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緒 方:日本 近 代色 彩学 史ノート
日本 近 代 色 彩 学 史 ノー ト
一 明 治 以降戦前まで の色彩文献書誌一
緒 方 康 二
は じ め に
近年, 色彩関係文献の出版は目覚 しい ものが ある。 反面近代, 特に明 治 以 降 欧 米か ら移入さ れ た 色 彩の知 識 とその伝播につ いて, 書誌的にあとづ け ら れ た 例 をみない。
色彩の科学知識につ い て は, 日本は これ を全面的に欧 米の研 究 とその成 果に依存し て き た。
た だ, 色彩科学が欧米に おい て目覚 しい発 達 をみ せ は じめ た1920年代後半以降は,特に発 達の
著し かっ た 米・英 が 第 2次 世 界 大戦の連合国側にあっ たこと が影 響 して か, その頃の米 ・英に
おける色彩科学の成果が, 日本に お い て十分に吸収さ れ な かっ た き らい が ある。 例えば, 今日
日本の色 彩 標準と なっ て い るJIS標 準 色 票は, 1943年 に制 定さ れ た修正マ ン セ ル 表 色 系
(Munsen Renotation System)に準 拠 し, 修 正マ ン セ ル 表色系そ の もの は, 1905年ア メ リ カ 人アルバ ート・ マ ンセ ル (Albert且enry Munsell,1858〜 1918)に よっ て発 表され たマ ン セ ル 表色系 (M 皿 sell Notation System)に も とつ くこと は よ く知ら れて い る。ところ が 日本にお
い て マ ン セ ル表 色 系に対 し特に高い 関心 が払わ れ は じ めたの は1948 (昭和23)年頃か ら で あ り1 }, マ ン セル 表色系発表の年か ら, 実に半世紀近く経て か らの こと となる。
戦前に限っ てい えば, 欧米色彩 文 献の完 訳 本 出 版 も極め て ま れ であっ た2》。 こ の ように戦 前の
色彩文献は,欧 米に お ける色 彩の研究の断片的紹介が多く3), 日本に お い て色彩の研究の安 定 的 基 盤を きずくとい う意 味か らは, い さ さ か心も と ない状況にあっ た といわ ね ば なら ない 。 し か し今 日の日本の色彩学は, 大戦に よ る研究の遅 滞はあっ たにせ よ, 矢張り戦前よ り連 続 的にっ なが り発 展し て き た もの で ある以上,今 後の色 彩 学 発 展のため戦前の色彩研究の 現 況 を も, 一 度はみつ め直 す機会も ま た必要か と思わ れ る。
本稿に おい て は, 明 治 以 降 今 次 大 戦 終 了 (1945〈昭和20>年)まで の 間で, 管見の範囲で知 り得た色 彩 文 献 を, 年 月の順を追っ て紹介して み たい。 対 象は色彩関係単行 本の ほか, 美術 ・ デザ イン関係雑誌におけ る色 彩 関連 記 事 と し,
一部美術 ・デサイン関 係 あるい は教育関 連の単 行 本, 教 科 書に お け る色彩記事も とりあ げた。
も ち ろ ん, 上記 期 間 内の色 彩 文 献 全て を網羅し得た と は思え ない。ま た, 大正以 降 戦 前にか けて出 版され た数 多くのデ ザイン指 導 書に は殆ど色 彩の項が置か れ ているが, デ ザイン指導書
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に関し て も別の機会に大 戦 終 了 まで の文 献 書 誌 を著わすつ も りであ るの で, 今回は対象か ら除
いた。以 下に あげる文献の ほ か に も, 著者, 表 題は分か るが 出版 年 月, 出版社不 明の も の も幾 冊か あ る。 書誌 と し て は不 完 全の そ しりは まぬが れ得ない が, 明治か ら戦 前に か けて の色彩 研 究展望に対するい さ さか の指 針は得ら れ る もの と思 う。
明 治 期 以 前
西 欧に お け る近代色彩科学の基 礎は,い う まで も な くニ ュ ー トン (Sir Isaac Newton,
1642〜1727)に よっ て きずか れた。 近 代 日本に お け る色彩学, 特に科学と し て の色 彩 学 を 展 望 に入 れ た 色 彩 学の流 れ をた ど る場合, まずニ ュ ートンの業績がど のよ うに受 容さ れて き たかを
み る必要があろ う。日本にニ ュ ー トン の 業 績 をは じ めて紹 介し たのは
, 長崎の オ ランダ 通 詞 志 筑忠雄(1760< 宝 暦10>〜1806< 文 化 3> )で あっ た。 以後明治初年にい たるまで,主と して蘭 学者によっ て, い くつかの ニ ュ ートン力学 ・光学 ・天 文学の紹介がなさ れて い る。 た だニ ュ ー
