第6章 尾小屋鉱山と横山鉱業部
著者 橋本 哲哉
雑誌名 近代石川県地域の研究
ページ 179‑205
発行年 1986‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/10829
第1節石川県の鉱業生産と尾小屋鉱山
鉱山史研究の大家である小葉田淳は名著『日本鉱山史の研究』の中で,加 賀藩時代の鉱山について詳述している。その書き出しは「加賀藩には,越中 国新川郡に七つかね山といわれた七か所の鉱山があって,藩政初期には藩の ドル箱であったとしても誤りではない。それは,松倉・河原波・虎谷・下田の 四金山,吉野・亀谷の二銀山および長棟鉛山である」(1)となっている。以下,
虎谷・松倉・亀谷の3山を選び出し,分析している。ところで「加賀藩内に は加賀・能登にも数か所の貴金属山が開かれているが,重要なものは越中新 川郡かね山である」(2)としているように,近世においては加賀・能登の鉱山は 重要な位置を占めてはいなかったといってよい。同書の「16~19世紀中期の 重要鉱山分布図」(3)をみても,加賀・能登においては宝達・金平金山,倉谷銀 山などの名をかぞえることができる程度である。金平・倉谷両山は19世紀末 までその名をとどめて稼行はしていたが,いずれも小鉱山であった。もっと も小葉田はその分析対象とはしていないが,両山とも藩政前半期には安定し た採掘が行われていたようである(4)。
加賀藩時代の鉱山研究に新しい知見を加えることはできないが,これまで に近代以降の尾小屋鉱山(石川県能美郡)に関する若干の資料に接すること ができた。そこで近代以降の石川県鉱業の概要にふれた後,尾小屋鉱山の展
開について分析を試みてみたい。加賀藩地域においては旧藩政期以前より製糸と共に加賀絹の織物が盛んで あった。近代以降も在来的な絹織物に加えて輸出羽二重,人絹などが代表的な 石川県の産業であることは周知のとおりである。次の表6.1はとりあえず 1900年前後~1920年代の間の石川県の工産・鉱産額(生産価格)をとり出し,
あわせて絹織物,製糸産額の内訳も示した。
たしかに絹織物産額は全工産額の半分近くを占め,石川県の特徴をよく物
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表6.1石川県の工産・鉱産金額の比較
内絹織産額⑧内製糸産額(C)全鉱産金額(D) 全工産金
頓(A) 産額B/141%産額qA%産額、/A比 年9012345678901234’5678901234567890900000,00001011111111111「222222222238999911111 950843469680607739399522771809336254047768305347658013850874242122096976794746811666608007494493?フウラワフウアワ??p、7ヲアワPワフウ、ウウウワワアワブゥ9312248614227905243310378879712991111111222222333346951101110010711111111111
6,607 4,918 5,640 6,299 8,148 11,670 8,454 12,082 12,654 :10,520 9,455 12,148 12,300 11,933 14,381 12,052 14,353 18,678 26,120 44,257 72,648 44,297 45,032 42,421 46,083 50,438 50,818 50,635 48,328 59,059 50,432 34,023
49.8 43.8 46.8 48.7 55.8 61.2 50.4 55.8 51.1 45.8 42.1 43.9 41.8 39.0 40.1 37.5 42.0 42.8 41.0 48.3 48.2 39.2 38.2 39.3 39.1 42.8 4285 46.9 47.7 52.5 45.9 42.9.
266701032685463997048658875344875743206591067586574135582081136564445681201226289781764155232340Pファワワワワワワワフ分フアワ??979,ワフ分91111111312343311111111111 92746213249634287764552133122233●●●●●●●●●●●DCCO●●●●●●●●●●●●●●●●■44333355544445958873211111111111 22063273510291333985463758519447723197370190610899070487778.5567566645665667866890023435843439ワフブウヲフヮワコpフフ121111111111 9884297692243498062311323644322●CD●●DC●●●ワ●●●●●●●●●一●●●●●●●●●●644432222222221121111111.1111111
各年次とも『石川県統計書』より作成。工産額に関しては資料間に若干数 字の混乱があるが,各年1次の統計書の数字のままとした。
上重金頚Q皇位はLOQLLEL-以工は」;UU)_拾。乙工あみ。-----------
---
-180-
語っている。この点は既に第1章で詳述したところであるが,第1次大戦後,
京浜・京阪神・北九州などの先進工業地帯の工業化,とくに重工業化の進展 の波は各地方にも次第に及んでいくが,にもかかわらず石川県内での絹織物 業の地位にゆるぎのないのは注目に値いする。またこの第1次大戦後期に鉱 業の含めた全工業生産の伸びが著しい。
ところで表示した全時期を見わたして考えると鉱産額の比重も軽視しえな い。戦前統計書類では,おおむね工産額と鉱産額の項を区別し,後者を前者 の中に含めないので単純に両産額を比較することはできない。その意味では ある程度のめやすといったところではあるが,ほぼ製糸産額に匹敵し,1910年
表6.2金・銀・銅生産金額
金産額銀産額銅産額他共計 金産額銀産額銅産額他共計
3,283,906 1,869,451 2,959,042 3,777,195 4,840,088 3,114,752 3,738,395 1,656,280 1,455,820 1,188,641 1,528,189 1,507,492 1,285,870 1,313,624 1,214,777 1,334,943 1,468,717 1,057,255
畔Ⅲ砠砠Ⅳ肥⑱捌皿皿朋幽閉茄酊朋羽剛
9111 215560257筋鮒Ⅲ閲Ⅳ祀門Ⅲ岨1?997719709639831162
2,897,201 1,328,775 1,648,901 2,946,244 3,142,645 1,925,926 3,378,886 1,456,919 1,388,534 1,169,231 1,519,7M4 1,470,492 1,271,456 1,295,993 1,207,286 1,324,306 1,466,983 1,042,848 195,699
219,251 222,172 252,573 272,810 207,269 131,591 45,129 10,256 259,355
