1.序
無垢な者や義人の苦難の問題は古来大きな文学テーマである。ユダヤ教やキリスト教では、罪な き者の苦難は神の正義にかかわる。善人には幸福が、悪人には罰として苦しみが与えられる、とい う幸不幸の配分は普遍的に人間の自然な公正感の要求するところである。しかも、ユダヤ=キリス ト教では特に、旧約聖書の申命記
28章にあるように、旧約の律法に従う人々には幸いが、従わな い人々には不幸があることが約束されており、義人の苦難は、その約束に反するように見えるので ある。旧約聖書のヨブ記は、このテーマの最も顕著な例であり、
20世紀に至るまで、様々な小説、
戯曲のモチーフになっている。本論では、文学におけるこのヨブモチーフの系譜から、旧約聖書の ヨブ記、アーチボルト・マクリーシュの『
J.B.』 (
MacLeish 1958)
1)、ニール・サイモンの『神の お気に入り』
2)(
Simon 1974)を文学における義人の苦難の問題への取り組みの例として考察する。
2.ヨブ伝説と旧約聖書のヨブ記
旧約聖書のヨブ記は、既存のヨブ伝承にもとづいて書かれている。
19世紀後半にペンシルバニア 大学の発掘隊が古代メソポタミア都市ニップルで発見した粘土板に『シュメールのヨブ』あるいは
『人とその神』と呼ばれるヨブ伝承が刻まれている。これは前
1750-1700年頃のもので、その伝承 はすでにそれよりも何世紀も前から存在していたと考えられている。 「バビロニアのヨブ」 ( 「我は知 恵の主を賛美する」として知られる)もまた、現存する最古の写本は
BCE7世紀ながら、
BCE1000年以前にさかのぼると考えられている。
BCE1000年ごろ執筆された「バビロニア神義論」は、ヨ ブ記と共通点が多く、ヨブ記同様、受苦者とその友人との対話という形式を用いている。罪なき者 の苦難と神の正義の問題は、古代エジプトの文学にも見られ、シリア―パレスチナでも、第
2千年 紀の文学に「ヨブ」という名が見られる。カナンの叙事詩「ケレト王伝説」 (
BCE1400頃)は旧約 のヨブ記と似通った枠組みを持ち、主人公は、義しい王であったにもかかわらず
7人の妻とすべて の子どもを失い、彼の王朝の存続の見込みを断たれるという説明のつかぬ苦難を被る
3)。
旧約のヨブ記の成立年代は正確には分かっていないが、言語学的特徴などから、その上限は
BC587
年のバビロン捕囚以後と考えられ、下限については、
BC3世紀の初期に書かれたと考えら
れている「ベン・シラの知恵」でこれが言及されていることから、
BC200年頃にはすでに書かれて いたと想定できる
4)。従って「ヨブ記」の成立は、
BC5世紀から
BC3世紀までの期間であろうと 考えられる。この説が正しいとすれば、ヨブ記の著者、あるいは著者たちは、
BCE8世紀の北王国
文学の中のヨブ記
―ヨブ記と、アーチボルト・マクリーシュ『 J.B. 』、
ニール・サイモン『神のお気に入り』
本 多 峰 子
の滅亡から
BCE6世紀のユダ王国の滅亡に至る民族の歴史を知っていたことになる。なぜ神の民で あるはずのイスラエルが不信の輩である他民族に侵害され侮辱され滅ぼされるのか。義人の苦難に 対して神の義を問う、ユダヤ民族の問いがヨブ記の背景にはあることになる。
「ヨブ記」のあらすじは以下のようである。ウツの地の人、ヨブは東の国一番の富豪であり、七人 の息子と三人の娘に恵まれ、義しい人であった。しかし、天でサタンは神に、ヨブが神を敬うのは 神が彼の一族や財産を護っているからに過ぎないと言い、 「御手を伸ばして彼の財産に触れてごらん なさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」 (
1:9-11)と進言する。神はサタンに、ヨ ブの所有物を一切好きにしてもよいという許可を与える。そこで、ヨブは、全財産と息子、娘を失 うが、神を呪うことはしない。サタンは、次に、命を除きヨブの体をさいなむ許可を得て、ヨブの 全身に重い皮膚病を負わせる。彼の妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうが ましでしょう」 (
2:9)と言うが、彼は、 「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸福を いただいたのだから、不幸もいただこうではないか」 (
2:10)と答え、やはり神を呪うことはしない。
ヨブの友人、エリファス、ビルダド、ツォファルが見舞いに来るがヨブの激しい苦痛を見て、話し かけることも出来ず、ただ、七日七晩ヨブに寄り添うのみである。やがて、ヨブは自分の生まれた 日を呪い、苦しみを嘆き始める。三人の友人は、それぞれ、不正な人が苦しむことはないはずであ るからヨブは何らかの罪を犯しているに違いないと確信しており、彼を諭し始める。エリファスは、
神の懲らしめを受けることは幸いであり、懲らしめの後救いが与えられると論じる(
