韓 国 ・社 会保障法制 の基盤形成過程
一 所 得保 障制 度 を 中心 に 一
片 桐 由 喜
は じめ に
第1章 軍事 政権 下 にお け る社 会 保障制 度
第1節 混乱 期 の社 会保 障 一1948年 〜1962年 一
第2節 「 先 成 長後 分配」 期 の社会 保 障 一1963年 〜1976年 一 第3節 政 策比重 転換 期 の社会 保 障 一1977年 〜1988年 一 第2章 公 的年 金制 度の創 設
第1節 国民 福祉 年金 法 の成立(以 上,本 号) 第2節 国民 年金 法 の成立
第3章 公 的扶助 制 度の意 義 と役割 一 生活 保護 法か ら国民 基礎 生 活保 障法へ 一 第4章 韓 国所得 保 障制 度の特 徴
まとめ にか えて
は じ め に
第 二 次 世 界 大 戦 後 の 翌1946年,わ が 国 は 日本 国 憲 法 を 制 定 し,25条 に生 存 権 規 定 をお い た 。 以 後,今 日 に至 る まで 同 条 を根 拠 に社 会 保 障 制 度 が整 備 ・発 展 して き た。 そ して,1960年 の 朝 日訴 訟 を契 機 と し て1),憲 法25条 の 裁 判 規 範 性 が 早 い 時 期 か ら問 わ れ た2)。 朝 日訴 訟 に お い て,同 規 定 が 裁 判 規 範 と して 有 効
*本 文 お よび引 用文 献 中,韓 国語 表記 につい ては原 文 とお りの漢 字お よびハ ング ル表 記 とした。 なお,韓 国語文 献 中の漢 字 は旧字 体 であ るが,そ れ らは現 在,日 本 で使 用 され てい る漢字 に直 して表記 した。
1)一 審 東 京 地 判 昭35・10・19行 集11巻10号2921頁,控 訴 審 東 京 高 判 昭38・11・4 行 集14巻11号1963頁,最 大 判 昭35・5・24民 集21巻5号1043頁 。
2)す な わ ち,憲 法25条 の 効 力 が プ ロ グ ラ ム 規 定 説,抽 象 的権 利 説 お よ び 具 体 的 権 利
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58 商 学 討 究 第56巻 第1号
で あ る こ とが 明 らか に さ れ て 以 後3),個 別社 会 保 障 立 法 の違 憲 性,あ る い は社 会 保 障 領 域 にお け る 立 法 の不 作 為 の 違 憲 性4)な ど を争 う社 会 保 障 関 連 判 例 が 蓄 積 され て きた5)。
一 方 ,韓 国 は1948年,大 韓 民 国樹 立 と同 時 に最 初 の 憲 法(制 憲 憲 法)を 制 定 し6),そ の 後,今 日 まで9次 にわ た る 改 正 が 行 わ れ て い る。9回 の改 正 の う ち, 4回 が 全 文 改 正 で あ る。す な わ ち,1962年(第 三 共 和 国),1972年(第 四 共 和 国, 維 新 憲 法),1980年(第 五 共 和 国),1987年(第 六 共 和 国,現 行 憲 法)の4回 で あ る 。 社 会 保 障 制 度 を 国 家 の 責 務 と 定 め る 生 存 権 規 定 は そ れ ぞ れ 制 憲 憲 法19 条7),1962年 憲 法30条8),1980年 憲 法32条9),1987年 憲 法34条 に お か れ た10)。
説 等,ど の 性 質 を有 す る か が 議 論 さ れ た 。こ れ につ い て は 中村 睦 男 「生 存 と憲 法 」『講 座 憲 法 学4権 利 の 保 障(2)』(日 本 評 論 社,1994年)47頁,等 。
3)憲 法 の裁 判 規 範 性 に つ い て 堀 勝 洋 『社 会 保 障 法 総 論 第2版 』(東 京 大 学 出 版 会, 2004年)126〜194頁 。
4)最 近 の 立 法 不 作 為 違 憲 判 決 に は い わ ゆ る 学 生 無 年 金 訴 訟 が あ る 。 東 京 地 判 平16・
3・24判 時1852号3頁,新 潟 地 判 平16・10・28判 例 集 未 登 載,最 高 裁 ホ ー ム ペ ー ジ http://courtdomino2.courts.go.jp/kshanrei.nsf参 照,広 島 地 判 平17・3・3判 例 集 未 登 載,福 岡 地 判 平17・4・22判 例 集 未 登 載 。 た だ し,東 京 高 判 平17・3・25判 例 集 未 登 載 は前 記 東 京 地 裁 判 決 を 取 り消 し,立 法 の 不 作 為 が 違 憲 と は い え な い と判 示 し た 。
