恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
著者 遠藤 興一
雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji
Gakuin sociology and social welfare review
巻 132
ページ 1‑49
発行年 2010‑02
その他のタイトル On the Formation and Development of SAISEIKAI(2)
URL http://hdl.handle.net/10723/41
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
恩賜 財団 済生会の成立と展開過程について(下)
遠 藤 興 一
はじめに──近代天皇制のなかの救療 一 先行研究の検討 二 成立過程における問題点(以上 前号)
三 経営からみた事業展開 四 制度化による事業の変質 むすびに代えて──補注として
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
三 経営からみた事業展開 はじめは『牧野伸顕日記』に登場する、関東大震災後の皇室と施薬救療の関係に触れてみたい。宮内相として
「省前広庭ニテント帳中、 諸員執務中ナ リ
(1)」 と記したのは震災翌日で、 この後まもなく首相宛沙汰書 「下賜金の件」
実 施 を 省 内 で 協 議 し て い る。 九 月 一 一 日、 皇 族 の 出 席 を 仰 い で 訓 示 を 行 い、 「 各 殿 下 此 際 に 於 け る 御 態 度 如 何 は
皇室の御徳に影響するに付、細心の注意を要し、進んで救恤、各御殿、公用其他に提供等の事」を進言し た
(2)。加
えて「各妃殿下御主唱にて罹災民救助の為め衣服其他必要品、調度の件」を打診、これも進言し、罹災者救済の
ための下賜実施を準備した。ついで同月一八日、天皇から「御歳出も思ひ切った御節減を願ふ事に可相成旨申上
げたるに、自分も多分左様の事ならんと気附きた り
(3)」という返事を得た。罹災者救済に対し、皇室が積極的に関
わろうとした様子が分かる。宮内省官僚はこの間内奏、言上、勧奨等を通じて迅速に動き、天皇制慈恵の実態化
に 努 め、 翌 一 〇 月 に は 罹 災 死 亡 者 に 対 す る 弔 意、 慈 恵 病 院 の 修 復、 再 建 に 向 け た 下 賜 金 の 頒 賜 を 実 施 し た。 翌
一 三 年 三 月 二 七 日、 「 巡 回 救 護 班 終 了 に 付、 関 係 者 一 同 召 集、 御 下 賜 品 授 与、 皇 后 陛 下 は 極 め て 御 満 足 に 被 思 召
次 第 を 述 べ、 関 係 者 の 盡 力 を 謝 す 」。 こ こ に 登 場 す る 巡 回 救 護 班 と は、 ま ず 第 一 に 震 災 直 後 に 組 織 し た 済 生 会 の
訪 問 看 護 婦 に よ る も の、 次 い で 聖 路 加 国 際 病 院 が 活 動 を 開 始、 さ ら に 宮 内 省 侍 医 寮 関 係 者 が 加 わ り、 約 半 年 間、
罹災地域を中心に救療活動を展開した。次にこの間の済生会の動きを追ってみた い
(4)。済生会自身が受けた被害に
触れるなら、本院大破、汽罐室全滅、麹町分院も大破、市内六診療所のうち深川、本所、浅草、下谷の四診療所
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全焼、 残る小石川、 四谷診療所大破という被害があった。にもかかわらず、 済生会は直後から救療活動を開始し、
わ ず か 一 週 間 の う ち に 四 七 二 人 治 療、 一、 〇 〇 〇 人 以 上 の 避 難 者 収 容 を 行 い、 震 災 臨 時 費 と し て 五 〇 〇 万 円 支 出
を決定している。その際の様子は次の様に報じられた。
病院、分院に於ては収容診療と共に罹災者の外来診療に努め、小石川、四谷両診療所に於ては専ら外来診療に努む……小石川診療所職員は植物園其他に出勤して避難傷者三四二名を救療せり……臨時診療班を古川橋保育所に派し、……一九三名を診療した (5)。
こ の よ う な 活 動 に 対 し、 翌 一 三 年 四 月 二 日 開 催 の 臨 時 評 議 会 に お い て 閑 院 宮 は 令 旨 を 発 し、 「 機 宜 を 失 せ ず、
応急の施設をなし、施薬救療に遺憾なからしめ、日夜盡瘁、大に機能を発揮したるは洵に嘉すべし。諸氏更に一
層奮励して事業の遂行を開始し、以て本会の目的を達せむ」と大旨満足の意を示した。宮内省、済生会の診療事
業 に つ い て、 時 期 を 遡 っ て 振 り 返 っ て み よ う。 大 正 六
(一九一七)年 秋、 関 東 地 方 を 襲 っ た 暴 風 雨 に よ る 被 害 が
甚大であったことから、済生会は一〇月二日臨時救護班を組織、市内の四班、郡部の四班、計八班をもって罹災
者救療にあたった。特に被害の大きかった城東、 葛西村には臨時救護病院を設け、 患者の収容と治療にあたった。
この時の収容患者は市部が三、 三九五名、郡部が三、 四四〇人に上った。やがてこれを巡回診療班として再編、細
民地区を中心に地域医療活動を展開、やがて大阪市も同じ活動を行うようになった。皇室はここに事業奨励の意
味から下賜金を数千円単位で数回頒賜している。一方、宮内省侍医寮の場合、震災後半年間の実績が報告されて
い る。 こ れ に よ る と、 延 べ 二 二 万 四、 三 二 二 人 が 治 療 を 受 け、 施 設 運 営 は「 委 員 会 本 部 診 療 所 よ り 成 り、 宮 内 次
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官之を統率 す
(6)」と規め、診療の結果入院加療が必要な場合、処遇は済生会が受け持った。皇后は、毎年「歳末極
寒 の 期 」 に な る と、 投 薬 治 療 の か な わ な い 貧 民 を「 憐 ま せ 給 ひ 」、 臨 時 診 療 所 を 設 け、 こ の 後 昭 和 二 年 ま で 継 続
した。大正一四年歳末を例にとれば、本所区太平町診療所、深川区猿江裏診療所、日暮里町日暮里診療所、三河
島 町 三 河 島 診 療 所、 大 井 町 大 井 診 療 所 の 五 ヵ 所 を 開 設、 こ の 時 の 患 者 延 べ 数 は 五 万 九、 一 〇 一 人 で、 そ の 後 も 増
加傾向をたどった。期間中、皇后は皇后太夫以下宮内省職員を差遣、事業の督励にあたらせ た
(7)。 医療の社会化と称し、治療の機会均等を図ることを目指した動きが医療関係者のなかから起ったのは明治三〇
年代後半から後であるが、とりわけ経済的な負担に耐え得ない人びとにとって、医療費負担の軽減は最大の願望
で あ っ た。 つ ま り、 「 開 業 医 に よ っ て 行 な わ れ、 そ れ が 高 価 だ と い う こ と で、 貧 し い 多 く の 人 々 が 医 療 を 受 け ら
れないでいるという事実に立って医療をすべての人々に開放するということが、それによって生命の危機に際し
て は、 人 が す べ て 平 等 に な る と い う こ と
(8)」 で、 政 策 的 に も 必 要 な 状 況 が 生 ま れ た の で あ る。 当 初 は「 “ 機 能 ” の 社会化にとどまってい た
