音楽科におけるつまずきとその支援
著者 水戸 博道
雑誌名 明治学院大学心理学部付属研究所年報 = Annual
Report of the Meiji Gakuin Institute for Psychological Research
巻 6
ページ 45‑47
発行年 2013‑05
その他のタイトル Stumbling blocks and its assistance in school music education
URL http://hdl.handle.net/10723/00003746
心理学部付属研究所年報 第 6 号
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特 集音楽科におけるつまずきとその支援
心理学部付属研究所年報 第 6 号 P45―47
1.音楽科における学力の獲得
音楽教育の第一の目的は,学習指導要領も示 すように,豊かな情操を養うことである。学習 指導要領には,情操教育に関して「音楽を聴い てこれを美しいと感じ,更に美しさを求めよう とする柔らかな感性によって育てられる豊かな 心」という具体的な解説が示されており,音楽 教育が美的情操という審美的教育に重きをおい ていることが明示されている。
情操教育が教科の主目的であるならば,当然 それが獲得されたことが,明確に学力として見 えてくる必要がある。しかし,情操と言う審美 的な心の発達の過程を,学力の獲得として段階 的に評価していくことは簡単ではない。情操と は,誰もがわかるような系統的な段階を経て発 達していくようなものではなく,長期的な過程 を経て少しずつ身についていくものである。
一方,他の教科においては,一人ひとりの児 童生徒の学力が延びていく様相を,知識が系統 的に積み上がる過程や,理論的な思考力が発展 していく過程として評価し,それを短期的な過 程で見取っていくことが可能である。例えば,
算数でいえば,足し算や引き算の概念の理解が 確立してからかけ算や割り算という概念の理解 に進んでいくことができる。また,国語や社会 科においても,さまざまな知識は無関係に積み 上るのではなく,系統的に獲得されていく。そ して,こうした学力向上の様子は,テストなど で段階的に細かく評価していくことができるの である。
本稿の目的は,音楽科の学習におけるつまず きに注目し,つまずいた児童生徒をどのように
支援していくかを考えることである。そのため には,まず,音楽科では,学力の獲得とその評 価を長いスパンで見ていかなくてはならいこと を確認しておく必要があるのである。もちろ ん,音楽科においても,演奏などにおける表現 技術や読譜の能力のように,ある程度の段階性 があり,獲得過程を細かく見取っていくことが 可能な学力の側面もある。事実,音楽の学習指 導要領には,小学校であれば,1−2,3−4,5
−6 と 3 段階に分けて表現や読譜に関する学習 内容が示されている。しかし,こうした学習内 容は,たとえば,算数におけるように,足し算 ができて,その次にかけ算といったような系統 的な段階とは異なる。さらに言えば,学習指導 要領に示された学習段階は,情操の獲得という 音楽科の本質的な目標を直接反映しているよう な段階ではなく,情操の獲得を支えていくため の諸活動を段階的に示していると見ることがで きる。本稿では,審美的な教育という音楽科の 本質的目標に向けて音楽の学力を考え,その上 で音楽科におけるつまずきとその支援について 検討する。
2.音楽科におけるつまずき
教育現場でみられるつまずきは,特定の課題 ができず次の課題に進めないといった短期的な ものから,学習がいろんな要因でおくれていき,
結果的に,特定の教科の学習や,学校での学習 全般が他の児童生徒から取り残されていくよう な,長期的かつ総合的なつまずきまで様々であ る。
音楽科におけるつまずきは,前節で説明した 心理学部・教育発達学科 水戸 博道
【特集 2 】
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教科の目的から考えると,何か一つのことが分 からなくなって次に進めなくなるという短期的 なものではなく,長期的なつまずきが大きな問 題となると考えられる。つまり,音楽科におけ るつまずきは,音楽の多様な学習が遅れていき,
その結果,音楽の学習全般に取り残されていっ てしまうケースを問題としなくてはならないの である。音楽において深刻なのは,こうしたつ まずきの結果,音楽に向かう興味・関心そのも のがなくなってしまったり,音楽が完全に苦手 教科となってしまうことである。さらに悪い場 合,音楽に対する嫌悪感や恐怖さえ持ってしま い,音楽の学習を遮断してしまうことも決して 少なくない。そして,こうしたつまずきが,音 楽科の目的である審美的教育を強く妨げるので ある.
