ル ー ドル フ ・ ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 伝 初 章
倉 田 稔
目 次
は じめ に
ハ プ ス ブ ル ク
ウ ィ ー ソ の ユ ダヤ 人 社 会 生 いた ち
は じめ に
本 稿 は,ド ィ ッ お よ び オ ー ス ト リ ア の 経 済 学 者 ル ー ドル フ ・ ヒ ル フ ァ デ ィ ソ
く な
グ(RudolfHilferding,1877〜1941)伝 の 初 章 を な す 。 か れ の 伝 記 と し て,シ (1)筆 老 は,若 き ヒル フ ァデ ィ ン グ の 伝 記 を 書 い て き た の で,下 記 の 順 で 読 ん で 頂 け れ ば
幸 い で あ る 。 1.本 稿
2.「 若 き ヒ ル フ ァ デaン グー そ の ウ ィ ー ン時 代 」(r季 刊 社 会 思 想 』3巻2号, 1973年)
3.「 ド イ ツ 社 会 民 主 党 と ス トラ イ キ 論 争 一 ヒ ル フ ァデ ィ ン グ とPLザ 」(『 労 働 運 動 史 研 究 』59集,労 働 旬 報 社,1976年)
4.「 ヒル フ ァ デ ィ ン グ とr金 融 資 本 論 』の 時 代 」(r歴 史 学 研 究 』418号,1975年3月) 5.「 第1次 世 界 戦 争 と ヒ ル フ ァデ ィ ソ グ ー ベ ル リン 時 代 」(『 商 学 討 究 』27巻2
号,1976年)1
6.「 ヒル フ ァ デ ィ ン グ(1915〜1918年)一 ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 」(r人 文 研 究 』56輯,1978年)
な お,こ れ 以 外 に 参 考 と し て
7.「 ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ン グの 伝 記 的 新 資 料 」(r三 田 学 会 雑 誌 』65巻10号 1972年)
8.r金 融 資 本 論 の 成 立 』(青 木 書 店1975年)
9.RudolfHilferding.WienerZeit.EineBiographie(1.II。III),in:『 商 学 討 究 』(26巻2号,1975;29巻2号,1978年;30巻1号,1979年)
[29コ
30 人 文 研 究 第59輯
ユ タ イ ジ2≧ゴ ッ トシ ャ ル 凸)き わ め 七 短 い 作 品 が あ る。 前 者 は 小 冊 子 で あ り, 後 者 は 同氏 の著 書 の第1章 であ る。双 方 と も伝 記 と して は不 十 分 な もの で あ る。
ハプ スブ ル ク
・・プ ス ブ ル クHabsburg家 は,第1次 世 界 戦 争 を き っ か け に ,ロ ・マ ノ ブ,ホ 一 エ ソ ツ ォル レル ソ両 家 と と もに ,世 界 地 図 の上 か ら永 久 に 消 え 去 った 王 朝 で あ るが,欧 州随 一 を誇 る由緒 あ る名 家 で あ った 。す な わ ち ナ ポ レオ ソの登場 ま
り ゆ
で は,神 聖 ロー マ 帝 国 皇 帝 の 冠 を 戴 い て い た の で あ る 。 同 家 を興 した 人 物 は, ル ー ドル フ1世(RudolfI,ド イ ツ国 王 と して在 位1273〜91)で あ り,も とは ス イス の小 領 主 で あ った。 英 明 の人 と呼 ば れ るか れは,ド イ ツ国王 に選 ば れ て か ら,東 方 諸 国 を 支 配 し,帝 国 の 礎 を 築 いた 。 詩 人 フ リー トリ ヒ ・シ ラ ー(Fr
iedrichSchiller,1759〜1805)は,バ ラ ー ド 「デ ア ・ グ ラ ー フ ・ フ ォ ソ ・ ハ ブ ぐの
ス ブ ル ク 」DerGrafTvonHabsburgで,こ の ル ー ド ル フ 王 を 讃 え て い る が,
そ れ は故 な しと しな い の であ る。
ドイ ツ人 の 支 配 は,ハ プ ス ブル ク家 に 先 立 つ バ ーベ ソベ ル ク 家DieBaben'
bergerか ら 数 え れ ば,ほ と ん ど 千 年 に お よ び,か か る ナ ー ス ト リ ア の 君 主 国
(2)AlexanderStein,RudolfHi/ferdingunddiedeutscheArbeiterbewegu.
ng.Hamburg1946 .シ ュ タ イ ソ(本 名AlexanderRubinstein,1881〜1948)当 時 ロ シ ア 領 で あ っ た レ ッ ト ラ ソ ドの ヴ ォ ル マ ー ル に 生 ま れ る 。 リ ガ で 化 学 を 学 ぶ 。1901年 社 会 民 主 党 に 入 り,ロ シ ア の1905/1906年 の 蜂 起 に 参 加 後,逃 走 。 チ ュ ー リ ヒ,ラ イ プ チ ヒ で 学 ん だ 後,ベ ル リ ソ へ 出 て,『 フ ォ ル ヴ ェ ル ツ 』 で 働 き,ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ と 親 交 を 結 ぶ 。 『ラ イ プ チ ヒ 人 民 新 聞 』 『ノ イ エ ・ ツ ァ ィ ト』 に 寄 稿 。 ド イ ツ 革 命 後 『デ ア ・ ゾ チ ア リ ス ト』 の 仕 事 を し,1919年 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 編 集 長 の 下 『フ ラ イ ハ イ ト』 で 働
く。 そ の 後 『フ ォ ル ヴ ェ ル ツ 』 で 仕 事 を す る 。 ナ チ ス 政 権 後,1933年 秋,チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア へ 亡 命 。1938年 ま でrノ イ エ ル ・フ ォル ヴ ェ ル ツ 』rゾ チ ア リ ス テ ィ ッ シ ュ ・ ア ク チ ナ ー ン 』 で 働 く。 そ の 後 ア メ リ カ へ 亡 命 し,1948年 ニ ュ ー ヨ ー ク で 客 死 す る 。 (3)WilfriedGottschalch,StruleturverdnderungenderGeseltschaftundPolit■
ischesHandelninderLehrevonRudolfHilferding.Berlin1962.邦 訳 『ヒ ル ヲ ァ デ ィ ソ グ 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房1973年 。
(4)1806年 に フ ラ ソ ツ 皿世(FranzIL)は 神 聖 ロ ー マ 帝 国 皇 帝 を 退 位 し た 。 (5)ハ プ ス ブ ル ク 家 の 出 自 に っ い て は,HugoHantsch,DieGeschichteOsterreichs.
