215
教育機会論の 展 開
教育学科教育社会学研究室 小 島 秀 夫
れるということは複雑化をともなう。そうした社会に適 1。はじめに 応していくための一般的能力も産業化以前の社会に必要
教育の機会均等論は近代教育体系の確立以来漱育学 とされていた一般雌力よりも必然的により高度化せざ
巖響重雛簾撫諜宝豫糠繊磁謙ζ鶴窺繕纂灘
教育と職業との関連が強ぐなり,その結果どのよう罐 学鰍育である9
類の教育をどの程鍛けるか,飲は受けることができ このように現代社会に醐る教育は・社会の高離業
盤撚論鰻糊灘萎蕪舞嵐概簿驚騰翻肇影濃ζ空
産業化以前の社会に沖ては調人の生活は一生を通 った二つの主要な機能を有しているゆえに激育機会の じてほぼ家族を中心として営まれて冷り,個人の 均等は重視されるのである。
教育の問題も家族内や地域内の問題として考えら しかしながら漱育的資源撫限ではなく限りのある れ毯り,社会的な問題とは効えなかった.したがっ ものであるから・どういった人々カ{どのよう罐類の教 てそうした社会に淑は教育の機会鱒という問題認育をどW程藪ければよいのかということが問題となっ ッは存在しなかった。しかしながら,産業化が進展すう てくる・
につれて近代教育体系が確立し,教育を通じての社会的 ここで教育機会論を論ずる場合に・教育的資源を無限の 流動性縞くなるにつれて,どのよう轍育を受けるか,ものと考えて論ずることは獄的でなく・ トピァ的発 飲は受けられるかということが人々の関心事と効, 想のように思われるので以下の議論で鰍育的資源を有 そこに紳て初めて教育の機会均等の思想が発生してき 限なものと考え議論を進めていくこととする・
たのである3) 教育の機会均等論がつね臥姻関・ぽあ噺けたの
事実,社会移動研究の示すところによれば,社会力・産 は,以上みて獣よう磁業と教育の関連が強くなりつ 業化するにつれて社会的流動性は高く酌,さらに牒 つあ礁果であるが・6算代以降別の方面から教育の機
と教育との関連についてみてみると薄門的・技術的職 会均等論が隔にされるよう醜ってきた・
業につくため剛よ塙い学歴秘敷あること糊ら 6・年代は周知のよう薩業化カミ進展し・人々の生活も
かにされているρ 豊か醜り・そうし耀業化の進展は人々撫限の繁栄 このよう噸代社会に沖ては,専門・技術的糠にを練するかにみえたが澄かな社会の中の貧困̲発
ツくためにはよ塙瞠歴が必要とされるという事実が 見により・人々は次のよう嬬識をもつセひたった・
第一に,個人の努力によって開拓されるべきフロンテあるために,どのような教育を受ける機会があるのかと
イアが消滅しつつあり,成功する機会がなくなりつつあいうことが重要視されることとなる。
るという認識。第二に,人々は官僚組織や企業が大規模しかしながら,高度産業社会においてはただたんに,
職業と教育との関連が強くなるということでのみ教鰍 イヒし沖央難化すればするほど臥撫力であるとい 会鍾要視されるわけではない.社会が高藤藤化さ う龍をもつよう瞬った・第三に・臥の鵬は上昇
し,ただたんに生活水準を上昇させるのみではなく,生
216 茨城大学教育学部紀要 第27号
活の質の向上もはからなければならない,といった方向 であり,それも大学教育である。したがって,大学教育 に人々の認識は移ってきたのである。 の機会が拡大されれば,より恵まれた職業につくことが 個人の努力による成功を保障するフロンティアの消滅 でき,その結果社会的な平等は達成される,というもの は・入々をして成功の手段としての教育の重要性を認識 であった。
させることとなった。このことは,豊かな社会における しかしながら,60年代の高等教育の量的拡大はこうし 貧困層の発見とともに,教育の機会均等論を論争的なも た考えを支持するものではないことがしだいに明らかに のとすることとなった。 されたのである。高等教育の量的拡大の直接の利益を受 すなわち,豊かな社会における貧困層がなぜ貧困層にと けたのは,中流階層以上の子弟においてであり,しかも どまっているのかという理由を,貧困層の教育水準の低 社会的不平等は解消されずに以前として存在し続けてい さに求めたのである.ここに鮒る支配的な考えは慣 ること糊らかにされたのであ器?
困層の子弟に高い教育を与えれば,その子弟は貧困層か こうした高等教育の機会の拡大ですら社会的平等をも ら脱出でき,その結果貧困層はなくなるであろうという たらすことはできないという認識のひろまりは,人々を ものであった・ して教育機会を均等化することによって,社会的平等を 官僚制組織の巨大化かよび中央集権化に対しては,分 達成しょうという考えは有効ではないのではないかとい 権化の方向が人々によって求められ,自治の方向が求め う考えをいだかせることとなった。そして実際にそうし
られるよう瞳っ認 た考えをうらづける実証的データも発表されるようにな
生活の水準のみならず,生活の質の向上をもはかって ったのである。
いこうとする期待の上昇は,政治の分野に澄いてはより 教育の機会均等化によっては社会的平等は達成されな 権力の平等化をはかる方向に,収入の面においては所得 いという事実認識は,次に結果の平等へと関心を移すご の平等化の方向に,教育に澄いてはより平等な教育の保 ととなった。
障をといった方向に推移していくこととなった。 本論の目的はつねに論争的であり続けている教育機会 ここにおいても,権力・収入の不平等は教育機会の不平 論をめぐって行なわれているこれまでの議論を整理する 等によってもたらされているのであるから,権力・収入 ことにある。
の不平等はまず第一に教育機会の不平等をなくすことに H.教育機会論の第1段階
よってもたらされるという認識をもたらした。
60年代以降にむいては,このような伝統的な貧困問題 ホーレス・マンが,教育は人間が考えだした他のあら のみではなく,向上しつつある個人の期待にてらしてみ ゆる工夫にまさって人々の状態を平等化する偉大なはた た〈不平等それ自体〉を明らかにし,解消していこうと らきをするものであり,「教育は社会という機械の平衡 する考え鼓配的となってきつつある2)6。年代に鮒る轍あ習と述べ塒に,その背後にはどのよう姥え
こうした変化はく平騨命既よばれている。 が存在しているのであろうか。ここでマンの基本的姥 教育機会の問題が論争的になったもう一つの原因と考 えをみてみよう。マンは彼のオプテミスティクな考えを えられるのは,60年代における高等教育の拡大があげら 次のように展開する。
れる。高等教育の量的拡大は,以前においてであれば高 「教育が平等に普及するならば,教育はその及ぶとこ 等教育を受けることが不可能であった層にまで教育機会 うに最強の力をもって財産を引き寄せる。なぜならば,
を提供することになった。こうした高等教育の機会の拡 知識のある経験に富んだ人が永久に貧乏でいるというよ 大は入々に,社会的平等をもたらすものであろうという うなことはかつてあったためしがないし,またありうる