5)判 例 分 析 と して,岩 村 正 彦 『 社 会 保 障 法1』(弘 文 堂,2001年)30〜38頁 。 6)韓 国 憲 法 に 関 す る 邦 語 文 献 と して 韓 国 民 事 法 務 研 究 会 訳 編 『 韓 国 憲 法 ・戸 籍 法 ・
親 族 法 ・相 続 法:89年 改 正 版 ・91年 施 行 』(韓 国 通 信 社,1991年),金 哲 沫 『 韓 国 憲 法 の50年 』(敬 文 堂,1998年)等 が あ る 。
7)制 憲 憲 法19条 老 齢,疾 病,そ の 他 労 働 能 力 の 喪 失 に よ り生 活 維 持 の 能 力 が な い 者 は,法 律 の 定 め る と こ ろ に よ り国 家 の 保 護 を 受 け る 。
8)1962年 憲 法30条 ① す べ て 国 民 は 人 間 ら しい 生 活 を す る 権 利 を有 す る 。
② 国 家 は 社 会 保 障 の 増 進 に努 力 しな け れ ば な らな い 。
③ 生 活 能 力 が な い 国 民 は 法 律 が 定 め る と こ ろ に よ り,国 家 の 保 護 を受 け る 。 な お,1972年 維 新 憲 法 の 生 存 権 規 定 は1962年 憲 法 と 同 じ く30条 に規 定 さ れ,条 文 の 文 言 も 同 一 で あ る 。
9)1980年 憲 法32条 ① す べ て 国 民 は 人 間 ら しい 生 活 を す る 権 利 を有 す る 。
② 国 家 は 社 会 保 障 ・社 会 福 祉 の 増 進 に 努 力 す る 義 務 を負 う。
③ 生 活 能 力 が な い 国 民 は 法 律 が 定 め る と こ ろ に よ り,国 家 の 保 護 を受 け る 。 10)1987年 憲 法34条 ① す べ て 国 民 は 人 間 ら しい 生 活 を す る権 利 を有 す る 。
② 国 家 は 社 会 保 障 ・社 会 福 祉 の 増 進 に 努 力 す る 義 務 を負 う。
③ 国 家 は 女 子 の福 祉 と権 益 の 向 上 の た め に 努 力 し な け れ ば な ら な い 。
④ 国 家 は 老 人 と青 少 年 の福 祉 向 上 の た め の 政 策 を実 施 す る 義 務 を 負 う 。
韓 国 ・社 会保 障法 制の 基盤形 成 過程 59 しか し なが ら,韓 国憲 法 の 生 存 権 規 定 が 日本 国 憲 法25条 と同 じ よ うな 役 割 を 果 た して き た とい う こ とは 困 難 で あ る 。 そ れ は 日本 国憲 法 の 生 存 権 規 定 が そ の 後 の社 会 保 障 立 法 の 整 備 ・発 展 の法 的 根 拠 とな り,権 利 と して の 社 会 保 障 を形 成 す る の に 貢 献 して き た の に 対 し11),韓 国 に お け る社 会 保 障 立 法 は 生 存 権 規 定 よ りは む しろ,政 治 的,経 済 的動 機 に促 さ れ て 形 成 さ れ て き たか ら とい え る か らで あ る。 い わ ゆ る道 具 と して の社 会 保 障 制 度 で あ る12)。
さ ら に,韓 国 にお い て 制 憲 憲 法 以 来,生 存 権 規 定 が 存 在 して きた に もか か わ らず,社 会 保 障 立 法 な い し は立 法 の 不 作 為 の違 憲 性 が 判 断 され る訴 訟 は,1988 年 の 憲 法 裁 判 所 の 設 立13)ま で 皆 無 で あ っ た14)。 こ れ は こ の 間 の 韓 国 の 国 情 に 起 因 す る15)。この よ う な判 例 の 蓄積 が な い状 態 が 長 く続 い た た め,韓 国 の 場 合,
⑤ 身体 障 害 者 お よび 疾 病 ・老 齢 そ の 他 の 自 由 に よ り生 活 能 力 が な い 国 民 は法 律 が 定 め る と こ ろ に よ り国 家 の 保 護 を 受 け る。
⑥ 国 家 は 災 害 を予 防 し,そ の 危 険 か ら 国 民 を 保 護 す る た め の 努 力 を し な け れ ば な らな い 。
