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源順と凡河内印刷恒

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Academic year: 2021

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(1)

源順と凡河内印刷恒

ーーその和歌表現の関連性について││

源順は延喜十一年(九一一)左馬助奉(準)の男として

生まれ︑二十歳半ばにして﹃倭名類来抄﹄を撰進︑天暦五

年(九五ごに撰和歌所の寄人となり﹁万葉集﹂訓読と

﹃後撰和歌集﹄撰集の事業に携わった︒以後︑十世紀半ば

から末にかけて文人・歌人として多彩な活躍を見せるが︑

その業績に比して官途はあまりにも恵まれず︑永観元年

(九八三)七十三歳をもって不遇の一生を終えた︒天暦七

年(九五一ニ)に文章生となるまでは永らく学生のままであ

り︑同十年ようやく任官した勘解由判官の職には六年間据

西

秀 入 山

え置かれた︒その後︑僕夫と仰ぐ源高明の後押しもあって

か︑応和二年(九六こに東宮蔵人︑同三年には民部大

丞︑康保三年(九六六)には下総権守︑翌四年には和泉守

に任ずるなど一時は比較的順調な昇進を見せるが︑安和の

変により高明は失脚︒天禄二年(九七ごに和泉守の任果

てて後︑天元三年(九八

O )

七十歳にして能登守に任ずる

までの九年間は散住のままであった︒

それゆえに順の作品には自己の不遇・沈論を慨嘆したも

のが多く︑和漢にわたる順文学の一特質ともなり得ている

が ︑ と り わ け 晩 年 の 散 位 時 代 に は ︑

①おまへのやり水に引料吋るのこりの菊におもひあはす

(2)

は づ か し く ( 幼 仙 殺 }

いづみばかりにしづめる身はしかしぶ : か

h

るまどゐにさぶらふことさへまばゆけれど︑

さもあらばあれと︑人こそき

h

てそしりわらはめ

︑野宮庚申歌会序︑貞元元年︹九七六︺十月二十 ( m

七 日

)

れ ば

ナ シ ( 稚 ) しもつふさのかみふぢはらのすゑたかくだるに︑ ︑

機 鋼

一 審

︹ 中

宮 大

夫 {

坊 統

仙 稚

} ︺

の い

へ に

︹ 男

ど も

( 坊

続 仙

稚 }

︺ 銭

た ま

ふ に

よ め

る う

②きみははや人おパリに袋出川町て川寸刈叫 u

司 我

にあふなよ

( m ︑

天 元

二 年

︹ 九

七 九

︺ (

ね )

此 瓦

町 を

た て

ま つ

ら す

る ︹

つ い

で 窃

続 仙

雅 }

︺ に

︑ お

ほせごとのたぶる蔵人につかはす

③ほどもなきいづみばかりにしづむ身はいかなるつみの

必 判

的 な

る ら

ん }

( 制

︑ 天

元 二

年 )

のごとく︑﹁前和泉守﹂のまま徒に朽ち果ててゆく自己の

境遇を﹁いづみ︿泉川和泉

V

にしづむ﹂と自明した表現

が 自

に つ

く ︒

順のこうした姿勢は諸先学によって﹁任官することへの

焦りの気持ち﹂のあらわれ︑﹁強い自負の反映﹂などと評 とかく伎の人となりに還元されることが多かった︒ たとえば①では﹁浮かぶ﹂﹁沈む﹂の対義表現︑②で

は﹁並々﹂と﹁波々﹂の掛詞︑﹁波﹂﹁立つ﹂の縁語に加え

て﹁いでたちていづみにしづむ﹂という同音反復表現︑③

では﹁泉﹂﹁沈む﹂﹁深し﹂の縁語関係を形成するなど︑そ

れぞれ修辞面において一工夫施されており︑伎の不遇意識

とその作品にみる遊戯性とは表装一体の関係にあることも

看 過

さ れ

て は

な ら

な い

ところで︑順と同様和泉国司の官歴を有する歌人に凡河

内 印

刷 恒

が い

る ︒

印 刷

恒 は

延 喜

十 一

年 (

九 一

一 )

正 月

士 ニ

目 ︑

前官の丹波権大目の任期を終えると同時に和泉権操に任ぜ

られた(﹃三十六人歌仙伝﹄)︒が︑任果てた後は延喜二十

一年(九二ご正月三十日︑淡路権操に任官する(﹃勅撰

作者部類﹄)まで約六年間散位であった︒その散位時代に

当たる延喜十六年(九二ハ)九月二十二日頃︑印刷恒は宇多

法皇石山御幸に供奉し︑翌日﹁御舟にてせたにのぽらせ給

ふ﹂折︑当時近江介であった藤原兼輔の計らいにより﹁く

りやぷねにのりておほんふねにぐしてさぶらふ﹂という光

栄 に

浴 し

た ︒

そ こ

で ︑

カ f さ

、れ

(3)

ω いづみにてしづみはてぬとおもひしを今日ぞあふみに 竹村将ぺらなれ(拐恒集

w m v m )

の一首を奉じたわけだが︑﹁和泉﹂に﹁泉﹂を響かせ﹁沈

み果つ﹂﹁浮かぶ﹂の縁語とし︑さらに﹁近江﹂に﹁逢ふ

身﹂を掛け︑沈論から栄誉へという境遇の変転をうたうと

いう手法は︑まさに上掲順例の先腕をなすものである︒こ

れは︑単なる偶然とは思われない︒順は︑﹁いづみにしづ

む﹂の句を中核に種々の技巧をちりばめるという印刷恒歌の

手法を摂取し︑それを沈論訴嘆に際しての一表現パターン

としたのではなかろうか︒そしてさらに︑順の和歌表現を

たどってゆくと︑そこには貫之詠のみならず印刷恒の歌から

の影響も色濃く認められるようである︒﹃古今集﹄編纂に

携わり︑専門歌人として晴々しい活躍を見せながらも︑官

途の商では﹁いづみに沈む﹂という辛苦を味わうなど︑自

身とよく似た経歴を持つ先輩歌人拐恒に対して︑順が敬慕

の念を寄せていたとしても不思議ではなかろう︒

以下︑本稿では順と明恒の和歌表現の関連性を探りつ

つ︑明恒の歌ひいては期恒その人に対する順の意識につい

て 考

え て

み た

い と

思 う

順と蔚恒の作品の共通性を用語面から指摘するならば︑

まずは動詞﹁沈む﹂の多出という現象が挙げられよう︒家

集における用例数を一つの尺度として計上してみると︑

﹃ 順

集 ﹄

で は

和 歌

6

( う

2 例は長歌)︑詞書序文 2

の 計

8 例︒いずれも沈論の意を響かせた用法である︒一方︑

﹃ 印

刷 恒

集 ﹄

は 和

5 ︑

詞 書

l

の 計

6 例︒うち︑沈論の意で

用いられているのは後掲の 5 例である︒ちなみに︑除目に

漏れた嘆きの歌が多い﹃元輔集﹄でも︑沈論を表した﹁沈

む﹂の用例は後掲の 3 例にとどまる︒その他︑拾遺集時代

に至るまでの歌人の家集を検索しても︑同様の例は友則

l ︑忠見 l ︑元真 2

︑ 匡

l と少なく︑うち和歌用例は元

真 1

・ 匡

l に過ぎない︒以上の数値のみによっても順・

印 刷 恒 両 家 集 の 特 質 が 看 取 さ れ よ う ︒ 次 に 両 家 集 の 用 例 に つ

い て

︑ 前

引 以

外 の

も の

を 挙

げ る

﹃ 順

集 ﹄

応 和

元 年

︑ 勘

解 由

判 官

の 労

六 年

い に

し へ

に な

(4)

