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1 戦国時代における楚の都市と経済柿沼論説戦国時代における楚の都市と経済柿沼陽平はじめに戦国時代の南方中国には 楚という大国が存在した 楚は荊ともよばれ 中原諸国は春秋時代頃からその圧力に苦しんでいた 伝世文献の 史記 や 戦国策 等をみると 戦国時代の楚(すなわち戦国楚)は ともかく強国として描か

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(1)

論説

戦国時代における楚の都市と経済

 

 

 

はじめに

は、 た。 れ、 た。 の『 や『 と、 楚( は、 る。 は、 燕・ 斉・ 趙・ 魏・ の「 や「 る( 六、 八、 二、 八、 七、 三、 一、 八、 )。 方、 は「 萬( )」 、「 萬( 七、 )」 は「 萬( 条、 伝、 )」 る。 は、 萬( )」 か、 萬( 伝、 )」 、「 萬( )」 は「 萬( )」 た。 に、

(2)

雄のこれらの兵力は、かなり誇張されたものではあるが、七雄間の兵力比をしめすものとしては参考になろう。 は、 ず、 期( 降、 まれ、最終的に滅ぼされた。では、楚は一体なぜ滅ぼされてしまったのか。 期と をも (『 )。 。『 稿 稿

第一節

 

戦国楚の敗因に関する諸説

一.天命喪失説 は、 の「 る。 と、

(3)

ば『 は、 政・ 西 て、 く、 に支えられた点を挙げる。 『史記』巻四四魏世家太史公曰も、秦の六国統一を「天」に支えられた結果とする。   まさ に秦をして海内を平らかにせしむるも、其の業未だ成らず。 ば、 の「 る。 し、 の「 は、 ある (『史記』 巻六一伯夷列伝) の一句が象徴的にしめすごとく、 人知を越えたものをさす。よって本説は、 「楚の敗因」 る。 の専論を御覧頂くことと 、ここでは次に、 「楚の敗因」に関する具体的な仮説を瞥見していくことにしよう。 二.人心離反(政治腐敗)説 秦が六国併合できた原因として楊寛氏は、 ①人心掌握 (軍主力を担う農民と地主階級との間の矛盾解消) の成功、 配( )、 展、 思を挙げ 。籾山明氏によると、 ③④は戦国後半期の一般的趨勢にすぎない。②に関しても、 睡虎地秦簡「語書」 り、 調 い。 で、 。ただし、 楊氏は①について、 わざわざ楚の例を挙げ、 楚が貴族腐敗と国内分裂で人心掌握に失敗したとする。 は、 て、 い。 に、 領( 下、 た秦将白起も、人心離反などにより、楚が事前に弱体化していたとする。 うれ

(4)

(『 )。 は、 る。 め、 ている。 も、 り。 も、 く、 敢えて堅く戰わず( 『戦国策』魏巻三二八) に、 で、 と、 る。 に、 を、 い。 に、 言( 亡( る。 は、 い。 に、 く( 簡「 」) い。 に、 る「 は、 る。 し、 い( )。 り、 は、 少し具体的な基準と議論が必要と思われる。 三.楚懐王無能説 た。 )(1 れ、 し、 河( た( )。

(5)

を【 】、 陳・ せ、 け、 西 ち( )」 、「 せ、 庭・ ち( 西 )」 、「 せ、 (『 )」 た。 王・ と、 が、 た。 や、 は「 )(( た。 ず、 は、 自身が秦の捕虜となった( 『史記』巻四〇楚世家) 。かくて楚は、大混乱に陥ったとされる。 と、 し、 る。 「楚の敗因」を懐王の無能さに求める説が出てくる。 『史記』巻一三〇太史公自序は、 楚の一敗因として、 とくに、 懐王・頃襄王が讒言を信じ、屈原をしりぞけた点を挙げる。 て、 い、 れ、 うと じ、 夫・ 子蘭を信ず。……懐王客死し、蘭、屈原を咎め、諛を好み讒を信じ、楚、秦に并さる。 なるほど、 懐王はたびたび秦にだまされ、 政治的 外交的敗北を重ねた。その際に屈原は、 懐王が佞臣に惑わされ、 「浩蕩 (思慮の無い意) として 「民心」 を察しえないことを嘆いた (『楚辞』 九章懐沙賦) 。『楚辞』 九章離騷にも、 古の名君の堯・舜と暴君の桀・紂とを対比しつつ懐王を諌める文言がみえる。 だが、 この説には疑問もある。第一に、 始皇帝死後に秦を討った項梁 項羽らは、 楚王の子孫を担ぎ上げて「懷 だ( )。 で、 ば、 ざ「 か。 に、 た( 寛『 )(1 )。 が、 き「 長( )」 い。 に、

