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近世後期の思想家と身分制度

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近世後期の思想家と身分制度

著者 青木 孝寿

雑誌名 紀要

36

ページ 27‑33

発行年 1981‑12

URL http://id.nii.ac.jp/1118/00000779/

(2)

近世後期の思想家と身分制度

はじめに

日本の近世後期から末期の思想家たちが︑幕藩体制の動揺・解体過程におい

て︑その拠って立つ基盤としての近世社会についてどのような思想的認識をもっ

ていたかを考察することは︑近世社会そのものを内在的に把墟するために必要な

検討と考えられる︒それは同時に日本の近代社会形成の過程を考えるのにも重要

な視点であるということができよう︒

そのような近世社会についての︑近世思想家の認識については︑すでに多くの

先行的研究があるけれども︑その社会構造の中の︑とりわけ身分制度転ついての 認識の検討はまだまだ十分とはいえない現状である︒本研究はその意味から︑身

分制度についての近世思想家の認識を検討することに一つの意兼を置いている︒

さらには︑その場合︑身分制庭中の塵氏身分についても︑認識の検討はまだ不十

分であるので︑虚民身分の認識について検討をつけ加えなければならない︒今

日︑頗民制度転ついては︑近世部落史研究として研究がすすめられているのであ

るが︑近世部落史研究では︑多くは腐民解放について投首しているものについて

取りあげているのであって︑さらに広く腐民制度についての各思想家の反応はあ

まり検討されていない︒

以上のような問題視角から︑まず近世思想家の身分問題についての認識を︑具

体的に安藤昌益・杉田玄白・高野長英らの例を取りあげて明らかにする︒つぎに

これら思想家が腐民制度についてどのような認識をもっていたのか︑それはどの

ような理由によるものか考察を加えたいと考える︒つぎに本研究の視角の中心と

して︑昌益・玄白・長英らのうち︑長英について少し詳細に検討を加えたい︒そ

寿 の内容としてほ︑◎長英の出自をめぐっての武士意識と封建的家族意識㊤長英が

中間奉公を最大の﹁恥辱﹂と考えた間額⑧長英の抱いていた政治思想・社会思想

−とりわけ身分制度・腐民制度についての対応︑という分野を明らかにしたい︒

一近世後期思想家と身分制度

近世後期思想家といっても︑幕藩体制の動終期と解体期とでは︑その属する時

期によって︑社会認識はl般的にいって異なることは当然である︒その時代的な

条件の遣いを考慮に入れつつ︑二︑三の人物について考察をしてみたい︒

1 安藤昌益について

昌益については︑第二次世界大戦中および戦後︑カナダの歴史家・外交官E・

ハーバート・ノーマソにょって本格的に研究・発表されたことは︑すでに周知の

ことである︒︵注1︶ノーマソによれば︑昌益は︑封建社会における身分体制の上

層にいる士と︑士の権威をつくり出している聖人を否定し︑さらに﹁直耕﹂する

農民の生産労働に寄生する町人を否定し︑農業と鹿民による自然社会を理想とし

た稀有の思想家である︑としている︒ノーマソは︑﹁忘れられた思想家﹂として

昌益を発掘し︑日本における最初の﹁民主主義思想家﹂と位置づけたのである︒

︵ 注 2

つぎに昌益の具体的な著述﹃統道其伝﹄巻一によってみよう︒

﹁雫に武士豊てて衆人直耕の穀塵を貧り︑著し強気たして窮﹀に及ぶ老之

有るときは︑此の武士の大勢を以って描︒揖んために之を制す︒蛮人の命令 27

に背き党を為し散と為る者には此の武士を以って之を貴め伐んと為す兼用な

(3)

長野県短期大学紀要 第36号(1981)