Band1,5.Aufl.,Graz"WienK61n'1969,4.Kapitelを 参 照 。 (6)『 シ ル レ ル 詩 全 集 』 下 巻,白 水 社.所 収 。 、
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 伝 初 章(倉 田) 31
で は,す べ て の もの が 持 続 し,す べ て が 不 動 の もの と して 築 か れ て い る よ うに 見 え た 。 そ の 頂 点 に 老 帝 フ ラ ソ ツ ・ヨ ー セ ブ1世(FranzJosephI.在 位1848〜
1916)が 立 っ て い た 。 か れ は 毎 日宮 廷(Hofburg)で 勤 勉 に 政 務 を と り,国 民 に 人 気 が あ った 。 人 び とは 身 分 制 度 の 枠 内 で 分 を わ き ま え て い た し,帝 権 が 神 に 授 け られ た もの と信 じ て い た 。 だ か ら皇 帝 制 度 は 続 くで あ ろ う と思 わ れ た 。 だ が,長 い 支 配 を 続 け る この 帝 国 も,1848年 の 革 命 で そ の没 落 の 序 曲 が 奏 で
られ て いた とは,今 で こそ 言 うこ とが で き る 。 メ ッテ ル ニ ヒの 絶 対 主 義 体 制 は,新 絶 対 主 義Neoabsolutismusへ とか わ った 。 近 代 資 本 主 義 が そ の本 格 的 歩 み を 開 始 した 。 そ れ と と もに,お び た だ しい 数 の 労 働 老 階 級 が 成 長 し は じ め,か れ らは,の ち に 君 主 制 の 一 資 本 主 義 の で は な く一 墓 掘 り人 と して登 場 す る。
革 命 中 即 位 した フ ラ ソ ッ ・ヨ ー セ フ1世 は,晩 年 に い た り,帝 国 最 後 の 皇 帝 と言 わ れ る よ うに な った 。 歴 史 の 経 過 を 見 れ ば,そ れ は 誤 りで あ った 。 し か し,事 実 上 は 正 しか っ た の で あ る。 とい うの は,同 帝 が1916年 に 崩 御 した 後, 帝 国 は 形 の 上 だ け2年 間 続 き こそ す れ,す で に 帝 国 を 維 持 す る い か な る試 み も 無 駄 に お わ った し,そ の没 落 を お し と どめ るす べ は な か った か らで あ る。
くきき
帝 国 の没 落 のa9‑一 幕 は,1867年 の ア ウ ス グ ラ イ ヒAusgleichに よっ て 切 って 落 と され た 。1866年 の 対 プ ロィ セ ソ戦 争 に オ ー ス トリア が 敗 北 した 後,ハ ソ ガ リー は 民 族 自治 を 要 求 し,1867年 に そ れ を 獲 得 した の で あ る。1848年 革 命 の さ い,オ ー ス トリ アは ハ ソ ガ リー に そ の 約 束 を して い た の で あ った 。 国 家 の 中 に 国 家 が で き,こ こに 帝 国 の 民 族 的 解 体 過 程 の 第1歩 が 公 然 と認 め られ た の で あ る 。 これ 以 降,こ の 国 は,口 で は オ ー ス トリア と言 わ れ,文 書 で は オ ー ス ト リ ァ=ハ ソ ガ リー帝 国 と名 づ け られ た 。
ローベ ル ト・ム ジ ール が,カ カ ー ニ エ ソ と椰 諭 した 国 の 成 立 で あ っ た 。 こ の 国
く ヒ ロ
はkaiserlich・k6niglich(帝 国 一 王 国)で も あ れ ばkaiserlichundk6niglich
(7)邦 書 と し て,矢 田 俊 隆rメ ッ テ ル ニ ヒ』 清 水 書 院1973年 。
(8)Ausgleich(英:Compromise)は,「 調 整 」 「妥 協 」 と 訳 さ れ る 。 Vgl.ForschungsinstitutfUrdenDonauraum,hrsg.,Derb'sterreichsich‑unga.
rischeAusgleichvon1867.Wien1967.
(9)kaiserlichは オ ー ス ト リ ア の,k6niglichは ハ ン ガ リ ー の,を 意 味 す る 。
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(帝 国 お よび 王 国)で もあ った 。 あ らゆ る事 物 と人 間 が,K・Kま た はK.u。
K.と い う略 号 を つ け て い た 。くユゆ 〔頭 文 字K(カ ー)・K(カ ー)で,ム ジ ール は カ カ ー ニ エ ソ と した の で あ る 。〕 そ れ は,マ ソ ホ ー ル の鉄 の 蓋 に ま で つ い て い た 。 だ が,ど れ にKK.を つ け,な に にK・uK・ を つ け れ ば よいQか を 知 る た め に は 一 種 の 神 秘 学 が 必 要 だ った 。
この 国 は 憲 法 に よれ ば 自由 主 義 的 だ が,実 際 の 政 治 は カ ト リ ッ ク教 権 に も と つ い て お こな わ れ た 。 しか し,ひ とび との 生 活 は 自 由 思 想 に した が って い た 。 議 会 は あ っ た が,た い て い は 閉 会 され て い た 。 この 国 の 政 治 ・外 交 の 中 心 は 宮 廷 で あ った が,カ ト リ ッ ク国 ハ プ ス ブル クの 都 ウ ィー ソ の精 神 的 中 心 は,聖 シ
ュ テ フ ァ ソ寺 院(St.StephanDom)で あ った 。
帝 国 の没 落 の 第 二 幕 は,1914年 か らは じ ま った 。 そ して この 幕 の テ ソポ は き わ め て 速 い もの で あ っ た 。 ハ プ ス ブ ル ク王 朝 に 対 す る忠 誠 心 の 消 失,帝 国 領 内 諸 民 族 の 独 立,こ れ らに よ って 帝 国 は 崩 壊 した の で あ る。 この 直 接 の き っか け
ご ラ け セコ
は,第1次 世 界 戦 争 そ の もの で あ った 。 きわ め て 長 い 眼 で 見 れ ば,急 速 な 経 済 的 変 化 と民 族 問 題,こ れ らの歴 史 的 状 況 の 新 しい 要 求 に,ハ プ ス ブル ク帝 国 は 本 質 的 に 適 応 で き な か った の で あ る。
こ の古 い 君 主 国 を か ぎ りな く愛 した 作 家 ヨ ー ゼ フ ・ ロ ー ト(JosephRoth
ぐ か
1894〜1939)は,『 ラ デ ツキ ー行 進 曲 』Radetzkymarsch(1932)の 中 で 象 徴 的 な 会 話 を 与 え て い る。
「もは や 祖 国 は 存 在 しな い の で す … … 」
「わ た しに は わ か らな い!ど う して 君 主 国 が もは や 存 在 しな い の で す か?」
「もち ろ ん!言 葉 ど お りに とれ ば,そ れ は まだ あ ります 。 わ れ わ れ に は ま だ 軍 隊 が あ り ます か ら… …そ れ か ら役 人 も … … 。 しか し君 主 国 は 生 き な が らに 崩 壊 して い る の で す 。 … … 時 は もは や わ れ わ れ に 利 あ らず で す!現 代 は まず 独 立
⑩ ローベル ト・ムジール 『特性 のない 男』新潮社。
⑪ 戦争 につい ては,さ しあた り,テ イ ラーr第1次 世界大 戦』新評論1979年;ハ ー ト 『 第一 次世界大 戦』 ブジ出版 。
⑫Cf.R.A.Kann,AHistoryo/HabsburgEmPire.1974.