11)社 会 保 障 の 権 利 につ い て は,遠 藤 昇 三 『 社 会 保 障 の 権 理 論 』(法律 文 化 社,1994年), 菊 池 馨 実 「第3章 社 会 保 障 の 権 利 」 日本 社 会 保 障 法 学 会 編 『 講 座 社 会 保 障 法 第1巻21世 紀 の 社 会 保 障 法 』(法 律 文 化 社,2001年)54〜77頁,等 。
12)ola]Pt。 「 邊 号 斜dE号 旦 智 測 呈:曽 斉 層 智 潮 限 界 斗 脱 三 子 糾q斗 刈 」
『q刈 入団 昇 ス阻 干 』1巻(1993年)73頁 は 「1987年6月29日 宣 言 ま で 所 得 保 障 は ほ と ん ど 一 貫 し て,権 威 主 義 的 な 国 家 の 周 辺 的 な 統 治 道 具 の ひ とつ で あ っ た 」 と述 べ る 。
13)韓 国 憲 法 裁 判 所 の 沿 革,制 度 構 造 につ い て は,韓 国 憲 法 裁 判 所 編 『 憲 法 裁 判 所10 年 史 』(信 山社,2000年),申 平 「韓 国 の 憲 法 裁 判 所 」 『ジ ュ リ ス ト』954号(1990年) 107〜114頁,趙 柄 倫 「 韓 国 の 憲 法 裁 判 の 意 義 と構 造 」『法 律 時 報 』63巻7号(1991年) 28〜36頁,黄 祐 呂 「韓 国 憲 法 裁 判 所 の 運 営 の 実 情 」 同37〜44頁,等 が あ る。
14)違 憲 審 査 制 度 は 第 一 共 和 国 時 代 か ら存 在 した 。 しか し,1948年 か ら1988年 ま で に 提 起 さ れ た 憲 法 訴 願 は10件,そ の う ち違 憲 判 決 は4件 の み で あ る。 い ず れ も社 会 保 障 法 関 連 で は な い 。一 方,現 在,憲 法 裁 判 所 が 受 理 す る 案 件 は年 間1000件 を越 え る 。 詳 細 な 統 計 は,韓 国 憲 法 裁 判 所 の ホ ー ム ペ ー ジ参 照(http://www.court.go.kr)。
現 在 は社 会 保 障 法 関 連 の 憲 法 裁 判 例 が 増 加 し て い る 。判 例 に つ い て は,招 鵯 甘 『 憲 法 裁 判 研 究 第11巻 社 会 保 険 法 斜 憲 法 的 問 題 ・1]書 邊 研 究 』(2000年,憲 法 裁 判 所)231〜303頁,石 看 司 『尋 …}朴司 旦 智 唱 忌』(2003年)129〜131頁 を参 照 。 15)韓 国 民 主 化 の 過 程 と憲 法 裁 判 所 との 関 係 に つ い て は,鄭 宗 隻 「韓 国 の 民 主 化 過 程
に お け る 憲 法 裁 判 所 の 基 本 権 の 実 現 一一 九 八 八 年 か ら一 九 九 八 年 ま で 一」 『立 命 館
法 学 』266号(1999年)936〜970頁,同 「韓 国 の 民 主 化 に お け る 憲 法 裁 判 所 と権 力
統 制 一一 九 八 八 年 か ら一 九 九 八 年 ま で 一」 同273号(2000年)2410〜2451頁 。
60 商 学 討 究 第56巻 第1号
生 存 権 規 定 と社 会 保 障 との 関 係 に つ い て の 研 究 が16),日 本 ほ ど は広 範 囲 に 行 わ れ て い な い17)。
した が っ て韓 国社 会 保 障 法 を研 究 す る と きに は,憲 法 が 少 な くと も1988年 ま で は社 会 保 障 に とっ て 規 範 と し て の 意 義 を有 して い な か っ た こ と に留 意 し な け れ ば な ら ない 。
とこ ろ で,こ れ まで の 社 会 保 障 法 比 較 研 究 の対 象 は,民 主 主 義 と 自 由 を 標 榜 す る西 欧福 祉 先 進 国 が 中 心 で あ っ た。 これ らの 国 々 の 社 会 保 障 立 法 が こ の 理 念 に基 づ い て い る こ と を前 提 に,各 国 の 法 制 度 の原 理,理 念 あ る い は特 徴 を探 求 し,日 本 法 へ の 示 唆 と して何 が 言 え る か を研 究 の対 象 と して きた 。 そ して,そ の 原 理 や理 念 と は,自 由,連 帯 あ る い は 自治 な どで あ っ・ た。 他 方,後 発 福 祉 国 家 の 社 会 保 障 制 度 を研 究 す る場 合 に は,そ れ ら国家 に社 会 保 障 制 度 が 作 られ た 理 由 や 背 景 は 何 か が研 究 対 象 と され,そ れ は 一 般 的 に 体 制 安 定,政 権 の正 統 化
と結 論 づ け られ る こ とが 多 か っ た 。