(9)」医療の社会化が、医療費の公費負担、あるいは保険医療化といった“構造”の問題に
人びとの関心が移るのに、さほど時間は必要でなかった。そうした時、最大の問題は医療費の軽減であり、柳田
國男は施療と医療の棲み分けを困難にしている最大の問題は、実費医療制度の普及が進まない点にあるとみてい
る。
実費診療所や巡回診療班が、活動し得る余地は十分にある。しかも医師会はさういふ実際の競争者でも無いものを、今では敵恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下) 視して其発達を喜ばなかった。簡易保険局が其利益の保護から、加入者の健康の相談に乗らうといふのまで、自分等の業務を害するものの如くに恐れ忌んだ )((
(。
施 療、 す な わ ち 無 料 患 者 と、 一 般 の 有 料 患 者 の 区 分 は、 何 を 基 準 に、 ど の よ う に 行 な う べ き か と い う 問 題 は
)(((
、
実費診療事業が介在することで、調整は より
、、複雑となり、大井蝶五郎によると制度化自身が自己矛盾を抱えると
し て、 「 施 療 病 院 入 院 患 者 に あ っ て は 無 料 が 多 い 事 に な る の で あ り ま せ う が、 施 療 と 有 料 者 と の 格 段 的 区 別 を つ
けない扱い方を講ぜられたいのであります。それには低費病院としてより多くの細民が心地よく入院治療を受け
得る様にし、全くの窮民は方面委員なり警察官の証明によって区役所なり役場なりが代って負担して出資してや
るのですから、事実これは施療でなくて救療者は施療してやるといふ考へであるといふことは、自己矛盾であら
うと思ひま す
)(((
」と指摘した。施療に関わる費用負担は施療券の出所として済生会、並びに役所があたり、事態は
緊 急 で あ り、 個 人 的 篤 志 に 基 づ く「 施 療 」 よ り も、 公 的 救 済 に 近 い 態 勢 を 考 え な け れ ば な ら ず、 「 施 療 」 範 疇 に
と ど め て お く と 自 己 撞 着 に 陥 る。 そ こ で 無 料、 実 費、 軽 費 と い っ た 受 診 分 類 が 行 な わ れ、 「 外 来 患 者 に し て、 普
通開業医の診療を受け、規程に依る診察料及薬価を支払ふの資力はなしとするも、実質的僅少なる薬価を支払ひ
得るものは相当之れあるべ し
)(((
」と捉え、下層庶民の診療需要はここが受け皿とならなければならな い
)(((
。このよう
な人びとが経済的負担を少しでも軽減したいという願いから、当初は実費、軽費診療、やがて施療、救療に頼る
ことは、いわば当然の成り行きといってよく、適正医療を適正価格で実施するという受益者負担の原則は貫徹し
難い。結果として次の様な常態化が定着した。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
現に入院希望者に、中には病気其のものは左程にあらざるに拘らず、入院すれば食料を給与さるると云ふ点より病気を重きが如く訴へ、入院を強請すると共に、医師が退院して可なりと診断するも尚ほ在院を希望するもの少なからず )((
(。
しかも時代が大正から昭和に代ると、 経済恐慌に罹災、 飢饉が加わった。下層庶民の診療需要は確実に高まり、
ために済生会診療所は全国各地に設置され、 需要に応えた。確かに、 「恩賜財団済生会大阪府病院の如きは、 益々
事業内容を拡張充実して、主として無料診療の為に活動し、多大の成果を齎しつつあ る
)(((
」評価事例もないわけで
は な い が、 大 抵 は 需 要 に 応 じ 切 れ ず、 診 療 水 準 の 低 下 を 齎 し た。 か く し て 各 地 の 実 情 は、 「 診 療 機 関 は 殆 ど 稀 で
ある。これは如何にしても解決されねばならぬ問 題
)(((
」を多く抱えた。そうなると、もはや施療、医療の棲み分け
による現状改革、さらに施療の機会拡大による事態の乗り切りはできない。それまで「開業医に迷惑を及ぼさぬ
程度の救療費を支払はねばなら ぬ
)(((
」ことに対策の重点を置いてきた対応が、やがて「根本的には救療事業と医療
事業の差異如何の問題に迄立入らなくてはならな い
)(((
」ことになった。
民間の動きに眼を転じてみよう。加藤時次郎、鈴木梅四郎は、下層庶民を対象とした救療事業を中産階層に拡
大、そのための診療機関を設立した時、内容に救貧とともに防貧対応を加え、その視点から実費を徴収する方針
を立てた。明治四四
(一九一一)年八月一四日付で内務省に提出した実費診療所設立願書の一部を引用するなら、
「今ヤ政府ハ恩賜金ノ御下附ヲ好機トシテ済生会設立ノ挙アルモ、其目的トスル所ノ主トシテ貧民ノ頭上ニ存シ、
自分等ノ憂慮スル如キ下層階級ノ良民ハ其恩恵ニ浴スル能ハザルヤ必セリ」とあり、済生会設立以後、施療体制
の整備が進んでいくなか、それでもなお対応できない人びとがいかに多数存在したかという問題が明らかとなっ
た。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下) 自分等今回時務ノ必要ニ基キ中等貧民救助ノ目的ヲ以テ実費診療所ヲ設立シ聊カ以テ慈善的公共事業ノ一助ニ供セント欲ス。所謂中等貧民トハ中等階級ノ下層ニ属スル薄資者ニシテ世ノ所謂貧民ニ非ズ
同年七月公表の 「実費診療所設立ノ趣旨」 をみると、 そこには 「二六時中辛勤苦働シテ尚ホ且衣食豊カナラズ、
病災排除ノ資ヲ欠キ窮厄ヲ極メ所謂妻臥病牀児泣飢的ノ境遇ニ陥ルニ於テハ智識アリ且技能アル此階級ハ豈ニ他
ノ富貴者ノ状態ト比較シテ茲ニ絶望的悲観ヲ抱キ心ナラズ」困窮下に置かれた人びとに対する対応の緊急必要性
が強調される。実費、軽費診療によって「疾病即貧困化」を余儀なくされた人びとに役立つため、九月一日、東
京 市 京 橋 区 木 挽 町 に 加 藤 病 院 を 開 設 し た。 鈴 木 梅 四 郎 に よ れ ば、 「 公 共 の 救 助 を 受 け る こ と を 潔 し と せ ざ る 大 多
数 無 産 階 級 を、 淪 落 の 危 き 断 崖 よ り 救 は ん と す る に は 単 な る 慈 善 事 業 で は い か ぬ 」 実 態 が 前 提 で あ る。 や が て、
医療の社会化が普及し、 組合病院、 診療連盟の設立する時代へとつながるのである。これが大正一一
(一九二二)年四月成立(昭和二年四月施行)の健康保険制度につながり、ここに二〇〇万人余の労働者が加入した。やがて
昭和期となり、貧民も加わり、全ての国民が加わる国民健康保険法の成立となった(昭和一三年四月公布) 。
医療の社会化の問題は益々流行的傾向を帯びはじめた。彼の全国大衆党と提携せる数名の医師が、無産者病院建設の準備機関として無産者診療協会を設立するための協議会を開催せる働きはその一つの現はれであると言はねばならぬ )((
(。
このような推移を前に施療、つまり無料診療体制を確立し、それを各地に拡げた済生会が、その原理、原則に
抵触する有料診療をなぜ全国的に導入するに至ったか、また、それはどのような経緯を経て実施されたのか。実
施後の活動にどのような特徴がみられたか、この問題を考えてみたい。まず、契機となった関東大震災が起るし
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
ばらく前、大正一一年に 一部
、、で試験的に有償診療方針を採用したものの、済生会の設立趣旨にそぐわないという
