• 検索結果がありません。

一〇五プロローグエックハルトについて述語づけられる 神秘主義:Mystik 神秘主義者:Mystiker という言葉は エックハルト自身の関知するところではない 彼は自分の著作や自分自身がそのような語で呼ばれるとは考えていなかったであろう では 神秘主義:Mystik 神秘主義者:Mystiker

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "一〇五プロローグエックハルトについて述語づけられる 神秘主義:Mystik 神秘主義者:Mystiker という言葉は エックハルト自身の関知するところではない 彼は自分の著作や自分自身がそのような語で呼ばれるとは考えていなかったであろう では 神秘主義:Mystik 神秘主義者:Mystiker"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

一〇五

プロローグ

  エックハルトについて 述 語 づけられる「神 秘 主 義: Mystik 」「神 秘 主 義 者: Mystiker 」という 言 葉 は︑エックハル ト自身の関知するところではない︒彼は自分の著作や自分自身がそのような語で呼ばれるとは考えていなかったであ ろう︒では「神 秘 主 義: Mystik 」「神 秘 主 義 者: Mystiker 」という 語 をもってエックハルトを 語 ることは 時 代 錯 誤 的 であり︑これ以上の詮索は無用であろうか︒   かつてエックハルト 研 究 では︑エックハルトの 思 想 が「神 秘 主 義: Mystik 」であるか 否 か︑エックハルトが「神 秘 主 義 者: Mystiker 」であるか 否 か︑はたまた︑その 反 対 に「スコラ 学: Scholastik 」「スコラ 学 者: Scholastiker 」 であるか 否 か︑かなり 活 発 に 議 論 された 経 緯 がある ︵ 1︶ ︒だが︑本 論 はそのように 二 項 対 立 的 に 問 題 をとらえること を 意 図 しない︒問 題 は 彼 の 思 想 および 彼 自 身 がこれまで︑そして 今 日 なお「神 秘 主 義: Mystik 」「神 秘 主 義 者: Mystiker 」と呼ばれていることである︒   このように 述 べるとき 念 頭 に 置 いているのは 一 九 三 〇 年 にドイツで 出 版 されたアルフレート・ローゼンベルク 著

「神秘主義:

Mystik

」というローレライの幻想

ローゼンベルク『二十世紀の神話』

︑南原繁︑

  

西谷啓治のエックハルト解釈からの検討

  

  

  

(2)

一〇六 『 二 十 世 紀 の 神 話 』︵ Alfred Rosenber g,

Mythus des 20. Jahr

hunderts. Eine W

ertung der seelisch-geistigen Gestaltenkämpfe unser

er Zeit , München, 1930 ︶ である︒同 書 は︑日 本 においても 原 著 一 九 三 七 年 版 に 依 拠 した 翻 訳 が︑吹 田 順 助 と 上 村 清 延 に よって一九三八年に中央公論社から出版されている︵以下同書引用は同訳による︶ ︒   このナチスドイツの 文 化 政 策 の 一 翼 を 担った 著 作 において︑エックハルトは「神 秘 主 義: Mystik 」「神 秘 主 義 者: Mystiker 」として 紹 介 され︑かつ︑ナチス 的 理 念 を 代 表 する 思 想 家 として 登 場 する︒以 下 に 見 るように︑同 書 は 日 本 におけるエックハルトと神秘主義理解にも一定度以上の影響を及ぼし︑南原繁や西谷啓治において言及される︒   エックハルトはなぜナチス的理念と結びつけられたのか︒本論は『二十世紀の神話』とナチスの文化政策を直接に 取 り 上 げるものではない ︵ 2︶ ︒あくまでもエックハルト 研 究 の 視 点 からローゼンベルク 的 エックハルト 解 釈 の 中 にあ る問題性を解明しようとするものである︒それはもちろん同書のエックハルト理解に基づいて解明されることである が︑同 書 の「神 秘 主 義: Mystik 」「神 秘 主 義 者: Mystiker 」という 語 の 意 味 と 不 可 分 に 結 びついている︒同 書 の「神 秘 主 義: Mystik 」とは 簡 潔 に 言 えば︑個々のペルソナ・人 格 的 主 体 性 を 台 無 しにして 破 滅 へと 導 くような 民 族 主 義 的・全体主義的熱狂と一つとなった共同幻想である︒ エックハルトは同書の説く「神秘主義: Mystik 」「神秘主義者: Mystiker 」に当てはまる限りにおいて「独逸の使徒」でありナチス的理念の代表者である ︵ 3︶ ︒   本 論 では 同 書 全 体 の「神 秘 主 義: Mystik 」理 解 を 明 らかにすることはできない︒ただエックハルトに 関 して︑し かも「神 秘 主 義: Mystik 」をめぐる 議 論 がそれへと 集 中 するところの 神 と 人 の 一 致 に 焦 点 を 絞って︑その 意 味 する ところを 明 らかにしたい︒それによって︑ローゼンベルクがエックハルトのものとして 説 く「神 秘 主 義: Mystik 」︑ 神と人の一致の理解が︑実際のところ︑エックハルトの思想に正しく帰せられるようなものではなく︑混乱したもし くは改竄されたエックハルト理解にすぎないことが明らかになる︒   しかしそれをローゼンベルクによる出来損ないのデタラメ︑インチキと片づけることはできない︒なぜなら︑それ は学問的根拠を備えているかのように偽装されているだけでなく︑何よりもその言説が人々を魅了し惹きつける現実 的な作用・影響力を保持していたからである︒ ゆえにそれはデタラメやインチキではなく人々を惑わす幻想︑ つまり︑

(3)

一〇七 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ 自覚的に注意しなければ破滅にまで心地よく人間たちを欺き続ける幻想に対するように向き合わねばならない︒   ここに 本 論 が「神 秘 主 義: Mystik 」をローレライの 幻 想 として 主 題 化 しようとする 問 題 圏 が 見 定 められる︒エッ クハルトの「神 秘 主 義: Mystik 」︑神 と 人 の 一 致 の 教 説 が︑いかにして︑個々のペルソナ・人 格 的 主 体 性 を 台 無 しに して破滅へと導くような民族主義的・全体主義的熱狂と一つになった共同幻想に置き換えられるのか︑また同時にそ こで︑エックハルトの思想から本質的に何が損なわれたのか明らかにしたい︒

 

前提となることについての確認

  以 下 本 論 を 進 めるにあたって 四 つのことを 確 認 しておきたい︒まずエックハルトの 思 想 と 彼 自 身 を Mystik / Mystiker と 呼 ぶことが 可 能 であるということである︒なぜなら︑エックハルトに 適 用 されてきたそれらの 言 葉 が︑ そもそもいかなる思想内実を持つものであるのか︑その根幹となる 「 神秘 」 概念に㴑っての再検討が先行研究によっ て 積 み 重 ねられているからである ︵ 4︶ ︒その 先 行 研 究 の 蓄 積 を 前 提 とする 限 り︑エックハルトの 思 想 と 彼 自 身 を Mystik / Mystiker と呼ぶことは学問的に正当化できる︒   しかしこれまでの「神 秘」概 念 の 再 検 討 によっても Mystik / Mystiker という 語 に 絡 みついていたエックハルト 理 解の混乱・改竄︑テキストの誤読まできれいに取り除かれたわけではない︒そのことに無自覚である限りローレライ の 幻 想 はたやすくわれわれを 呑 み 込 むだろう︒それゆえ︑かつてそしておそらく 今 日 なお Mystik / Mystiker という 語によってエックハルトに無批判的・無自覚的に結びつけられてしまっている︑エックハルトに決して結びつけられ 得ないものが何であるかを明らかにすることこそ本論の目的である︒   したがってここで Mystik / Mystiker という 語 によって 問 題 となるものは︑極 端 に 言 えば︑エックハルト 自 身 の 思 想 ではない︒なぜなら︑本 論 で 見 るように︑人々が 無 批 判 的・無 自 覚 的 にエックハルトに 結 び 付 けてしまっている Mystik / Mystiker という語で呼ぶもののほとんどは︑エックハルトの側には存在しないからである︒

(4)

