(近世史料論2)
「金 銭 出 入 覚 帳 」 の 性 格 と 内 容
(一
)‑武州荏原郡奥沢村原家文書の事例‑
目次
一はじめに
二原家と原家文書
一はじめに 三奥沢村の歴史的粍紋
四元文元年九月「万先番帳」の検討(未完 蘇安
彦
近世の村方文書は大別して領主権力との関係で作成される公文書と家や個人との関係で作成される私文番がある。
前者には年貢・法令等名主文書の大半はこれで占められる。後者には'家を中心とした相続や冠婚葬祭、経営'金
銭出入帳(出納帳)'日記、書状等多様なものが存在している。
公文書では'村の組級や支配の骨格・輪郭を解明する上で欠くことのできないものであり、私文番は公文番では把
握できない日常世界を突き止める上で必要なものといえよう。両者相侠って村落史研究の成果があがるものと考えら
れる。
「金銭山入党蝦」の性格と内容(こ(蘇)
史料館研究紀要第二八号一五二
しかしながら、これまではどちらかといえば私文書が軽視され、歴史研究の史料としての視野に入りにくかったよ
うに思う。歴史研究が日常的な生活史を重視するようになってきた最近の動向の中では、私文書の重要性が改めて認
識されてきたといえる。
ここでは、私文書の中でも'これまであまり取りあげられてこなかった「金銭出入覚帳」を対象として'なぜこの
ような帳簿が作成されたのか。その内容はいかなるものなのかを中心に検討してみたい。
金銭出入帳簿は、農民生活の具体的姿を解明する上でもっとも重要な文書である。すなわち、農民がどのようなも
のを生産し'それを売ってどの位いの金銭を獲得し'その金銭で生活上必要なものを購入したり'年貢の上納に充て
たり、さまざまな興味ある事柄が判明するのである。近世農民の日々の生活実態の解明に役立つ基本史料といえよう。
小塙では'武州荏原郡奥沢村原家文書に存在している「金銭出入党帳」を検討対象とした。とくに最近刊行されたr世田谷区史料叢書J第二巻(東京都世田谷区教育委月会、一九九六年三月刊行)には'次の五冊が収録された。名称こ
そさまざまであるが'総括的名称でいえば、「金銭出入党帳」ということができよう。
これら五冊の文書の名称と対象とした年代等は次の通りである。
一、元文元年九月「万覚書帳」は、その名のとおり、さまざまな記録をその内容としているが、中心記事は'金銭
の出納である。記載時期は元文元年二七三六)から寛延三年(一七五〇)までの1五年間と宝暦・明和期二七五1‑
七一)の数年分も含まれている。
二、元文元年九月「御年東上約万帳」は'元文元年二七三六)から寛政四年(一七九二)までの五六年間における
毎年の年貢納入の状況を克明に記録したものであり、農民の年貢負担の実態が解明できる貴重な史料である。
三'元文二年六月「茄子党帳」は'江戸周辺農村として大量の前栽物を生産し出荷している状況が判明するもので
ある。その内容記載は'元文二年から明和九年(一七二二)の三五年間に及ぶものであり、茄子のほかに干大根'大
角豆、白瓜、いも、柿等が出荷され、農家経営を支えていた実態が浮き彫りとなるのである。
四'宝暦三年二七五三)「金銭山入党帳」は宝暦三年から同一〇年二七六〇)までの七年問の記載を含み'五冊
目の宝暦一一年「金銭出入党帳」に接続している。
五'宝暦一一年「金銭出入党帳」は宝暦一一年から明和三年(一七六六)までの六年間の記録である。
これらの「金銭出入党帳」(総括的名称)が元文元年から開始されている意味は何であろうか。
それらの検討に入る前に、原家と原家文書'奥沢村の歴史的概観等について述べておきたい。
二、原家と原家文書
