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陸審芸蔚豪普る愈済研究 寧感盈爵牢鷹

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陸審芸蔚豪普る愈済研究

寧感盈爵牢鷹

≡塞衆轡衆学院泉豪放纂衝撃節究鞠

ヱ.取) 、二二;.;ニ∴

窮鼠奈緒子

(2)

中国大陸における金庸研究

三重大学人文社会科学研究科地域文化論専攻地域言語文化論専修

102M211

花尻 奈緒子

(3)

目次

第一章 武侠小説とは何か

第一節 武侠小説の定義と特徴‥‥‥.‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥………3 1.成立と歴史‥.‥‥‥‥‥‥‥…‥‥‥.‥‥‥‥…‥…‥‥‥‥‥‥3 2.武侠小説の定義……‥‥‥‥‥‥‥‥‥…‥‥………5

第二節 武侠小説界の現状……‥…...‥‥…‥‥‥………….……6 1.金庸以降の武侠小説………‥‥‥…‥‥‥…‥‥.‥‥‥‥‥6 2.メディア展開‥‥‥..‥‥‥‥‥‥‥‥………….‥‥‥‥.‥...8

小結..‖‥….‥‥‥..…...‥…‥....‥‥....….‖‥…....…‥‖....‥‥…‥.9

第二章 金庸研究について

第一節 金庸の略歴…‥‥‥……‥‥‥…‥‥‥…‥‥.‥‥‥……10

第二節 金庸作品の特異性‥‥‥…‥‥‥‥‥‥‥‥‥….‥‥‥‥‥11 1.金庸作品の特徴……‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥….‥‥‥‥‥…11 2.鹿鼎記‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥.‥‥..‥‥…‥‥…‥‥……14 小結‥‥‥‥‥.…‥‥………‥‥‥…‥‥‥‥‥.‥‥‥‥‥‥.‥………17

第三章 金庸研究の現状と問題点

第一節 武侠小説研究と金学‥‥‥‥‥‥‥‥..…‥‥‥‥‥‥‥…18

第二節 金庸と中国伝統文化‥‥‥‥‥.‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥…19

(4)

第三節 文学的価値についての研究‥‥‥…‥‥‥‥‥‥‥‥….21

小結‥‥‥…‥‥‥……‥‥‥‥…‥…‥‥…‥.‥….‥‥‥…‥‥‥…25

第四章 金庸批判と論争

第一節 「拒絶」式批判……‥‥‥‥..‥.‥...…‥‥‥‥……27 1.部烈山・何満子..‖‥…,..‥…‥‥...,.….‥.."…‥‥.…27 2.擁護派の反論‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥…‥‥‥‥‥…29 第二節 「写実主義」式批判.‥‥‥‥………‥‥‥…‥‥…….30

1.王朔の『我着金庸』 ‥.‥‥‥‥‥‥…‥‥‥‥‥.‖‥….‥‥30

2.金庸の回答…..‥‥.‥‥‥‥‥‥.‥‥‥‥‥….t‥.‥‥……‥32 3.擁護派の反論‥‥‥‥‥.‥.‥‥…‥.‥‥‥‥‥‥…‥…‥‥‥33 第三節 「高雅」式批判‥‥‥‥‥‥‥‥‥…‥‥‥‥.‥.…‥‥‥‥34

1.蓑良駿……‥.‥‥‥………‥‥..……..‥‥…‥‥‥‥...34 2.厳家炎との論争…‥‥‥.‥.‥…‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥36

′ト結……‥‥‥...…...‥‥‥…‥‥‥………‥...‥..‥...38

^##...,..."...40 表1 ・金庸作品映画化リスト‥‥‥‥‥‥…‥‥…‥‥….………‥‥‥42

表2‑1 ・金庸作品テレビドラマ化リスト(1973年‑1999年)‥‥‥43 表2‑2 ・金庸作品テレビドラマ化リスト(2000年‑2006年)…‥.44

グラフ1 ・テレビドラマ制作地区別制作数の推移..‥.‥…‥‥‥‥44 参考文献一覧…,..…..‥‥………‥‥

……‥‥.‥…‥‥..‥‥‥…...45

(5)

中国大陸における金庸研究

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金庸の武侠小説は香港で生まれた。むしろ香港という土壌があったからこそ生まれ たと言うべきである。かつて文化砂漠と言われた香港で経済的発展とともに開花した、

徹底的な商業主義的娯楽文化は、粗製濫造が行われる一方、その競争の激しさから傑 作が生まれることも少なくなレl.特に映画界における世界的認知度の高さは誰しもが 知る通りである。

武侠小説はその中で生まれた娯楽小説で、中国の伝統的英雄像である「義侠の士」

を主人公とした時代小説である。昨今さ繊別\説を原作として香港・台湾や海外華人 の制作した、いわゆるカンフ‑映画が日本で公開されることも増え、認知度も高まり つつある

武侠小説は時代小説であると同時に歴史小説でもあり、アクションありミステリー ありファンタジーあり、非常に多彩な要素を持っている.このように娯楽となると一 挙に何でも詰め込んでしまう姿勢は香港映画のそれと同じであり、外国人である我々 からすれば、過剰なサービス精神にも見えるが、香港人にとってはごく当然のことで ある。そしてその武侠小説の世界で最も成功した作家が金庸である。金庸の武侠小説 は香港映画と同じく、今や香港人だけのものではない。

金庸は1955年に『書舟鵬でその創作活動を開始し、 1972年に閥楓 で断筆をするまでの25年間に12篇の長編と3篇の中編を執筆した。金庸の武侠小説 の功績は、商業主義的娯楽の競争に打ち勝つ通静性をそなえながら、同時に文学作品

としての評価に値する筆力をもって読者に感動を与え、武侠小説の文学的価値を引き 上げたことである。金蔵耗侠′J、説の愛読者は香港を含む中国及び台湾だけに止まらず、

華僑華人の多い東南アジア諸国においても広く読まれるに至り、その普及度は「井戸 のあるところに金庫の小説あり」と言われるほどである。老若男女、小学生から知識 人までのあらゆる層から支持を受け、今もなおその支持者は増え続けている。ある統 計によるとこれまでに金庸武侠小説は世界中で三億冊以上出版され、その出版数は毛 沢東の著作をも越えているという。これほど華人世界で普遍的に人気を獲得し、商業 的に成功した中国語文学作品は金庸の武侠小説を除いてほかには無く、これはまさに 究極のベストセラー小説であると言えよう。

しかしこうした現象に対して大陸の学術界が注目し、中国文学研究において金庫が 研究対象として認知されるようになったのは、金庸の武侠′J\説が誕生してからおよそ 30年後にあたる1985年からである.それまでに台湾・香港において「金学」と呼ば

れる金庫研究が芽生えていたが、大陸において武侠小説力萌牢禁され、金庸、梁羽生、

古龍ら香港・台湾を中心とする「新派武侠小説」の作品が大陸に流入し、大衆に歓迎 されていたものの、封糾\説を旧文化の遺物として排斥してきた学術界において、そ の研究価値が認められることがなかった。

その後、文学者の間で金庸支持者が徐々に増えていき、 1994年]臼祁市範大学の王一 川らが「二十世紀中国文学大師文庫」を発表し、その中の中国現代小説家の序列に、

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魯迅、沈従文、巴金に次ぐ第四位に金唐が序せられたのを皮切りに、金庸が学術界に おいて次々に名誉を得るようになり、国際的な学術研討会が開かれるまでになった。

こうして、文学研究の立場から学術的に金庸を研究する気運を高め、また現在最も金 庸研究が盛んであるのは中国大陸である。そして現在も金庸武侠小説に関する論文及

び著作さま絶えず発表され続けている.

