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04横_小山智朗-ms3.6.smd

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⽝となりのトトロ⽞における支援のありかたに

関する心理臨床学的探求の試み

小 山 智 朗

はじめにᴷなぜ⽝となりのトトロ⽞か񩀢

本稿では,1988年に公開された⽝となりのトトロ⽞(スタジオジブリ制作 ・東宝配給)を題材に,子どもたちの成長とそれを支えた周囲の支援のあり かたについて検討をおこなう。では,なぜ⽝となりのトトロ⽞なのか。 ⽝となりのトトロ⽞以外にも,高い興行収入をあげ,子どもたちの人気 を博したアニメーション映画は数多く存在する。そうした映画のストー リーの類型としては,例えばファンタジー,推理,ミステリー,コメディ, 冒険など様々なものがある。ただ,その中でも爆発的にヒットしたものと しては,以下の 2 つのストーリーが代表的と言っても良いのではないだろ うか。 1つは,⽛〇〇マン⽜やスポーツ物に代表される,主人公が強い敵を倒 すという(多くは勧善懲悪的な)ストーリーである。そこでは,逆境に置かれ た主人公が敵(もしくはライバル)と激しい戦いを繰り広げ,最後に勝利を手 にするという展開が一般的である。アニメならではの派手な演出(閃光,大 音響,情緒をḬき立てる音楽)が施され,ジェットコースターが身体ごとṃん で振り回すような,スピード感のある劇的な展開で,男子の多くを虜にし ていく。もう 1 つは,恋愛を軸としたストーリーである。主人公(たいてい 不遇)が,恋路を邪魔するライバル(たいてい意地悪)など幾多の困難を乗り 越えて,素敵な男の子(たいていイケメン)との恋を叶えていく。やはり,少 女たちの心をくすぐる演出(感傷的な音楽やファッション等)で,多くの女子

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の心を鷲ṃみにしてきた。 こうした物語は,子どもたちを魅了する⽛ツボ⽜を押さえており,表向 きは登場人物や設定を違えつつ,これまで大量に消費されてきた。いわば, 子どもの好みに合わせたファーストフードのセットメニューのように,代 わりばえはしないものの確実に一定の満足を提供し続けてきたと考える。 一方⽝となりのトトロ⽞はどうだろうか񩀢 ⿠⼦敵は登場するか񩀢⽜否。 1 人として出てこない。異界の生き物も, どこか憎めない愛すべき存在である。 ⿠⼦激しい戦いのシーンはあるか񩀢⽜否。口喧嘩すらない。 ⿠⼦素敵な恋はあるか񩀢⽜否。⽛ぬーぼー⽜としたトトロが出てくるだけ である。 そこには仰々しい演出も,二転三転するような激しい展開もない。これ までヒットしたアニメーションの類型に照らせば⽛ないない尽くし⽜の作 品とも言える。 しかし,である。公開された1988年には映画賞を総ナメにし,海外でも 北米,アジア,フランスなどで公開され,大きな反響を巻き起こした。さ らに,今田(2016)が言うように⽛市場分析やマーケティング戦略によって 企画されたような成り立ちでは全くないにも関わらず,観た者の心に忘れ られない印象を与える力を有しており,じわじわと一般に認知されて人気 が高まり,今や社会的な影響力を持つ名作という評価を獲得⽜しているの である。30年以上も前の映画にもかかわらず,現在もテレビで放送される と毎回 20% を超える視聴率を叩き出す。小学生はもちろん, 3 歳の幼児 にも,育児中のお母さんにも,私のような中年男性にも,老若男女を問わ ず,世代を超えた人気を誇り,日本ではトトロを知らない人を数えた方が 早い程ではないか。 興行収入的に⽝となりのトトロ⽞を超えたアニメーションとしては,ジ ブリの作品以外にも⽝君の名は。⽞(2016),⽝天気の子⽞(2019)⽝鬼滅の刃⽞ (2020)など数多くある。ただ人気の裾野の広がりという点において,⽝と

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なりのトトロ⽞に軍配が上がるだろう。30年以上もの間,幅広い世代に, しかも日本のみならず海外でも普遍的な人気を誇るアニメーションは,唯 一無二と言っても良いのではないか。 ⽛いや,世代を超え,海外でも人気と言えば⽝ドラえもん⽞があるじゃ ないか⽜という指摘もあるかもしれない。ただ,⽝ドラえもん⽞は1300作 品以上,映画も40話以上もあり,今も新たに創り続けられている。それに 対し,⽝となりのトトロ⽞は30年以上前に作られた映画ただ 1 作に過ぎな い。 では⽝となりのトトロ⽞は,なぜそれほどまでに私たちの心を惹きつけ てやまないのか。従来のアニメーションの作法からすると⽛ないない尽く し⽜であったにも拘わらず,である。 まず考えられるのは,物語の舞台となった美しい田園風景の魅力がある と考える。⽝となりのトトロ⽞では,昭和30年代の田園風景の素朴な,し かしそれゆえの美しさが細密に描きこまれている。私たちは,これまでこ うした風景を経済的発展の名の下に易々と手放しては喪ってきた。ただ, 描かれたのは実際にあった景色ではない。監督の宮崎駿がインタビュー (⽝ロマンアルバム・となりのトトロ⽞徳間書店)の中で認めているように⽛あ の物語の舞台は,実はいろいろなところから取っているんです⽜⽛具体的 に場所を決めたというわけではない⽜のである。しかし,否,だからこそ 我々は自分の理想の風景をそこに投影し,見るのかもしれない。実際に昭 和30年代を生きた世代はもちろん,その時生まれていなかった世代にも, その魅力をまるで⽛再発見⽜させるような力を持っている。今田(2016)は ⽛観た者の多くがある種の郷愁を覚える⽜とし,岩宮(2013)も⽛せつなく なるほど妙に懐かしい,そんな感覚⽜を与えると述べている。 風景描写の美しさに加え,人とのつながりの温もりを実感できることも 広く心を打つ要因だろう。隣家のおばあさんが親代わりに家事を手伝って くれたり,世話を焼いてくれたり,メイが失踪したときは村中の総出で捜 索してくれたりという具合に,私たちが失って久しい,共同体に抱かれ包