⑬ ソル フェ リー ノの戦 いでた また ま フラソ ツ ・ヨーセ フ1世 の命 を救い貴族 に叙せ られ た トロ ッタ家3代 の運 命 と,同 時にオ ース トリア=ハ ンガ リー二重帝国 その もの を主 人 公に した長編 小説。
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァデ ィソ グ伝 初 章 て倉 田) 33
した 民 族 国 家 を 生 み 出そ うと して い ます 。 人 び とは もは や 神 を 信 じて いな い 。 新 しい 宗 教 は ナ シ ョナ リズ ム です 。 諸 民 族 は もは や 教 会 へ 行 き ませ ん 。 か れ ら は 民 族 結 社 へ 行 くの です 。 君 主 国 は,わ れ わ れ の 君 主 国 は,敬 神 を,神 が キ リ ス ト教 を 信 ず る しか じか の 数 の 民 族 を 統 治 す る よ うに ハ プ ス ブ ル ク家 を選 び 給
うた の だ とい う信 仰 を,基 礎 と して い ます 。 わ れ わ れ の 皇 帝 は,法 王 とは この 世 に お け る 兄 弟 な の で す 。 皇 帝 は 神 の使 徒 た る オ ー ス トリ ア=ハ ソ ガ リー の 陛 下 な の です 。 か れ 以 外 の 何 び と も,神 の 使 徒 で は あ りませ ん 。 ヨ ー ロ ッパ の ど
の 帝 王 も,か れ ほ ど,神 の 恩 寵 へ の信 仰 に 依 存 して は い な い の で す 。 ドイ ツの 皇 帝 に,神 に 見 捨 て られ て も,依 然 と して 統 治 し ます 。 … … オ ー ス ト リア 富 ハ ソ ガ リー の 皇 帝 は 神 に 見 捨 て られ て は な らな い の です 。 しか し今,神 は 皇 帝 を
くユるラ
見 捨 て 給 う た の で す!」
ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 は ヨ ー ロ ッ パ 最 大 の 帝 国 の1つ で,そ の 領 土 は,オ ー ス ト リ ア 側(Cisleithanien)と ハ ソ ガ リ ー 王 国 側(Transleithanien)と に わ か れ て い る 。19世 紀 の 後 半 に,前 者 に は つ ぎ の 諸 州 が 属 し た 。 ガ リ チ エ ソ,ク ラ カ ゥ,シ ェ レ ジ エ ソ 南 部,メ ー レ ソ,ベ ー メ ソ,ニ ー ダ ー ・エ ス テ ラ ィ ヒ,オ ー バ ー 。 エ ス テ ラ ィ ヒ,シ ュ タ ィ エ ル マ ル ク,ク ラ イ ソ,ケ ル ソ テ ソ,サ ル ツ フ ル ク,テ ィ ロ ー ル,フ ォ ア ア ー ル ベ ル ク,イ ス ト リ エ ソ,ダ ル マ チ エ ソ,そ れ に イ タ リ ア の,ヴ ェ ネ チ エ ソ,ロ ソ バ ル ダ イ,モ デ ナ,ト ス カ ナ,で あ っ た 。
け うう
ハ ソ ガ リ ー 王 国 に は,ウ ソ ガ ル ソ(=ハ ソ ガ リ ー),ジ ー ベ ソ ビ ュ ル ゲ ソ,ク ロ ア チ エ ソ,ス ラ ヴ ォ ニ エ ソ が 属 し,1878年 に ボ ス ニ ェ ン,ヘ ル ッ ェ ゴ ヴ ィ ナ
く
が 帝 国 の 管 理 下 に 入 っ た(図1参 照)。
こ の 帝 国 は,か か る 領 土 を 支 配 し て い た た め に,当 然 多 民 族 国 家 で あ っ て, そ の 諸 民 族 の 数 は 実 に11を か ぞ え た の で あ る 。 す な わ ち,ド イ ツ 人i、 ベ ー メ ソ 人,メ ー レ ソ 人,ス ロ ヴ ァ ク 人,ポ ー ラ ソ ド 人,ル テ ニ ア 人,ス ロ ヴ ェ ー ン 人, セ ル ビ ア 人 と ク ロ ア ー ト人,イ タ リ ア 人,ル ー マ ニ ア 人,マ ヂ ャ ー ル 人 で あ っ た 。 し か し こ れ に 加 え て,ユ ダ ヤ 民 族 が こ の 帝 国 内 に 生 活 し て い た の で あ る 。
⑯ 『ホ ーtフマ ン ス タ ー ル ・ロ ー ト』 世 界 文 学 大 系,筑 摩 書 房,276ペ ー ジ 。
㈲ 現 在 の オ ー ス ト リア に 属 す る ブ ル ゲ ン ラ ン トは,当 時 ハ ン ガ リ ー 領 。
⑯Atlaszurallgemeinenundb'sterreichischenGeschichte,Wien,Karte52.
輯
59
第
究
チ覆
文人
34
図 ・‑1
, ρ
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ伝 初 章(倉 田) 35
ウ ィー ン の ユ ダ ヤ 人 社 会
ヒル フ ァデ ィ ソ グ は,帝 国 の 首 都 ウ ィ ー ソに ユ ダ ヤ 人 を 両 親 と し て 生 ま れ た 。 だ か らか れ もユ ダ ヤ 人 で あ る。 そ の た め,ま ず,ユ ダ ヤ社 会 に つ い て 考 察
して お こ う。
と こ ろ で,ユ ダ ヤ 人 問 題 を 語 る前 に,3つ の 点 を 予 め 注 意 して お く必 要 が あ る 。
第1に,ド ィ ッチ ャ ー(『 非 ユ ダ ヤ的 ユ ダヤ 人 』)の 発 言 で あ るが,ナ チ ズ ム 以 前 の 時 代 に,ユ ダ ヤ 系 イ ソ テ リは,そ の ユ ダ ヤ 人 と して の 役 割 や 身 分 を 規 定 す る とい う必 要 性 な どは,全 く感 じ て い な か った よ うで あ る,と い う 点 で あ
る。
第2に,J・P・ サ ル トル(『 ユ ダ ヤ 人 』)に よれ ば,反 ユ ダ ヤ主 義 は,非 ユ ダ ヤ 人 が つ く り出 した 観 念 にす ぎず,か つ ま た 非 理 性 的 な も の で あ る,と い う 指 摘 で あ る 。
第3に,欧 州 の ユ ダ ヤ 人 社 会 を 一 般 的 に 論 じ る こ とは で きず,少 く と も東 欧 型 と西 欧 型 に 大 別 す る 必 要 が あ る とい う点 で あ る 。
か く して,第1・ 第2の 点 の 指 摘 を 念 頭 に 入 れ て,ユ ダ ヤ 人 とそ の 社 会 を 論 ず る 必 要 が あ るが,第3点 か らは じめ て み よ う。 ユ ダ ヤ 人 の 地 位 は,そ の 国そ れ ぞ れ に お い て 異 っ て い た 。 欧 州 の ユ ダ ヤ 人 の大 部 分 は,ロ シ ア,ポ ー ラ ソ
ド,ル ー マ ニ ア に 住 ん で い た 。 か れ ら東 欧 の ユ ダ ヤ 人 は,ほ とん ど一 般 人 か ら 孤 立 して,か れ らだ け の 小 さ な 村 落,ユ ダ ヤ 人街(ゲ ヅ トー)の 中 で 生 活 して い た 。 一 方,19世 紀 に は,西 欧 諸 国 の ユ ダヤ 系 住 民 は,主 と して 中 産 階 級 に 属 して い た,と 言 わ れ る。 そ して 西 欧 で は,他 民 族 との 同 化 とな らん で ユ ダ ヤ 人 の解 放 が す す ん で い た 。 東 欧 の ユ ダ ヤ人 社 会 は,そ の 反 対 で あ り,圧 迫 さ れ 隔 離 さ れ て い た の で あ る。 と ころ で 東 欧 の ユ ダ ヤ 人 は 西 欧 の ユ ダ ヤ 人 を 軽 蔑 して い た 。 か れ らは 同 じ人 種 で は あ った が,精 神 構 造 は 全 然 別 個 で あ っ た 。 市 民 階 級,富 裕 階 級 に 属 して い た 西 欧 の ユ ダヤ 人 は,聖 書 や 祈 祷 書 箱 を もち あ る く こ
とに よっ て 敬 虜 さ と権 威 を 示 した が,東 欧 の ユ ダ ヤ 人 は そ の よ うな 必 要 は な か
'
36 人 文 研 究 第59輯
った 。,
さ て,ウ ィー ソは,地 理 的 に は 東 欧 とい っ て よい の で あ るが,そ の ユ ダ ヤ 人 社 会 は,今 の べ た 社 会 的 タ イ プ の 相 違 か らす れ ば,西 欧 型 に 入 る し,そ うす べ
きで あ る と思 わ れ る。
ユ ダ ヤ 人 は ウ ィ ー ソに17世 紀 以 来 住 み つ い て い た 。 か れ らは 金 貸 業 が 得 意 で あ った とい わ れ る。 も っ と も当 時 の状 況 か ら言 え ば,金 貸 業 とは 質 屋 に 他 な ら な い 。 質 屋 は,軍 人 や 官 吏 を 相 手 に 高 い 利 子 で 金 を 貸 し,利 益 を え て い た 。 か れ ら の俸 給 が 確 実 で あ った か らで あ る。 ウ ィー ソの よ うに 極 端 な カ ト リ ッ ク社 会 で は,異 教 徒 で あ る ユ ダ ヤ 人 の 評 判 は 悪 か った 。 マ リア ・テ レジ ア(Maria Theresia在 位1740〜1780)の 時 代 に は 決 定 的 な 反 ユ ダ ヤ 人 政 策 は と られ な か
った が,ユ ダ ヤ 人 は 経 済 的 に 重 要 な 位 置 に つ け な い よ うに 統 制 され て い た 。 オ ー ス ト リア の ユ ダヤ 人 の歴 史 に と っ て1つ の 画 期 を な した の は,ヨ ー セ ブ 2世(Joseph皿 在 位1780〜1790)の 治 世 で あ った 。 啓 蒙 主 義 者 ヨ ー セ フは, ユ ダ ヤ 人 に 対 す る寛 容 令(DasToleranzpatentfUrdieWienerJudenvom
