金 山 正 道
*序 章
19 世紀までのドイツ文学を俯瞰するとき、モチーフやストーリーの源泉 を聖書にもとめることのできる作品が少なからず見出される。ゲーテの戯曲
『ファウスト』、「天上の序曲」における主とメフィストーフェレスとの間でお こなわれるファウストをめぐる争奪、換言すれば「賭」、あるいはメフィストー フェレスとファウストとの「契約」は、聖書のはなしからうまれたモチーフの 好例である。1587 年に刊行された最初のファウスト作品『ヨーハン・ファウ ストゥス博士の物語』(以下、ファウスト本と記す1))の場合、聖書のことばが そのまま警告のことばとして随所に織り込まれている。ファウスト本に見出さ れるメフォストーフィレスとファウストゥス2)との契約、すなわち「悪魔と人 との契約」はその後のファウスト文学におけるこのモチーフの源泉となるが、
16 世紀におけるこの原初の形態もまた聖書に記された「神と人との契約」を パロディー化したモチーフであることはいうまでもない。
「いうまでもない」と前の文を結んだが、聖書に「神と人との契約」ではなく、
ファウスト文学と同様に、「悪しき者と人(または人々)との契約」の事例が
* 福岡大学人文学部教授
聖書に見出される論理的に 割り切れない出来事(Ⅰ)
ファウスト文学研究へのひとつの寄与
あるか否かを知ったうえで、上の文を読まれた方はどのくらいいらっしゃるだ ろうか。主の言葉を守らず主に殺された王、あるいはイスラエルの神を神とし ない他民族の王が、人または民と契約を結ぶ、あるいはもちかける事例が聖書 に見出される。つまり、見方によっては「悪魔と人との契約」は「神と人との 契約」にその源泉がもとめられるモチーフではなく、聖書における「悪しき者 と人(または人々)との契約」に由来するモチーフであるという説をさし込む「す きま」がないわけではない。一例挙げてみよう。《サムエル記上》第 11 章から 引用する3)。
1 アンモンびとナハシは上ってきて、ヤベシ ・ ギレアデを攻め囲んだ。ヤ ベシの人々はナハシに言った、「われわれと契約を結びなさい。そうすれ ばわれわれはあなたに仕えます」。
2 しかしアンモンびとナハシは彼らに言った、「次の条件であなたがたと 契約を結ぼう。すなわち、わたしが、あなたがたすべての右の目をえぐり 取って、全イスラエルをはずかしめるということだ」。
この引用は、少年期から主に見出され4)予言者とされた、イスラエル最後の 士師サムエルが、王を求める民の声に対し、ミヅパでイスラエル全部族を呼び 寄せ、くじで彼らの王を決めるに至るくだりに見出される。くじに当たったの はベニヤミンの部族に属するマテリの氏族、キシの子サウルであった。「王万 歳」と叫ぶ者たちがいる一方、サウルを軽んずる人々がいた。サウルの父キシ は「裕福な人」5)ではあったが、部族ベニヤミンはイスラエルの最も小さい部 族であり、一族は――サウル自身のことばによれば――「ベニヤミンのどの一 族よりも卑しいもの」であった6)。ときにヤベシの人々がアンモンびとに攻め 囲まれ、イスラエル全領土に使者を送る。その要請に応じ、サウル率いるイス ラエルとユダの民が敵陣に攻め入り、勝利を得る。この勝利によりサウルが王
として民に真に認められ、ギルガルで王国を打ち建てる。ダビデ以前の出来事 である。そのときサウル 30歳7)、イスラエル初代の王となった。
問題の契約はヤベシの人々の契約の申し出に対して返された、アンモンびと の王ナハシ8)が出した契約である。その内容から相手に拒否されることを前提 とした「悪しき者と人々との契約」である。契約締結の拒否という帰結も含 め、はなしを構成する個々の要素に関し価値において裏返された関係が確認さ れる。つまり――読みにくい面もあるかと思うが――図式的表記をまじえ両者 を同時に対比しながら述べると、<「神すなわち善または全能なる存在」⇔「ア ンモンびとナハシ=主を神とせぬ悪しき不完全なる存在」>が<「神と人との契 約」⇔「悪しき者と人々との契約」>において契約を申し出る側であり、<「絶 対者による祝福の約束という点からすでに前提においてその締結が想定される 契約とその締結」⇔「援軍があれば打ち倒しうる人たる敵による災いの提示と いう点からすでに前提においてその不締結が想定される契約とその不締結9)」>
が帰結になっている。ファウスト文学との関係でいえば、「悪魔と人とのあい だで結ばれる4 4 4 4契約」というモチーフを構成する主要な要素のなかで、「結ばれ4 4 4 ない4 4契約」という「帰結」までもが裏返された関係、すなわち陰と陽あるいは ネガとポジの関係を成す要素が、モチーフの源泉として「結ばれる契約」すな わち「神と人との契約」を想定した場合よりも帰結の分だけ多いことになる。
加えて、16 世紀のファウスト本やゲーテの戯曲の場合、そこでは「悪魔」と いう「絶対的悪」からの契約の申し出を、人が「命と魂」という自己の有する 最も大切なものと引き換えに契約を結ぶ4 4 4 4 4。これに対してサムエル記上のこの
「契約」が「悪魔と人との契約」のモチーフの源泉であると仮定した場合、「悪 魔」との対比において「異教徒の王」10)という「より小さな悪」からの契約の 申し出を人々が、「魂と命」との比較において「右の目」という自己の有する「よ り重要性の低いもの」を奪う条件であっても、契約を結ばないというさらにふ たつの「反転した関係」を指摘することができよう。その結果、この契約をも
とに「悪魔と人との契約」がうまれたとする見解が成立しうることにもなる。
このような事例すなわち「悪しき者と人(または人々)との契約」はこの個 所だけにとどまらない。もう一例挙げてみよう。《サムエル記下》第 3 章から 引用する。引用は 2 節から 5 節を略すなど必要な範囲にとどめるが、わずか 15 の節のなかに八つの人名が出ており、この引用個所を理解するための前提 となる事柄の経緯が引用外にあるため、その経緯の説明上の必要性からも 19 節まで引用する。なお、本稿に続く「聖書に見出される論理的に割り切れない 出来事(Ⅱ)」で考察する「ダビデ――律法と王権の活用または濫用」の伏線 となる事柄も含まれている11)。
1 サウルの家とダビデの家との間の戦争は久しく続き、ダビデはますます 強くなり、サウルの家はますます弱くなった。
〔中略〕
6 サウルの家とダビデの家とが戦いを続けている間に、アブネルはサウル の家で、強くなってきた。
7 さてサウルには、ひとりのそばめがあった。その名をリヅパといい、ア ヤの娘であったが、イシボセテはアブネルに言った、「あなたはなぜわた しの父のそばめのところにはいったのですか」。
8 アブネルはイシボセテの言葉を聞き、非常に怒って言った、「わたしは ユダの犬のかしらですか。わたしはきょう、あなたの父サウルの家と、そ の兄弟と、その友人とに忠誠をあらわして、あなたをダビデの手に渡すこ とをしなかったのに、あなたはきょう、女の事のあやまちを挙げてわたし を責められる。
9 主がダビデに誓われたことを、わたしが彼のためになし遂げないならば、
神がアブネルをいくえにも罰しられるように12)。
10 すなわち王国をサウルの家から移し、ダビデの位をダンからベエルシバ
に至るまで、イスラエルとユダの上に立たせられるであろう」。
11 イシボセテはアブネルを恐れたので、ひと言も彼に答えることができな かった。
12 アブネルはヘブロンにいるダビデのもとに使者をつかわして言った、
「国はだれのものですか。わたしと契約を結びなさい。わたしはあなたに 力添えして、イスラエルをことごとくあなたのものにしましょう」。
13 ダビデは言った、「よろしい。わたしは、あなたと契約を結びましょう。
ただし一つの事をあなたに求めます。あなたがきてわたしの顔を見るとき、