一〇八   それゆえ︑第 二 に 次 のことを 確 認 しておきたい︒それでは Mystik は 本 論 において 何 を 意 味 するのか︒本 論 では 神 と 人 との 合 一 の 思 想 をひとまず Mystik と 呼 ぶ︒それは 神 と 人︑人 と 人 の 関 係︑そして︑それぞれの 間 にひらかれる 共 同 性 や 主 体 性 の 理 解 にかかわるものも 含 んでいる︒だがその 合 一 の 思 想 としての Mystik の 展 開 には︑大 きく 見 て 相反する二つのベクトルがある︒一つは︑神︵もしくはそれに類する大いなるもの︶との合一において人間の人格的 主体性が融解・解消・破滅・消滅すると見る方向性︑他方は︑むしろその合一においてこそ人間の真の人格的主体性 が 成 立 すると 見 る 方 向 性 である︒後 者 を 中 心 とするのがエックハルトの Mystik であるのに 対 し︑前 者 を 中 心 とする のが︑人々がエックハルトの 中 に 見 ようとした 幻 想 としての Mystik である︑というのが 本 論 の 見 立 てである︒そし て 前 者 の 場 合︑ローゼンベルクに 見 られるように Mystik は 人 格 的 主 体 性 を 破 綻 させる 民 族 主 義 的・全 体 主 義 的 熱 狂 と一つになった共同幻想になる︒   第三にエックハルト研究に対するナチズムの影響関係について一定の問題認識が共有されていることを確認してお きたい ︵ 5︶ ︒クリバンスキー︵ Raimund Klibansky , 1905-2005 ︶らによって 開 始 された 最 初 の『エックハルト 全 集』 ︵ローマで 一 部 出 版︶の 計 画 がナチズムの 影 響 で 一 九 三 七 年 までに 途 絶 したことや︑ローゼンベルクによってナチズ ム的にエックハルトが利用されてきたことなどは広く認知されているところである︒   これに対して︑第四に︑日本においてはエックハルト研究の歴史とそれに対するナチズムの影響関係については︑ これまで十分に論じられてこなかっただけでなく︑ほとんど注意されてこなかったこと︑まして︑ローゼンベルク的 なエックハルト解釈の中にある問題性についての批判的検討などは︑ほとんどなされてこなかったことを確認してお きたい ︵ 6︶ ︒その 一 例 として 西 谷 啓 治 を 以 下 本 論 で 取 り 上 げるが︑西 谷 は 論 文「独 逸 神 秘 主 義」 ︵初 出『世 界 精 神 史 講 座   第四巻』理想社︑一九四〇年︶で︑ローゼンベルクの『二十世紀の神話』におけるエックハルト観を︑一定の留 保 をおきつつも︑肯 定 的 に 紹 介 している︒この 論 文 は︑その 後︑ 『ドイツ 神 秘 主 義 研 究』上 田 閑 照 編︑創 文 社︑ 一 九 八 二 年︵ 一 九 八 六 年 増 補 版︶ ︑さらに『西 谷 啓 治 著 作 集』第 七 巻︑創 文 社︑一 九 八 七 年 に︑ローゼンベルクに 関 する箇所の変更・補注などなく︑そのまま再録されている︒

(5)

一〇九 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶   『ドイツ 神 秘 主 義 研 究』の 編 者 である 上 田 閑 照 は︑西 谷 の 論 文 を「総 論」と 位 置 づけ 第 一 部 に 置 き︑その 際 に︑西 谷「先生の論文を旧稿のまま収録した」理由を「ドイツ神秘主義の日本に於ける

そして恐らく世界に対して或る 新しい意義をもち得る

本格的研究が西谷先生によって始められたその歴史をとどめたいと思ったからである」と 説 明 している︵同 書 一 九 八 六 年 増 補 版:六 七 八 頁︶ ︒西 谷 の 論 文 において 示 される︑エックハルトを「独 逸」民 族 の 歴史に結びつける精神史的解釈は︑一九四五年以降も︑特に問題視されることなく受け継がれていることになる︒西 谷においても︑上田においても︑彼らの目には︑ローゼンベルクの『二十世紀の神話』はそもそも問題として映らな かったのであろうか︒   同じく『ドイツ神秘主義研究』には「序」として西谷の「今日の神秘主義研究の意義」が収録されているがその冒 頭 で「先 ず 第 一 に︑神 秘 主 義 の 普 遍 性 [Allgemeinheit] 」︵同 書 三 頁︶が 神 秘 主 義 の 特 徴 であると 述 べており「西 洋 の 神 秘 主 義 のなかでは︑特 にドイツ 神 秘 主 義 にこのやうな 普 遍 性 の 立 場 が 非 常 に 深 められた 形 で 現 れてゐる」 ︵同 書 一三頁︶と論じている︒こうした第二次世界大戦後の論文に現れる「普遍性」の強調は︑この論文につづけて再録さ れている「旧 稿」においてドイツ 神 秘 主 義 を「独 逸 民 族 の 魂 の 最 も 深 い 現 れ」 ︵同 書 八 九 頁︶と 見 る 戦 中 の 自 らの 民 族主義的解釈と並べて見るときわめて奇妙でちぐはぐな印象を与える︒   なおローゼンベルク的なエックハルト解釈を踏まえた︑また︑ローゼンベルクほどの極端なアーリア人主義には及 ばなくとも︑非ローマ・カトリック的なものとしてのゲルマン主義と結びつけたエックハルト解釈は西谷に限ったも のではなく︑しかもキリスト教やゲルマン精神︑騎士道精神との対照として禅や大和魂︑武士道精神を持ち出すよう な 不 思 議 言 説 が︑講 演 や 出 版 物 を 通 じて 日 本 で 公 にされていた︒日 本 でこれを 推 進 したと 思 われるのは 一 九 三 八 年 一 一 月 二 五 日 締 結 さ れ た 日 獨 文 化 協 定 に 基 づ く 日 獨 文 化 協 会 で あ り ︵ 7︶ ︑ そ れ と 密 接 に か か わ っ て ナ チ ス 的 理 念 を 熱 心 に プ ロ パ ガ ン ダ し た カ ー ル フ リ ー ト ・ グ ラ ー フ ・ デ ュ ル ク ハ イ ム ︵ Ka rlfrie d Graf Dürckhei m , 1896-1988 ︶ で あ ろ う ︵ 8︶ ︒ 日 獨 文 化 協 会 が 発 刊 していた『日 獨 文 化』 ︑そして︑ナチス 関 係 の 著 作 を 出 版 していた 理 想 社 からエックハルトに 関 する出版物が複数確認される ︵ 9︶ ︒

(6)

一一〇   しかし先の西谷論文の初出の二年後に出版された南原繁の『国家と宗教:ヨーロッパの精神史の研究』 ︵岩波書店︑ 一九四二年︶は反対に第四章「ナチス世界観と宗教」においてローゼンベルクの『二十世紀の神話』における民族主 義的な精神史の記述の危うさを検討し︑そこに利用されているエックハルト理解の問題性についても鋭い批判的指摘 を 行っていた︵岩 波 文 庫:二 〇 一 四 年︑二 七 四―二 八 一 頁︑特 に 二 七 七 ―二 七 八 頁 など 参 照︶ ︒これまでのエックハ ルト研究では︑全く顧みられてこなかった戦時下一九四二年の南原の研究に基づいてローゼンベルク的エックハルト 理解の問題性を確認しておきたい︒   なお︑南原繁と同じく︑無教会主義のクリスチャンで︑第一高等学校︑東京帝国大学で学んだ石原謙は︑一時期︑ かなり精力的にエックハルト研究に集中して取り組んでいたが︑ローゼンベルクの『二十世紀の神話』が日本でも知 られるようになるのに呼応するかのように︑ ぱたりと研究発表をやめてしまう ︵ 10︶ ︒ 石原謙は︑ 南原繁の『国家と宗教』 刊 行 直 後 に︑ 『帝 国 大 学 新 聞』 ︵九 二 九 号:一 九 四 三 年 一 月 一 一 日︶で 書 評 を 書 いているので︑少 なくとも︑その 時 ま でに︑南原繁の問題意識を知ることができたと考えられる︒石原謙のエックハルト研究の途絶に︑南原の著作がどれ ほどの影響を持ったのかについては今後の研究課題となろう︒

 

ローゼンベルク的エックハルト理解の問題性

南原繁の『国家と宗教』の指摘

  南原繁は『国家と宗教』 において︑ エックハルトの説く神と人との合一︑ 「一つとなった高貴な魂の神性」 が︑ ロー ゼンベルクによって︑ 「種 と 人 間 との 合 一 として︑この 世 界 の 存 在 法 則 における 種 族 的 生 の 神 性

民 族 的 活 力 にま で引き下げられるに至るであろう」 と︑ そのエックハルト解釈の問題点を看破している︵南原二〇一四:二七八頁︶ ︒ 実際︑ローゼンベルクが説くところのエックハルト理解によれば︑エックハルトによって︑はじめて「北方・ゲルマ ン的精神」 に︑ 「自由」 であり「高貴」 である「魂」 が十全に示されたのであるが︑ そのような「魂」 のありようは︑ まさしく︑本 来︑人 種 的「血」に 結 びついたものであるとされ︑したがって︑エックハルトの 教 えは︑ 「血」が 異 な

(7)

一一一 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ る「雑種人」には意味を持たないとさえ述べられている︵ローゼンベルク一九三八:二〇五頁︶ ︒   南 原 は︑ローゼンベルク 的 な 解 釈 に 関 して︑ 「本 来 ロゴスが 肉 体 となったものとしての『神 の 子』の 位 置 を︑今 や 絶対有として『種』が占めるものと解しなければならぬ︒われわれはここに『ユダヤ人とギリシャ人︑あるいは奴隷 と自由人︑あるいは男と女の区別なく︑みなキリスト・イエスにあって一なり』と説いたパウロの福音主義の原理が 排 斥 せられる 根 本 の 理 由 を 了 解 し 得 るであろう」とも 述 べている︵南 原 二 〇 一 四 : 二 七 八―二 七 九 頁︶ ︒ここで︑南 原は︑ロゴスの受肉について言及しているが︑これは︑以下本論で再度述べるように︑エックハルトの合一の思想を 理解する上で欠かすことのできない聖書的・神学的基盤となるものである︒   エックハルトによれば