5:15-27)。ビ ルダドは、神は正義の裁きを曲げることはないのであるから、子どもたちが命をとられたのは彼ら が神に対して罪を犯したために違いないと決めつけ、ヨブが義しければ神はかならず彼の家を元通 りにしてくれるはずだと言う(
8:3-6)。ツォファルは、ヨブが神に潔白を主張することを責め、神 はその知恵でヨブの罪を見ているのであると言い、全能者の神秘を認め不正を避ければ、労苦はな くなるだろうと、宗教的な知恵を繰り返す(
11:4-16)。ヨブは、友人たちが自分の義を理解してく れていないことを憤り、神に自分の義を主張し、なぜ義しい自分が苦しまねばならないのか、なぜ 不正な人が栄え、義しい者たちが不幸に会わなければならないのか、神に問い始める。友人たちは それを見て、ヨブに対して怒り、神に対して自分の義を主張する彼をたしなめる。しかし、ヨブは、
やはり自分の失った幸福を思い、嘆き、あくまでも自分の義を主張する。それを見て友人たちは口 を閉ざす。そこで、エリフという若者が登場し、ヨブに対しても、ヨブに反論できない三人に対し ても怒り、神の霊を与えられた言葉として、神の全能と神の前での人間存在の小ささとを弁じ、 「な ぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」 (
33:13)と諭 す。続いて、神が嵐の中からヨブに答える。
これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは……
私が大地を据えたとき お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ……
お前は雌獅子のために獲物を備え
その子の食欲を満たしてやることができるか……
お前に尋ねる。私に答えてみよ。
お前は私が定めたことを否定し 自分を無罪とするために
私を有罪とさえするのか……
お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ その舌を縄で捕らえて
屈服させることができるか……(
38:2-40:25)
ヨブは神に答える。
私は軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
私はこの口に手を置きます……
私は理解できず、私の知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました……
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、私は塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。
(
40:4-42:6)
神は、ヨブの友人たちに対しては、彼らが神の僕ヨブのように正しく語らなかったと怒りを表し、
雄牛と雄羊七匹ずつをいけにえにささげてヨブにとりなしの祈りをしてもらえば、赦してやると言 う。ヨブが友人たちのために祈ると、神はその祈りを受け入れ、ヨブには以前の二倍もの富と新た な七人の息子と三人の娘を与る。彼はその後
140年生きて長寿を全うした。
3.「ヨブ記」の解釈
ヨブ記は、信仰の書として読まれる場合、神は絶対的に義しく、ヨブは創造の業の壮大さと神秘 を啓示されて、神を咎めるような発言をした非を認め悔い改め(
42:6) 、その結果赦されて最後には 最初の二倍もの富や家族の幸せを受けたのだと読まれうる。カール・バルトはそのように読んでお り、以下のように言っている。
ヨブに与えられるべきヤーウェの答えの意義はこうでなければならず、また事実こうである。 す なわち、それは、ヤーウェが自分自身を、つまりまさしくエロヒム―シャダイとしての自分自身を 識らしめること、それもその高きもの全能者の働きがまったく謎に包まれているままで、彼が、
特にイスラエルを選び、そして今また彼を選んだその神であり、それゆえまた、彼が(
39・
31以
下)相争おうとは思わない、相論じようとは思わない、その前にただ手を口に当てるのみである
ところの彼の主であることを識しめることである。「私は全能の神である」(創世記
17・
1) (「隠
れていることを越えて」)
5)つまりこれが、嵐の中からヨブに与えられた答えである。それは、彼、ヤーウェがヨブに対して自 由であることを認識し、この彼の自由にあるままの彼を、エロヒム―シャダイなる彼を、愛し、ほ めたたえる自由、このヨブの自由に対する呼びかけである。 (「隠れていることを越えて」)
6)彼は、ヨブに対する神のやり方を完全に肯定し、ヨブが手を口に当てて黙ったことを、彼が神を識っ た成長と悔い改めの表現と見ている。
また、ゴルディスは、
ヨブは自分自身の理解の限界をわきまえることができずに、神を非難したことを悔い改める。
こうしてヨブは心からそれを受け入れる気持ちで神の意思に従うのである
7)。
と解釈している。
このような読みには公理的前提として、ヨブと神との対峙においては神の側に非があるというこ とがありえず、神は絶対的に善かつ全能であるとの信仰がある。最初から、神には絶対に非はない と考えればヨブの側に悔い改めの理由があるとしか考えられないのである。ヨブが神の律法に反す るなどの罪を犯していないとしても、彼に信仰誇りや傲慢の罪を見る者もある。これは、聖書を信 仰上の正典として読む場合の自然な読みである。ギブソンの次の言葉は、その例である。