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摂してもらえるような感覚に安らぎや心の温もりを感じるのではないか。 また,久石譲作の音楽に魅せられている人も多いかもしれない。誰もが 口ずさんだことのある⽛となりのトトロ⽜⽛散歩⽜の浮き立つようなメロ ディ。そしてメイやちびトトロの歩調や一挙手一投足に細やかに合わせた 効果音が,映画の魅力を引き立てていることは間違いないだろう さらにキャラクターとしてのトトロの人気も挙げられる。トトロより ⽛かわいい⽜を商業的に突き詰めて作られたキャラクターは数多く存在す るだろう。ただ,トトロには⽛ぶさかわ⽜的な,なんとも言えない愛嬌が ある。見るからにモコモコとした肌触り,こちらが抱きとめられるような 大きな存在感は,他のキャラクターにはない魅力に溢れている。 これらが,⽝となりのトトロ⽞の魅力を後押しするのに大きく力を貸し たのは間違いない。ただ,それは舞台芸術に例えるなら,あくまで⽛俳 優⽜や舞台装置であって,物語そのものに私たちの心を捉える力がなけれ ばいわば宝の持ち腐れとなる。どれほどキャラクターが可愛くても,心を 動かすような見事な自然描写であっても,物語自体に力がないため日が当 たらぬまま消えていった映画は枚挙に暇がない。 再度繰り返す。⽝となりのトトロ⽞には派手な演出や,戦いのシーン, 恋物語があったわけではない。物語にジェットコースター的に急転直下を 繰り返すような作劇が施されているわけでもない。これまでヒットしたア ニメーションの⽛作法⽜から逸脱しているにもかかわらず,時空を,年齢 を,国籍をも超え,常に私たちを魅了し続けてきた。料理で喩えるなら, 刺激的なスパイスでもなく,ファーストフードのセットメニューでもなく, ᷦみしめた時に旨味が口にゆっくり広がる滋味深い一品のように。⽝とな りのトトロ⽞は,その物語自体に,我々の心の根源的な部分を確かに打つ 力があると考える。 では,物語の中のどこが人々の琴線に触れるのだろうか。岩宮(2013)が ⽛トトロってなごむわー⽜⽛疲れたときにはなぜか⽝トトロ⽞が見たくな る⽜という人が多いと指摘するように,特に何らかの行き詰まりや悩みを

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抱えたときに,⽝となりのトトロ⽞は強く心に響く力を持っていると考え る。実際,筆者がこの物語に魅了されてきたのも,不思議とホッとする感 覚があったためである。 ⽝となりのトトロ⽞では,サツキやメイは不安や悩みを抱えつつ,様々 な支えを得ながら成長していく。映画を通して,主人公であるサツキやメ イと自分を重ね合わせ,観客自身も知らず知らずのうちに支えられたよう な感覚を得るのではないか。つまり⽝となりのトトロ⽞が普遍的な魅力を 有しているのは,多くの人が求める本質的な支援のありかたが示されてい ることが大きな要因であると考える。これこそ,本稿で⽝となりのトト ロ⽞を扱う理由である。 本稿では⽝となりのトトロ⽞を題材に,心理臨床学的な切り口からサツ キとメイの成長に寄与した支援のありかたとはいかなるものかを明らかに したい。それは,クライエントの変容を支える支援のありかたを考える上 でも重要な意味を持つのではないか。 前置きはこのくらいにして,いよいよ物語の中に分け入っていきたい。

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.あ ら す じ

時は昭和30年代,舞台は埼玉県所沢の農村地帯である。物語は, 5 月の 晴れた日に父親(草壁タツオ)と姉妹(11歳のサツキ, 4 歳のメイ)の引っ越しの 場面から始まる。姉妹の母親(草壁ヤスコ)は結核で入院中であり,退院後 の生活に備え,空気のきれいな田舎の家に引っ越してきたのだ。見知らぬ 土地で,家も⽛ススワタリ(まっくろくろすけ)⽜と呼ばれる小さな生き物が 棲んでおり,一見お化け屋敷のようだった。しかし,心優しく少年のよう な心を持つ父親や,隣家に住むおばあさんの支えを得ながら,姉妹は徐々 に新たな生活に馴染んでいく。トトロやネコバスといった不思議な生き物 たちと触れ合い,母親のいない淋しさや不安を支えてもらい,様々な危機 を乗り越えていく。

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8月のある日,病院から電報が入り,母親の一時帰宅がまた延長になっ たことを知らされる。サツキはこれまで気丈に振舞ってきたが,母親が死 んでしまうのではないかと不安のあまりメイに強い怒りをぶつけ,カンタ のおばあちゃんの前で大泣きしてしまう。メイは,今まで自分を支えてく れていた姉が泣いているのを目撃して,自分の採ったトウモロコシで母親 を元気にし姉の不安を取り除こうと決意し,たった 1 人で病院へ向かう。 メイが行方不明になり,サツキは⽛自分が㗫ったせいだ⽜と胸がつぶれる ほどの罪悪感と不安を抱えて,メイを捜し続ける。しかしどれほど捜して もどうしても見つからず,途方に暮れたサツキは,トトロにメイの捜索を お願いする。トトロは願いに応え,ネコバスを呼び,無事メイとの再会を 導く。 2 人はネコバスで病院に向かい,病室の見える木の上から元気そう な母親を見て安堵し,家路につくのだった。

