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南アジア研究 第22号 004書評・.杉本 浄「田辺明生『カーストと平等性─インド社会の歴史人類学─』」

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田辺明生『カーストと平等性─インド社会の歴史

人類学─』

東京:東京大学出版会、2010年、xii+568頁、12000円+税、ISBN: 978-4-13-056106-8

杉本 浄

近世・近代・ポスト近代という

18

世紀から現在に至るおよそ

300

年間 における地域社会の変動を扱いながら、これまで注目されてこなかった 供犠儀礼に見られる〈存在の平等性〉を前景化することで、現代インド のデモクラシーの可能性を提示している点から、非常に壮大な構想を 持った著書である。学際的かつ広範囲な理論を縦横に駆使し、しかもそ れぞれの最新の研究動向を踏まえて書かれている点でも力作である。 序章と終章を含め、全4部

10

章で構成される本書は

1995

年から

2007

年までに発表された

15

編の論文をもとにまとめられているが、一貫した 指向性を有しているためある程度まとまりのある内容となっている。以 下、各章を要約しながら所々で若干のコメントを述べ、最後に全体の枠 組みについて検討したい。 「はじめに」ではその副題に「インド社会の新たな理解に向けて」と付 されているように、本書の目指す地点が明確化され、そのための独自の 論点が凝縮されて提示してある。〈在地の暮らしに根ざした〉という意 味のヴァナキュラーな生活世界に維持されてきた供犠原理に見られる 〈存在の平等性〉が、デモクラシーの理念・制度と出会うことで、「地域 の生活世界に根ざした民主的実践」という意味の〈ヴァナキュラー・デ モクラシー〉を支える可能性を明らかにすることが本書の最終的な狙い であると言えよう。 では、なぜこうした〈存在の平等性〉を介したデモクラシーの到来が 待たれているのかは、続く序論「民主化と社会変容への歴史人類学的ア プローチ」の最初のくだりで、印象深いエピソードと共に明らかにされ ている。田辺氏が現地調査をはじめた

1990

年代初頭のオリッサ州クル ダー地方マニトリ城塞郷の中心村であるゴロ・マニトリ村の社会で「社 会関係および儀礼実践における共同態的なつながり」である「社会文化 領域」と、「派閥政治や市場経済に関わる競争的関係」である「政治経 済領域」との間に「大きな差異・分断ともいえる隔たり」があった。前 書 評

(2)

者では「親族やカーストの義務や役割にもとづいた分業と協力が言説的 にも実践的にも強調」され、後者では「人々が競争と対立を当然とみな し、実際にさまざまなかけひきや争いごと、そして汚職が絶えなかった」 (

11

頁)。この「社会文化」と「政治経済」の二つに分断された領域を架 橋する可能性を支えるのが〈存在の平等性〉であり、さらにそれが行為 主体性によるサバルタン(従属民)の下からの社会実践と繋がることに おいて、新たなデモクラシーが形成される可能性が出てくるのである。 また、このような可能性と社会変容のきざしを後に予感することに なった事件は、同じフィールドで偶然目にした行進であった。それは

1992

年に施行された地方自治体制度の改正を祝うもので、これによりそ れまで政治の周縁にあった低カースト、トライブ、女性が留保議席を得 て地方政治への参入が可能となったのである。目撃当時は意識しなかっ たものの、後に新たな可能性をこの制度的変化の過程に感じ取り、〈存 在の平等性〉や〈ヴァナキュラー・デモクラシー〉の考えに至るのであ る。 さて、以上のような問題意識と本書のパースペクティヴが紹介された 後、フィールドの紹介と本書の構成が述べられ、続く第Ⅰ部の「歴史と 記憶」では調査地のクルダー地方の

18

世紀から植民地期までの歴史が 2章にわたって検討される。 本書で最も頁数を充てられた第1章「

18

世紀インドのカーストと王 権」においては、前植民地期の近世クルダー王国における地域共同体の あり方が職分権体制を軸に論じられている。職分権体制とは、各世帯が 地域の生産物を世襲的に受け取る職分権を通じて、地域共同体の分業関 係と資源分配のあり方を規定するもので、その根底には地域女神を介し た全体への奉仕に基づく供犠原理を有している。カーストは職分権体制 における地位および役割に対応し、世襲的な継承はあるが交換可能なも のとして位置づけられており、双方は同一視されている。 さらに近世においては国家権力が地域共同体に浸透し、それと同時に 職分権体制は国家の軍事・行政的な支配装置に組み込まれていく。その 一方で、クルダー王が地域女神やジャガンナータ神の代理として、富と 繁栄の源である神聖王となることなることで、人々の供犠的奉仕の対象 となり、地域共同体と王国へのパトリオティズムを醸成する源泉となり、 ここに王権イデオロギーが確立された。

(3)