しかしこうした金庸支持のムードの中、一方で著名な作家や文学研究者が金庸とその 作品を批判している。金庸のどこに批判されるべき問題点があるのか、研究者たちは なぜ金庫を批判するのか、この二つの疑問が本研究の出発点である。

また、金庫が隣国において非常に主流な文学作品であるにも関わらず、日本におい て翻訳された作品が出版されたのは1996年になってからであり、早稲田大学文学部 教陵の岡崎由美氏らの尽力により日本語版の全集が刊行され、馴染みのない日本の読 者のためのガイドブックなども多数出版されたものの、金庸研究ならびに武侠小説に 関する研究は皆無に近い。またこれらに言及しているのも、前述の岡崎氏ならびに京 都大学人文研究所教陵の金文京氏、及び字悌I [大学外国語学部数陵の鈴木陽一氏ら中

国古典を専門とする研究者に限られている。本論文の長期的展望としては、中国現当 代文学研究の新しい‑ジャンルとしての武侠小説研究を提唱したし'o

本論文では、 「新派武侠小説」の代表的作家である金庸と中国大陸における学術的研 究について考察する.第一章では、まず新派武侠小説の定義とそれが誕生するまでの 経緯を述べ、第二章では金庸の略歴及び金庫作品の特徴について述べ、金庸作品が大 衆に支持される理由を考察する。第三章では中国大陸において金庫研究がどのように 発展したか、また現行の金庸研究の中心である伝統文化継承の役割について,及び武 侠小鋭としての文学性についての研究をまとめる。第四章では金庸批判に関わる論争

と批判者の理論の問題点を指摘し、結びでは第一牽から第四章までの考察から、金庫

研究の問題点と今後の課題を導きたし㌔

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第一章 武侠小説とは何か 第一節 武侠小説の定義と特徴

1.成立と歴史

中国においては古くから侠客が物語の中で括カれてきた。侠についての最も早い記 述は韓非子の『五泉』編で, 「儒以文乱法,侠以武犯禁」 (儒は文をもって法を乱し, 侠さま武をもって禁を犯す)とある.司馬遷『史記』巻一二四抑rJ伝には「今辞侠は 其の行正義に軌軒ヂと錐も、然れども其の言は必ず倍にして、其の行は必ず果、巳に 諾すれば必ず誠,其の躯を愛しまず、士の阪困に赴き既に巳に存亡死生す(その行為 は正義に則ってはいないが、常に自らの発言に忠実で、何かを行うならは必ず果たし、

約束したことにさ滴意をもってあたり、その体を惜しむことなく生死をかけて、人の 窮地を救う)」ものである、と「済侠」を定義している。

虚構の物語の中に侠が登場するのは悶打倒からとされるo特に有名なのは『轟 隠娘』で、唐の武官の娘が幼い頃に正体不明の尼に掠われ、五年後帰ってくると超人 的能力と武芸を身につけており、凄腕の暗殺者として活躍するという話である。これ ら最も早い時期の侠客たちは、超人的武力で殺人や盗みを働くが、決して正義の存在 としては描カれていない.周作人は『唖劇の中で唐代の剣侠について、 「私は小さい

ころ、帽章代叢書』の隙り侠俸』を読んで、とても怖く思った。剣侠はみな修練をして その道を得た人たちだが、気は短く、ともすると剣を飛ばして姿も現さずに人の首を

取るのである」 ①と触れており、ここから唐代の侠客のイメージを知ることができる0 このように、 「唐代伝奇」の頃の侠にさま正義のイメージはなく、逆に幼い子どもが恐怖 を感じるような、得体の知れない人物だったとされるoつまり、もともと侠を埴人的 な力を持ついわゆる異能の着であり、機知ゝらはかけ離れた人間味の無い存在で あった。

しかし北宋以後、儒学復興の影響を受けて侠は「毒鄭知‑と変化した.そして諦淡 や章回小説の流行により,侠客の登場する物語が大衆娯楽という巨大な市場に上がり、

侠客たちは大衆の身近なヒーロー像となった。明代には「水済伝」、 「西遊記」、 「三国 志演義」などが高座に上がり、大いに大衆に歓迎された。 「水瀞伝」は梁山泊に集う江 湖の好漢たちの活躍を措いており、それぞれ殺人・私刑などの事件を起こしたために、

やくざ者の世界である「江湖」に下り、好漢たちのネットワークに沿って仲間となっ ていく様は,後の武侠小説にも大きな影響を与えている。作家金庸も,影響を受けた 作品は何かという質問に答え、公案小説や旧派武侠小説と並んで, 「水瀞伝」を挙げて

いる@.

①周作人:価紛1921年

②対暁梅: 《文人竣武一香港学禾界与金庸挿絵武侠小鳥粉,葛涛・谷紅梅・赤虹逸脆:鮒,社会科学文献出

3

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清代には「児女英雄伝」等の侠義小説と「三侠五義(七侠五義)」 「施公案」に代表 される侠義公案小説が登場した。「児女英雄伝」は女侠十三妹の活躍を描くものである。

しかし後半、女侠客は結婚した途端に女傑の一面がなりを潜め、 「武」が抜けて才子佳 人小説の趣になり、侠義小説と膏情小説が奇妙に入り交じった作品となっている。侠 義公案小説は、清廉潔白な名裁判官が、悪を挫き弱気を助けるという公案小説に,江 湖に身を置きながらも、裁判官の人柄に惚れ込んで手足となって働き助ける侠客たち が登場するため、併せて侠義公案小説と呼ばれる。侠客たちは徒党を組んで朝廷にた てつくことはせず、逆に官の側についているという点でそれまでの侠客と立場が異な る。元来民衆側であった侠客たちに助けられ、民衆のために弱気を助ける裁きを下す 裁判官を英雄として描いたこれらの作品は、清朝末期当時の役人の腐敗や政治的に対 する不満を反映しているとされる。 「三侠五義」では武官となる「御猿」こと展昭や「錦 毛鼠」こと白玉堂、 「施公案」の黄天覇などが主役に劣らない活躍を見せ、また彼らを 主役としたエピソードも多く、現代においても映画の題材となることがある0.

日本では明治時代後期に押川春浪の三部作「武侠艦隊」 「武侠の日本」 「東洋武侠団」

が発表され、それが中国で紹介されて反響を呼んで以降, 「武侠」という言葉が中国に おいても使われるようになった。 1915年、 「′ト説大観」第三巻に収録された林終によ る文言文の短編「博眉史」を、編者の包天笑が明確に「武侠′ト説」と分類したのが、

中国国内で最初に使われた「武侠小説」という言葉であったという②。こうした文化 的風潮の中、ア‑ン戦争後に流入した海外文学の影響と新文学の誕生によって、侠客 たちの物語は口語で書カれた近代大衆小説‑と引き継がれ、民国期の1920年から 1940年頃にかけて隆盛した謝至糾\説を1950年代香港・台湾に興った新派紛J、説と 区別して「旧派武侠小説」という。

1920年代には、 「英雄走国記」の著者である河北人の紐喚亭と「江湖奇侠伝」の著 者である湖南人の向憤然(筆名平江不肖生)が「北路南向」と称され、彼らの武侠/ト 説が人気を誇った。その後彼らに続いて現れた武侠作家を、それぞれ歳晩亭を筆頭に 北京、天津周辺を中心とした「北派」、向憤然を筆頭に上海を中心とした「南派」とい

う。南派には傑出した作家が現れなかったものの、北派には「北派五大家」と呼ばれ る5名の作家たちが現れ、この1930年代に武侠小説は空前の盛り上がりを見せた。

その5名は「萄山剣侠伝」の還珠楼主、 「十二金線錬」の白羽、 「鷹爪王」の鄭証因、

「臥虎蘭指」の王度盛,そして「羅利夫人」の朱貞木である@.