2.Janner1782)を 布 告 した 。 「寛 容 」,.こ れ こそ 社 会 思 想 史 上,「 近 代 」 を 特 徴 づ け る もの で あ る。 こ の法 令 は,ユ ダ ヤ 人 を 市 民 社 会 に 同 化 ・編 入 し,一 般 的 経 済 活 動 を 認 め,学 校 教 育 を 進 め よ う と した もの で あ った 。 そ して,ま ず
ロ わ
ウ ィー ソが そ の モ デ ル に され た の で あ る。 この 動 機 は,国 民 経 済 的 な 理 由 で あ ったo
ユ ダ ヤ 人 の一 部 に,国 家 や 貴 族 に 金 を 貸 して 富 裕 に な る者 が で て き た 。 ま た,国 家 に 功 労 の あ った ユ ダヤ 人,国 家 に 金 を 貸 した ユ ダヤ 人,製 造 業 ・工 場 建 設 に た ず さわ る ユ ダヤ 人 は,ウ ィ ー ソの 市 内 に 住 む こ とが で き る よ うに な っ た 。 こ の 市 内 とは 旧 市 内 で あ り,現 在 の 第1区 に 相 当す る。19世 紀 中 葉 まで,
これ は 城 壁Basteiに 囲 まれ て お り,こ れ こそ ウ ィー ソ市 で あ った 。
しか し,ヨ ー セ ブ2世 の啓 蒙 的 諸 改 革 は,貴 族 の 抵 抗,フ ラ ソ ス 革 命 の 勃 発,そ して か れ の 死 に よ っ て,反 動 期 を む か え る と,廃 止 あ る い は 後 退 させ ら
⑰ マ リア ・テ レジア,ヨ ー一セ フ2世 時代 の経 済政策 につ いて,拙 稿 「ハ プス ブル ク帝国 と重商主義」(『 三 田学会雑 誌』71巻5号,1978年10月)
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ伝 初 章(倉 田) 37 れ る に 至 っ た 。
一 方 ,こ の 反 動 の 時 代 で も,ユ ダ ヤ 人 の 銀行 家 は 急 遠 に 資 本 蓄 積 を し,貨 幣 ・信 用 市 場 で 支 配 的 な 地 位 を え た 。 た と え ば,ア ル ソ シ ュ タ イ ソや エ ス ケ レ
ス は 貯 蓄 銀 行 や オ ー ス ト リア 国 民 銀 行 の 創 立 に 加 わ った の で あ る。
オ ー ス ト リア の 寛 容 に 対 して,フ ラ ソ ス大 革 命 は ユ ダ ヤ 人 の 解 放 を 実 現 し た 。 す なわ ち,1791年 に ジ ャ コバ ソ党 の 下 で ユ ダ ヤ 人 の 平 等 権 が 認 め られ た の で あ る。 そ の 後,オ ー ス ト リア の ユ ダヤ 人 も,1830年 の フ ラ ソ ス革 命 を き っ か け に,解 放 を 望 ん だ 。 か れ らは,一 部 の 富 裕 な ユ ダ ヤ人,す な わ ち ロー トシル ト(Rothschild,ロ ス チ ャ イ ル ド)家 に 代 表 さ れ る 銀 行 家 や 大 商 人 を,か れ ら の 解 放 に と っ て 障 害 で あ る と見 た 。 す な わ ち 三 月 前 期 の オ ー ス トリア 政 府 の 支 柱 で あ る と考 え た の で あ る。1840年 に ウ ィー ソで,後 に 大 き な 影 響 を 与 え る こ
とに な る,パ レ ス チ ナ 移 民 計 画 を 唱 え る 人 が 出 た 。 しか し,当 時 解 放 を望 ん で い た オ ー ス ト リア の ユ ダ ヤ 人 に と って,こ の 案 は 影 響 力 を もた な か った 。
1848年 の ウ ィー ソ革 命 で,zダ ヤ系 知 識 人 は 重 要 な 役 割 を 演 じた 。 と くに 医 者 や 学 生 が そ れ で あ った 。 この 革 命 期 に,小 ブル ジ ョア階 級 や カ ト リ ッ ク教 会 か ら宣 伝 さ れ た の が,反 ユ ダヤ 主 義Anti・semitismusで あ る。 しか し,革 命 を 経 験 して この 世 代 の ユ ダ ヤ 人 の 希 望 とな った の は,自 由 へ の 要 求 で あ った 。 革 命 後 の 新 絶 対 主 義 時 代 に つ づ い て,「 自 由 主 義 」 の 時 代 に な る と,や っ と ユ ダ ヤ 人 の 法 律 的 制 限 が な くな った 。 た とえ ば ,1867年 に 信 仰 の 自 由 が 認 め ら れ た の で あ る。 こ う して,オ ー ス ト リア の ユ ダ ヤ 人 が,市 民 と して1人 前 に 認 め られ る よ うに な った の は,19世 紀 の お わ りの3分 の1の 時 代 か らで あ った 。
ウ ィ ー ソに ユ ダ ヤ 人 は どれ 位 い た の で あ ろ うか 。 そ の 人 口は, 1848年 以 前 に,4,000人
ロ
1857年 に,6,217人(ウ ィ ー ソ 総 人 口287,824人 の2.16%)
1869年 に,40,500人
a♂WolfgangHausler,Toleranz,EmanzipationundAntisemitismus。
Das6sterreichischeJudentumdesburgerlichenZeitalters(1782‑1918)in:
Drabek,Hausler,Schubert,Stuhlpfarrer,Vielmetti,1)asO'sterreichische Judentum.JugendundVolk,WienMifnchen1974,S,107.
38 人 文 研 究 第59輯
1880年 に,72,588人(ウ ィ ー ソ総 人 口721,551人 の10%) で あ っ た 。 上 掲 の1869年 に,ウ ィ ー ソ の ユ ダ ヤ 人 は,
チ ス ラ ィ タ ニ エ ソ 出 身 が,20,749人 トラ ソ ス ラ ィ タ ニエ ソ出 身 が,17,541人 外 国 か ら来 た 者 が2,210人
で あ った 。 こ の 合 計4万500人 の うち,居 住 権 を もつ もの が な ん とた った の7,8 67人(19.4%)で あ っ た 。 ユ ダ ヤ 人 の 新 参 者 の 重 要 な 生 業 は,小 商 業,手 工 業,サ ー ヴ ィス業 で あ った とい わ れ る。
東 西 南 北,い た る と こ ろ か ら集 ま ケ,そ の 知 性 と技 術 と怜 倒 さ に よ って,し っ か り と根 を お ろ した,お び た だ しい 数 の ユ ダ ヤ 人 が,多 くの 民 族 と と も に ウ
ィー ソに 住 ん で い た 。 しか し,と ブ リ ヨ ソは 書 い て い る,「 これ らの ユ ダ ヤ 人 は,他 の 都 市 の 場 合 の よ うに,ユ ダヤ 人 街 に と じ こ め られ て い た わ け で は な
く コ
い 。 た しか に ウ ィ ー ソの ユ ダ ヤ 人 は,好 ん で ドナ ウ運 河 と ドナ ウ本 流 の 湾 曲 部 に は さ まれ た 島 に あ る レ オ ポ ル トシ ュ タ ッ トに 集 ま って は い る が,そ れ は 古 く 1622年 以 来,か れ らが こ こに 住 み つ き,店 舗 や ユ ダ ヤ教 会 を こ こに も って い た
でコゆ
か らに す ぎ な い の で あ る 。」
1869年 に は,ユ ダ ヤ 人4万 人 の うち2万 人 が レオ ポ ル トシ ュ タ ヅ ト(現 在 の 第2区)に 住 ん で い たo
大 体,宮 廷 の まわ りに は,オ ー ス ト リア,ポ ー ラ ソ ド,チ ェ コ,ハ ソ ガ リー の 名 門 貴 族 の 邸 宅 が あ った6だ か らか れ らは 町 の 中 心 に 住 ん で い た わ け で あ る。 そ れ に 加 え て,小 貴 族,高 級 官 僚 層,工 業 家,旧 家 か らな る上 流 社 会 が 市 内(第1区)に 住 ん だ 。 工 業 家 と商 人 層 は,リ ソ グ(環 状 道 路)一 後 述 一 の近 くに 住 ん だ 。 外 交 官 は 第3区 に,小 市 民 階 級 は 各 区 に,そ して 労 働 階 級 は 第2 区 か ら第9区 に い た る,町 の 一一IS外側 の 区 に 住 ん だ の で あ った 。(第2図 参 照)
一 般 に ユ ダ ヤ 人 は 優 秀 な 民 族 とい え る か も しれ な い 。 そ れ は も ち ろ ん,人 種
⑲ ドナ ウ川 は よ く洪水が おきて危険 であ った。1870年 か ら1877年 にか け て,調 整工 事が 行なわれ,ド ナ ウ本流が掘 られた。そ こで,昔 の ドナ ウ河 は,ド ナ ウ運河 と呼ばれ る よ
うにな った。
⑳ マル セル ・ブ リヨソ 『ウィー ンはなやかな 日々』音 楽の友社,1976年,374ペ ージ。
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ伝 初 章(倉 田) 39
図 一2ウ ィ ー ン(19世 紀 後 半)
(8区)
7
(9区)
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〆
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10.『
11.