Qを暁かせ潔 はずが静からである」14)また,「教育という秘をも
高等教育の拡大が社会的平等をもたらすであろうとい たらす力は,莫大な富とみじめな窮乏との相ならんだ共 う考えの背後にある伝統的な考えは次のようなものであ 存が発生してくるあらゆる悲惨な状態を平和的にとり除 った。すなわち,社会的不平等は職業によってもたらさ くことによってさえも便い尽されることはないであろう。
れる・どのような職業につぐかを決定しているのは教育 教育は高度の機能をもっているものである。それは,既
小島:教育機会論の展開 217
存の富を伝播させる力以上に新しき富を創造する能力を すなわち,どのような能力の個人にも教育のインプッ
@ 15)
もっている。」 トにおける平等が保障されていれば,結果において不平 こうしたマンの考えは,教育は富の源泉であるから, 等が発生してもしかたがないとする考えである。この考 教育を人々に受けさせることによって,社会的平等は達 え方によれば,下層出身で有能な生徒が上昇移動するの 成されうるというものであった。しかしながら,マンの みでなく,上層出身の子どもでも能力のないものは,良 こうした考えはオプテミスティクであると思われる。 い教育を受けさせず,恵まれない職業につけさせるべき
ここで,マンの考えがオプテミステ。クであるという であるということ鷹るζ゜)
理由を次の三つに求めることができるであろう。 しかしながら,インプツトにおける平等は達成された まず第一に,教育を受けた後に職業について得ること のであろうか。50年代における諸研究によれば,大学入 のできる社会的資認有限であるということ撫視して学者に紳ても階層差赫られること糊らカ・にさ批。
いる点。もっともマンの置かれていた当時の状況を考え こうしたインプツトにおける不平等を明らかにするため るのならば,マンが社会的鰭撫限であると考えたの に,社会科学者は次のような説明方法をとってきた31)
は無理のないことかもしれない。なぜならば,当時にお 第一にハイマンが提言したもので,下層の子弟が高等 いてはフロンティアは依然として存在しており,フロン 教育を受けないのは,下層の子弟はそもそも高等教育を ティァが存在し続ける限り,社会的資源は無限であると 受けるといったような価値観をもたない文化を有してい 考えられていた。 るためである,といった「価値理論」とよばれるもので
第二に激育を受ける臥の能加ついてマンはオブ ある書2)
テミステツクな考えをいだいていたように思われる。マ この理論によれば,下層の子弟は教育を受けようとし ンは教育によって知識のある経験に富んだ人が永久に貧 ない価値観を有しているのであるから,そのような価値 乏でいるというようなことはありうるはずがないといっ 観を変えることなしにはインプツトに冷ける平等すら保 た極端にオプテミステックな能力観をいだいていた。 障することはできないということになる。
第三に,個人が教育を受けるようになるまでに,個人 第二に,「社会的地位理論」とよばれるものであって,
に影響を与えている家庭・社会階層・宗教などの要因を ケラーとザバ・二によって提言されたものである。この
無視している鳥家麟境など鰍育を受ける態卿対理諏よれば・下層の子弟も上流の子弟と同じ程度のアして大きな影響力を有しているのを無視している。 スピレーションを有してはいるが,置かれた社会的地位
マンの思想は現在からみれば,いかにオプテミステッ が低いために,あたかも高いアスピレーションを有して クであろうとも,教育を人々に平等に与えれば,社会的 いないようにみえるのであって,自分の置かれた位置を 平等は達成されると考えていた点で評価される。そして 中心にしてみれば,同じ程度のアスピレーションを有し 実際こうしたマンの教育機会論は,その後長く支配的で ているというものであるξ3)
あったのである。すなわち,人々に同じ教育機会を与え この説によれば,インプットに論ける平等を保障する れば,言いかえれば教育におけるインプットを平等にす ためには,下層の子弟にも上層の子弟と同様のアスピ れば社会的平等は達成できるという考えが,その後長く レーションをもたせることが必要とされる。
人々の考えを支配することとなったのである。ここでは 第三の説明は「文化理論」とよばれるものである。こ そうした教育のインプツトにおける平等を保障する考え の理論によれば,階層によって教育機会が異っているの
を餅る段階を・教育機会論の第1段階とよぶことにすは諾層によ鉦駁られる文化的機会蹉があるためる。 であるとする。 この「文化理論」は教育機会の不平等
この教育機会論の第1段階の基本的な考えは次のよう を説明するために「価値理論」の後に流行した。
なものである。 この「文化理論」によれば,インプットにおける平等 個人は比較的安定した能力を有して冷り,教育システ を達成するためには,すべての社会階層の子弟の文化的 ムはこうした能力のある個人の障害をとり除くようにす 機会を同じにすることが必要とされる35)
べきであり,個人はその能力にふさわしい地位につくべ 第四の説明は「育児理論」である。この理論によれば,
きであるま9)
中流階層の子どもの高等教育への進学率が高いのは,中 「能力に応じて」のこうした三つの考え方のうち,
流階層の家庭における親子関係において許容的な人間関 第一の自由競争論的な考え方は,能力に与える社会環境
26)係が形成されるためであるとする。 の影響を無視しているという欠点をもっている。現代に
この理論によれば,インプツトにおける平等を達成す おいてはこうした自由競争論的な考え方をとる人はすく るためには,家庭内における人間関係を変えなければな なくなり,恵まれない子どもを特別に扱うべきであると らないということになる。 いう積極的差別(positive discrimination)
教育のインプツトにおける不平等をこのように,「価 の方向へと動いている響)
値理論」・「文化理論」・「育児理論」などに求めるわ しかしながら,こうした積極的差別による完全均等化 けであるが,こうしたインプツトにかける不平等の原因 政策を行なうということは・各種の補償教育が必要とな を排除していく努力がいかに困難であるかは容易に想像 るために・巨額の経費が必要とされる一方・学校教育に できる。 おける不均等なとり扱いを求めるというパラドツクスを
例えば,最近注目されている言語社会学の成果によれ 生じることとなる。
ぱ,階層によって能力が異っているのは階層によって便 こうしたインプツトにおける平等化によって社会的平 われる言語が異っているためである,と楠れているζ7)等はもたらされたであろうか・ここでは・ブードンによ
