の基本的な枠組みに基づいて「遍行」の語意 を推測した後,『婆沙論』に見られる語義解釈からその妥当性を検討する.さら に,異なる解釈が生じた理由についても部分的な解答を提示する.2.見所断の随眠の枠組みから推測される「遍行」の語義
最初に見所断の 随眠の基本的な枠組みを示すと,それは次のようになる3)(見集所断と見道所断の随 眠は,それぞれ見苦所断と見滅所断の随眠の場合に準じる). 〈随眠〉 〈所縁〉 〈断じられ方〉 ・見苦所断の遍行随眠 苦諦(有漏法) 所縁を智慧で見ること (182) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 343 ─・見苦所断の非遍行随眠 見苦所断の法(主に随眠) 所縁が断じられること ・見滅所断の無漏縁の随眠 滅諦(択滅無為) 所縁を智慧で見ること ・見滅所断の有漏縁の随眠 見滅所断の法(主に随眠) 所縁が断じられること 見苦・見集所断の遍行随眠と見滅・見道所断の無漏縁の随眠は,先に示したよ うに同種の随眠(邪見・疑・無明等)から構成されていることに加え,「所縁」と 「断じられ方」の 2 点,即ち「四諦の 1 つを所縁とする」点と「所縁を智慧で見る ことで断じられる」点で,上記の枠組みにおいて同じ位置にある.この同じ位置 付けから判断すれば,遍行随眠は無漏縁の随眠と類似した構成を持つと考えられ る.無漏縁の随眠が「無漏[の法](滅諦または道諦)を所縁とする随眠」である ことから類推すると,遍行随眠,即ち「あらゆる所に行き渡る随眠」とは,「あら ゆるものを所縁とする随眠」の意であると推測される.また,完成された有部の 教理では,見苦・見集所断の遍行随眠の所縁である苦諦(結果としての有漏法)と 集諦(原因としての有漏法)は,いずれも有漏法全体を包括する.従って,遍行随 眠の所縁は無漏法をも含む「あらゆるもの」ではなく,実質的には有漏法の中で の「あらゆるもの」,即ち「あらゆる有漏法」であることが含意される4).以上の ように,見所断の随眠の枠組みに基づけば,遍行随眠の「遍行」とは「あらゆる 有漏法を所縁とする」という意であると推測することができる.
3.『婆沙論』における「遍行」の語義解釈
『婆沙論』は遍行随眠の「遍 行」について 4 通りの語義解釈を挙げている5).ここで注目したいのは,語義解 釈の全てに「あるものを所縁とする」という趣旨の記述が含まれ,さらにその所 縁が,第 1 解釈では「あらゆるもの」,第 2 解釈では「あらゆる有漏の事物」(即 ち,あらゆる有漏法),第 3,第 4 解釈では「五部の法」(即ち,見苦所断ないし修所断 の法)とされていることである.第 1 解釈を措くとしても,これは,「遍行」の語 には第一に「あらゆる有漏法,または五部の法を所縁とする」という意が込めら れていたことを意味している6).有部の教理において「あらゆる有漏法」と「五 部の法」が範囲を同じくする点を考慮すれば,以上の『婆沙論』の語義解釈は, 前節で推測した「あらゆる有漏法を所縁とする」という「遍行」の語意が妥当で あることを示している. だが,なお問題となるのは,遍行随眠の所縁を「あらゆる有漏法」とする解釈 と「五部の法」とする解釈は,いずれが本来的であるのかという点である.後者 の解釈は『婆沙論』以後の論書にも頻出し,この 2 つの解釈が全く同一のものと して扱われている場合も見られる7).しかし,両解釈は説明の仕方が違う以上, 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (183)遍行随眠における「遍行」の語義について
藤 本 庸 裕
1.問題の所在
説一切有部(以下,有部)の煩悩論において主要な体系を成し ている九十八随眠は,見所断(見苦所断ないし見道所断)の 4 部の随眠と修所断の 随眠との計 5 部に分類され,さらに見所断の各部の随眠は,遍行(sarvatraga)と非 遍行(asarvatraga),無漏縁(anāsravālambana)と有漏縁(sāsravālambana)という区分 によって,便宜的に次のように二分される(以下,欲界の場合を例示する). ・見苦所断の遍行随眠………有身見・辺執見・邪見・見取・戒禁取・疑・無明(不共・相応) ・見苦所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見集所断の遍行随眠………邪見・見取・疑・無明(不共・相応) ・見集所断の非遍行随眠……貪・瞋・慢・無明(相応) ・見滅所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見滅所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取 ・見道所断の無漏縁の随眠…邪見・疑・無明(不共・相応) ・見道所断の有漏縁の随眠…貪・瞋・慢・無明(相応)・見取・戒禁取 この中,遍行随眠は『識身足論』に初出するが1),「遍行」(sarvatraga,あらゆる 所に行き渡る2))の語に関する教理的解釈が現れるのは『婆沙論』以降であり,そ の解釈も一様でない.では,本来この遍行随眠の「遍行」には,有部の教義体系 上いかなる意味が込められていたのか.また,何故に多様な語義解釈が生じたの か.小稿では,最初に見所断の随眠の基本的な枠組みに基づいて「遍行」の語意 を推測した後,『婆沙論』に見られる語義解釈からその妥当性を検討する.さら に,異なる解釈が生じた理由についても部分的な解答を提示する.2.見所断の随眠の枠組みから推測される「遍行」の語義