12.
、13.
Donauド ナ ウ 河
Donaukanalド ナ ウ 運 河
Praterプ ラ ー タ ー 公 園
Prater,Hauptaleeプ ラ ー一 タ ー一公 園 の ハ ウ プ ト ア レ ー Zirkusgasse(==Cirkusgasse)
Malzgasse SchloBSch6nbrunn
IsraelitischeKultusgemeindeユ ダ ヤ 教 区 会 Universitatウ ィ ー ン 大 学(新)
Rathaus市 庁
Hofburg宮 廷
St.StephanDom聖 シ ュ テ フ ァ ン 寺 院
Ring環 状 道 路
40 人 文 研 究 第59輯
的,民 族 的 理 由 か らで は な い 。 な ぜ な ら,ユ ダ ヤ 人 も千 差 万 別 の 人 か らな り, そ の 点 で は 他 の 民 族 と 同 様 で あ るか らで あ る。 だ か ら,そ れ が 言 え る と す れ ば,社 会 に お け る か れ らの 立 場 とそ こか ら出 て く る志 向 性 に よ る もの に他 な ら な い 。 そ の 点 に つ い て は,い くつ か の特 殊 性 は 指 摘 で き る。
ほ と ん ど の コ・ダ ヤ 人 は,新 し く ウ ィー ソ へ や って 来 た 者 が 多 く,そ れ ほ ど古 くな い 時 代 に 各 地 の ゲ ッ トーか ら出 て 来 た の で あ っ た 。 新 しい 土 地 で 生 活 す る に は,刻 苦 精 励 して 家 の 経 済 的 安 定,し た が っ て社 会 的 安 定 を え る必 要 が あ っ た 。 か れ らが 勤 勉 に な る の は,他 民 族 の 社 会 に 入 り込 ん だ とい うそ の 立 場 が, そ れ を 不 可 欠 に した の で あ る。 ま た 言 葉 を 換 え れ ば,か れ らの 勤 勉 さ の 理 由 は,定 着 の短 か さ に も よ っ て い る,と もい え る の で あ る。 か れ らは 「良 い 家 族 」 に な る こ とを 欲 し,ま た そ う努 力 し よ う と した 。 シ ュ テ フ ァ ソ ・ツ ヴ ァ ィ
クは,こ の 良 い 家 族 とい う観 念 が,「 ユ ダ ヤ 人 の 本 質 の 最 も奥 深 く,最 も秘 密
て ユひ
に み ち た 傾 向 の ひ とつ を 表 現 して い る」 と書 い て い る 。 と ころ で 一 般 的 に は, ユ ダヤ 人 の 典 型 的 な 生 活 目標 は 富 む こ とだ と考 え られ て い る。 しか し,ツ ヴ ァ ィ クは そ れ を 否 定 し,つ ぎの よ うに 弁 明 して い る:ユ ダ ヤ 人 の 本 来 の 意 志,ま た は そ の 内 在 的 な 理 想 は,精 神 的 な もの の な か へ,よ り高 度 の 文 化 的 な 層 へ と'
の ぼ っ て ゆ く こ とで あ り,豊 か に な る とい う こ とは 真 の 目的 へ の ひ とつ の 手 段 で あ っ て,け っ して 内心 の 目標 で は な い,と 。
と こ ろ で 現 実 世 界 で は オ ー ス ト リア の ユ ダヤ 人,正 確 に 言 え ば ユ ダ ヤ の 商 人 層 は,19世 紀 オ ー ス ト リア帝 国 の 工 業 発 展 に と って 大 き な 役 割 を 演 じた 。 か れ らの 商 売 ぽ,堅 実 と安 全 を 旨 と して い た 。 か れ らが 豊 か に な っ て い った 理 由 は きわ め て単 純 で あ った 。 ア ダ ム ・ス ミス の 言 っ た 「先 行 的 蓄 積 」 を 実 践 した こ とに あ っ た 。 す な わ ち,収 入 の 一 部 分 を 年 々資 本 に 投 下 して そ れ を 拡 大 した の で あ る。 慎 重 な 態 度 で あ った と言 え よ う。 ドイ ツ系 オ ー ス トリア の 貴 族 の 多 く は 浪 費 家 で あ った が,ユ ダ ヤ 人 は そ れ を 無 分 別 な こ とで あ る と見 な して い た 。 税 金 は ま だ あ ま り高 くな く,利 子 率 が 高 か った の で 債 券 投 資 は 有 利 で あ っ た 。 (21)StephanZweig,DieWeltvonGestern.FischerVerlag1978,S.21.ッ ヴァィ
ク 『昨 日の世 界』1ツ ヴ ァイク全集20,み すず書房 。原書 は中川教 授 よ り拝借 した。
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ伝 初 章(倉 田) 41
商 業 的 観 察 眼 と 国 際 的 見 通 しを もつ ユ ダヤ の 商 人 層 は,は じ め 小 規 模 の資 本 で 工 場 を 建 て,帝 国 で 最 も繁 栄 した ボ ヘ ミア(=ベ ー メ ソ)地 方 の繊 維 工 業 の 支 柱 とな っ て い た 。
さ て,反 ユ ダ ヤ に つ い て 若 干 記 して お か ね ば な らな い 。 一 般 に,ユ ダ ヤ 人 は,『 ヴ ェ ニス の 商 人 』 に 象 徴 さ れ る商 人 根 性 と,キ リス トを 礫 に して殺 した 民 族 で あ る とい う宗 教 的 意 味 と の2つ の 点 で 憎 まれ た 。 も っ と も こ の 際,キ リ
ス トがzダ ヤ 人 で あ った こ とは 都 合 よ く忘 れ られ た の で あ る。19世 紀 後 半 の ウ ィ ー ソ で,ユ ダヤ 人 が どの よ うに 思 わ れ,扱 わ れ た か に つ い て は,人 そ れ ぞ れ 違 って い る よ うで あ る が,ま ず ジ ー一ク ム ン ト ・フ ロ イ ト(SiegmundFreud)は,
r自 らを 語 る』(Selbstdarstellesng,1925)の 中 で 告 白 して い る。 「大 学 に は 1873年 に 入 った わ け で あ る が,そ こで は は じめ に い くつ か の か な りの 幻 滅 を あ た え られ た 。 まず 第1に わ た しが 遭 遇 した の は,わ た しが ユ ダ ヤ 人 で あ る とい うこ とだ け の こ とで,自 分 自身 を 劣 等 な もの だ と考 え,ま た,同 じ国 民 とい え
くが コ
る もの で は な い の だ と思 うべ き だ とい う不 当 な 要 求 で あ った 」。 これ と反 対 に, ツ ヴ ァ ィ クは,か れ が ユ ダ ヤ人 と して 嫌 わ れ た こ とは な い,と 書 い て い る。 お そ ら く これ は,か れ が 大 富 豪 の 息 子 で あ っ て特 別 な 人 生 を 歩 め た こ とに も よ る の で は な か ろ うか 。19世 紀 後 半 か らオ ー ス ト リア の 政 界 で は,反 ユ ダ ヤ主 義 を か か げ る,ル エ ー ガ ー(Dr.KarlLueger)指 導 の キ リス ト教 民 主 同 盟 が 大 い に 勢 力 を 伸 ば して い た こ とを 考 え る と,フ ロイ トの 体 験 の 方 が 一 般 的 だ った よ
うに 考 え られ る。
多 民 族 国 家 に 住 ん で い た ウ ィ ー ソ 人 の モ ッ トー は,共 存 共 栄 で あ っ た 。 そ れ ゆ え ユ ダ ヤ 人 は ウ ィ ー ソ で,気 軽 で 和 協 の 性 向 の あ る 人 び とに 出 会 っ た 。 そ の 上,ウ ィー ソ人 は 精 神 的 ・審 美 的 価 値 を 高 くみ な した 。 も と も と 自分 た ち を と り ま く世 界 の 諸 文 化 に 情 熱 的 に 適 合 し よ う と思 っ て い る ユ ダ ヤ 人 は,そ うい う わ け で,ウ ィー ソ で 自分 た ち の 課 題 を 見 出 した し,ま た 実 り多 い 成 果 を 挙 げ た