274,800 321,132 391,820 355,163 652,541 476,376 446,705 437,354 520,861 601,030 860,661 1,153,637 1,292,093 1,016,531 1,108,604 1,265,139 1,274,902 1,656,311 拝567890123456789012閥99999釦000000000Ⅲ111●11 Ⅲ皿醜幽皿皿棚珊瑚仙加刎捌捌而捌剛川棚I1?9019111199911110町Ⅲ醐測Ⅳ佃師剛醐剛畑師柵Mn朋棚伽側
1111
18,793 23,328 9,847 33,107 104,877 116,326 124,353 118,708 130,929 169,321 167,504 173,756 158,894 165,764 195,047 237,211 186,721 153,218 188,460
47,383 76,619 ,0,291 40,139 36,497 40,396 42,533 38,553 42,241 45,979 47,595 46,623 -48,124 43,393 41,344 22,171 7,298 ,7,495
表6.1と同じ出典であるが、単位は円。なお鉱産額の中には土石類は含めてい
ない。
-181- 「ヂ
トー=二
代にはそれをはるかにしのぐ勢いを示している。ただし製糸はあくまで絹織
|
物生産に付随しており,生産の波も同波形をとってのびちぢみしている。それ に対して石川県の鉱業生産は県内での独立の業種で全国的な第1次大戦景気 の影響で生産の頂点を迎えている。本章は1920年代迄を検討の対象時期とし ているので,石川県における鉱業生産を無視しえない時期と考えるわけであ
る。さ・て,その鉱業生産の内:訳について,その基本となる資料を表6.2とし て作成した。
『石川県統計書』の中から金・銀・銅の各生産金額を正確に知りうるのは 1894(明治27)年以降である。この時すでに銅生産が主要な位置にあり,表 中の全期間を通じて主流である。この点で加賀藩時代とはちがった特色を示 しているが,しかし1900年代にはまだ金生産も20%前後を占めている。これ は小葉田が指摘した金平。倉谷の両山が金の採掘を継続していたからである。
藩政期からのいわばおくれた方式の採掘を行っていた両鉱山は,1910年代に あいついで稼行を中止する。そしてその両山の退潮とは逆に銅生産が圧倒的
となる。その中心が尾小屋鉱山であったのである。この石川県の銅生産は全国的にみるとどのような位置にあったのであろう
か.0
6|
表6.3は1920(大正9)年の主要県別の銅生産量である。栃木・秋田・I
愛媛・茨城・秋田の5県はほぼ同水準で,この5県/で全国の4分の3をしめ表6.3全国主要県の銅生産額(1920年)
銅産額全国比 銅産額一全国比
栃木県 秋田県 愛媛県 茨城県 大分県 岡山県
兵庫県 石川県 青森県 香川県 山形県 全国計
569628
●●●●●●9833941111。
13,221.8 12,575.9 9,396.9 9,186.9 6,259.1 3,282.8
2,563.5 2,27651 2,193.6 2,174.7
84228●DC●●33331
1.223.8 67.792.4
商工省編『本邦鉱業の趨勢』(1920年版)より作成。原資料の単 位は斤で表示されているが,トンに換算した。表6.4も同じ。
-182-
ている。石川県は岡山・兵庫・青森・香川各県とほぼ同水準の第2グループ を形成している。なおこの10県で全国の90%以上の銅を産出していることに
なる。世界的に見るならばこの時点の日本はアメリカに次ぐ世界第2位の銅産国 であった。アメリカは世界の過半を産出しており別格であるが,産銅国とし て有名なチリ一以上の産出高を日本は有していた。また中国,イギリスなど への銅輸出国でもあった。このように見てくると石川県の銅を中心とした鉱 業の分析は若干ではあるが意義を見出しうる。
次の表6.4は前表と同年の全国の主要鉱山の銅生産額である。個別鉱山 表6.4全国主要鉱山の銅生産額(1920年)
銅生産額 銅生産額
尾小屋鉱山(石川)
直島鉱山(香川)
安部城鉱山(青森)
荒川鉱山(秋田)
槇峰鉱山(宮崎)
阿仁鉱山(秋田)
全国総計 足尾鉱山(栃木)
日立鉱山(茨城)
別子鉱山(愛媛)
小坂鉱山(秋田)
佐賀関鉱山(大分)
尾去沢鉱山(秋田)
生野鉱山(兵庫)
2,276.1 2,174.7 1,599.0 1,311.6 946.0 872.6 67,792.4 13,200.5
9,186.9 8,811.1 7,100.4 6,259.1 2,857.3 2,559.2 表6.3と同じ。
でも上位5鉱山が圧倒的な比重を占め,全国総生産量の3分の2を産出して いる。興味深いのは前表とかさねて考えると秋田・岡山を除く上位8県はい ずれも県内の1つの鉱山がその県の9割以上の銅を独占していることである
(青森の安部城鉱山のみ73%)。尾小屋鉱山はそうした共通点を有しつつ,こ の時点では全国第8位の生産量である。1900(明治33)年では第13位で尾去 沢・生野鉱山と肩を並べている。1920年以降,その地位は次第に下降してい くが,尾小屋鉱山はすくなくとも1930年代迄は足尾・日立・別子を超一流と して別にすれば,それに続くランクの鉱山であったといってもさしつかえな
かろう。
つぎに石川県内の主要諸鉱山を歴史的にみるために,表6.5を作成した。
-183-
一トー
-FOI表6.5,県内主要鉱山の鉱産金額
尾小屋鉱山遊泉寺鉱山金平鉱山倉谷鉱山富来鉱山 銅産額坑夫数銅産額坑夫数織銅産額坑夫数金銀銅産額坑夫数金銀産額坑夫数
年012345678901234567890123456000000000011111111112222222999『111
196,004 212,532 222,500 272,679 330,144 432,987 528,685 620,656 383,466 435,188 519,721 581,195 896,508 961,951 851,199 1,105,154 2,134,671 3,095,600 1,693,781 3,453,281 1,456,919 1,391,554 1,169,231 1,505,348 1,470,492 1,271,456 1,294,663
412 496 474 615 805 793 917 785 1,036 1,032 1,020 1,105 1,231 1,536 1,743 1,296 1,466 1,604 1,547 1,594 1,722 1,287 1,118 1,133 1,069 564 1,180
8,760 3,088
1268
24,320 25,880 24,737 27,000 32,594 43,024 40,992 36,037 32,101 25,846 16,739 24,268 13,845 567,478 55,105
120 120 115 120 120 180 190 170 170 185 185 188 188 188 160 165 684 804 488 488 245 39
157,703 150,242
7108524428154565685151913333333333-‐0□h‐‐I|’-0.⑤『q■FⅡbiP?