旧派武侠小説はその内容によって大きく 頓仙派」と「快晴派」に分けられる④o 東仙派の代表は「江湖奇侠伝」の平江不肖生と「萄山剣侠伝」の還珠楼主らであるo

版社, 2M年, 152頁

① 最近の作品では『老鼠愛上孝醐(香港2003年)なE^o

② 帝云波: 《中国侠文化…頼淀与永持》,重床出版杜2α光年, 146頁

③衰良唆: 《武侠小磯才旨掌国》,新準出版社, 2003年, 119T210頁

㊨ 研究者によっては名称が異なり、またさらに細力斗ヽ分類がされTVヽるが、ここではこの2つの分類のみにとどめる

こととするo

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彼ら剣仙派の特徴はSFに近いファンタジックな世界観と、奇想天外な武芸の技であ る。剣は意志を持つかのように乗って空を飛び、剣客は剣気を吐いて敵を倒すといっ た荒唐無稽な描写が多し'.侠情派は「十二金線療」の白羽、 「臥虎蔵膏EJの王度盛らを いい、超人的な武芸よりも侠客たちの恩仇や愛憎といった人間ドラマに焦点が置かれ ており、比較的リアリティーのある描写が特徴である。

旧派武侠′J\説の作家たちのほとんどは、食えなくなった知識人青年で、糊口をしの ぐために売れる武侠小説を書いていたという背景があり、粗製i監造されたものも少な くない。しかしのちに新派武侠小説を興した金庸や染羽生も少年期に彼らの作品を手 に取っており、創作に大きな影響を与えられている。しかし1949年の中華人民共和 国成立後、内容が封建的であるとして、全ての武侠小説が発禁処分となり、以後大陸

においてさ繊糾\説の生産が途切れることとなった。

新派武侠小説は、大陸において武侠小説が禁止されていた1950年代に香港で始ま った、武侠小説の新しいムーブメントである。元々大陸出身である新聞記者の梁羽生 が、 1954年マカオで行われた異種格闘技戦によって盛り上がった武術ブームに乗って、

新聞に武侠′ト説「龍虎闘京華」を連載し好評を博したのを皮切りに,続いて同僚の金 庸が「書剣恩仇録」を連載して歓迎され、ここから新派郎糾\説が興った。この二名

に台湾の古龍を加えた三名が新派武侠小説の代表的作家である。

2.武侠小説の定義

武侠とは武と侠、つまり武術と義侠を表し、 「般に武侠小説とはこの二つを併世持 つ人物を主人公とした小説である.これが一般的な定義であるが、実際のところは作

家によってはその定義を逸脱した作品もあるため、厳密には定義しきれなし1.ただし、

武侠小説であるためには二つの条件があり、これを逸脱すれ古瀞J、説とは言えなく なる。

第一に、舞台が近世以前の中国でなければならない。時代背景や舞台となる場所は 明確でなくても良く、架空の王朝が存在していても良いが、場所は必ず中国国内であ り、登猿人物も物語の進行上起こる出来事も、清代以前の文明程度で理解されなくて はならなレ㌔銃や自動車等が日常的に使用されてはならないためと、侠客と彼らを抱 える昔ながらの江湖の存在が必要だからである。

江湖は元来「三江五湖」の略語であり、広くをま世の中そのものを掛れ行商人や旅 芸人など住所不定の流れ者の世界,または「官」に対する「野」を指し、広く手ま世の

中そのものを指すものであったが、 「水瀞伝」では好漢同士が交流しネットワークを築 き、彼らなりの秩序を持つ世界としての意味がすでに確立していた①。これに、旧派 武侠′J、説以降取り入れられた「武林」(武術界)という概念が加わった仮想世界が、新

①岡崎由美:僚自のヒーロー 中国武侠/I,哉′切掛,大鯵館粛吉, 2002年,駆・62頁

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派武侠小説の「江湖」である。各作家の描く江湖の姿や構成単位はそれぞれ微妙に異 なるが、概ねは武林・緑林(盗賊界) ・常会(秘密結社) ・宗教団体に加え、それらの

どれにも属さない浪人や隠者によって構成されており、独特な道徳と風習を持ってい る。これは中国文化独特のファンタジー世界であるとも言える。

第二に、江湖での倫理観は義侠に基づき、また武力による義侠の行為が許されなけ ればならない。武侠小説の要素に「武」が不可欠である以上、武術を戦わせることが 問題解決の重要な方法であるが、その行為が義侠心に拠る場合は罪とならなしIo

義は様々な事物に対して発生し得る。侠客たちを結ぶ関係の数だけ義があり、血縁 や姻戚関係を始め、師弟関係、友人関係、恩義関係など全てにおいて義が存在する。

ただし、侠客たちの義が「民族や国家への義」として描カれたのは旧派武侠′l\説以降 のことである。

本来侠客とは在野が絶対条件であるため、彼らが国のために働くことは即ち体制側 に転じ江湖から離れることを意味した。 「水瀞伝」で梁山泊の面々が義士となって異民 族と戦うのは朝廷に帰順してからであり、 「三侠五義」で裁判官である包擾の手足とな る武芸家や盗賊たちの姿もまた同じである。しかし彼らの行動の原動力はやはり個々 の間の仁義である。 「水静伝」では、梁山泊の面々はリーダーである宋江に付き従うと いう形で結果的に国の命令に従っており、また「三侠五義」では、包擾に協力する侠 客たちは皆包捷に惚れ込んでいるから協力するのである。それはあくまで人間関係か

ら発生する義で、国のためにという意軌ま無かったと考えて良いo これiま本来「無頼 者」であった侠客としては当然のことである。

それを侠客が朝廷とは無関係に、単体で国のために働こうとする、つまり民族、国 家‑の「義」を持つ侠客を描いたのが新派以降の武侠′ト説である。つまり侠客は無頼 者から国と民族の運命を背負う人物‑と移行し、それによって侠のイメージがさらに 理想化されている。金庸を例に挙げると、彼の描いた民族・国家‑の「義」は、彼の 処女作である「書剣恩仇録」からすでに現れている。主人公の陳家洛は愛する女を政

治的取引に利用するか否かで苦悩する。ここで陳家格が裏切ることができない「義」

とは、彼が属する反清復明の秘密結社の面々に対する仁義もあるが、漢民族としての 民族に対する「義」を裏切れず,最後には女を利用することになる。

以上の二つが武侠小説の条件であり、それ以外は作家の裁量に任される。つまり武 侠小説は,非常に自由な創作の空間を持つ文学ジャンルであり、またこれらの条件が、

そのまま武侠小説人気の原因であると言える。

第二節 武侠小説界の現状 1.金庸以降の武侠小説

金庸、梁羽生,古龍ら新派武侠小説の作家たちが新作を発表しなくなって以降、香

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港・台湾で武侠小説家が絶えず作品を発表してはいたが、その多くが専門に武侠小説 を書く作家ではなく、ヒット作にも恵まれなかったため、かつての盛り上がりには欠 けるところとなった。林下風の『金庸之后再充武侠小悦? 』では「『金庫のあとは、も

う武侠小説は無い』と香港台湾文化の評論家は口をそろえる。なぜなら、 『全ての物語、

全てのストーリーの変化は、偉大な作家たちによって書き尽くされてしまった』から である.金庫ですら、陀覧侠小説は特殊な才能を持つ人間でなければ書けない』と認め ている」 ①という。

しかし武侠小説が完全に失われたわけではなく、インターネット小説という形をと った武侠小説も登募しており、これは少年時代に金庸らの作品を手にした世代が作っ た、新しし繊J、説のムーブメントであるo金庸ら新派武侠′ト鋭の作家たちも、もと

もとは少年時代に民国期の旧派武侠小説に触れたことが現在の創作活動に大きな影響 を与えていることを考えると、これはごく自然な新世代の誕生であるといえよう。こ れらは「大陸新武侠」と呼ばれ、代表的作家に小椴、槍月、沈堺要らがおり、多くが 十代・二十代である。女臓ミ多いため「女性武侠」とも言われ、これまでにない