の で あ る 。 ユ ダ ヤ 人 た ち は ウ ィ ー ン を 愛 した し,ま た と く に 芸 術 に お い て 「ウ
こ か
イ ー ソ 人 」 に な っ た と 思 っ た 。
㈱rフ ロ イ ト著 作 集17』 日本 教 文 社1974年,5ペ ー ジ 。
㈱ ツ ヴ ァ イ ク前 掲 書 。 こ の 書 は,概 して,ウ ィ ー ソ とそ の 時 代 の 良 い 面 を,見 よ う と し て い る げ
42 人 文 研 究 第59輯
オ ー ス ト リ ア の 文 化 ・芸 術 ・社 会 に 貢 献 し た ユ ダ ヤ 系 の 人 物 は き ら 星 ゐ ご と く で あ っ た 。 た と え ば,前 出 の,医 学 ・心 理 学 で の フ ロ イ ト,文 学 で は,ア ル
ト ウ ー ル ・ シ ュ ニ ッ ツ ラ ー(ArthurSchnitzler1862〜1931),フ ー ゴ ー ・ フ ォ ソ ・ ホF‑一フ マ ソ ス タ ー ル(HugovonHofmannsta11874〜1929),S.ッ ヴ ァ イ ク(1881〜1942)、 音 楽 で,グ ス タ フ 。‑7‑一 ラ ー(GustavMahler1860〜
1911),ア ー ノ ル ト ・ シ ェ ー ソ ベ ル ク(ArnoldSch6nberg1874〜1951)、 社 会 主 義 運 動 で は,ヴaク トル ・ ア ド ラ ーt(VictorAdler1852〜1918)、 そ し' て 若 き=オ ー ス ト ロ ・マ ル ク シ ス トた ち で あ る 。 オ ー ス ト リ ア の 知 的 活 動 の 重 要 部 分 は,ユ ダ ヤ 人 に よ っ て 支 え ら れ た と い っ て も 過 言 で は な か っ た 。
生 い た ち
ル ー ドル フ ・ ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ は,こ の ウ ィ ー ソ で そ の 文 化 的 活 動 の 一 翼 を 担 う こ と に な る の で あ っ た 。
か れ の 父 親 は,エ ミ ー ル ・ ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グEmilHilferdingと い い,1852
の
年7月17日 生 まれ の ユ ダ ヤ 人 で あ る。 ミル フ ォP‑・・Lド氏(Dr.PeterMilford)に
よれ ば,か れ は,は じめ か ら ウ ィ ー ソに 住 ん で い た 。 祖 先 が い つ ウ ィ ー ソ に 移 住 して きた の か わ か らな い 。 か れ は,ア ソ ナ ・ リー スAnnaLissと い う,同
じ くユ ダ ヤ 女 性 と結 婚 した 。 この 夫 婦 は 子 供 を2人 も うけ た 。1877年8月11日 に 男 の 子 が 生 ま れ,か れ をRudolfと 名 付 け た 。 これ が,わ が 経 済 学 者 ル ー ド ル フ ・ ヒル フ ァ デ ィ ン グの 誕 生 で あ っ た 。 ル ー ドル フ の 妹 は マ リァMariaと 名 付 け られ た 。
か れ の 生 ま れ た 家Geburtshausは ど こで あ るか,は っ き り しな い 。 しか し,残 され た 記 録 か ら,今 の と こ ろ,最 も古 い 住 居 は,か れ が ギ ム ナ ジ ゥ ム時 代 お よ び 大 学 に 入 っ た 頃 に 住 ん で い た 所 で,ウ ィ ー ソ 第2区 マ ル ッ ガ ッ セ9番 地10号(Malzgasse9/10)で あ る。 だ か ら,こ れ が か れ の 生 まれ た 家 と して は 最 も蓋 然 性 が あ る。 この 建 物 は 現 存 して い る し,少 く と も今 世 紀 は じめ か ら
㈱ ル ー ドル フ ・ ヒ ル フ ァ デ ィ γ グ と マ ル ガ レ ー テ 夫 人 の,第2子 。 ピ ー タ ー ・ ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 。 筆 者 は,1971年,1976〜78年 に 氏 と度 た び 会 っ て 話 を 伺 い,聞 き と り を し た 。
ル ー ドル フ ・ ヒル フ ァ デ ィ ン グ 伝 初 章(倉 田) 43
そ の ま ま で あ る。9番 地 は この 建 物 全 体 で あ り,10号 は 〔日本 流 で い う と〕2 階 に あ る住 居Wohnung〔 ア パ ー トの数 室 〕 で あ る。
ル ー ドル フ の 出 生 届 は,ユ ダ ヤ教 区 会IsraelitischeKultusgemeindeに 提 出 さ れ た 。 この 教 区 会 は,当 時 か ら1974年 ま で,ウ ィ ー ソ第1区 シ ョ ッテ ソ リ ソ グSchottenring25番 地 に あ っ た 。 〔しか し,そ の 後,バ ウエ ル ソ フ ェル
トガ ッセBauernfeldgasse4番 地 に 移 転 して い る。 〕 か れ は,こ う して ユ ダヤ 教 徒mosaischと し て この 世 に 生 を 受 け た の で あ っ た 。
ル ー ドル フ の 出身 階 級 に つ い て は,2種 類 の 説 が あ る。 も っ と もそ れ ぞ れ た っ た 一 言 か 二 言 に す ぎな い もの で あ る。 は じめ て 言 及 した の は ドソ ブ ロ ウ ス キ
く お
イ で,ヒ ル フ ァデ ィ ソ グの 父 が 「あ る保 険 会 社 の 勤 め 人 で あ っ た 」 と書 い た 。 実 は これ が 正 し い こ とが わ か る。 は じめ て の ヒル フ ァデ ィソ グ の伝 記 を 書 い た の は ア レ クサ ソ ダ ー ・シ ュ タ イ ソ で あ った 。 そ の か れ は,ル ー ドル フが 「あ る
く ゆ
裕 福 な ユ ダ ヤ の 商 人 の 家 庭 の 息 子 と して 生 まれ た 」 と した 。 この 説 は,お そ ら く他 人 の こ とを 念 頭 に 置 い て し ま っ た の か,あ る い は 聞 き誤 りで あ る。 シ ュ タ イ ソ は,ド イ ツ社 会 民 主 党 中 央 機 関 紙 『フ ォル ヴ ェル ツ 』 で 働 い て 以 来,ヒ ル フ ァデ ィソ グ と政 治 的 友 人 で あ った 。 「商 人 の 」 が 誤 りで あ る こ とが わ か っ て く る。W・ ゴ ッ トシ ャ ル ヒは,そ の 説 を 受 け 継 い だ の で あ ろ う,ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ を 包 括 的 に 研 究 した そ の 書 で は,同 じ く 「あ る ユ ダ ヤ の 商 人 の 家 の 出 で あ
く コ
る 」 と書 い た 。
と こ ろ で,最 も新 しい 言 及 は,イ ヴ ォ ソ ・ブル デが フ ラ ソ ス 語 版r金 融 資 本
く ヤ
論 』 に 寄 せ た 序 文 で あ り,そ こ に は,ル ー ド ル フ の 父 が 「保 険 会 社 の 勤 め 人 」
で あ っ た と,ド ソ プ ロ ゥ ス キ イ 説 を 踏 襲 し て い る 。
要 す る に,ド ソ プ ロ ゥ ス キ イ=ブ ル デ 説 と シ ュ タ イ ソ=ゴ ッ ト シ ャ ル ビ 説 の
凋JohannesFischart[ErichDombrowski],1>幽 θKδ ρノ診.VierteFolge.1)as AltedasneueSystem.Berlin1925,S.247.