それは聖書及び聖書に依拠する教父以来のキリスト教思想の伝統に根ざすものであるが

︑ロゴスの受肉こそが︑神の似姿として造られたという創造論的根拠とともに︑その創造の業を完成する救済論 的根拠として不可欠なのである︒救済史的出来事としてのロゴスの受肉は︑全ての人間を︑受肉のロゴスである「神 の子」と同じものとするという救済的完成の根拠であり︑ヨハネ福音書第一章にある通り︑受肉のロゴスによって︑ 信じるすべての者は「神の子」とされるのである ︵ 11︶ ︒   それゆえ︑南原が︑先の引用個所で︑神と人の一致の根拠である受肉のロゴスである「神の子」が排除され「種」 がその位置を占めた時︑ 「みなキリスト・イエスにあって一なり」 という「パウロの福音主義の原理が排斥せられる」 と述べているのは︑エックハルトの説く神と人との一致の思想をきわめて正確に把握したものであると言える︒すな わち︑エックハルトの説く神と人との一致の思想は︑何よりもまず︑受肉のロゴスに基づいて︑全ての人間が

つ まり人種や「血」の区別なしに

「神の子」と一致することによって成立する救済的完成として理解されなければ ならないのである︒   しかし︑ローゼンベルクのやり方によって「魂と血︑自我と人種︑絶対者と種族とが同一不二の関係に置かれるに 至 る」とき︵南 原 二 〇 一 四:二 七 八 頁︶ ︑エックハルトの 説 く 神 と 人 との 合 一 の 思 想 のうちに 本 来 存 在 していたはず の︑神と人︑人と人の関係理解︑それぞれの間にひらかれる共同性や主体性

すなわち受肉のロゴスに基づく「神

(8)

一一二 の子ら」 としての共同性や主体性

の理解は完全に取り除かれる︒ その代わりに︑ 「種」 と一つとなること︑ そして︑ 「種」を離れては人間は「無」であるとされるような「種的『血の共同体』 」が︑その合一の思想における共同性や主 体性の理解を決定づけるのである︵南原二〇一四 : 二七九頁︶ ︒   ここで︑南原が問題視しているものは︑人間の共同性と主体性の理解である︒ローゼンベルクによって︑エックハ ルトの説く神と人との合一の思想における人間の共同性と主体性は︑全く別のものに︑つまり︑彼の説く「種的『血 の 共 同 体』 」に 姿 を 変 えてしまっているのである︒先 に 引 用 したように︑エックハルトの 説 く 神 と 人 との 合 一 の 思 想 は︑ローゼンベルクによって︑ 「種 と 人 間 との 合 一 として︑この 世 界 の 存 在 法 則 における 種 族 的 生 の 神 性

民 族 的 活力にまで引き下げられるに至る」のである︵南原二〇一四:二七八頁︶ ︒   南原の洞察において明らかなように︑ 神と人との合一の思想としての Mystik は︑ 神と人︑ 人と人の関係︑ そして︑ それぞれの 間 にひらかれる 共 同 性 や 主 体 性 を︑根 本 的 かつ 決 定 的 に 規 定 しうるものである︒ Mystik の 有 するこの 可 能性は︑ローゼンベルクの説く「血」の神話に基づく英雄的民族共同体幻想とそれに奉仕・隷属する主体を生み出す ために︑大 いに 利 用 されている︒もはや Mystik は 人 間 の 共 同 性︑主 体 性 に 関 する 理 解 を 生 み 出 すために 恣 意 的 に 用 いることのできる 道 具・手 段 の 位 置 に 落 とし 込 まれている︒ Mystik は︑神 との 一 致 ではなく︑国 家 もしくは 民 族 と の一致・合一に置き換えられる︒かつ︑その際に神の位置を占めることになる国家また民族には︑それの絶対性や神 聖性を支えるためにねつ造された「神話」的根拠が与えられる︒以下に見るように︑ローゼンベルクによってエック ハルトはこの民族主義の「神話」的根拠としても大いに利用されたのである ︵ 12︶ ︒   ローゼンベルクの 説 くところによれば︑エックハルトこそがそのナチズム 的 な 民 族 精 神 の 根 源︑ 「血」の 共 同 体 の 根 源 に 位 置 づけられるのである︒ 「マイスター・エックハルトにおいて 北 方 的 の 魂 は︑始 めてそれ 自 身 [sc. ゲルマン 魂 の 力 ] 十 分 に 意 識 した︒彼 の 人 格 において︑有 らゆる 吾々の 後 代 の 偉 人 が 埋 蔵 されている︒彼 の 偉 大 なる 魂 から いつかは独逸の信仰が生れ出づることが出来︑かつ生まれるであろう」 ︵ローゼンベルク一九三八:二〇五頁︶ ︒   エックハルトはローゼンベルクの説くところの「血」の共同体としてのドイツ民族の歴史と運命を背負わされ︑全

(9)

一一三 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ 面的にその「神話」に深く結び付けられている︒言い換えれば︑ここで︑エックハルトは︑二重の仕方で︑ローゼン ベルクの説くところの共同性と主体性の幻想の中に取り込まれてしまっている︒一つには︑容易に国家もしくは民族 との 一 致・合 一 に 置 き 換 えられる Mystik の 創 唱 者 とされることによって︑もう 一 つにはそれをドイツ 的 民 族 に 固 有 のものとして生み出し︑民族と国家に捧げられる「独逸の信仰」がそこから発現することになる︑父祖的存在として 「独逸」的なるものと一体化せられることによってである ︵ 13︶ ︒   だが︑これはローゼンベルクの個人的信条や解釈の問題でもなく︑すでに終わった過去の問題でもない︒エックハ ルト研究が巻き込まれ︑または加担した歴史的な問題である︒この歴史的問題に向き合い︑再びまた同じような幻想 に 酔 いしれるようなことがないように︑エックハルトにおける Mystik の 神 と 人︑人 と 人 の 関 係︑そして︑それぞれ の間にひらかれる共同性や主体性にかかわる理解を︑正確に把握するようにつとめる必要がある︒われわれもまた︑ ロ ー ゼ ン ベ ル ク や 彼 の 言 説 を 無 批 判 に 受 け 入 れ た 人 々 と 同 じ 弱 さ を 持 つ 存 在 で あ る ︒ そ れ ゆ え わ れ わ れ も ま た Mystik の中にローゼンベルクと同じような破滅的誘惑に導くローレライの歌を聴くかもしれないし︑今まさに︑それに聴き 入っているかもしれないからである︒   以 上 の 考 察 から︑ペルソナ 的 主 体 性︑共 同 性 を 台 無 しにするような Mystik の 読 み 換 えのうちに︑民 族 主 義 的・全 体主義的な破滅的陶酔に誘惑するローレライ的幻想の由来を見定める︒ その上で三では︑ エックハルト研究の側にも︑ ローゼンベルク的 Mystik によくなじむ要素が今なお存在していることを確認したい︒

 

ペルソナ的多数性の否定をめぐるエックハルト研究の問題

西谷的「神性の無」

  エックハルトの本格的研究は一九世紀後半から始まると言える︒それは︑いわゆる新トミズムと呼ばれるような中 世 スコラ 哲 学 研 究 が 活 況 を 呈 する 時 期 に 接 近 している ︵ 14︶ ︒だがエックハルト 研 究 は 再 興 したスコラ 研 究 と 一 体 的 に 進められたのではない︒むしろその頃のエックハルト研究の主な担い手はゲルマニストでありプロテスタント神学者

(10)