り︒是自然の転下を盗むが故に︑他の安め有ることを恐るるなり︒﹂

﹁聖人出て王と為りて上に立ち︑上を以って大と為し︑衆人を以って下小と為

す︒之より大小の序立ちて王は大にして侯は小なり︑侯は大にして士は小な

り︑士は大にして民は小なり︑主は大にして従は小と分立して︑大は主として

小の行業を食む︒︵略︶一般正一直耕して大小上下凡て二品無きは自然なり︒

然して聖人出でて大王となりて以来︑大小の序出て︑大は小を食み︑序を以っ

てす︒全く禽獣虫魚に同じ︒是れ聖人人倫の世を以って禽獣の世と為すなり︒

今の世全く走れなり︒故に全く人に非ず︑縦に生きて横に行ふ聖人の罪なり︒﹂

︵ 原漢 文

天下を支配する者を聖人として︑聖人が武士によって﹁衆人直耕﹂の穀産をむ

さぼり﹂抵抗する者は武士の武力によって抑圧すると述べて︑封建道徳を身につ

けた聖人が︑武士の武力を利用して﹁直耕﹂する衆人︵農民︶の富を奪う構造を

鎖く衝いたのである︒後者の史料では︑封建社会の︑どこまでも細分化する身分

制の構造を明らかにし︑聖人を王とした王二侯∵士の幕藩体制において大が小を

食む弱肉強食の現実とその身分の﹁序﹂が︑あたかも禽獣虫魚と同じで︑それを

現出したのが聖人である︑と述べている︒

東北地方の八戸の医師安藤昌益にとっての社会認識は︑医学を通しての科学と

長崎遊学によって得られた西洋の知識の融合によって︑一八世紀の東北社会の現

実を考察したときに得られたものであろう︒まさに︑農村の窮乏の進行と武士・

町人の収奪という現実に直而して︑農業と農民転よる﹁直耕﹂の社会を理想とし

たことから︑封建的身分制の否定へとすすむことになったのである︒しかしここ

から︑昌益の社会認識は︑階級や身分の差︑貴腐や貧富の違い︑また男女の不平

等もない﹁自然世﹂を理想しているけれども︑具体的には腐民身分への認識は明

確にならない︒その理由として︑①中間的知識層としての昌益にとって︑聖人・

武士・町人が関心と批判の対象となるというかれの階層性︒㊥近世東北地方にお

いてほ︑少数の城下町都市を除いて﹁えた﹂身分等の腐民身分の存在は︑きわめ

て薄いものであった︒⑨昌益にとって︑人口の九割を占め︑直接生産の担い手で

ある農民だけが存在の意味をもつ平等社会という認識︵東北の生産の現状の反映

として︶がきわめて強かった︒これらが基本的な丑由と考えられ︑さらに昌益の 生きていた時代がl八世紀であったという時代的特性も加わっていたのである︒

2 杉田玄白について

江戸において杉田玄白が活動したのは主として一八世紀後半である︒玄白

間と云ふものは上天子より下万民に至るまで男女の外別毯なし︑然るを上下を分

ち夫々の位階を立又其人々に名を命じ四民の名目を定︵め︶しものにして︑人な

ることは同じ人なり﹂とあり︑人間の平等観を唱えている︒この中で﹁男女の外

別種なし﹂とか﹁人なることは同じ人なり﹂とあるから︑医学の立場からみた人

間としての平等観である︒︵江4︶その立場から上下・位階・四民の別を排してい

るのである︒この考え方を確認した上で︑晩年八二歳のとき書き終えた﹃蘭学事

始﹄によってかれの社会思想・社会観を考えてみたい︒﹃蘭学事始﹄によると︑一

七七l年︵明和八︶三月四日︵玄白数え年三九歳︶︑江戸千住の骨ケ原の処刑場

に︑前野良沢・中川淳庵と玄白の三人で︑刑死者の﹁腑分﹂に立ち会ったところの

状況が出てくる︒︵江3︶三人はこのときの体験を機会に翌五日より﹁クーヘル・

アナトミア﹂の細訳に着手することになる重要なところである︒

かねて約束しておいた﹁えた﹂身分の虎松というものが﹁肝分﹂の巧者であっ

たが︑病気のためその祖父で九十歳の老人が代りを務めた︒これまでの﹁膵分﹂

は﹁えた﹂に任せ︑かれが肺とか肝とか腎なりといって切り分け京したものをい

った人がただ見て帰り︑﹁われわれは直に内景︵注内部構造︶を見究めしなどい

ひしまでのこと﹂で︑﹁屠者﹂の指し示したものを見て終っていた︒そのために

その老人は︑﹁只今まで肝分のたびにその医師がたに品々をさし示したれども︑

誰l人某は何︑此は何々なりと旋はれ侯御方もなかりし﹂といわしめたのであ る︒帰路三人は今日の体験に驚き︑﹁布くも医の業を以て互ひに主君主君に仕ふ

る身にして︑その術の基本とすべき吾人の形態の美形をも知らず︑今まで一日一

日とこの業を勤め来りしは面目もなき次第なり︒﹂と恥ずかしく思うのである︒

﹃蘭学事始﹄の記述を通じて︑さらにこの骨ケ原の解剖に立ち会った経験から

みて︑玄白の社会思想とりわけ身分制度についての認識を考えてみたい︒

①﹁腑分﹂の体験を通じて︑中国の医方︵﹁医経﹂の説など︶が事実と違ってい

たことを知り︑さらに先学の官医岡田養仙・藤本立泉らが七︑八度も﹁脂分﹂し ながら昔から伝えられた説と事実が遣うので不審がどうしても解けず︑﹁華英人 物遠ひありや﹂とサジを投げていたことの真意を悟り︑事実にもとづく科学︑合