解 釈 で、 本 格 化 す る こ と は な か っ た。 し か し、 「 救 療 事 業 と 言 へ ば、 純 然 た る 施 療 に 限 る べ き も の で な い、 低 廉
なる治療、即ち実費診療も亦一種の救療事業であ る
)(((
」という解釈が除々に浸透、やがて定款の改正を経て、実費
診療の大幅な導入を可能とした裏には、時代の要請に応えざるを得ない事態に、 「適切にして且つ急要なる施設」
であると理解した方針の転換がある。済生会理事、桑田熊蔵はそれまでは救療原則を固守する立場にいたが、経
営 上 の 隘 路 か ら 有 料 化 を 容 認 す る 立 場 に 変 わ っ て い く が、 他 の 理 事 も 大 旨 同 じ 態 度 を と り、 「 本 来 は 半 官 半 民 の
組織として出発した済生会であったが、運営に当っては内務省と地方庁の官僚機構が実権をにぎり、財政も天皇
下 付 金 を 遙 か に 上 回 る 民 間 か ら の 吸 上 げ に 依 拠 し た の で、 し だ い に 官 僚 主 義 の 弊 害 が 大 き く な り
)(((
」、 た め に 毛 利
子 来 は こ の 問 題 が 財 政 危 機 を 招 い た と 説 明、 結 果 と し て「 無 償 主 義 を 放 棄 し て、 軽 費 診 療 に 移 行 」 し た と い う。
元もと、天皇制慈恵主義に基づく 救療
、、事業として始まったものが一般医療に近づき、やがて基本的性格を改変し
たのである。その最も大きな理由が「財政面より事業の制限をうけるにいたり、済生会は無力化する事態にたち
いたっ た
)(((
」ことで、川上武によれば次の様にまとめられる。
慈恵医療こそわが国の社会事業の柱だったといわざるをえない。救済事業と天皇制とがはっきりと結合されたのが済生会の成立の頃からである。しかも、済生会が前述のような形で破綻してくるところに、慈恵医療がしばしば装いを変えざるをえなかった必然性がある )((
(。
天 皇 制 慈 恵 は 財 政 的 破 綻 を 理 由 に、 以 後 も そ の「 装 い を 変 え る 」。 我 わ れ と し て は、 こ の 後 の 済 生 会 は 経 営 原
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則の慈恵的性格を土台として展開したのでなく、擬似慈恵性を以てその立て前とし、実質は公的救済の補充機関 に徹するようになったと考える。
一定基金の利子を以て運営される済生会は、当然の結果として大打撃を受けざるを得なかった。このように年々収入が減少してくる事態に対して、済生会は新財源の稔出方法をはかった。すなわち、政府に対して補助を申請するとともに、地方長官に対しては一般からの寄付金募集を依頼した。ところが、寄付金募集はその目的を達しえないばかりか、国庫補助の方も最少限五〇万円の申請にたいし、一九二九(昭和四)年に半額の二五万円だけが認められたにすぎなかった )((
(。
話題を実費治療事業に進めたい。こうした状況を打開するため、 済生会は大正一三
(一九二四)年六月、 実費、
軽費診療を導入、拡充し た
)(((
。一方民間も実費診療所を勃興、合わせて拡充しつつあり、両者の間に競合状態が生
じ、さらに済生会診療所がここに患者を吸引することで、道府県医師会との間に緊張関係を昂めた。宮内省、内
務省に太いパイプを持つ済生会と正面切って対立することは開業医側にとって難しく、結局、妥協的方策として
採用されたのが施療券方式である。経営問題として「施療券方式の医療は既存医療機関、具体的には開業医およ
びその団体たる医師会の利益の侵害を、最大限に避けるところに、中枢的意義をも つ
)(((
」という指摘のごとく、論
点が利害関係の調整に集約され、つまるところ「一定の範囲内で医療が給せられ、その救済がはかられるが、そ
れによって開業医制医療秩序はいささかも毀損されることがなく、かえって強化され る
)(((
」と喧伝した。社会、経
済 的 な 時 代 背 景 か ら い え ば、 施 療、 救 療 の ニ ー ズ は 増 大 こ そ す れ、 減 少 す る こ と は 考 え ら れ な い。 従 っ て、 「 済
生会に於ても多年の救療事業の経験に鑑み、救療機関の冗費を節約、救療普及に資せんがため、他面には要救療
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
階級の独立心を尊重する等の考慮より軽費診療を兼営するに至っ た
)(((
」のであり、従来の基本方針を見直すことに
した。その結果、次の様な方針転換を認める。
各人の独立心を擁護することにもなり、一面には無償受療者の診療券を増加させ得る所以でもあり、且つ又多少にても診療費を負担するといふことが、良心の呵責を受くることなくして、快く治療を受け得るといふ利益もあるので、此等の理由を以て、全然無料を第一種、少額負担を第二種として少額自弁治療の規程が設けられて、昭和六年七月から之を実施することになりました )((
(。
当初から、 実費と軽費の間に明確な区別をつけたわけではないが、 同じ時期に救護法が施行されることになり、
救療対象の一部は救護法(医療扶助)が担うことになり、実施機関の設置、予算措置の確定によって極貧層への
手当ては恤救規則に比べて、大きな前進を見ることになった。一方、救護法が施行されたことで新たな問題も生
まれた。つまり医療扶助の対象にならず、実費負担にも耐えられない細民層が急激に増加したことである。それ
は 都 市 ば か り で な く、 農 山 村 を 含 む 広 範 な 地 域 に 存 在 し、 こ の 点、 『 医 制 八 十 年 史 』 が ま と め た 記 述 で は 論 点 が
はっきりしないまま、事実経過が語られている。
済生会は救護法の制定により、従来行って来た救療事業の対象が多くは、救護法により吸収されることになったので、昭和六年以来新たな事実項目として、一部有料の軽費診療事業を開始し、その他地方公共団体、又は民間社会事業団体の行う救療事業とともに救護法の不備を補うところがあった )((
(。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
東京市内を中心に、直営病院は昭和七年度から実費診療の開始に踏み切り、その予算措置として、新たに政府 補助金を含む二五万円を追加し、軽費診療所の四〇ヵ所増設計画を実施した。同時に、薬価の少額自弁法も確定 し、実施してい る
)(((
。かくして、救護法の成立、施行から時局匡救医療救護事業の開始期にかけて、済生会は時代
の波に翻弄されながら、自ら基本的性格の改定、変質を行なった。それまでの「独自な役割」は、何といっても
天皇制慈恵主義を体現する救療団体であることを標榜し続けたこと。救護法とは別に、独自の「窮民」規定を行
い、救療の対象化に幅を持たせた。施療券の発行に対し、明確な法的基準を設けず、吏員、病院関係者の裁量に
委ねたことにより、担当者の個人的倫理観や世間体によってその採否が決定されるように変った。つまり、慈恵
の私的性格が、実施体制の末端において、市井の担当者による恣意性に委ねられることになったわけである。
さて、救護法が施行されたことで、済生会事業はどの様に変化しただろう。済生会は半宮半民ながら、基本は
民間団体であり、救護法はいうまでもなく公的扶助制度であるから、国家による救済政策の根本を形成する。と