女性主体の物語が多い。韓雲波はこれら大陸新武侠を、 「誕生から三牢ほどしか経たな いにも関わらず、すでに大衆的でない達成が見られる。 (中略)新しい武侠の繁栄が望 めるだろう」 ②と分析している。

武侠小説は先に述べたように、台湾・大陸では禁書となっていた時代もあったが、

その当時も解禁後とほぼ変わらない知名度を誇っていた。貸本屋が香港の原本を元に 密かに海賊版を作り、それが大衆に広く読まれていたのは有名な事実である。また、

東南アジアにおいても同じく貸本屋による海巨樹坂で人気に火がつき、広く読まれるよ うになっている.実際に金庸作品は世界中で翻訳・出版されているほれ実際に現地 の作家たちに影響を与えたケースも多レ1.磨建裕の『印尼武侠小説概論』によれば、

かつてインドネシアにおいて金庸・梁羽生・古龍らの作品がそのまま華文新聞に連載

され好評を博しただけでなく、さらにインドネシア語に訳され、また現地の作家や翻 訳家によって改編・模倣されたものが新作を装って発表されていき、それがそのまま

武侠小説というジャンルとして根付き、現在ではインドネシア語による新作が書かれ 出版されるようになっているという@.また,武侠小説は華僑・華人ら中国系の民族 だけではなくマレー系の原住民族にも歓迎されているため、マレー人を主人公とする 新作武侠′J\説がインドネシア語で書かれ、こちらも人気を博している。

海外華人に金庸作品が歓迎される理由の一つは、金庸作品の中で数多く触れられる 中国伝統文化、そして「中国的」社会や「中国的」風景の描写である。海外華僑の中 には、祖国の文化を学ばせるために子女に武侠小説を与えることがしばしばあるとい

う。

①林下夙: 《金康之后再元武侠小鋭?》,世界準文文学, 2㈱年2月号120真

②帝云波: 《中国侠文化;額淀与承侍》,重庶出版杜, 2搬年, 176頁

③慶建裕: 《印尼武侠,l、説概主鋤, 《南洋与中国》(シンガポーソV),南洋学会, 1鯛7年

7

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日本においても19!娼年に徳間書店から日本語版金庫全集『金庸武侠小説剰の出 版が開始され、ほぼ同時に古龍の作品や梁羽生の作品の日本語版も他の出版社から刊 行された。金庸の全集は2004年脱を最後に全作品の刊行が終了し、うち3

作品が同出版社から効郵ヒされた。また、 2005年から金庸の小説をもとにした中国大 陸制作のテレビドラマ(『射離英雄伝』『神髄侠侶』 『天龍ノし部』等)が日本のテレビ局 で放映・ I)VD化されて話題になったため、 2001年に一度ストップしていた全集の文 庫化が再び開始され、現在では計5作品が文庫化された。

2.メディア展開

メディア瑚封ヒにともない、武侠小説はエンターテイメントの恰好の題材として、

形を変えながらも大衆文化の中に生き残り続けている。

第一には、映画による映像化であるo武侠小説そのものは旧派武侠小説の時代か ら劇場映画として映像化され続けており、古装片と呼ばれる時代劇映画のジャンルは ほとんどが武侠映画であった。これまでに金庫の作品が映像化されたのは、キャラク

ターや設定を借りて制作された外伝・パロディー作品も含めて映画化は総計34作品 (表1

I

42頁参照)にものぼるo最も古いものは1958年に映画化された『碧血余fA および『射鴨英雄伝』であり、それぞれ新聞連載終了から1年前後で映画化されてい

ることからも,古装片の原作として非常に期待されるものであったことがわかる。金 庸の作品には長編小説が多く、劇場映画では2時間枠におさめるためには、前後編に 分けるか、もしくはかなり無理のあるストーリーの省略をしなければならないため、

原作に忠実な作品はほとんど無い。香港において個人の家庭にテレビが普及すると、

武侠小説は主に連続テレビドラマ‑と舞台を移した。

テレビドラマによる映財ヒは61作品(作品別のデータは表2

43・44頁参照)にも のぼり、現代劇や鴛薫蜘蝶派の作品と同じく、金庸の作品を題材にしたドラマが現在 も次々に制作されている。武侠小説の多くは新聞連載の形をとっていたため連続ドラ マの題材にしやすく、長期放映の連続テレビドラマという形態では、映画のように途 中の物語を省くこともなく、比較的原作に忠実に物語を追うことができ、原作フアン を取り込めるというメリットがテレビドラマにはあった。金庸の作品は同年に複数の 作品が映画化・ドラマ化されることがあり、テレビドラマでは1975年が最も多く、

この年だけで前後して『射鴫舶田中嚇対呂』陀紬頗り』 『雪山飛狼男脱の 計5作品がドラマ化されている.制作地区は香港だけではなく,台湾、シンガポー/i,, 中国大陸の4地区にわたり、 1983年から1986年、 1992年から1!X)4年、 2(X氾年か

ら2001年の三度ブームが起こっている(グラフ1 ・44貢参照).大陸においては2(カ1 年制作の『突放江湖』、2003年制作の臓が日本を含むアジア全域で成功

をおさめたことから、近年金庸の作品のテレビドラマ化があいついでいる。

金庸の作品は何度も繰り返し映像化されるのが常であるが、新しく制作が決まるた

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びに毎回主役を誰が演じるかが話題になり、必ずスター俳優が起用されることなどか らも、決しで衛性で制作されているのではないことがわかる。外伝やパロディー作品 も、映画に劣らず多く制作されており、その人気の根強さをうかがわせる。

第三に、パソコン用ゲームの題材である. 1980年代から制作が始まり、以降パソコ ン・インターネットの普及により、武侠の世界を舞台としたゲームやオンラインゲー ムが人気を呼び、現在も次々と新作が発表され、武侠ものが一つのジャンルとして認 知されている。金庸作品は台湾の大手ゲームメーカーである智冠科技股扮有限公司が 中心となって悶軸馳と短編を除いた全作品がゲーム化されており、複数の作品に 跨ったキャラクター‑使用による『金庸鮒突伝』は特に人気が高くシリーズ化もされて いる。日本向けにはテレビゲームのプレイステーション用に『鮒晦英雄伝』がゲーム 化されている。

娯楽の多様化に伴い,このように書籍以外の形態で郎糾\説に触れる機会が増加し たため、比較的若い世代には聯糾\説を読んだことはないが、ストーリーも登場人 物も知っている」という人々が極めて多い。

小結

侠客が活躍する講談ものにおいて侠客と対決するのは、汚職役人、暴利をむさぼる 商人といった民衆にとっての嫌われ者である。侠客はそのアウトローたる性格から、

「般民衆には不可能な、法を無視した方法で報復や粛正をすることが可能であり、そ の痛快さが民衆に歓迎された。こうして侠客が登場する物語は、民国時代にはメロド ラマ的に描く侠削、説と、ファンタジックな能力や人物が登場する剣仙小説という二 つのジャンルとして結実した。これらは今の新派武侠小説の前身といえるものであり、

実際に新派武侠の作家たちはこれらの小説に幼少期から触れ、その影響を強く受けた と自ら語っている。

また、武侠小説がマルチメディア展開されていることが、武侠小説の世界は容易に 別のメディアに応用可能な柔軟性を持っていることを説明している。それは武侠′J、説

のファンタジー世界が、確立された特殊な世界観だからである。またその世界観は、

我々日本人を始めとする華人文化に属さない者にとっては一般的に未知のものである が、逆に華人文化に属する者にとっては遍く馴染み深いものである。華人文化という 土壌において限定された普遍性を持つ文化、それが武侠文化である。