理的精神の重要さを知る︒この合理精神とこのあと始まる自由討究による﹃解体

(4)

近世後期の思想家と身分制度

新書﹄の細沢が︑近代科学の萌芽として生まれる︒﹁肝分﹂した老人の言に医師

たちが全く疑問をもたなかったという指摘に︑玄白たちは非常に恥じいるのであ

る︒このやりとりを読むと︑玄白たちは事実のもつ重い意味︑科学のもつ大きさ

に︑謙虚に反省し︑この﹁えた﹂の老人︵文中では﹁老屠﹂と記している︶に対

し︑特別身分的なもの︑尊大さなどを感じさせないのである︒科学に対する驚き と自分の唇ずかしさを実感しているところに︑科学者の態度がみられるのであ

る︒老人に対し﹁健かなる老著﹂とも表現している︒

㊤文中に﹁えた︵稜多︶﹂﹁屠者﹂ ﹁老屠﹂などの表現があり︑それらを一つの身

分・職業として︑客観的に認識しているのである︒この身分の存在に疑問をもつ

のでもなく批判をしているのでもなく︑﹁士塵工商えたひにん﹂の身分の存在を

客観視しているのである︒その姿勢は︑前述の﹃形影夜話﹄にみられる医学の立

場からみた人間としての平等観というものと表裏している︒医学上から上下・位

階・四民の別を排するという合理主義が形成されてきていると同時に︑具体的に

存在する﹁えた・ひにん﹂制は︑まだかれの平等認識の中に位置づくまでには至

っていない︒﹁老屠﹂を﹁彼奴﹂という表現でとらえているところにも戯視観念

が認められ︑全体として身分制度を社会的にとらえるのでなく︑膿民制度につい

ても明確になって■いない︒

江戸の蘭学者であった杉田玄白にとって︑中間的知識層としての関心の特徴

は︑具体的な社会思想への追求よりも自然科学としての蘭学への貧欲な探求であ

3 近世思想家の身分問題への関心とその変化

高橋碗﹂氏の研究成果︵注5︶に拠りながら︑社会思想への関心という角度から

平賀源内︵転読靴抽入︶は︑四国高松帝出身で︑長崎で医学・本草学を

び江戸に出る︒かれは合理主義の立場から非合理なものを批判し︑儒学を中心と した固定的な学問観に対して︑﹁唐は唐︑日本は日本︑昔は晋︑今は今なり﹂と

批判し︑﹁腐儒﹂︵くされがくしや︶﹁屁っびり儒者﹂と痛属し︑さらに武士に対

しても盲出度御代の侍は段々に値が下り︑エ巣南の≡民に養はれ石部艇か様に

恩はれ﹂と述べている︒︵江6︶源内は儒者や武士の存在を批判するところまでそ

の合理主義と社会観はすすんだが︑塵民身分はまだ抱せつされるには至っていな

い︒しかし源内も中間的知識層としてその鋭い論理を磨いていた︒司馬江漠︵一計璃許か班哲は︑人間平等観を唯物論的豊場から説き︑合 埋主義を発展させて︑﹁上︑天子︑将軍より︑下︑士農工商︑非人乞食に至るまで︑皆以て人間なり﹂︵法7︶と平等観を徹底させてきた︒そして一九世紀もすすむと︑大塩平八郎は幕臣であったけれども︵大坂天満与力︶︑一八三七年︵天保入︶の反乱のとき︑大坂内外の貧準貧民・﹁えた﹂に撒をとはし︑豊後の即即諾家老帆足万里は︑﹁えたも常人と異なるところがない﹂ことを主張し︑さらに加賀藩の尊王派千秋藤籍は︑西洋と対比して身分差別を批判し︑﹁えた﹂身分の解放のために経済的保障を主張するまでになっている︒︵注8︶これらはいずれも武士の立場からではあるが︑武士の立場からも腐民身分の解放を主張しなければならない状況になったのである︒