一一四 であった ︵ 15︶ ︒   同時期のエックハルト像をごく簡潔に示すならば︑エックハルトは反カトリック的・反スコラ的思想家の代表であ り︑反ローマ的な宗教改革の先駆者であり︑また︑新プラトン主義的な「一」の立場から異端的もしくは異教的な神 秘 的 合 一 を 説 く 神 秘 主 義 者 である︒同 時 期 にエックハルトが「神 秘 主 義 者: Mystiker 」と 評 される 場 合︑それは 彼 が 「スコラ 学 者: Scholastiker 」とは 全 く 別 の 存 在 であるということを 含 意 していた︒さらに 言 えば︑ 「神 秘 主 義 者: Mystiker 」と 評 される 時︑エックハルトは︑教 会︑聖 職 者 位 階 制 度︑秘 跡︑信 心・業 を 含 めた 一 切 の 神 に 対 する 制 度 的・外的媒介に無効を宣言し︑個人の内的な神との関係のみが真実の信仰の道であるとして神と魂の一致を説く︑先 駆ける宗教改革者であり︑また︑三位一体をも超越する「一」なる神との合一を救済の道として主張した汎神論的神 秘 主 義 者 であることを 含 意 していた ︵ 16︶ ︒反 ローマ・カトリック 教 会 的 な 思 想 家 としてのエックハルト 像 は︑ローゼ ンベルクにおいても︑大いに強調されている︒   ここで 以 下 のことを 確 認 しておきたい︒石 原 謙 はローゼンベルクの『二 十 世 紀 の 神 話』 ︵一 九 三 〇 年︶以 前 に︑ 一九二八年の 「 エックハルト研究の過去及び現在 」 という論文で当時の最新の研究史をまとめ︑一九二七年の 「 エッ クハルトの 著 作 本 文 に 就 いて 」 という 論 文 では︑本 文 資 料 の 分 類・分 析 にまでふれている ︵ 17︶ ︒その 中 で 石 原 はエッ クハルトのラテン語著作の研究の必要性を指摘するとともに︑ラテン語著作を発見・公刊したデニフレのエックハル ト評価を踏まえて次のように述べている ︵ 18︶ ︒   かくて我々は最早エックハルトをスコラ神学の系統から引き離して︑中世哲学史上に全く孤立せる汎神論的神秘 思想家としてのみ見ようとはしない︒従来は︑ヤコブ・ベーメ︑アンゲルス・シレジウス︑バーデル︑シェリン グ︑ショーペンハウエル等に及ぼした彼の特殊の影響を重視し︑殊に第十九世紀のプロテスタント的神学史家が しばしばタウラー︑ 『独 逸 神 学』の 無 名 の 著 者 等 と 共 に 彼 をも 宗 教 改 革 の 思 想 を 準 備 したる 先 駆 と 考 えようとし た 慣 習 に 支 配 されて︑彼 を 近 代 思 想 殊 にプロテスタンティスムスと 結 びつけて 解 釈 する 傾 向 が 強 くあったが︑

(11)

一一五 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ 我々は最早かかる傾向に盲従することはできなくなった ︵ 19︶ ︒     石原のエックハルト研究から明らかなように『二十世紀の神話』公刊時には上記のようなエックハルト像の学問的 根拠が研究者によって強く疑われるようになっていた︒かつ︑それは少なくとも石原論文によって日本の学界にも知 られうるものだった︒実 際︑西 谷 はこの 情 報 を 得 て 自 著 で 石 原 論 文 に 言 及 している ︵ 20︶ ︒だが 西 谷 は 石 原 論 文 を 知っ ているにもかかわらず 自 身 の 一 九 四 〇 年 初 出 論 文「独 逸 神 秘 主 義」ではゲルマン 主 義 的 エックハルト 像 を 提 示 し︑ ローゼンベルクの「独逸的使徒」というエックハルト像に対する共感さえも表明しているのである︵西谷一九八七: 一九九 ― 二〇四頁︶ ︒   またゲルマン主義的なエックハルト評価以上に厄介な問題は︑ここで問題としようとしているエックハルトにおけ る「一」についての 誤 解 である︒その 誤 解 の 典 型 を 簡 潔 に 言 えば︑エックハルトは「魂 の 火 花」 「魂 の 根 底」が 創 造 以 前 の 始 原︵ principium ︶において 先 在 したと 説 き︑そこですでに 実 現 していた 創 造 以 前 の 神・人 の 合 一 にもう 一 度 至るべく︑再び始原へと還帰することが現世における人間の目的・完成であるとした︒そしてその還帰による一致が ついに果たされる際には︑脱自︑没入︑忘我のダイナミズムによって神・人の区別が解消され︑魂はもはや神に完全 に同一化・同体化すると説いたということになる︒   ローゼンベルクやデュルクハイムにおいては 合 一 という 言 い 方 さえも 不 十 分 となる ︵ 21︶ ︒なぜなら「魂 の 火 花」 「魂 の根底」と呼ばれる創造以前の先在の次元における人・魂の存在は︑人間内部における非被造的存在性︑つまり︑神 との同等性︑しかも︑創造し被造物と関わる「神」とは区別された「神性」と呼ばれる神的存在性との同一性として 解釈されるので︑そもそも神に等しく︑また︑同一だからである︒それゆえ︑そのような存在としての人間のあり方 がエックハルトの 説 く「魂 の 高 貴 さ」 「魂 の 自 由」

ローゼンベルクの 言 う「心 霊 的 自 由」

の 根 拠 となるのであ り︑そのような人間は自らに対する他者としての神をもはや必要とせず︑自ら自身の内に自ら自身を神として見出す ことになるのである︒こうして︑エックハルトの説く「魂の高貴さ」や「魂の自由」が読み換えられ︑それはもはや

(12)

一一六 教会や他民族のみならず神によってさえも支配されないゲルマン民族にのみ固有の「血」に歴史的・人種的に限定さ れたものとして見出される︒そして︑ここに︑世界史上におけるゲルマン民族の固有の位置と︑それを現実世界上に 展開するナチス的運動の絶対的な自己正当性の根拠がおかれるのである︒   いずれにせよ︑このような理解のもとでは︑神・人のペルソナ的関係性が一性のうちに解消・融解・融合し︑神と 人間の関係︑それぞれの主体性︑相互の共同性のすべての輪郭があいまいになる︒それは神も人もなくなる消失点と でも 言 い 換 えられるような 事 態 である︒ローゼンベルクにせよデュルクハイムにせよ Mystik という 語 はそうした 神・人 の 合 一 について 用 いられているが︑吹 田 順 助 らはローゼンベルクの 翻 訳 において Mystik に「神」の 字 をあて る 代 わりに「深」を 置 き「深 秘」と 訳 している︒これは 同 書 で 理 解 されている 神・人 の 合 一 が︑ 「神」の 消 失 に 必 ず たどり着くので「神」の字が取り除かれ︑代わりに「神」さえもそのうちに飲み込まれる「深秘」としたとすれば非 常に興味深い訳であるようにも見える︒   こうした神秘的合一の極致における「神」の消失というモティーフは︑神と神に相見える人間の相互のペルソナ的 主 体 性 を 無 効 化 し︑代 わりに︑自 ら 自 身 の 内 にゲルマン 的「血」にのみ 由 来 する

それゆえ「雑 種 人」 「心 霊 的 の 異国人および血液的の敵」には否定される

絶対的自由と力の根源を見出し︑それとの没ペルソナ的同一の中に酔 いしれる「血の宗教」 「独逸の信仰」を打ち立てるには非常に効果的であったと思われる︒   もちろん 神・人 のペルソナ 的 関 係 性 が 没 ペルソナ 的 同 一 性 の 中 で 解 消・融 解・融 合 せられるという Mystik はエッ クハルトにはない︒それゆえ上記のようなエックハルト理解が全く無価値であることは言うまでもない︒しかし先に 述 べたように︑エックハルト 研 究 の 側 にもそうした Mystik と 結 びつきかねない 誤った 解 釈 が 存 在 することも 事 実 で ある︒それはエックハルトの三位一体の神と一性︑神性の理解に関する問題である︒   以下に見るように︑エックハルトにおいては︑神的ペルソナの三位一体性が︑多数性として否定されるとする研究 者の解釈がある︒すなわちエックハルトの思想は究極的な「一」を根本とするものであり︑そこでは多数性が否定さ れ︑ 三位一体のペルソナ的複数性も︑ 否定されるべき多数性のうちに数えられる︒ それゆえ︑ 三位一体の神を超えて︑

(13)

一一七 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ 多数性を超えた一性︑つまりペルソナ的な「神」ではなくそれを超えた一なる「神性」もしくは「神性の無」を目指 さねばならない︒そのように神的ペルソナの三位一体性をも多数性として否定した非ペルソナ的一なる「神性」もし くは「神 性 の 無」との︑非 ペルソナ 的 一 致 を 目 標 とする 精 神 動 性 は︑多 くの 場 合「突 破」 「離 脱」というキーワード