まずサウルの娘ミカルを連れて来るのでなければ、わたしの顔を見ること はできません」。
14 それからダビデは使者をサウルの子イシボセテにつかわして言った、
「ペリシテびとの陽の皮一百をもってめとったわたしの妻ミカルを引き渡 しなさい」。
15 そこでイシボセテは人をやって彼女をその夫、ライシの子パルテエルか ら取ったので、
16 その夫は彼女と共に行き、泣きながら彼女のあとについて、バホリムま で行ったが、アブネルが彼に「帰って行け」と言ったので彼は帰った。
17 アブネルはイスラエルの長老たちと協議して言った、「あなたがたは以 前からダビデをあなたがたの王とすることを求めていましたが、
18 今それをしなさい。主がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手 によって、わたしの民イスラエルをペリシテびとの手、およびもろもろの 敵の手から救い出すであろう』と言われたからです」。
19 アブネルはまたベニヤミンにも語った。そしてアブネルは、イスラエル とベニヤミンの全家が良いと思うことをみな、ヘブロンでダビデに告げよ うとして出発した。
問題の契約は 12 節から 13 節に見出され、「アブネルとダビデとの契約」で ある。7 節のサウル王の子イシボセテのことばにあるように、軍の長たるアブ ネルは主君サウルのそばめとまじわった者、換言すれば「隣人のものをむさぼ る者」13)すなわち「悪しき者」である。契約が結ばれることから、サムエル記 上 第 11 章のアンモンびとの王ナハシとの契約をこえる「反転した関係」は見 出されない。しかしながら――強調してはならないであろうが――契約の仲介 者の存在が認められる。ファウスト文学、たとえば 16 世紀のファウスト本の 場合、メフォストーフィレスはルチフェルから遣わされた者であり、ファウス トゥスはルチフェルの僕たるメフォストーフィレスを介して契約を結ぶ14)。「ア ブネルとダビデとの契約」には「使者」という「仲介者」の存在を指摘するこ とが可能ではある。
ここでゲーテの『ファウスト』に目を向けると、第一部および第二部を通じ 戯曲全体に「ルチフェル」の名は一度も出ていない。ただし、『ウルファウスト』
Urfaust ではただ一度「ルチフェル」Luzifer が登場する15)。因みに、『ウルファ ウスト』を除いたゲーテの全文学作品のなかで「ルチフェル」は唯一『詩と真 実』第二部に登場し、6 回「ルチフェル」の名を確認することができる16)。 ゲーテの場合、草稿段階の『ウルファウスト』ではまだルチフェルの名が出 ているが、戯曲『ファウスト』ではメフィストーフェレスがいわばルチフェル にかわり悪霊をひきいる。『ウルファウスト』におけるメフィストーフェレス の登場には厳しくいえば唐突の感がある。戯曲『ファウスト』はおよそ 60 年 の歳月をかけて書かれた作品であり、第一部「曇り日・野っ原」17)は最後まで 散文のままにされた。もしルチフェルを登場させれば、ゲーテが追求したより 深い理念、喩えていえば「光」と「闇」の相克のなかで向上を目ざすひとの発 展の姿を文学的に形象化するうえで妨げとなる可能性が生じたであろう。むし ろメフィストーフェレスに「闇」の原理を集約する方がよい。この点に関する ゲーテの考えを窺い知る上で、1829 年 11 月 20 日カール・フリードリヒ・ツェ
ルター18)に宛てたゲーテの書簡19)が参考になるが、本稿における本来の論旨か ら逸脱する恐れがあるので、これに言及することは割愛する。なお、ルチフェ ルに関することは、たとえば「明けの明星」との関係に限ってみても、洋の 東西を問わず象徴または表徴としての意味・存在がいくつもあり複雑である。
聖書のなかでも、新約にサタンと関係しない「明けの明星」が見出される20)。 したがって、ここでは本稿の論旨と関連する記述にとどめたことも付言して おく。
閑話休題。アブネルはサウルの死後、イシボセテをマハナイムでイスラエル の王とする21)。イスラエルの王サウルの家臣として、イスラエルの譲渡を条件 とした契約をユダの王ダビデ22)とかわすアブネルの行為は、単純に考えれば主 君への背反である。しかし、聖書のいうところによれば、こうした事態を生ぜ しめた最大の原因はサウルがサムエルをとおして語られる「主」の言葉を守ら なかったことにある23)。サウルはペリシテびととの戦いで死ぬことになり、イ スラエル王として在位した期間は 2 年であった。
ところで「十戒」には「隣人の妻をむさぼってはならない」と記されてい る24)。夫パルテエルからその妻ミカルを、イシボセテをして取らしめたダビデ は十戒のおきてに反した「悪しき者」であろうか。換言すれば、ここでの契約 は「悪しき者と別の悪しき者との契約」であろうか。答えは否である。14 節 の「ペリシテびとの陽の皮一百をもってめとったわたしの妻ミカル」というダ ビデのことばがその答えをすでに与えているのだが、この問題に本稿でこれ以 上言及することは控え、これについては、稿を改め「ダビデ――律法と王権の 活用または濫用」で扱う。
旧約聖書には上記の契約以外にも、ユダの王ゼデキヤとイスラエルの民との 契約25)など「悪しき者と人(または人々)との契約」の例が見出される。これ らすべての契約を知ったうえでファウスト文学における「悪魔と人との契約」
が聖書における「神と人との契約」にその出所をもとめうるモチーフであると
言うのであれば、専門的研究者としてひとまず問題ないといえよう。また、の ちの考察のため言及しておけば、モチーフの源泉を把握している者であれば
「人を仲介者として結ばれた神と民との契約」とより正確に表現することがで きよう。
さて、16 世紀にファウストが実在したことは、ヨハネス・トリテーミウス、
コンラードゥス・ムチアーヌス・ルーフス、ヨアヒム・カメラーリウスおよび フィーリプ・フォン・フッテンの書簡、バンベルク領主司教の会計簿およびイ ンゴルシュタット市とニュルンベルク市の記録、さらにキーリアーン・ライ プの日誌といった同時代人たちの証言から証明されている26)。尤も、そこでは この実在した人物の名(姓)は「ファウスト」Faust でなく、「ファウストゥ ス」Faustus と綴られる。伝説化したファウストの名が「ファウストゥス」か ら「ファウスト」に移行するのはレッシングからゲーテにかけての時代すなわ ち 18 世紀後半であり、ゲーテ以降「ファウストゥス」は姿を消し、広く「ファ ウスト」が登場する。しかし、「ファウスト」が一般的呼称となっていた 20 世 紀に再びドイツ文学に「ファウストゥス」の名が現れる。すなわち、トーマス・
マンの長編小説『ファウストゥス博士』(1947 年)においてであり、マンは作 品素材として、ファウスト文学に関しては、16 世紀のファウスト本を用い、
ドイツ人の手によるドイツ批判の最大の書とも評されるこの長編小説を執筆し た27)。そこで、三桁に及ぶファウスト文学作品のなかで、刊行された初の書で あり、後世ファウスト文学の作品素材にもなった 16 世紀のファウスト本にお ける「契約」に注目し、原初の形態においては聖書のどの契約が「悪魔と人と の契約」の出所になっていたのかという点をつまびらかにする。ただし、この 解明はここ序章よりもむしろ、第一章でおこなうことをあらかじめお断りして おく。
「契約」という語は「旧約聖書だけでも 280 回以上も使用され」28)ている。も ちろんそれらのなかには同じ契約をさすものもあるが、聖書にはいくつもの異
なる契約が見出される。「神と人との契約」についていえば、いわゆる「アブ ラハム契約」がよく知られていよう。しかし、これに先行し、神は最初にノア