敬虔と偽善、自己愛と自己欺瞞、見せ掛けのみの卑屈さと天をも恐れぬ高慢、いつの時代にも 人間が自分自身の真実を隠そうと試みてきたこのような人間の深層を、容赦なく剥ぎ取った書 物は、後にも先にもヨブ記のほかには無い。また、汚れに満ち、深い苦悩のうちにある人間の 生が、唯一、意味と平安を見出しているただ一人の御方の要求を仮借なく人間に突きつけてい る書物は、本書以外、後にも先にも見られない。
8)イスラエルの知恵文学の雰囲気を捉える最善の方法は、少なくともこの場合、イエス・キリス トの譬えの中に出てくるファリサイ派の人物の ―私たちが感じる―恐ろしい言葉、 「神よ、
私は他の人たちのようではないことを感謝します」 (ルカ
18:11)という言葉を、全く正直にそ のままに、偽善の疑いを全くかけることなく受け入れることである。ヨブはこのような人物の 一人であったのである。
9)信仰の書としてヨブ記を読むもう一つの読み方としては、ヨブを、神に問いかけ、神のやり方に 憤りながらもけっして神から離れようとしない、神に全身全霊で向かい合う信仰の人としてヨブを 読む読み方がある。ヨブは、「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、
同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑
う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている」(
9:22-24)と言い、自分が神に正当に扱われ
ていない(
9:35)と訴えながらも、神に敵対するのではなく、むしろ神に顔を向けてもらうことを
切望し(
3:20-24) 、神に護られていた日々を懐かしむ(
29:2-5) 。これは、現在の
J.K.ロスの抗議の
神義論や、ユダヤ教のエリ・ヴィーゼル
10)の態度に通じる。彼らは、アウシュヴィッツを許した
神に抗議し、神を有罪としながら、神を信じ讃美し続けている。
ヨブは神が自分を忘れ、自分を棄ててしまったと感じ、そのことに苦しんでいる。そのことを考 えれば、ヨブが神の顕現を受けて口をとざしたのは、何よりも、神が彼を見捨てておらず、彼個人 に現れ、答えてくれたことに満足したからであると考えられる。彼と神の阻害関係がそこで修復さ れたからである
11)。
一方、ヨブ記を文学として読むならば、また別の解釈が現れてくる。第一に、信仰上の縛りがな くなる。神は絶対義しいとの前提も、一度わきにおいて見ることができる。その場合の自然な読み は、まず、ヨブが義しい人である、とのことが印象付けられるところから始まる。彼の義しさは、
作中でまず語りのセリフでヨブが「無垢な義しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」 (
1:1) との語りの言葉によって明示され、重ねて、神がサタンに言うせりふによって裏打ちされる。 「お前 は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な義しい人で、神を畏れ、悪を避け て生きている」。これは、ヨブの潔白さを強調するように、二度、同じ言葉で繰り返されている(
1:8;2:3
)。それゆえ、ヨブに罪があり、彼の苦難はその罰であるとの見方はなされ得ない。ヨブの苦難 は信仰上の試練であると読まれるかもしれない。だがその場合、それではなぜ神は無垢なものに堪 えがたい試練を与えるのかとの疑問は残る。神は愛であり、全知全能であると考えると、これは理 解しがたいことだからである。
文学として読まれるときにはさらに、神がヨブに顕現してその創造の業の大きさを示してヨブに 口をとざさせたやり方が誤っているようにさえ思われうる。ロバートソンが指摘するように、神の 業の壮大さを強調して神の義しさを弁護する友人エリフの言葉が、ヨブを有罪とする点で誤ってい ると印象づけられるために、エリフと同じ理論でヨブに対峙する神も誤っていると感じられる。
彼[エリフ]は神の動きをほとんどあらゆる方法で先取りする。彼は、神と同じく、神がヨブ に勝ると考える。彼もまた、ヨブが有罪者の側に入ると考える。彼の演説は誇張されており、
神のそれと同じく爆弾的である。彼は神の技術的な卓越性に関する神自身の記述を先取りさえ
する(
36:22以下) 。 […]その後神が現れて、エリフの言葉と身振りと態度とをまねするなら、
神を尊厳であるとみることはきわめて難しくなるのである。雄弁な教授を例にしよう。一人の 学生が教授の来る前に彼のやり方を真似したとすれば、教授がいつもの美辞麗句で講義を始め たとき、教室に反応のあることは避けがたいであろう。