その際それらはペルソナ的神をも否定的に超出する精神動性として解釈される

と結びつけられ︑そこに他に は見られないエックハルトの Mystik の徹底性があるという評価も連動する︒   しかし︑ 三位一体を多数性として「一」 に向けて否定し︑ 「神性」 もしくは「神性の無」 を目指すとする解釈はまっ たく誤りであり︑三位一体とその一性に関するエックハルトの思想の誤解・曲解に由来する︒その誤ったエックハル ト解釈は︑三位一体におけるペルソナ的に成立する主体性やペルソナとペルソナの相互性の意義を︑そしてさらには 神と人とのペルソナ的関係性の意義を無効にし︑それらが没ペルソナ的同一性によって解消・融解・融合せられると いう Mystik へのすり 替 え・置 き 換 えを 招 きかねない︒それゆえ︑三 位 一 体 とその 一 性 に 関 するエックハルトの 思 想 の︑テキストに即した正確な理解可能性を提示することが必要となる︒これが本稿の基本的な問題意識であり︑その 限りにおいて︑日本でよく紹介される西谷的「神性の無」をめぐるエックハルト解釈の問題を指摘しておきたい︒   エックハルトの 説 くまことの 神 は 三 位 一 体 の 神 ではなく︑それを 超 えた 一 性 であり︑ 「神 性」 「神 性 の 無」であると するような︑三 位 一 体 とその 一 性 に 関 するエックハルト 理 解 の 誤 りは︑ 「三 位 一 体 の 神」を「有 相」とし︑これに 対 して「神 性」 ︵ gotheit ︶を「無 相」とするような 誤 読 に 典 型 的 に 現 れる︒このような 誤 読 は︑ 「無 相」の 神 に︽神 性 の 無︾ ︑︽絶 対 無︾を 見 る︑西 谷 啓 治 の 禅 を 媒 介 としたエックハルト 受 容 以 来︑日 本 で 好 んで 紹 介 されている ︵ 22︶ ︒ここ に最近の一例としてタウラー研究者の橋本裕明氏による西谷的解釈のパラフレーズを示す︒   周知のように︑ ライン神秘主義最大の思想家と目されるエックハルトは︑ 神を三位とその根底たる一性に区分し︑ 前者を人間に対向する神の有相︑後者をその有相を撥無する全き無相と捉えた ︒もちろんこの 三位の有相と一性 の無相 は︑相互に一方あっての他方ありという相即関係にある︒ しかしエックハルトは人間の至福がまさしく有

(14)

一一八 相を突破して無相の神性に達し︑神性と一になることにあるとした ︒人間は︑ あらゆる多数性と差異を離れた一 者に還帰し︑父―子―聖霊なる神も一切の差異と特性を離れ去って一そのものである神性 に還帰しなければなら ず︑しかしこの一者こそが人間に至福をもたらすのである︒エックハルトは「 われわれがこの一から遠ざかれば 遠ざかるほど︑ われわれはますます神の子らではなくなり︑ 御子でもなくなり︑ 聖霊がわれわれの内で湧き出て︑ われわれから流れ出ることが完全でなくなる 」と述べている︒このようにエックハルトは︑神の有相と無相を相 即関係でとらえながらも人々に対しては︑ 神の無相に向けて自我と神の有相を突破し︑離脱する方向性を説いた のである ︒︵橋本:二〇一一︑ 二二二―二 二 三頁: 傍線 は阿部︶     ここには「神を三位とその根底たる一性に区分し」とある︒三位一体を「三位の有相と一性の無相」に分ける︒両 者 を「相 即」であると 言 いつつも「相 即」であることはほとんど 問 題 にされない︒ 「父 ― 子 ― 聖 霊 なる 神 も 一 切 の 差 異と特性を離れ去って一そのものである神性に還帰」 すること︑ つまり︑ 「神の無相に向けて自我と神の有相を突破」 することがエックハルトの 中 心 思 想 であると 説 かれる︒ここで「神 性」 ︵ gotheit ︶とあるが︑これは -heit という 語 の 抽象性にまどわされて︑あたかも︑三位一体を否定的に乗り越えた絶対的に超越的な一なる神的本質のようなものと して 読 まれるべきではない︒言ってみれば “ gotheit ” は 抽 象 名 詞 ではなく︑もはや 存 在 動 詞 である︒それは 最 も 根 本 的な神の存在動態である︒神が神自身であること︑真実に神が神として存在していること︑本当に生命であり存在で ある 神 の 根 源 的 な 存 在 動 態 である︒それは 三 位 一 体 としての 神 の 存 在 動 態 にほかならない ︵ 23︶ ︒エックハルトは 三 位 一体を「三位の有相と一性の無相」に分けないし︑そのような仕方で「父―子 ― 聖霊なる神も一切の差異と特性を離 れ去って一そのものである神性に還帰」することもない︒実際︑以下に見るように︑エックハルトが説く「一」は三 位一体の一であり「父」なる神に帰せられる「一」である︒   このことは︑先の引用個所で橋本によって引用されているエックハルトのテキストではっきりしている︒そこで引 用 されていたのはエックハルトのドイツ 語 による 神 学 論 考『神 の 慰 めの 書』 ︵ BgT , DW V , S.41 ︶である ︵ 24︶ ︒そこで

(15)

一一九 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ 「われわれがこの 一 から 遠 ざかれば 遠 ざかるほど︑われわれはますます 神 の 子 らではなくなり︑御 子 でもなくなり︑ 聖霊がわれわれの内で湧き出て︑われわれから流れ出ることが完全でなくなる」と引用されていた︒この文章は︑明 らかに人間が「一」へと還帰することが「子」となることであり︑生ける三位一体の神に行き着くことにほかならな いことを語っている︒ 「子」 であることは「父」 との関係において可能であり︑ それゆえにこそ「一」 は明らかに「子」 にとっての「父」を指している︒   実際︑ 『神の慰めの書』では︑橋本の引用箇所よりも前から「一」について論じられ︑ 「父」が「一」であり「子」 を 生 む「誕 生」を 意 味 することがはっきり 語 られている︵ BgT , DW V , S.35 ︶︒その 箇 所 よりもさらに 前 でも「等 し さ」を「子」に︑ 「愛」と「熱」を「聖霊」に同定したうえで︵ BgT , DW V , S.30 ︶次のように述べている︒ 等 しさ︵ =子︶と 熱 する 愛︵ = 霊︶は 魂 を︑一 の 第 一 の 起 源 へと 導 き︑つれ 行 く︒その 一 とは︑天 と 地 におけ る 一 切 のものの 父 である︒それゆえわたしは 言 う︒一︵ =父︶から 誕 生 する 等 しさ︵ =子︶は︑魂 を︑神 がご 自 身の秘められた一において一であるところの神︵ =父︶ へと連れ戻す︒ というのもそれ︵等しさ =子︶ は一︵ =父︶ を求めるからである︒ ︵ BgT , DW , V , S.31 :カッコ内補足は阿部︶   この個所も︑ 同様に人間が「一」 へと還帰することが「子」 として「父」 のもとに行き着くことであることを語り︑ かつ︑その道行きが︑生ける三位一体の神自身によってひらかれ︑根源たる一なる父へと導きかれるものであること を語る︒   このように「神 を 三 位 とその 根 底 たる 一 性 に 区 分」 「三 位 の 有 相 と 一 性 の 無 相」に 分 けるような︑日 本 に 見 られる エックハルト解釈の伝統が︑今なお人々のエックハルト受容に大きな影響を及ぼし︑今なおテキストに即して考証さ れることなく︑当然であるかのように紹介されている︒たとえ︑それが東西宗教思想交流やそのための宗教哲学的考 察に多少寄与するものであったとしても︑エックハルト理解としては不正確な言説がむやみにまき散らされ︑そうし

(16)

一二〇 た有害な誤読の流布によって︑エックハルトの思想解明が大いに妨げられてきたのは言うまでもない︒   エックハルトの語る「一」 が三位一体の「父」 に帰せられることは「ラテン語著作」 においても明らかである︒ エッ クハルトは「しばしば」

と彼自身が述べているが

権威・アウクトリタスに基づいて次のように述べている︒   一 は︑すでにしばしば 語 られたように︑父 に 帰 せられる:

unum, ut iam saepe dictum est, appropriatur patri

︵ In Io, n. 549 ︶︵ 25︶ ︒ 聖 人 たちは︑一 ないし 神 的 なものにおける 一 性 を︑第 一 の 基 体 ないしペルソナ︑すなわち 父 に 帰 している:

sancti unum sive unitatem in divinis attribuunt primo supposito sive personae, patri scilicet

︵ In Io. n. 562 ︶ 26︶ ︒   エックハルトが「しばしば」権威・アウクトリタスに基づいて語ったという「一」と「父」の関係理解が︑これま で長く無視されてきたのは︑ただエックハルトの学問的著作である「ラテン語著作」が十分に研究されてこなかった からであり︑極端な表現が多い「ドイツ語著作」が好んで読まれてきたからだ︑などと問題を単純化してすますこと はできない︒なぜなら︑先に見た「神の慰めの書」において︑すでに︑はっきりと「一」と三位一体の「父」の関係 について︑ 「一」が語られるたびに繰り返ししっかり述べられているからである︒   さらに言えば︑ このようなエックハルトにおける「一」 である「父」 の重要性を見落としたままでいることは︑ エッ クハルトの 中 心 思 想 とされる「魂 における 神 の 誕 生」の 正 確 な 理 解 を 困 難 にする︒なぜなら︑エックハルトの 語 る 「魂 における 神 の 誕 生」の「誕 生」とは︑まさしく︑三 位 一 体 の「父」が「子」を 生 む「誕 生」にほかならないから である︒

(17)

一二一 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶

 

ペルソナ的主体性と共同性をひらく「一」

compatres sumus

  で は エ ッ ク ハ ル ト が 語 ろ う と し て い た 「 一 」 が ど の よ う な も の で あ っ た の か ︑ そ し て そ こ で は ︑ ど の よ う な 共 同 性・ 主体性