(《創世記》第 6 章、9 節から 18 節参照)と契約を結ぶ。次に主が契約を結ん だ人物がまだアブラムの名で呼ばれていたアブラハムである(《創世記》第 15 章、特に 18 節から 21 節)。アブラム 99 歳のとき「主」が彼に再び現れ、契約 を結ぶ(《創世記》第 17 章)。これがいわゆる「アブラハム契約」であり、こ こにユダヤ人が彼らの先祖をアブラハムとする根拠が見出される。ただし、イ サクの子すなわちアブラハムの孫ヤコブが主から「イスラエル」の名を与えら れ29)、このイスラエルの 12 人の子が 12 部族の祖となる。
アブラハム契約にはドイツ文学研究としばしば密接な関係を有するユダヤ研 究と連関する事柄も含まれているので、キリスト教徒や聖書に精通した者には 常識といえる契約ではあるが、ここで創世記 第 17 章全体――といっても全部 で 27 節だが――を引用する。本来の論旨から逸脱しないよう、解説はおこな わず、重要と思われる個所に傍点を付すことも考えたが、それをおこなえば筆 者の立場からの取捨選択になってしまう恐れからそれを避け、引用のあとに簡 単な言説を加え、詳細は注にまわしている。なお、筆者は本稿の執筆に際し、
いわゆるコンコーダンスを一切使用していないことを再度付言しておきたい。
1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは 全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
2 わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。
3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、
4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであ ろう。
5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハム と呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。
6 わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。
また、王たちもあなたから出るであろう。
7 わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、
あなたと後の子孫との神となるであろう。
8 わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカ ナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるで あろう」。
9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わた しの契約を守らなければならない。あなたがたのうち
10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及 び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきもので ある。
11 あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあ なたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。
12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から 銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けな ければならない。
13 あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受け なければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠 の契約となるであろう。
14 割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破 るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。
15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサ ライといわず、名をサラと言いなさい。
16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を 授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女か
ら、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして 子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができよ うか」。
18 そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生 きながらえますように」。
19 神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。
名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のため に永遠の契約としよう。
20 またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福し て多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たち を生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。
21 しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契 約を立てるであろう」。
22 神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。
23 アブラハムは神が自分に言われたように、この日その子イシマエルと、
すべて家に生れた者およびすべて銀で買い取った者、すなわちアブラハム の家の人々のうち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼を施した。
24 アブラハムが前の皮に割礼を受けた時は九十九歳、
25 その子イシマエルが前の皮に割礼を受けた時は十三歳であった。
26 この日アブラハムとその子イシマエルは割礼を受けた。
27 またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、
彼と共に割礼を受けた。
アブラハム契約から数千年を経た 20 世紀において、約束の地「カナン」こ とパレスティナにおけるユダヤ人国家建設をめぐり、宗教的・政治的・経済的
要因が絡み合い、19 世紀後半以降アラブとユダヤ人とのあいだですでに流血 の惨事が起こっていたが、1948 年 5 月 14 日の夜布告されたイスラエル国家独 立宣言は、第 4 次まで繰り返された中東戦争勃発の引き金となった。20 世紀 の中東紛争に関する詳細は歴史学にゆずるが、アブラハム契約を読むとき「カ ナンの全地を永久の所有として与える」という主の約束もさることながら、23 節以降繰り返される「割礼」とそれを「主の命」としてイスラエルの民に徹底 させている点も読み手の脳裏に決して弱くはない印象をのこすのではないだろ うか。ただし、引用に際して述べたように、「割礼」に関する詳細は注にまわ す30)。