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第二章 金庸研究について

本章では、新派武侠′ト説の代表的作家である金庫の略歴と、金庫作品の特徴及び金 庸作品の本質を説明する上で最も重要と思われる作品『鹿鼎記』を分析、検討する。

第一節 金庸の略歴

金庸の略歴については、様々な書物で触れられており、未だ存命でありながら伝記 も数多く出版されている.ここでは現行の伝記の中から比較的新しいものである『ぺ 揚与落莫金庸的弔剣恩仇』 『中国現代作家倍屯仇弔金庸偉』②楓③ 『儒 侠金庸倍』 ④の四冊と、 『金庸茶館』 ⑤で公開されている年表を総合し、以下のように まとめた。

金庸は本名を査良錬、 1924年に漸江宥海寧県衰花鎮の名門査家に生まれたや査家は 書の香り漂う名家で、 「一門七進士、叔任五翰林」とうたわれたふるい知識階級の一門 であるo若き査良錬は外交官を目指し、 1944年に国民党中央政治大学外交系に入学し たが、国民党職業学生の横暴な振る舞いに対する不満を大学に訴え、逆に退学を命じ

られた。以後終戦まで中央図書館の閲覧室で働きつつ大量の読書をして日々を過ごし た。 1945年故郷に戻り杭州「東南日報」の記者となり、翌1946年には上海に赴き上 海東呉法学院で国際法を単茄傍ら、新聞社「大公報」で国際ニュースの翻訳を担当す

るようになった。 1948年に「大公報」香港版が復刊されて香港に出向した。

転機となったのは、 1950年に北京外交部の外交官に応募したことである。しかし査 家が地主であることを理由にかなわず、大公報に戻ることとなった。その後1952年 から『新晩報』が復刊され、文芸欄担当となり、同時に映画批評や脚本を書き始めた。

作家としての活動はこの頃に始まったことになる。

1955年から「金庫」の筆名で処女作『書剣恩臓を紀上に連載し、好評を博した ことから武侠小説家としてのキャリアが始まった。 1957年、左傾化する「大公報」か ら職を辞して長城電影制片公司に入社、武侠′J、説を雑誌に連載する傍ら映画脚本など の仕事を手がけていたが、 1959年に自ら新聞社を立ち上げて新聞「明報」を虐肝(Jし、

査良錬は社説と武侠小説の連載を担当した。以後も武侠小説の執筆を続け,同時に「明 報」グ/レ‑プの拡大にも成功した. 1972年に『鹿鼎記』の完結をもって武侠小説の断 筆を宣言し、同時に全作品の改訂作業にとりかかった。この改訂作業は一度に終わら ず,第三次改訂が1999年に開始され、 2006年に終了した。

①文涛: 《 で顔与落莫金庸的市会胤旭,団結出版社, 2(価年

②博国涌: 《中国現代作家倖泣伏弔金庸億》,北京十月文芝出版社, 2003年

③葛涛・谷紅梅・赤虹逸娩: 《金紋人》,社会科学如駅出版社, 2∝姓年

④敢建智:絹地斬勃,上海達家出版社, 2006年

⑤金庸茶恰 http:/jillyO喝yhh.cDmtW月軸b.him

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断筆以降は政治評論家として活動する傍ら、中国精密史と中国古典文学を中心とし た研究活動を開始し、 1994年に北京大学、 19%年に漸江大学名番数授の号を受け、

たびたび講演活動を行うようになった。1999年に古瀬折江大学名誉教酸から同校の専任 教陵に任命され、同年漸江大学人文学琵院長に就任し、博士課程の指導教官となった が,金庫の合格基準が、ラテン語またはギリシャ語を要求するなど非常に厳しかった ため、任を辞する2004年までに合格した学生はわずか3名であった。

金庸を劫政治評論家としての顔も持つ.自身が議員や首長の職につくことはなかった が、 「明報」の社説を通じて長らく世論に影響を与える立場にあり、左派と筆を戦わせ

ることもしばしばであった。文化大革命の時期には香港の造反派のブラックリストに 名前が上がり, 「明報」編集部に小包の爆弾が送られるという事件まで発生した。

また政治経済の専門家として、1985年に中国全人代から香港特別行政区基本法の起 草委員に任じられ、彼の起草した草案、別名「査氏法案」は、発表された当時は中国 政何よりであるとして香臥から大きな反発があったものの、現在の香港特別行政区 基本法は事実上「査氏法案」を元にしたものとなっている。その後起草委員の任は1989 年の天安門事件に抗議して辞職している。また1973年に台湾の蒋経国、 1981年に郵 小平、 1993年に江沢民と会見し、政帝上層部と積極的に単独会談を行っている。瓢小 平と会見して以降、金麻矧、平を非常に敬服しており、香港特別行政区基本法も「郵

′ト平の故知「明報」社説での中国共産党政府に卸する姿勢が軟化したことも興味深レ'o また忘れてはならないのは、彼の実業家としての側面である。十五歳で初等中学受 験用の参考書を出版して成功を収めるなど、若くからその片鱗を見せてはいたが、最

も大きな成功は、現在香港の有力紙となった「明報」の創刊である. 1959年の念肝u以 降、 1992年に明報を売卸し引退するまでの約33年間、金庸は毎日社説を執筆し、ま

た草創期には新聞の売上を伸を計ために自らの小鋭を連載もしている。また、続いて

「明報月刊」 「武侠与歴史」 「新明日報」マレーシア・シンガポール版、 「明報周刊」 「明 報晩報」 「財経晩報」などを虐肝り、のちに明薗、明河、明達の系列出版社を立ち上げ、

一つのトラストを作り上げた。それらの株式は1991年に売却し、現在は経済界から も引退している。

この略歴からわかるのは、金庸は実に多彩な側面を持っているということである。

なお、金庸は現在英ケンブリッジ大学歴史学の博士課程に留学中である(2007年現 荏)0

第二節 金庸作品の特異性(ストーリーの特鼎封 1.金庸作品の特徴

金庸が武侠作家として偉大とされる理由は、彼が書いた封則、説の特異性にあるo ここでは、金庸の特徴と具体的に従来の武侠小説とどのような違いがあるのかを考察

ll

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する。

第一に、金庸作品がほぼ全ての作品においてビルドゥングスロマン(成長小説)の 形をとっていることである.従って、物語が始まった時点での主人公は、武侠り、説の 主人公としての重要な要素である「秀でた武芸」 『侠気」」が欠けている。金庫作品の 唯一の例外が処女作の『書剣恩臓で、主人公の陳家洛をま初登場時すでに成人して おり、武芸に優れた侠客である。しかし第二作目である「碧血剣」の衰承志から最後 の作品観の葦小宝まで、全て主人公の武芸の上達及び人格的成長を追うこと が物語の主要な筋となる。

まず主人公ははじめ武芸を全く持たないか、もしくは完成されていない状態である。

そのため物語の途中で絶技を習得することになる。この絶技習得は金庸作品の重要な プロットの一つである.