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.物語のはじまり

1 ) 引っ越しの象徴性 物語は,草壁家の 3 人の引っ越しシーンで幕を開ける。冒頭シーンは, 物語のテーマを暗示する象徴的な意味を持つことが多いが,⽝となりのト トロ⽞の引っ越しはいかなる意味を持つのだろうか。 それを考える上で,数多くの物語を渉猟し,物語の構造の本質的側面を 鮮やかに浮き上がらせた大塚(2013)の考えを取り上げてみたい。 そもそも物語の文法の一番の基本は二つある,と考えて下さい。一 つは,⽛欠落したものが回復する⽜というパターン。もう一つは⽛行 って帰る⽜というパターンです。(中略)主人公はマイナスの状態つま り⽛欠如⽜からスタートしてプラス状態,すなわち⽛欠如の解消⽜に 向かうため,一度,縦軸つまり⽛境界線⽜を越えて非日常の側に⽛行 って帰る⽜必要があるのです。

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ここから考えるに,サツキやメイにとっての引っ越しには⽛欠如⽜を埋 めるために⽛非日常の側に⽜行くというテーマがあったと考えられる。つ まり,物理的には,今いる世界(此界)から違う世界(異界)への水平移動で あり,心理的には,欠如のある状態からプラスの状態への垂直移動という テーマが前奏として打ち出されていると考える。若葉萌えのびゆく 5 月と いう季節(サツキー皐月,メイー May という名も 5 月である)の象徴性も含めて 考えるに,異界への旅を通して⽛欠如⽜を埋め,旧い自分から新しい自分 への⽛引っ越し⽜,つまり成長というテーマが示されているのではないか。 それでは,物語では何が欠如していたのだろうか。 2 ) 母 性 の 欠 如 青木(2011a)は,⽛メイとサツキが,二人とも,母親不在という強い欠如 感を抱いていることは当然である⽜としている。岩宮(2013)も⽝となりの トトロ⽞について⽛母の不在というテーマから始まる⽜とし,母親の入院 について⽛ただ母の不在と考えるよりも,さつきとメイの世界には母性が 足りていない状態だと見ることもできる⽜と述べた。このように,物語の 中で母ヤスコは入院し,父と姉妹 3 人だけで生活しており,ここでの欠如 は,母親(母性)であることは疑いがない。⽝となりのトトロ⽞は,母親(母 性)の欠如を埋めることが主題となっていると考えられる。 引っ越しは,もちろん新天地での生活が心機一転始まるという意味で光 の側面もあるが,一方でそれまでの人間関係や居場所を根こそぎ奪われる という影も伴う。姉妹は,父親以外の身寄りを完全に失い,母親のいない 淋しさや母親の病気の不安に晒されていたと考えられる。特にまだ幼いメ イにとっては,母親の不在はより深刻な問題だったと考えられる。春の長 閑な田園風景や,姉妹の健康的な明るさによって目立たないものの,姉妹 は大きな危機の中にあったと考えられる。 付言するなら,家族が 3 人ということにも象徴的な意味が籠められてい たように思われる。河合(1977)は,ユングの考えを引いて, 4 は完全統一

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を示すことが多く, 3 はそれに至る前の力動的な状態を反映していること を指摘した。ここからは, 3 という数字には完全なる状態を目指す動きが 内包されていると考えられ,この物語はやはり母性の回復を目指す動きが 主旋律となると考える。 いよいよここからは,母親(母性)の欠如を埋め,姉妹の成長を支えるた めに,どのような関わりがなされたのかを中心に検討したい。

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.周囲の人々の支援のありかた

1 ) 父 親 の 姿 勢 父タツオは大学の考古学の教員である。できるだけ家で仕事をする時間 を作り,仕事,家事,子育てを一手に担っている。大変な状況であるが, そこに悲愴感はなく,明るく,良い意味で肩の力が抜けている。姉妹に対 しても,一度も大声をあげたり㗫りとばすことはなく,穏やかで優しく愛 情を注いでいる。また姉妹の主体性を尊重し,無理に何かをさせるのでは なく,上手に子ども達のやる気を引き出している。例えば,引っ越し中に 窓を開ける作業 1 つにしても⽛階段を見つけて 2 階の窓をあけましょう⽜ と楽しい遊びにしてくれるのだ。 また子どもたちが悲観的になったり,不安に陥りそうな状況に対しても, 自然な形で前向きに働きかけていく。引っ越しのシーンでの⽛この家はオ バケ屋敷ではないか⽜というメイの不安からの質問にも,こんな具合に。 ⽛そりゃすごいぞ,お化け屋敷に住むのが子どもの時からお父さんの夢だ ったんだ񨑵⽜。またお風呂で姉妹が不安に駆られるシーンでも,率先して 怪獣ごっこをして,姉妹の不安な気持ちを吹き飛ばしてくれる。そのため だろうか,不安の象徴というべきススワタリは去っていく。こうした父親 の遊び心に富んだ明るさで,姉妹はどれほどの安心を得ただろうか。 このように,父タツオは少年のような柔らかな感性を持っており,子ど もたちにとっては優しく楽しいお父さんとして存在していたのではないか。