では,音楽科におけるこのようなつまずきは,
どのようにして起こるのであろうか。音楽科の 学習内容の大きな特徴の一つは,技能習得が必 要とされる領域が多く占めることである。音楽 科の表現の領域には,歌唱,器楽,音楽づくり が含まれるが,これらの活動は,基礎的な技能 を習得して初めて学習として成立する。もちろ ん,音楽科だけが技能の習得に重点がおかれる 教科ではなく,たとえば,体育や図画工作にお いてもさまざまな種類の技能習得は,教科の学 習の基礎となる。しかし,技能教科としての音 楽科の特徴は,習得した技能を歌唱や楽器演奏 として人前で披露することが前提とされ,この 行為が児童生徒にとってかなりの心理的負担と なっている点にある。自分の演奏を人前で見せ る,また,演奏をテストなどで評価されること は,児童生徒にとってかなりのプレッシャーと なり,これが積み重なって学習が遅れていく要 因となることが多い。そして,これが既に述べ た様な長期的なつまずきにつながっていくので ある。
音楽演奏は,他のパフォーマンス領域に比べ
て非常に繊細な身体コントロールを必要とし,
人前でのパフォーマンスにはかなりの不安がつ きまとう。心理学の研究では,音楽,演劇など さまざまな分野でのパフォーマンスの不安を調 べた報告があるが,音楽演奏の不安が最も大き いことが明らかにされている。また,学校現場 でも,人前で歌うことが児童生徒に大きな心理 的不安をあたえていることが明らかにされてい る。
人前での演奏不安に関しては,児童生徒の間 の演奏技能の能力差も,それを深刻化させる大 きな要因となっていることが考えられる。日本 では,ピアノ,ヴァイオリンなど西洋音楽のお 稽古ごとがとても盛んであり,こうしたお稽古 ごとに通っている児童生徒と,まったく通った ことがない児童生徒の演奏技能や読譜技能の差 は極めて大きい。そして,このような格差の中 で演奏することは,技能の劣っている児童生徒 にとっては,大きな心理的負担がかかるのであ る。
このように,音楽科においては,音楽演奏に おける心理的負担と,教室内での技能格差が,
音楽への興味関心の低下や音楽への強い苦手意 識へとつながっていくのである。そして,この ようなつまずきが,長期的な音楽学習によって 養われるべき音楽科の本質的な目的,すなわち 美的情操の育成を妨げるのである。
3.つまずきへの支援
それでは,こうした音楽科のつまずきに対し てどのような支援が可能であろうか。実は,学 校における音楽嫌いの問題や音楽への苦手意識 の克服に対しては,これまでも,さまざまな取 り組みが行われている。しかし,こうした取り 組みの多くは,歌唱,器楽,音楽づくりの活動 をいかに「楽しく」行うかに集中しており,残 念ながら,審美的教育という音楽科の本質的な
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目標を視野に入れたつまずきの克服にはつな がっていないことが多い。確かに,音楽活動の 楽しさは,音楽科への興味・関心につながり,
学校における音楽の学習で常に留意しなくては ならない重要な点である。しかし,楽しさを追 求した音楽活動は,音楽活動の質が犠牲とされ る場合もあり,楽しさを主眼とした音楽活動は,
つまずきへの対処的な支援にしか過ぎない場合 が多いのである。音楽の美的体験によって養わ れる情操の発達には,質の高い音楽表現の活動 が必須であり,演奏技能の質を高め,音楽活動 の質的向上をはかることなく美的教育の目標は 達成されない。
音楽科における大きな課題は,音楽活動の質 にこだわって審美的な教育に志向すればするほ ど,演奏不安による心理的負担や技能格差がよ り顕在化し,つまずきがより深刻化することが 多いことである。しかし,長期的な視野にたっ た支援により,こうした課題は必ず克服できる ことを,学校における音楽教育はもっと理解す る必要があるだろう。本稿において繰り返しの べてきたように,音楽の根本的な技能の発達は,
何か一つのきっかけであることが理解でき,学 習が飛躍的に改善したりするような性質のもの ではない。音楽の技能は,長い時間をかけて少 しずつ熟達していくものであって,技能の獲得 を短期的な視野で考えてはいけない。
こうした技能獲得の視点から現在の学校にお ける音楽的技能の指導を見てみると,事態はか なり深刻である。専科でない小学校教員の音楽 の指導力は,残念ながら決して高くなく,こう した教員が,まず最初に正しい技能を身につけ なくてはならない低学年の音楽科を担当せざる を得ない。また,その後の指導においても,音 楽の担当が変わるごとに指導内容の方向性が変 わる場合も多く,一貫した指導が行われること が少ない。算数や国語などの教科においては,
担任が変わっても教科書にそって系統的な指導
が行われている場合が多いのに対して,音楽に おいては,たとえば,リコーダーの指導や読譜 技能の指導が,1学年から6学年まで全校を通 して一貫的に行われることは稀である。
こうして考えると,音楽におけるつまずきの 支援は,着実な技能獲得を,長期的な視野にたっ て地道におこなっていくことが最も重要となっ てくるだろう。繰り返しになるが,美的情操は,
質の高い音楽活動を長期的に行っていくことに よって少しずつ獲得されていくものである。そ して,そのためには,さまざまな音楽的技能を 着実に身につけていかなくてはならない。残念 ながら,現在の学校における音楽の学習では,
長期的な視野に立って音楽的技能の獲得がおこ なわれているとはいえない。音楽科におけるつ まずきの深刻さは理解されつつも,それが長期 的な支援によらなくては,根本的に解決されな いことは,未だ深く認識されていないように思 われる。
確かに,現在の少ない音楽科の時間数で,児 童生徒にさまざまな音楽的技能を十分に習得さ せることは容易ではない。しかし,小学校6年 間,中学校3年間での一貫した指導の必要性が 見直されれば,児童生徒の音楽的技能は飛躍的 に向上することが見込まれる。もちろん,一貫 した技能獲得は,一人ひとりの教師だけの努力 で達成されるものではなく,学校全体の協力体 制があって初めて達成されるものであり,その システム作りには根気と時間が必要である。し かし,十分な音楽的技能の獲得は,今の学校教 育の中ではできないという,半ばあきらめに近 い様な認識が音楽科教育にあるとしたら,これ は大変残念なことである。長期的な視野に立っ たつまずきの支援が,学校教育の中で一日も早 く確立されることが望まれる。