絶技習得の方法は二種類あり,一つを斌林の高手の弟子になって教捜されるという 方法である。 「射鴨英雄伝」で主人公の郭靖は北巧・洪七公から「降掩十八草」を授か

り、令狐坤は風清揚から「独孤九剣」を授かる。絶技とは習符することも難しいが、

武林を揺るがし兼ねないその絶大な力ゆえに、普通は選ばれた人間しか学べないもの である。従って、師匠となる人物から絶技の継承者として認められるまでが難関であ

ることが常である。主人公が師匠と出会い絶技を授かるまでに,様々な人間と関わり を持ち、時には駆け引きをして継承権を獲得していくその過程が、物語の重要なプロ ットでもある。

もう一一っの方法は武芸書からの独学であるo絶技の習得法が記された武芸書は「秘 笈」又は「宝典」などの名があり、しばしば争奪戦が繰り広げられ、これが旧派武侠 小説の時代から武侠小説の主流プロットである。やはり絶技を習得した者は絶大なる 力を得ることになるため、念入りに隠された上、 ⊥読しただけでは武芸書であると判 断できないように記されていることが多く、必ず研錬が必要となる。そのため「笑敏 江湖」では楽譜が重要な剣譜と誤解されるなどのエピソードもある.また『侠新剤 の「太玄経」は古代輸掛文字に見せかけて経脈の方位が示されており、主人公の石破 天は幹事能力が無いゆえに角額売するなど、作品のプロットに重要は役割を果たすこと

もある。

絶技の継承者から次代の継承者として認められるという過程が難関である前者に対 し、後者でGま武芸書の解読・謎解き及び獲得までが難関であり、主人公は様々な方法 でそれを克服し、武芸の面での成長を遂げる。

さらにもう一つ成長するのは精神面である.主人公ははじめ侠客とは言えない人物 として登場する.そのため物語の最初を幼少期または少年期である藤倉が多し1.従っ て物語の途中で辛酸をなめ、そして恋愛や人々との関わり合いの中で負うべき責任が 増えていくことにより人格的に成長していく。つまり、侠客と言えなかった人物が、

己の素養だけによるのではなく、環境や周囲の人物からの影響、挫折や成功によって、

肉体的のみならず精神的にも成長していく過程が描かれる。これによって金庸作品は、

主人公が最初からすでに完成され,その後も大きく変化しない従来の武侠小説とは‑

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線を画している。

また、金庸作品の主人公はおおよそ教養からはかけ離れ、富とも縁の無い人物たち である。そして重要なのは、侠客たらんという意識がまるで無いことである。ここで もやはり名家の生まれで書生然とした侠客である『書剣恩仇録』の陳家洛は例外とな るが、 『射鶴期箆伝』の郭清は農夫の息子で、教養となると常に恋人の黄蓉にひけをと

り、 『神職対呂』の楊過は野生児然とした家出少年であり、『侠客行』の石破天に至っ ては鞍字能力すら無し'.ただし彼らの、打算無く無意軌こ必要を感じて起こす行動が、

結果的に義侠心に富んだ行動となる。むしろ意識しないからこそ純粋な侠であると言 える。このように普通ならば他人からは見下されるタイプの人間が、先天的な善良さ

と義侠心から尊敬を集め、成長し成功していくカタルシスは、金庫作品が人気を持つ 理由の一つと言える。

第二に、中国の歴史と伝統文化に対する幅広い知識を活用して、歴史上実在した人 物や事件及び民間伝承を効果的に物語に取り入れている。まず歴史上実在した人物は、

歴史背景を明確にしている作品では必ず登場しており、 『書剣恩仇削の乾隆帝、 『碧 血剣』の李自成、随一鶴英雄伝』のチンギス・ ‑‑ン、 『越女剣』の花森などの存在が、

それぞれ主人公の行動に重要な影響を与えている. 『鹿鼎記』さま金庸自身「 (『鹿鼎記』

は」むしろ歴史小説といった方がよかろう」 ①と述べたほど実在した人物の登場が多 く、準主役とも言える康照帝をはじめ、賛辞、呉三桂などが主人公と深く関わってい る.金庸作品に練り込まれた民間伝承の代表的なものはやはり『書軌削鳩醐であろ う。この作品では物語そのものが「乾隆帝漢人伝説」を中心としており、反清復明の 秘密結社で総舵手を務める主人公が、実は乾隆帝と自分が血を分けた兄弟であったこ

とを知り、それを利用してクーデターを起こし、漢民族による国家を取り戻そうとす るのが第一のプロットである.

また金庫は中国伝統文化や歴史、哲学についての藤替や見解を登場人物に語らせる ことがしばしばある。またあだ名・武静などをはじめとしたキャラクター造型の部分 にも巧みに伝統的事物が組み込まれており、金庸の博識を伺わせる。全登場人物、武 術から登場する薬草に至るまで金庸作品のデータを網羅した寧賢茂の『金庸武侠小塩 釜黄宝典』第三篇および第五篇では、金庫が作中で触れた中国伝統文化について、「琴」

「棋」 「書」 「画」 「歌」 r美食」 「美酒」に分類し、一つ‑一つ8領事鋭を加えている.この ように、金庸の作品に登場する豊富な伝統文化‑の言及は,読者をひきつける最も大 きな要素の一つである.

以下は『突放江観』からの一場面で、主人公たちが祖千秋と名乗る貧乏書生に出会 い酒の席となり、祖千秋が酒と杯に関する蕗蓄を、詩を引用しつつ語る場面である。

「葡萄酒なら、むろん夜光杯を使わなければならない.開き萄の美酒夜光の杯、

飲まんと欲すれさ館琶馬上に催す』と詩でも詠われている.(中略)岳武穆も『壮

①金庫: 《著者あとがき》,金醇:作,岡崎由美、小島瑞紀:訳㈱第七巻,徳間書店,盟X姓年, 414貢

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志飢えては餐う胡虜の肉、笑談渇しては飲む旬奴の血』と詞に残しておる」 (中 略)

「この高梁の美酒は最古の酒だ)夏の両皇帝の時代に、儀炊が最初に酒を造り、

高が呑んだのが高梁酒だ」 (中略)

「この紹興酒は古い磁器の杯でないといけなし'.北宋の磁器が最もよく,南宋 のでも何とか使えるが、すでに見劣りがする。元の磁器ともなると、もはや俗 気を免れない。彩花酒はどうか?窮翠の杯を使うべきだ,白楽天が杭州で詠 った春望という詩に、 『紅袖綾を織り柿葉を誇り、青触酉を括ぎ梨花を経つ』と ある。なあ、杭州の酒屋が梨花酒を売る。そこに掛けてあるのは滴るような緑 の旗、それが梨花酒に映えてことさらに粋に見せるのた梨花酒を呑むには、

薪翠の杯に限る才も玉露酒なら瑠璃杯7:E,玉露酒の中には味のような細かい泡 があるが、透明の瑠璃の杯に入れて呑まねば、その良さは分からんよ」 また慨では博学なヒロイン黄蓉が、若輩が江湖の先輩と対等に渡り合う

手段として、随所で知識を披露してそれを武器に相手を敬服させるシーンがあり、そ れは数学、儒教、書画、詩句から料理までと、多岐にわたる。

このように、物語の中に挿入される金庸の知識によって、自然と作品そのものに格 調がそなわり、よって知散人の読者を獲得し、そこから金学及び武侠′J、説研究が発生 するに至ったとも言えよう。そして、こうした伝統文化に関する記述があるため、東

南アジアの華人に歓迎されている原因でもある。

第三に、金庸は常に以前の武侠小説とパターンが重複することがないよう腐心して いる.金庸自身もその努力については認めており、 『鹿鼎記』のあとがきでは「『鹿鼎 記』が以前の私の作品とまるで違うのは、意識的にそうしたのである。作家は作風や 形式がマンネリに陥らず、できる限り少しでも新しい創造を試みるべきであろう」 ②と 語っている。これについては次項で詳しく触れる。

以上を総合すると、金庫の小説は非常に商業的成功の要素に満ちた作品であること がわかる。

2. 鹿鼎記

『鹿鼎言出古瀬小説そのものを根源から覆した作品で、この最後の作品で金庫は 武侠小説の公式をことごとく裏切った。それだけでなく、金庸武侠小説の特性が凝縮

された作品であるといえる。

『鹿鼎記』の概要は以下である。

①金庸:侃小島瑞紀:釈,岡崎由美:監鯵《秘曲期i駈用船第三巻,徳間翫19E6年, 107・1(冶頁より引用

②金庸: 《著者あとがき》,鍋岡崎由美、小島瑞紀訳㈱第八巻,徳間者吉, 2004年

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主人公である葺′ト宝は妓女の息子で、母親と十緒に妓楼で暮らす少年である.ある 日清朝の官官に捕らえられ、殺されようという時に運良く少年官官とすり替わって助 かったため、やむなくそのまま宮廷に住み着くことになる。そして運命のいたずらか