こ ろ が 実 態 は そ う い う 区 別 と は な ら な い。 こ の 点 に 注 目 し た 松 島 正 儀 は 昭 和 一 一
(一九三六)年 五 月、 ま ず「 救
護法は恒久的な救護行政の一般的なものであり、現代社会事業の根幹をなすと同時に、社会行政中最も重要なる
位置を占むるも の
)(((
」であり、この観点に立って「疾病に罹り、傷痍を受けたる者にして、救護を要する者に対す
る診療、手術、処 遇
)(((
」を行なう以上、公平、平等は当然な筈であるが、それが遵守されていない。要救護層が増
大しても、救護費を一方的にカットする「逓減の 方
(ママ)則 におびやかされる」状況が常に在り、又実施に際し何かと
「 医 師 会 の 制 肘 を 受 け 」、 一 般 医 療 を 優 先 し て 救 療 を 後 回 し に し た り、 手 抜 き を 行 っ た り す る こ と が 常 習 化 す る。
つ ま り、 「 医 療 券 患 者 と し て 粗 診、 粗 薬、 粗 療 に 取 扱 は れ、 徒 ら に 治 療 日 数 を 長 引 か せ る
)(((
」 傾 向 が 明 ら か に 認 め
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
られるのである。予算削減は救療の制限主義を必然化し、診療機関(とりわけ一般開業医)における内容の低劣
化 を 招 い た。 昭 和 一 〇 年 度 上 半 期 を 例 に と る と、 救 護 法 に よ る 医 療 費 は 三 四 万 三、 八 九 一 円 で、 一 ヵ 月 平 均 で は
五万七、 三一五円である。これは救護経費全体の一一 ・ 九〇%でしかなく、一般社会の診療需要と比較すれば、い
かに制限主義的処遇が徹底したかが分かる。次に、昭和一〇年におけるもうひとつの医療問題、国民健康保険制
度に関わる動きをみておきたい。国民全てが保険に加入することによって、医療ニーズは充足し、公平、平等の
原則は保たれる筈であろう。ところが、法案の審議過程で要救護層を始めとする細民階層を、本制度の対象とす
る議論が続けられたことに社会事業関係者の強い批判が寄せられた。松島は、もしそうなら「救療対象を護るべ
きものとしては、甚だしく無力であり、救療政策の樹立、救療事業の統制、或は又国策医療の遂行に向っては到
底現状のままでは不可な り
)(((
」という。一方、済生会関係者の見解はどうか。救護法を拡充すること、済生会事業
を拡充することについて、様ざまな意見を分類すると、大きく二つに分けられる。ひとつは紀本参次郎に代表さ
れる公的扶助の整備、充実を第一とし、済生会はその補充的役割を担うべきだとする考えである。
苟くも救護法に該当するものは全部之を救護法に譲って其の以外の要救療者を一般公私救療機関に於て之を救療することを希望するのである。夫れは私の従事して居る恩賜財団済生会の救療に就て言ふなれば本会としては他に医療の途なき者を主として診療するのが原則となって居るからである。例へば行旅病人は行旅病人取扱法に依るが如き例である )((
(。
そ の う え、 紀 本 は 今 後 済 生 会 が 取 り 組 む べ き は、 こ れ ま で の「 救 貧 」 中 心 か ら、 「 防 貧 」 を 中 心 と す る 活 動 に
変えていかなければならない。公的扶助が整備されれば、順次済生会の救貧体制も、中心をそちらに移行し、対
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応 す る こ と が 必 要 で あ る。 そ の 具 体 的 な 取 り 組 み と し て は、 「 未 だ 貧 困 に 陥 ら ざ る 間 に 於 て 其 の 原 因 を 芟 除 し、
之を保護し、例令ば疾病の場合にしても本人の資力に堪へ得る程度の療養費に於て之を療養し、回復せしめ、所
謂防貧的の効果を得せしめ る
)(((
」ことが求められた。その場合、紀本は方面委員制度の活動と連携することが有益
であると主張している。もうひとつの動きを代表するのは済生会大阪府病院長、田結宗誠である。紀本の考えが
制度に対する補充説であるとするなら、こちらは代替説である。まず、田結が考える前提として、救護法による
医療扶助患者の相当数は、済生会病院で受療している事実がある。すなわち「本会大阪府病院に於ける全患者の
二割は国法(救護法)によって救療せらるべき有資格者であ る
)(((
」こと、これは他の済生会病院、診療所でも認め
られる傾向であるとした上で、 「本会は国家事業を代行するものである」 。また、 救療にかける費用の支出総額は、
救 護 法 が 平 均 年 額 九 〇 余 万 円 で あ る の に、 済 生 会 の そ れ は 平 均 年 一 〇 〇 余 万 円 で、 「 国 家 が 実 施 す る 救 療 は 一 財
団法人より少額であ る
)(((
」実態から見るなら、済生会は該法の実施主体として、制度にとって不可欠な位置を占め
ていると考えなくてはならない。つまり、済生会は実態として救護法体制を代替しているのである。
本法の救療はこれを全部済生会に一任するを最策の得たるものといふを憚らず、如何となれば第一、済生会は巳に二〇年間全国に亘りて救療事業を実施し、充分この方面の訓練を経たるものなること、第二、本会は全国各地に救療機関を有し、これなき地方に於ても所在医師会員に嘱託して救療の完きを期しつつあること、第三、今回本法所定の救療費を以てしては医師会員の奉仕を強要することとなるからである )((
(。
戦後、厚生省医務局は、救護法の実施過程について次の様な歴史的記述を残し、それまでの医療保護と比べれ
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
ば「 画 期 的 な 意 義 を も つ 」 も の で あ る と し、 実 施 に あ た っ て 様 ざ ま な 制 約 が あ っ た た め、 「 貧 困 に 対 処 す る に 不
充分なもの」となったという。
救護法は統一的救貧制度として、又医療保護の面においても、画期的な意義をもつものではあったが、ただ同法はその救護すべき生活困窮者を六五歳以上の老衰者、一三歳以下の幼者、妊産婦及不具廃疾、疾病、傷痍、その他精神又は身体の障害により労務を行うに故障ある者で、貧困のため生活不能な者に限定している点において、所謂範疇的救護の制度に属し、近代的な社会問題としての貧困に対処するに不充分なものをもっていた )((
(。
成立当初から、救護法の運用方法には一定した基準がなく、また実施主体となる救護委員も専門家、行政吏員
ではなく、ボランタリーな立場をとる方面委員に兼務させたことから分かるように、公的制度としての基本条件
を 維 持 す る こ と は 難 し い。 ま た 本 法 が 都 市 部 を 中 心 に 適 用 さ れ た 理 由 を 考 慮 す る な ら、 「 実 施 後 に 於 て 医 療 救 済
を受けた者の大部分は新に発生した患者であらう。そして医師の多い市部に於て多数なのは自然の事であ る
)(((
」と
いう、都市部における増加傾向と、郡部、農村部における減少傾向が、年とともに著しくなる背景として、医療
機関の絶対的不足、周知徹底の不充分さがあり、救護法といえば生活扶助(貧困救済)のこととして受け止める
認 識 が 一 般 化 し た。 そ の 結 果、 「 救 護 の 種 類 で は、 生 活 扶 助 が 圧 倒 的 に 多 く を 占 め、 医 療 の 比 率 は 著 し く 低 い