178,138 185,316 180,630 170,851 148,601 167,812 154,579 71,981 1,267 135,116
291,009 335,510 330,254 354,635 519,183 500,422 540,037 530,065 477,576 543,747 811,573
犯則開別配、弱田〃肥蛸㈹銘肥245.67777677986
25,881 55,260 116,807 124,990 141,290 182,110 195,827 221,935 229,941 266,332 758,638 193,167 140,383 48,344 10,683
881683391709226498499806493327121223223321
128,239 249,257 156,580 81,030 421,984
4,80081
22,964 6,38131
1,33036 各年次『石川県統計書』より作成。単位は円。
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産出物がことなり,単位も各様なので産出価格で比較してある。原資料は『石 川県統計書』の中の「主要(又は重要)鉱山採掘地」表であるので,表示さ
れていないからといって廃坑になったとは必ずしもいえない。金平・倉谷両山については少し述べたが,金平鉱山は能美郡金野村大字金 平にあり,1890(明治23)年以降村民共有鉱山であった。もともとは金山で あったが,1910年代は銅によってこれだけの産出金額をえている。しかし次 第に不活発となり,1934(昭和9)年には買収されて尾小屋鉱山の支山とな った。倉谷鉱山は石川郡犀川村の金山で,1910年代に急速におとろえた。
遊泉寺鉱山は尾小屋に隣接した鉱脈を掘り,能美郡国府村にあった。その 開坑は藩政中期までさかのぼるようであるが,活発な採掘はおこなわれず,
露天掘に近い状況であった。1902(明治35)年,竹内綱が買収し(後,竹内 鉱業株式会社となる)γ九州唐津の芳谷炭鉱の経験をもとに開発した。炭鉱 専用鉄道にまねて,小松一遊泉寺間に鉄道を敷設し,最新方針の鉱山機械を 導入したりした。その結果第1次大戦前後の時期にはその業績が大いにあが っている。坑夫数をみても石川県下第2位の鉱山であった。この活況期に遊 泉寺鉱山をはじめとした竹内鉱業翼下の鉱山・炭鉱用機械の製作・修理部門 として発足したのが,小松製作所の前身の小松鉄工所である。1917(大正6)
年1月のことである。しかし遊泉寺鉱山はその時期を境に衰退し,竹内鉱業 も1928(昭和3)年に解散した(5)。~
富来鉱山は羽咋郡富来町にあり,日露戦後に三菱合資会社によって開発さ れた金山である。最盛期には年間金0.2トン,銀約0.4トンを産出した時期も あるが,1920年代初頭に閉山した。
表6.5に明らかなように,尾小屋鉱山の石川県における地位は圧倒的な ものであった。1910年代前半までは遊泉寺鉱山と肩を並べ,全生産額の3~
5割程度であるが,後半から1920年代はその大半をになっていた。
この尾小屋鉱山の銅生産量に関して表6.6を作成した。
尾小屋鉱山の銅生産の展開過程とその特徴については次節であらためて論 述するので,ここではその概要を石川県の特徴も含めて2,3指摘するにと
どめる。尾小屋鉱山の生産物は大半は銅で,その生産額等の確実な資料を知 りうるのは1898(明治31)年以降である。また1931(昭和6)年12月に日本
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ぴ尾小屋鉱山の銅生産額等 表6.6 石川県およ
尾小屋鉱
石川県 鉱区
坪数
石川県 尾小屋鉱 鉱区
銅産額 山銅産額 銅産額 山銅産額 坪数
1898年 557.1 405.2 1.023 1917年 2.683.4 1.804.2 1.906
99 628.8 465.2 825 18 1.996.6 1.606.4 1.906 1900 416.6 289.0 1.024 19 2.010.1 2.010.1 1.906 01 426.0 343.7 1.024 1920 2.276.1 2.276.1 3.510 02 506.4 451.0 1.011 21 1.824.1 1.824.1 2.401 03 562.9
戸6
669.0
509.7 1.024 22 1.890.9 1.890.9 2.401
04 0334444723999 2152222284000 4142222271666
’99,97ワワ,?97??1111111112111
6686586365030●●●●●●●●●●●●●208769615778583849072830495666689134569》9997リワ111111
23 2.061.6 2.037.7 2.401
05 902.3、 2.066.3 2,066.3
1,680.3 1.817.4
24 2.401
06 1.234.0 25 11111111112 999??????9768766703657 帥Ⅳ記餡仏、別冊幻灯似 342464『86003
2.401 07 1,193.1
1,389.6 1.493.2
26 2.401
89012345600111111191 789012345222333333911
1,758.2 1,683.4 1,644.6 1,731.4 1,054.8 1,393.6 1,507.6 1,559.0 1,606.0
2.401 2.401 1,950.7
2,681.3 2.249.5
2-401 2,401凸
2.401
2.240.5 2.401
2.340.5 2.401
2,449.8 2,761.3
2.401 2.401
各年次の『石川県統計書』から作成。なお,皿1905年以降は前掲:『zk邦鉱業の趨勢』
の各年次の数字で点検したが,若干のくい違いの部分は『石川県統計書』の数字を とった。しかし,1913,23,26年の石川県銅産額など明らかにミスであるものはョ
『本邦鉱業の趨勢』の数字を採った。原資料をいずれもトンに換算。鉱区坪数の単 位は1,000坪。
鉱業株式会社に買収されて横山鉱業部は消滅したが,一応1935(昭和10)年
迄表示した。表6.2,表6.5とあわせてまず検討してみよう。石川県の銅産価格額 のピークは1913,16~17,19年であるが↓生産量の面でみると1911,15~17 年と若干の差がある。しかし両面から考えて1910年代の中頃と末に2つの銅
者は全国的な生産状況とも合致して 産のピークがあったと考えられる。前-186 ̄
いる。しかし石川県のもう1つのピーク時である1910年代末は全国的にみる と激しい減産傾向の最中にあたっている(この期の生産の底部は全国的には 1922年である)。ついで石川県の鉱山経営は尾小屋鉱山を除いていずれも零細.
小経営であったことも指摘しておこう.1900年代の1鉱山あたりの平均坑夫 数は50人前後,1920年代でも200人前後でしかない。