ゲーテ『ファウスト』研究あるいは広くファウスト文学研究をおこなってい る方であっても、16 世紀のファウスト本における「ファウストゥスとメフォ ストーフィレスとの契約」すなわち「人と悪魔との契約」の源泉として「神と 人との契約」、ことに上に引用したアブラハム契約を主たるものとして考える、
あるいは、少なくともモチーフの源泉として「神と人との契約」にアブラハム 契約も含まれる、というご意見の方がいらっしゃるかもしれない。しかし、答 えは「否」である。因みに、聖書のどの契約がその出所であるのか、この問題 を究明した研究を筆者は知らない。同時に筆者はかつてこの問題について当時 ドイツ語学文学国際学会31)の会長であり、ゲッティンゲン大学教授アルブレヒ ト・シェーネ氏を招いておこなわれた研究会で発表した32)。
16 世紀に刊行された最初の作品における契約の場合、契約者である人すな わちファウストゥス自身の血による署名という「契約」のモチーフを形成する 重要な要素のひとつがすでに見出され、この要素もさることながら、そこにお ける「人と悪魔との契約」の最大の特徴は――まずここでは簡潔に、また幾分 抽象的に言うが――その「二回性」にある。同時に、ファウストゥスがルチ フェルと直接契約するのではなく、ルチフェルから遣わされた悪しき霊メフォ ストーフィレスの仲介により契約が結ばれる。つまり、契約に際し仲介者の存
在が認められる点も肝要である。ただし、仲介者の存在は後世のファウスト文 学において明確には継承されず、これについてはすでにゲーテの『ウルファウ スト』と戯曲『ファウスト』を例に、それらにおけるルチフェルとメフィストー フェレスに関する論述のなかで触れた。
けれども、「契約の二回性」は後世のファウスト文学、ことにアーデルベル ト・フォン・シャミッソー(1781-1838)33)の作品においてきわめて明確なか たちで継承されている。この作品とは我が国で『影をなくした男』とも訳され ている『ペーター・シュレミールの不思議な物語』であり、初版は 1814 年ニュ ルンベルクの書肆シュラーク(Schrag)から出版された34)。作家シャミッソー について記しておこう。ただし、彼の生涯についてあまり詳しく述べすぎると 本稿の本来の論旨が見えにくくなる可能性がある。したがって、本稿での考察 に必要な範囲にとどめる。
シ ャ ミ ッ ソ ー は フ ラ ン ス の シ ャ ン パ ー ニ ュ 地 方 に あ っ た ボ ン ク ー ル
(Boncourt)城に生まれ、一族はその地で 16 世紀末から領主をつとめたロー トリンゲン35)の由緒ある貴族であった。しかし、フランス革命の勃発により一 家はその地を去ることを余儀なくされ、1796 年オランダを経由しベルリンに 向け出立する。ボンクール城も 1793 年革命により破壊され、その地から姿を 消した。1798 年シャミッソーはプロイセン軍にはいり、1801 年少尉となる。
プロイセン軍のなかで彼が置かれた状況に言及することは避けるが、「フラン ス生まれのドイツ人」という立場が戦時において周囲からどのような目で見ら れたかは想像に難くない。1806 年ナポレオンによるいわゆる大陸封鎖令が布 告されるが、この年プロイセン軍はナポレオンにより撃破される。これによっ てシャミッソーは軍から解放されることになったが、フランスとベルリンを翌 年から行き来するなかで、自分の「国」に関する本来的帰属について不確実性 を痛感し、今後どのように、また何をして生きていくのかということを決めか ねていた。このような心情をいだきながら『ペーター・シュレミールの不思議
な物語』に先立ち、その 10 年前シャミッソーは »Faust. Ein Versuch« (1804)
を書き出版している36)。今日『ペーター・シュレミールの不思議な物語』は、
ドイツのほとんどの文学辞典において Faustdichtung の項で扱われている作 品であるが、1804 年刊行の戯曲の方は不思議と――その知名度のせいであろ うが――この項に出ていないのが一般的状況である。シャミッソーはファルン ハーゲン37)とともに詩神年鑑(Musenalmanach)38)を発行し、1804 年この年鑑 に自身の『ファウスト』を掲載した。ファルンハーゲンの協力のもとにおこな われたシャミッソーの詩神年鑑発行の活動は専門家には知られているが、彼が そこに掲載したこの一幕ものの悲劇39)は存外知られていない。謂わんとするこ とは、散文物語『ペーター・シュレミールの不思議な物語』を書いたシャミッ ソーはそれに先行し戯曲『ファウスト』も書いており、ファウスト素材に通じ ていた点である。
「灰色の服の男」der graue Mann40)は題名主人公ペーター・シュレミール に「幸運の金袋」der Glückssäckel を見せながら、この金袋とシュレミールの 影を交換しようと持ち掛ける。シュレミールはこの商談に応じ、自分の影を金 袋と交換する。因みに、ファウスト本における「悪しき霊」メフォストーフィ レスは灰色の修道服を着て、ファウストゥスの前に現れる。ただし、こう述べ たからと言って、悪魔の服の色もまたファウスト本にその源泉を見出しうるも のであると言明するものではない。影を売り、影のない者として苦しんでいる シュレミールの前に灰色の服の男がのちにふたたび姿をあらわし、シュレミー ルが今度は魂と交換するのであれば、シュレミールに影を返してよいと契約 を持ち掛ける。ここでシュレミールは、16 世紀のファウストゥスとは異なり、
金袋を投げ捨てながら灰色の服の男に対し「主の御名によりお前を追い払う、
悪しき者よ。うせよ、そして二度と我が前にあらわれるな」41)と言い、二回目 の誘惑を拒絶する。因みに、灰色の服の男は魂の譲渡を条件とする契約の締結 に際し、シュレミール自身の血による証文への署名を要求する42)。
シャミッソーを例に「契約の二回性」というモチーフの後世への影響を簡潔 に述べた次第であるが、このモチーフも 16 世紀のファウスト本における「悪 魔と人との契約」、つまりファウスト文学における「悪魔と人との契約」の原 初の形態を考えるうえで看過できないものである。ここ序章では「契約の二回 性」というまだ漠とした表現にとどめているが、第 1 章でより詳細な説明をお こなう。結論を先に述べておくならば、ファウスト本におけるモチーフ「悪魔 と人との契約」の出所は「シナイ契約」にある。なお、シャミッソーがこの物 語を書くに際し、取材した作品は 16 世紀のファウスト本だけではないことを 付言しておく。たとえば「幸運の金袋」は中世後期の散文物語『フォルトゥナー トゥス』43)に由来するものである。
さて、20 世紀に至ってもなお、ノーベル文学賞受賞作家トーマス・マンの 長編小説『ヨセフとその兄弟たち』(1943 年完成)44)のようにすでに題名が聖 書に取材した作品であることを明示しているドイツ文学の存在を指摘すること ができる。このようにドイツ文学と聖書との関係は切っても切れないものであ り、聖書は、ファウスト文学研究はもとよりドイツ文学研究における重要な文 献のひとつである。ここに聖書を研究対象とすることの正当性と意義を確認す ることができる。
本稿では、聖書に記された出来事や事柄のなかから、論理的に割り切れない ものを抽出し、それらを中心に考察する。論題は「聖書に見出される論理的に 割り切れない出来事」としたが、「出来事」と「事柄」をまとめ「事象」すな わち「論理的に割り切れない事象」という表現も以下で使わせていただく場合 がある。
ところで、「論理的に割り切れない」ということばは、科学的視点からみて 非論理的であるとか、理屈に合わないという意味ではない。つまり、たとえば イエスが病人たちをたちどころに癒した、あるいは死者を生き返らせたという 聖書の記述が、科学的論理的判断によって理解できない事柄であるという判断