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もちろん弁当を作るのを忘れていたり,朝寝坊をしたり,病院への道を 間違えそうになったりと,おっちょこちょいで⽛抜けている⽜面も見られ る。その意味で決して完璧な父親というわけではない。しかし,タツオは 未熟で子どもじみているわけではない。むしろ逆で,子どもの純真な心を 残しつつ,同時に子どもたちの気持ちを細やかに汲み,心に響く関わりを するなど成熟したありかたを体現している。タツオの関わりを象徴するエ ピソードとして,メイが初めてトトロに会った後の対応がある。少し長く なるが紹介したい。 メイは初めてトトロに出会うが,眠ってしまい,目覚めるとトトロはい なくなっていた。父やサツキをトトロと出会った場所に連れていこうとす るが,道に迷ってあらぬ方向から飛び出してしまい,それをサツキや父親 に笑われてしまう。当時のメイは,父親は仕事にかかりきりで,姉は学校 で夕方までおらず,慢性的に淋しさを抱えていたと考えられる。そんな中 でトトロとの一体感に包まれ安心できた体験は,メイの基盤を支えるかけ がえのないものだったと考える。それが幻だった落胆や悲しみ,さらに笑 われたことで⽛Ἓつきにまでされた⽜という怒りがあったのではないか。 だからこそ,⽛うそじゃないもん⽜と強弁したと考える。 それに対しタツオは,いかなる対応をしたのだろうか。 まずメイのそばに近付き,目線の高さを合わせ,穏やかな声でこう語り かけたのだ。 ⽛うん。お父さんもサツキも,メイがウソつきだなんて思っていないよ⽜ ここで,まずメイへの信頼の気持ちを伝え,体験が真実だったことを保 証していく。続いてその体験について次のような価値付けをおこなう。 ⽛メイはきっと,この森の主に会ったんだ⽜

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このように,体験が真実というだけではなく,⽛主⽜という言葉にある ように,重みを持つ,ある種神聖さを伴う体験であったことを示唆する。 子どもの内的な体験を尊重する姿勢が,ここに凝縮して示されていると考 える。そして最後に,次の言葉を付け加えるのだ。 ⽛それはとても運がいいことなんだよ。でも,いつも会えるとは限らない⽜ 我々はファンタジーを持つことで,自分を支えられることも多いが,フ ァンタジーに現実逃避的に耽溺すると,現実と遊離し人間関係も培いにく くなる。あくまで内的な体験を尊重した上で,そこに浸ってしまわないよ うに言葉を添えたのではないか。 こうした言語的な次元での関わりにより,メイはしっかり自分に向き合 ってもらい,また奥底にあった様々な思いを汲み取ってもらい,しかと受 容された実感を得られたのではないか。その上で,塚森まで肩車してもら う。この身体的な次元での関わりにより,メイが求めてやまなかった一体 感を得れて,慢性的な淋しさが和らいだのではないだろうか。 ここで,この父親と,同じくジブリ作品である⽝千と千尋の神隠し⽞の 父親(荻野明夫)を比較することで,タツオの関わりの本質が一層明らかに なると思われる。 千尋の父,明夫は,乗っているのはドイツ製高級車,郊外のおそらく一 軒家への引っ越しと,現世的な意味での成功者として描かれている。ただ, 伊藤(2005)が,⽛千尋が不貞腐れていることはわかっているらしいが,無 策な傍観者を決め込んでいる⽜と手厳しく指摘するように,千尋を思いや る声掛けはない。また千尋の主体性を尊重する様子は見られない。それど ころか,千尋の恐れや戸惑いの声にさえ聞く耳を持たない。 1 度も目線が 合うこともなく,スキンシップもなく,遊ぶこともない。根拠のない自信 に溢れ,自分の欲求や考えに則って強引に物事を進めていくのだ。挙句は 異界に迷い込んでも,後先考えず無銭飲食をして豚に変えられる有様であ

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る。山中(2002)は,明夫に対して⽛金さえあれば何でもできる⽜という不 遜な心がまずある。それから世界が異次元になっているということに気が つかない,どうしようもない鈍感さ⽜があることを指摘している。 これと比べてみると,タツオの関わりの特質が鮮明に浮かび上がってく る。タツオは,姉妹の気持ちを細やかに想像し,姉妹の話を正面から受け 止めていく。また大切な話をするときは子どもの目に合わせ,発する一言 一言に思いやりや優しさが籠められていた。また何かを無理にさせるので はなく,子どもの主体的な動きを見守る姿勢は一貫していた。少年のよう な遊び心を持ち,一緒にお風呂に入ったり,川の字になって眠ったり,肩 車をしたり,自転車で 3 人乗りをしたりと,自然なスキンシップもとって いた。また⽛可視的かつ合理的に説明がつくことだけを考慮して,現実を 表面的に生きているような人物ではない⽜(今田,2016)と指摘があったよ うに,トトロなど異界の存在や子どものファンタジーに対しても敬う心を 持っていた。 トトロが実在の生き物なのか,内的なファンタジーなのかという検証は, 本稿の目的から外れるためおこなわないが,仮に姉妹の内的なファンタ ジーと捉えるなら,トトロという表象にはこうした父親のありようが色濃 く反映されていたと考えられる。 このように,どちらの作品も少女が主人公で,引っ越しから始まるとい う共通点を持つが,父親のありようは対照的であり,その影響を受けた主 人公たちも冒頭シーンでは真逆に描かれている。千尋は,両親ともにいて, 経済的には何不自由もないと思われるが,車の中で気だるげに寝転がって いるだけで,無気力で主体性の欠片も見られない。何事にも無関心,無感 動であるにもかかわらず,漠然とした不安と不貞腐れた雰囲気を漂わせて いる。伊藤(2005)はこうした千尋のありかたを⽛こころの“荒廃”⽜と称 している。 一方で,サツキとメイは母親が不在で,経済的には決して恵まれている ようには見えない(実際に,メイが⽛この家ボロだね⽜と言うような家に住んで