ニ 高野長英と身分聞落 1

長英が育った社会的・家庭的環境の独特な性格によって︑長英自身の中にかな

り強い封建的身分意識が形成されていたことに︑まず注目したい︒

長英の実父後藤楓介実歴は︑陸奥国水沢︵現岩手県水沢市︶の留守氏の家臣で

ある︒留守氏は家景以後奥州留守所職の地位にあって︑留守氏と名乗るほどであ り︑中世を通じての有力地頭︑地方領主として威勢を張り︑さらに戦国大名に成

長したために奥州きっての﹁名門﹂とされてきたのである︒︵江9︶一方︑伊達氏

が戦国大名として進出したため︑それと姻戚関係を結び︑留守氏は伊達政宗の伯

父政景を迎えて当主とした︒政費は豊臣秀青の小田原攻撃に不参したため︑領地

を没収されてから︑甥の政宗に臣下として仕えることを誓って伊達氏の一門とな

った︒その後しばらく各地を移った末︑ハ二九年︵寛永六︶水沢に一万石を伊

達氏から与えられ︑近世領主として定着︑維新に至ったのである︒︵江10︶

留守氏はこうして伊達氏の家臣︵伊達氏を称することを許す︶となったが︑六

〇万石の大々名伊達氏から﹁一門﹂という格式を与えられ︵一門・一家・準一家

⁝⁝の八等級の最高位︶︑地方知行制により領地の大部分の支配権限を許され

事実上大名に近かったのである︒これは伊達氏が中世以来の﹁名門﹂を統制する

ためにとった中世的領主制の再霜成にはかならないとともに︑留守氏の領主支配

の性格の青さをも規定したのである︒したがって伊達氏の大名制の中世的残浮が

近世に持ち込まれるとともに︑留守氏の領主性を性格づけることになった︒︵注11︶

家柄や出身を尊ぶ封建社会において︑伊達氏の家臣とはいうものの︑伊達氏より

(5)

長野県短期大学紀要 第36号(1981)