がもたらす非科学的不可解を表現したものではない。聖書に記された出来事や 事柄を、聖書に記された律法・おきてを基準にし、それに照らして読んだ場合 でも生じる「論理的割り切れなさ」を表現したものである。したがって、非キ リスト教徒はもとより、キリスト教徒にとっても「割り切れない」事柄や出来 事であり、事象によっては聖職の身にある者にとっても説明のむずかしいもの を中心に扱おうというのがこの論考の主旨である。
いたずらな宗教談義をおこなうのではない。本来の研究目的が文学研究であ るから、教派・教義にとらわれない立場から考察をおこなう。したがって、事 象によっては「聖書を文学として読む」という視点からの考察になるケースが ある。この視点に立った考察に関しては、文学研究と本研究との関連性がより 明確になるが、反面どの文学作品の、どのモチーフやストーリーの出所である のかということを念頭に置きながら、あるいは想定しながらそれらの出来事や 事柄を抽出することになり、学究的な意味で広がりのない研究、すなわち視野 の狭い研究に堕してしまう恐れがある。そこで、50 年以上にわたる筆者の聖 書講読の過程で、その一員である教会の教えにまだうとく、少年期に素直なこ ころで読んだとき、それもはじめて読んだときに不可思議に感じた出来事や事 柄を想起しながら、本稿では、そのなかから〈神の指で書かれた二枚の石板を ひとが投げ打ち砕く、しかしそのひとは打たれず生きる〉すなわち〈石板の粉 砕と粉砕者に対する無処罰〉およびこれに関連し〈更新される契約〉を第 1 章 として扱う。因みに、「無処罰」ということばに対して日本語としての不自然 さを感じる読者もいらっしゃるかもしれないが、「処罰がおこなわれなかった こと」を意味する簡潔を尊んだ表現としてこのことばを使わせていただく。そ こで、またの題として〈シナイ契約の不思議〉を併記している。
本来聖書はキリスト教徒にかぎらず、おおよそ西洋を学び研究する者にとっ て必読の書と言って過言であるまい。したがって、当該の個所を明示すれば、
それだけで論をすすめてよいのであろうが、近年ドイツ人研究者であっても必
ずしも聖書を精読していない――といわざるをえない――者が皆無ではない。
読者諸氏にとって理解の助けとなるよう当該個所を聖書から引用しながら考察 をすすめる。なお、聖書からの邦訳引用に際しては、原則として口語訳45)を使 い、適宜新共同訳46)、新改訳47)および文語訳48)を参照した。
第 1 章「石板の粉砕と粉砕者に対する無処罰」またの題「シナイ 契約の不思議」
はじめに旧約聖書、《サムエル記下》第 6 章から引用する49)。
1 ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。
2 そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ ・ ユダ へ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に 座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。
3 彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運 び出した。
4 アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮 し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。
5 ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって 歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。
6 彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押 えた。牛がつまずいたからである。
7 すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼を その場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。
8 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ ・ ウザと呼ばれている。
ここに記された「箱」とは、口語訳聖書から引用すれば、《出エジプト記》
では「あかしの箱」あるいは単に「箱」、レビ記では単に「箱」、民数記では「契 約の箱」、「あかしの箱」、《申命記》では「契約の箱」または「箱」と呼ばれる ものである。幾分くどいかもしれないが、これら《申命記》までモーセ五書に 加え、旧約聖書全体をみていくと、《ヨシュア記》では「契約の箱」、「箱」、「あ かしの箱」に加え「主の箱」、《士師記》では「契約の箱」、《サムエル記上》で は「神の箱」、「契約の箱」、「主の箱」、「その箱」つまり「箱」50)、《サムエル記下》
では「この箱」および「その箱」すなわち「箱」51)、「神の箱」、「契約の箱」、《列 王紀上》では「主の箱」、「契約の箱」、「箱」52)、「契約を納めた箱」53)、《歴代志 上》では「契約の箱」、「主の箱」、「神の箱」、「箱」と記されている。《歴代志下》
では「神の箱」、「契約の箱」、「箱」54)、「(主がイスラエルの人々と結ばれた主 の契約を入れた)箱」55)、「あなたの力の箱」、「主の箱」、「聖なる箱」と記され、
《エレミヤ書》に「主の契約の箱」が見出される。
以上が、教派によっては「聖櫃」とか「契約の聖櫃」と呼ばれる「箱」に関 する旧約聖書に見出される呼称のすべてである。ここで問題となるのは上に引 用した《サムエル記下》第 6 章 1 から 8 節の出来事である。したがって、新約 聖書に関して同様の調査結果を示すことはかえって煩雑の感を呈することにな るので、簡潔に次のように記す――新約聖書に問題の「箱」はわずか 2 個所見 出され、語で数えれば 3 となる。すなわち、《ヘブル人への手紙》第 9 章 4 か ら 5 節の「契約の箱」および「箱」ならびに《ヨハネの黙示録》第 11 章 19 節 の「契約の箱」だけである56)。なお、これら「箱」に関する上の列挙は口語訳 聖書という翻訳にもとづく調査結果であるので、同様に煩雑を避けるため、ル ター訳によって上に掲げた個所のなかから 2 個所を選び引用する。この提示も また翻訳ではないかという指摘がでるかもしれないが、ルター訳をここで使う のは、何よりも本稿の執筆がドイツ文学研究との関連でおこなわれているこ と、また、宗教談義の場ではないので簡潔に記すが、宗教改革という革新的
精神のもとに果敢に実行された翻訳であり、教義によるしばりから解放され、
わが国の文語訳聖書に見出されるような改竄がないことによる。ドイツ語学・
文学を専門としない読者にあっても、ドイツ語に堪能な方も多いかと拝察す る。そのような読者諸賢の理解にも供すべく、一つの個所について、はじめに 1545 年の完訳聖書から、次に 1912 年のルター訳にもとづく新高ドイツ語(1650 年以降現代に至るドイツ語)訳の聖書から引用する57)。
《出エジプト記》第 25 章 10 節
10 MAchet eine Lade von foern holtz / Drithalb ellen sol die lenge sein / anderthalb ellen die breite / vnd anderhalb ellen die höhe.