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いる)が,豊かな想像力を持ち,外界に対しても好奇心一杯で, 1 つ 1 つ の出来事に心を動かしている。また生気に満ち,明るくṠ剌として,見る からに生きる喜びに満ち溢れている。また相手への思いやりの気持ちがあ り,姉妹は互いに助け合う。こうした姉妹のありかたを形作る上で,父タ ツオの役割が大きかったことは言うまでもないだろう。 2 ) カンタのおばあちゃんの支援 また隣家に住むカンタのおばあちゃんの関わりも特筆すべきものがある。 おばあちゃんは,引っ越しの手伝いに始まり,洗濯物を取り入れてくれ たりと生活面の支援をしてくれた。また,常々姉妹を細やかに世話してく れて,姉と離れて淋しがるメイをなだめて学校まで連れてきてくれたり, 一緒に畑に連れて行って収穫を体験させてくれたり,泣くサツキを慰めた りと心理面の支援まで引き受けてくれた。また,メイが行方不明になった 時は誰よりも心配して無事をひたすら祈り,メイと再開したときは安堵し て泣いてくれるほどの愛情を注いでくれた。 このように,男親では目の届かない部分をさりげなく埋めてくれており, 姉妹にとってはまさに母親代わりの存在だったと考えられる。細江(2014) も,⽛全編を通じて,血の᷷がった祖母のようにサツキとメイに愛情を注 ぐ,重要な脇役⽜と述べている。また日置(2019)は,このおばあちゃんに ついて⽛お母さんの不在を最も的確に補う知恵と愛情を兼ね備えた女性⽜ で,⽛実際の生活の面で少女たちを見守り,しっかりと導いていく⽜⽛極め て現実的な存在⽜であり,このおばあちゃんがいなければ 2 人は母親の不 在を耐えきることができただろうかと述懐している。筆者も全く同感であ る。 こうした大人の支えによって,サツキとメイは母親の不在という危機的 状況を,しかも母親の死という不安が渦巻く中でも,前向きに生活してい けたと考える。しかし,いくらこうした関わりがあっても,慣れない場所 で,しかも母親の不在が続く中でどうしても限界があり, 2 人に危機が訪

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れる。そこでトトロは登場するのだ。 次にトトロが登場した場面と,トトロの支援のありかたについてみてい きたい。

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.トトロの支援のありかた

1 ) 何もせず,⽛となり⽜で寄り添うこと 6月初旬,引っ越しの喧騒も落ち着き,父親は研究生活に戻り,サツキ は学校での生活が始まり,友達もできつつある。一方メイはどうだったろ うか。先述したように,サツキとは毎日夕方まで会えなくなり,父親も原 稿に没頭している状態である。(父親が原稿にかかりきりで,メイが見えない くらい遠くの方で遊んでいるカットがあるが,まさに父親の心の中でメイの存在は ⽛遠く⽜に霞んでいたと思われる)。 言うまでもなく,幼い子供にとって,気持ちを汲んでくれたり,世話し てくれる母親の存在は,途方もなく大きい。岩宮も,まだ 4 歳のメイは, ⽛やわらかな母性に包まれることがまだまだたくさん必要⽜(岩宮,2013) と指摘する。しかし,メイは半年以上,ずっと母親がいない。また母親代 わりの人々の支援の網からこぼれ落ちかけていたのである。 しかし,メイは胸にある思いを訴えて,父親の邪魔をすることも一切な い。 4 歳であれば,本来なら母親を独占した上で,我がまま放題の年代と 言ってよいだろう。しかし,思いを口にするどころか,父親の仕事を慮っ てけなげに我慢して 1 人で遊び,⽛お父さんお花屋さんね⽜と父のことを 励ますようにも聞こえる発言さえするのである。相当な無理を重ねており, 恒常的な危機の中にあったと考えられる。 トトロのもとへと導き入れられたのは,そんな時だった。ここでのトト ロの関わりは,何かを積極的になしたわけではない。それどころか,はじ めは小さな闖入者にただ戸惑っているだけに見える。トトロの関わりは, 一方向的に援助を押し付けるのではなく,ただ一緒にまどろむというもの

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だった。しかし,メイはトトロの大きな体に身体丸ごと受け止められ,包 まれるような体験をして,最も欲していた安心感や一体感を得られたので ないか。青木(2011a)も⽛トトロは,母親の不在を埋め合わせるべき実体 的な存在として,メイの前に姿を現した⽜としており,筆者の見解と一致 する。 続くトトロの登場シーンは, 6 月下旬のサツキの危機的な局面である。 サツキは,引っ越して 1 か月余り,母親のいない生活の中で愚痴一つこ ぼすことなく,家事を担い,妹の面倒も甲斐甲斐しく見てきた。細江 (2014)が,サツキは母代わりという不相応に重い責任を背負わされていた と指摘するように,先の見えない不安の中で,とても11歳の子どもとは思 えない程に無理を重ねていたと考えられる。 ある雨の夜,姉妹は傘を持って父親をバス停まで迎えに行く。しかし, 父親は一向に帰ってこない。恐らく普段なら既にメイは寝る時間なのだろ う。サツキはうとうとするメイを背負って立ち尽くす。この時のサツキは 背負いきれないほどの現実の重荷と不安で押しつぶされそうな危機に瀕し ていたと考えられる。 トトロが登場したのは,まさにその瞬間だった。ただ,ここでもトトロ がしたことと言えば,サツキからもらった傘で遊んで,お礼に木の実をく れただけである。しかし,⽛となり⽜で寄り添う存在がいることで,孤立 無援で不安で押しつぶされそうだったサツキの不安は霧散し,気持ちはす っかり晴れ上がる。そのためか,ずっと降りやまなかった雨も止むのであ る。 こうしたトトロのありかたは,一見すると⽛そばにいるだけ⽜で事態を 解決する上で何の役にも立たないようにも思える。一般的には,困ってい る人がいれば,自ら手を差し伸べて支援することが正しいと考えられてい る。確かに,直接的に支援することで,問題が迅速に解決することは多い だろう。ただ,支援者が良かれと思って,本人が対処できることまで支援 するなら,本人は自ら乗り越えた経験を得ることができず,いつまでも自