トン学 説の紹 介 とは い え,その うちの色 彩に かか わ る光学は ほ んの一部に過 ぎない 。また時 期 的にもこれ らは明 治 以前に属し, 熊本高工氏の 「三 原 色 説の研 究」 (『女 子 美術大学紀要』 第4
号 1973 .3 女子美 術 大 学 )に も一部 紹 介があるので
, こ こ で は改め て と Dあ げ ない 。
明治 期の色 彩 文 献
さて明治期に入 り, その 初 期の初 等 教 育に 『色 図』 が導入 さ れ, 単純な形 式な が ら欧 米の色 彩科学の成果を と り 入 れ た色彩教 育が行 なわ れてい た こ と は,すで に別稿で 論じた。そ の際,
『色 図』 の解 説 書 を一覧表に掲げた の で,
『色 図』に関 する文 献は別稿を参照さ れ たい 。 ここで は明 治 期 として,
『色図』 以降の色 彩 文 献をとり あげるこ と と す る。
塩 田力蔵 『色の調 和』 明 治25 学齢館
塩田力蔵 (1864〈 元 治元〉〜1946< 昭 和21> )は陶 磁 研 究家。 緒言に 「本編の大意は仏人ヱ
ヴレーユ 氏の原著な る 「色の調 和 及 相 比の理 法, 附た り芸 術上 の応用論」」 とある よ うに, シェ
ブル ール (Michel Eug6n’e Chevreul,1786〜1889)の De la loi du contraste simulutanE des
couleuxs (Paris,1839)の抄訳である。 抄訳とい っ て も本文は全12ペ ージに過 ぎ ず
, シェ ブル ー
ル の理論の一端を紹 介 するに と ど まっ てい る が, 色彩用語す ら定着して い なか った時 代で ある か ら, 訳 語の一つ にも苦心のあと がうかが える。 例 えば今日の 「補色」 に は 「対 色」 の語 を 当 て, 「対 色の対の字は幾何学上の余角の余の字と同義な り」 (第2章 ) とい う解 説が加えら れ て
い る。
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緒方 :日本 近 代 色彩学 史ノート 笠原健一 『配色法一斑
』 明 治26
序に 「顧フニ 我 国未ダ配色法ノ著書ナシ。 余窃カニ 之 ヲ遺 憾 トス頃 者 仏 国 志 波 留 氏 配 色 法ヲ 訳 述セ ン ト欲シ」 とあ る よ うに, これ も また, シェ ブル ール の抄訳である。 た だ塩田の 『色の 調和』 に比べ 『配色法一
斑』 は58ペ ージの分 量があ り, 全 般 的にみ て丁 寧 な 紹 介である。特に
シェ ブル ール の有名な色の調 和に関する 6項 目が 「色の妙合」 として とりあ げ ら れているが,
シェ ブル ールの De la loi du contraste simulutane deε couleurs は, 英訳本で も400ペ ージを 越え て お り, その中の僅か 1ペ ージに相 当する色の調 和の 6項 目 を, 笠原が適確に抽出し紹介
し てい る点は評価に値し よう。
笠原 健一は,1886 (明 治19) 年に開設さ れ た京 都 染工講習所に勤務し てい た。 染工講習 所は 染織法の研究と, 輸入染料の使用法を学ばせ る機関で ある。 塩田 の陶 磁 器 と と もに笠原の染織 物は, ともに当 時の輸 出 産業の花形であっ た。 シ ェ ブル ール の色彩調和理論が, これ らの産 業 分野で ほ ぼ時を同じくし て紹介さ れ たの も,色 彩が陶 磁 器, 染 織 物にとっ て重 要 な構成要 素で あり, こ こに海外の知識を啓蒙し, より一層輸出の進 展に役 立て よ うとする積 極 的 な 姿勢の現 わ れ とみ る ことがで き る。
高木伊作 「ゲーテ
」 『拾 貳 文 豪』 第 5巻 明 治26 民 友 社
フ ワロペン ラ−レ 186ペ ージに
,
「彼がニ ュ ートンに抗背し て, 視学上の定見を 立 て ん と欲し た る,
『 色 学』
は遂に 公に せ ら れ た り」 とある。 日本に お け るゲーテ色 彩学紹介の嚆矢であろ う。 ゲーテ
(Johann Wblfgang von Goethe,1749〜 1832)につ い て は す で に, 1872 (明 治 5)年刊, 中村 敬 太郎く 正直〉訳 『自由の 理』 (原著は Samuel Smilesの Self HelP,1857)の中で 「グーテ
」
と して登 場してい る が,ゲーテの色 彩 学が さらに詳 し くとりあ げら れ るに は
, 1903 (明治36)
年を待た ね ばな ら ない 。
岡吉寿 『小 学 毛 筆 図 画 臨本』 教師用 明 治27 敬業社5)
『色図』 以後, ふ た たび普通教育の 中に登 場し た色彩の例。 こ の頃は 「教 科 書 用 図 書 検 定 条 例」 が公布さ れ (1886〈 明 治19> 年6 月 ),検 定 制 度が導 入さ れ てい た時期に当る。