尾小屋鉱山の生産面を見てみると,価格では1917.19年がピークで,生産 量では1919.20,23.4年がピークである。石川県全体でみた場合よりもピ ークがうしろにずれているのが大きな特徴である。この点は鉱区の動向にも あらわれている。1920(大正9)年の鉱区は一時的な拡大とみなしたとして も,1910年代後半から1920年代にかけて増区傾向にあった。
尾小屋鉱山を含めた石川県の銅生産の特徴は次の諸点に要約できよう。ま ず全国の銅生産傾向と比較してそのピークがずれ,戦後不況期にピークに達 したこと,第2に尾小屋を除いて大半が零細・小経営鉱山であったこと,し たがって第1次大戦後不況期~1920年代末までには尾小屋鉱山を除いて閉山
状態となったことである。以下尾小屋鉱山の経営内容については次節で分析する。
第2節横山家による経営着手
近代以降の尾小屋鉱山経営に関する資料は少ない。現在は廃坑(1971年末 閉山)となっており,閉山前後から基本的な資料は,ほとんど散逸したよう である.加えて横山鉱業部は尾小屋鉱山経営に失敗して破産し,日本鉱業に 買収された経緯があるため,横山鉱業部時代の手がかりは一層とぼしい。手 元には『尾小屋鉱山誌』,『西尾村史』(6)のほかは農商務省鉱山局の編纂資料,
商工省『本邦鉱業の趨勢』の尾小屋鉱山の項,横山家関係の若干の資料,お よび労働関係として「尾小屋鉱山スト資料」(7)と『明治大正期の石川県におけ る労働運動』(8)などである。それらをもとに,主に横山鉱業部時代の尾小屋鉱 山小史をたどることにする。
尾小屋鉱山の沿革について,農商務省鉱山局の資料は次のように述べてい る。すなわち「当山ノ鉱脈ハ大小数線アルヲ以テ,各其発見ノ年月ヲ異ニス
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ト錐モ,軌レモ皆明治十一年以降ノ発見二係り,現今採掘スル処ハ現鉱業人 横山氏(合名会社横山鉱業部一引用者)ノ発見シタル鉱脈二属ス」(9)という内容 である。東京鉱山監督署『日本鉱業誌』(1911年),商工省鉱山局『本邦重要鉱 山要覧』(1913年)などの沿革の記述はこれとまったく同趣旨である。
たしかに尾小屋鉱山の採掘は1890年代以降に活発化したのであるが,しか し採掘開始時期は藩政初期までさかのぼるようである。
『改作所l日記』(中編)の天和2(1682)年11月晦日の項に「唯今尾小屋かね 山に罷在茶屋吉左衛門,不届之儀有之,向後かね山え出不申様,人々支配か ね山々師共へ,急度可申渡候。山師共御議に,其方共奥書を以可出之候」と いう記事がある。このことから藩政初期にはすでに採掘がはじまっていたと 推測されるが,これ以外の資料は今のところ見つかってはいない。その後に ついては『加賀志徴』(巻6)の尾小屋金山の項では,宝暦14(1764)年の「旧 跡等調査に,尾小屋村岩底谷与申所,先年かね掘申跡御座候。宝永年中御断 申上掘候へ共,銅少くなりて出不申,相止申候」とある。また前掲『尾小屋 鉱山誌』には「石黒家(金平村)にのこる古文書には天明3(1783)年金山 谷において,石黒源次(当時の金平金山の経営者)が銅鉱を発見したが,天明 5(1785)年に休止したとあり,その後小松町呉座屋又平というものが再興 しようとしたが(年限不詳)数年で中止した」('0)と記されている。このよう に尾小屋鉱山の採掘の開始は金平金山などとともに藩政初期までさかのぼる ことができるが,その中期以降はほとんどかえりみられることがなかったと
思われる。ついで「明治十一(1878)年に,金平の橘佐平が尾小屋村小字松ケ溝で銅鉱 の露頭を発見し,翌年金平の山岸三郎兵衛が試掘した。これが本鉱山の継続 して今日に至った端緒とも言いうる。明治十三年に協同人吉田八百松外六名 で採掘が始まったが,同年横山隆平9隆興が協同人に加入して,尾小屋鉱山 の経営に参加した」('1)のである。かくして尾小屋の横山家による経営という 新しい時代がはじまった。
横山家は代々加賀藩主前田家に仕えた重臣・家老であった。第12代隆章の 長男が第13代当主の隆平で,隆興はその弟である。隆平・隆興兄弟はその家 雨にもかかわらず,秩禄処分によって身ひとつで維新の激動の中に放り出さ
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れた゜横山本家の隆平に与えられたものは家屋敷と2万余円の金禄公債,分 家の隆興の資産はおそらくその3分の1にも満たなかったであろう。
これを資本に,旧横山家家臣のわずかな金禄公債も含めて筍完社(代表横 山隆平)という会社を組織した。そして金貸業や製塩事業に手を出したが,
「士族の商法」でうまく運ばなかった。そうした折,尾小屋鉱山の共同経営 の話が吉田等によってもちこまれたのである。
「製塩も子々孫々に遣すべき事業でない,金貸も国家を利する業務でない,
鉱業・鉱業・鉱業を措いて一家一門の計を樹つるの道はあるまい」('2)。直接 吉田の説得をうけた隆興はこのように決意し,自らすすんでその道に邇進し た。後に「北陸の鉱山王」と呼ばれる隆與は,この時23才,人生の大きな転
機でもあったのである。
1881(明治14)年鉱業権一切を買収して隆平名儀とし,隆興は鉱山長とな ってその経営に本腰を入れることになった。また鉱山の名称も隆宝館尾小屋 鉱山と称し,別に尾小屋への金融と銅の販売のために円三堂なる組織も作っ
た。その後の約10数年間は,尾小屋鉱山が近代的経営の装いをもつにいたる草 創期ともいうべき時代であるといえよう。その間の隆興の努力は「実二不屈 不僥ノ精神ヲ以テ,身心ノ全カヲ尽シ数年一日ノ如久耐忍ト配慮トー拠り 計画其宜シキヲ得タルニアラザルヨリハ,其難二勝チ,今日鉱業較ヤ安堵ノ 地位ニ達セシヲ得ベカラズ。其功労ノ偉大ナルハ,氷ク忘ルベカラザル所」('3)
と兄隆平より賞讃されるほどのものであった。
しかし一方ではアメリカで鉱山学を修めて帰国した瓜生泰を即座に鉱山長 に任命し,新式技術導入をはかるなどはなやかな方針をとったり,他方では 作業不振となると新方針実施に際して退職した職員を急拠復職させるなど,
確固たる経営指針をうかがうことは必ずしもできない。旧家臣が多く集まっ ていた円三堂に対し,主家の事業であることを強調して無理な融資をさせた りもした。士族経営の観は否定できないのである。これらの危機は新鉱脈の 発見と鉱区の拡張で何とか乗り切った。
そうした時,1896(明治29)年,「大洪水によって,作業場全体が破壊され,
諸施設は一切流失して,十余名の死傷も出ると言う,-大打撃を蒙」('いる事
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件がおこった。この難局も隆興は鉱山長に復帰して陣頭指揮をとり,「施設 は無に帰したが,肝心の鉱脈は四方八方に地下に残っているぞ。努力によっ て,復旧するのだ。業場の破壊は,より立派な物を作れとの,天の命令」('5)と いう信念で克服した。こうした隆興のがむしゃらとも見える積極策は折から の日清戦後の企業勃興期ともかさなって功を奏した。というより復旧を通じ て,尾小屋鉱山はかえって「旧態以上に整理され」('6)る結果となったのであ る。こうした経緯をへて尾小屋鉱山はその草創期を通過したといえよう。
尾小屋鉱山は表6.6にあるように1900(明治33)年には鉱区も100万坪 をこえ,翌01年以降は産銅額もゆるやかに増加している。しかしその生産の 段階は坑内諸施設を見る限り,いまだ手工的段階を脱し切ってはいなかった
