レトリックとしての江戸
著者 ジョーンズ スミエ
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名 : 日文研フォーラム, 開催地 : 国際交流基 金 京都支部, 会期 : 1990年1月9日, 主催者 : 国 際日本文化研究センター
ページ 1‑63
発行年 1992‑09‑25 その他の言語のタイ
トル
The rhetoric of Edoism シリーズ 日文研フォーラム ; 19
URL http://doi.org/10.15055/00005751
第19回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
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レ トリツクとしての江戸
TheRhetoricofEdoism
■
ス ミ エ ・ジ ョ ー ン ズ
SumieJones
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海外
の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあります︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立っている
わけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議論や
情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒このフォー
ラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究者が自由な
テーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマルな﹁広場﹂を
提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォーラ
ムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長梅原猛
● テ ー マ ●
レトリックとしての江戸
TheRhetoricofEdoism
● 発 表 者 ●
ス ミ エ ・ ジ ョ ー ン ズ SumieJones
発表者紹介
ス ミエ ・ ジ ョ ー ン ズ SumieJones
イ ンデ ィ ア ナ 大 学 準 教 授
1937年 甲府 市 の生 まれ 。 東 京 女 子 大 学 で 英 語 学 、 早 稲 田大 学 で 英 文 学 を 学 び 、 フ ル ブ ラ イ ト留 学 生 と して 渡 米 し、 ワ シ ン ト ン大 学 で 比 較 文 学 を 専 攻 。1973年 に修 士 号 、1979年 に博 士 号 を 得 る。1979年 イ ン デ ィ ア ナ 大 学 の 比 較 文 学 科 及 び 東 ア ジ ア言 語 文 化 科 の 助 教 授 に 就 任 し、1986年 よ り準 教 授 。1982‑83年 、 ハ ー ヴ ァ ー ド大 学 日本 研 究所 及 び バ ンテ ィ ン グ研 究 所 の 客 員 研 究 員 。1989年5月 か ら1990年12月 迄 、 国 際交 流 基金 及 び 米 国 学術 審 議 会 ・社 会 科 学 研 究 審 議 会 共 同 委 員 会 の フ ェ ロー と して来 日、東 京 大 学 の客 員 研 究 員 と して 江 戸 文 化 の 雅 俗 に 就 い て 研 究 。専 門 は18世 紀 比 較 文 学 。
主 な著 作:
"Langu
ageinCrisis:Ogy orai'sPhilologicalThoughtand HiragaGennai'sCreativePractice,"EarlMiner,ed.,Principlesof ClassicalJapaneseLiterature,PrincetonUniversityPress,1985.
日 本 語 版 「危 機 の 言 語:荻 生 徂 徠 の 言 語 論 と 平 賀 源 内 の 戯 作 」 小 西 甚 一 ・中 西 進 共 編 『日 本 古 典 文 学 の 構 造 』(創 樹 社 、1987)所 収
"Willi
amHogarthandKitaoMasanobu:Reading18th‑Century PictorialNarratives,"YearbookofComparativeandGeneral Literature,No.34,1985.