要約すれば、これは神の嵐の中からの予備的解釈である。われわれは神が自身とヨブの無実 を証明することを期待する。だが明らかに神はヨブの告発にあまりにも脅かされたため、神は 自分が正しく、かつ懸命な神であることを証明しようと試みることによって、ヨブを有罪にす るのである。しかし、神は、ヨブが予告したとおりにふるまうから、われわれは彼の正義と知 恵とを確信することができない。事実、神は全く逆のことを確信させるのである。神は友人と 同じように見えるから、彼が憐みのない、不正な、愚かなものであると、われわれを説得する のである。
12)38
章から
40章での神の答えには、神が創造主であり、怪物のような恐ろしい動物をも作った(
40:15) ことを言うだけではなく、雌獅子に獲物を備え、その子の腹を満たし、烏のために餌を置き、山羊 や雌鹿の出産を見守り助ける神、被造界を守り支えている神であることも言われている。それゆえ、
一概に、神の答えがヨブを脅威でひるませただけとは言えないであろう。しかし、ヨブ記において
エリフの答弁はあきらかに、読者の共感を得るようには意図されておらず、それに続く神の答弁に 対しても読者の共感を妨げる効果がある。
こうして、文学として読まれる時には聖書が聖書として読まれるときにはありえない、神の義を 否定する読み方さえもなされうるのである。
神が完全には善ではないとの解釈は、心理学者ユングによってもなされている。ユングは、 『ヨブ への答え』で、ヨブの、 「このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には、私 を弁護してくださる方がある。……人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁い てくださるように」 (
16:19, 21)との言葉と、 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、つい には塵の上に立たれるであろう」
(19:25)を取り上げ、 「ヨブのこうした言葉から読みとられるのは、
人間は神に対して義しくありうるだろうかと疑いながらも、正義に、従って道義に立脚して神に立 ち向かうという考えを、ヨブはなかなか捨てられないということである。神のわがままが正義をお し枉げるということが、かれには容易にのみこめない。神の義への信仰をどうしても諦められない からだが、一方では、かれに不正と暴力を加えるのはまさにヤーウェ自身以外のなにものでもない と、認めざるを得ない。 […]この困難をまえにして神の単一性を見失うことなく、神が自己矛盾の 状態にあること、それも、神のうちにヨブに力を藉
か
し神に対して弁護してくれる存在が確かにいる と信じられるほど完全に矛盾しているということを、はっきりと見て取るところが、おそらくヨブ のもっとも偉大な点である。彼にとってヤーウェの悪はそれほど確かであり、その善もまたたしか である。我々に対して悪事をなす人間のうちに同時に助力者を期待することはできない。 しかしヤー ウェは人間ではない。彼は一人で両者、迫害者でありかつ助力者である。しかもどちらの面も等し く現実である。ヤーウェは分裂しているのではなく、二律背反なのである」
13)と言っている。
ユングは、神の顕現と答えによってヨブが口をとざしたことを、真の悔い改めとは見ず、圧政者 の前で弱いものがとらざるを得ない態度と呼んでいる。
命があぶないことになりかねないのだから、理性のもう一つ上の段階へひき退がって口をとざ すしかない。しかしこのことによって彼は、みずから知らず望みもせずに、神である相手を知 的にも道徳的にもわずかながら凌駕していることを立証することになる。ヤーウェは「あしら」
われることにも気づかなければ、絶えず義を讃えられねばならない理由もみずからわかってい ない。彼は民に、可能なかぎりのしかたで彼を「讃え」なだめることを怺え性なく要求する。
14)このような神に対しては、人間は[…]服従し、讃美の言葉を山と積み恭順を誇示して、絶対 的支配者の心を宥めるよう間接的に試みることしかできない。現代の感じ方ではここには信頼 関係はあり得ないと思われる。このような無意識の自然的存在から道徳的満足を与えられる信 頼関係は期待すべくもない。だがヨブの身にはそれが起こった。
15)これはヨブにとって最大の道徳的満足である。少なくともそうでありうる。なぜならこうした
宣言によって、人間は無力であるにもかかわらず神を裁くものの位置へと高められるからであ
る。ヨブがこのことを見て取ったかどうかはわからない。しかし相当多数のヨブ記注解書から
実証的にわかるのは、モイラないしディケーがヤーウェを支配しこのような身の処し方をさせ
ているということを、後の時代がすべて見落としてきたということである。見る勇気さえあれ
ば、ヤーウェがヨブを塵の中へおとし卑しめることによって、みずから知らずに実はかれを高
めている事情が、だれにでもわかる。この行為によってかれはみずからに判決をくだし、ヨブ 記を読むあいだじゅうつらい思いで求めて得られなかった満足を、人間に与える。