も古い伝統と格式をもった留守氏は︑一万石ながらきわめて強いプライドをもち

格式を誇っていた︒伊達氏も一目置くという事情があり︑留守氏とその家臣︑お

よび水沢という地域に独特な﹁名門﹂意識が醸し出され蓼透していったのであ

る︒︵準望このような気風は︑長英の実父の後藤家にも実母の高野家にも伝えら

れていたのであろう︒後述するように高野家もまた留守氏の家臣であったので︑

長英の社会的環境・家庭的環境の中に︑﹁名門﹂の留守氏の家臣であるという意

識が強く影響したので︑留守氏の中世的性格と相まって︑長英に封建的侍意識を

育てたということを見落すことができないのである︒

つぎに︑長英の出自・家庭環境についてみよう︒ハ九七年︵元禄十︶の﹁元

禄十年留守家臣知行日録﹂︵注∽︶によれば︑留守氏の知行は貫高でハl≡貫五

八四文︑石高換算一万六一三玉石余で︑水沢転封時の一万石より六千百余石増と

なっている︒﹁御下中惣人高﹂︵注14︶六六〇人のうち侍分三〇四人︑あとは寺社

方・御台所衆・坊主衆・足軽・職人等三五四人である︒留守氏領のうち家臣に与

える知行は六四五貫三一八文で︑一人当りに換算すると約一貫文弱︵九七七文余︶

となり︑石高で約一〇石弱である︒留守氏一万六千石で六六〇人という家中総人

数はかなり多い方であり︑侍分以外の数と考え併せて︑零細な家中の多かったこ

とがいえよう︒

前掲﹁留守家臣知行日録﹂によると︑長英の実父後藤氏の祖先後藤惣助の知行

は三貫六四八文︵三六石余︶︑留守氏家臣平均知行一貫文弱の三倍ではあるが︑

当時の武士一般としては小禄であった︒また長英の実母高野家︵のちの長英養

家︶の祖先高野助五郎は五五三文︵五石余︶である︒高野家はかつて一茶文︵一

〇石︶はどの知行であったのが︑血筋が一度絶えたとき減知され五五三文になっ

た︒高野家は知行のほかに代々医師としての収入があり︑それによっても生活が

維持されたのであるが︑やはり武士としての収入の低いものであったことは否め

ない︒長英の出自は︑下級の武士身分Ⅰそれも形式的には陪臣であるーとしてま

ず性格づけられたのである︒

長英は一八〇四年︵文化元︶五月五日水沢に生まれる︒︵江望父据介五〇歳

︵以下年齢はすべて数え年︶︑母美也︵又は美代ともかく︶二四歳のときの子で三

男である︒美也は絶介の後妻で︑長英の異母兄︵長兄︶が後藤氏の相続者に予定

されていた︒母美也は留守氏の家臣高野元端︵医師︶の娘で︑長英の実兄直之進

︵のち医師湛斎︶︑実弟慶蔵を生む︒一八一二年父娘介の死亡により︑母美也は

長英を連れて実家の高野家に身を寄せた︒長英は母方の祖父元端と伯父玄斎︵母

の兄︶に育てられ︑やがて玄斉の養子となり︑将来は玄斉の娘千越すなわち長英

にとって従妹に当たる娘と夫婦になる紛婿の関係が作られることになる︒若くし

て未亡人となった母に連れられて︑母の実家にはいり孝子となったものの︑長英

にとっては封建的家族制度のもとで︑母とともに﹁厄介﹂として置かれたわけで

ある︒後年かれが款中にあって記した﹃鳥の聴音﹄︵注禁に︑﹁備ら我身を省みる

に︑幼少にして父を喪ひ孤となり︑母の手に養ほれて厳教なければ︑自ら我健に

成長し︑弱冠にして遊学せしかど︑不幸にして厳師友なく﹂と述べ︑みずからの

生い立ちについて触れている︒

長英は祖父元端から漢籍を学び儒教的倫理観を身につけるとともに︑山野に遊

んで心身を鍛え︑漢方の初歩も学んだ︒元端は京都に学び洪方医となり︑高野家

でははじめて留守氏の典医となる︒かつて江戸に遊学して杉田玄白に蘭方医学を

学んだ養父玄斎からは︑漸方医学の初歩も学ぶことができた︒長英にとってその

成長期に大きな影響を与えたーつの条件は︑地方において医師として確固とした

地位にある高野家に養われ︑中間的知識層としての環境にあったことである︒長

英は自然な形で︑江戸遊学を夢見る少年となり︑さらには封建釣家族制度から脱

出を試みることにつながるのである︒

以上のような長英の社会的家庭的環境をまとめると︑

①父母ともに﹁名門﹂留守氏の下級家臣であり︑濃厚な侍意識の中に育ったこ

㊤実父の死により母方の実家の﹁厄介﹂となり︑養子となって︑封建的家族制度 と ︒

の中で︑かなり歪められた形で自己の存在を知っていたこと︒

㊥武士身分であり典医であった祖父・養父によって︑席数的倫理観を育てられる

とともに︑l方︑医師として封建社会における中間的知識層の中で育ったこと

が︑将来の長英の自由な生き方のバネにもなっていったこと︒これがやがて封建

的家族制度からの脱却を求める長英になる︒

2 中間奉公の﹁恥唇﹂の体験

一八二〇年︵文政三︶長英一七歳の春︑養父玄斉の反対を説得して兄湛斎とと

もに江戸に上り︑玄白の養子杉田伯元の門にはいり︑挨摩術によって学資を得な

がら苦学をはじめた︒二三年︵文政六︶五月兄湛斉が江戸で病死し︑十一月その

遣物をもって水沢に帰ったけれども︑養父玄斉の怒りに触れて会うこともでき

ず︑やむを得ずふたたび江戸に戻ったところ︑その家が類焼にあうという災難

に見舞われる︒その上さらに︑かれが﹁恥辱﹂と考え苦しんだ中間奉公をしなけ

(6)