このようなことまでも考えに入れるのであれば,イン る理論的検討と・コールマンによる実証的研究を援用し プツトにおける平等を達成することがいかに困難である てみよう。
かが理解される。そして事実,階層間の文化的差をうめ ブ}ドンは・仮説的なデータを便って次のような結論 るための一。ド.スタートやプ。ジェハ.タレントな をえた図まず社会移鄭ついてみてみると,綴備 どの計画は失敗であると評価されている碧8) 造は時間的にはほぼコンスタントであり・かつ進学率の
教育のインプツトにおける平等を論ずる際の重要な問 上昇や進学者の急激な増加があり・教育機会の不平等に 題は個人の能力の問題である。個人の能力がどの程度ま かなりの減少があったとしても・世代間移動の構造には で遺伝鷹って決定されているのかの問齢別にしても,わずかな影響力し赫舷い・
能力は遺伝によって決定されているのは事実であり,そ また完全に業績的な社会を想像した場合にも・教育機 うした能力をどう考えるかが大きな問題となる。 会の不平等が大きく,かつ業績主義が重要であり・親の
この「能力に応じて」というとらえ方には三種類のと 社会的地位が大きな社会においてもかなりの量の移動は らえ方が考えられている碧0) 観察される。さらに・教育の増大と教育機会の不平等の
第一に,文字通り,能力の多寡に比例してというもの 低減がなされたとしても・完全な業績主義の社会におい であって,能力のあるものは,より多くの教育を受ける ても,社会的不平等は軽減できないことが明らかにされ
というものである。この考筋は,楯灘の獲得燗縫3)
する自由競争理論といえる。 仮説的データを理論的に検討したブードンは・以上の 第二は,逆に能力に反比例してという意味にも解釈で ように,教育の拡大それ自体では・社会・経済的不平等 きる。教育機会は各人の精神的,身体的能力に反比例し をなくすよりもむしろ増大させる効果を有しており・た て与えられるべきだという主張は,家庭環境や素質に恵 とえ教育システムがより平等的なものになろうとも・社 まれない者に資源を集中することによって,極力そうし 会・経済的不平等はなくならないことを明らかにした。
たハンディを減少させ,すべての者に等しく成功のチャ すなわち,ブードンの結論によれば,どのようにイン ンスをもたせようとするものである。 プツトに澄ける平等化をすすめたとしても,社会的な不
第三に,両者の中間に能力に関係なく,すべての者に 平等は存在し続けるというものである。
同量の教育資源を配分するのが最も公正であり,どの資 ブードンがこのように仮説的データを便って理論的に 源をいかに用いるかは個々人の必要に応ずるのだから, 検討したのに対して,コールマンは実証的な調査の検討
これこそが「能力に応じて」ということの正しい解釈だ を行なっている。コールマンは,1964年の公民権法 とする主張がある。 (Civil Rights Act)にもとついて,白人・黒
小島:教育機会論の展開 219
人・プエルトリコ入などの人種・民族の教育機会の不平 皿.教育機会論の第2段階 等を明らかにするために,1965年に大規模な調査を実施
し題4) 前節に帥て・教育機会論の第1段階である教育のイ
ンプットに冷ける平等は,社会的平等をもたらさないこ その調査の基本的な枠組は,客観的な指標として,学
とが明らかにされた。そもそもインプットに冷ける平等校にある本の数,建物の年数,教師の学歴,学校のラン
を達成するのが困難であることも明らかにされた。
クなどをとり,生徒の学力をアウトプットとして,言語
その際に大規模な教育機会の調査を行ったコールマン
¥力・読書能力・分析的能力・数学的能力をとりあげ,
次のような結果を明らかにし響) の調査結果によれば・白人以外の人種の生徒は白人の生
徒よりも低い能力で学校に入学してくることが明らかに生徒の能力をみてみると,白人以外の生徒は入学時に
され,かつ白人の生徒との能力差は学年が高くなるにつ 駐?フ生徒よりも低い能力で入ってぐる。さらに,学校
れて大きくなることが明らかにされた。終了時における能力をみてみると,白人とその他の生徒
学校は生徒の社会的出身階層の影響力から自由ではなの能力差は大きくなっている。すなわち,明らかに学校
いのである。教育がすべての生徒に等しい能力を身につも能力差を大きくする原因の一つとなっているのである。
けさせ,その結果社会的平等が達成されうると考えられ 以上の結論を支持する証拠としてコールマンは次のよ
てきたが,現実には教育はすべての生徒に等しし(能力をうなものをあげている。第一に,どの民族内においても
身につけさせることに失敗しているのである。
家族の経済状態と学校の成績は強い相関を有してかり,
こうした事実の発見によって,コールマンは教育機会しかもそれは小学校において強くなっている。第二に,
の均等とは教育のインプットにおける平等ではなく,成生徒の成績差は学校内においてみられ,学校間に詮いて
人の世界に入っていく時に学校が生徒に平等な能力を身 みられる拗ではない・すなわち・このことは・生徒の
向に問題の焦点を移しかえている。すなわち,教育のア 大きいということである。
ウトプットに知いてすべての生徒は平等な能力を有して したがってコールマンは,学校は平等な教育機会を提
いるかどうかが,教育機会における平等であるというの 供するのに失敗していると結論づける。すなわち,教育
である。機会の不平等はまず第一に家庭自体にあり,その環境に
教育が社会的平等をもたらすための重要な戦略であるある。第二には生徒の成績を家庭の影響から自由にでき
と考えられている限りにおいては,教育のインプットのないでいる学校の無力さに求めることができる。
平等における後に,教育のアウトプットにおける平等をまたコールマンは,生徒や教師の教育背景といった社
求めるようになったのは当然のことといえる。会的条件をコントロールしてみると,生徒一入当りの支
教育のアウトプツトにおける平等をここでは教育機会出や,図書の数などは生徒の成績と相関関係を有してい
論の第2段階とよぶことにしたい。
ないことを明らかにした。すなわち,従来から考えられ
教育のアウトプットにおける平等といった場合にどの てきたような教育的資源をより多く投入すれば生徒の成
ような問題が存在しているのであろうか。そうした問題績は良くなるといったことはみられず,むしろ生徒の成
を検討してみよう。績にとって重要な影響を与えているのは,学校に諭ける
成入の世界に入っていぐ時に平等な能力を身につけて文化的同質であることを明らかにした。
いるかどうかが,教育のアウトプツトに輸ける平等であこうしたコールマンの発見は,教育のインプットにお
るが,それはすなわち,労働市場に入っていぐ時に平等いてもかなりの不平等がみられるし,またインプツトを
な能力を身につけているかどうかの問題と同じであるQ平等にしたとしても,学校よりも家庭環境の影響力が大