といえる。その実態を少し分析してみよう。
まず坑内外の鉱石の運搬手段については「横坑道ニハ…・木製鉱車ヲ用上,
人カニ依テ鉱物ヲ運搬ス,坑内竪坑ニ在リテハ・…捲揚機ハ人力又ハ馬力ヲ
要」('7)すると資料にはある。基本的には鉱石の運搬を人力に依存していた段
階で,坑内の機械化のメルクマールとされる電動捲揚機(エンドレスロープ機)
はまだ未設置であった。また排水にはコルニッシュ式卿筒が使用されていた が,これは当時としては一級品のポンプではなく,しかも1台しかなかった。
通気にいたっては「天然ノ通気二依ル」('8)といった状態であった。1899(明 治32)年に沈澱池と濾過池が新設されたが,人力選鉱が主体で,選鉱の「働 力ハ直径三尺ノベルト水車一台」('9)といった状態で,1901(明治34)年によ うやく機械選鉱の設備が完成した。旧式の山下吹製錬法が廃止されて,洋式 製錬法に切り替えられたのは,1903(明治36)年のことである(20)。以上から 1900年代前半までの尾小屋鉱山は少なくとも坑内諸施設に関しては蒸気ポン
プ1台以外には見るべき機械類はなかった。隆宝館の経営組織について,「隆宝館事務章程」という小冊子(和綴108頁,
1887年,以下本節の引用でとくにことわらない場合は本資料からの引用であ る)をもとに言及しておこう。隆宝館創設の直後の資料であるが,この小冊子 によると経営組織は次のような構成であった。
1880年代には日本の代表的な鉱山・炭鉱(例別子・足尾鉱山,三池炭鉱な ど)はすでにひとつの企業としての形を整えていたが,それらを念頭におき
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表6.7隆宝館の経営組織つつう
隆宝館館主 ず第つつ若干の指摘をしよう。ま ず第1に尾小屋の鉱山経営と
本館事務管理部門とが明確に 分離されていることである。
本館の管事は「館業ノ進否得
失ヲ察シ,財務其他百事大小 トナク注目シテ館益ヲ計ルヲ主眼トス。故二館業全体二就 テハ其ノ責二任ズ」と定めら れ,以下管理的な職務の規定 をうけている。尾小屋以外の
鉱山を次々に買収し発展して いく余地を組織上はもってい たと判断できる。つぎに鉱山の具体的な経営にあたって出 収課(「職掌ハー鉱山中ノ財産
鉱長 管事
(鬘辮警)
雫
承事 雇員墓'1,金 の層訂化
矢員工帥幹隼
進繕錬舗収 課課課課課
職坑
ヲ統理シ,金銭ヲ出収シ・・・・
工夫
万事総計算正スルノ任」),坑
腱宝館事務章程」より作成。零頭
職坑鋪課(「職掌ハー鉱山中ノ源根 機軸ニシテ坑中一切ノ事務ヲ
エ夫担任スルノ重任」),製鋪課(「職 掌ハ鉱物ノ理学ヲ適用スル者ニシテ…・撰鉱焼鉱及鋳鉱精製ノ行業可否二注 目シ之ヲ司ドルノ任」),営繕課(「職掌ハー鉱山中ノ土木建築井二運動ノ機器 ヲ司ドルノ任」),調進課(「職掌ハー鉱山中日々ノ必要物ヲ弁与スルノ任」)の5 つの課を持っている点に注目する。各鉱山の経営は名称こそ様々であるが,
会計,採鉱,製錬,労務の4課制が基本で,尾小屋は別に営繕・調進課とい う2つのセクションをつけ加えていた。坑夫管理の面が欠除しているが,一 応その内容も含めて考えると事務組織は整備されつつあったと考えてさしつ かえない。以上はプラス面での評価であるが,一方鉱長,管事以下役職員の 数が多く,序列がこまかすぎるという印象をもつ。表6.5より1900(明治
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33)年の時点で坑夫数は412であったから,それより10年も前の尾小屋鉱山を 考えた場合に一層その感が深い。おそらくこれは役職員の多くを1日家臣が占 めていたからで,彼らの旧身分に応じてポストを与えた結果,このような編 成になったのではなかろうか。この辺はいまだ組織が近代化していないとい
うマイナス面の評価となる。
第3節横山鉱業部の創設
尾小屋鉱山の発展準備期ともいうべき次の段階は,1904(明治37)年7月 の横山鉱業部の創設をもってはじまる。横山鉱業部は1895(明治28)年に買 収していた岐阜の平金鉱山と尾小屋とを合併することによって成った。この 創設は1910年代後半以降の尾小屋の本格的な発展期のスプリングボードでも
あった。
表6.8は尾小屋鉱山の銅生産・鉱区等の指数である。
指数は1900年を100としてあるが,鉱業部創設後の活況はまず鉱区の面に40
%ほどの増区となってあらわれた(1910年対比)。各所で事業拡大の積極的 な経過をとりはじめた証拠である。一方この間の銅生産量はその増区の伸び をはるかに上まわっている。しかし1910年代前半まで坑夫1人当りの生産量 はそれほど目立って増加はしていない。
ところで鉱区はそれほど大きく増加していないが,1909~16年の間急激な 生産の拡大がみられる。そして1918~20年にかけてもう一度増加傾向を示す。
以上の点は尾小屋鉱山の生産諸条件の変化と発展の内容を検討するポイント でもあるが,それは次節にゆだねよう。
横山鉱業部の創設に際して「定款」「諸規則」が定められており,その現物 のコピーが手元にあるので紹介しておく(「明治37年7月1日より」と表紙に 墨書してある)。
「定款」の内容から横山鉱業部の組織をまとめると表6.9となる。
「定款」によると「本部ノ組織ハ横山両家共同ヲ以テ成ル。両家ノ権利義 務ハ葎テ平等トス」(第1条)とあり,横山隆平本家と分家の隆興が一応対等の
立前1〃、
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表6.8尾小屋鉱山の銅生産指数等
銅生産 指数 556 696 788 631 654 705 715 581 629 608 583 569 599 365 482 522 540 556鉱区増 加指数 186 186 343 235 235 235 235 235 235 235 235 235 235 235 235 235 235 235 鉱区増
加指数 100 100 99 100 100 128 132 139 139 139 139 168 126 229 186 186 186 186
坑夫1 人産額
一
1604 126 132 142 169 180 1.93 2.98 154 144 1.43 1.35 1.47 0.91 174 190 2.01 2.19 銅生産
指数 100 119 156 176 202 218 238 224 241 280 338 388 480 497 522 570 690 624 坑夫1 人産額
0.70 0.69 0.95 0.83 0.72 0.80 0.75 0.83 0.67 0.78 0.96 1.01 1.13 0.94 0.86 127 136 112
年8901234567890123451122222222223333339991.11
年0123456789012345670000000000111111119911
表6.6と同資料。ただし坑夫1人当り産額の単位はトン。
ハ鉱主ニテ,鉱主中業務ノ進渉ヲ計ル為〆総督総理各一名ヲ置久総督総理 ハ業務全般ヲ総轄シ、…総督ハ本部ヲ主トシ総理ハ鉱山ヲ主トシ相互二兼摂 スルモノトス」(第7条)と規定されている。また「鉱主ハ常二業務ヲ視察シ」