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信をつけられない。そればかりか,自ら解決できる問題まで人任せにして しまうなど,依存的なありかたを引き寄せることも多い。祖父江(2019)は, セラピストが良かれと思ってクライエントの要求にこたえてばかりだと, クライエントは⽛他力本願⽜となり,自らの心的苦痛を抱えられなくなる ことを示唆した。トトロは,いつでも,どこでも手を貸すのではなく(実 際にトトロの居場所につながる洞は,危機の時にしか開かない),時と場所を制 限する⽛関係性の構造化⽜を自然な形で行っていたと考えられる。 河合(1970)は,⽛私のカウンセリングの考え方の基本は⽛無為⽜という ことです。⽛何もしない⽜ということですね。それも⽛何もしないことに 全力を傾注する⽜と述べ,余計な働きかけをおこなわず,そばで寄り添う ことの重要性を指摘した上で,次のように述べた。 カウンセリングの一番のねらいとしているところは,普通の人のする ように早く片付けるのではなく,あくまでクライエントの心の底にあ る可能性に注目して,それによって本人が主体的な努力によって,自 分の可能性を発展させていく,そのことによって問題も解決されてゆ くという点にある ここで河合は,余計な働きかけをしないことで,カウンセリングの場が 主体的に事態を解決する力を育む場として機能することを示唆している。 また山中(2002)は⽛子どもと向かい合う⽜ということは,親の都合で⽛付 き合う⽜というのでは決してありません⽜⽛働きかけることではないので す⽜とし,働きかける姿勢には親の側に主体があると述べた。そうではな く,子どもの側に主体を置き,⽛子どもが何に興味を示し,子どもが何を しようとしているかということを,一歩置いて見守る⽜姿勢の重要性を強 調している。このように,援助者であるセラピストが何もしないでそばに 寄り添うことで,クライエントの自己治癒力が働くための変容の器となる 可能性があると考えられる。

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ここでのトトロの姿勢も,河合や山中と同じく⽛何もしないこと⽜⽛見 守ること⽜に全力を注いでいたとみることもできる。相手の都合を考えず 自己満足的,一方向的に支援を押し付けるのではなく,本人の主体的な動 きを徹底して尊重して見守り,危機の際だけ⽛となり⽜にそっといるので ある。こうしたトトロの姿勢は,心理療法におけるセラピストの支援のあ りかたを考える上でも指針となるものだと考える。 ここまで,トトロの姿勢は何もせず見守ることであるという考えを提示 した。しかし,それだけ聞くと風貌やどことなくユーモラスで緩慢な所作 も相まって,トトロは何も考えずにただ呆然と横にいただけのようにも思 える。実際はどうだったのだろうか。 2 ) 心的なエネルギーをかけること ( 1 ) 祈るありかた トトロの 3 度目の登場は, 7 月の満月の夜である。メイは,毎日畑の前 に座って,トトロにもらった木の実の芽が出るのを⽛まだ出ない⽜⽛まだ 出ない⽜と待ち侘びている。しかし,いくら待っても少しも生えてこない。 そんな時トトロは現れる。畑の前でトトロたちと一緒に祈ることで,木の 実は芽吹き,さらにぐんぐんと巨木に生長していく。最後は, 2 人ともコ マに乗ったトトロに抱きついて,空を⽛風になったみたい⽜に飛び回れた のである。 ここで,どうしてメイはそこまで切実に芽が出るのを待ちわびたのか, 木の生長をあれほどまでに喜んだのか,という疑問が浮かぶ。 Koch(1957/2010)は,木について⽛伸び行くもの,芽を出し,葉を茂ら せ,花を咲かせ,果を実らせるもの⽜とし,⽛生命的なるものの象徴⽜と 述べている。また川嵜(2018)は,風景構成法における木の象徴性について ⽛大地への根付き⽜と読み解き,木は⽛家族という近親的な人間関係に関 連するレベルでの帰属感,居場所感,安心感,拠点感にまつわるものを表 象する⽜とし,そこに⽛なんらかの不安定さがある場合,非常にしばしば

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⽛木⽜がそれを補償するものとして描かれる⽜とした。 ここから,メイが発芽を待ち望んでいた理由が浮かび上がってくる。繰 り返しになるが,職場がある父や学校があるサツキとは違って,メイの居 場所は家だけだった。しかし,母親はもちろん昼間は父も姉もいない中で, メイは慢性的な不安を抱え生きるエネルギーが枯渇しつつあったのではな いか。木の芽が出ることがあれほど切実な願いだったのも,安心できる居 場所を求める切なる願いと重ね合わされていたためではなかったか。 ここでもトトロは,やはり一切直接的な支援はしない。ドラえもんのよ うに秘密道具を出すことも,超人的なヒーローのように必殺技も繰り出さ ない。トトロは,心を籠めて汗がほとばしるほどのエネルギーをこめて, 祈るのである。 ただそれは,⽛単に祈っているだけだ⽜と思う向きもあるかもしれない。 しかし考えてみれば,私達が祈りを捧げるのは,とりわけ全身全霊の思い を込めて祈るのは,自分にとってかけがえのない存在が危機に陥ったとき に限られるのではないか。例えば,自分の最愛の子どもが,難しい手術を 受けるとき,私たちは自分が何もできない無力さを痛感しつつ,ひたすら 子どもの無事を祈る。トトロは,それに比肩するほどの心的エネルギーを かけて,姉妹のことをそれほどに大切な存在として考え,一心に祈りを捧 げていたのだ。 祈りによって,正確に言えば,自分のすぐそばで自分のために魂を込め て祈ってくれるトトロの存在そのものによって,姉妹は確かな安心感を得 て生きる力が回復したと考えられないだろうか。あれほど願っても生えな かった芽が出て,ぐんぐん伸び,空まで飛べたのも,生命力の充実を象徴 的に表したものと感じられる。青木(2011b)もこの空中浮遊について⽛木 の成長の場面と同様に,全能的な力を思う存分に⽜味わっていると指摘し ており,筆者の見解と一致する。 ( 2 ) 見守るありかた トトロが姉妹の前に姿を現したタイミングを注意深く見るなら,次項で