10 Macht eine Lade aus Akazienholz; dritthalb Ellen soll die Länge sein, anderthalb Ellen die Breite und anderthalb Ellen die Höhe.
《歴代志下》第 6 章 11 節
11 Vnd hab drein gethan die Lade / darinnen der Bund des HERRN ist / den er mit den kindern Jsrael gemacht hat.
11 und habe hineingetan die Lade, darin der Bund des HERRN ist, den er mit den Kindern Israel gemacht hat.
この 2 個所を選んだのは、《出エジプト記》の場合、主の命による「箱」の つくり方を記した個所としての重要性が見出されるからであり、《歴代志下》
に関しては上の調査結果の提示に際し「(主がイスラエルの人々と結ばれた主 の契約を入れた)箱」と括弧で括った意味を明確にし、かつ括弧内のことばが 与える意味内容に重要性が認められるからである。もちろん、他の個所が重要
性の点で必ずしも劣るという意味ではない。いずれにしても、「箱」は――定 冠詞を添えて記せば――初期新高ドイツ語でも新高ドイツ語でも die Lade で ある。「契約の箱」という表現は、1545 年版、1912 年版の順にそれぞれ die Lade des Bunds、die Lade des Bundes(たとえば《申命記》 第 10 章 8 節ほか)、
あるいは die Lade des Zeugnisses、die Laden des Zeugnis(たとえば《申命記》
第 31 章 25 節ほか)となっている。これに加え、同様にそれぞれ die lade des Testaments、die Lade des Testaments という表現(たとえば《ヘブル人への 手紙》第 9 章 4 節)も見出される。因みに聖書全 66 巻の最後《ヨハネの黙示 録》第 11 章 19 節において「契約の箱」は、同様にそれぞれ die Archa seines Testaments、die Lade seines Bundes(sein はともに Gott を指す)と記され ている。die Archa は、現代のドイツ語でいえば die Arche である。この語は 1912 年のルター訳では全く使われていない。1545 年のルター自身がかかわっ た訳においても die Archa は新約聖書で 4 個所使われているだけである58)。つ まり、我が国の口語訳における「箱」はルター訳では一般に die Lade が使わ れている59)。小学館から出版されている『独和大辞典』で Arche をひくと、3 の b)として「(Bundeslade) 契約の聖櫃」と釈義されている。辞書が与える ものは語義・語釈であるから、不適切な語義解説とはいわないが、聖書におい て一語で記された個所は《エレミア書》第 3 章 16 節のみであり、1545 年版、
1912 年版の順に――3 格であるが――der Bundsladen、der Bundslade が見つ かるのみである60)。
卑近なはなしではあるが、Archa や Arche すなわち英語の Ark と語源を同 じくするこれらの語から、スティーブン・スピルバーグ監督、ハリソン・フォー ド主演の映画《レイダース/失われたアーク》Raiders of the Lost Ark61)を想 起するのは筆者だけであろうか。アークすなわち「契約の聖櫃」を戦場へ運び もてば向かうところ敵なしという聖書の伝承から、アークを手に入れ軍事利用 しようとするヒトラーとナチスの野望をくじくべく、ハリソン・フォード演じ
る考古学者ジョーンズ教授が活躍するというのが映画のおおまかな内容であ る。聖書に取材し、それを大胆に脚色した、第二次世界大戦を時代背景とする 娯楽映画である。問題はそのような記述、すなわちイスラエルの民が「契約の 箱」を戦場に運び、勝利を得たという記述が果たして聖書に見出されるのかと いう点である。答えは「おおむね否」である。「おおむね」ということばを添 えたのは「信仰上のこころの拠り所」として民に力を与える、あるいは敵に恐 れをもたらすはたらきは見出されるからである。しかし、実際に「契約の箱」
を戦場に運び、イスラエルびとの陣営に置いても異教徒に激しく打ち負かされ るというケースこそ明記されている。《サムエル記上》第 4 章から引用する。
第 1 章から第 7 章まで引用したいところではあるが、引用は最小限にとどめ、
第 4 章からの引用も 18 節までとする。
1 イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほと りに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。
2 ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及ん で、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場にお いて、おおよそ四千人を殺した。
3 民が陣営に退いた時、イスラエルの長老たちは言った、「なにゆえ、主 はきょう、ペリシテびとの前にわれわれを敗られたのか。シロへ行って主 の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主をわれわれのうち に迎えて、敵の手から救っていただこう」。
4 そこで民は人をシロにつかわし、ケルビムの上に座しておられる万軍の 主の契約の箱を、そこから携えてこさせた。その時エリのふたりの子、ホ フニとピネハスは神の契約の箱と共に、その所にいた。
5 主の契約の箱が陣営についた時、イスラエルびとはみな大声で叫んだの で、地は鳴り響いた。
6 ペリシテびとは、その叫び声を聞いて言った、「ヘブルびとの陣営の、
この大きな叫び声は何事か」。そして主の箱が、陣営に着いたことを知っ た時、
7 ペリシテびとは恐れて言った、「神々が陣営にきたのだ」。彼らはまた 言った、「ああ、われわれはわざわいである。このようなことは今までなかっ た。
8 ああ、われわれはわざわいである。だれがわれわれをこれらの強い神々 の手から救い出すことができようか。これらの神々は、もろもろの災をもっ てエジプトびとを荒野で撃ったのだ。
9 ペリシテびとよ、勇気を出して男らしくせよ。ヘブルびとがあなたがた に仕えたように、あなたがたが彼らに仕えることのないために、男らしく 戦え」。
10 こうしてペリシテびとが戦ったので、イスラエルびとは敗れて、おのお のその家に逃げて帰った。戦死者はひじょうに多く、イスラエルの歩兵で 倒れたものは三万であった。
11 また神の箱は奪われ、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された。
12 その日ひとりのベニヤミンびとが、衣服を裂き、頭に土をかぶって、戦 場から走ってシロにきた。