かくしづめるひとなし︑

まのかたをつくりて︑ っかれたるむ らふるに

っかさの長官朝成朝臣にた

まふに︑くはへたるながうた

④あらたまの たらざりし としのはたちに ときはの

山 の

やまさむみ:::ふみ︑ていでし

みちはなを

身のうきにのみ

ねはふ

あ り け れ ば こ

= も か し こ も

したにのみこそしづみけれ:・:はるはいつ なみぢ(一坊統仙稚)

部 同

外 い

だ に

い た

中 め ︑ し

と も しらなみの

ゆきかよひ

ゆもとりあへす ふねの我をし なりにける きみし

ら ば

あ は

ひ い く ま

と だ し に

j 続 き

;仏 し│

11

つ 1 (

完め│

も券じ

の曜と は)

お も

は じ

うちはへて

あ ま

の つ

( り 1 1 8 な

) は

おなじとしの五月に︑ 一条の大納言いしゃまにま

うで︑七日さぶらひたまふ︑同日人の詩っくりう

たよむにたへたるあまたあり︑いとまのひまに︑ よ め る 事 お からのうた︹っくり{統仙雅)︺︑やまとうた滋獄事

ほ か

る か

ぎ リ

品 つ

め た

る (

坊 )

に︑侍従誠信の朝臣さはりありてとダまれり︑

のちにかのうたどもをみて︑みづからゆきてつく

く は へ て ( 幼 統 稚 )

り で

告 は

r

州内リふ℃九これに又っくりくはへよとす=め なかにみかはの権守惟成︑江山此地深

と云詩の客帆有月風千旦仙桐無人鶴一襲といへる

松 (

妨 統

仙 )

と︑内記源為憲がなぎさの隣といふだいをよめ し

む る

に ︑

⑤おいにけるなぎさのまつのふかみどりしづめるかげを

よそにやはみる

( m )

といへる︑ふたつの和すといへるわか

⑥ふかみどりまつにもあらぬあさあけのころもさへなど

しづみそめけむ(別)

﹃ 鼎

恒 集

︑ っ ﹄

長 T

じ よ

ω いきやまたこのうきしまにとまりなむしづみつ︑のみ

よ色ふればうし

( w m )

(此十首は延喜十六年四月廿二日わたくしごとにつ

きていせのさい︑にまかりたるとき︑すなはち寮頭

国中をつかひにて︑くに/¥の所ーなを題てよませ

た ま

ふ )

(5)

(またこれもうちにたてまつれる

) Z

(延喜御時うれへふみたちてそうせよとおぽしく

て女ばうの本につかはしける

) E

(延喜の御時︑みづし所にさぶらひしに︑っかさ

めしの比ともにをくれたりしかば︑御らんぜさせ

よと思ひて︑あるをんなくら人のもとにやりし)

( V )  

ω

み な 人 の は な の こ ろ も を き る 中 に ひ と り ぞ お い

( m }

しづみ

{ m V )

怒お除畿はてぬる

( I 6 m m V 2 )  

おほみゆきの後たてまつる歌

( V )

﹀﹀

t

〆 の ち

( m Z I l l i

ω ふなおかのみゆきの芯︑川︑はよるべなみしづむとわび

( I M m m v m )  

しものを思らん

おなし御時しづめるよしを思ひて︑あるくら人に

つかはしける

T m

m 智

えきの御ときにみづしどころにさぶらひけると

き︑しづめることをなげきであるひとにおくりは

べりける E 同いづくにもはるのひかりはわかなくにまだみよし野︑

( I 4 m E m m m m w m w v l )  

山はゆきふる

まずは﹃順集﹄の例について見てゆくと︑④は応和元年

(九六二︑勘解由長官藤原朝成に官途の停滞を愁訴した

長歌︒歌中波線部は︑

a あしねはふうきはうへこそつれなけれしたはえならず

閉 山

ふ 心

( 拾 遺 集 ・ 恋 四

‑ m

・不知/古今六帖・三:っき・問)

ー ム

を踏まえたもので︑︿憂き H 翠﹀という掛詞が﹁沈む﹂に縁

語としての機能を付与している︒⑤・⑤は夫元二年︑一条

大納言藤原為光が石山に詣でて七日間参龍した際︑為光の

息誠信は障りあって同行せず︑後に石山参龍中に人々が詠 b た詩歌を見て順にも歌をつくり加えよと勧めた折に︑順

が参酌した門人源為憲の一首と順の唱和歌︒⑤の為惣詠は

水面に映る松の緑に︑緑

M W

を着て﹁六位にてのぞみならず

侍りける﹂(続詞花集阿)己の影を見るという趣︒⑤の順

歌は詞書中に引かれた藤原惟成の﹁客帆有月風千旦仙洞

無人鶴一双﹂(新撰朗詠集・下・雑・山水・仰・惟成﹁江

(6)

山此地深﹂)の句と⑤の為憲詠とを和して詠んだものだが︑

﹁あさあけのころも﹂に五位の当色を表す﹁浅緋の衣﹂と

﹁ 朝

明 の

頃 ﹂

を ︑

i そむ﹂には﹁初む﹂と﹁染む﹂を掛

け ︑

﹁ 深

( 緑

) ﹂

﹁ 浅

( 緋

) ﹂

︑ ﹁

朝 明

の 頃

﹂ ﹁

( 日

が )

沈 み

む﹂という対義表現に加え︑﹁深繰﹂﹁浅緋﹂﹁染む﹂とい

う縁語関係を構築している︒

次いで﹃印刷恒集﹄の例だが︑∞は延喜十六年四月二十二

日︑私用で伊勢へ下向した際︑国々の名所を題として斎宮

に詠み贈った十首のうちの一首︒﹁浮島﹂の﹁浮﹂と﹁沈

む ﹂

を 対

比 さ

せ る

・ I ︒ ω ω は 類本と皿類本では同歌群中

に 置

か れ

て い

る が

︑ ω については V 類本の詞書内容を信じ

れば︑延喜十八年醍醐天皇の船岡行幸後に詠まれた歌とい

うことになる︒﹁船岡﹂に﹁船﹂の意を響かせて﹁沈む﹂

と縁語関係を形成するほか︑散位に沈む身を﹁わぴし﹂と

慨嘆している点などは ω

の 詠

風 に

通 じ

る も

の が

あ る

︒ 日

間 は

詞書中の用例だが︑重出歌および他伝本では﹁(またこれ

もうちにたてまつれる)﹂

( 1

4 )