16)これは、ヨブ記を正典として、神を絶対的に善かつ全能の至高の存在との教義を公理とする読みで はありえない読みであり、ヨブ記を文学として心理分析的に読んだ一つの例として、多様な解釈の 可能性を例示する。
4.アーチボルト・マクリーシュ『J.B.』
アーチボルト・マクリーシュの詩劇『
J.B.』は自由詩で、旧約聖書のヨブ記に沿った形の筋書き で進み、登場人物のせりふには、ヨブ記の中でも重要なせりふがジェームズ王訳で多数用いられて いる。ただし、舞台はアメリカニューイングランド、ヨブに当たる
J.B.(
Jobとも呼ばれる)は裕福 な銀行家である。ヨブ記における神とサタンのやり取りの部分は、劇中劇の形で、二人の行商人、
ズス(
Zuss)とニックルス(
Nickles)がそれぞれ神とサタンの面をつけて演じる。こうして『
J.B.』 は、ヨブ記での天上のやり取りを地上におろし、超自然界の要素を現実界におろしている。しかし、
それだけではなく、この劇では、遠くから誰かわからぬ者の声が聞こえ、ヨブ記での神のセリフを 語る。例えば、ヨブ記の
1章
8-10節の神とサタンのやり取りは『
J.B.』でズスとニックルスの二人に よって、次のようにそのまま演じられる。
ズス:お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。
無垢な義しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 [=ヨブ
1:8本多注]
ニックルス:ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を 守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜 はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさ い。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。 [ヨブ
1:9-11同上] 。
ズス:それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。 [ヨブ
1:12同上] (
p. 51)
しかし、ここでズスが言葉を続けて「ただし彼には、手を出すな」とヨブ記
1章
12節のせりふを終 えるのに先んじて遠くから「ただし」(
Only)との言葉がプロンプトのように聞こえる。この声は 神の声であることが暗示され、そのことで、人間界のレベルに引き下ろされていた神とサタンの劇 中劇がまた超自然の神の介入を受け、ヨブの試練が結局はやはり神の許しを得たサタンの誘惑によ るということが示唆される。そして、ズスとニックルスはそれをそれぞれ神とサタンの役割の眼を 通して傍観する者となる。さらに、旧約のヨブ記でヨブに手を下すのがサタンであるのに対し、
『
J.B.』では、神がサタンに動かされて「理由なく彼[ヨブ]を破滅させる」
17)ことが、神の声を暗 示する遠くからの声で語られている。
ニックルスは、神を、人間に対して過酷なものと見ており、 「神は、人間だけには我慢できない」
(
p. 10)と言い、 「何千何百万もの人々が、焼かれ、叩き潰され、破壊され、手足を奪われ、虐殺さ
れてきた。それも、何のためか?[…]これ以上あり得ないほどの多くの人々がこれほど無意味に
苦しんできたではないか」(
p. 12)と言うが、この、神に対する批判のこもった言葉がサタンを演
じるニックルスの口から語られることで、この劇では、ヨブが受ける苦難が、たとえ神が彼の苦難
をサタンの促しによるものと言おうとも、現実に神は数限りない人々にいわれのない苦痛をあたえ ており、サタンでさえもそれがなぜか理解できないとの印象が与えられる。焼かれ、叩き潰され、
破壊され、手足を奪われ、虐殺されてきた多くの人々とは、この劇が初演された
1958年には、アウ シュヴィッツで焼かれた人々をまず思わせ、他の、戦争や民族・人種的理由で虐殺された人々を思 わせたであろう。
J.B.
がヨブと異なるのは、彼が、最初から自分は神の愛顧を得ていると安んじていたことである。
ヨブの性格描写も、多少異なる。旧約のヨブと同様、彼は「無垢な義しい人で、神を畏れ、悪を避 けて生きている」と言われるが、これは、神の役を演じる人間ズスの口から言われることばであり、
旧約と異なり、客観的真理とは見做され得ない。
1幕での最初の彼は神の善や彼が神に愛顧されてい ることを疑わず、無邪気に神を信じているが、神の愛や善を当たり前のように受けて、感謝祭の食 卓では神への感謝や祈りよりも七面鳥を子どもたちに切り分け、食べさせる食事の方に熱心である。
旧約のヨブは、息子たちが神を呪ったかもしれないとの畏れから毎朝いけにえをささげており、
神が時に罰を与える恐ろしい神でもあることを認識しているが、 『
J.B.』のヨブにはそのような面は なかった。感謝祭の祈りをおろそかにして恵のみ味わうことに恐れも感じていない。むしろ、
1幕 で神が罰する神でもあることを強く意識しているのは彼の妻セイラである。
J.B.