(「ウ ィ リ ア ム ・ホ ガ ー ス と北 尾 政 演:絵 に よ る 語 り と そ の 読 み 」。 米 国 『比 較 文 学 一 般 文 学 年 誌 』34号 所 収)
「対 話 の 苦 し み:夏 目 漱 石 の 心 理 小 説 に っ い て 」 『比 較 文 学 研 究 』57号 (1990)所 収
漫画的記号としての江戸
﹁レトリヅクとしての江戸﹂というテーマを頂きまして︑普段考えていること
を少しお話いたします︒アメリカ人に日本を説明する立場に置かれておりますか
ら︑半端彼等の視点から日本を見る習慣が付いて居りまして︑そういう人間の江
戸論は珍妙なものかも知れません︒﹁レトリック﹂という言葉からして︑アリス
トテレス流に言えば論理が主体の筈ですが︑江戸文化のレトリックはもっとナウ
な線を行っていますから︑アリストテレス病も重症の西洋人には分かりにくいの
です︒
江戸という現象は︑丁度現在の漫画現象と同種の不可解さがあります︒こうい
うものを描き︑それを読む日本人とは一体どういう人種なのかと︑アメリカのイ
うふンテリは首を傾げるのです︒中には初な読みをして︑漫画のモティーフを国民性
と結びつけ︑日本人は好戦的で色情狂と極めつけたり︑社会学者で実際漫画で統
計をとり︑﹁日本人は総人口に対してサド・マゾキズムとホモセクシャリティが
多い︒﹂と教えてくれた人もあります︒日本人は性的に抑圧された民族であっ
て︑その抑圧がこういう奇態な形で暴れ出すのだと見る向きもあります︒つま
り︑絵として表現し︑絵として読むことが日本人に一番自然な形だからとは誰も
言ってくれません︒統計にしても精神分析にしても︑現象から意味を抽出する方
法ですね︒そういう見方で漫画に臨んでも︑漫画の面白さは余り分からないので
はないかと思います︒
例えば﹃リトロポリス﹄というシリーズがありまして︑何という漫画家か忘れ
ましたけれども︑タイトルは﹁リトロ﹂︑つまり﹁逆転﹂︑﹁後退﹂︑﹁反復﹂
などの意を﹁メトロポリス﹂に掛けた洒落ですが︑過剰発達から原始へ逆転する
過程を描く上に︑東亰というメトロポリスをリトロスペクティヴに︑つまり未来
から振り返って見よう︑東京とはどんなものか未だ見ない裏を想像してそこから
解釈しよう︑ということでもあると思います︒それがデザインにも生かされて江
戸の戯作的な酒落に満ちています︒
これはちょつと申し上げないと分からないと思うのですが︑趣向としまして
は︑技術が発達した日本の都会で︑セックスの行為なくして子供が作れるような
世界︑ハックスリーの﹃ブレイブ・ニュー・ワールド﹄みたいな世界が出現して
いるという設定なのです︒機械が子宮の働きをし︑精子と卵子がそこで一緒に
なって︑子供が機械からポンと出てくるという形にしたわけです︒つまり妊娠の
苦しみを味わないで子供が出来る︒そうして出てきた子供たちが十八才か二十才
一2一
になった時点を問題にしてるんですけれども︑その子供たちにまずいところが出
て来る︒つまり機械が完全でなかったために︑生まれてきた人たちが成人しても
性行為が出来ないのです︒ある意味では︑セックスは機械でやればいいんだから
問題ではないわけですが︑人間性として問題になってくるんですね︒それで発明
者だったか︑製造販売した人だったかの責任者が自殺するわけです︒これが大変
古めかしい︑日本的なところですけれども︑ビルのてっぺんの自分のアパートの
窓から飛び下りるんですね︒
それを何コマにもして描いてあるのです︒落ちていく形が︑猫が落ちる時みた
いに︑体を曲げて描いてあるわけですね︒どこの窓も閉まっていて︑真っ黒い小
さい窓が背景なんですね︒そして右側のページはずーっとその全体像を捉えてい
るわけですが︑それによって建物がいかに高くて︑窓がいかにたくさんあって︑
落ちて行く人間がまるで虫ケラのように小さいかを表わしているのですね︒真四
角の冷たいコンクリートの建物と閉まった全く無関心な窓の機械的な行列を背景
にして︑可死的な人間が︑曲がりながら柔らかな形で︑小さくなって行くとい
う︑その動きを捉えているわけですね︒これはもう︑映画ではできないことを
やっているわけです︒映画はスクリーンから外に出られないのに︑漫画はフレー
ムから出ることも出来ますし︑音の効果も字にでるようになっている︒そうかと
思うと︑平面に黒一色で描かなければならないという実に限られた条件をフルに
使って︑唯の一本線で高層ビルと大空を描き分ける︑映画にも小説にも不可能に
近い芸当をやってのける︒スタイル自体の素晴らしさ︑デザイン自体の面白さ︑
というようなものが意味的な価値を無効にするのが漫画で︑読者はそういう面を
読むように漫画作品によって訓練されているわけです︒