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検討する場面もそうだが,いずれも姉妹が危機に陥っている局面に限られ ていた。トトロは 2 人の主体性を徹底して尊重し,必要以上の働きかけは 一切おこなっていない。例えば,他のアニメならどうだろう。○○マンで あれば,メイが母親のもとに向かった時も,すぐに空を飛んで母親のもと に連れて行ってくれただろう。そもそも母親の不在という危機に対しても, ドラえもんなら病気を治す万能薬を出してくれていたかもしれない。しか し,トトロは先述したありかた,つまり⽛となり⽜で見守り,可能な限り 主体的な試みを尊重する姿勢を徹底していた。姉妹が自分で対応可能なぎ りぎりまで手を出さず,自ら対処法を考え,問題に対処する動きを徹底し て尊重し,見守っていたと考えられる。 ここで⽛見守る⽜とは,造作なく楽な関わりのようにも思える。しかし, そもそも適切なタイミングで必要な支援をするためには,姉妹の状態を常 に間近で相当注意深く見守り,事態に応じて対応を細やかに考え直してい く必要がある。例えば,⽛ここで手を出せば,主体性が阻害され,依存を 招く⽜と考えていても,状況が悪化すると⽛いやここで手を出さなければ, 取り返しがつかなくなるのではないか⽜⽛いや,しかし…⽜などと,絶え ず移り変わる状況と子どもの心の状態に心を配り,その都度対応を考える 必要がある。それに対し,自分が直接手を下せば,はるかに手っ取り早く, 安全に,何より簡単に片が付く。したことが明確なので相手から感謝もさ れる。また状況の推移をそばで事細かに見ておく必要はなく,自分の都合 の良いタイミングで介入すれば良い。 さらに主体性を見守るとは,相手の近く,まさに⽛となり⽜で試行錯誤 のプロセスに根気よく付き合い続ける必要もある。その意味で,心的なエ ネルギーとしては,はるかにかけられていると考えられる。 父親やカンタのおばあちゃんに加え,こうしたトトロの主体性を尊重す る支援があったからこそ,姉妹は多少の問題が生じても,自分たちの力で 事態に対処し切り抜けられたのではないか。実際, 8 月にメイが迷子にな る事件までは問題は生じていない。また,この事件もメイが⽛自分が母と

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姉を助ける⽜という強い主体性を基にした行動であり,逆にトトロの関わ りの意義を担保するものと考える。では次に,そのメイが迷子になったṈ 末を見てみよう。 3 ) ⽛緊急対応⽜ トトロが最後に登場したのは 8 月の夕暮れ,メイが行方不明になった局 面である。繰り返すが,ここでもトトロはもっと早く介入しようと思えば できたはずである。しかし,メイが 1 人で旅立つ際も,サツキがメイを捜 し始めたときも,(おそらくハラハラしながら祈るような気持ちで)2人が自分 の力で事態を解決することを信じ,すぐに介入せず,推移を見守っていた と考えられる。 しかしメイが完全に道を見失い,サツキも不安や絶望で押しつぶされそ うになり, 2 人の力ではどうしても対処できなくなった局面でやっとトト ロは登場する(あくまでサツキが主体的に訪れた形だが,いㅡつㅡもㅡはㅡ閉ㅡざㅡさㅡれㅡてㅡいㅡ るㅡ洞ㅡはㅡ空ㅡけㅡらㅡれㅡてㅡいㅡたㅡ)。 そこで,トトロはこれまでと違い,トトロ自体はやはり直接の支援はし ないもののネコバスに支援を依頼したのである。 河合(1970)が,本人の可能性の発展を待つよりも,環境に働きかけたり, 直接的な援助などをせねばならない時もあると指摘するように,セラピス トは,時と場合によっては直接的な支援をすることが必要となる。例えば, 面談している子どもに親からの虐待が判明した場合,自分が抱え込んでし まうのではなく,児童相談所や警察など,状況に応じ最も適切な専門機関 につなげることは不可欠となろう。 ネコバスは,どんな暗い夜道でも目的地まで風のようにたどり着くこと ができ,トトロはこの状況で最適な支援者にサツキを委ねたと考える。そ れにより,姉妹は窮地を脱することができた。さらに岩宮(2013)が述べる ように,ネコバスは⽛ふかふかの猫のお腹の中に入って移動できるという, 一体感バッチリのイメージ⽜であり,まさに子宮に抱かれるような安心感