『小学毛 筆 図 画 臨 本』 には,
「色の分 類」 を は じ め と す る色彩関連の記事がある。 内容の一部に,
「諸色は 明暗両極の 間に駢 列 する者に して白 黒は各一方の極 を 表し白の次に最も近く類似せ るものを 黄 と し暗に近 く陰影を帯びた る は青に し て」 と あ る よ うに, 遠く は ギ リシアの , 近 くはゲーテの 色彩 観に共 通し てい る。
山本五郎 「意 匠 説」 雑 誌 『日本 美 術 協 会報告』 第30号 明 治33年 6月 日本 美 術 協 会 明 治33年は西暦1900年, こ の頃の社会情勢をみ て み よう。
日清 戦 争 を 契 機として, 日本は急 速な発 展 と近代化の道を歩み は じ め る。 これに伴ない, 技
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術者の組織的養成が急務となっ た。そこ で特に 工 業 教 育 を重点と し て, 「実業教育国庫補 助 法」
(1894<明治27>年 ),
「実業学 校 令」 (1899< 明 治32> 年)が制定さ れ, 以 後 実業教育機関の積 極的 な 充 足が計 られて い っ た。 明治期のデ ザイン教育機関, あるいは 教 育 機 関 内での図案科設
置の多くが明治30年前後に集中 して い るの は そのた めである。 この ようなデ ザイ ン教育の振興
は,産業と美術の か かわ りの中で色 彩に関 す る関 心 を徐々 に高め る結果を生み6), まず産業育成
のた めの諸 団体の機 関 誌 や 美 術 啓蒙活 動の中に, 色彩に関す る発 言 が 生 ま れて くる。 山本五郎
の 「意 匠 説」 にその傾 向の端緒が み ら れる。
ウd 一ン万国博 覧会 (1873< 明 治 6> 年, 以 下 万博 と略称す る), フ ィラデル フ ィ ア万 博
(1876< 明 治9> 年)な ど の海外博へ の参 同に お ける日本 美 術工芸 品に対 する評価の中か ら,
竜 池 会 と称 する日本伝統美術工 芸 振 興 団体が生ま れ た こ とは よ く知ら れ てい る7)。1879 (明 治
12)年に設立され, のちに 日本美 術協会と改称 (1887<明治20>年)されるが, 『日本 美 術 協会 報告』 は会の機関誌で ある。 山本五郎は竜 池 会 設 立の発 起 人 と して名をつ ら ね てい る テ ク ノ ク
ラートで あっ た
。
山本五郎の 「意 匠 説」 は, タ イ トルを み た だ け で は色 彩 関 連の記 述を含むこ とが読み とれ な
い 。 実際は全16ペ ージの論 説 中 色 彩の記事が約10ペ ージ と, 色に関す る記 述の比 重が高い。た だそ の内 容 は, 3原 色と し ての赤 ・黄・ 青を もと にし たい ろ い ろな色の配合とその割合, およ び色の対比 と調 和 (妙 合 とある。 笠 原 健一 『配 色 法一斑
』 参照)につ いて述べ ら れ てお り, 論 旨は 『色 図』 解説書の種本であ る ウィ ル ソン ・マ ニ ュ アル8)を 骨 子としてい る ように見 受け ら れ
る。
澤九皐 「配色新論」 雑 誌 『意 匠 世 界』 第2輯 明 治33年12月 精美会
第 1輯よ りの連載と思わ れ るが, 連 載 完 了 時は不 明。 第2輯で は赤 ・黄 ・青3原 色を もと と し,簡潔 なが ら顔料や染料につ い て も触れ られてい る。た だ これ も1編1,400字 程度の短 文ゆ え,
『色 図』 をこ え る ほ ど の目新しい 知 見は ない 。
森 田 清 波 「色の調 和に就きて」 雑 誌 『図按』 第6号 明治35年 8月 国光 社
1900 (明 治33)年に開催され たパ リ万博へ の参 同が, 日本に お けるデザイン改 革 運 動 を積極 的に推 進 する契 機 と なっ た こと は, すで に別 稿で述べ た9)。 当時 陶 漆 器, 織物な どの日本製品の
輸出は好 況であっ た が, 反 面デ ザ イ ン を伝統的日本美術工芸に の み依 存 し, 意 匠の改 革 と技 術
革新を怠っ てい る と の海 外での批判が, パ リ万 博へ の 日本 出 品物の評価であっ た。 こ の反省と して い くつ かの デ ザイン改 良 推 進 団体が結成さ てい る が, そ の中の 1つ に大 日本 図 案 協 会 が あ
っ た。結 成はパ リ万 博の翌 年の 1901(明 治34)年, 構 成メ ンバ ーの中 心は東 京高等工業学校 (現 東 京工業 大 学 )工業図案科 (創設1897< 明 治30> 年 )の教官, 在校生, 卒業生 達で あっ た。 雑 誌 『図按』 は そ の機関誌で, 日本における デ ザ イン専 門雑誌の嚆 矢で ある。
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