視聴覚時代の今︑流行作家になりたければ漫画に学べ︑というのは人気絶頂の
筒井康隆氏の言ですが︑確かに田中康夫氏以後の流行作家には漫画的傾向が強い
ようです︒字で書いたもの︑殊に活字化して立派な本に綴じてあったりすると︑
読者はその内容を信用することを迫られる︒これが絵だと︑見る方の見方で見れ
ば良い︑つまり作者と読者が対等で︑読者がその作品の意味生成︑というか生成
の可能性に参加しているわけです︒何を言いたいのかあやふやな作者と協力して
読者が一緒に考えて上げようという格好になります︒そういう面で︑言葉を使っ
て書かれた小説も漫画的といえます︒
実は︑日本文学全体に亙って︑作者がその思考を読者に伝える形になっている
ものは少なくて︑作者の目で見た限りの細部を描いてみせてその判断は読者に任
一4一
せる形のものの方が圧倒的に多いのです︒字に書いたというより︑絵に描いたも
のの性質を持った文学と言えます︒明治の小説は︑それを旧式と考えて日本的な
絵画癖から脱却しようと骨折っています︒西欧文化は︑﹁ロゴス﹂という表現を
使って﹁言語﹂というものを﹁論理﹂と一緒くたに考えています︒つまり言葉は
意味と密着していて絵とは相反するものなのです︒そんな馬鹿なことがあるもん
か︑と江戸っ子なら抗議した所でしょうが︑明治の啓蒙文化はそういうロゴスへ
の憧れを基礎にしています︒啓蒙の影響は大変強いのでして︑今でも日本人はド
ストユフスキーに頭が上がらないような感じですが︑現在私達を取り囲む漫画や
漫画的文化の流行はロゴスへの反逆と言えます︒江戸時代の携嬲のように︑ちゃ
んと建っている意味などは寄ってたかって片端から敲き潰すわけです︒
しかし︑絵画癖又は絵画中心主義には︑ロゴスをやっつけるという威勢の良さ
だけではなく︑ロゴスから逃避するという卑怯な面もあります︒江戸時代の場合
は意味を伝えるということが危険な時代でした︒社会について発言すれば︑例え
ば大名家の実情に触れる︑遊里の性生活を描くというような違法行為になる︒基
本的には何を言ってもお上を批判することにならざるを得ない︒護鑞︑島流し︑
うっかりすると死刑です︒従ってもの言わずして言ったが如きスタイルに専心す
ることになります︒絵で見せたり音で聞かせるだけでは解釈が固定しにくいの
で︑歌舞伎︑浮世絵︑見せ物などと︑大変発達した視聴覚時代になるのは当然と
言えます︒ナチ時代のドイツにトリック撮影をフルに生かした豪華にして荒唐無
稽な映画などが巾を利かせたのも同様の事情によります︒江戸の場合は殊に︑絵
入りでない文学作品の場合でも︑言いたいことはお互いに分かっているという同
ヘへ朋意識がありますから︑作者と読者がぐるになって︑ものを言っているような言
っていないようなコミュニケーションを作品の中で行なうのです︒そういう馴れ
合いの場が江戸であり︑﹁江戸は良いとこ﹂と鳴り物入りの宣伝をしても︑実体
としての江戸を伝えるような︑つまり外向きのコミュニケーションになっていな
いのが江戸文化と言えます︒
一6一
﹁お江戸﹂の﹁エドイズム﹂
﹁ものを言っているような︑言っていないような﹂という変な表現を使いまし
たが︑これは﹁イエス﹂と﹁ノー﹂を同時に発信するということです︒十八世紀
半端以後︑つまり江戸時代の後期になると︑この傾向が顕著になります︒つま
り︑江戸時代の文化の中心が上方から江戸へ移った時点が問題になります︒前期
おもてうらの近松や西鶴にも﹁虚実﹂や﹁表裏﹂の概念はありますが︑人情や世相の裏に潜
む真実を見せようという創作態度であり︑せりふや説明文に表現されない沈黙の
部分に観客や読者が共鳴できる︑つまり言葉の裏に何かあると思わせる種類の文
学です︒江戸後期になりますと︑平賀源内以下の戯作者に見られる通り︑﹁表﹂
と﹁裏﹂を同価値のものとして並べて見せてしまう︑たとえ﹁裏﹂を見てもその
又﹁裏﹂があったりして︑﹁本音﹂に行き着かない︑という格好になっていま
す︒
ものの両面性を見せる︑つまり言葉を両義的に使う︑というのは遊びの精神の
表われですから普遍的なものですが︑これが一番巾を利かせるのはブルジョア文
化です︒フロイトによると︑人間の無意識の中では︑反対のものも同種のものも
関係あるものの一対として並んでいて︑これが屡々意識の中にまで浮き上がって
来るのだそうです︒﹁イエス﹂と﹁ノー﹂は並んでいるから交換可能で︑プレゼ
ントなどを﹁受け取る﹂と﹁上げる﹂とが精神病患者の頭の中で混交するわけで
す︒意識の世界は﹁超自我﹂(スーパー・エゴ)がコントロールしていますか
ら︑私達は意識の面では行儀良く暮しているわけですが︑無意識という性欲の領
分に属するものが意識の領分へ押し出されて来ると︑理屈に合わない行動に出る