以上の職分権体制から派生する検討内容は実に豊富で、近世インド社 会論やカースト論の見直しが含まれている。特に史料として

1776

年から

1806

年に作成された会計役の家に伝わる貝葉文書を使用して、国家と 職分権体制を具体的な租税の取り分をもとに分析している点は秀逸で ある。これまでのオリッサ史研究でも扱われたことのない類の貝葉文書 を翻案からはじめる苦労は計り知れないものである。田辺氏の提起する 職分権体制がインド社会全般にどれほど有効であるのか、今後の議論が 楽しみなところである。 第2章「植民地期における地域社会の変容」においては、地域社会の 大変化の過程が2つの段階に分けられて論述されている。第1段階で は、土地私有制の導入による職分権体制の崩壊、階層的土地所有の出現 による支配カースト中心のジャジマニー体制の形成に加え、植民地政府 がバラモンを重用したことによる儀礼的カースト・ヒエラルヒーの強化 と、バラモンを頂点に置くカースト体制が伝統化されていく過程が検討 されている。ここにおいて社会文化領域と政治経済領域の分化が現れ た。続く

19

世紀半ば頃から起こった第2段階の変化は農業が商業化さ れていく中で登場した。新興階層の出現、旧支配層の没落、貧困層の農 業労働者化といった一連の変化や地域社会が帝国経済に取り込まれる 中で2つの領域の分断は一層強化された。またカーストを実体化するこ とによって植民地国家の安定がはかられ、インド社会は社会文化領域に おいて伝統化されることになった。さらに、西欧の影響を受けたエリー トたちはこの分断状況を反映して合理主義・自由主義を基礎とするエ リート・ナショナリズムを政治経済領域で顕在化させるが、それは民衆 のパトリオティズムとは矛盾・対立するものだったとする。 前章のオリジナルな史料に依拠した論の展開とは異なり、本章ではマ ニトリ城塞郷に関する植民地政府による土地関連史料以外は、ほとんど が2次文献に頼るかたちで変化の過程が述べられている。第2段階に関 しては、新聞資料等が比較的豊富にあるため、それらを用いることでマ ニトリ城塞郷の社会変化をより具体的に述べられたのではないかと思 われる。 第Ⅱ部の「ポスト植民地の苦境」では、インド独立後においてもなお 解消されない政治経済領域と社会文化領域の分断模様を、

1990

年代か らの自身のフィールド調査をもとに描写している。第3章「現代インド

(4)

社会における「伝統」と生モラル」では社会文化領域に焦点をあて、ポ スト植民地としての現代インドが思惟的に考察された後、農村部の支配 構造の持続と変容がフィールドのデータをもとに検討されている。後半 部では、一連の変化にもかかわらず、社会文化領域に村人たちの生モラ ル的な理念と実践が見られることを、身体・食・土地・職分の間の有機 的な関係や農業・年間儀礼・社会再生産のサイクルを描写することで明 らかにしている。 続いて政治経済領域を取り扱ったのが、第4章「ポスト植民地社会の 現金経済と派閥政治」である。地域社会の派閥政治に見られるような競 争、対立、汚職、下層民の排除が蔓延し、「魚の論理」(ずる賢い強者が 弱者を搾取)によって支配されているのがこの領域であり、社会文化領 域で保持されたような生モラルの倫理規範が及ばないところである。農 業生産性が向上しないマニトリ城塞郷では、現金獲得のために村人たち によるよそ者への しが横行し、派閥政治による国家資源の分配に依存 しているため賄賂や汚職、さらに口論が絶えない状況が描写される。村 人たちは末法の世としてこうした状態を嘆くが、派閥政治に寄らなけれ ば現金収入を見込めない袋小路の中にある。ポスト植民地に残存する二 分法的分断が残る以上、「魚の論理」が支配する現金経済や派閥政治の 領域で共同態的倫理は働かない。ここに冒頭で述べた

2

つの領域の分断 を架橋する必要性が立ち現れる。 第Ⅲ部の「儀礼とアイデンティティ」では2つの異なる儀礼、すなわ ち伝統的女神儀礼と国民国家による公共儀礼がそれぞれ2つの章で検 討されている。第5章「儀礼・歴史・アイデンティティ」はいよいよ本 書を貫く〈存在の平等性〉が立ち現れる供犠原理に焦点があてられる。 マニトリ城塞郷で盛大に催されるラーマチャンディー女神祭祀の儀礼 過程が描写され、祭祀の解釈が施された後に、儀礼の歴史的な変容が 検討される。 この中で、女神の力に3段階の変容が見られると指摘している。すな わち、その到来=存在の平等性、バラモンを媒介とする王と女神の結合 =地位のヒエラルヒー、結合の産物の消費と外部への攻撃=権力の中心 性であり、これらは「転換的価値」の関係にあり、「ひとつの支配的で 包摂的な価値によって社会構造が決定されるのではなく、むしろこれら の3つの価値がそれぞれ正当かつ真正なものとされ、矛盾を内包しなが