が、 「私は自分の幸運―自分の人生―僕らの人生―僕への神の善性を信じている」と言うのに 対して、セイラは、
J.B.がそのように信じているから、自分は怖いのだと言う。 「神は褒美をくださ るけれども、罰することもお出来になる。神は義しい(
just)のよ」(
p. 39)。その心配を
J.B.は、
「もちろん、神は義しい。神は決して変わらない。頼れる方だ。この世界を見なさい」 (
p. 39)と受 け流して、食事に話題を戻す。
そして『
J.B.』と旧約のヨブの最も大きな相違は、苦難が降りかかってきたときの
J.B.の応答に ある。旧約のヨブがどこまでも自分の潔白を主張するのに対し、
J.B.はむしろ、自分に不幸が起こっ たのは、自分に何か罪があるためで、自分は罰を受けているのだと考える。
J.B.と神義論
ヨブと異なり、
J.B.は神に自らの潔白を主張し続けることをしない。
J.B.は、神が無実な者を苦 しめるという考えを受け入れられず、自分に不幸が降りかかるようになると、報いと応答の概念を とるようになる。彼は神が理由なく自分に不幸を与えたとは考えられない。そして、自分の方に非 があるに違いないと思うのである。
神は神である。そうでなければわれわれは何者でもない。 […]
われわれのちっぽけな人生はくだらない ― 悲しくさえない苦しみに過ぎない[…]
われわれに罪があるのだ。それ以外の選択肢はない。
われわれに罪がないのなら、神は考えられない。(
p. 111)
セイラは、そのような考えは、自分たちの無実を代価に神の無実を買うことだと言う。
もし神が義しいなら、無残に殺された私たちの子どもたちは悪臭を放つほどの罪にまみれ、腐っ
ていた、ということでしょう。
[…]
神は私たちに欺きを要求するの?
私たちの無実で自分の無実を買おうとするの?
私たちは神のために有罪にならなければならないの?
世界の悪意の重荷を、世界を作った神のために担わなければならないの?(
p. 109)
それでも
J.B.は人間の側に罪があるという考えに固執し、自分の罪を示してくれと神に要求し続け る。セイラは、そのような彼のもとを去ってゆく。
J.B.
の理論は、パスカルが『パンセ』 (
233)で展開した神存在の証明の理論に通じる信仰の論理 である。パスカルは、神が存在するかどうかは理性で証明することはできず、われわれは神が存在 するかしないかどちらかにかけなければならない、と認識した。そして、もし神が存在するほうに かけて勝てば、すべてを得ることができるが、負けても何も失うものはない。反対に神が存在しな いとかけて負ければ、すべてを失うことになる。それゆえ、神が存在するというほうにかけるしか ないと考えている。ここでの
J.B.も、もし神が存在しないなら、われわれの人生は全く意味がない との信念がある。しかも彼は、自分に罪がないのにこのような苦難を与えるような、無垢な人間を 苦しめる神など考えることができない。
J.B.
が考えを変えるのは、ヨブ記で
38-41章に書かれている神の顕現を
J.B.が経験した時である。
ヨブ記のヨブと同様、彼は、口をとざし悔い改めると告白する(
p. 132) 。これは、ヨブ記
42章
6節 のヨブの言葉そのものを用いている。これを聞いたニックルスはズス(あるいは神のほう)が勝っ たと思う。しかしズスは、ヨブが引き下がったことをむしろ神の敗北と見る。
J.B.
は神を宥めた。神を赦した。そのことをズスは、 「これではまるで、ヨブの苦難が、神の意志 によってではなくヨブが神の意志を受け入れたことによって正当化されたようではないか。 […]彼 が苦しんだことすべてにもかかわらず、彼が失った愛するすべてのものにもかかわらず、彼は理解 し、赦したのだ」 (
p. 138)と受け取り、
J.B.が道徳的に神より優れていると結論する。
J.B.