)(((
」
事実をもたらした。このような、救護法実施にともなう様ざまな問題を、済生会はどのように見ただろう。結論
からいえば救護法の施行状況に対する評価は概して厳しく、 批判的であった。民間団体として、 救療事業を広く、
かつ長期にわたって実践してきた立場から見えてくるのは、改善すべき点が少なくなかった事実である。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下) 疾患に苦しめられ、労働に堪へざる患者に至っては、之を如何にすべきや。救護法の規定に該当する者ならば、医薬給すべきの途あらん。救療団体の資豊裕ならば、其の救療を受け得べし。然るに救護法の規定に該当せず、又救療団体の資乏しく、其の救療に頼り難き者多き今日に於て、国家は之を顧みずして果して可なるか )((
(。
同じ様に、村松義朗も「救護法が実施され、匡救救療事業が開始され、更に恩賜財団済生会が詔許を仰ぎ奉っ
て基金の内から七〇万円を支出し、事業を継続しても、猶依然として『時代ノ推移ト財界ノ深刻ナル不況トハ要
救 護 者 ヲ 』 益 々 増 加 せ し め『 救 療 施 設 ノ 充 実 』 は 到 底 そ の 速 す ぎ る テ ン ポ に 追 付 き 得 な い
)(((
」、 困 窮 化 の 動 き と 診
療ニーズの拡大化に注目した。済生会事業に対する国庫補助は、必要に応じて不定期にしばしば行なわれ、大正
一 三
(一九二四)年 四 月、 つ ま り 関 東 大 震 災 の 翌 年、 内 務
省から一五〇万円の下付があり、翌一四年九月、再び六万
円の下付があり、昭和に入ると時局匡救医療救護事業の補
完的役割を果すべく、経年的に下付金があり、国庫補助の
絶えることはなかった。その年毎の補助金額を示したもの
が
表6である。そして、済生会が政府の全面的支援と政策
の一翼を担わされたことには政策上、合理的な因果関係が
あり、行政ニーズに極力応えようとする姿は次の様に描か
れる。
表6 恩賜財団済生会に対する国庫補助費
(円)
年 度 金 額
昭和4年度 250,000
5 180,000
6 153,000
7 122,400
8 150,400
9 142,400
10 250,000 11 250,000 12 300,000 13 300,000 14 300,000 15 500,000 16 950,000
※日本社会事業年鑑,昭和17年版,155頁。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
政府の抱負は本会の救療事業を以て、国家の為すべき救療事業であり、否、国家の為すべき救療事業を挙げて、本会をして国家に代りて、之を行はしむるにあって、国家事業として本会も活動せしむるにあったことは疑ひもない所である。なればこそ特に勅令まで発布して、本会の事業は内務大臣に委託して、国政と同じく国の官吏をして之を行はしめらるるに至ったのである )((
(。
国家の要請に全面的に応えることが済生会の使命であるという意見表明がなされ、委託事業を通じ、政策と太 い パ イ プ を 維 持、 存 続 さ せ、 そ の 上 で 民 間
、、団 体 と し て 独 自 性 を 発 揮 す る こ と が 意 図 さ れ た。 だ が 結 局、 昭 和 四
(一九二九)
年 に 二 五 万 円 の 国 庫 補 助 が あ っ た 辺 り か ら 以 後、 補 助 金 の 依 存 度 は 急 激 に 昂 ま っ た。 す な わ ち、 「 現
状の維持すら困難を感ずるの状況を来たした為、昭和四年以来、国庫の補助及び地方公共団体の助成を得まして
補足の途を講じつつありますが、尚ほ及ばざること遠き実情に在 る
)(((
」という受け止め方をした。さて、昭和八年
度の救療患者数を事業主体別に分けるなら、そこにはどの様な傾向が見られたか。ここに内務省衛生局による調
査 報 告 が あ る。 ま ず 一 般 救 療 に つ い て、 済 生 会 に よ る 救 療 実 人 員 は 三 一 万 二、 七 三 九 人、 延 べ 人 員 は
七四九万一、 二二五人となり、他の公共団体並びに民間団体による救療実人員は三七万一、 四五五人、延べ人員は
四 七 七 万 四、 一 五 五 人 と な る。 両 者 を 比 較 し た 場 合、 済 生 会 は 一 般 救 療 全 体 の 前 者 は 四 五 ・ 七 一 %、 後 者 は
六 一 ・ 二 三 % を 占 め て い る。 つ ま り、 一 時 的、 暫 定 的 で な い、 通 常 救 療 活 動 に つ い て 済 生 会 は 六 割 以 上 の 人 員 を
対象とした。次に、一時的、暫定的な例として時局匡救医療救護事業をとり上げると、済生会による救療実人員
は 三 六 万 五、 二 七 一 人、 延 べ 人 員 は 三 九 九 万 四、 四 七 五 人 と な り、 道 府 県 直 営 に よ る 救 療 団 体 の 救 療 実 人 員 は
五 二 万 三、 四 六 八 人、 延 べ 人 員 は 六 二 九 万 九、 六 二 二 人 と な り、 両 者 を 比 較 し た 場 合、 済 生 会 は 前 者 は 四 一・
一 〇 %、 後 者 は 三 八 ・ 八 〇 % を 占 め た。 こ ち ら は 一 般 救 療 よ り 占 め る 割 合 は 低 い が、 そ れ で も 述 べ 人 員 に し て 全
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
体の四割近くをカバーしており、時局匡救医療救護事業という重要な 政 策 課 題 に と っ て 無 く て は な ら な い 団 体 と し て、 「 断 然 一 頭 地 を 抜 い
て 社 会 事 業 的 な 事 業 方 針 を 把 持 し て い る
)(((
」。 地 方 に 眼 を 転 じ る と、 昭
和 八
(一九三三)年 度、 京 都 府 の 統 計 数 値 は
)(((
、 救 護 法 に よ る 一 般 救 療
は 実 人 員 一、 四 三 九 人( 四 ・ 九 %) 、 済 生 会 に よ る 救 療 は 実 人 員 八、
〇 四 六 人( 二 七 ・ 三 %) 、 時 局 匡 救 医 療 救 護 事 業 に よ る 救 療 は 実 人 員
一 万 二、 一 九 九 人( 四 一 ・ 三 %) 、 そ の 他 の 公 私 医 療 救 護 事 業 に よ る も
のは七、 八四〇人(二六 ・ 五%)となり、結局済生会による救療は全体
の二七 ・ 三%を占めた。次に昭和五
(一九三〇)年から一〇年間に救護
法、時局匡救医療救護、済生会による、それぞれ医療救護の動向を眺
め て み よ う。 ま ず 救 護 法 に よ る 経 費 は、 昭 和 七 年 の 一 七 万 一、 七 五 七
円 か ら 同 一 〇 年 の 三 四 万 三、 八 九 一 円 へ 年 々 増 加 傾 向 に あ り、 取 り 扱
い実人員も一万三、 六八五人から一万九、 九四五人に増加していく。時
局 匡 救 医 療 救 護 に よ る 経 費 は 昭 和 七 年 の 一 三 六 万 四、 四 二 八 円 か ら 同
一 〇 年 の 二 〇 五 万 六、 八 七 七 円 と 著 増 傾 向 が 認 め ら れ、 取 り 扱 い 実 人
員 も 五 四 万 五、 九 五 〇 人 か ら 七 〇 万 五、 〇 二 四 人 と 同 じ く 著 増 し て い