近世後期の思想家と身分制度

ればならない事態になるのである︒

水沢から江戸への帰途︑仙台を経て福島に泊ったとき︵十二月三日︶︑陸奥国

石巻を出奔︵欠落︶した九一度久米青という青年を江戸まで同道してほしいと︑

宿の主人から板まれる︒一度は断わったものの折れて江戸まで同道したが︑出奔

してきた青年にとって︑江戸に着いたからといって宿も職業もない︒はじめ小鮒

町八百屋勝右衛門に奉公させ︑さらに表向きは武蔵産永蔵という者を愛人とし︑

長英は人主となって︑白河藩士阿部鉄丸へ出入りしていた六尺元締善蔵に奉公さ

せた︒久米膏と手を切るよう長英に勤める者もいたが︑久米膏の就職に口をきい

てやったのである︒この久米書が主人から預った三両と主家の本聡甲の櫛穿︑時

価三一両以上もする品物を一緒に盗んで逃亡してしまう事件が一八二四年︵文政

七︶二月起こり︑事実上の身元引請人であり口ききである長英が弁條しなければ

ならなくなった︒長英は貧窮であったため︑ようやく工面して金子一両二分を持

参し︑少しずつ弁済することを蓄蔵に疎み込むが聞き入れられず︑短期間で弁済

から閏八月までの約半年間︑松平因幡守基数の和田衛士の留守懸りの中間奉公を

した︒この間の事情について︑奉公が終り事件の決着した閏八月十七日︑長英は

養父玄斉に長文の手紙を送っている︒︵注17︶中間奉公の経緯の部分だけみると︑

︵ 簡 ︶

﹁不得止審決了管︑誠不孝之事共とは被存恐入候事共ながら︑鰐厄之時節に臨

良計も尽果︑某奉公人と罷成︑先方之盗取供本髄甲之品物之儀は迫も皆済も難

相成候故︑本金並三両之金子之外壱両弐歩斗も返却仕︑其色々相欺候ハヾ︑人

心倦み無之事有之哉急変承知も可仕被存侯故︑無拠雉似忘恥辱︑古に越王会稽

之恥辱も有之︑某当時奉公人と罷成供共後日雪之有人に而口入所之口聞配換怨︑

松平因幡守様星数に和田衛士と申︑留守居懸りに而︑外勤供等不致其代り家内

之世話等仕倹奉公口有之︑串与罷越候所︑年寄に無之供得者難勤儀申倹得共︑

小生身之上之儀聞及承引相成二二月五日より八月迄之半給金煎両煎歩相借供を

以取集本金三歩二朱︑盗取候三両と櫛穿之代先壱両指遣候潰リニ市︑善蔵方え

罷越︑如此奉公人と罷成候程難渋致峡間︑是非追々には又返済も可仕候間︑党

是に而内済転致呉供様申開候勉︑漸聞済内済に茸受相済申供︑︵略︶八月二相室

俵ハヾ給金も消候間︑又々是非店相持候而此度之恥辱相雪度被布屠︑夫迄は此

難儀之趣世間え相咄池も他人は只身之不時よりも相成候はんかと思可申候間︑

迫も八月迄は死果供心持に而︑厄相逃店又々相挿相応に相成俵節︑世間一統に

如此難儀二遇侯事も相咄可中と存︑是迄懇意之者え一統に無拠当時蟄足仕候 訳に相咄︵略︶︑是迄奉公任侠処︑供等不任侠方より至而閑暇多供故︑書籍等も蘭書書物屋より貸楯出借侯而相写申候︑︵下略︶﹂侍身分の者が奉公人=中間奉公することを﹁誠不孝之事共とは被布﹂と養父に詫び︑﹁維似忘恥辱舌に越王金棒之恥犀も有之﹂と中国の故事によって自らを慰め︑和田衛士の留守番懸りになったものの︑外勤供などという邸外に﹁恥﹂をさらすことが避けられ家内の世話をすることになったのが幸いであったとかれほ感じていた︒さらに弁済をしたときはふたたび医術施療の家を持つことで﹁此度之恥辱相雪虔﹂﹁八月迄は死果換心持に而﹂働きたいとまで述べているのである︒

封建社会の身分秩序体制において︑侍︵士︶身分が小者−中間に身を落すこと

は︑このようにまで恥辱と意識されており︑長英が侍意識にいかに強くとらわれ

ていたかが理解できるのである︒この段階ではまだ︑長英が困難に置かれれば置

かれるほど︑身分秩序にすがりついていったことが理解できるのである︒

3 長英の政治思想・身分思想

長英たちが一八三三年︵天保四・長英三〇歳︶尚歯会を組織し︑やがて英船モ

リソソ号渡来の風説盛んな三八年︵天保九︶十月長英が﹃夢物語﹄を書き︑渡辺

華山が﹃憐激論﹄を草した︒翌三九年︵天保十︶五月長英は﹃夢物語﹄の件で自

首して款に下り︑このとき﹃鳥の聴音﹄一巻を執筆︑四l年︵天保十二︶ ﹃蛮社

遭厄小記﹄︵江禁を著わしている︒この二著はともに就中にあって記され︑前者

は下獄に至った事情を述べ︑後者は寛罪であることを郷里の人々に示そうとした

ものであった︒

この著述からまずかれの政治思想をみよう︒長英は﹃夢物語﹄の執筆につい

て︑﹃鳥の聴音﹄の中でつぎのように述べている︒︵注讐

﹁イギリスの事は︑それそれ蘭書より翻訳して有りの健に出したれは︑渡りに

外国を張大忙したる処なく︑伝聞に出たる事も皆々正拠あれば︑杜撰の妄説な

らず︑無名氏の物語なれば︑名を好むの散り︑安ん様もなく︑全文の旨趣︑杷

変の丹心に出で︑渡りに人に示さざれは︑人心を証すべき等なく︑専ら御役家

の電覚に供へ奉りて︑御取用もがなと願ふ心なれば︑元より朝謡を誹訝し奉り

て︑官の辿鱗に触れ奉る筈なく︑モリソソ御評議の事は︑御番付も世に流布

し︑日に触れし事もありて︑正説と見ゆれば︑之を以て妖言とはなし難し︑方

今文明の盛大専はら寛大の御仁政を行はるゝに︑仮初めにも国家の御為めにも

このように﹃夢物語﹄著述は︑根拠のある事実にもとづいて役所の役転立ち国

(7)

長野県短期大学紀要:第36号(1981)