ら清朝打倒を副腎す天地会の幹部となり、同時に官官として皇帝の右腕となり、さら に売国組織のネ輔巨教の幹部にもなる。天性の努力嫌いであるため、武芸はいっこうに 身に付かないものの、この三つの敵粁するグ/レープ全てに良い顔をし、運と機転と話 術で危機をやりすごし、それぞれに振り回されつつも持ち前の強運と機転によって地 位を登りつめていく。しかし最後には隠しきれなくなり、どの派閥につくのか選択を

迫られた葦小宝は、どちらも遷さ君ヂ全てを投げ出し、七人の妻とともに引退身をくら ます。

金庸は、前章でふれた武侠小説という縛りの範囲内で、いかに以前の作品との重複 を無くし目新しいものを創るかということに、常に腐心している.旧派武侠′ト説など の、古くからの数多く書かれてきた侠客の物語を読み慣れた読者の予想をどう婁切る かが、金庸の武侠小説創作における第一の目標であったことは疑いがない。そして、

読者の予想を最大に婁切って見せたのが,主人公が義侠の士でもなく、責任のある立 場でもない一般庶民であるという『鹿己鼎記』であった。

大陸における金庫研究者の代表格である陳墨(中国電影芸術研究中心)の研兜むに よると、武侠小説には遮れられない四つの欠点がある。一つさ滴哲のパターン化であ る。武侠/j\説の物語にはいくつかのパターンが存在する。厳家炎によると主要なもの は、仇討ちパターンの「復讐」、兵法書や武芸の経艶、または財宝などを江湖をあげて 奪い合う「宝の争奪」のパターン、江湖の覇権を争う、またはそのためにめぐらされ た陰謀に主人公が巻き込まれる「陰謀・争覇」パターン、そして大きく横暴な勢力に 立ち向かう「抗戦」のパターン偲の四つである。金庸は大体においてそのパターンを 取り入れているが、決して一つのパターンで全編を通すことはなく、必ず複数のパタ ーンを盛り込んでおり、基本となる大筋の上にいくつものパターンが絡む構成となっ ている. 『鹿鼎吉田では、皇太后の陰謀を阻止する宮廷のお家騒動、満洲八旗の秘宝が 隠された「四十二章経」をめぐる争奪戦、康無帝暗殺計画、ロシアのクーデターに和 平交渉まで、次々に主人公を事件が襲うo また,王立氏の研野では、金庫が旧派武 侠小説の時代に固まった復讐パターンを破り、復讐どちらかといえば復讐を無益なも のであるとしていると指摘しており、ここに金庸の現代的な.取思が現れている。

次にキャラクター像の放射ヒである。多くの武侠小説は、侠客は侠客らしく、悪人 は悪人らしくといった、単純なキャラクター像になりがちで、人物像に多様性が無し㌔

善悪、武芸の高低がはっきり分力れており、キャラクターがただの符号と化してしま

①除墨: 《金庸小悦与20世た中国文学》,除墨著鰍削、汝己紛,上海三昧弔店, 19SX)年, 16頁

②平家炎: 《漁金庸小悦的情弔芝木》,通俗文学坪姶,1労7年1月

⑳王立:侮鮒戯鋤第二十章,人民出版社, 2005年

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う.しかし、金庸の描くキャラクターは善人悪人の区別も難しく、一人一人の性格が 平面的ではない.特に『鹿鼎紀男に至っては主人公自体が決して善人ではなく、侠客

らしくもなく、放さも善良さも義侠心も併せ持った複雑な性格である0

第三に粗製濫造によるプロットのほころびであるが、これを金庸は度重なる改訂で それを解消しようとしている。金庸作品は決して粗製濫造されたものではないが、連 載は毎日のものであり、時には納得のいくまで推敵をすることもままならないことも

あったであろうし、またストーリーも、翌日の号まで読者を引きつけるために毎回終 わりに山場を作り、先が読めない展開にすることが必須条件であった。こうした制約 の中で書きつづられた作品は、作家という立場からすると必ずしも満足のいく出来で はなかったであろうo一作品を書き上げた上で連載していたのではないことは、防瀧 八部』の連載中に外遊することになった金庸が、友人の作家院匡に代筆を頼んだ訂と いうエピソードからも裏付けられている。従って、連載時のものをそのまままとめた 藤倉は、おそらくプロットのほころびだけに止まらず様々な破綻があったであろう.

金庫研究者の厳家炎は、金庸作品の芸術的欠陥について、 「新聞連載時の痕跡やしるし が残っている。 (中略)金庸はのちに七,八年かけて改訂を行ったが、極力改善しよう としてはいるものの、まだいくらかその名残が残っている」 ②としている。

最後が、武侠小説が商業小説である故に、読者の目を引くため低俗な要素を盛り込 まざるを得ないことによる、武侠/ト説の芸術性の限界である。事実、金庫は自ら設立

した新聞社の売り上げ増加を狙って、 「大公報」時代から人気の高かった武侠/J、説を連 載し、また彼の武侠小説によって新聞の売り上げは増加していた。すなわち金庫の創

作活動は資本主義に基づいた経済活動に直結したものであり、この点においては以前 の旧派武侠小説の作家たちよりも、かえって商業的な意図は大きかったと考えてよい であろう。そして商業的成功のためには、常に読者が求めるものを念頭に置いて創作 をしなくてはいけない。しかし金庸は、暴力・エロス・魔術・怪物といった安易な娯 楽要素を極力避け、前項で述べたように伝統文化に関する描写を多く取り入れること によって中国的情緒、懐古趣味を前面に押し出し、それによって大衆の興味を煽って

いる。

金庫は武侠小説というジャンルにおいて大きな貢献をしている。それは、武侠小説 を単なる低俗な娯楽小説から文学の地位にまで押し上げたというのみならず、武侠小 説そのものの枠組みを破壊し脅すものであった。

元来の武侠小説の主人公が「武芸に秀でた侠客」という理想的人物であったのに対 し、金庸は哩想という面では不完全な侠客を描くことによって、リアリティーの付加 と従来の武侠小説との差別化に成功した。理想的侠客像からの帝離は‑作品ごとに多 様化し、最後の作品『鹿鼎記』の葦小宝に至ってをま最初から最後まで保身ばかり考え る′ト市民である.この作品でついに金庸は「謝彩J、説でありながら主人公が侠客と言

①侍国涌: 《中国現代作家倖近状弔金酎靭,北京十月文芝出版社, 2CO3年, 400頁

②戸家炎: 《就金庫作品答大学生[DTD),廓可斌:境線J脚掛,新手工大棚牡2㈱年, 168京

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えない」という本末転倒な隆作を生むに至った。葺小宝は元来江湖の人間ではないし、

武芸も持たない、ただ講談で聞き知った侠客というものに憧れているだけの生粋の一 般人である。義侠心も‑般人のレベルでしかないo侠客たちの戦い、宮廷の権力争い

など、これまでの武侠小説が当たり前に措いてきた世界を、 「般人であるが故に客観 的に見ることができる。また,勝手が分からないために周りには心中で馬鹿にされる。

この設定に大衆は共感せざるを得なし1o葦小宝の能力はただ‑一つ、環境適応能力の高 さである。下々の暮らしをあずかり知らない世間知らずな殿上人や、生真面目な天地 会の面々とのとぼけたやりとりのユーモアに彩られ、何の実力も武芸もなく、女好き であるなど人格的にも破綻している主人公が、他人に振り回されている内にその地位 を上りつめていく姿は痛快である。

注目すべきは、葦小宝の徹底した現実的かつ客観的な態度である。金庫は葦′ト宝以 外の人物に関しては、それまでの作品と何ら変わりのない造型を行っている。ただ葦 小宝のみが現実的なのであるoそのため、一般庶民の目から見ると, 「普通の」武侠小 説に書かれている貴人や侠客というのはこれほども常識知らずで、融通の利かない 人々なのだということを、初めて正面から取り上を滞朽掃しているのが,この作品の最 大の魅力であり特徴である。つまり『鹿鼎記』とは壮大な自己パロディーなのである。

金庸がここまで書いてしまったため、武侠小説はこれ以上の目新しさは得られなく なってしまった。武侠小説という枠の中で出来うる全てのことを金庫は作品に盛り込 んだため、 『鹿鼎記』以降の作品は全て金庸作品のいずれかの模放でしかない。金庸の 断筆は、自己模倣を避けるためであったのかもしれなし1.