(第9条),「必要ノ都度鉱主会ヲ開クモノトス」(第10条)とある。鉱主会と 総督・総理の役職を定め,両家の協力関係が示されているわけである。この 点は隆宝館時代と大きな隔りがある。総督は本部を,総理は鉱山を統轄する
ことになっているが,両者は業務全般を総轄するともあり,必ずしも職の分 担が明確ではない。というより総理の実質的な権限が強化されているようで もある。この間の隆興の経営的手腕が本・分家が対等となるようなかたちで
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評価されたのであろう。
「定款」の末尾をみると総督に
は横山隆平の嗣子隆俊が,総理に は隆興の嗣子章が選ばれているのがわかる。隆平はともかく隆興は
まだ第一線で活躍中であったので,文字通り後見役となったのであろ う。鉱山の5課制は隆宝館時代よ り引き継がれたままの体制となっ
ている。横山鉱業部の組織
表6.9総督(横山隆俊)
総理(横III章)
鉱干会
本部務掛作錬場計
課課課掛
計課務課
「横山鉱業部定款」より作成。
第4節銅生産の本格化
1900年代後半以降の尾小屋鉱山の動向を,『西尾村史』(以下「村史」と 略),『尾小屋鉱山誌』(以下「鉱山誌」と略),『本邦鉱業の趨勢』(以下「趨 勢と略)の3つの資料の記述から見てみよう。1910年代末迄を次のように
年表風に整理してみた。
1906年大規模な沈澱池,濾過池および石灰攪拝池の増設「村史」。
1907年大谷鉱山を買収「鉱山誌」。また大蔵鉱山(山形県),宮田又鉱山
(秋田県)も買収「村史」。
1908年本山,波佐羅・五十谷同連絡坑道に着手「鉱山誌」。選鉱場を増設 し,クローム・ロール,ハンチングトン・ミル各1台,オーパースト ローム淘汰台3台等機器の充実を図る゜石油発動機に加え,ガス発動 機も設置。運鉱のため竪坑を掘り,捲揚用原動力としてガス発動機等 を設置「趨勢」。職制を鉱物・製錬・工作・会計・庶務課に再編「鉱山誌」。
1909年横山隆平が死去し,その長男隆俊が相続する。隆興は後見人とな る「村史」。
1910年阿手鉱山(石川県)ほかを買収,また阿手発電所も得て動力の電
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化を開始する。製錬所を改築し,回転炉1座を新設,さらに大谷地区 選鉱所を設置「鉱山誌」・「村史」。
1911年選鉱所に鉱泥淘汰盤を設置し,回焼炉を廃止する。また社宅には じめて電灯がつく「鉱山誌」,「村史」。波佐羅に有望なる新鉱脈を発見
「趨勢」。金沢市内に横山鉱業部の事務所を開設し,同所に隆興の銅 像を建設「村史」。
1912年白山鉱山(石川県)を買収.大谷地区に変電所が建てられ,金沢 電気瓦斯会社から給電をうけ,捲揚機や選鉱動力に使用を開始「村史」。
ウィルフレィ,オーパーストローム,チスター各淘汰盤を増設「趨勢」。
1913年波佐羅,五十谷鉱区に隣接する倉谷鉱山を買収「村史」。本山第六 脈に巾8.9尺に達する新脈を発見「趨勢」。
1914年波佐羅に選鉱場の建設に着手。従来の5課から8課1医局へと職 制を変更「鉱山誌」。大谷に隣接する雛谷鉱区を買収「村史」。高品位 の新鉱脈を発見,斜坑捲揚機が完成「趨勢」。
1915年本山選鉱場の大巾改築に着手「趨勢」。
1917年大田川丸山発電所の完成「趨勢」0
1918年尾小屋・小松間の軽便鉄道の開通「趨勢」。有望な新鉱脈の発見
「村史」。
これらはあまり多い記述とはいえないが,その中からいくつかの問題を指 摘できる。
まず横山鉱業部創設後,若い横山隆俊・章を押したてて事業の活発化をは かったが,この間尾小屋鉱山に隣接している鉱山をはじめとして,各地の鉱 山買収を積極的に進めていることがわかる。尾小屋鉱山そのものの鉱区は大 きくは伸びていないが,横山鉱業部全体の所有鉱山は大巾に増加していたと 考えられる。つぎに隆平の跡を継いで隆俊が事業を名実ともににない,また 隆興が本家の後見人の立場に立ち,章とともに両家共同の経営体制を整えた ことがうかがえる。隆俊・隆興はこの年表にはないが,1916(大正5)年あ いついで死去した。さらに職制の再編成が2度にわたって行われており,医 局の設置など事業体制は整備きれつつあったと考えてよかろう。生産の拡大
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と歩調をあわせて,度々にわたって選鉱・製錬部門の充実がはかられている。
坑内の生産段階からいえば採鉱部門の機械化には程遠い状況であった。した がって採鉱部門は基本的には人力依存で,労働量を増加させれば採鉱量の増 加はある程度可能であった。製品の品質とコスト面から見るならば運・選鉱 の部門の機械化・合理化,製錬部門の機械化・効率化が鉱山経営のポイント であったのである。そのため1910年の阿手発電所の獲得,1912年の金沢電気 瓦斯会社からの給電,1917年の丸山発電所の完成という事項はきわめて重要 な意味をもった。この電力の確保は尾小屋鉱山の坑内外生産諸条件に画期的 の変化をもたらさずにはおかなかった。
坑内諸設備については1900年前後の状態に関してすでに述べたが,その後 1900年代には大きな発展はみられなかった。例えば『本邦鉱業一斑』の1905 年版によると,尾小屋鉱山の「設備之概要」は「捲揚機械二,卿筒一,通風 器一,汽缶二,水車四,石油発動機三」(21)で,それ以前とたいした違いはな い。同年の遊泉寺鉱山をみると「捲揚機械-,卿筒七,汽缶四,発電機一」(22)
で,尾小屋の方がやや遅れた状態を示していることがわかる。さらに『本邦 鉱業一麺の1906年版の尾小屋の項では「運搬ノ方法設備」について「鉄索
『エンドレスロープ』等ノ設備ナシ」とあり,「鉄道ハ・…悉皆人カニ依ルモ ノ」(23)となっている。エントレスロープ機の設置は坑内運搬の機械化の主要 な指標で,この時期には重要鉱山での使用は定着していた。続いて1907年版 には捲揚機は「水重二依ルモノナリ」(24)と記されている。この点は『日本鉱 業誌』(1908年調査結課)の尾小屋の項も同様である。すなわち捲揚機専用と して,10馬力の「くるとん式水車」1台が使用されていることになっている(25)。
また「採鉱用ノ機械設備ナシ」(26)とあるように坑内諸機械設備はきわめて貧 弱であった。
ところで『本邦鉱業一斑』の1909年版以降の記事では,尾小屋鉱山の坑内 諸条件の面で明らかに大きな展開がみられる。このことは前掲年表にもあら われているところでもある。まず1909年版によると捲揚機が1台増設されて いるが,それは明らかにエンドレスロープ機と思われるものである(27)。翌1910
~年版ではより明確であるが,捲揚用と排水用に2台の発電機が導入され,阿
合も含めて4台の奄夏n機の1史垰
管夛ロ庁〃
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った゜これとならんで「自家鉱山用諸機械器具修繕ノ為〆鍛鉄,鋳鉄,仕上 工場ヲ設置」(28)という記事もある。筆者は鉱山・炭鉱において坑内諸機械の 製作・修繕体制が整備されたことと,その鉱山・炭鉱の経営の体制的確立と を関連づけて重視する見解をもっているが(29),その視点に照らすとすると以 上の記事はきわめて重要な意味をもつわけである。さらに捲揚機も4台と倍 増している。なお坑内外の電動機については以後増加を続け,1913(大正2)