原家は奥沢村の年寄役で'文苔で判明する元文期(1七三六〜四〇)以降は新左街門を称し、明治期()八六八‑1
九二)には市五郎、伊八'大正期(一九こて二五)には菊次郎と名乗っている。
原家文書は現在世田谷区立郷土資料館に寄託され、原家文書目録が、同館拓北r世田谷諸家文番目録」に収録され(‑)ている。
それらの文番の記載によると、原家の持高は11石六斗二合二勺で'延事三年(1七凶六)1二月1七日には次郎(2)兵衛二石四斗一升一合を分家し、原家の持高は九石一斗九升一合二勺となった。分家の次郎兵衛家は、寛政六年(一(3)七九四)「商売家数等番上」によると、「間口五問半青海苔かつき商任侠、天明元年占商売致来申候」とあるo原家
は持高九石余所持の上層農民であり'分家の次郎兵衛家は二石四斗余で段間余業によって生計を補充していたものと
「金銭出入党帳」の性格と内容(1)(蘇)一一五三
史料館研究紀要第二八号
いえる。
次に原家文書の概要について簡単に述べ'「金銭出入党帳」の占める意味を考えてみよう。
原家文書は、稔点数二二二点で最古のものは元文元年二七三六)'最新のものは大正八年二九一九)である。そ
の文書内容は大別して'支配関係文書と私文書があり、前者には年貢関係・助郷関係・村況関係'後者には金銭山人
関係・冠婚葬祭・教育関係等がみられる。それらの主要のものを掲示すると次のとおりである。
支配関係文書の年貢に関しては、年貢皆済状が元文元年から慶応二年(一八六六)までの間に七〇点(但しこれは'
名主が村民に発行したもの)'諸税領収書が明治一〇年(一八七七)から大正八年二九一九)までの問に四五点ある。助
郷関係では'明和二年二七六五)「品河役組高割合帳」'同三年・同四年「品川人馬割取帳」'天明二年二七八二)「品川助人馬組合改め党帳」、文化三年(一八〇六)「御用人足・品川人足出勤高党帳」'同一二年二八一五)「品川人
足ほか勤高覚帳」がある。村況関係では'安永九年(一七八〇)「武蔵国荏原郡世田ケ谷領奥沢相鉄様子大概書」'天
明四年二七八四)・同五年「五人祖宗門人別改メ下書」、寛政二年(一七九〇)「安永八亥年当成年人別増減書上」、
寛政六年二七九四)「商売家書上帳」'同年「農間渡世書上帳」がみられる。
私文書関係では、金銭出入関係として'元文元年「万覚書帳内手相」'同年「御年貢上納万帳」'同二年「茄子等出
荷党帳」、宝暦三年(1七五三)・同五年・同1一年・文化三年(1八〇六)の「金銭出入党帳」'安永元年(1七七
六)・天明六年(1七八六)の「万覚帳」・文化三年(l八〇六)の「金銭出入党帳」がある。冠婚葬祭に関するもの
としては'安永五年(一七七六)「窓悦妙印理葬につき後日之党」、素永四年二八五二・安政二年二八五五)の「御
祝儀覚帳」、明治一二年二八七九)「香莫帳」'同二七年二八九四)「先祖弐百年忌香莫帳」が存在している。教育関
係としては'寛政四年(一七九二)「新童子往来万世宝鑑」'明治四〇年(一九〇六)「小学校生徒授業料督促状」があ
る。勿論このほかにも種々あるが、ここでは省略する。
次に奥沢村の歴史的概観について述べてみよう。
三奥沢村の歴史的概要
H原始・古代・中世の「奥沢」「奥沢」は「おくさわ」「おくざわ」ともいう。地名の由来は'荏原郡内にある七沢の一つに奥沢があったことに(4)よるという。「奥沢」の原始・古代・中世に関しては、ほとんど未詳であるが'原始・古代に関しては、縄文中期の土許・石(5)斧・石鉄や竪穴住居地群が発見されている。また古墳も多摩川古墳群の一つである「あたご塚」が奥沢本村にある。
中世については、貞和年
間
二三四五〜四六)頃よ
り書良治家
の所領と
なり、天正 一
八年