そこで問題は,生徒は個々入によって労働市場に入る時きいために,社会的平等を達成することは困難であるこ
点が異っているわけであるから,一体いつの時点におけとを明らかにするものである。
るアウトプットの平等であるのか,ということが問題と学校は生徒の能力を家庭環境から自由にできないでい
されるoることが明らかになった後,コールマンは教育機会の平
これまでの研究によれば,人生の早期において労働市等についてどのように考えるようになったであろうか。
一
場に入っていくのは下層出身において多く,中流出身者 を下層の子ども向きに変えること,問題のある子どもと はより長ぐ学校にとどまる傾向がみられる。 同じ出身背景を有した教師を採用すること,などであっ
中流出身の者がより長く学校にとどまる原因として, た。39)
ジェンクスは次の五つの理由をあげている♂7) 補償教育は,教育的に恵まれない家庭や地域出身の子 第一に,中流階層の子どもは学校で必要とされる認知技 どもに特別な教育を行なうというものであり,その原理 術を身につけるのに適した家庭環境で育っており,第二 は「すべての子どもは不平等に扱われるという平等な機 に,学校で成功するために適したような遺伝子をもって 会を持つべきである雪0)というものであった。しかしな おり,第三に大学に行くために,澄金をかりたり,働い がら,こうした補償教育も,家庭環境の影響をなぐすほ たりする必要はなぐ,第四に,たとえ学問に対する積極 どには有効でなく,一般的には失敗したと考えられてい 的な態度がなぐても,学校にとどまるべきであると考え る。
ており,第五に途中でやめるより,大学に行くことを勧 学校のカリキュラムを下層の子ども向きに変えること めるような,よい学校にいることである。 は,それまで考えられていたような学校のカリキュラム このように中流階層出身の子どもにとっては長ぐ学校 は主として中流階層の文化を基礎にして作られているた にいることが可能な条件がある場合に,いつの時点にお めに下層出身の子どもはそうした文化に適応できずにい ける能力を等しくするのかということが問題とされる。 る,といったことを防ぐために行なわれたものである。
アウトプツトにおける能力の平等化といった場合,そ このように学校のカリキュラムを下層の子ども向きに変 の平等の基準をどこに置くのかという問題がある。また えるということは,下層の子どものドロツプアウトを防 教育過程において,学習能力において優れている者と, ぎ,能力の向上をはかるというものではあったが,下層 そうでない者をどのように扱えぱよいのかという問題が の子ども向きのカリキュラムを作るということによって,
ある.38) より一層階層間の能力差を増大させるという繊性を有
アウトプツトに冷ける平等はいつの時点での平等であ していた。
るのかに対して,アウトプツトにおける平等をとなえる 問題のある子どもと同じ出身背景を有した教師を採用 人も明確には答えていない。中流階層の子どもが長く学 することは,生徒に人生の目的を与えるという効果をね 校にとどまれるのは,経済的にも恵まれているからであ らい,学習への動機づけの強化を目的としたものである。
り,さらには中流階層の文化そのものが教育を受けるこ 下層出身の子どもに下層出身の教師をわりあてることに との重要性を強調するような文化を有しているのである。 よって・下層出身の子どもの上昇意欲を喚起させようと
これに対して,下層出身の子どもは,そもそも経済的 したものである。
にも恵まれない状態におり,さらには教育を受けること しかしながら・こうした補償教育・カリキュラムの変 の重要性を強調しない文化を有しているのである。 更・同じ階層出身の教師の採用も生徒の家庭環境の影響 したがって,もし教育のアウトプツトにおける能力を 力をなくすのには十分でないことが明らかにされたので
@ ある 1)等しいものにしようとするのであれば,下層の経済状態
このように下層出身の子どもに対する特別な待遇を与を改善するのみならず,下層の文化をも変えていくこと
えたとしても,教育のアウトプツトにおける平等を達成が必要とされる。
こうした下層の経済状態を変え,さらには下層の階層 することは困難であることが明らかにされた。
文化そのものを変えていくためには巨額の経費がかかる ここで教育のアウトプツトにおける平等論に内在する ことは明らかであり,現在においてはそうした試みは不 もう一つの問題を考えてみよう。教育のアウトプットに
おける平等といった場合に,その時点がいつであるのか可能であるとされている。階層の経済状態によって規定
といった問題については,アウトプツトにおける平等をされていることは明らかであるが,ただたんに階層の経
唱えている人自身が明確に答えていないのをみた。教育済状態を変えるといっただけでは階層文化は変容しない。
のアウトプツトにおける平等といった場合のもう一つのそこで,教育のアウトプツトにおける平等を達成する
重要な問題は,アウトプットにおける平等の基準をどこために考えられたのは,補償教育や学校のヵリキュラム
に求めるのか,ということである。
小島:教育機会論の展開 221
もし学校が生徒の家庭からの影響から完全に自由であ 場と変りはないという批判である。45)それはただ単に,
ったにしても,学校内における生徒間にみられる能力の 競争が学校教育の外にのばされただけにすぎず,社会的 差は残るであろう。学校内においてよく動機づけられて な平等をもたらさないというものである。
いる者はそうでな賭よりも融勃を示すであろうし,第二は,灘議的階層職からの批判である 6)そ
たとえ教師の生徒に対する扱いが同じものであったにし の批判は・教育のアウトプツトにおける平等を求めたに てもμ2)生徒の先天的な能力差はあらわれるであろう。 しても・社会階層は一定しているために・そこに冷ける
この点に関して,ゴードンはアウトプツトにおける平 不平等は不可避なものである・というものである。
等の基準を,社会に参加し生存のために必要とされる技 この機能主義的階層理論からの批判は・教育のインプ 術(survival participation skill)に ツトにおける平等を求めることを主張する論者に対して 求めている.43) のみならず激育のアウトプツト降ける平等を求める
ことを主張する論者に対しても決定的な批判となったのこの技術は,基本的コミュニケーション技術,問題解
である。決能力,原理的知識の理解,雇用・余暇・教育の継続能
こうして教育のアウトプツトにおける平等によって社会的力,自律心の開発の五つの基本的な技術より成立してい
て教育が社会的平等をもたらす機関として有効であるのゴードンは以上の五つの基本的技術の学習を教育の機
か,ということに対して疑問がもたれるようになった。会均等であると考え,さらにそうした基本的な能力におい