︑ ﹁

( 詞

書 ナ

シ )

﹂ (

日 )

﹁ (

献 大

内 み

し が

歌 )

( m m )

︑﹁延喜の御時に︑みづし所

にさぶらひしに︑っかさめしの比ともにをくれたりしか ば︑御らんぜさせよと思ひであるをんなくら人のもとにや り

し ﹂

( V )

と︑内容に相違が見られる︒ちなみに﹃後撰

集﹄では﹁おなじ御時︑みづし所にさぶらひけるころ︑し

づめるよしをなげきて︑御覧ぜさせよとおぽしくて︑ある

蔵人におくりて侍りける十二首がうち﹂(春上

‑ M

)

と あ

る︒上掲

I m m m

が﹃後撰集﹄からの増補であるこ回︑

W 類本すなわち西本願寺本の後半部が﹁こと本のすゑある

をかける﹂(町出品伎の注記)増補歌群であることを勘案す

れば︑同の詞書用例を﹃順集﹄のそれと同一に扱うことは

で き

な い

以上︑前節で述べてきたことも含め︑順の① j

④ ・

⑤ ︑

印 刷

恒 の

ω 1 削の例から看取されるのは︑両者とも不遇沈論

の嘆きを率直にうたうことよりも︑言語的側面に興味の中

心を据えている点である︒両者のこうした歌作態度は︑た

と え

ば 元

輔 の

っかさたまはらで︑っかさめしのまたのひ︑うち

の右近がもとにつかはし︑

b としごとにたえぬなみだゃながれつ︑いとどふかくは

みをしづむらむ(元輔集

1 8

)

(7)

おの︑みやの太政大臣のいへの︑

て︑さくらのはなを︑しむ心よみはべりしに

C さくらばなそこなるかげにおしまる︑しづめる人のは いけのほとりに

るかとおもへば(同

1 9

)

自に

としごろ︑っかさえたまはらで︑ねの日しに人

のゐていではべりしに

d たにふかみしづむためしにひかれつ

h

おいぬるまつは

ひともてふれず(同

I m )

といった沈論詠嘆歌から看取されるそれとは明らかに質を

異にするものである︒順・明恒の作には元輔歌のような沈

痛な響きがさほど感じられない︒むしろ言語遊戯を駆使し

つつ詠歌することによって︑己の憂きをはらしていると

いった趣である︒いわば︑自身の不遇・沈論を和歌におい

て戯間化しているところに︑両者の共通性が認められると

いってもよいだろう︒

そしてさらに︑上掲⑤の為憲詠︑⑤の順詠に立ち返って

みると︑両詠は明恒の︑

いり江の松

( I

E

亭子院西川におはしましけるに︑江老松といふ事 をつかうまつりける E

えのまつおひたり Rg

いり江のまつおいたり 2

山間ふかみどりいりえの松もとしふればかげさへともに

お い 福

本 )

i J l

おにけるかな

( I

羽 E

m m m w m 油 化 V 印)

的おいにける松もしるらんあゆかはのみゆきもかくはあ

らずゃありけん

( I

羽 田

m w

幻 v m

)

の二首を踏まえている可能性がきわめて強い︒右の明恒歌

は延喜七年(九 O 七)九月十日に催された宇多法皇の大堰

川行幸に際して詠まれたものだが︑老松を長寿の瑞相とし

て捉え︑古の御幸に思いを馳せた両歌の表現を︑為憲は我

が身の沈論に引きつけて摂取したのではなかろうか︒ある

いは︑為憲は為光の石山参詣を亭子院の大堰川行幸に見立

て︑あえて印刷恒の行幸和歌を模した歌を詠んだのではない

かとも推察される︒順歌の⑤についても︑明恒の仰と比較

すると﹁ふかみどり﹂を初句に据え﹁松﹂を詠んでいる

点︑﹁陰さへ﹂﹁衣さへ﹂という類似の言い回しが見られる

点において︑やはり拐恒歌を踏まえたものと考えてよさそ

う で

あ る

(8)

ちなみに︑小野泰央氏は⑤・⑤の二首について︑﹃文選﹂

巻二十一・詠史所収︑左大沖﹁詠史詩八首﹂中に見える︑ e

欝轡澗底松離離山上苗以エ彼径寸韮‑蔭ニ此百尺

候‑世胃腸=高位︼到倒制 U

判 倒

リ (

以 下

略 )

からの影響を指摘されてい必︒首肯すべき見解であろう︒

この故事に加え︑上掲拐恒歌をも念頭に置きつつ詠まれた

為憲詠と︑その典拠を喝破し︑なおかつ種々の言語遊戯を

施しつつ唱和した順詠︒まさに師弟ならではの呼吸と︑実

力においては決して門人にひけを取らぬ順の面白がそこに

窺 わ

れ よ

︑ っ

やや論旨からは逸脱したが︑﹁沈む﹂の用法に話を戻せ

ば︑順・印刷恒の作例はその趣向に等質性が認められ︑順は

期恒歌を規範としながら上掲の歌文表現を形成していった

こ と

を 予

測 さ

せ る

︒ 順

は 印

刷 恒

の 歌

さ ら

に は

印 刷

恒 そ

の 人

に 対

して︑やはり特別な意識を持っていたように思われるので

あるが︑この点をさらに裏付けるべく︑次節以降では他の

順歌についても同様の検討を加えてみたい︒ まずは﹃順集﹄所載歌の三分の一強を占め︑また順の歌 歴の上では大半が初期の作とみられる特殊歌群から見てゆ き

た い

か は

⑦よの中はつねならなくになぞもかくつれなき人を恋わ

たるらん(順集・続組︑物名歌)

書陵部蔵﹁続小草内和歌﹂(旧・叫)の巻末には﹁以他

d

本自是奥入了﹂の注記のもと︑天暦十年(九五六)十二月

十日(二日カ)庚申夜︑藤原輔相を追悼して詠まれた物名

歌三十四首が増補されている︒注記本文に記された﹁他

本﹂に該当する伝本は現存せず︑その性格も不明であるこ

とから︑本歌群の信愚性を疑問視する向きもある︒が︑本

歌群を通覧すると他の順詠に通じる特徴的な表現が随所に

見出されることから︑やはり本歌群は順の手になるもの

と 考

え て

よ い

で あ

ろ う

さて︑当該歌は﹁かはづ﹂の題を隠しつつ﹁男女の仲は

(9)