最初に見所断の 随眠の基本的な枠組みを示すと,それは次のようになる3)(見集所断と見道所断の随 眠は,それぞれ見苦所断と見滅所断の随眠の場合に準じる). 〈随眠〉 〈所縁〉 〈断じられ方〉 ・見苦所断の遍行随眠 苦諦(有漏法) 所縁を智慧で見ること (182) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 342 ─5.まとめ
以上の結論として,遍行随眠の「遍行」には第一に「あらゆる有漏 法を所縁とする」という教理的な意味が込められていたと考えられる.また,「五 部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,「五部の法を所縁とする遍行 随眠」と「自部の法を所縁とする非遍行随眠」という両随眠の対照的な説明のう ち,前者の説明が「遍行」の解釈に取り込まれた為に生じたものと推定される. 1)遍行随眠の数は『品類足論』で確定して以降,『順正理論』に至るまで変わらな い. 2)AKVy 458, 9–10. 3)藤本(2015, (30)–(35)及び注(14))を参照.この 枠組みは主に『婆沙論』や AKBh に基づいて推定したが,これは『発智論』または『品 類足論』以前に想定されていた可能性が高い. 4)遍行随眠の所縁には更に三界・ 九地による区別があるが,それについては措いておく. 5)第 1 解釈は『婆沙論』 T27, 91c21–24(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a16–19),第 2 解釈は『婆沙論』T27, 91c24–92a3 (『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a19–28),第 3 解釈は『婆沙論』T27, 92a3–8(『阿毘曇毘婆沙 論』T28, 76a28–b3),第 4 解釈は『婆沙論』T27, 92a8–10(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76b3– 5)を参照. 6)その他,「遍行」の語には「あらゆる有情に起こる」という意が掛 けられている可能性もあるが(『婆沙論』第 2 解釈,『曇心論経』T28, 845b2–5,『雑心論』 T28, 901a19–21,TA, D 120a4–5, P 254a2 を参照),この解釈は遍行随眠を他の随眠から殊 別する規定にはなり得ない. 7)『順正理論』T29, 611b20–22,TA, D 121a2–3, P 254b7–8. 8)『発智論』T26, 1025a5–7(『八犍度論』T26, 909b17–18). 9)こ れは『婆沙論』以降の論書(『曇心論』T28, 816a11–19,『雑心論』T28, 902a13–24,AKBh 289, 9–15 等)で各随眠の所縁または所縁随増を説明する際,非遍行随眠との対照的な構 図によって遍行随眠を取り扱っている点からも支持されよう. 〈一次文献と略号〉AKBh Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research
Institute, 1967.
AKVy Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā. Ed. Wogihara Unrai. Tokyo: Sankibo Buddhist
Book Store, 1971.
TA Abhidharmakośabhāṣyaṭīkā Tattvārthā nāma (Sthiramati): D no. 4421, P no. 5875.
〈二次文献〉 藤本庸裕 2015「見所断の随眠における貪・瞋・慢・無明の史的背景について」『東洋の思 想と宗教』32: (25)–(38). 〈キーワード〉 随眠,遍行随眠,遍行,五部,自部 (早稲田大学大学院) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (185) 異なるものと見なくてはならない.「あらゆる所に行き渡る」という「遍行」の基 本的な語義に「五部の法」を読み込むのは不自然であることからして,何故に遍 行随眠の所縁に「五部の法」を用いたのか,その理由を明らかにする必要がある.