三位一体論に依拠した共同性・主体性

が理解されているのか︒   エックハルトは 聖 書 的︑教 父 的 思 想 源 流 との 関 係 を 踏 まえつつ「一」は「父」に 帰 せられるとする ︵ 27︶ ︒「一」はた だ「一」ならざるものを 一 切 否 定 する 否 定 的「一」であるだけはない︒ 「父」に 帰 せられる「一」はペルソナ 的 主 体 性

つまり「子」

を成立せしめる「一」である︒ 「一」はどこまでも「一」であり︑かつ︑父に相見えるペルソ ナ的主体性である「子」を成立せしめる「一」であり︑そこに「二」すなわちペルソナ的主体性の複数性・共同性を ひらく「一」である︒   エックハルトも 依 拠 する 神 学 的 伝 統 によれば 父 と 子 と 聖 霊 は 本 性 において「他 なるもの」 ︵ aliud ︶ではないがペル ソナにおいては「他なる者」 ︵ alius ︶ である ︵ 28︶ ︒ その「他なる者」 の複数性において︑ 各々のペルソナ的主体性があり︑ 三位一体なる神の一人称複数としての「われわれ」がある ︵ 29︶ ︒   子 の 父 に 対 する 関 係 は「神 からの 神: deus de deo 」であり 神 と 神 である ︵ 30︶ ︒父 と 子 のペルソナ 的 主 体 性 は︑神 と 神 とが 相 見 える︑全 く 等 しい 相 互 関 係 性 として 成 立 している ︵ 31︶ ︒一 性 である 父 から 同 等 性 である 子 が 生 まれるので あり︑父と子の完全な一致・等しさ・ペルソナ的主体性がそこに成立しているのである︵ In Io. n. 556-557 ︶︒   このような父と子の関係の内に人間が入ることがイエス・キリストの受肉による救済の意義である︒受肉のロゴス による救済を通じてわれわれも︑イエス・キリストが子であるように等しく子とならなければ同じ父をもつものでは ない︵ In Io. n. 1 17-121 ︶︒受 肉 のロゴスの 救 済 史 的 意 義 は︑実 にわれわれが 真 実 に 同 じ 父 のもとに 至 りうるかという 問 題 にかかわってくる ︵ 32︶ ︒われわれが「子」となるのは 父 のみから︑父 の 一 切 を 受 け 取 り「子 であること」に 徹 す ることによってである︵ In Io. n. 473, 569 ︶︒それは 父 が 子 を 生 み 子 が 父 から 生 まれる「誕 生」の 徹 底 的 参 究 にほか

(18)

一二二 ならない︒ 存在・生命の躍動が︑ どの瞬間においても︑ 父が「生む」 「誕生」 に即して真実に父と一つとなっている︑ 真 実 のペルソナ 的 主 体 性 を 生 きるものが「子」である︵ In Io. n. 197, 582 ︶︒父 が 生 み︑子 が 生 まれ︑聖 霊 が 発 出 す る三位一体的存在動態が︑三位一体において永遠即瞬間・瞬間即永遠的な存在・生命の開花であるように︑われわれ の父を求める徹底的な参究もかくあらねばならない ︵ 33︶ ︒   しかし︑子は父の一切を受け取るのであるから︑その「誕生」の徹底的参究において︑父の一切とならねばならな い︒つまり徹底的に「子」であることにおいて「子」は「子」であることを透脱し「父」とともに生み出すものとな らねばらない︒これを︑エックハルトはラテン 語 著 作 では “ compater ” ︵ 34︶

すなわち「父」とともに「父」と 同 じ ように 生 む 者

であると 語 り︑また︑ドイツ 語 著 作 では︑父 とともに 生 み 出 す “ wider îngebern ” ︵ 35︶ ︵生 み 返 し︶とも 語っている︒   エックハルトは「われわれが父と等しい者であるとき︑すなわち︑ 唯一の像の父たち であるとき︑ 父がわれわれに 示される のである:

pater nobis ostenditur

, quando dei compatres sumus, patres unius imaginis

」 と述べている︵ In Io. n. 573 :傍 線 は 阿 部︶ ︒ “ compatres ” “ patres ” が 複 数 形 で︑かつ “ sumus ” という 一 人 称 複 数 形 現 在 の 存 在 動 詞 とともに 用 いられている︒すなわち 一 なる「父」は 他 を 絶 した 存 在 ではなく︑自 ら 自 身 へと 他 を 招 いている︒父 への 招 きは “ compatres ” “ patres ” であることが 一 人 称 複 数 現 在 の 存 在 動 詞 “ sumus ” で 語 られるような 複 数 の 他 なるペルソナ 的 主 体 性の共同性・コイノニアの成立としてひらかれているのである︒   “ compatres ” “ patres ” は「子」であることの 徹 底 的 参 究 による︒このことはドイツ 語 説 教 の 中 にある 照 らし 返 し

“ widerschînen ”

という 言 葉 によってとらえられている ︵ 36︶ ︒父 の 一 切 を 受 けるものとして 生 まれる 子 は︑父 から 受 けた一切を照らし返す存在であり︑ 父と同じ存在を受けて︑ それをそのまま自らにおいて父と同じように在らしめる︒ かくも父に対して一つである子であることにおいて “ compatres ” “ patres ” なのである︒   このようにして父との関係において成立する「われわれ」という一人称的複数の共同的主体性は「血」や「民族」 「国 家」 「歴 史」 ︑また「種」や「類」などによるものではない︒この「われわれ」は 完 全 に 父 との 関 係 においてのみ

(19)

一二三 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ 成立するペルソナ的主体性に基づいている︒ 「血」や「民族」 「国家」 「歴史」などによって︑また「種」や「類」など によって「われわれ」 が成立するならば︑ そこでは︑ 「父」 ならざるものが「父」 の位置を代わりに占めることになり︑ それこそエックハルトが 否 定 することである︵ In Io. n. 188, 454, 567 ︶︒ローゼンベルクの 説 くエックハルト 理 解 に は「父」が 欠 如 している︒ 「父」理 解 の 欠 如 は︑すでに 見 たようにローゼンベルクに 限 られたものではない︒エック ハルトの語り続けている「一」と「父」の関係の無視・忘却は今なお進行している︒ではいかに父を知るか︒   「父」は「子」以 外 には 知 られない︒その 意 味 で「隠 れたる 神: deus absconditus 」である︵ In Io. n. 195 ︶︒ 「一」 である「父」は︑その 内 にいかなる 否 定 もない「否 定 の 否 定: negatio negationis 」であり︑ 「一」から「落 下 した」 一切の有限・多数的なるもの

その内に否定を含む一切

の否定が「一」である「父」においては排除され否定 される︵ In Io. n. 562, 61 1︶︒それゆえ 父 に 至 るには「否 定 の 否 定」である 父 自 身 に 向 かって︑否 定 的 なものの 一 切 が 否 定 されなければならない︒ 「父」を 欠 いたエックハルト 理 解 はこの「否 定 の 否 定」を 通 過 しない︒以 下 に 見 るよ うに︑父に向かって一切の否定が打ち破られ︑父が真の父となることがエックハルトの説く「突破」であり︑それが 同時に子が真の父を得る「誕生」である ︵ 37︶ ︒ つ ま り「 突 破 」 即「 誕 生 」 で あ る ︒   学者たちによると︐魂には二つの顔があって上部の顔は絶えず神を見つめ︑下部の顔は何かを見下ろし︑感覚を 操っている︒上部の顔は魂の最高のもので︑永遠のうちにあり︑時間とは全く関わりが無く︑時間についても身 体についても何も知らない︒︙︙学者たちの説によると魂の最上の部分︵閃光︶から二つの力が流れ出ていると いう︒一つは意志であり︑他方は知性である︒これらの力の最高の完成は知性と呼ばれる最高の力にある︒ これ は決して休まない︒この力は︑神が聖霊であるから︑また子であるからといって求めるのではない︒これは子を 避けるのである︒これは︑また︑神であるからといって︑神を求めるのでもない︒なぜか︒そこで神が名をもつ からである︒もし 仮 に 神 が 千 いるとすれば︑これは 絶 えず 突 破 ︵ durchbrechen ︶ して︑名 前 の 無 い 神 を 求 める︒ つまり神がいまだ名前を持っている限り︑これは神より高貴な者︑よい者を求める のである︒ では何を求めるの

(20)