㈱Stein,op.cit.,S.6.
⑳Gottschalch,oP.cit.,S.13.
⑳YvonBourdet,Introductionzu:Hilferding,LeCapitatFinancier.Paris 1970,p.19.
44 人 文 研 究 第59輯
2つ が 並 存 して い る の で あ る。 そ れ で は ル ー ドル フめ 出 身 は 何 だ っ た か 。 私 は,ド ソ ブ ロ ウ ス キ イ説 に 軍 配 を あ げ る もの で あ る。
ル ー ドル フが ウ ィ ー ソ大 学 医 学 部 へ 入 学 す るに あ た って 書 い た 学 籍 簿(Nat‑
ionale)が そ の1つ の 手 が か りで,そ れ はUniversitatarchivに あ る。 か れ は 父 の 職 業 を 「勤 め 人 」Beamterと 書 き 込 ん で い る。 ミル フ ォー ド氏 も,ル ー ドル フの 父 ,す な わ ち 同 氏 の 祖 父 が,ahigheremployeeで あ る と語 った 。 また ル ー ドル フは,マ ル ガ レ ー テ ・ヘ ー ニ ク スベ ル ク嬢 と結 婚 す る さい に,結 婚 登 録 を ウ ィ ー ソ の 市 庁WienerRathausに 出 し て お り,そ れ は 戸 籍 部 Magistratsabteilungに あ るが,そ こで は 父 が 勤 め 人Privatbeamterで あ る と し,つ づ い てrア リア ソ ツ』 の会 計 主 任Hauptkassierder"Allianz"で あ る と明 記 して い る。rア リア ソ ツ』 とい うの は 現 在 も ヨ ー ロ ヅパ の大 保 険 会 社 の1つ で あ り,古 い イ タ リア系 の会 社 で あ っ た 。'これ らの 諸 事 実 か ら,ド ソ ブ
ロ ウ ス キ イ=ブ ル デ 説 の 方 が よ り正 しい こ とが 判 明す る わ け で あ る。
、ル ー ドル フは また,社 会 学 的 に 表 現 す れ ば(ラ イ ト ・ ミル ズ 『ホ ワイ ト ・カ ラ ー 』 の 分 類),旧 中 間 層 の 出 身 で は な く,新 中 間 層 の 出 身 で あ った の で あ る 。
少 年 ヒル フ ァデ ィ ソ グは,ウ ィー ソ の ユ ダ ヤ 人 の 半 分 が 住 ん で い た,レ オ ポ ル トシ ュ タ ッ ト(ウ ィー ソ第2区)で 育 った 。 そ して ウ ィー ソ 市 民 の 誰 で もが 住 む よ うな 普 通 の ア パ ー トに 住 む,要 す るに,そ れ は 平 凡 な ユ ダ ヤ 人 の 家 庭 で あ っ た 。
ル ー ドル フ少 年 は,ギ ム ナ ジ ウ ムに 入 学 した 。10才 に な る と入 学 す る こ とが で き た の で あ っ た 。 当 時 ドイ ツで は,フ ォル クス シ ュ ー レ(=小 学 校,あ る い は 国 民 学 校)と ギ ム ナ ジ ウ ムは 別 建 て の コ ー ス で あ っ た 。 しか し,オ ー ス トリ
ア=ハ ソ ガ リー で は,1869年 の 帝 国 国 民 学 校 法 に よ る と,フ ォル クス シ ュ ー レ に 通 う もの は,満6才 か ら満14才 まで とさ れ て い る 。 この8年 制 は,6年 に 短 縮 す る こ とが で き,い くつ か の 州 で は6年 制 で あ っ た 。 ヒル フ ァデ ィソ グが 小 学 校 に 通 った 証 拠 は 今 の と こ ろ 見 つ か らな い 。 また ギ ム ナ ジ ウ ム は,大 学 に 入 る こ とを は じめ か ら予 定 して い る老 が 通 う,す な わ ち エ リー トが 入 る 学 校 で あ った 。
ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァデ ィン グ伝 初 章(倉 田)45
1890年 に は,rf・ 一ス ト リ ア 全 部 で,17,177の フ ォ ル ク ス シ ュ ー レ(小 学 校) が あ っ た 。 ギ ム ナ ジ ウ ム と 実 科 ギ ム ナ ジ ウ ム は173校 で あ っ た 。 就 学 義 務 年 令
の 少 年 は175万3,075人,少 女 は172万4,940人 で あ っ た 。 そ の う ち フ ォ ル ク ス シ ュ ー一 レ に 通 う 少 年 は142万1,638人,少 女 は134万7,788人 で あ っ た 。 ギ ム ナ ジ ゥ ム と 実 科 ギ ム ナ ジ ウ ム に5万2,959人 の 生 徒 が 通 っ た 。 そ こ で 教 え る 教 官 は3,5 27名 で あ る 。1890/91年 度 の お わ り に ギ ム ナ ジ ウ ム に 常 時 通 学 す る 生 徒 は4万 4,780人 で,そ の う ち ロ ー一一・ ・ カ ト リ ッ ク が3万6,754人,新 教 が1,136人,ユ
くハ
ダ ヤ 教 が6,291人,等 で あ っ た 。348万 人 の 生 徒 の う ち4〜5万 人 の 生 徒 が ギ ム ナ ジ ウ ム へ 通 う の で あ っ た 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ の ギ ム ナ ジ ウ ム は,ウ ィ ー ソ 第2区 第1国 立 ギ ム ナ ジ ウ ム K.K.erstesStaats・GymnasiumimII.BezirkeinWienと い い,か れ は こ
こ で8年 学 ん だ 。 自 宅 マ ル ツ ガ ッ セ か ら 歩 い て10分 か ら15分 ほ ど の 所(II,Cirk usgasse48.)に あ り,現 存 し て い る 。
オ ー ス ト リ ア の ギ ム ナ ジ ウ ム は,8学 年 制 で,は じ め の4学 年 は ウ ソ タ ー ・ ギ ム ナ ジ ウ ム,そ の 後 の4学 年 は オ ー バ ー ・ ギ ム ナ ジ ウ ム と い っ た 。
さ て,か れ の 両 親 は 息 子 ル ー ド ル フ に 大 層 期 待 を 寄 せ て い た 。 そ れ も そ う だ ろ う と 思 わ れ る 。 子 供 を 大 学 ま で や る と い う 家 庭 だ か ら で あ る 。 ま た 一 般 に ユ ダ ヤ 人 の 家 族 は,す で に 述 べ た よ う に 文 化 的 志 向 は 強 か っ た 。 す な わ ち,ど ん な に 貧 し く て も,息 子 た ち の1人 ぐ ら い は 大 学 を 出 し て,ド ク トル 位 を と ら せ た い と 思 っ て い た(大 学 を 出 る こ と と ド ク トル 位 を 取 る こ と は 同 じ こ と で あ る)。 も ち ろ ん,ギ ム ナ ジ ウ ム8年 と 大 学 の4〜6年 間,息 子 の 収 入 を あ て に せ ず,反 対 に 扶 養 し,授 業 料 そ の 他 を 払 う に は,一 定 以 上 の 社 会 階 級 に 位 置 し て い な け れ ば な ら な い 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ の 家 は こ れ が で き る 程 度 の 階 層 に あ
っ た の で あ ろ う 。 今 で い う 上 層 サ ラ リ ー マ ソ で あ り,息 子 は ル ー ドル フ1人 だ け で あ っ た 。 か れ は,ギ ム ナ ジ ウ ム → 大 学 と い う コ ー ス を 歩 む こ と が で き た 。 (29)Dr.A.Petersilie,Dasb'ffentlicheUnterrichtungswesenimDeutschenRei.