この点に関してコールマンらの行なった調査の再分析をて等しくなるように,学校において教育的資源の配分を 47) 行なったジェンクスの結論をみてみることとする。不平等に,そして個別化することが教育の機会均等であ
@ のとしてとらえる。48)まず第一に,黒人と白人,金持ち このゴードンの教育の機会均等の定義は教育のアウト
と貧困者の問の社会的・経済的差は認知能力の差によるプットにおける平等の具体的な内容を明示している点に
ものである。第二に,その認知能力は知能テスト・言語おいて評価されてよい。しかしながら,現在のわれわれ
の知識に蔚いては,教育のアウトプツトにおける平等と テストなどによって測定される。第三に・人々の役割遂
行能力や認知能力の差は,部分的には入々の受けた教育してどの基準をとればよいのかということはできない。
年数の差によるものである。第四に,したがって教育の以上みてきたように教育機会論の第2段階である教育
のアウトプットにおける平等は,それがいつの時点での 機会を平等にすることは黒人と白人・金持ちと貧困者の ものであるか,またアウトプットの基準はなんであるの 差をなくすための重要なステップである。
か,といった点に論いて論理的欠点を内包するものであ こうした仮説は入々がいままでいだいてきた伝統的な ったといえる。 仮説であるといえるが・このような仮説は誤りであるこ
事実,教育のアウトプ。ト蹄ける平等を唱えた_ とをジェンクスは鵜する 9)その理由として鵬一に・
ルマン自身も後に彼自身の意見を変えることとなった。 職業的地位・収入で測定された経済的成功は能力以外の では仮に教育のアウトプツトにおける平等が達成され いろいろな要因に依存して冷り・第二に・能力は基本的 たとした場合には,社会的平等は達成されうるであろう な認知能力以外の多くの要因に依存している。さらに第 か。教育のインプツトに冷ける平等によっては社会的平 三には・標準化されたテストは厳密に基本的認知能力を 等は達成されないことをわれわれは先にみた。教育のア 測定していないことがあげられている。
ウトプツトにおける平等が達成されれば,社会的平等は ジェンクスはさらに・「認知能力の不平等は経済的不 達成されるであろうか。 平等を十分に説明しないし・教育的不平等は認知能力の
この問題に対しては二つの方向からの批判がなされて不平等を粉には説明し魎看゜)ということを明らかに いる。44) した・つまり・教育機会の平等によっては社会的平等は
一つは,教育のアウトプツトにおける平等を求めるこ 達成されないことを明らかにしたのである。
とも結局は,教育のインプヅトにおける平等を求める立 教育機会の平等が社会的平等を達成するために有効な
ものではないというジェンクスの結論は人々に衝激を与 資源の供給のインセンティブをなくしてしまうであろう,
えるものであった.51) というものである。
こうしたなかでコールマン自身は,彼の教育機会論を したがってコールマンは,社会はすべての子どもに対 どのように変えていったのであろうか。教育のアウトプ して等しい機会を与えることは不可能であり,そのかわ ツトにおける平等によって社会的平等が達成されないこ りに社会ができうることは個人の資源から発生してくる とが明らかにされ・またジェンクスによって教育機会の 不平等のレベルを減少させるために,どのレベルの公共 平等が社会的不平等を是正しないという結論が出た後に, 財や,公共財のどのような不平等な分配をなすべきなの
コールマンはどのような方向に彼の教育機会論を展開す かであるという結論に達っしたのである。55)
ることとなったのであろうか・ こうしたコールマンの結果における平等は収入に澄け IV.教育機会論の第5段階 る平等といった狭い意味でのみ便用されているという問
題は残るが,現在においては結果に冷ける平等の考えは われわれは前脈紳て漱育のアウトプットに鮒 多くの論都よって支持されている.56)
る平等を教育機会論の第2段階とよぴ,その理論が内包
結果における平等を支持する論者の中でもミラーは,
している問題点を囎し・教育のアウトプツトに諭ける
ミラーはこれまで社会階層について多くの議論がなさ にした。
れてきてはいるが,平等の問題は不十分にしか概念化さ教育のアウトプットに諭ける平等を教育の機会均等と
れてきておらず,その結果,機会の平等は条件の平等,とらえたコールマンは,教育のアウトプットにおける平
結果の平等とは異ったものと考えられて昏ていたことを等によっても社会的平等は達成されないことが明らかに
指摘し,機会の平等(equality of opportunity),された後に,彼の教育機会論を結果における平等
(Equality。f Result、ラ2)を求める方離 代表肝等(「ep「e・entative equ・ ity)・
資源の平等(resource equality),課題の平変えていった。 58) 等(task equality)の4つのタイプの平等を考える。 この結果における平等は,教育のインプットにおける
第一のタイプである機会の平等は従来いわれてきてい平等によっても教育のアウトプットにおける平等によっ
るものと変りはないが,機会を平等にするためには他のても社会的平等は達成されないことが明らかにされた後
@ 条件も変えなければならないことを指摘し戸9)人々をに必然的に到達する結論であったように思われる。
レースの開始的において等しくするだけではなく,レー アこで,結果における平等を求めるコールマンの立論
スの結果にむける差をあまり大きくなくする必要のあるの過程をみてみよう。
@ ことを指摘する。60) コールマンは第一に,収入の不平等(Inequality
代表的平等が第二のタイプであるが,この代表的平等
of Result)と機会の不平等(Inequalityof
は第一のタイブの平等と連続している。このタイプの平Opportunity)を概念的に区別されるべきものとし
てとらえる 3)すなわち,収入の秤等をなくすことが 等は臥の特定のカテゴリ曜対する職業的結果礪連
を有しており,このタイプの平等に対する要求の新しさ社会的平等の達成であり,機会の不平等をなくすことが
@ は結:果における平等を強調していることに求められ髭1)機会の均等であるといえる。
しかしながら,ここにおいて結果に冷ける平等といっ個人の出身階層の不平等を完全になくすために公共的
た場合,それは経済的平等や資源の平等を意味している
Q黎繍欝繕響篇壷r鶴わけではなく鉾)能力のある榊ままで・性・職
どの理由によって差別されてきたのをなくしていこうと資源の不平等を完全になぐすように公共の資源を分配す する雇用に関するものである。63)ることはそもそも不可能であるし,もし国家が個人の資