(5)

らも、社会関係を構築する際の多元的な文化資源として機能する」(

356

頁)という。さらに、こうした3つの段階の力の変容のメカニズムに供 犠があるとし、それは死と再生の側面を有し、その初期段階である死と 破壊の過程においては聖なるものへの絶対的服従を通じて成し遂げら れる平等性の原理があることを、ジラールの論から導き出している。こ うして、「聖なるものとの関係においては、あらゆるものは存在論的に平 等なのである」(

358

頁)とする。 次の第6章「ネーション形成における伝統のポリティクス」では、オ リッサ州政府が催した武術競技会において、オリッサ民族としての一元 的なアイデンティティを形成するために、共通の伝統として戦士の武術 が利用されたことが検討されている。この新しい公共儀礼に村人たちは 反発し、かつての王権とカーストに基づいたアイデンティティを想起さ せ、自らの社会を再帰的に問い直すという意図せざる結果に繋がったこ とが指摘されている。ただし、公共儀礼を扱ったこの章は5章の伝統儀 礼に対する形でⅢ部に収められたのであろうが、相互が効果的に絡んで おらず、あまり有効であるとは思われない。 第Ⅳ部の「社会変容とデモクラシー」では、植民地近代によって伝統 化され、社会文化領域に独立後も残存してきたカーストが地域社会にお いてどのように変容し、現在の民主化の流れにどう繋がるのかが検討さ れている。第7章「カーストの解釈をめぐって」において、カーストの ヒエラルヒーや実体化論、王権中心的視座などが批判され、その位置づ けと現状、分業と交換の見直しがフィールド調査をもとに明らかにされ ている。さらに

1970

年代以前に活発であった行為主体性を有するカー スト団体の運動や供儀組織としてカーストを捉え直そうとする下層の 人々の動きに着目することで、カーストが平等主義的な形で再編成され る可能性を読み取っている。 第8章「ヴァナキュラー・デモクラシーの可能性」は

1990

年代以後の 経済自由化と民主化の進展の中で新たなデモクラシーの内発的発展の 可能性を論じた章であるが、すでにその内容の大枠は冒頭で紹介したの で割愛したい。終章「ポスト植民地の彼方に」では前章から引き続く議 論を展開した上で、本書で述べた要点を丁寧にまとめている。 以上、本書の論点が展開するにあたっては、デュモンのカースト論や その後の新ホカート派の社会論だけでなく、サバルタン・スタディーズ、

(6)

「コミュニタリアン」対「リベラル」論争、

18

世紀論争、ナショナリズム の近代説といった様々なジャンルの議論を交えており、しかもそれらす べてを越えていこうとしている。議論が散漫になる印象は与えるもの の、その姿勢は圧巻であり、学説のまとめ方の鮮やかさと持論の展開は やはり光るものがある。 とはいえ、誤解の生じやすい大著でもある。例えば、人類史の内奥に ある〈存在の平等性〉が制度改正によるサバルタンの政治参加と経済自 由化の中で新たなデモクラシーを支えると言うが、それが可能性や予兆 としてのみ提示され、何ら未来の具体的な形に触れていないところに説 明不足を感じるかもしれない。「何をもってそう言えるのか」が田辺氏 の感覚に依存しているように思われる恐れもある。 こうした原因の一つは、この本自体が多くの学問領域を「架橋する」 内容を有しているため、読み手は自分の経験や専門性に照らして読み進 めると、とたんに説明不足を感じてしまうことになる。読み手にある程 度の柔軟な姿勢が求められるのである。 とはいえ、これだけ丁寧に〈存在の平等性〉が様々な箇所で説明され ているにもかかわらず、それが立体感を持たず平板な印象を与えている ように思われる。その理由はおそらく、もともと本書の核となった調査 が〈存在の平等性〉を解き明かすために進められたものでなく、事後に 加えられたことによるだろう。全体の議論が〈存在の平等性〉向かって 収斂していかない構成上の問題が生じているのではないか。もう一つ挙 げるとすれば、供犠に見られる3つの価値の中で、サバルタン的価値で ある〈存在の平等性〉を新たなデモクラシーの可能性として前景化する のはよいが、やや突出した印象がある。〈地位のヒエラルヒー〉と〈権 力の中心性〉とのバランスを置き去りにしてもよいのであろうか。 こう述べたからと言って本書が持つ豊かな内容を害するものではな い。新たなデモクラシーへの径路は複数ある。今後とも本書の提示した 視座が様々な学問領域を横断する形で議論されるよう期待したい。 すぎもと きよし ●人間文化研究機構地域研究推進センター研究員

参照

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