cheundindenubligeneuroPaischenKttlturlanden:.'Bd.1,Leipzig1897,S.
260‑261.こ の 文 献 は 増 井 三 夫 氏 に 教 わ る。
46 人 文 研 究 第59聲
両親 の期 待 に もか かわ らず,「 ギ ムナ ジ ウムでは,か れは 単 に 中位 の生徒 で
ぐヨゆ
あ っ た 。 努 力 家 で は な か っ た 。」 と,ド ソ ブ ロ ウ ス キ イ は 書 い て い る 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ の よ う に 優 秀 な 人 物 に 対 し て,こ れ は 信 じ 難 い こ と で あ る 。 し か し,現 存 し て い る か れ の 卒 業 期 の 成 績 表 を 見 る と,ど う ひ い き 目 に 見 て も,間 違 い で は な い こ と が わ か る 。 オ ー ス ト リ ア で はvト ウ ー ラ(Matura)と い っ て ギ ム ナ ジ ウ ム 修 了 の さ い に 大 学 入 学 資 格 試 験 が あ る 。 マ ト ゥ ー ラ に 合 格 す れ ば ど の 大 学 の ど の 学 部 に も 入 れ る の で あ る 。 ル ー ド ル フ の ギ ム ナ ジ ウ ム に か れ のMaturitatszeugnisが 残 っ て い る の で,こ れ に よ っ て か れ の 成 績 が わ か る 。 (sehrgut;ausgezeichetをA,10benswertをB,befriedigendをC,genUgend
をD,nichtgenUgendをE,entsprechendを 合 格,と い う ふ う に,仮 に わ か り や す く表 現 し て み る 。)
操 行 宗 教 学
ラテ ソ語 ギ リシ ャ語
ドィ ッ語(教 科 語 と して の) 数 学
物理 学 自然 史 哲 学 概 論
格合BCDDEBDC
試 験 の結 果 「資 格 あ り」 とされ た。 しか し 「歴 史 」が 不 合格 で あ り,再 試 験
〔13}
を 受 け,Dで パ ス し,結 局 か れ は1894年9月21日 付 で 資 格 証 明 され た 。
現 在 で あ れ ば,ウ ィー ソ大 学 医 学 部 に は 入 れ な い が,ル ー ドル フ の 成 績 で も,当 時 は 入 れ た の で あ る。 か れ の 成 績 が よ くな か っ た 理 由 は 何 で あ ろ うか 。 高 名 な 学 者,偉 大 な 思 想 家,歴 史 上 の 人 物 の 中 で,学 校 の成 績 の 悪 か った 人 は 枚 挙 に い と まが な い 。 しか し,そ うい うだ け で は ヒル フ ァデ ィ ソ グ に 対 す る 具 {3①Fischart,op.cit.
Bl)こ の原簿 は,注(1)の9の(皿)の 作 品に採録 した。
ル ー ドル フ ・ ヒル フ ァデ ィ ン グ 伝 初 章(倉 田) 47
体 的説 明に は な らな い で あ ろ う。 ギ ムナ ジ ウ ムの生 徒 の ときす で に社 会 主 義 に
こ お
興 味 を 持 ち,運 動 に 参 加 した,と い う こ とが そ うさせ た,と 考 え る こ と も で き る。 そ れ は,あ り うる こ とで あ る。
た だ 少 く と も,当 時 の ドイ ツ語 圏 の ギ ム ナ ジ ウ ム は,必 らず し も,優 秀 な, 創 造 的 な 生 徒 が よい 成 績 を とれ る とは か ぎ らな い 状 況 が,確 か に あ った 。
当 時 ウ ィー ソ の ギ ム ナ ジ ウ ムは,1日4〜5時 間,ま た は5〜6時 間 で あ っ た 。 授 業 は 正 午 に お わ った か ら,始 ま りは 早 か った 。 生 徒 は 朝 飯 もそ こ そ こ に,日 の 出 と と もに 学 校 に か け っ け た 。 午 後 は そ うす る と 自 由 な 時 間 だ った よ うに 思 わ れ るが,そ うで は な か った 。 宿 題 が ど っ さ り出 た の で あ る。 か れ らは そ れ に 取 り組 まね ば な らな か った 。 い や む し ろ,ギ ム ナ ジ ウ ムの 授 業 は 宿 題 の 点 検 に あ った とい っ て よ か っ た 。 毎 日5時 間 も木 製 の ペ ソ チ に 座 ら さ れ て い た 。 も ち ろ ん 体 操 の 時 間 もあ っ た 。 しか し,日 本 の 小 ・中 ・高 校 を 思 い 浮 べ る と,そ れ とは 随 分 ち が うの で あ る。 オ ー ス ト リア の ギ ム ナ ジ ウ ムに は 概 して, 校 庭 や 運 動 場 は な か った 。 と くに ウ ィー ソ の よ うな 都 会 で は そ うで あ った 。 ル ー ドル フ の第2区 第1国 立 ギ ムナ ジ ウ ム も,石 造 りの ビル デ ィ ソ グ で,屋 内 体 操 室 が あ る だ け で あ る 。 そ こで た だ ドタ ソ,バ タ ソ,体 操 を す る の で あ った 。 学 校 は 勉 強 の 器 械 で あ った 。 教 師 は,帝 国 の 役 人 で あ った 。 数 多 くあ る修 道 院 付 属 の ギ ム ナ ジ ウ ム で あ れ ば,教 師 は 坊 さ ん で あ った 。 先 生 は,生 徒 よ り一 段 と高 い 立 場 に お り,生 徒 と対 等 に 話 す こ と は な か った 。 生 徒 の 好 み や 自主 性 ・ 自発 性 とい う も の は 考 慮 さ れ な か った 。
当 時 の ウ ィ ー ソ の 富 裕 な 家 庭 で は,教 養 あ る子 弟 を も と う と心 を 砕 い た 。 教 養 あ る息 子 とは す な わ ち 大 学 出 の,ド ク トル の 肩 書 を もつ 人 の こ とで あ る。 親 は か れ らに フ ラ ソ ス語 と英 語 を 学 ば せ,音 楽 に 親 し ませ,躾 の た め に 家 庭 教 師 を 置 い た もの で あ る。 と こ ろ が 実 際 に は,大 学 に 入 るた め に 必 要 な も の だ け が
「教 養 」 と さ れ た 。 す な わ ち ア カ デ ミ ッ ク な教 養 だ け が 「価 値 」 を も っ て い た の で あ る 。
学 校(ギ ム ナ ジ ウ ム)の 教 科 目は ど ん な も の が あ った か?そ れ らは,宗 (32)注(1)の2の 文献 参照。