しか しな が ら,後 発 福 祉 国家 一 こ こ で は 韓 国 を念 頭 にお い て 一の 研 究 に 際 し て,そ もそ も,そ こ に は 社 会 保 障 の 立 法 理 念 が 存 在 す るの か 否 か,存 在 す る と す れ ば どの よ う な性 質 か,そ して,そ の理 念 が 実 際 に どの 程 度,実 現 され,国 民 の 生 存 権 保 障 に寄 与 した か 否 か な ど は こ れ ま で 十 分 に検 討 さ れ て こ な か っ
た 。 さ らに,仮 に制 度 が 不 存 在 あ るい は形 骸 化 し て い た と し て も,人 間 の 営 為 は 国 情 を問 わ ず 等 しい 。 した が っ て,社 会 保 障 制 度 が 未 整 備 状 態 の 場 合 に,何
16)韓 国 に お け る先 行 業 績 と し て,許 永 敏 「生 存 権 的 基 本ue・llモ 腫}研 究 」『 極 東 論 叢 』 2巻(1974年)139〜163頁,金 英 勲 「生 存 権 的 基 本 権 朔 普 聾 研 究 」 『 西 京 大 学 校 論 文 集 』6巻(1978年)129〜149頁,叫 望 ぞ 「 想 善 週 到 唱 苓 層 瑚 」 『朴 唱 墾 相 』
22巻2号(1981年)19〜23頁,。1{}子 「 生 存 権 法 理 到 再 検 討 」 『法 大 論 叢 』21巻 (1983年)25〜43頁,金 萬 斗 「憲 法 斗 社 会 福 祉 一生 存 権 的 基 本 権 金 中心 一9一 呈 一 」
『 社 会 事 業 論 集 』(1985年)9巻1号3〜33頁 ,金 承 祖 「生 存 権 潮 憲 法 上 潮 地 位 」
『 法 律 行 政 論 集 』1巻(1993年)141〜158頁 ,等 が あ る。
17)雑 誌 検 索 シ ス テ ム 利 用 時 に,検 索 語 を 「憲 法 社 会 保 障 」 とす る と 日本 の 場 合
(ciNii)は73件,韓 国(KERIs)の 場 合2件,検 索 語 を 「生 存 権 」 とす る と,同
じ く425件,84件 で あ る(2005年4月 末 現 在)。 も ち ろ ん,こ れ が 研 究 成 果 の す べ て
を網 羅 して い る わ け で は な い が,ひ とつ の 目安 に な ろ う。
韓 国 ・社会 保障 法制 の基 盤形 成過程 61 が これ に代 替 す る もの と して 機 能 して い た か,そ の 代 替 す る もの と制 度 との 相 互 関係 は い か な る もの で あ っ た か も,ま だ,十 分 に は解 明 され て い な い 。
本 稿 の 問 題 関心 は 上 記 に述 べ た 諸 点 で あ る。 こ れ らの 諸 問 題 を解 明 す る た め に,軍 事 政 権 下 に お け る社 会 保 障 制 度 の 特 徴 を 明 らか にす る こ とが 本 稿 の 目的 で あ る。 韓 国 で は 軍 事 政 権 期 中 に多 くの 社 会 保 障立 法 が 成 立 し,そ れ らが 今 日 の 社 会 保 障 制 度 の基 盤 を形 成 して い る か らで あ る。 そ れ ゆ え,現 行 法 の研 究 に 先 立 っ て この 時 代 の 立 法 を理 解 す る必 要 が あ る。 さ ら に,検 討 に あ た り,当 時 の 韓 国 社 会 保 障 制 度 が 一 般 的 に 言 わ れ る よ う に,単 な る 政 権 の 道 具 に 過 ぎな か っ た の か を も視 座 に 含 め る 。
まず,第1章 で は,建 国 か ら民 主 化 宣 言 が 出 さ れ た1988年 ま で の 韓 国 社 会 保 障 立 法 の状 況 を概 観 す る。 つ い で 第2章 お よ び第3章 で は そ れ ぞ れ 公 的年 金 法 と生 活 保 護 法 の 立 法 過 程 お よび そ の 特 徴 と意 義 につ い て 論 ず る 。 最 後 に韓 国所 得 保 障 法 制 の 特 徴 に つ き論 じた い 。 な お,検 討 す る 際 に は 日本 法 との 対 比 を 試 み る こ と,お よ び立 法 にお け る 事 情 が 韓 国 特 有 の現 象 な の か そ れ と も ア ジ ア 諸 国 あ る い は 国 を 問 わ ず 普 遍 的 に存 在 す る もの な の か を常 に念 頭 に お い て論 じた
い 。