4.遍行随眠の所縁に「五部」を用いた理由
ここで「五部」の語が「自部」 の語と同時に現れる文脈に着目したい.随眠の中で,所縁が「自部(自らと同じ 部)の法」として纏められるものは,見苦・見集所断の非遍行随眠と見滅・見道 所断の有漏縁の随眠(第 2 節を参照)と修所断の随眠である.一方,非遍行随眠に は,遍行随眠以外の全ての随眠が含まれる.しかし,仮に無漏縁の随眠を非遍行 随眠から除外すれば,非遍行随眠は自部の法を所縁とする随眠と一致することに なる.次の『発智論』の問答8)に対する『婆沙論』の註釈は,その一致が見ら れ,かつ「五部」と「自部」が同時に用いられる文脈の一例である(下線部は『発 智論』の引用を示す). 『婆沙論』T27, 967a9–18:【問】何故に欲界[繫]の非遍行随眠は普く欲界繫の法に対し て随増しないのか.【答】…….【註】こ[の欲界繫の非遍行随眠]は遍行[随眠]となっ てしまう[からである]とは,この欲界[繫]の非遍行随眠は,もし普く欲界[繫]の 法に随増すれば,遍行[随眠]となってしまう.また,そ[の欲界繫の一切法]はこ[の 欲界繫の非遍行随眠]の所縁ではないからであるとは,…….こ[の非遍行随眠]はた だ自らと同じ部(自部,*svanikāya)の法を所縁とするからである.……もし非遍行随眠 もまた普く五部[の法]を所縁とするならば,五部[の法]に対して普く随増すること にな[り,故に遍行随眠となるという過失が生じてしまうであ]ろう. ここで注目すべき点は,非遍行随眠から無漏縁の随眠が除かれ,非遍行随眠の 所縁が「自部の法」として一般化されていることに加えて,非遍行随眠に遍行随 眠の所縁の取り方を仮定した時,「あらゆる有漏法を所縁とする」ではなく,「普 く五部[の法]を所縁とする」という説明の仕方をしていることである.このこ とから,「五部の法」という遍行随眠の所縁の取り方には「自部の法」という非遍 行随眠の所縁の取り方が含意されていること,さらにその前提として非遍行随眠 から無漏縁の随眠が除かれていることが読み取れる.しかし,本来無漏縁の随眠 は非遍行随眠に含まれるから,非遍行随眠の所縁を「自部の法」として纏めるこ とはできない.故に,遍行随眠の所縁を「五部の法」とすることもない.従って, 先の「五部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,当初は存在せず, 上記の「自部の法を所縁とする非遍行随眠」と対照させた遍行随眠の便宜的な説 明が,恰も本質的な規定の如く「遍行」の解釈に取り込まれたことから生じたも のと考えられる9). (184) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) ─ 341 ─5.まとめ
以上の結論として,遍行随眠の「遍行」には第一に「あらゆる有漏 法を所縁とする」という教理的な意味が込められていたと考えられる.また,「五 部の法を所縁とする」という「遍行」の語義解釈は,「五部の法を所縁とする遍行 随眠」と「自部の法を所縁とする非遍行随眠」という両随眠の対照的な説明のう ち,前者の説明が「遍行」の解釈に取り込まれた為に生じたものと推定される. 1)遍行随眠の数は『品類足論』で確定して以降,『順正理論』に至るまで変わらな い. 2)AKVy 458, 9–10. 3)藤本(2015, (30)–(35)及び注(14))を参照.この 枠組みは主に『婆沙論』や AKBh に基づいて推定したが,これは『発智論』または『品 類足論』以前に想定されていた可能性が高い. 4)遍行随眠の所縁には更に三界・ 九地による区別があるが,それについては措いておく. 5)第 1 解釈は『婆沙論』 T27, 91c21–24(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a16–19),第 2 解釈は『婆沙論』T27, 91c24–92a3 (『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76a19–28),第 3 解釈は『婆沙論』T27, 92a3–8(『阿毘曇毘婆沙 論』T28, 76a28–b3),第 4 解釈は『婆沙論』T27, 92a8–10(『阿毘曇毘婆沙論』T28, 76b3– 5)を参照. 6)その他,「遍行」の語には「あらゆる有情に起こる」という意が掛 けられている可能性もあるが(『婆沙論』第 2 解釈,『曇心論経』T28, 845b2–5,『雑心論』 T28, 901a19–21,TA, D 120a4–5, P 254a2 を参照),この解釈は遍行随眠を他の随眠から殊 別する規定にはなり得ない. 7)『順正理論』T29, 611b20–22,TA, D 121a2–3, P 254b7–8. 8)『発智論』T26, 1025a5–7(『八犍度論』T26, 909b17–18). 9)こ れは『婆沙論』以降の論書(『曇心論』T28, 816a11–19,『雑心論』T28, 902a13–24,AKBh 289, 9–15 等)で各随眠の所縁または所縁随増を説明する際,非遍行随眠との対照的な構 図によって遍行随眠を取り扱っている点からも支持されよう. 〈一次文献と略号〉AKBh Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research
Institute, 1967.
AKVy Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā. Ed. Wogihara Unrai. Tokyo: Sankibo Buddhist
Book Store, 1971.
TA Abhidharmakośabhāṣyaṭīkā Tattvārthā nāma (Sthiramati): D no. 4421, P no. 5875.
〈二次文献〉 藤本庸裕 2015「見所断の随眠における貪・瞋・慢・無明の史的背景について」『東洋の思 想と宗教』32: (25)–(38). 〈キーワード〉 随眠,遍行随眠,遍行,五部,自部 (早稲田大学大学院) 遍行随眠における「遍行」の語義について(藤 本) (185) 異なるものと見なくてはならない.「あらゆる所に行き渡る」という「遍行」の基 本的な語義に「五部の法」を読み込むのは不自然であることからして,何故に遍 行随眠の所縁に「五部の法」を用いたのか,その理由を明らかにする必要がある.