は最終的に「神は愛さない。存在するだけだ」 (
p. 152)との認識に達する。妻のセイラはヨ ブのところに戻ってくる。そして、彼らは、人間は愛し合うことができるとの認識を確かめ合い、
新たな人生を歩みだすのである。
セイラは、自分が一度
J.B.を離れたのは、川を流れる水が橋の脚で一度分かれてまた一つになり 流れ続けるのと同じように、自分たちも一度離れてまた一つになって生きてゆく道があると考えた からだという。神がただ存在するだけのこの世界で、人間が愛し合うことができるということ、そ れが驚くべきことだというのである。 (
p. 152)
これは、先に見たユングのヨブ解釈のように、神の至高性を否定し、人間の道徳的可能性を強調 するものである。『
J.B.』はユングのような解釈を現代劇の形で肯定しており、これは、アウシュ ヴィッツなどの悪と苦難を許す神への現代のひとつの応答と言える。
5.ニール・サイモン『神のお気に入り』
これも、旧約のヨブ記に材をとった劇である。ヨブに当たるのはロング・アイランドの裕福な企
業家、段ボール箱の工場を所有経営するジョー・ベンジャミン(
Joe Benjamin)で、妻ロージー(
Rosy)
と、三人の子どもたち、デイヴィッド(
David) 、双子のベン(
Ben)とセイラ(
Sarah)がいる。
旧約のヨブ記には子どもたちの性格描写はないが、子どもたちのうち、デイヴィッドは酒飲みで、
父親が与えてくれている裕福な暮らしを嫌い、聖書も読まず、神に祈ることもしないでジョーを悩 ませている親不孝という設定になっている。サタンに当たるのは、リプトン・シドニー(
LiptonSydney
)という名の男である。彼は自分が神の友人であると言う。
旧約聖書のヨブ記との大きな違いは、リプトンがジョーに最初から、ジョーが信仰を試されるこ と、それは、彼が神のお気に入りであり、神が彼を愛するからであると告げ、ジョーが神を棄てる と宣言すればその試練の苦しみは終わると予告することである。これは、サタンの試みである。
ジョーが決して「私は神を棄てる」との宣言などしない、とリプトンをはねつけると、リプトン の予告通り、あらゆる災厄が彼に降りかかる。まず、彼の工場が焼失し、冬のさなかに家の暖房は すべて止まり、ジョーは全身神経痛の堪えがたい痛みなど、身体的にも苦しめられる。住んでいた 家も火事で焼け落ち、妻のロージーは、彼に、神を棄てると言ってくれと願い、彼が神を棄てると 言いさえすればすべての苦しみが終わるのだから、棄てると言ってくれと迫る(
2幕
p. 533)。
ジョーがそれでも神を棄てると言わないので、ロージーはジョーを愛し、赦していると言いおいて、
子どもたちを伴って家を出てしまう。子どもたちが死なない点は、この劇とヨブ記との違いである が、ジョーはこうして家族も失う。そこで、彼は神の声を聞く。試みは終わった、だから、最後に ひとこと、安心して「私は神を棄てる」というがよいとの声である。ジョーはその言葉にさえ従わ ない。すると、その声は、実はリプトンの声で、リプトンは彼を欺こうとしていただけであること が判明する。このことで、ジョーは、たとえ神の命令であってさえも神を棄てるとは言わないこと が分か る。
最後の試練は、息子のデイヴィッドが視力を失って戻ってきたことである。それを見て、ジョー は神に怒りをぶつける。
私を罰してください!私の視力を奪ってくれ、息子ではなく…。あなたの愛はどこにあるので す?あなたの同情は?あなたの正義は? 私はあなたに怒っている、怒っている、本当に、本 当に、本当に!…それでも、私はあなたを棄てはしない!どうです!?(
p. 545)
この言葉に答えるように、雷がとどろき、稲妻が光って、デイヴィットが目を抑える。彼の眼は 見えるようになる。続いて、ロージーがベンとセイラを連れて戻ってくる。彼女はクイズイベント で食物をあてて豊かな食事を携えてきている。デイヴィッドはジョーが命を奪われなかったことを 神に感謝し、神に祈るようになっている。ジョーのすべての心配は終わり、大団円となる。
この劇では、子どもたちの命が奪われない分、ジョーの苦難が軽いようである。また、この劇に は、神へのジョーの告発やヨブ記に見られる無罪の主張などもなく、 『
J.B.』に比べても紆余曲折が 少ないままにハッピーエンドに至る印象がある。ただし、子どもたちが生きているため、ロージー がジョーに、神を棄てると宣言することを断る際のジョーの選択が、彼らの苦痛を犠牲にしてなさ れる設定になっている。現実世界で時に起こる、信仰を保持するために愛する家族や周囲の人々を 犠牲にしなくてはならない状況はヨブ記にはなかった。そのような状況が入っているところがこの 劇の特徴であろ う。
この劇では結局デイヴィッドの眼を開き、ジョーの試練に報いたのが神の奇跡であるように感じ
られ、ロージーがクイズの商品に食べ物を当てた幸運も、ヨブ記の最後のように神に与えられた幸
福の一部のように思われる。その点では、苦しみの後に幸せが来るハッピーエンディングの印象が