13 彼が着いたとき、エリは道のかたわらにある自分の座にすわって待ちか まえていた。その心に神の箱の事を気づかっていたからである。その人が 町にはいって、情報をつたえたので、町はこぞって叫んだ。
14 エリはその叫び声を聞いて言った、「この騒ぎ声は何か」。その人は急い でエリの所へきてエリに告げた。
15 その時エリは九十八歳で、その目は固まって見ることができなかった。
16 その人はエリに言った、「わたしは戦場からきたものです。きょう戦場 からのがれたのです」。エリは言った、「わが子よ、様子はどうであったか」。
17 しらせをもたらしたその人は答えて言った、「イスラエルびとは、ペリ シテびとの前から逃げ、民のうちにはまた多くの戦死者があり、あなたの ふたりの子、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました」。
18 彼が神の箱のことを言ったとき、エリはその座から、あおむけに門のか たわらに落ち、首を折って死んだ。老いて身が重かったからである。彼の イスラエルをさばいたのは四十年であった。
いかがであろうか。イスラエルに勝利をもたらすどころか、「神の契約の箱」
を陣営に運び携えても「戦死者はひじょうに多く、イスラエルの歩兵で倒れた ものは三万であった。」ここで看過してならない点は、この戦いに先立ち、同 所でイスラエルびとはペリシテびとと戦って敗れ、ペリシテびとにイスラエル びとおよそ四千人が殺されたことである。その結果、シロの主の宮に置かれて いた「契約の箱」を戦場まで運ばせたにもかかわらず、結果は前の戦いよりも 悪化し、イスラエルびとの戦死者は四千人から三万人に増えたばかりでなく、
「神の箱」まで奪われ、祭司エリのふたりの子「ホフニとピネハスも死」んだ ことである。すなわち、映画《レイダース/失われたアーク》で想定された「箱」
の有する無敵の力、非常な破壊的エネルギーはこのくだりから全く読み取るこ とはできない。因みに、エリは祭司であり、イスラエルに王が出る前、18 節 に記されているように、民をさばきおさめる者すなわち士師であった。エリに 次ぐ士師がサムエルであり、サウル王の即位にともないサムエルがイスラエル 最後の士師となる。因みに、サムエルは彼の子ヨエルとアビヤを「さばきづか さ」すなわち士師としたが、彼らは己が利をむさぼる者であり、士師というに 値しない者たちであった62)。いわゆる「大士師」と「小士師」なることばがあり、
これは《士師記》に記された人物を中心として打ち出された聖書学者の見解に 拠るが、彼らだけが士師ではない。イスラエルに王が登場するまで民をおさめ さばいた者がいなければイスラエルの民族としての存続は不可能であったと考
える。
《サムエル記上》第 4 章にみるイスラエルびとの敗北は必然の結果であり、
聖書内的立場から判断しても、「主」によってもたらされた敗北である。これ は第 1 章から第 7 章までを読むと明らかになる。エリのふたりの子ホフニとピ ネハスは祭司であったが63)、彼らは主への供え物について定められたとおりの ことをおこなわず、自分たちが最も良い部分をむさぼり取るよこしまな者たち であった。さらにホフニとピネハスは「会見の幕屋の入口で勤めていた女たち」
と交わり淫行をなした64)。ペリシテびととの戦いにおけるホフニとピネハスの 死は、すでに事が起こる前、「ひとりの神の人が、エリのもとにきて言った」65)
ことの成就にほかならない。すなわち、第 2 章に次の記述が見出される。
34 あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのため にそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬで あろう。
エベネゼルのほとりにイスラエルびとが陣をしきおこなったペリシテびと
――彼らはアペクに陣をしいたが――との戦いにおける敗北の原因は、何より も上述した祭司「エリの家の悪」(第 3 章 14 節)にあり、エリにあらかじめ告 知されていた。したがって、「神の契約の箱」を陣営に運び入れてもイスラエ ルびとが勝利を得ることはなかった。同時に、イスラエルびとのあいだにあっ た悪も敗北の原因のひとつとして指摘できよう。この点についてここで考察す るが、ペリシテびとに奪われた「神の箱」は七か月後イスラエルに送り返され る66)。その経緯は別な観点からこの章でのちに触れることになるが、エリの死 後サムエルが祭司となり、イスラエルをさばきおさめる者となる。サムエルは イスラエル全家に対して次のように言う。同じ《サムエル記上》第 7 章から引 用する。
3 その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたが たが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなた がたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。
そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろ う」。
4 そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にの み仕えた。
バアルやアシタロテという異教の神に仕えること、すなわち〈十戒〉の第一 戒67)に対する違反をイスラエルびとがおこなっていたことが敗北のもうひとつ の原因として考えられる。しかし、上の引用の前、同章 2 節に「その箱は久し くキリアテ ・ ヤリムにとどまって、二十年を経た」と記されており、この違反 がすでにイスラエルに敗北をもたらしたこの戦いがおこなわれた当時生じてい たのか、それとも事後のことであるのか、この点が問われるところであろう。
聖書は実に簡潔に記されている。けれども研究である以上、推測でなく、聖 書の記述から結論が導き出されなければならない。第七戒に「あなたは姦淫し てはならない」68)とあるが、姦淫のなかで最大の罪たる姦淫は、「主」以外の神 を崇拝することである。たとえば《レビ記》第 17 章に次のように記されている。
1 節から、適宜略し、引用する。
1 主はまたモーセに言われた、
2 「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、
『主が命じられることはこれである。すなわち
〔中略〕
7 彼らが慕って姦淫をおこなったみだらな神に、再び犠牲をささげてはな らない。これは彼らが代々ながく守るべき定めである』。
つまり、第七戒で禁じられている姦淫だが、第一戒との関連においても「姦 淫」ということばが聖書で広く使われている。7 節の「彼ら」は 5 節に書かれ た「イスラエルの人々」――引用に際し略したが――を指す。《サムエル記上》
第 3 章には「1 わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、