第三のタイプは資源の平等である。この資源の平等の源に比例して公共の資源を分配するのに成功したとして
基本的な考えは,個人の人生の全般にわたって,個人の も,そのことは,親が現在不平等に供給している個入の
@ 地位・職業に関係なく,家庭の規模などに応じて同様な
小島:教育機会論の展開 223
資源が配分されるべきであるというものである。資源の 育機会の均等が結果に澄ける平等であると考えている点 平等を求める人は,だれがどうした職業につくのかとい では一致している。
うことについては問題にしてむらず,資源の平等と機会 しかしながら,結果における平等とは社会生活におい の平等とは両立しうるものであると考える。64) て受ける資源の平等のことであって,教育の機会均等と
しかしながら,ここで問題となるのは資源の平等をど はあくまでも教育を受ける機会や教育を受けた結果に澄 の範囲にまで求めるのかが問題となる。 いて生ずる能力の平等のことを意味していることを考え
ミラーはその範囲をめぐる考え方に次の三種類がある るならば,教育の機会均等がそのまま結果における平等 ことを指摘する。第一に人々が忍耐でき,受け入れるこ を意味するわけではないことに注意しなければならない。
とのできる不平等にまで不平等を減ずるといった不平等 教育の機会均等とはあくまでも,社会的平等をもたらす の低減化(lessened inequality),第二は, ための一つの戦略にしかすぎず,それは職業選択の自由 平等を求めるが完全な平等を求めるわけではなく,規範 といったものと同等に扱われなければならないものであ 的目標(normative goal)をめざす立場,第三 る。
は,すべての入は家族員数などを除いては同じ資源の配 そこでわれわれは,社会的平等を達成するためには社 分を受けるべきであるといった実践的平等(practis一 会的不平等それ自体を変えていかなければならない状況
ing egalitarian)の考え方である。65) にあって,教育の機会均等が重視される段階を,教育機 第四のタイプは課題の平等である。課題における平等 会論の第3段階とよぶことにしたい。
を求める立場は,職業によってもたらされる精神的満足 教育のインプツトにおける平等も教育のアウトプツト 感の差異を問題にし,資源の平等ばかりではなく,職業 に蔚ける平等も,社会的平等をもたらさず,社会的平等 によってもたらされる満足感の平等な配分もはからなけ は社会的不平等それ自体を変えることによってしかもた ればならないとするものである 6) らされず,同時に教育機会が重視されるという状態にあ
こうした課題の平等を求める立場に対しては,経済活 っては,教育の機会均等という概念自体も変更をせまら 動に悪影響を与えるのではないのかという批判がなされ れることとなる。こうした状況に冷ける教育の機会均等
うるが,これまでのデータの示すところによれば,職業 の概念の変化をコールマンにしたがって検討してみるこ に必要とされる教育は不適切であり,高学歴の者がそう ととする。69)
でない者よりも仕事をうまくやらない場合があり,企業 われわれはこれまでコールマンが,教育機会の平等を の雇用主は入を雇用する場合に薄弱な理由にたよってお 教育のアウトプツトにおける平等に求め,さらには結果 り,さらに職業において必要とされる課題の分類は旧式 における平等を求めるようになった推移をみた。コール のものであって,そのため課題は別のものだというふう マンは,教育のアウトプツトにおける平等を達成するこ に考えられるようになって冷り,課題の平等によって経 とは,そもそも家庭の影響を排除することができないの 済活動が悪影響を受けるということはないことが予想さ であるから不可能であると考える。
れる 7) さらに結果に鮒る平等を問題にするのであれば,教
さらにミラーは資源の平等を達成するためにも課題の 育の機会均等なる用語は意味のない用語(nota 平等の達成が必要であることを述べ,「課題の平等への meaningful term )であるとコールマンは考え 動きがなくしては資源の平等の達成はほとんどできず, る。70)すなわち,教育機会の平等はそれ自体が目的なの 逆もいえる§8)ことを指摘する。 ではなく,社会的平等達成のための手段なのであるが,
こうしたミラーの平等の分類は結果の平等をコールマ 現在のところ学校はその役割を果していない。現在の学 ンよりも広くとらえている点においてよリラディカルで 校は生徒の家庭の影響力を排除することには成功してい あるといえる。しかしながら,それらの平等を達成する ないのである。
ための具体的な戦略を考えていないという点に冷いては したがって,公教育がなさなければならないことは,
ややオプテミスティクである。 成人の世界に入っていった時の機会の平等を保障する方 コールマンにしろミラーにしろこれまでみてきたように,教 向に生徒の能力を等しくしていかなければならないとい
、
うことである。71)いいかえるならば,教育は生徒が成人 しかしながら,教育のインプツトにおける平等を達成 の世界に入っていく時に同じ能力を生徒に与えているか したにしても社会的平等は達成されないことが実証的に どうかが重要であるということである。しかしながら, 明らかにされるにつれて,教育の機会均等とは教育のイ 現実の学校は生徒の出身背景からくる不平等をなくすご ンプツトにおける平等のことではなく,教育のアウトプ
とに失敗しているのである。 ツトにおける平等であるという考えが支配的なものとな 結果に澄ける平等を求めるようとする一方,学校は生 ってきた。こうした教育のアウトプツトにおける平等を 徒の家庭から発生してくる不平等を排除することに失敗 求める立場を,教育機会の第2段階とよんだ。
しているということにより,コールマンはく教育機会の こうした教育のインプツトにおける平等のかわりに,
平等〉という概念はあいまいな概念であるというのであ 教育のアウトプツトにおける平等を求めることも,学校 る。そしてより正確な用語は,〈機会の平等〉ではなし は現実には生徒の家庭の影響を排除することに成功して に〈不平等の低減(reduction in inequality)〉 いないことが明らかにされるにつれて,非現実的なもの
であるとする。72) となったのである。
すなわち,〈教育機会の平等〉という概念は教育機会 一方,社会的平等の達成はこれまで考えられてきたよ
(インプツトにおいてであれ,アウトプツトに冷いてで うに,教育機会の平等を通じてはなされえず,社会的平 あれ)の平等それ自体が目的であると考えられる危険性 等は社会的不平等そのものを変えていかなければ達成さ があり,社会的平等達成のための手段であるということ れえないといったことが明らかにされるにつれて,教育 が無視されてしまうために〈教育機会の平等〉という用 の機会均等の概念は新しい局面をむかえることとなった。