一二四 であるか︒これはそれを知らないが︑神が父であるような神を欲している ︒ それゆえ聖フィリポは「主よ︑わた したちに 父 をお 示 し 下 さい︒そうすればわたしたちは 満 足 します」 ︵ヨハ 14 .8︶と 述 べている ︒これは︑善 性 に 由来する髄のような神を求め︑善性が流れ出る核のような神を求め︑ 善性が涌き出でる根︑水脈のような神を求 めるのである︒そしてそこでのみ 神 は 父 である ︒ 今 や︑わたしたちの 主 はこう 言 われる︒ 「子 のほかに 父 を 知 る ものはいない︒父 のほかに 子 を 知 るものはいない」 ︵マタ 11 .27 ︶︒真 理 において︑われわれは 父 を 知 ろうとする ならば︑われわれが子となるのでなければならない︒ ︵ Pr. 26 , DW II, S. 30 -32 :傍線は阿部︶   ここでは︑アウグスティヌスから 受 け 継 いだとされる 魂 の「二 つの 顔」について 述 べられている ︵ 38︶ ︒「名 の 無 い 神 を 求 める」と 語 るこのテキストの 意 味 を︑われわれはもはや 誤 読 することはないであろう︒ 「名 の 無 い 神 を 求 める」 こととして語られる否定神学的言語遂行は︑ 「有相」の神を離れて「無相」の神︵神性︶に至ることではない︒   「名 の 無 い 神 を 求 める」ことは︑引 用 個 所 の 最 後 に 示 されているように︑父 を 求 めて︑徹 底 的 に 子 となりきる 変 容 をわれわれが遂げることである︒その変容はわれわれの存在が根本的に被る変容である︒われわれのペルソナ的主体 性は子なる三位一体の「言」によって「われわれが子となる」変容を遂げる︒それは受肉のロゴスとの完全な一致に よってなし遂げられる︒   そ の 変 容 は 「 突 破 」 で あ る と 同 時 に 「 誕 生 」 で あ る ︒ 子 な る 三 位 一 体 の 「 言 」 に よ っ て 「 父 」 と 「 子 」 の 生 け る 三 位 一 体 的 生 命 そ の も の の 参 入 す る 「 突 破 」 が 同 時 に 子 と し て 生 み 出 さ れ る 「 誕 生 」 の 成 就 に ほ か な ら な い か ら で あ る ︵ 39︶ ︒   先の引用にある「名の無い神を求める」とは︑真実に存在する生ける父なる神への「突破」である︒どこまでも像 化され対象化される神が︑生ける父なる神自身に向かって撥無され︑同時に︑魂の像化作用と像化作用の根本である 我性までもそれによって撥無される︒そのたえざる「突破」における真の父なる神の求道は︑父なる神を父とする子 としての「誕生」に行き着くほかない︒   「名 の 無 い 神 を 求 める」とは 荒 野︑暗 夜 を 突 き 進 む 否 定 の 道 だが︑表 面 的 な 否 定 神 学 的 弁 舌 を 積 み 上 げ︑手 の 届 か

(21)

一二五 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ ないはるかなる 領 域 に 神 を 隠 してしまうことではない ︵ 40︶ ︒「名 の 無 い 神 を 求 める」は 真 実 に 存 在 する 生 ける 父 なる 神 を求める突破によるテオロギア的参究であり︑それは父を求め︑その子として︑父子聖霊の三位一体の神的生命・誕 生にあずかろうとするテオロギア的参究である︒   宮本久雄は先の引用個所のようなエックハルトの否定神学的言説が︑新プラトン主義的傾向による三性の否定では なく「神の内的生命であるまことの三一性を人の思いなしの相関者としてしまう結果︑人がその三一的生命に参入す る こ と を 妨 げ る こ と を 洞 察 し ︑ そ の 意 味 で 三 一 性 の 対 象 化 を 乗 り 超 え よ う と 意 図 し た も の で あ る 」 と 看 破 し て い る ︵ 41︶ ︒   その時に「一」として語られるものは︑西谷によって提唱され︑のちの多くの人が好んで用いるところの「能作的 合一」では語りえないとも宮本は述べている︒なぜならその言い方には能作・受動の「二元性」が残存しており︑そ の「空 却」 「突 破」は 不 徹 底 なものであるので︑むしろ︑ 「非 作 用 的 合 一」すなわち「二 元 的 像 化 の 残 滓 を 許 さない 一 なる神性との非作用的合一をもってする以外にない」からである︒   「非 作 用 的 合 一」における「一」は︑ 「一」そのものの「非 作 用 的」 「超 像 的」 「非 主 題 的 な 三 一 的 横 溢」の 実 現・体 現である︒ エックハルトが「御父は︑ 永遠性の内において生み給うのと全く同一の仕方で︑ 御子を魂の内に生み給う」 ︵ Pr . 6, DW I, S. 109 ︶と 語 るように︑ 「非 作 用 的」 ︵つまり 能 動 受 動 の 二 元 性 を 超 え︶かつ「超 像 的」 「三 一 性 の 言」そ のものによって︑あらゆる 像 化 を 超 え 行 く「何 故 なしに: ohne W arum 」の 三 位 一 体 的 生 命

父 を 父 として 生 きる 子としての生命

を生きることである︒   「名 の 無 い 神 を 求 める」ことは 父 ならざる 一 切 が 父 なる 神 に 向 かって 打 ち 破 られてゆくことにおいては︑確 かに 否 定神学的なテオロギア的参究である︒だが同時に︑それが「父」と「子」の生ける三位一体的生命そのものへの参入 として︑ 「突 破」即「誕 生」であることにおいては 肯 定 神 学 的 なテオロギア 的 参 究 である︒なぜなら︑父 なる 神 にお いて 子 となる 時︑ 「三 位 一 体 の 言」とともに︑同 じ 子 として︑自 らにおいて 父 を 語 り 出 すものとなるからである︒そ の意味において︑それは究極の肯定神学的テオロギア的参究となる︒   「突 破」即「誕 生」における 父 と 子 の 生 命 連 関 を Mystik と 呼 ぶならば︑それは 神 さえも 飲 み 込 んであらゆるペル

(22)

一二六 ソナ 的 主 体 性 と 共 同 性 を 消 滅 させる「深 秘」のような Mystik ではない︒むしろ︑ここに 示 された 通 り 神 的 生 命 の 中 で神と人の相互が手を携えて躍り出る存在開華である︒エックハルトが父子の関係において語る神・人の「一」は︑ ペルソナ的主体性と共同性として開華せる相互的生命の連関として︑むしろ︑東方キリスト教が三位一体の神︑そし て︑キリストの 受 肉 における 神 人 合 一 とそれに 基 づく 神 化 に 関 する 重 要 概 念 として 展 開 した「ペリコレーシス:交 流・相互浸透」の考えとの比較可能性を有すると思われる ︵ 42︶ ︒この点については今後の課題としたい︒ ︹付記︺   本稿は第一五四回教父研究会例会︵二〇一五年一二月一九日東大駒場十八号館四階︶にて「エックハルトの「子であるこ と」理 解 について―「父」 「一」の 観 点 から―」という 題 で 発 表 した 際 の 加 藤 信 朗 氏 の 質 問 をきっかけに 成 立 した︒エック ハルト的「一」はその後のナチズム的民族主義・全体主義的一に帰結する運命にあったのかというご主旨であったと理解し た︒ 「ローレライ」はそこでナチズム 的 民 族 主 義・全 体 主 義 を 語 る 際 に 加 藤 信 朗 氏 が 繰 り 返 された 言 葉 である︒この 問 いに 対して準備不足であった私はその後考えをまとめ次の機会に「エックハルトと神秘主義―ローレライの幻想」という題で報 告 した︒科 研︵基 盤 B︶「宗 教 思 想 研 究 の 基 礎 概 念 再 考― mysticism 及 び 関 連 概 念 の 理 論 的・系 譜 学 的 研 究」代 表 者・久 保 田浩︑ 第二回研究会︵二〇一六年二月二〇日立教大学一三号館一階会議室︶ ︒ ここでの発表原稿が本稿のもとになっている︒ 両会の出席者の方々︑特に加藤信朗︑久保田浩︑鶴岡賀雄︑深澤英隆︑前田良三︑宮本久雄︑諸先生方に感謝申し上げる︒ なお 教 父 研 究 会 例 会 での 発 表 は『パトリスティカ』第 二 〇 号 に 掲 載 される︒また 同 科 研 費︵ 15H03162 ︶の 支 援 を 受 けた︒ また神学・哲学史研究会のメンバーから貴重な助言を得た︒    註 ︵ 1︶   これについては次の拙論参照︒ 「ドイツ神秘思想と近世キリスト教― 「 エックハルト像 」 の変遷をたどって―」 『日本カトリッ ク神学会誌』第二三号︑二〇一二年︑六一―八四頁︒ ︵ 2︶   ローゼンベルクとナチスの 文 化 政 策 については︑次 の 文 献 参 照︒宮 田 光 雄『十 字 架 とハーケンクロイツ:反 ナチ 教 会 闘 争 の思想史的研究』新教出版社︑二〇〇一年︒ ︵ 3︶  実際︑エックハルトについて集中的に論じられる同書第一編第三章の表題は「深秘主義と行」である︒なお以下本論で言及

(23)