年の資料では尾小屋鉱山の所有原動機は総数24のうち電動機は半数を占め,
以下発電機1,水車6,石油発動機2,ガス発動機1,汽缶2となっている(30)。
この時点で尾小屋鉱山の生産諸機械は,基本的には電力によっていたと結論 づけてさしつかえない。また全国的なレベルでみても,1910年代初めには設 備の面で先進的鉱山の水準に到達していたと考えられる。
このような尾小屋鉱山の坑内を中心とした生産諸条件の発展と機械化,と くに電力化の進展の背景には,前述した阿手発電所の獲得等電力の確保とい う事情があったことはいうまでもない。その電力も社宅の照明用にまで使用 されていたことから考えてうおそらく安定的に供給されていたと推測しうる。
以上の経緯をへて,尾小屋鉱山のこの時期の生産のピークをなすところの 1920(大正9)年までは,おそらくその発展期と位置づけてよかろう。鉱区の面 からみてもγ同年が最高のピークとなっている。表6.8にある坑夫1人当 り生産額の数値は年によって若干の変動があるが,1925年頃までは増加傾向 にある。5年ごとの平均をとるとより明確になるが1905~09年は坑夫1人当 り0.76トン,1910~14年は0.97トン,1915~19年は1.21トン,1920~25年は 1.60トンという具合で,この間の機械化にともなう効率化がはっきりと理解 できる。ちょうど折よく第1次大戦期に入り銅価格が次第に騰貴し,そうし た好環境も尾小屋鉱山の発展に拍車をかけた。好況の波に乗って尾小屋・小 松間の軽便鉄道を敷設し銅輸送の安定化と円滑化をはかった。
しかし尾小屋鉱山の経営が本格化し,安定的に発展しつつあった最中にあ って,後の衰退を暗示するような事態もいくつかおこっていた。従来採鉱の 中心であった波佐羅地区の鉱石に珪酸分が増大しはじめ,製錬作業に支障を きたすようになった。尾小屋鉱山の銅生産の近代化が時間的にはやや遅かっ たため,生産の最盛期が銅の世界的好況期の後半にしか重ならなかったとい
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うことも不運であった。したがって好況による利益増大の期間が短いものと なり,それだけに戦後恐'慌の波をまともに受けてしまった。
創業以来,尾小屋鉱山と名実ともに苦楽をともにしてきた経営者横山隆輿 の死去は1つの時代の終りを告げていたともいえよう。
兄隆平を盛大な葬儀で送った後,7年後に隆興は67歳で没した。事業家と しての隆興をどのように評価したらよいのであろうか。あの積極的ではある が荒っぽい事業へのi蔓進ぶりは武士的な感じが坊佛とする。ここではやや大 胆ではあるが,「士族の商法」の数少ない成功者と評価しておくことにしよう。
同じ士族から身をおこした人物で,日本最大の成功者は三菱財閥の祖岩崎弥 太郎である。隆興と比較すると岩崎は土佐の下級士族の出身であったため,
明治維新後いち早く士族の殻をすてて細心な合理的企業家へと転身し,大きな 栄誉をかちとった。この点で隆興は最後まで士族を捨て切れなかったように 思える。あるいは士族,それも大名格の横山家の分家としての身分を利用し てさえもいた。それだけにその名も「北陸の鉱山王」にとどまってしまった のであろう。
横山章はその隆興のあとを継いだ。章は1874(明治7)年に生まれ,東京 物理学校に学んだ。学業を終えた後,父の事業をやがて補佐するために大阪 の大工場を巡歴し,生野鉱山で修業するなどして鉱業に身を投じた。隆平な きあとの横山家新当主隆俊をよくたすけて,尾小屋鉱山の事業拡大に力を注 いだ。尾小屋の経営の近代化は新しい教育を身につけた章の功績によるとこ ろが大きかった。尾小屋経営の手碗が喧伝されるにつれて章の活動の場が次 第にひろがっていった。県下の諸事業,例えば銀行・鉄道・電気会社など彼 の息のかかったものは数多い。また1911(明治44)年には金沢商業会議所の 会頭の職にも就いている。さらに大正政変後の衆議院総選挙においては金沢 より立候補し,時の関西財界の巨頭中橋徳五郎と有名な一騎打ちを演じたり もしている。章は父のように尾小屋にのめり込むことはなく,ある意味では 巾広い実業家としての活躍の道をえらんだといえよう。しかし父のように尾 小屋に全精力を注がなかったこともあって,後述する坑夫のストライキの際 その対応を誤まり,章の名声も尾小屋の経営不振と歩調をあわせるようにや がて小さなものとなっていった。
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第5節2度の争議とその後の屋刮、屋鉱山
その後の尾小屋鉱山の動向は1920(大正9)年と同22(大正11)年の2度に わたる労働争議が,その中心をしめていたと考えられる。ここではその争議 の内容の細部について立ち入る余裕はないが,それを通じてこれまでふれる ことができなかった尾小屋鉱山の労働条件についても多少論及しよう。
横山鉱業部は第1次大戦後から経営が悪化し,戦後恐慌が拍車をかけ,平 金鉱山を廃山としたのをはじめ,鉱山を次々と手ばなしていった。ドル箱の 尾小屋鉱山も不調となり,これ迄の蓄積を一気に解消してしまった。
ところで平金鉱山の閉山に際して,約80名の坑夫が尾小屋に移されたが,
友愛会の活動家が数名含まれていた。「彼らは,親方制度のもとで一見強いま とまりがあるが,労働者意識の薄い坑内夫,当局の管理下にあって全くばら ばらな坑外夫,当局の完全なる御用親睦会に組みこまれている製錬夫,これ らの尾小屋の労働者達のすがたをみて,団結の必要性を痛感し…・労働者に 粘り強く団結の必要性を説いた」(31)。そして1919(大正8)年友愛会の尾小屋 支部(当初会員74名)が結成された。友愛会足尾支部が結成された半年後の ことである。その後の活動は「会員を拡大することに重点を置き,比較的お だやかな活動をし,会員は月一回会合を開いたり,時たま中央から来た人の 話を聞くことが主なものであった」(32)といわれている。しかし支部を結成し たとはいえ尾小屋の場合会員は坑外夫に限られており,全山が結束するとい うにはまだ力が弱かった。坑内夫,とくに親方クラスの会員拡大に主眼がお かれた結果,清水藤吉の加入を得ることができた。これを機会に会員が急増
し,友愛会支部を中心として次第に争議の準備がすすめられた。
友愛会支部の当初の要求は「①物価騰貴のため一夫最低二円を支給せられ たし。②採鉱費は一夫一三銭平均として従来通り支給せられたし。③入坑手 当二○銭は従来通り変更せざること」(33)の3点であった。これらはいずれも 賃金要求とみてよかろう。この要求をもって横山鉱業部との交渉が数回行な われたが形式的で,鉱業部側は真剣には応じなかった。ついに全面的な拒否 を行なったため,4月4日,労働者約400名はストライキに突入した。スト 3日目,友愛会東京本部から松岡駒吉が労働者の激励に来援したりした。そ