小結

金庫作品の特異性は小説としての個性にとどまらず、武侠小説そのものを根本から 覆すものであった。金庸はそれまでの新雪糾、説、旧派武侠小説で書かれてきた武侠′J、

説の楓を破壊し、かつ武侠′J、説として非常に優秀な作品を創作した。染羽生が

「たとえ武が無くとも侠は無くてはならない」という姿勢を守り続けたのに対し、金 庸は侠になりきれない人間や、意静せず義を行う先天的な侠を描いただけでなく、 『鹿 鼎記』では侠そのものを邦愉する作品までも書いてしまった。金庸がj封知\説の改革 者であることは、この点だけを見ても明らかである。

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第三章 金庸研究の現状と問題点

本章では本研究のテーマである金庸研究(金学)がどのように発展したかについ て述べ、続いて研究のタイプを挙げて分析し、そこから現在の金庸研究の問題点と欠

けているものは何かを考察する。

第一節 武侠小説研究と金学

金庸作品の研究を『紅楼夢』研究の「紅学」にならって「金学」と晩弘大陸にお ける金庫研究は、 1979年に武侠小説が正式に大陸で解禁され,それに伴い度門大学の 鄭朝宗が「金学」を提唱したことに始まったが①、賛同者は少なく学術界の注意を引

くことはなかった。 「金学」は翌1980年に台湾遠景出版社社長の沈登恩が金学研究の 原稿を募集し、同出版社から「『金学』研究叢書」がシリーズ刊行されたことで日の目

を見たが,この「金学」は金庫作品のフアンである作家や評論家らが、自らの金庫に 対する評価を述べるか、登場人物を批評するなどサブカルチャーの域を出ておらず,

またそれに伴う金学ブームも大陸にまで至らなかった。その後1985年に大陸におい て最初の金庫研究論文が発表され,翌年には著名な紅学家である裾其庸が雑誌「中国」

に手記「濠金庸」を発表して「金学」に賛成したことで、ようやく「金学」が大陸の 学術界で印象づけられることとなった。また、それを追うかのように1988年に風雲 時代出版公司から「梁学研究系列」と題した研究書が出版され、梁羽生を研究対象と する「梁学」が誕生した。

1994年、金庸研究は大きな盛り上がりを見せた。 3月に三聯番古から金庸の全集で ある簡体字版「金庸作品集」が出版され、続いて8月には北京軒確抄こ学の王‑)lfらが

「二十世紀中国文学大師文軽」を発表し,その中の中国現代小説家の序列に,魯迅、

沈従文、巴金に次ぐ第四位に金庫が序せられたのである。圭一川は金庸の作品は畠俗 的手法を用いて深い意味を表現し、中国古代文化の魅力を描き,人間の理想的性格と 人間性の考察を体現したことは文学史に対し深い意味を持ち、「作品は中国文学発展の 方向、雅俗共賞を体現している」とした乾 さらに10月には北方く大学が金庫に名誉教 授の号を授与、同時に金庸小説選修課が設立された。このように1994年は金庸研究

において最も実り多い年であったが、同時に多くの批判の的にもなり、金庸作品と金 庸研究に卸する最初の公的批判である鮮烈山の手記「拒絶金庸」が発表された年でも

あった。

この頃から金学は盛り上がりを見せ、 1997年には第一回「金庫学術研究討論会」が 杭州で開かれ、続いて1998年にはアメリカ,台湾、昆明などで前後して計5回の国

際的な金庸小説の学術研討会が開かれた。台湾の学者林梶棒(淡江大学中文系武侠小

①丁辻: 《金学的四十相美学柵, 《通俗文学津浪》, 1997年第l期

②王‑川:働F臓, 《横弔》, 1994年第11期

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説研究室)の統計によると、 1979年から1999年までの間だけで金庫′ト説に関する論 文は計3(泊余篇(部)著されている0. 2000年に北京大学で開カれた「金庫国際学術 研究討論会」には、金庸自身も出席し、出席者からの質問に直接答えるという場を設 けて詰襟となった。またこの年に金庫はノー<)レ文学賞にノミネートされている。

梁羽生研究の「梁学」が誕生したものの金学ほど盛んにはならず、事実上金庸研究 がつまり武侠小説研究であると言ってもよい。梁学が下火になったのは梁羽生の小説 が金庸ほど商業的に成功せヂ、また独創的ではなかったという理由だけではなく、金 庸自身が金学研究‑の協力に積極的であるということが大きく影響している。梁羽生 も自らの小説の研究会に出席し、そこで質問を受け付けることもあるが、金庫はさら に読者や研究者の指摘をもとに作品の改訂を行っているのである。これは陳碩の「経 典制進一金庫研究的文化政治」 ②に詳しい.

第二節 金庫と中国伝統文化

金庸研究には大きく二つの柱がある。一つが伝統文化継承の役割について論じてい るもので、もう一つさ繊糾、説としての文学的価値に関する検討である.本節ではま ず前者について、中国文化と金庸作品の関わりについての論文を資料とし、それらの 研究で金庸武侠小説と中国伝統文化の関わりが研究によってどのように導カれている のかを分析する。

金庸の作品には中国伝統文化の事物が多数登場することについては、前章で触れた 通りである。それら伝統文化の事物が物語としての魅力となっていることは確かだが、

同時にそれ故に金庫武侠小説は文化的価値を持つと言われる。金庸を「二十世紀中国 文学大師文軽」で第四位とした王」榊ま、 (金庸は)中国古代文化の魅力を描き出し、

儒教・仏教・道教・孫子兵法などの古典文化の趣に対し新しい組み立てを行い、かつ 作品が人間の理想的性格と人間性に対する考察を体現している。彼とほかの武侠小説 作家と違うところは,文化に拠っているという点である。」 ③と述べている。

陳墨は、金庫作品は民族文化伝統の尊重と継承に対して重要な意義を持っていると する.彼の論文「金庸小硯与20世紀中国文学」では、封糾\説の存在意義について、

「20世紀中国本土の文学主流は、明らかに反伝統傾向にある‑‑歴史のある時期には 極端な反伝統に走った‑一従って伝統文化の細い灯は武侠小説などの通俗叙事類型の

中に深く隠れることによってのみ保存され伝えられることができた」 ④と述べられて いる。また同論文において、金庸作品が華人社会全体において支持されている原因に ついても「金庸、梁羽生らの小説は中国香港、台湾、大陸で売れているだけでなく、

① 〈中国青年撮》,1㈱年11月7日,鰍干rJ)) 1㈱年12月号52頁より転載

②除斬:鰍一金庸研究的文化吹消》, 「西師範大学出版払2M年

③王」" : 《金庸可能当大師?》,中国育餓1994年8月25日

④除墨: 〈金庸小鋭与20世紀中国文学》,除墨著…《孤牡之侠一金庸小汝姶》,上海三昧弔店, 1999年, 14頁

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参照

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