語よりもむしろく教育のアウトプツトにおける不平等の すなわち,社会的不平等そのものを変えていく方向の 低減〉という用語を便用したのがよいというのである。 なかで,教育のアウトプツトにおける平等を保障してい こうしたコールマンの指摘は,教育のインプツトに澄 こうとする立場である。こうした立場を本論では,教育 ける平等もアウトプツトにおける平等も社会的平等を達 機会論の第3段階とよんだ。
成しないということが明らかになり・かつ教育のアウト 教育が社会的平等を達成することに失敗していること プツトにおける平等は生徒の家庭環境の影響を排除しな が明らかにされたにしても,公教育は無用であるという いかぎり達成されないということが明らかにされた後に・ ことにはならない。現代社会において人材配分を合理 必然的に現われてきたものであると考えられる。また 的・組織的に行なっている唯一の制度は教育であるし,
コールマンはジェンクスが教育は社会的平等をもたらす 社会は多様な能力の人材を機能的要件として必要とする のに効果がないことを指摘した後でも・教育の重要性を のには変りはない。
否定しなかった。 したがって,現代において重要なことは,社会的不平等 コールマンが求めたものは・学校教育が生徒が それ自体を是正していく方向と同時に,個人の職業選択 成人になった時における機会の平等を保障する方向に効 の可能性を高めるために,教育のアウトプツトに冷ける 果的になることであったのである。 平等を求めるということであろう。
社会が経済化様式から社会学化様式に推移するにつれV.おわりに
@ て13)社会的平等を求める傾向はより強まるであろう。
教育の機会均等の原理は現在にいたるまで社会的平等 そしてその平等化を求める方向はこれまでと同じように をもたらすものであると考えられてきてはいるが・その 教育にむけられるであろう。それも教育のインプツトに 定義についてはいろいろなされて建ている。 冷ける平等ではなぐ,教育のアウトプツトにおける平等
教育の機会均等の初期における考えは・すべての者に を求めるようになるであろう。
教育を受けさせれば社会的平等は達成されるというもの 最後に教育の機会均等についての,いくつかの問題点 であった・本論ではこうした考えを教育機会論の第1段 を指摘してみたい。
階とよんだ。この教育のインプツトにおける平等を達成 その一つは,高等教育が大衆化しつつある結果,人々 するのが教育の機会均等であるという考えがつい最近ま は教育を受けることそれ自体を目的とするのではなく,
で支配的なものであった。
小島:教育機会論の展開 225
他の人々が教育を受けるから自分も受けなければならず, 例えば次のような研究を参照されたい。
人よりも低い教育しか受けていない場合には自分がとり Peter M. Blau&Otis D. Duncan;
残されていると感ずる相対的剥奪感(relative The American Occupational Structure,
d。p。ivati。n了4)の問題である。 Wil。y,・967年
相対的剥奪感は個人にとって対象を得ることのできる OtisD. Duncan et, al;Socioecnomic 可能性がすくないと感ずる時には弱く,個人にとって対 Background and Achievement, Semina「P「ess 象を得ることができると思うが,実際に得ることができ 1972年.Robert M. Hauser, David L・
ない状態に詮いては強くなるという性格のものである。 Featherman;The Process of したがって,高等教育の大衆化は,その心理的結果とし Stratifieation, Academic Press て相対的剥奪感を強めることとなり,さらなる高等教育 1977年
の拡大を求めることとなる。 WilliamH, Sewell, Robert M 第二は,高度産業社会になればなるほど,<手段的な Hauser;Education, Occupation,
価値〉よりもくコンサマトリー(Consummatory) and Earnings, Academic Press,
な価値〉が支配的になる傾向がみられることである。コ 1975年.
ンサマトリーな価値とは,行動それ自体の価値のみを考 William H。 Sewell, Robert M。 Hauser,
え,その生むはずの結果を全く考慮しない行動を支える David L。 Featherman(ed.);Schooling and ような価値観である」5) A,hi。v。m。nt i。㎞eri,anS。,i。ty,
教育におけるコンサマトリーな価値の出現は,教育を Academic Press, 1976年.
受けること自体に価値をみい出す人々を生みだすことに 3) この辺の記述については,James S.
なり,その結果大量の高等教育人口を生みだすこととな Coleman;The Concept of Equality るo of Educational OPPortunity, in
こうした相対的剥奪感とコンサマトリーな価値の出現 Equal Educational Opportunity,
は,教育的資源に限界があることを考えれば,ふたたび Harvard Univ. Press,1969年を参照。
「だれがどの程度の教育をどのくらい長く受けるべきか」 4) 職業と学歴の関係については例えば,エリートの という問題を提起することになるであろう。 学歴を扱ったものとして次のものを参照せよ。麻生誠
そこに澄し・・て新たな問題として登場してぐるのは,教 『エリートと教育』福村出版1967年。高根正昭『日本の 育機会論と社会計画論の関連をどのように考えればよい 政治エリート』中公新書1976年。
のかということである」6)従来の教育機会論はともすれ 5)もっと槻代社会に紳ては学校のみがそうした ぱ,教育的資源の無限性を前提に議論がなされる傾向に 機能を有していてよいのかという疑問が,脱学校論者に あったが,これから必要とされるのは社会計画論のなか よってなされてはいる。
で教育の機会均等をどのように考えるのか,ということ 6) この考えをつきつめてゆけば倫理の問題となる。
であろう・ この点については,John Rawls;ATheory
of Justice, Harvard Univ. Press,〔注および引用一参考文献〕
1971年などを参照されたい。
1) ここで便う「産業化」という概念の基本的性格に 7) Herbert J. Gans;More Equality,
ついては・富永健一『社会変動の理論』岩波書店1967年・ Vintage Books,1974年PP.18−20.