所詮無常なものなのに︑どうしてこのようにつれないあの

人を恋い続けているのだろうか﹂と詠じたもの︒上二句の

表現をも含め︑全体的に﹃万葉集﹄の︑

カクシツツワガマツシルシア日一フムカモ恒レ

K 仏

民 廿

L V

I I

I V 比

甘 p v

b H

﹄'

f

如 是 為 乍 吾 待 印 有 鴨 世 人 皆 乃 常 不 在 国

( 巻

十 一

・ 正

述 心

緒 ・

悶 )

n L

 

からの影響が色濃く窺われる︒ただし︑下旬﹁つれなき人

を恋わたるらん﹂という詞句は︑おそらく

仰なみだがはしのび/¥にながれつおつれなき人をこひ

や糾剖叫ん(明恒集

I m

m 部)

問ちどりなくさほの川霧たちかへりつれなき人をこひわ

剖引かな(古今六帖・一・きり・側・みつね成本)

のいずれかに依拠しているのではなかろうか︒間は I

類 の

光俊木︑担額の書陵部丙本

( m ‑ m )

ともに他本からの補

遺歌群中に位置している︒ ω

は 現

存 の

﹃ 印

刷 恒

集 ﹄

に は

見 え

ない出血(未詳歌で︑﹁或本﹂が作者名を﹁みつね﹂とする

根拠は不明である︒したがって︑問・仰ともに期恒詠と明

断しうる確証はないが︑少なくとも当時においては印刷恒詠

として享受されていたものと考えてよいであろう︒当該歌

が 印

刷 恒

集 歌

と ﹃

六 帖

﹄ 所

載 の

﹁ 或

本 ﹂

印 刷

恒 歌

の そ

れ と

表 現

的に密接な関連を有していることは注意されてよい︒

紅葉

③山のぺもみちもみえずぞふりしける秋はてがたの木が

( 順

集 ・

続 刷

︑ 物

名 歌

)

らしのかぜ

初二句に﹁もみぢ﹂の題を隠し︑秋の終わりに吹く木枯

の風によって山路には道も見えぬほど紅葉が降り敷いてい

る情景を詠じた歌︒第二句可道も見えずぞ﹂という歌句は

用 例 未 見 で あ る が ︑ そ の 類 例 と し て は ︑

側きりくもりみちもみえずもまどふかないづれかさをの

ヤ止がなるらむ(朗恒集

w m )

の 例 を 挙 げ る こ と が で き る ︒ 右 の 印 刷 恒 集 歌 は 霧 が 山 路 を 隠

すという発想だが︑﹁道も見えず:・﹂の詞句を第二句に据

え︑自然現象によって﹁山路﹂が隠されてしまう状況を詠

じている点︑当該歌との影響関係を想定しておいてもよさ

そうである︒もっとも︑仰は同類本すなわち西本願寺本系

の伝本のみに存し︑しかも同系では増補歌群中に置かれて

いるものだが︑かといって仰が朗恒詠であることを否定す

(10)

る根拠は今のところ見出し得ない︒上掲⑦のようなケ l ス

も含め︑以下とくに問題のない限りは︑﹃印刷恒集﹄所載歌

をひとまず期恒の自詠と見なすという立場をとりつつ考察

を 続

け た

い ︒

と こ

な つ

⑨ひきかたの月ひとおとこなつかしきさまを雲ゐにみる

ぞかなしき(順集・続出︑物名歌)

当該歌の表現をめぐって︑民一昨では万葉語﹁月人男﹂

の摂取と﹃万葉集﹄そのものとの関わりについて論及した

が ︑

そ の

際 に

仙ひきかたの月人おとこひとりぬるやどにないりそ人の

名 た

て に

( 印

刷 恒

集 I

m m m w

明 v m

)

1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

‑ ‑ ー

ト 十

│ い

a l i a d

こ の 秋 詩

g ひきかたのつきひとをとこをみなへしあまたあるのべ

移 ろ ふ な ゆ め ( 什 巻 本 )

をすぎがてにする(昌泰元年︹八九八︺秋亭子院女郎

花令・︹八番︺右・十巻本日/新撰万葉集・下・女郎

オ フ ト モ ノ ベ

歌・問︑初旬﹁夕方之﹂︑四句﹁生砥裳野辺緒﹂)

の二首に注目し︑当該歌の詠出に際して順が強く意識した

σ 〉

h  立 ,

秋 Z 、

風喜 之 ノ

フネコギワタル伊持

K

L V

L V

P

舟 静 度 月 人 壮 子

( 万

葉 集

・ 巻

十 ・

秋 雑

歌 ・

開 )

n L

 

などの万葉歌よりも︑むしろ平安時代に詠まれた上掲二首

であったのではないかという結論を提示した︒ ω は ﹃ 新 撰

万 葉

集 ﹄

所 載

の ︑

応仲仰伊恥

l l

﹄ド

k v

b r

ヒ マ ヨ リ

・ l

独 寝 屋 門 之 自 隙

キヨキユプへ品アマノガハ

清 タ 天 漢

カグウカプラム

景 浮 濫

( 下

・ 恋

・ 叫

)

とも表現的に親しく︑両詠の聞に何らかの影響関係が存し

て い

た こ

と を

窺 わ

せ る

g は

作 者

未 詳

の 歌

で ︑

印 刷

恒 の

﹁ を

みなへしふきすぎてくるあきかぜはめにはみえねどかこそ

しるけれ﹂(左・十巻本日/古今集・秋上・捌・明恒)と

番わされているが︑勝敗は不明である︒十巻本と廿巻本と

では下二句の本文が異なるが︑いずれにせよ詠者の関心は

あくまでも﹁ひきかたの月人男﹂という表現そのものの新

奇さと﹁女郎花﹂との対義性にあったとみておいてよかろ

う︒﹁ひさかたの月人男﹂の歌句例は平安和歌では上掲三

首を挙げるにとどまる点︑当該歌の表現が

ω ‑ g

の い

ず れ

かに依拠した可能性は強いとみてよい︒もっとも︑順が g

H

往月哉

ナミダノキシニ

涙之岸丹

(11)

の歌合歌のみを念頭に置いて当該歌をものした可能性もな

くはないが︑ともあれ当該歌と印刷恒歌との聞に表現的共通

性が認められることは事実であり︑また注目すべき点でも

あ ろ

う ︒

⑬ねをふかみまだあらはれぬあやめぐさ人をこひぢにえ

こそはなれね(順集・口︑あめっちの歌・夏)

上掲物名歌とほぽ同時期の成立とみられる﹁あめっちの

歌﹂四十八首中の一首︒﹁現れ﹂に﹁洗はれ﹂︑﹁こひぢ

(小泥こに﹁恋路﹂を掛け︑﹁根が深いのでその根がまだ

地上に現れない││菖蒲草が小泥に漬かって離れられない

ように︑愛しい人を思う恋路に足をとられて抜け出すこと

ができない﹂と詠んだ一首︒﹁現れ﹂﹁洗はれ﹂の掛詞自体

斗品

j 風ふけば浪打つ岸の松なれやねにあらはれてなきぬぺ

らなり(古今集・恋三

‑ m

・不知︑或人云人麿)