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に包まれ,身を預ける感覚を体験できたのではないか。

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.メイとサツキの変化

それでは,サツキとメイは,こうした関わりに支えられどのように変化 したのだろうか。エンドロールでは,その変化の様子が示されている。 まず母親が帰ってきて, 2 人が大喜びで駆け寄っている。その後 3 人で 一緒の布団で絵本を見たり,お風呂に入ったりと,母親との一体感を満喫 している様子が描かれている。冒頭で示された母親の欠如は,ここで完全 に埋められたと考える。ただ, 2 人の変化は不在を埋める,つまり-(マ イナス)を 0(ゼロ)にするだけだったのだろうか。エンドロールを子細に見 ると,姉妹ともに,特にメイは+(プラス)へと大きく成長したと考えられ る。 これまで見てきたように,サツキは一家の母親代わりとして相当に背伸 びをし,我慢を重ねていた。しかし,エンドロールでは,友達と押しくら まんじゅうをしたり,ピクニックに行ったりと無邪気に遊びを満喫してい る。服装もオーバーオールになり,顔つきまで年令相応のあどけない表情 になっている。また男子グループと率先して口喧嘩をするなど,ありのま まの思いを遠慮なく言えている。この変化は,もちろん母親が帰ってきた 影響が大きいことは言うまでもない。ただ,物語の後半で,おばあちゃん に不安や抱えている思いを全て打ち明けて受け止めてもらったり,トトロ に胸中を明かして助けてもらったり,トトロやネコバスに安心して身を預 けられた体験の影響も少なからずあったと考える。つまり,過剰適応気味 で無理を重ねていたありかたから,子どもとして自然なありかたを身につ け,また自分の思いを安心して他者に伝えられるようになったと考える。 続いてメイであるが,物語の終盤までは姉の後を追い,姉の庇護下にあ るなど,家族の中で最も幼少で,誰かに守ってもらう受け身的な存在だっ た。しかし,姉が不安から泣く場面に遭遇して,トウモロコシを食べても

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らって母の病気を治すため,そして姉を元気づけるために病院へ向かって いく。病院までは⽛大人の足でも 3 時間かかる⽜距離である。それは, 4 歳児にとっては途方もない大冒険だったと思われる。それでも,自らの意 志で決然と旅立っていったのである。 余談ながら,インターネット等では⽛メイは実は池に落ちて死んでしま った⽜という都市伝説がある。それも頷けるほど,実際に一歩間違えれば 死に陥るような危険性があったと考える。またこの冒険は⽛一方向的に支 えられる幼児的なありかた⽜から⽛支えるお姉さん的な存在⽜に変革する ためのイニシエーション的な意味をもっていたと思われる。それは一方で 象徴的な意味で,これまでの自分のありかたの⽛死⽜を迎えることでもあ ったと考える。その意味で死の気配が濃厚に充満しており,都市伝説が生 まれる培地となったのではないか。 残念ながら,道に迷ってメイ独力での挑戦は失敗するが,しかしトトロ やネコバスの支えを得て,母親にトウモロコシに届けることに見事成功し たのである。メイにとっては,確かに新たな生き方への第一歩を踏み出し たのであり,どれだけ誇らしい体験だったろうか。 エンドロールでもこの動きは継続しているばかりか,さらに確かなもの になっていることが見て取れる。メイはサツキの友達の家の赤ちゃんに世 話をしようと関心を寄せ,次には赤ちゃんをおぶって,自分が運転士とな って,年下の子どもたちを乗客にして電車ごっこをしている。このように, メイは受け身的に世話をされる側ではなく,世話をし,遊んであげる⽛お 姉さん⽜へと大きく転換しつつあると考えられる。

お わ り に

本稿では,⽝となりのトトロ⽞を題材に,その支援のありかたを心理臨 床学的に読み取る試みをおこなった。 ⽛はじめに⽜でも検討したが,⽝となりのトトロ⽞はこれまでのアニ

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メーションのヒット作の⽛作法⽜に則るなら⽛ないない尽くし⽜の作品で あった。それにも拘わらず,時代を超え,世代を超え,国籍を超え,不思 議と私たちの心を惹きつける普遍的な魅力を放っていた。筆者は⽝となり のトトロ⽞における支援のありかたに,多くの人々を魅了する鍵があると 考え,その支援のありかたについて心理臨床学的な検討を加えてきた。 河合(2011)は,心理学とは⽛体験の振り返りであり⽜⽛なんだろう⽜と いう問いに答えるもの⽜であり,⽛暗黙のうちに了解されているものを, 自覚的に捉えるのが心理学的作業なのである⽜と述べている。その意味で, 本稿で試みたのは,⽝となりのトトロ⽞における支援のありかたについて の,まさに⽛心理学的作業⽜であった。本稿が,様々な心の危機に瀕する 子どもたちへの支援のありかたを見つめ直す契機となるなら大きな喜びと なる。 青木研二(2011a)⽝となりのトトロ⽞ᴷその幻想性の構造(Ⅰ).茨城大学人文学 部人文学部コミュニケーション学科論集第10巻. 青木研二(2011b)⽝となりのトトロ⽞ᴷその幻想性の構造(Ⅱ).茨城大学人文学 部人文学部コミュニケーション学科論集第11巻. 細江光(2014)100回⽝となりのトトロ⽞を見ても飽きない人のために.和泉書院. 日置俊次(2019)宮崎駿⽛となりのトトロ⽜論ᴷ少女と老女という思想ᴷ青山スタ ンダード論集第14号. 今田雄三(2016)過去の子ども像との比較を通して現代の子ども像を考える.鳴門 教育大学第31巻研究紀要. 伊藤賀永(2005)宮崎駿作品⽝千と千尋の神隠し⽞に関する一考察ᴷ子どもの危機 と“居場所探し”の物語として読み解くᴷ.関東学院大学人間環境研究所所 報第 4 巻. 岩宮恵子(2013)好きなのにはワケがある.ちくまプリマᴷ文庫. 河合隼雄(1977)昔話の深層.福音館書店. 河合隼雄(1970)カウンセリングの実際問題.誠信書房. 河合俊雄(2011)村上春樹の⽛物語⽜.新曜社. 川嵜克哲(2018)風景構成法の文法と解釈.福村書店.

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hilfsmittel 3. Auflage. Bern: Verlag Hans Huber, 1.岸本寛史他(訳)(2010)バ ウムテスト(第 3 版)-心理的見立ての補助手段としてのバウム画研究.誠信 書房. 大塚英志(2013)ストーリᴷメーカー 創作のための物語論.星海社新書. 祖父江典人(2019)公認心理師のための精神分析入門.誠信書房. 山中康裕(2002)ハリーと千尋世代の子どもたち.朝日出版社.

参照

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