る。 そ れ に 比 べ る と、 済 生 会 は 昭 和 五 年 の 八 四 万 九、 八 三 一 円 か ら 同
表7 昭和8年度・京都府下において救療を受けた者
(人)
区 別 第1種
カード階級 第2種
カード階級 第3種
カード階級 合 計 (%)
救護法による
医療救護 1,379 60 1,439(4.9)
済生会による
医療救護 4,924 2,990 132 8,046(27.3)
時局匡救医療救護 964 1,287 9,948 12,199(41.3)
その他公私
医療救護 2,883 3,954 1,003 7,840(26.5)
合 計 10,150 8,291 11,083 29,524(100)
※『社会時報』,京都府社会事業協会,1935年8月,15頁。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
九 年 の 一 一 〇 万 八、 五 〇 七 円 へ 増
加したが、なかには減少する年度
もあり、取り扱い実人員は一七万
六、 〇 一 一 人 か ら 二 八 万 一 六 七 人
へ増加したが、その増加には同じ
変動が認められる。一人当りの年
額、日額は
表8、
9、
10
を見て分
かるように、救護法、済生会、時
局匡救医療救護の順で下がってい
る。このように昭和戦前期は経済
恐 慌、 農 業 恐 慌 を は じ め と し て、
自然災害を含め要救護層が増加し
続けた時代である。ところが
表11
か ら 分 か る よ う に 済 生 会 事 業 は、
全体として減額傾向にある。時局
匡救医療救護は三ヵ年間の計画で
実施、その間の済生会の関わりは
表8 時局匡救医療による救護費
年 度 救療費
(円) 取扱実人員
(人) 1人当り年額
(銭) 取扱延人員
(人) 1人1日当り
(銭) 1人当り
治療日数(日)
昭和7年度 1,364,428 545,950 250 5,674,641 24 10 8 2,494,441 888,839 281 10,294,097 24 12 9 2,934,431 974,022 301 11,551,622 25 12 10 2,056,877 705,024 292 8,789,325 23 13
表9 救護法による医療救護費
年 度 救療費
(円) 取扱実人員
(人) 1人当り年額
(銭) 取扱延人員
(人) 1人1日当り
(銭) 1人当り
治療日数(日)
昭和7年度 171,757 13,685 12.55 658,348 26 48 8 309,987 33,089 9.37 1,204,972 26 36 9 391,129 20,206 19.36 1,419,710 28 70 10 343,891 19,945 17.24 1,236,917 28 62
表10 済生会による医療救護費
年 度 救療費
(円) 取扱実人員
(人) 1人当り年額
(銭) 取扱延人員
(人) 1人1日当り
(銭) 1人当り
治療日数(日)
昭和5年度 849,831 176,011 483 4,848,827 18 27 6 1,077,825 273,746 394 7,865,881 14 28 7 1,108,339 279,770 396 8,465,246 13 31 8 875,000 234,491 373 7,233,119 12 31 9 1,108,507 280,167 395 8,869,326 12 33
※『社会事業』,第20巻4号,昭和11年7月,32~33頁。
※「救護法による医療救護費」はいずれも上半期分の統計。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
深かったにもかかわらず、済生会に財政上のテコ入れをした様子 は特に認められない。この辺りに政策主体にとって済生会がどの ような役割と位置を占めたかが分かり、一方で民間団体として極 力自助努力を求め、他方政策協力が終了すれば、実にクールな切 り捨てととれる対処が見られる。その隘路を思想的、財政的に支 え、 あるいは督励したのが皇室であり、 天皇制慈恵主義であった。
註
(1) 伊藤隆他編『牧野伸顕日記』、中央公論社、一九九〇年、八七頁。(2) 伊藤隆他編、前掲書、八八頁。(3) 同書、九〇頁。(4) 吉田久一によれば「済生会は一三年一月、関東大震災の罹災民救護のため臨時巡回看護婦班を組織したが、七月以降、恒常的に東京市内の深川、本所、浅草、下谷の四診療所に付属させ、細民地区を巡回させ、病人の発見やアフター・ケアー、あるいは出産の援助を行った」(『改訂増補版 現代社会事業史研究』、川島書店、一九九〇年八月、八七頁)。(5)
『社会事業』
、第七巻六号、大正一三年二月、一二頁。
表11 済生会による時局匡救医療救護費
(円)
年 度 下 賜 金 国 費 道府県費 合 計
昭和7(1932) 214,595 237,648 372,312 824,555 8(1933) 514,148 496,500 317,235 1,327,883 9(1934) 532,448 670,856 428,367 1,631,671 10(1935) 902,657 256,877 1,159,534
11(1936) 563,430 372,172 935,602
12(1937) 1,100,000 387,529 1,487,529
13(1938) 600,000 396,064 996,064
14(1939) 600,000 243,783 843,783
15(1940) 570,000 120,121 690,121
16(1941) 300,000 55,471 355,471
合 計 1,261,191 6,041,091 2,949,931 10,252,213
※内務省衛生局『時局匡救医療保護事業実施概況』,各年度版より作成。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
(6)
『済生』
、第三巻四号、大正一五年四月、二八頁。(7) しかし昭和二(一九二七)年になると、財政上、人事上その継続に無理が生じ、宮内省はこの臨時診療事業を他の団体に委せて撤退、以後は下賜金による奨励を中心に、事業の存続を図ろうとした。(8) 篭山京編『社会保障の近代化』、勁草書房、一九六七年、二一一頁。(9) 川上武『日本の開業医』、勁草書房、昭和五三年、二八四頁。(
( 10) 柳田國男「明治大正史世相篇」(『定本柳田國男集』、第二四巻、筑摩書房、一九六三年、三七三頁)。
( 経テ有償診療ヲ行フコトヲ得」とある。 11財団) 済生会寄附行為の第三三条には、「本会事業ノ施行ニ伴ヒ必要ト認ムル場合ニ於テハ評議員会ノ議決ヲ経、総裁ノ承認ヲ恩賜
( 12) 大井蝶五郎「『慈善』から『保護』へ」、『済生』、第二巻五号、大正一四年五月、一五頁。
( 13) 紀本参次郎「救療機関制度革新の一転機」、『社会事業』、第一〇巻九号、大正一五年一二月、五一頁。
( 研究』、第二二巻三号、昭和九年三月、一一〇頁)。 めざる工夫は救療事業に於ける重要なる機能の一つと見做し得られる(飯田宗一郎「救療事業に於ける諸問題」、『社会事業 ……就床する程でもなく、又勤務を休止する程の要もなくも、医療を要する多数細民に対して兎に角彼等を重症患者たらし 14) 「そんな事を言ひますけれど先生、やすんでゐる様なわけには行きません」等と云ふ言葉を彼等の口から往々聞く事がある。