を先駆とするものだが︑﹁菖蒲草﹂との配合では︑

l I

l l

1 1

‑ ‑

‑ ‑

h

ね片ド

│ l

i l

i ‑

‑ ‑

‑ ‑

ω ほと﹀ぎすけふとやしらぬあやめぐさめにあらはれ てなきもこぬかな(朗恒集

w m )

ω 五月雨の玉にぬくひをあやめ草ねにあらはれてなきぬ

p

ぺ き

な り

( 印

刷 恒

集 江

町 田

悦 /

古 今

六 帖

・ 一

・ あ

や め

さ ‑ m

・ 拐

恒 )

といった蔚恒歌との関係に留意される︒ちなみに︑後撰 j

拾 遺

時 代

に か

け て

詠 ま

れ た

権大納言ぴわ殿にかよひはじめて四日といふに

k わぎもこがねやのつまなるあやめ草ねもあらはれてけ

さやみゆらん(朝忠集 I

お 江

田 )

五月五目︑ある人のつまにしのびて︑いで¥物

いひて︑あやめぐさに書て I

わ が

や ど

の ︐

ワ ど

の み

あ ら

ず 制

引 制

割 削

剖 刻

削 凶

利 引

か つ

れしからまし(為信集・羽)

五月五日︑郭公の心を

m けふとてや山ほと

h

ぎすあらはれてあやめのねさへき

けばなくらん(輔罪集

‑ M

)

の例は︑朝忠詠 k との表現的関連がとりわけ密接な為信詠

ー を

除 け

ば ︑

ω もしくは仰の受容例と見なしうるものであ

る︒当該歌上旬の場合においても︑右と同様これら二首か

(12)

らの影響を認めてよいのではなかろうか︒

また︑当該歌の第四句﹁人をこひぢに﹂についてである

が︑この詞句を詠み込んだ先醗歌としては︑ ω 五月雨にみだれそめにし我なれば刈剖刻制叫ぬれぬ日

ぞなき(興恒集 I 即日山田沼町部制/古今六帖・一・

五月・卯・拐恒)

n われやうき人をこひぢになりぬればあはぬとだえに身

をぞなしつる(延喜五年四月廿八日右兵衛少尉貞文歌

合・会恋・左・補

1 )

の二首が確認される︒ ω は﹃古今六帖﹄所載の出血ハ未詳

o 五月雨に苗ひきううるたごよりも人をこひぢに我ぞぬ 歌 ︑

れぬる(一・五月

‑ m )

と歌句の類似を見せるが︑右歌が仙の異伝であるとは考え

難い︒おそらく ω は六帖歌 o と﹁みちのくのしのぶもぢず

りたれゆゑにみだれそめにしわれならなくに﹂(古今六

n γ h M 4

帖・五・すりごろも・出/古今集・恋四

‑ m

・ 源

融 ︑

四 句

n d r i  

﹁みだれむと思ふ﹂)から表現受容を試みることで一首を

ものしたのではないかと思われる︒順が ω ・ o

の い

ず れ

依拠して当該歌下旬の表現を構築したのかは判然としない

が︑﹁人をこひぢに﹂の歌句例が他の同時代歌人訴には見

られず︑また上述したごとく上旬に明恒歌の影響が看取

さ れ

る こ

と な

ど を

勘 案

す る

と ︑

ω の拐恒歌を念頭に置いた

と い う 可 能 性 は 少 な く な い と 思 わ れ る ロ

その他の特殊歌群についても該当例を求めると︑﹁襲六

盤歌﹂十五首には所見ないが︑﹁碁盤歌﹂五十首からは次

の 五

首 を

挙 げ

る こ

と が

で き

る ︒

⑪たのみづのふか︑らずのみ︑ゆるかなひとのこころの

あさくなるさま(順集・肝)

延喜十七年界風和歌︑秋

おなじ斎院︑もみぢかはにおちたり

同 み

a

のおものふかくあさくも見ゆるかなもみぢのいろ

ぞふちせなりける(鼎恒集

I m E m

凹 m

w m

仰 V

羽 /

拾 遺

集 ・

雑 秋

・ 四

・ ︹

朗 恒

︺ )

ー ム

﹁⑫ふりがたきこころのつねにこひしきをかりにもひとの

一みぬはかなしな(順集

‑ m )

(13)

一同おふれどもこまもすさめぬあやめぐさかりにも人のこ

{ 叫 が 料 ︑ 閉 じ ﹁ さ ( 鼎 匿 集 I 叫

Hm

凹沌

W 臼 V 別/拾遺 一

a n

μ

﹁集・恋二・市・拐恒)

⑬なつくさのふかきねぎめをたづねっ︑ふかくもひとを

たのむころかな(順集・但)

聞かれはてむことをばしらでなつくさのふかくもひとを

剖州制ける州制(拐恒集印刷︑下旬

I m

﹁ か

り そ

め に

た に

と ふ

人 そ

な き

﹂ ︑

I 加﹁ふかくも人のおもほゆる

かな﹂︑口町﹁ふかくも人をおもひけるかな﹂︑田町

﹁ふかくも人のおもほゆるかな﹂/古今集・恋四・

附・明恒﹁深くも人のおもほゆるかな﹂/古今六帖‑

f l  

六・夏草・日﹁ふかくも人をたのみけるかな﹂)

ηU

⑪うゑしにもあはずなりにしをやまだにあきのかりにも

こぬゃなになり(順集・問)

たかふる

I l

l ‑

浩ゃまだの

( V γ

仰おりたちてうゑずはありとも乏しム守もにあきのかりに

( 期

恒 集

w m v m )

はあはむとぞおもふ

r

一一ー‑^‑ーー

参 ^ 

v '  

ひでにけり︹日

) I

l l

l ‑

P あしひきのやまだのいねもひいでい綜け?っゑしにあ

凶削わがパ引に U 刈(家持集

I m E m )

⑬たれによりなげくとかみるかまどやまえもとりあへず

まどふこ︑ろを(順集

‑ m )

同たれにより思ひみだる︑心ともしらぬぞ人のつらきな

りける(期恒集

v m E m

/ 延喜十三年三月十三日亭子

院歌合・恋・左・十巻本位・明恒/古今六帖・四・ざ

nh

u 

ふの思・日)

n L

 