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して,4月6日夜,一律1日3銭増給することで妥結するに至った。妥結内 容は要求とはほど遠いものであったが,これまで担任(現場監督)の一方的 な勤務評定による賃金査定が横行していた中で,団体交渉を通じて賃金問題 を処理したことは,労働者側にとって大きな自信となった。
夏から秋にかけて労働者の組織化が一層進み,再び「①坑夫一坑(一日)
最低賃金一円四○銭を-円七○銭に引き上げること。②現在医者一人を二人 にして波佐羅,阿手方面にも定時出診させること」(34)という2点にしぼって 要求書が提出された。
結局11月下旬釿約1週間のストライキを経て,交渉が成立し,合意事項が 会社・坑夫間で確認されるに及んだ。それによると賃上げに関しては「銅価 回復の暁は,鉱山側より進んで賃上げをなす」(35)という,坑夫側にとっては 不本意な結果となった。勤数賞与,請負単価の面では会社側は若干の譲歩を 行なっている。坑夫側の要求の第2項目については,医師を3名にするなど かなりの前進をみせている点は注目される。したがって「当初の基本賃金要 求が達成できなかった」が「賃金決定制度,作業監督制度及び共済制度など にメスを入れることに成功した」(36)という評価は妥当なものといえよう。
さて,尾小屋鉱山の賃金水準は,この当時どの程度のものであったのか。
「『鉱夫調査概要』をみると1910年(尾小屋が好況期に入っている)の坑内夫 の場合は,同規模の尾去沢の63銭よりも,隣の下降期にある遊泉寺の68銭よ
りも低くて58銭である」(37)という評価があるが,表6.10を作成した。
検討に値するような十分な資料は乏しい。尾去沢は尾小屋と同じ程度の産 銅のある鉱山で,三菱鉱業に所属している。また近隣の遊泉寺鉱山とも比較 してみた。平均賃金であるため,賃金実態をどれだけ把握できるか問題は残 る。例えば,1日最高賃金のみで比較すると非常に大きな違いがあったりす る。しかし尾小屋の坑夫の賃金が他にくらべて劣悪であったとは断定するこ とはできないであろう。むしろ尾小屋鉱山の最盛期の賃金は平均水準をこえて いたのではなかろうか。1910年代以降の資料は一層不足しているが,第1次大 戦前後はやや低下していると予想きれる。それよりも賃金以外の労働条件の 劣悪さがはなはだしかったと思われる。例えば尾小屋の労働者の「尾小屋鉱
身令に1軍少の系甫肋令
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あり,それに仕事が辛くて十二時間(注,製錬部門)もこきつかわれる」という 陳述(1922年争議の公判に際しての証言)はそうした悪条件を伺わせる。ま た共済制度について「遊泉寺鉱山から尾小屋へ移動してきた労働者がきわめ て深い不満を漏らしていた」。さらに医療施設については「尾小屋では人的物 的ともに決定的に貧弱」(38)で,それは前述した坑夫の要求の中に深刻に反映 していた。『鉱夫調査概要』をみても,医者2名,看護婦1名となっており (1913年),他鉱山と比べて劣っていることがわかる。同資料の中で,尾小屋の 坑夫対策に関する記述は極めて少ない.その中で「娯楽及慰安二関スル施設」
の章で「説教所ヲ設ケ住僧一人ヲ傭聰シ置キ毎月三回以上説教ヲ為ス」(3,)と
いう記述は数少ない事項のひとつで興味深い。
以上のような尾小屋鉱山の実態は何を物語っているのであろうか。結論的 にいえば,急激に生産を拡大し,しかも銅の好景気に急いで飛び乗った感じ の鉱山の基盤の弱さを露呈した,といえるのではなかろうか。
鉱山・炭鉱の場合,その労働環境の厳しさから坑夫の移動が激しい。した がって会社側は良質の坑夫の定着を図り,また出役奨励の意味から,あるい は危険な作業に従事する坑夫の
保護という目的のために何らか・表6.10尾小屋鉱山坑夫の賃金比較
の形で共済制度の充実を行なっ 尾小醗山尾去臓山遊泉寺鉱山
ている。とくに大資本系の鉱山 1905年575厘521厘500厘
・炭鉱の場合,そうした実態を
06582639684知ることのできる資料の保存力欝 07744737695
行なわれている場合力:多い。こ08696740796 の点については筆者は別の機会09707685677
1910715、681
に論じているのでブ詳しい内容630
11720717615
はそれに譲ることにする(40)。共
13779752784
済制度の観点からみるならIま, 1784593374r
その資料は乏しいが尾J、屋鉱山
251,8751,597|ま2,3流の鉱山といっても過
出典は1905~11年までは『本邦鉱業一 言ではない。 斑』,1913~25年は「本邦重要鉱山要覧』の各資料によった。いずれも坑夫または
一方,労働事情も周辺農村出坑内夫の1日平均賃金を比較した。
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身の坑夫が多く,従って定着性がそうした関係から強いこと,正確には他に 移動しようがなかったという面もあったようである。前掲『鉱夫調査概要』
によると,尾小屋の坑夫の勤続年数は一年未満のものが27%,5年以上のも のが42%も占めている。金属山の全国平均は1年未満が36%,5年以上が33
%であるから,尾小屋の坑夫の勤続年数は比較的長いといえよう。また同資 料から直轄通勤の坑夫の割合をみると,尾小屋は42%であるのに対し,金属 山全国平均は26%であることもわかる。尾小屋鉱山の「こうした状況は山あ いの田一~二枚と畑を所有しているに過ぎない大倉山麓の尾小屋を中心とす る近在の農家が,煙毒のために次第に副業である炭焼きもできなくなり,勢 い鉱山に依拠せざるを得なくなっているところから来たものであった。土地 の古老はよろけは恐かったが鉱山に入るより仕方がなく,男子の多くは小学校 高等科卒の年令になればその道をたどった」(41)と話している。少し長文の引 用となったが,これは貴重な指摘である。このへんに尾小屋鉱山が共済制度 をおろそかにした理由があったのではなかろうか。またそれが争議を呼び起 こし,結果として経営の衰退に拍車をかけてしまった。
1920(大正9)年の争議後,勢いにのった坑夫たちは全日本鉱夫総連合会 能美連合会を結成することに成功した。会則・規約も制定し,本部との関係 も明白となり組合としての組織も強固なものとなった。会員数は800名を上
まわったといわれている。その後,戦後恐慌の際中の1922(大正11)年3次にわたる労働争議があい ついで起る(42)。第1次は①鉱場割1日2円とする,②探鉱・採鉱の差別撤廃,
③坑夫を平等とすること,④遺族の扶助料の改善,⑤⑥慰労金の改善,⑦病 休者の保護,⑧積立金の規則の実行,⑨物品代金の明記,⑩医局の医師の常 駐化,といった要求書にもとずいて,4月に5日間のストライキがおこなわ れた。大阪鉱務官の調停もあって,要求のうち①1日10銭の引上げ,④~⑦ は合意後施行,⑧~⑩はすぐに改善するという内容で妥結して終了した。
鰯横山鉱業部は五国寺鉱区の休山声明を出すという組合対策でまきカコえしを はかった。それをきっかけに5月,第2次の争議となった。結局坑夫の力に 押され,休山声明撤回によって決着をみたが,鉱業部側の労務管理の非近代 性がかえって浮き掘りになった。
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