( 15) 紀本参次郎、前掲書、五一〜五二頁。
( 16) 植田正雄「医療社会化問題の既往と将来」、『社会事業研究』、第二〇巻一号、昭和七年一月、五六頁。
( 17) 植田正雄、前掲書、五六頁。
( 18) 紀本参次郎「現代医療制度の根本問題」、『社会事業研究』、第二三巻三号、昭和一〇年三月、三四頁。
( 19) 紀本参次郎、前掲書、三四頁。
という。結果としてはそのとおりだが、政策意図にはじめからそうであったのかといえば、必ずしもそうとはいえない。 なく、一種の安上り医療としての側面をもたざるを得なかった」(『日本社会福祉史』、法律文化社、一九八六年、五八八頁) 20) 植田正雄、前掲書、五五頁。池田敬正はこの一連の動きを指して、鈴木、加藤の実践を「済生会と同じ立場に立つだけで
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下) (
( 21) 桑田能蔵「救療事業の将来」、『済生』、第一巻四号、大正一三年九月、一三頁。
( 22) 毛利子来『現代日本小児保健史』、ドメス出版、一九七二年、八〇頁。
( 23) 川上武『現代日本医療史』、勁草書房、一九六五年、二七八頁。
( 24) 川上武、前掲書、二七九頁。
( 25) 同書、二七七頁。
( 減さないやう、詰り安い実費的の診療事業を殖やす」(『済生』、第一巻三号、大正一三年八月、四二頁)。 事業として経営すると云ふことは、済生会の仕事として適当なことではないか……有料を認めるが、併し従来の無料患者を 全部の施薬事業に附帯して、事業を減らさずに、中産以下の人に医療を受ける機会を与へると云ふ事業を併せて営む、附帯 ば払ひ得るけれども、普通の料金は払へずと云ふ者に治療を受くる機会を与へることが出来ると云ふことでありますれば、 致しまして、有償患者を取扱ふことになりました……施療患者は従来通り取りまして、其上に中産以下で、或程度の金なら 26) 衆議院予算委員会分科会における政府委員の説明がこの点に触れている。「(山田政府委員)済生会は今度寄附行為を改正
( 五四頁。 27) 北原龍二「鈴木梅四郎と実費診療所─日本社会医療史研究Ⅱ」、『信州大学教育学部紀要』、第三二号、昭和五〇年三月、
( 28) 北原龍二、前掲書、五四頁。
( 29) 『日本社会事業年鑑』昭和八年版、中央社会事業協会社会事業研究所、二二一頁。
( 30財団) 『済生会志』、済生会、昭和一二年四月、七四頁。恩賜
( 31) 『医制八十年史』、厚生省医務局、昭和三〇年三月、三二七頁。
房会計課長通牒ニ依リ取扱相成度」。 実施ニ当リテハ薬価等少額自弁患者ノ範囲及自弁額ヲ定メ当省ノ承認ヲ受ケラレ度尚薬価等ノ収入金ニ関シテハ内務大臣官 ノ少額ヲ自弁セシムルコトニ関シ昭和八年度ヨリ実施方委嘱相受ケ候ニ付テハ各地方ノ事情ヲ参酌シ之カ実施相成様致度右 は、「今般恩賜財団済生会ヨリ其ノ貴道府県病院又ハ同診療所ニ於ケル診療患者中全然無料ヲ必要トセサル患者ニ対シ薬価等 32) すなわち「恩賜財団済生会診療患者ノ薬価少額自弁ニ関スル件依命通牒」(内務省発衛第八四号、昭和八年六月三〇日)に
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
(
( 33) 松島正儀「救護法中の医療救護の現状並医療政策」、『社会事業』、第二〇巻二号、昭和一一年五月、七〇頁。
( 34) 松島正儀、前掲書、七二頁。
( 35) 同書、七二頁。
( 36) 同書、七八頁。
( 37) 紀本参次郎「救護法と救療事業」、『社会事業研究』、第一九巻一〇号、昭和六年一〇月、九頁。
( 38) 紀本参次郎、前掲書、九頁。
( 39) 田結宗誠「救護法と救療事業」、『社会事業研究』、第二〇巻一号、昭和七年一月、五二頁。
( 40) 田結宗誠、前掲書、五二頁。
( 41) 同書、五三頁。
( 42) 『医制八十年史』、厚生省医務局、昭和三〇年三月、三二六頁。
( 43) 山内隆一「何故医療救護は市部に激増し、郡部に激減せしや」、『社会事業』、第一六巻五号、昭和七年八月、一八頁。
( 44) 寺脇隆夫『救護法の成立と施行状況の研究』、ドメス出版、二〇〇七年一二月、五八一頁。
( 45財団) 『済生会志』、済生会、昭和一二年四月、一二五頁。恩賜
( 46) 村松義朗「現代医療事業考─主として救療事業を中心に」、『社会事業研究』、第二一巻八号、昭和八年八月、八四頁。
( 47財団) 『済生会志』、済生会、昭和一二年四月、一二四頁。恩賜
( 48) 済生会、前掲書、一二八頁。
( 49) 『社会事業』、第二〇巻二号、昭和一一年五月、九一頁。
50) 『社会時報』、京都府社会事業協会、昭和一〇年八月、一五頁。
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
四 制度化による救療事業の変質 内 務 省 衛 生 局 課 長、 高 野 六 郎 は 補 助 金 支 出 ル ー ト に つ い て、 「 済 生 会 の 事 業 は 畢 竟 道 府 県 で や っ て い る の で あ
るから、国から出る金が済生会を通して地方へ行っても、国庫から直接地方へ行っても、実質に於ては殆ど差別
がな い
(1)」わけで、そこに救療財源を「済生会に任せて見た所で国庫から出る金の高には相違を来さない、又済生 会の資金を大に増加活用しやうとすることにも中々の困難を感ず る
(2)」隘路があるという。実施団体はいずれであ れ、国家予算を財源とすること、済生会が正規の国公立施設でないという理由で、救療 制度
、、の 担
トレーガーい手 の位置、役
割からはずすことはできない。一方、慢性的財源不足に悩む済生会にとって、公的助成の増額はなによりも歓迎
すべき事態であった。高野の発言にはもうひとつ、頃日、時局匡救医療救護事業が終了する昭和九年にあたって
おり、ここに事業の継続をからめたことも注意しなければならない。そして、済生会を登場させる意図を次の様
にまとめた。
救療費に対しては、地方費又は国費から適当に補給するといふやうな組織を案出するのもよかろうが、差当りの急場凌ぎとしては、従来の恩賜救療の拡大の形式に於て、罹災民中の必要な範囲に対し、相当の救療費を増額給与する他はあるまいと思う (3)。
時局匡救医療救護は、事業主体として済生会にねらいをつけ、ここに公的助成金を振り当てたことは、内務省
の 基 本 方 針 で あ り、 以 後 済 生 会 は 一 段 と 国 策 に 協 力 す る 姿 勢 を 示 さ ざ る を 得 な か っ た。 当 初、 恩 賜 金、 寄 付 金、
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
自主財源の範囲で行ない得る事業規模であったものが、昭和期に入ると急速に事業規模を拡大、同時にそれは慢
性的な財源不足を招来した。 にもかかわらず救療に大幅な制限を加えたり、 事業の規模縮小を図ることは難しい。
天 皇 制 慈 恵 主 義 を 標 榜 す る 性 格 上、 極 端 な 制 限 主 義 は 採 り 難 か っ た。 従 っ て、 生 江 孝 之 が 次 の 様 な 財 政 分 析 を
行った際、結論として事業規模を縮小する提案はできなかったと思われる。
現下に於ける済生会の難関は実に経済問題に在る。本会の基金は御下賜金一五〇万円に寄附募集額一、九六五万円を加へて二、一一五万円に達したが、或は関東大震災に於ける臨時救療費、更に昭和七年時局臨時医療救護費等を何れも基金より支出したので、昭和一〇年度の基金の現在額は激減して一、四六〇万円となり、之に対する基金利子は僅かに六八万五、〇〇〇円を得るに過ぎぬ (4)。