強く、深い思索というよりは娯楽を通した人生への励ましという色彩が強いが、ヨブ記モチーフの 現代における一つの扱いとして見るべきものである。
6.結
旧約聖書のヨブ記は、キリスト教の聖典として読まれる他にも心理学的読みや文学的読みが可能 であり、ヨブ記のモチーフは現代の劇や文学でも用いられている。マクリーシュの『
J.B.』やサイ モンの『神のお気に入り』はアウシュヴィッツ後に書かれ、ホロコーストがなされるままにしてい た神の義に対する問いにもつながる。 『
J.B.』は神が人間を愛しておらずただ存在し、人間の苦しみ を見ているだけだと結論し、人間同士が助け合いの愛によって、神が与えてくれない幸福を模索し つつ生きる道を提示する。 『神のお気に入り』は、どれほどの苦難があってもその後に幸せがある希 望を示唆する。マクリーシュとサイモンは義人の苦難の問題にこのように異なる態度で劇の幕をお ろしているが、そのどちらの態度が正しいということはなく、劇・文学という開かれた媒体を通じ て、理解しがたい苦難に直面した時に人間が取りうる道を示唆していると言える。
注
1) Archibald MacLeish,
J.B.: A Play in verse (Boston: Houghton Mifflin, 1958.)2)
Neil Simon, God’s Favorite (1974), in The Collected Plays of Neil Simon, with an introduction by Neil Simon. Volume 2. (出版社の場所:Plume), 1986. pp. 473-545.3)
Cf. Samuel E. Balentine, “Book of Job,” The New Interpreter’s Dictionary of the Bible, vol. 3 (Nashville: Abingdon Press, 2008), pp. 319-323; James L. Crenshaw, “Book of Job,”The Anchor Bible Dictionary, vol. 3 (New York: Doubleday, 1992), pp. 863-865.)4) A. ワイザー『ヨブ記、私訳と注解』松田伊作訳(ATD 旧約聖書注解
11)(ATD・NTD 聖書注解刊行会、
1982
)、
p. 9.5) バルト『ヨブ』ゴルヴァイツァー編・解説 西山健路訳新(教出版社、1969)(
Hiob, von Karl Barth Herausgegeben und eingeleitet von Helmut Gollwitzer(
Neukirchener Verlag Des Erziehungsvereins GmbH, Neukirchen-Vluyn, 1966)6) バルト『ヨブ』、
p. 149.7) ロバート・ゴルディス『神と人間の書―ヨブ記の研究』 (上、下)船水司訳≪聖書の研究シリーズ≫(教 文館、上、
1977;下
1979)、 (上)
p. 310. (原著
Robert Gordis, The Book of God and Man: A Study of Job (Chicago & London: The Univ. of ChicagoPress, 1965)8)
J.C.L.ギブソン『ヨブ記』滝沢陽一訳(デイリースタディー・バイブル(旧約篇
12)荒井章三監修) (新
教出版社、1996)、p. 23.(原著 J.C.L. Gibson,
Job in The Daily Study Bible(Old Testament)
(
Edinburgh: The Saint Andrew Press, 1996) 9) ギブソン『ヨブ記』 、p. 31.
10
)
Cf.「私ははじめて反抗心が身うちに高まるのを感じた。なぜ私が御名を聖とせねばならないのであろう か。〈永遠なるお方〉、〈宇宙の主宰者〉、〈全能にして恐るべき永遠なるお方〉は黙っているのに、どうし て私が〈彼〉に感謝を捧げることがあろう。 〈永遠なるお方〉の名のほめたたえられんことを!」 (エリ・
ヴィーゼル『夜・夜明け・昼』村上光彦訳(みすず書房、1984)、p. 112.)
11
) 本多峰子旧約聖書の神義論―ヨブ記と詩篇の場合『二松学舎大学国際政経論集』第
17号(
2011)(
p. 191- p. 202、特にpp. 192-195.12
)
D.ロバートソン『文学としての聖書』荒井彰三訳(教文館、
1986) (
David Robertson, The Old Testament and the Literary Critic(Fortress Press, 1977) 、pp. 118-119.
13
)
C・
G・ユング『ヨブへの答え』野村美紀子訳、秋山さと子解説(東京:ヨルダン社、
1981)、
p. 27.14)
ユング『ヨブへの答え』、p. 32.
15
) ユング『ヨブへの答え』、
p. 55.16)
ユング『ヨブへの答え』、p. 56.
17