一二七 ﹁神秘主義 Mystik ﹂というローレライの幻想︵阿部︶ するように吹田・上村訳では「神秘主義」ではなく「深秘主義」という特殊な訳語があてられている︒ ︵ 4︶   エックハルトに 適 用 されてきた 「 神 秘 家 」 や 「 神 秘 思 想 」 ︑ 「 神 秘 主 義 」 という 言 葉 が︑そもそもいかなる 思 想 内 実 を 持 つ ものであるのか︑その根幹となる 「 神秘 」 概念へと㴑る徹底的な再検討として展開された︒この再検討は︑ディオニシウス・ アレオパギタをはじめとして︑中 世 のキリスト 教 神 秘 思 想 の 伝 統 内 部 にエックハルトを 位 置 づけること 試 みる︑ 「 神 秘 」 概 念 の 源 流 をたどる 思 想 史 研 究 を 進 展 させた︒とりわけ︑ 「 神 秘 神 学 」 の 伝 統 に 内 在 する “ mystagogia ” の 動 性︑すなわち︑人 間 を 神秘的合一にまで導く上昇的動性を︑エックハルトの思想内部に解明しようとする試みは︑エックハルトの 「 ドイツ語著作 」 において 「 離脱 」 ︑ 「 放念 」 等の主要概念を通じて主題化される︽神と魂についての思索︾が有している教導的性格を明らかに し︑ 「 ドイツ 語 著 作 」 の 固 有 の 意 義 および︑独 特 の 言 語 用 法 で︑それを 人々に 語 る 「 生 の 教 師 」 としてのエックハルト 像 を 確 保 する 可 能 性 をひらいた︒ Heribert Fischer , “

Zur Frage nach der Mystik in den

W

erken Meister Eckharts

, La mystique

rhénane

,

Paris, 1963, S. 109–132. Niklaus Lar

gier

,

Von Hadewijch, Mechthild und Dietrich zu Eckhart und Seuse? Zur Historiographie

der ›deutschen Mystik‹ und der ›deutschen Dominikanerschule‹

” , Deutsche Mystik im abendländischen Zusammenhang , Tübingen, 2000, S. 93–1 17. Al oi s M. Ha as, Mystik in Kontext , W ilhe lm Fi nk, 2004. Al oi s M. Ha as, “ W as i st Myst ik? ” Abendländische Mystik im Mittelalter

, hrsg. von Kurt Ruh, S. 319–341. Kurt Ruh,

Meister Eckhart. Theologe, Pr ediger , Mystiker , München, 1989, S. 187–195. 阿 部 善 彦 「 エックハルトの『ドイツ 語 説 教』による 共 生 学 的 展 望 へのエチュード―その 言 葉 がひらきむすぶものに 向けて― 」 『共生学』上智大学共生学研究会︑創刊号︑二〇〇九年︑八一―一一五頁︒ ︵ 5︶   本格的なエックハルト『全集』 の計画が着手されたのは一九三四年のことである︒ その計画はハイデルベルクのアカデミー がそれに 先 立 つ 一 九 二 八 年 に 企 画 していたクザーヌス『全 集』の 計 画 と 密 接 に 結 びついていた︒というのも︑クザーヌスが エックハルトのラテン語著作の大部分を保持しており︑それらの引用箇所や影響関係などを検討するためにもエックハルトの 批 判 校 訂 版 が 必 要 不 可 欠 なものと 考 えられていたからである︒そこで︑クザーヌス『全 集』に 関 わっていた Raimund Klibansky を は じ め︑ Gabriel Théry , M. H. Laurent OP , Antonius Dondaine OP , Hildebrand Boscour OSB ら を 編 者 と し︑ 一 九 三 四 年 にこの 全 集 の 計 画 の 最 初 の 著 作 がローマのドミニコ 会 サンタ・サビーナ 研 究 所 によって 公 刊 された︒ Klibansky は ユダヤ系でありドイツから一九三四年にはイギリスに移りキングスカレッジの講師として活動していた︒そのほかの編者もド イツ 系 の 研 究 者 ではなく G. Théry はパリのカトリック 研 究 所 の 教 授 でサンタ・サビーナ 研 究 所 の 所 長 であった︒つまり 十 九 世紀以降ドイツにおいて自国の精神的偉人として注目と関心を集めるようになったエックハルトの著作がドイツ人の手を経る

(24)

一二八

ことなく公刊された︒このようなドイツの外でのエックハルト『全集』公刊の動きに対して︑ドイツ国内ではドイツ人研究者

Bernhard Geyer

, Josef Koch, Josef Quint

ら︶を 中 心 にした『全 集』公 刊 の 動 きが 起 こり 「 エックハルト 委 員 会 」 ︵ Eckhart-Komission ︶が 設 立 された︒各々の 研 究 者 の 政 治 的 意 向 は 判 断 しえないが︑一 九 三 〇 年 頃 のドイツ 国 内 においてローゼンベル クなどに代表される︑エックハルトをナチズム的なナショナリズムの中に取り上げる顕著な動きがあったことは事実であり︑ Klibansky らの 研 究 グループやそのほかの 研 究 者 たちが︑ドイツ 人 を 中 心 としたドイツ 国 内 の 「 エックハルト 委 員 会 」 をナチ ズム 的 性 格 を 持ったものとみなしていたことはやむをえないことであったと 思 われる︒ G. Théry はナチズムの 妨 害 があったと 回 顧 している︒以 上 のエックハルト 研 究 の 状 況 については 次 の 研 究 を 参 照︒ Toni Schaller

, Die Meister Eckhart-Forschung von

der Jahr

hundertwende bis zur Gegenwart,

Freibur g, 1969, S. 315-41 1. ︵ 6︶   エックハルト 研 究 や 神 秘 主 義 研 究 の 観 点 を 主 題 化 するものではないがドイツ 文 学 の 立 場 からはナチズムとの 協 力 を 主 題 化 した研究がなされており本論を準備するにあたって次のものを参考にした︒加藤健司「ナチスの影にあって―山形翻訳者の系 譜︵ ₄ ︶―」 『山 形 大 学 紀 要   人 文 科 学』一 八︑二 〇 一 六 年︑一 二 三―一 三 七 頁︒高 田 里 惠 子『文 学 部 をめぐる 病―教 養 主 義・ ナチス・旧 制 高 校』松 籟 社︑二 〇 〇 一 年︒同「 『文 学』の 裏 切 り:小 説 家・吹 田 順 助 をめぐって」 『桃 山 学 院 大 学 人 間 科 学』 一九九六年︑二九―五六頁︒関楠生『ドイツ文学者の蹉跌―ナチスの波にさらわれた教養人』中央公論新社︑二〇〇七年︒ ︵ 7︶   神戸大学付属図書館新聞記事文庫︵WEB︶より『大阪朝日新聞』 ︵一九三八年一一月二六日:文化四 ― 〇一七︶を参照︒ ︵ 8︶   戦時下のデュルクハイムについては次の文献を参照︒ 荒井訓「終戦前滞日ドイツ人の体験」 『文化論集』 ︵早稲田商学同攻会︶ 一 六︑ 一 九 九 九 年︑九 七―一 三 二 頁︑一 一 一―一 一 五 頁 参 照︒このほか 同 時 期 の 滞 日 ドイツ 人 の 動 向 については 次 の 文 献 を 参 照︒上田浩二・荒井訓『戦時下日本のドイツ人たち』集英社新書︑二〇〇三年︒ ︵ 9︶   以下列記する︒ デュルクハイム『マイステル・エックハルト:独逸的信仰の本質』 橋本文夫訳︑ 一九四三年︒ 西谷啓治「独 逸神秘主義と独逸哲学」 『日獨文化』 一九四三年一二月︒ 同「独逸神秘主義」 『世界精神史講座   第四巻』 理想社︑ 一九四〇年︒ 吹 田 順 助「現 代 ドイツ 思 潮」 『パンと 見 世 物』生 活 社 一 九 四 二 年︑二 四 九―二 七 八 頁︒ ︵『日 獨 文 化』一 九 四 二 年 一 月 に 収 録 さ れた 論 文︶同「マイスター・エックハルトと 半 俗 尼 僧―ドイツ 神 秘 主 義 の 生 起 に 就 いて」 『パンと 見 世 物』生 活 社 一 九 四 二 年 一 二 月︑二 九 九―三 一 三 頁︒ ︵『理 想』一 九 四 二 年 一 〇 月 に 収 録 された 論 文︶ ︒このほか 吹 田 順 助 には 武 蔵 高 校 での 講 演「禅 と ドイツ 神 秘 主 義」 ︵東 京 商 科 大 学 での 講 義 に 基 づいている︒一 九 四 一 年 一 二 月 一 一 日︶があるほか︑戦 後 に「ドイツ 神 秘 主 義 ―思 想 史 的 考 察―」 『武 蔵 大 学 論 集』第 二 巻 二 号 一 九 五 四 年︑一―一 六 頁 がある︒翻 訳 者 としてナチス 関 係 出 版 物 にかかわっ

参照

関連したドキュメント

「父なき世界」あるいは「父なき社会」という概念を最初に提唱したのはウィーン出身 の精神分析学者ポール・フェダーン( Paul Federn,

第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

Bでは両者はだいたい似ているが、Aではだいぶ違っているのが分かるだろう。写真の度数分布と考え

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

とディグナーガが考えていると Pind は言うのである(このような見解はダルマキールティなら十分に 可能である). Pind [1999:327]: “The underlying argument seems to be

ぼすことになった︒ これらいわゆる新自由主義理論は︑

けることには問題はないであろう︒