以上︑本節では﹃順集﹄所載の特殊歌を中心に拐恒歌と

の影響関係を探ってきたが︑﹁物名歌﹂﹁碁盤歌﹂を除くと

鼎恒歌の受容例と思しき歌はさほど多くはない︒むしろ︑

﹁あめっちの歌﹂の場合は﹃古今集﹄﹃後撰集﹄所載歌や

﹃古今六帖﹄所載の出典未詳歌からの摂取例が多く︑上掲

⑬にみるケ l スもそうした先行表現の受容例の一端を示す

にとどまるものなのかもしれない︒だが︑質的に見れば︑

順は鼎恒歌の表現を摂取することにより︑同時代和歌には

(14)

殆ど類例を見ない特徴的な詠風を創出し得ている点もまた

事実なのである︒換言すれば︑明恒歌の中でもとりわけ個

性的な表現が順の歌作へと流れ込んでいるとさえいえる︒

ちなみに︑滝沢貞夫氏は印刷恒の歌作態度について︑﹁詠

歌対象そのものを具体的に詳述しようとせず︑技巧を凝ら

して外側からその印象を追い求め︑醸成して行く﹂詠法

で︑﹁この冷静さが︑意表をついた着想や︑奇抜な機智・

瞥句を生み出し︑虚にして実をうがつ歌の骨格となり得て

いる﹂と述べておられる︒また︑片桐洋一氏は印刷恒歌の

表現について︑﹁古歌のことばや当時流行していた歌語︑

あるいは自分が得意とする表現パターンを軽口的に駆使

し︑枕詞・序詞・縁語・掛詞などの和歌修辞で飾り立てる

ことを好む﹂と︑その具体的特徴を明らかにされている︒

印刷恒歌のこうした技巧的・遊戯的ともいえる歌風は︑順歌

のそれと軌を一にするものといってよいであろう︒たとえ

ば ︑

﹃ 印

刷 恒

集 ﹄

に は

﹁ 蔓

斑 ﹂

﹁ 斑

鳩 二

毛 ﹂

﹁ 木

綿 髪

﹂ ﹁

足 斑

﹁鹿毛斑﹂﹁青﹂﹁糟毛﹂の七種の馬毛の名を詠んだ物名歌

ー ム ワ

i 1 ょ

が収められている

( V

4 1

4 V

5 1

5 )

が︑こうした意表

γlょ円λ

λ ω

l

をついた趣向性が︑順の自歌合と思しき康保三年(九六 六)﹁源順馬毛名歌合﹂にそのまま踏襲されていることは 説明を要しまい︒この馬毛名歌合をも含め︑上掲特殊歌 を見る限りにおいて︑順はどうやら印刷恒の遊戯的・技巧的 な歌風をある面では庶幾し︑またそれにアレンジを加えつ つ自身の詠作手法を確立していったものと推察される︒さ らにいえば︑順にとって印刷恒は︑藤原輔相と同様︑遊戯歌 の先達として畏敬の念を起こさせるような存在であったの で

は な

い だ

ろ う

か ︒

ところで︑上述してきた順の歌作態度は︑たとえば︑

( 右

近 少

将 義

孝 朝

臣 と

︹ か

? の

ぞ う

{ 幼

統 仙

稚 )

︺ 橘

正通と囲碁うちて︑やまとうた十首をつのる︑正 つぐのふひ(仙推)きたりてこふ{仙︺

通 ︹

ま け

て 窃

統 仙

稚 )

︺ つ

ぐ の

ひ ︑

せ め

て が

た ら

ふ 一

き た

り ・

﹄ ふ

{ 雅

}

に︑四首をあたふ)

秋 月

⑬ひさかたのそらさへすめるあきのつきいづれのみづに

やどらざるらん(順集・邸︑天禄二年︹九七ニ l 天

延 二

年 ︹

九 七

回 ︺

)

みづにやどれる月を

側ひきかたのあまっそらなる月なれどいづれのみづにか

(15)

げなかるらん(鼎恒集 11Hm 凹

m w

町 V 印/拾遺

n L r d  

集・雑上・叫・明恒)

のような私的な代作歌にも見出されるが︑それにとどまら

ず︑歌合歌や扉風歌などいわゆる晴の歌においても同様の

指摘が可能である︒以下︑次節では紙幅の許す限り検討を

加 え

て み

た い

四 ︒

山 ぷ

⑪春ふかみ井出の川浪立かへりみてこそゆかめ山吹の花

(順集・市︑天徳四年︹九六 O ︺内裏歌合歌/拾遺

集・春・臼・順)

順が専門歌人として確たる地歩を占める契機となった天

徳四年三月三十日内裏歌合の出詠歌︒本歌合において当該

歌は兼盛の﹁ひとへつ︑やへ山ぷきはひらけなむほどへて

にほふはなとたのまむ﹂(同歌合・八番・右・廿巻本国)

と番わされ勝を収めている︒とかく理のまさった印象を受

けがちな順の歌作の中では︑比較的おおらかな詠風を呈し ているが︑その表現構築に際しては︑おそらく︑

海 ふ か み ( W )

仰春ふか︿えだきしひちて神なびのかはべにさける山ぷ

剖州凶剖(鼎恒集

I m E U

即日町制/古今六帖・六・

i l  

山ぷき・印・鼎恒︑初旬﹁春ふかみ﹂) 3 に

{ W }

花の(他本) 仰なを︑りて見て出制刷州制柑いろをちりなんのちは何

にかはせん(鼎恒集

I m E m m 叩

一 日

制 )

の二首が念頭に置かれていたものとみてまず間違いないで

あろう︒このように︑一首の詠作に際して複数の印刷恒詠か

ら個々の表現を摂取したと思しき例は上掲⑮にも見られ︑

拐恒の歌に対する順の関心度の高さを窺わせる︒

次に界風歌について見てゆくと︑村上朝に詠進されたと

みられる五度の扉風歌からは該当例を探し得ないが︑円融

朝の夫元二年(九七九)﹁宣旨にてたてまつる御扉風歌﹂

二十首においては拐恒歌との影響関係が顕著に認められ

る︒以下にその例を挙げてみるロ

はるの訟のかすめるにむめのはなあり︑こたかす

ゑたるひとゆく おる(坊仙) ⑬むめのかをかりにきてみみ人ゃあるとのぺのかすみは

(16)

たちかくすらん(順集・付/拾遺集・雑春・似・順︑

h M 1

初二句﹁梅がえをかりにきてをる﹂︑結句﹁たちかく

す か

も ﹂

)

本扉風歌の表現的特徴については既に旧両)で触れたが︑

こ こ

で は

印 刷

恒 歌

と の

関 連

に 焦

点 を

あ て

て 論

じ て

み た

い ︒

⑬は諸本とも初二句の本文が乱れているが︑﹃拾遺集﹄

の 本

文 を

原 態

に 近

い も

の と

想 定

す れ

ば ︑

﹁ 狩

に ﹂

と ﹁

仮 に

﹂ を

掛けて︑野辺の霞が梅花を遮り隠す理由について﹁かりに

来て﹂梅が杖を手折ってゆく人がいるからだろうかと付度

した歌ということになる︒霞が花を隠すという発想自体は

平安和歌の常套であるが︑梅花を対象とした例は存外少な

く ︑

先 行

詠 で

は ︑

延客十五年故斎院砕風歌

{ m )