同『産業社会の動態』東洋経済新報社1973年などを参照 8) いわゆるdecentralizationの方向である。
されたい。 この点については,例えばDouglas Yates;
2) 教育と職業の関連が強くなるのは産業社会におい Neighborhood Democracy, Lexington て必然的なものである。この点に関してはこれまで多く Books,1973年などを参照。
の研究がなされてきている・ 9) 60年代以降「不平等(ineqUality)」その ものを扱った本の増加がみられる。
10) Gansの用語である。Gans, op. cit. 20) 例えばスウェーデンのCount Torsten chap 1参照。 Rudenschioldなどはこのように考えている。この 11) この辺については,喜多村和之「万人のための教 点については,Torsten Hus6n;The
育の夢と逆説」『総合研究アメ カ.6』大橋健三郎編 Equality−Meritocracy Dile㎜a in 研究社1976年を参照 Education p.53 in Nelson F. Ashline
12) SamuelBowles;Towards Equality et al・ (ed・) Education・ Inequalit胚 of EducationalOpprtunity? in and National Policy,D.C. Heath and Equal Educatiomal OPPortvnity, Company・1976年を参照。
Harvard Univ.Press,1969年 21) この辺の説明については, Raymond Boudon;
13) ホーレス・マン『民衆教育論』明治図書.1976年 Education, Opprtunity, and Social p.104, Inequality, John Wiley&Sons,1973年 14) マン 前掲訳書 p.104 pp.22−24を参照。
15) マン 前掲訳書 p.105 22) Herbert H. Hyman;The Value 16) 社会的資源という概念はまだ必ずしも安定した概 Systems of Different Classes in 念ではないが,この点については,James S. Class, Status, and Power,2nd ed,
Coleman; Resources for Social The Free Press,1966年
Change, John Wiley&Sons, Inc, 23) アスピレーションを絶対的に評価するか相対的に 1971年に澄いて議論されている。 評価するかの問題である。
17) 家庭環境が子どもの態度に与えている影響につい 24) 例えば次のものを参照。Charles A.
ては多ぐの研究がなされてきているが代表的なものとし Valentine;Culture and poverty,
ては次のものを参照されたい。 The Univ, of Chicago Press,1968年・
Ralph Turner; The Social Context Eleanor B. Leacock (ed.) The of Ambition, Chandler Pub・Co・1964 Culture of Poverty,A TOUCHSTONE 年 Book,1971年
18) 本論において,教育機会論の第1段階,第2段階, 25) いろいろな補償教育はこの原則の上に成立してい 第3段階という用語を便用しているのは次のような理由 る。
による。すなわち,従来の分類に齢いて,教育機会のリ 26) 例えば,J。seph A. Kahl;Educational ペラルな考えは教育のインプツトにむける平等を求める and Occpational Aspirations of
ものであったが,ラディカルな考えはアウトプツトに冷 Common Man Boys,且arvard
ける平等を求めるものであった。しかしながら,このラ Educational Review,Vo123,,No3,1953年 ディカルな考えは教育のアウトプツトにおける平等を求 など参照
める立場なのか,それとも社会生活に冷ける平等を求め 27) 例えばB.Bernstein;Social Class る立場なのか明確に区別されないおそれがある。 Differences in the Relevance of ここで教育機会論の第1段階は従来のリベラルな考えに 】語nguage to Socialization, in S 同じである。 Scan−Salapatek, P・ Salapatek
19) この考えは社会的流動性を増大させる考え方であ (ed.);Socialization, Charles E.
って社会的平等をもたらすものではないということで Merill Pub. Co・1973年
批判されている。代表的な批判としては,堀尾輝久「『 28) Edmund Gordon;Education of 教育と平等』をめぐる問題」・『現代教育の思想と構造』 the Disadvantaged, inNF. Ashline 岩波書店.1971年を参照。 et al(ed.)op. cit.
小島:教育機会論の展開 227
29) この点については,Arthur R. Jensen; 39) Robert L. Church;Education in HowMuch Can We Boost IQ and the United States, The Free Press,
ScholasticAchievement?Harvard 1976年P.453f
ノ
dducational Review,39, 1969年 40) Torsten Husen;Social Influence 30) 市川昭午『教育行政の理論と構造』教育開発研究 on EducationalAttainment, CERI,
所 1975年 pp.71−72 1975年. P.25
31) Peter R. Cox.正LB. Miles,John 41) Henry M. Levin;Education, Life Peel (ed.);Equalities and chances, and The Courts, inNF ・
Inequalities in Education, Academic Ashline et al (et.) op. cit.
Press,1975年. p.3 42) 教師が学校に諭いてどの生徒に対しても等しい態 32) R.Boudon oP. cit. P.156 度をとることが教育機会の均等であると考える立場もあ 33) R. Boudon op. cit. p156 る。例えばKenneth Clarkなどはそうした立場を 34) これがいわゆるコールマン・レポートといわれる とっている。
ものである。James S. Coleman, et al; 43) Edmund W Gordon;Toward Equality of Educationa1 0PPrtunity・ Defining Equality of Educationa1 U.S. Department of Health,Education OPPortunity・PP・16−27 in LaMar P・
andWelfare, Office of Education・ Miller(ed.)Equality of Educational 1966年・またFrederik Mosteller・et al OPPortunity, AMS Press, 1974年
(ed.);On Equality of Educational 44) 代表的なものとしては, Arthur B.
OPPortunity, A Vintage Book・ 1972年 Shostak et al;Privilege in America:
も参照されたい An End to Inequality?Prentice一 35) この辺の結果については・James S・ Hall, Inc., Englewood Cliffs, 1973 Coleman;Equal schools or equa1 年がある
student? in P・ Sexton (ed・) 45) Robert L. Church, oP. cit. P.
Readings on the school in Society・ 453
Prentice−hall, 1968年を参照 46) こうした機能主義的階層理論を無視していたこと 36) 私の知る限りでは,コールマン自身は数理社会学 が,教育の機会均等を唱える人の弱点であった。この点 者として知られており・コールマン レポートのための については,HL.Wilensky:The Wblfare 調査を行なうまでは・教育機会の概念については・イン State and Equality, Univ of
プットにおける平等を考えていたのではないかと思われ California Press, 1975年.P.6を参照 る。しかしながら・調査結果を分析してインプツトにお 47) ジェンクスらに対する批判は,Perspective ける平等が達成されていないことが明らかになった後に・ on Inequality,且arvard Educational 教育のアウトプツトに吾ける平等を求めるようになって Review, Reprint Series No.8,1973 いったことは当然といえよう。また教育のアウトプツト 年におさめられている。
における平等もコールマン自身はそう長い期間考えては 48) C.Jeneks et al.oP, cit. P.53 いずに,結果の平等を求める方向に変っていった。 49) C.Jenks ditto.
37) Christopher Jencks et al; 50) C. Jenks oP. cit. P. 53
Inequality:AReassessment of the 51) 教育機会の平等が社会的平等をもたらすものでは Effect of Family and Schooling in ないことを別の視点から明らかにしたのはガンスである。
America・BasicBooks・1972年・P・138 ガンスは歴史的にみて教育機会の平等は社会的平等をも
38) 教育のアウトプツトにおける平等をとなえる入も たらさないことを明らかにしている。この点については,
こうした点についてあまり言及してはいない。