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り( 寛『 )、 た。 は、 い。 に、 は、 つ。 り、 た。 で、 た。 に、 団・ い。 に、 の、 い。 と、 り、 か、 る。 と、 は、 り、 念が禁じえない。 四.巫風重厚説・律令未整備説 信・ 風( を、 )(1 ど、 た。 方、 と、 は、 や「 た。 に、 で「 し、 「( を「 し、 「( 夫・ た。 )(1 痕跡がみえず、 ゆえに戦国楚に 「律令」 はなかったとの説もあ )(1 。また楚官にも巫風の影響が窺える。たとえば 「視 日」は、 本来神判を司る巫で、 戦国中期頃に定暦択吉を司る官となり、 戦国中期の包山楚簡中では司法官の役を、

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陳勝 呉広の乱では将軍役を担っ )(1 。戦国楚の懐王も、戦時に巫祝の決断を重視したことが知られ )(1 。要するに、 伝世文献・出土文字資料の双方をみても、戦国楚が重厚な迷信・巫風を有した点は否定しがたいのである。 だが第一に、 包山楚簡等にみられるとおり、 戦国楚でも、 独特な方法で裁判が機能していた。その法が、 秦の「律 い。 に、 斉・ 秦・ り( )、 簡・ も「 )(1 て、 や「 は、 い。 に、 も、 る( 簡「 未能與謀案」 )。第三に、 秦に滅ぼされた戦国魏にも律令はあり (睡虎地秦簡 「為吏之道」 魏戸律等) 、律令が備わっ る。 に、 )(1 た。 は、 か、 ②「 容、 が、 る。 し、 信・ 風( は、 な「 く、 の「 る。 は、それはむずかしい。このような意味で、本説にはなお多くの検討の余地があるといわざるをえない。 五.中央集権化失敗(呉起変法失敗)説 顧炎武はかつて、 宗姓氏族の繁栄した春秋時代以前に比し、 戦国時代には君権が一律に強化されたとした( 『日 )。 )11 年、 )1( は、 氏・ 氏・

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し、 つ、 る。 は、 ち、 し、 た。 い、 力( た、 )11 た、 楚、 ず、 す( )」 く、 も、 る。 も、 し( )、 墨( )」 ら( )、 る。 を、 し、 め、 掲『 )11 と、 し、 れ、 ある。かくて楚の滅亡を中央集権化の失敗(=呉起変法の失敗)に求める説が登場する。 ど、 は、 る。 は、 件・ え、 す「 」・ 」・ く、 る「 る。 楚( の「 て、 点、 し、 点( 心・ )、 点、 位・ 点、 き、 ち、 点、 権( )・ 権・ 権・ 権・ 権( 点、 る「 物( る。 で、 が、 け、 げ、 )11

(9)

上の何説も、中央集権化の失敗を楚の敗因とみなすものである。 しかし、 論者の中には、 つとに上記の説を批判し、 楚が春秋時代以来強力な君権を有しつづけたとする者もいる。 野間文史氏は、 歴代楚王が世族抑制策をとったとし、 所謂呉起変法に関しても、 伝統的な世族抑制政策を徹底化 )11 は、 で、 ら、 )11 。「 り、 る。 は、 の「 し、 邑( 里( 点、 邑・ に「」・ 」、 に「 点、 例( 点、 点、 る。 し、 )11 は、 おける県制の存在を前提にする点等で疑問もある )11 大筋では首肯される。また鄭威氏もこう論ずる。すなわち、 簡・ 簡・ し、 る。 が、 け、 面、 し、 化( た。 で、 る、 )11 上の諸説によると、戦国楚の王権は必ずしも弱くなく、呉起変法も失敗したとは断定できない。 しかも、 君権と世族 (封君を含む) の二項対立の図式自体にも疑問はある。宇都木氏は、 世族の力を認めつつも、 る。 と、 は「 調 し、 し、 族( 氏・ 敖(

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で、 た。 ず、 ず、 ず、 )11 と、 り、 族( る。 は「 に「 り、 る。 も、 ず、 い。 で、 央集権化の失敗(呉起変法の失敗)に求める説には、なお検討の余地がある。 六.地理的要因説 る。 も『 誼『 は、 く、 る。 も、 く、 く、 し、 る。 も、 渉・ れた理由を模索しており (『漢書』 巻五一賈山伝) 、「秦地の固」 の有利さが前提視されている。前漢の高祖劉邦も、 婁敬・張良の進言をきき、地政学的利点ゆえに長安を都とした( 『史記』巻九九劉敬列伝) は、 た。 ば、 は、 い。 に、 は、 秦・ 韓・ 魏・ し、 た。 た。 は、 て、 た( )。 も、 國( )」

(11)

し、 ず、 る。 り、 も、 い。 ば、 方、 の領土拡大には地政学的困難が伴ったと考えられる。 ただし、 前掲『過秦論』は、 じつは地の利を有する秦帝国が短期間で滅びた例を挙げ、 その原因として「仁義」 し、 い。 に、 に、 勝・ は、 し、 梁・ 羽・ た。 と、 劣は、必ずしも絶対的ではない。 は、 た。 く、 が、 つ、 ぜ、 る。 は、 て、 た。 果、 が、 た。 は、 い。 も、 上、 い。 次に、より重要な「楚の敗因」をもとめ、楚の軍事力と外交力を支えた経済に着眼したい。

第二節

 

楚地経済の特徴

一.楚地の人口 で、 る。 が、 え、

参照

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