おなヒ十五さい院の御醇風のうた容

( V )

襲 擁 護 旗 手 た

h

M W

かをとめでたれおらざらん梅のはなあゃなしかすみた

引 な 利 引

υ そ(期恒集 I 回目

m m m w m v

幻/拾遺

集 ・

春 ・

日 ・

鼎 恒

/ 古

今 六

帖 ・

六 ‑

む め

・ 叩

・ ︹

朝 恒

︺ )

q かをとめてをりこそしつれ梅の花春の霞は立かくせど

春近江御息所周子歌合・梅・

l )

も (

︹ 延

長 八

年 以

前 ︺

の 二

首 を

挙 げ

る に

と ど

ま る

q は

仰 の

印 刷

恒 歌

の 焼

き 直

し と

もいうべき歌で︑表現そのものは明恒歌よりも当該歌に近

しい︒確かに︑当該歌の詠作に際して順が q

の み

を 念

頭 に

置いていた可能性もないではないが︑ここはむしろ︑梅花

を 隠 す 霞 を ﹁ ぁ ゃ な し ﹂ と 非 難 し た 印 刷 恒 歌 に 対 し て ︑ 春 の

野辺を覆いつくす︑いわば野の統括者としての霞の心情を

思いやって詠まれたのが当該歌であったと考えておくべき

で は

な か

ろ う

か ︒

(まつのきにふぢか︑りたり︑をとこをむなむれ

ゐたり︑あるはをりてゆく)

⑬松風のおとにき︑つるふぢなみはをりつ

h

か へ

る な

こそありけれ(順集

‑ m )

@むらさきのふぢさくまつのこずゑにはもとのみどりも

みえずぞありける(加/拾遺集・夏・出・順)

⑬の上三句は﹁藤波﹂の波音を松績に聞き紛う意と︑評

判 に 聞 い て い た ﹁ 藤 被 ﹂ の 意 を 重 ね て い る が ︑ ﹁ 松 風 の 音 ﹂

すなわち松額そのものを詠んだ例はあっても︑それを

(17)

﹁(音)に聞﹂くと続けた例は珍しい︒この表現は平安和

歌 で

は 他

に ︑

(ふかやぶ︑ひとざねぐして︑だいみつを品川首

づ︑よみ侍けるに︑人しれぬこひを)

倒あふことをいまや

/ k

h とまっかぜのをとにのみやは

剖叶わたりなん(鼎恒集 I 制日制)

の一首を見出すに過ぎず︑順は⑬の詠作に際して右の朗恒

歌を念頭に浮かべていた可能性が強そうである︒また︑

@は松の緑をすっかり覆いつくすほどの藤花の見事な咲き

ぶりをうたうが︑これと類似の表現・趣向を持つ歌として

側剖削剖剖叫いろしこければ判引の花剖寸州刷出引もう

t

Q U

つ ろ

ひ に

け り

( 印

刷 恒

W げ

V η

︑延喜十六年宇多法皇

E

4 4 0 (

忽)

石山御幸扉風障子歌/拾遺集・雑春

‑ m

・ 不

知 )

の一首が挙げられる︒右歌は松と藤の色彩を表すのに

﹁紫﹂﹁緑﹂の両語を同時に詠み込み︑しかも松を圧倒す

る藤花を主題としている点において当該歌の先躍をなして

いる︒もっとも︑両詠とも発想的には貫之の﹁藤の花もと

より見ずはむらさきにさける松とぞおどろかれまし﹂(貫 之 集 I

問 ︑

延 喜

十 九

年 ︹

九 一

九 ︺

茎 呂

御 息

所 界

一 風

歌 )

と 親

しく︑当該歌はこの歌からも表現摂取を行なっている可能

性 が

強 い

が ︑

上 述

し た

よ う

に ﹁

紫 の

: ・

藤 ﹂

﹁ 松

の :

・ 緑

﹂ と

いう枠組によって一首を構築するという手法自体は仰の期

恒 歌

か ら

学 ん

だ も

の で

は な

い だ

ろ う

か ︒

( 七

月 七

日 ︑

を む

な に

は に

お り

ゐ て

た な

ば た

ま っ

をとこ(坊仙雅)まがき{均液仙稚)

る ︑

議 滋

溺 き

て 援

問 ︒

絞 綴

の も

と に

た て

@たなばたにけさはかしつるあさのいとをよるはまつる

( 順

集 ‑ m )

と人はしらずや

言 う

ま で

も な

く 当

該 歌

の 上

三 句

は ︑

印 刷

恒 の

側たなばたにかしつるいとのうちはえてとしのをながく

恋やわたらん(明恒集 I 担江川田辺町側/古今集・秋

上・問・朝恒)

の 一

首 に

依 拠

し て

い よ

う ︒

比 咋 し ( 坊 統 仙 稚 ) 秋のよ︑月あかき演のもとにしかたてり

月をあかみ(坊統仙稚)

@ 務

︑ 念

あ か

⁝ 議

こ よ

ひ ぞ

か ず

は か

ぞ へ

つ る

つ ね

も し

か た

(18)

つ木とはみつれど

( 順

集 ‑ m )

に し

て も

初旬について他系統の﹁月をあかみ﹂の本文を

採 用

す れ

ば ︑

M W

月をあかみおつるもみぢのいろもみゆちりおとのみは

きこえぎりけり(拐恒集

w m )

からの摂取が予想されよう︒﹁月をあかみ﹂の歌匂例は平 安和歌では右の二首を見出すに過ぎ刊︑順・朝怪両詠の

表現の親しさが改めて看取されよう︒

以上一︑本節では順の歌合歌・扉風歌について朝恒歌との

影響関係を探ってきた︒歌合歌に関しては⑪の一首を挙げ

るにとどまったが︑順の歌合出詠歌の総数自体が五首︑撰

外歌一首であることを考慮すれば当然の結果であろう︒扉

風歌では天元二年内裏扉風歌に限ってその傾向が顕著に認

められたが︑これは本扉風歌の詠作に際して順が印刷恒歌を

規範とし︑その和歌表現を意欲的に摂取しようとした歌作

態度のあらわれとみてよいであろう︒ではなぜ︑本扉風歌

に集中して見られるのであろうか︒

本昇風歌が詠進された夫元二年当時︑順は散位九年目に して任官への焦燥感をいよいよ募らせていた︒第一節で挙 げた③﹁ほどもなきいづみばかりにしづむ身はいかなるつ みのふかきなるらん﹂の一首は︑本界風歌の詠進に際して ﹁おほせごとのたぶる蔵人につかは﹂したものである︒右 歌にみる﹁いづみ・:に沈む﹂の詞句が︑実は上掲拐恒の ω