家のためになるようにという考えであり︑朝議誹露や世を惑わす妖言でもないと

している︒したがって牢内の大小頭目たちも︑﹁仮初めにも忠義の心を懐き︑論

者の為に陥しいれられ︑無実の罪に沈みぬるを見て︑深く憫れみ何くれとなく心

を付けられ︑厚く恵み労はられ︑起臥飲食も緩やかになりぬれば︑是ぞ災厄中の

敏幸にて︑苦しき中にも凌ぎよく﹂︵準巴と述べている︒

長英は︑蘭学を学ぶことについていう︒日本において儒仏の学が長く行なわれ

てきたが﹁人只共学を奉じて英国を某はず︑未だ英国を以て支那印度に臣たら

ず﹂﹁未だ一人の皇国を奴きて外国に降る者を聞かず﹂︑皇統連綿としてまことに

めでたき神国である︑と述べ︑蘭学は﹁其言ふ所実理ありて業とする所に剰あれ

ば﹂こそ学ぶのであって︑﹁何ぞ斬る目出度神国を棄て︑在寮不毛の西洋を某

ひ︑西夷に従はんや﹂と述べる︒︵注21︶そして最後には︑﹁蓋し蘭学を業として蘭

学に死し︑忠義の事を致し忠義の事に死せば︑理に於て恨むる所なく義に於て取

る処なし﹂と記した︒岸讐

長英の政治思想には︑幕藩体制を批判・否定するようなものは主観的にはない

のである︒幕藩国家のためのものであり︑﹁皇国﹂のためであり︑﹁忠義﹂の心

であるという︒蘭学もまた﹁実理あり﹂ ﹁業とする所に利あれば﹂故に学ぶもの

で︑西洋への追随ではなかった︒西洋崇拝には反対の民族主義的傾向をもってい

しかし幕藩制支配層から客観的にみれば︑引用史料にみられる長英の思想は︑

冷静な合理主義・科学主義に根ざしており︑世界的な塊榛でとらえる考え方は︑

警戒Lなければならない封建制批判を含んでいるのであった︒ことに尚歯会が︑

幕府役人を含めて︑武士・医師・町人・僧侶などを網羅した研究組織であること

は︑弾圧の壊会があれは渡してしまいたい組織であったのである︒

最後に長英の社会思想とりわけ家族制度・身分制度についての思想に触れてみ

たい︒長英は︑はじめ従妹であり養家の娘である千越と約婿の関係にあったが︑

シーボルト門下にはいり︑さらに養父玄斉の死を経て︑高野家の相続者の地位か

ら離脱していくのである︒長英が江戸から長崎へと道学1︑蘭学を深めれば深め

るほど水沢の高野家の家制度はかれを縛るものと感じられた︒一八二五年︵文政

八︶シーボルトの鳴滝塾にはいり︑二七年︵文政十︶養父玄斉の死によって︑

︵長英二四歳︶︑長英の心中には大きな変化︑すなわち高野家の相続者を脱して

自由な活動を強く願う気拝になる︒千越を養女とし︑三〇年︵天保≡︶長英は︑

隈居して千越のために養子を迎え高野家が相続されるよう叔父など親戚に懇願し た︒その理由としては︑千越はすでに養女であること︑自分が病弱で殿への奉公はできない︑今手離しかねる事情があり︑帰郷しても志を連するためふたたび出府しなければならない︑出府せず一生を水沢に終るのは意義なき人生となる︑等々の理由を挙げたのである︒︵荘讐翌三一年︵天保二︶千越は佐々木家から養子を迎え一家を建てた︒この養子が東英である︒こうして長英は︑故郷水沢の高野家と結びつけられていた封建的家族制度の家長相続者の地位から解放され︑かなり自由に行動が可能となったのである︒