二五九〇)の吉良氏朝の(6)没落まで続いたとい
う.浄真寺
の境内はもと吉良氏の
塁跡であ っ
たとも
、吉良氏の家
臣大平
出羽守の居住地であった(7)ともいう。⇔近世「奥沢」の支配形態
天正一八年二五九〇)の後北条氏の滅亡と共に吉良氏の所領も消滅し、徳川家康の関東入国により「奥沢」は飴
川氏の直轄領に編入され'武州荏原郡世田谷領奥沢相と称した。
天正1九年(一五九1)家康は直参渡辺勝(孫三郎)に武州都筑・荏原両郡のうちで二二〇石の知行所を与えたが'
その一部として奥沢村五五石が渡辺勝の所領とな‑、以後明治維新まで続いた。知行所の御朱印が下付されたのは三
「金銭山入党帳」の性格と内容(こ(蘇)一五五
史料館研究紀要第二八号(8)代将軍家光の寛永二年二六二五)のときであった。 7五六
正保期(1六四四〜四七)のr武蔵田園簿Jによると'奥沢村は渡辺孫三郎知行として村高五五石であり、村高の内(9)訳は田方が四四石、畑方が三石という小村であることが判明する。
寛文期二六六一‑七二)は新田開発が大規模に進められた時期であるが'その例にもれず「奥沢」でも寛文二年
(一六六二)に本村の西方が開墾され'寛文九年には検地を受け'奥沢新田相が成立し、幕府直轄領に編入された。元
禄八年二六九五)には織田越前守信久の検地をうけ'村高四〇七石三斗二升七合とな‑'本村の村高五五石に比較
すると村高の規模が約八倍である。
寛延三年(l七五〇)の「御定免反取書上ケ帳」によると'奥沢村(新田村)は村高四〇七石三斗七升七合で、臼方
は全然存在せず'畑方八八町四反五畝四歩である。このほか村高には編入されていない林・原・薮・芝地などが四町(10)四反五畝歩ほどあった。
文政一〇年二八二七)の改革組合村結成のときの村高では'奥沢本村は渡辺栄之丞知行所高五五石であり、奥沢(‖‑村は幕府代官中村八太夫支配で高四〇七石三斗七升七合となってお
り '
変化していない。明治元年二八六八)のr旧高旧領取調帳」では'奥沢本村は渡辺修理知行五五石'奥沢村四〇七石五斗八升一合(12)となり'翌二年からは品川県に編入され、さらに同四年から東京府の管轄とな‑、第七大区六小区に属した。
明治五年(1八七二)のr東京府志科」では、奥沢本村の反別として田が111町七反九畝二九歩'畑が五町三反七畝
二五歩とあり'これが村高五五石の反別の内容であることがわかる。奥沢村の反別は畑が八八町八反三畝二〇歩と(13)あ‑、上記の寛延三年(一七五〇)の頃とほとんど変化していないことがわかる。
臼近世「奥沢」の村落動向
◎端点・・<□e宙翻
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〔第1表〕家数・人口の動態
本村.新
田年号(西 暦)内
容奥沢柑(本村)奥沢新田村(奥沢村)合計出典家致人口(男.女)家致入口(男.女)局家致人口(罪.女)安永8年(1779)安永9年(1780)天明4年(1784)寛政2年(1790)寛政6年(1794)化政期(1804‑29)天保14年(1843)明治5年(1872)212626145(69.76)10296102102105106106113445447.448666(343.323).24209127132139811(412.399)r区史料J第4集〟/y/y/Ir風土記
稲Jr区史料]第3集r東京府志科J大正3年(1914)大正9年(1920)昭和5年(1930)162344113412941807(957.850)5376
( 2747.2629)r玉川沿革誌]//
〟(注)昭和5年の家数の数字は世帯数である。
「朝は玉r