から摂取されたと思しいことは先述したが︑晩年の順がこ

の詞句をキーワードのように用いていたのは︑やはり自身

と同様︑前和泉国司のまま沈論を余儀なくされた先輩歌人

印刷恒に対する共感が心底にあったからだと思われる︒第三

節で述べたように︑順はかねてより印刷恒を遊戯歌の先達と

して評価していたふしがあるが︑晩年はさらに明恒その人

への敬慕の念も加わり︑自ずと弱恒の歌に親しむ機会が多

くなっていったのかもしれない︒ゆえに︑本界風歌の詠作

に お

い τ 印刷恒歌の表現が多く摂取されることとなったので

は な

か ろ

う か

ちなみに︑順最晩年の作となる永観元年(九八三)藤原

為光家障子歌では︑明恒歌との直接的な影響関係は窺い得

ない︒本歌群に見る十一首の歌はもはや老境ともいうべき

淡々とした詠みぶりで︑明恒歌に限らず先行表現を巧みに

(19)

摂取しつつ新たな歌境を開拓しようという気概は殆ど感じ

られない︒おそらく︑天元三年(九八

O )

に よ

︑ づ

ゃ く

能 登

守に任ぜられ離京した時点で︑順の創作意欲はその痩躯と

ともに衰えていったものと思われる︒

本稿では源順と凡河内廓恒との和歌表現の関連性を順の

側から探るとともに︑印刷恒その人に対する順の意識につい

ても考えてみた︒その結果として︑次のようなことが指摘

さ れ

た ︒

付順が沈論愁訴歌などでしばしば用いている﹁いづみに

沈む﹂という詞句は︑明恒歌山から摂取された可能性が

kh

a

4 0 ユ相 自

1V

同順と印刷恒の作品には﹁沈む﹂の語が多出するが︑その

用法を比較すると︑ともに遊戯的・技巧的側面から同用

語を捉え︑ある種の表現効果をねらおうとする意図が共

通して認められる︒順の沈論愁訴歌の詠法は︑おそらく

印刷恒歌のそれを規範としているのではなかろうか︒

伺順の特殊歌には印刷恒歌からの表現摂取を予測させる歌 作がまま見られるが︑それは遊戯性の強い期恒の詠風を 庶幾していた順の歌作姿勢のあらわれと考えられる︒ま た︑順は輔相のみならず蔚恒に対しても遊戯歌の先達と して畏敬の念を抱いていたのではなかろうか︒ 同その他の順歌においても同様に朗恒歌からの影響が看

取されるが︑とくに天元二年内裏扉風歌ではその傾向が

顕著であり︑ハ門口の指摘とあわせて順が散位時代とくに

印刷恒の歌作に親しんでいたことを窺わせる︒晩年の順は

自身と同様﹁ h づみに沈む﹂という辛苦を味わった朝恒

に対して︑深い共感をも抱いていたように思われる︒

以上のように︑順と印刷恒についてはその経歴のみならず

和歌表現の面においても多くの共通点が見出された︒しか

しながら︑両者は元来その文学的素地を全く異にしている

ということもまた忘れてはならない︒印刷恒は和漢兼作の作

品なども残してはいるが︑それはあくまでも余技であり︑

伎はやはり生粋の歌詠みであったといってよかろう︒一

方︑順は歌人としての業績も少なくないが︑彼の文学の原

点 は

善 一

問 ︑

つ ま

で も

な く

漢 詩

文 に

求 め

ら れ

る ︒

印 刷

恒 が

﹁ 時

折 す

ばらしい名歌を物﹂したのに対して︑順がさしたる名歌

(20)

を残し得なかった理由は︑そうした文学性の違いに根ざし

ているのではないだろうか︒

なお︑今回の考察では﹁源順百首﹂と印刷恒歌との関連に

ついて言及する機会を逸したが︑私見では若干の影響関係

は認められるものの︑特筆すべき現象とは見なし難いよう

︹ お

)

である︒また︑本稿で掲げた

ω i 仰

の 印

刷 恒

歌 の

う ち

︑ ω ・

ω ‑ m

・帥・仰・仰の家集所載歌六首が﹃古今六帖﹄に採

られていることも興味深いが︑その点については他日を期

して改めて考察したい︒

( 1 ︑ 主

)

以下︑﹃順集﹄の本文は西本願寺本の複製である﹃西本

願寺本三十六人家集﹄およびその断筒を網羅した小松

茂美氏﹃古筆学大成﹄に拠り︑欠脱箇所は宮内庁室田陵

部 蔵

﹁ 歌

仙 集

﹂ (

叩 ・

2 )

を用いた︒歌番号は﹃私家集

大成﹄中古 I

﹁ 順

H ﹂のそれに従い︑私に清濁︑句読

点を施し︑適宜異文本文を注記した︒また︑各系統を

代表する諸本の名称は以下の略称をもって示した︒冷

泉家時雨亭文庫蔵坊門局筆本(﹃冷泉家時雨亭叢書第十

六巻平安私家集一ニ﹄平

7 朝日新聞社の影印に拠

る )

・ :

坊 ︑

書 陵

部 蔵

﹁ 統

小 草

内 和

歌 ﹂

( 肌

・ 必

) :

・ 続

正 保

版 本

歌 仙

家 集

・ :

仙 ︑

品 普

段 部

蔵 ﹁

御 所

本 三

十 六

人 集

( 叩

・ ロ

) :

雅 ︒

( 2 )

藤原季孝下総守任官の時期ははっきりしないが︑﹃小右

記﹄では寛和元年(九八五)正月二十二日粂に﹁下総

守季孝﹂︑同年三月二十二日粂に﹁季孝朝臣﹂︑同年三

月二十七日条に﹁播磨介季孝﹂とあり︑﹃日本紀略﹄で

は同年四月五日条に﹁播磨介藤原李孝朝臣﹂︑寛和二年

正月粂に﹁前下総守藤原李孝﹂とある(模野廃造氏

﹃平安人名辞典│長保二年│﹄平5高科書唐を参

照)︒﹃小右記﹄の官職記載を信ずれば︑季孝の下総守

任官は高島氏注 4 論文が指摘するように天元三・四年

( 九

八 O i

ごということになろうか︒また︑坊・

続・仙本では﹁中納言中宮大夫﹂とあるが︑これは元 中宮大夫 来﹁中納言﹂などとあった傍誓が︑本行部分を残した

形で本行に取り込まれた転化本文と考えられる︒猪木

は﹁中宮大夫﹂のみの本文だが︑おそらく本行の﹁中

納言﹂に代って傍誓本文を採用した形であろう︒順の

散位時代︑中宮大夫の職にあったのは藤原為光で︑天

延元年(九七三)七月一日より天元二年(九七九)六

月三日まで在職(公卿補任)︒先の季孝下総守任官の時

参照

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