つぎに身分制度転ついて考えてみると︑長英の著述の中からこれについて直壊

明らかにできるものはない︒ただいえることは︑尚歯会という鼠織における活動

からみて︑身分的制約を超えて︑蘭学研究という観点からかなり自由な交流をお

こなっている点を注目したい︒長英には︑獄中の二著︵前述︶以外︑政治・社会

を論評したものはほとんどないが︑脱款後の潜行中の動静をみると︑各地で地方

豪農や農民と交流し︑都市では一般町人とも交流しており︑蛮社の款における弾

圧以後︑かれの人生観や社会観が大きく変化していく傾向がみられるのである︒

この点についてもっと詳細に論じなければならないが︑紙数の都合で後考に譲り

たい︒身分制度のうち鹿民制度については︑かれが東北の出身の思想家であった

ことにも関連して︑とくに発言はみられない︒かれの関心に上ってこないことの

一つは︑水沢を離れてのち各地を転々として動いていた中間的知識層としての性

格にもあったのではなかろうか︒

まとめ

近世後期思想家が身分問題についてどのような認識をもっていたか︑このあら

ましについて検討してきた︒一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて︑幕藩体制

の動揺の過程において︑安藤昌益の農本社会の理想像︑平賀源内の合理的平等

観︑杉田玄白の医学的背景の上に立つ平等観が創造されたことが確認された︒こ

れらは確かに封建的身分秩序の中で︑それを否定していく方向をもつ認識ではあ

ったが︑なお観念的平等観にとどまり︑現実社会における身分的差別に切り込む

までには至らない︒とくに鹿民制それ自体まだ問題視されなかった︒

しかし司馬江漢転は︑盛民制への壊近からかなりするどい平等観があり︑人間

主義的な合理主義の萌芽がみられ︑﹁非人・乞食﹂が視野にはいってきた︒さら

に一九世紀半ば前後になると︑武士の観点ではあるが︑應民間題がはっきり浮び

(8)

近世後期の思想家と身分制度

江住江住 江 住 江 住注

23 22 21201918171615

一方︑高野長英の場合︑最終的には某産権力との対決に至るが︑最初は封建的

侍意識を渡厚にもち︑封建的家族制度に閉じ込められていたのである︒しかしシ

ーボルトの鳴滝塾での学習以後︑水沢の高野家の家督相続者から隠居して︑相続

者を決めることで封建的家族制度の桓樺から離脱しはじめる︒そしてさらに尚歯

会活動︑蛮社の款によって転回をはかっている︒

長英の場合︑﹃鳥の聴音﹄などによってみると︑主観的には封建的社会構造を否

定したり︑幕藩体制そのものを批判しているわけではなく︑封建的身分制度につ

いてもとくに意志章節はしていない︒ただ幕藩支配層にとっては︑客観的には不

安を与える材料になるものであったのである︒なお腐民制について明確な意識を

表明していないのは︑東北出身の立場と中間的知識層として後年ほとんど転住ま

たは潜行していたからではないかと推論する︒これらは今後の課題となるもので

長英および一族の伝記は︑高野塵癒二感由長英伝﹄︵岩波書店︶による︒

高野長運絹﹃高野長英全集﹄︵復刻版・高野長英全集刊行会︶弟田巻一六べ1ジ

前線﹃高野長英伝﹄ l七11三六べ1ジ

前掲﹃高野長英全集﹄第四巻

前線﹃高野長英全集﹄第四巻一一ページ

同着一五ページ

同者l九ページ

同者二〇ページ

前蕗﹃高野長英伝﹄二二七−二三一ページ

︵ 歴史 学

︵ 注1 ︶

大窪瓜二編駅﹃ハーバー十・ノーマン全集﹄第三巻︵岩波書店刊︶所収﹁忘れら

︵ 注 2

︵ 注 3

︵ 江

︵ 注 5 4 ︶

︵ 注

︵ 注 7 6 ︶

︵ 注 8

︵ 注

︵ 注 ユ 9 ︶

︵ 注 1 0 ︶

︵ 注 1 1 ︶

︵ 注 1 2 ︶

︵ 注 1 3 ︶ 4 ︶

れた思想家︑安藤昌益のこと﹂﹁安藤昌益とその封建社会の批判﹂﹁安藤昌益の思想

とその方法﹂などの論文が代表的︒なお全集は全田巻である︒

ハーバート・ノーマン﹁忘れられた息想家 安藤昌益のこと﹂

杉田玄白著﹃蘭学事始﹄︵岩牧文庫版・緒方富雄校薩︶二七−三〇ページ

高橋耕一﹁洋学の興隆と反封建的世息鶴﹂︵岩波諮座﹃日本歴史近世5﹄九五ペー

ジ ︶

前掲高庵恋文

前線高橋論文八五・九二ページ︒平賀源内﹃放屁論﹄﹃風流意道紆伝﹄

前掲高橋論文九三ページ︒司属江漢﹃春汲楼範記﹄

部落問題研究所調﹃部落の歴史と解放運動﹄ l六四〜一六六ページ︒一八〇〜一

八二ページ

高橋富雄﹃宮城県の歴史﹄︵山川出版社︶九四ページ以降︒留守氏の領主制につい

前掲﹃宮城県の歴史﹄ 二五〜二九ページ︒鶴見俊櫛﹃高野長英﹄ ︵朝日新聞

社︶四九ページ

前蕗﹃宮城県の歴史﹄ 二二〇〜二六ページ

謁見前掲害八ページに︑水沢市史調纂委員小林晋一氏の﹁水沢人が来ると︑むこ

うから侍が来たようだ︑とも言いますね﹂という言葉が戦っている︒

菅原一旗氏所蔵

水沢市立図書館細﹁留守家旧臣名簿﹂弟3集

参照

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