やがて救済対象が農山村部に広く存在することが明らかになると、済生会はそれまでの都市中心活動を、農村
部に拡大、規模も拡大せざるを得ないことになる。あらかじめ済生会が採用した「要救療者標準一覧」によって
みると、東京府、大阪府が「疾病傷痍に罹り、又は妊娠したる者自ら治療、若くは助産を受くるの姿なく、其他
に療養の途なき者」と規定した場合と、青森県、宮城県、高知県が規定した「疾療を受くる資力なく、他に公私
救療の途なき 者
(5)」の場合、生活程度や受療理由を比較した場合、農村部におけるニーズの多様化、診療体制の不
備、絶対的不足には歴然たるものがあった。しかし、施設、設備の不足よりも、手続きを含む診療体制の在り方
に より
、、根本的な問題があり、西田太一郎は「実際に於ては救療に浴する道を知らないものも相当にあり、救療券
の 不 足 に よ り て 廃 療 す る も の も あ り
(6)」、 そ の 原 因 を 問 う な ら「 範 を 済 生 会 診 療 に 取 り て、 是 と 開 業 医 に 求 め た 結
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
果が現在の農村と云はず、市町村の救療であ る
(7)」と指摘した。開業医制度と協調することで成り立つ診療体制を
農 村 部 に そ の ま ま 拡 大 す る こ と に は 当 然 無 理 が あ り、 事 業 自 体 が 展 開 で き な い こ と も あ る。 そ こ で 昭 和 七
(一九三二)年
九月、済生会は各道府県宛臨時支出費七〇万円を計上、農山村救済事業の資とした。が、この程度
の対処ではとうてい効果ある対策とはなり得な い
(8)。結果、済生会は恒常的財源不足の状態にありながら、こうし
た対応に腐心しなければならない状態へと追い込まれた。そこで翌八年七月、済生会は政府宛「将来の経営方法
並に欠療充実に関する請願」を行い、疲弊する農山村の「求需に応じ能はざる」現状を訴え、金利低下による収
入減は経営上深刻な問題となり、ことは「国家政策上亦緊要の案件」であると主張した。
本会事業の伸縮は済生会自体の問題に属し、政府の医療救護とは表面別個の問題なるが如きも実は決して然らず、(中略)政府に於て医療救護の方針に議せらるるに当りては、済生会創立の動機、趣旨、並其の使命に鑑みられ国家救療の特殊機関として名実共に全きを得しむる様、特に御配慮あらんことを切望す (9)。
世 間 の 眼 か ら み れ ば、 済 生 会 に は 無 料 診 療 機 関 と し て 病 院、 診 療 所、 巡 回 診 療 班、 巡 回 看 護 婦 等 が あ り、 「 其 の最も規模大なるも の
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」と見られたが、ひとたび内側から眺めると、このような状況下にあったわけである。さ
て、時局匡救医療救護が政策案件として登場した時、そこにすばやい反応を示した民間団体がある。全国方面委
員 連 盟 で あ る。 反 応 の う ち「 最 も 大 き な 意 志 表 示
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」 は、 昭 和 八
(一九三三)年 一 〇 月 開 催 の 第 四 回 全 国 方 面 委 員
大会、翌九年一〇月開催の第五回全国方面委員大会における「建議」である。時局匡救事業は三年間という期間
限定策であったから、政府はその後の予算措置は考慮しなかった。しかし、匡救事業のうち特に救療は終了する
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下)
わけにいかない。むしろニーズは確実に昂まっている。事業継続の声、陳情、要望も相継いだ。にもかかわらず
政府は重い腰を上げようとしなかった。そこで方面委員は組織を挙げて立ち上がった。
今后民間救療団体の医療救護事業は従来よりも減縮せらる恐れありとするも、時代の要求に応じ伸展すること能はざる実情に有り、又仮令若干今后景気回復するとするも前述(省略)の事由に依り救護事業は断じて縮少をゆるさざるものと確信す。
済生会をはじめ公私医療機関は、事業資金があることで可能となったわけであり、事業の継続にはなくてはな
らないものである。従って「来年度以后の計画未だ樹立を見ざるは都市農漁山村を通じて一般民衆の不安之れよ
り大なるはなし」と捉え、時局匡救事業は要救護層対策というレベルを超え、今や国民全体のニーズへ拡大しつ
つあった。
次に、昭和八年一〇月一〇日付「建議」を引用しておく。
医療救護対策ニ関スル建議 現下我邦ハ時局尚ホ重大ヲ極メ非常時匡救ノ対策トシテ施設ヲ要スルモノ甚タ多シ就中医療救護ハ国民ノ活力ニ影響スルコト頗ル大ニシテ延テ人心ノ安定ニ及ホス効果少ナカラス救貧ト防貧トヲ兼ネ併セテ失業救済ト共ニ最モ其ノ必要ヲ痛感セスンハアラス
畏クモ皇室ニ於カセラレテハ特ニ医療ノ資トシテ多額ノ御内帑金ヲ下賜アラセ給ヒ政府亦必要ノ経費ヲ支出シテ救療ノ普及ニ努メラレタルハ国民ノ斉シク感激措ク能ハサル所殊ニ多額ノ御下賜金ニ依テ其ノ活力ノ培養ニ資セラルル處多大ニシテ今次ノ自
恩賜財団済生会の成立と展開過程について(下) 力更生ヲ精神的ニ物資的ニ促進セシメタルハ我等方面委員一同ノ熟知スル所ナリ 然ルニ医療救護ハ臨時時局匡救事業トセラレ来年度以後ノ計画未タ樹立ヲ見サルハ都市農漁山村ヲ通シテ一般民衆ノ不安之レヨリ大ナルハナシ冀クハ政府ニ於テハ之カ継続施設ニ深ク意ヲ致サレ適当ノ対策ヲ確立シ以テ医療救護ノ普及徹底ニ努メ現下ノ時局ニ善處セラルルコト最モ緊要ナリト認ム 右第四回全国方面委員大会ノ決議ヲ以テ及建議候也
昭和八年十月十日 第四回全国方面委員大会
昭 和 一 〇
(一九三五)年 三 月 末 日 現 在、 内 務 省 衛 生 局 調 査 に よ れ ば 受 療 者 実 人 員 は、 時 局 匡 救 医 療 救 護 の 場 合
九 七 万 四、 〇 〇 〇 人、 救 護 法 に よ る 医 療 扶 助 の 場 合 四 万 人、 済 生 会 に よ る 救 護 の 場 合 三 〇 万 人、 そ の 他 公 私 救 療
機 関 に よ る 場 合 六 六 万 人 と な り、 合 計 で 一 九 七 万 四、 〇 〇 〇 人 と な る。 こ の 時 の 済 生 会 を と り 巻 く 問 題 状 況 は 次
の様である。
今日我が国の医療問題は複雑を極めてゐる。単なる救療事業のみならず、そこには医療組合の問題があり、実費診療、軽費診療、簡易保険による各種の診療問題がある。又健康保険問題があり、更に国民健康保険の問題がある )((
(。
加 え て、 時 代 は 早 晩 戦 時 体 制 と な り、 「 非 常 時 局 に 於 い て 要 求 さ れ る 社 会 事 業 国 策 の 基 礎 的 な、 最 重 要 な 救 療 事業政 策
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」が需められるようになった。昭和一〇年代の済生会はここにどうコミットしたであろうか。まず「全
国枢要の地に病院、診療所、その他診療班、巡回看護婦班等、合計二二九に達す る
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