主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった」と書かれている。「主」が指導者 や民に対し、サムエルの時代以上にあらわれていた時代においてもイスラエル の人々が「姦淫」をおこなっていたことがわかる。もう 1 個所《士師記》第 3 章から引用する。
1 すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるた めに、主が残しておかれた国民は次のとおりである。
2 これはただイスラエルの代々の子孫、特にまだ戦争を知らないものに、
それを教え知らせるためである。
3 すなわちペリシテびとの五人の君たちと、すべてのカナンびとと、シド ンびとおよびレバノン山に住んで、バアル ・ ヘルモン山からハマテの入口 までを占めていたヒビびとなどであって、
4 これらをもってイスラエルを試み、主がモーセによって先祖たちに命じ られた命令に、彼らが従うかどうかを知ろうとされたのである。
5 しかるにイスラエルの人々はカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリ ジびと、ヒビびと、エブスびとのうちに住んで、
6 彼らの娘を妻にめとり、また自分たちの娘を彼らのむすこに与えて、彼 らの神々に仕えた。
7 こうしてイスラエルの人々は主の前に悪を行い、自分たちの神、主を忘 れて、バアルおよびアシラに仕えた。
8 そこで主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らをメソポタミヤの王ク シャン ・ リシャタイムの手に売りわたされたので、イスラエルの人々は八
年の間、クシャン ・ リシャタイムに仕えた。
9 しかし、イスラエルの人々が主に呼ばわったとき、主はイスラエルの人々 のために、ひとりの救助者を起して彼らを救われた。すなわちカレブの弟、
ケナズの子オテニエルである。
オテニエルはいわゆる大士師と呼ばれる最初の人物である。上のふたつの引 用はサムエルの時代の「姦淫」ではないが、この二例から謂わんとすることは、
昔からイスラエルの民が主に選ばれた民であったにもかかわらず、いかに異教 の神々と姦淫し、加えて異教の神々に仕える異民族と姻戚関係までつくってい たかという点である。《サムエル記》に先行する《士師記》を通読すると、「イ スラエルの人々がまた主の前に悪をおこなったので」や「イスラエルの人々は 再び主の前に悪を行い」ということばが繰り返されている。否、旧約聖書全体 を精読すると、モーセ以前から、またモーセが指導者として立てられたのち も、さらにサムエル以降もイスラエルびとが異教の神々に仕え、姦淫したこと が繰り返し記載されている。しかも、第一戒に反するこの姦淫が必ず起こるこ とを「主」みずからがすでにモーセを介し、自分の民に予告していたのである。
《申命記》第 31 章から引用する。
16 主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒にな るであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々 を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るで あろう。
17 その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、彼らを捨て、わたし の顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼ら に臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、『これらの災がわ れわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからでは
ないか』。
18 しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたし はその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。
19 それであなたがたは今、この歌を書きしるし、イスラエルの人々に教え てその口に唱えさせ、この歌をイスラエルの人々に対するわたしのあかし とならせなさい。
20 わたしが彼らの先祖たちに誓った、乳と蜜の流れる地に彼らを導き入れ る時、彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、ほかの神々に帰し、それに 仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。
21 こうして多くの災と悩みとが彼らに臨む時、この歌は彼らに対して、あ かしとなるであろう。(それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、彼らは それを忘れないからである。)わたしが誓った地に彼らを導き入れる前、
すでに彼らが思いはかっている事をわたしは知っているからである」。
22 モーセはその日、この歌を書いてイスラエルの人々に教えた。
いかがであろうか。もはやこうなると対処しようがない、あるいは理解しが たいと言わざるを得ないかもしれない。誰にとって対処しようがないのか。旧 約聖書の時代に関しては、イスラエルの民が主の契約を守り正道を歩むよう義 をもってさばきおさめる者である。誰にとって理解しがたいのか。現代に関し ていえば、聖書を資料として読み、イスラエルびとの歴史を考える者である。
さらに、非キリスト教徒に対して当該の事柄をわかりやすく説明できるだろう かというおもいから、キリスト教徒のなかにも理解するにむずかしいと考える 者がいるのではないかと推察する69)。証左として更なる引用もおこなうに容易 であるが70)、イスラエルびとのなかに異教の神々に仕える者たちが長きにわた り存在したこと、さらにイスラエルびとと異教徒との婚姻に関する記述から、
問題の敗北が起こったときイスラエルびとのなかに姦淫する者は皆無であった
と考えることの方が困難であると判断する。
本稿における「論理的に割り切れない」という表現は、すでに述べたように、
「科学的な意味で論理的に割り切れない、あるいは理解不能な」という意味で なく、「聖書に記された律法・おきて、教えを基準にして、つまりそれに基づ いて判断しても説明しがたい」という意味である。前者との関連で「聖書外的 立場」、後者との関連で――すでに一度用いたが――「聖書内的立場」という 表現を便宜的に使うことをここでお断りしておく。上で「対処しようがない」
とは述べたが、聖書内的立場のみならず聖書外的立場から考えても、上に引用 した「主」のことばには意味深長なものがある。現代社会において法は不可欠 であろう。しかも法は古代から存在する。時代が進むにつれ法や諸規定が整備 され、民主主義を実現する運動が拡大していった。同時に、自分自身の自由だ けでなく他者の自由も尊ぶ精神や博愛の思想も生まれ、このような精神が、こ とに欧米各国や日本においてひとびとのあいだで共有されていった(はずであ る)。今日、世界レベルの広がりをもって自由・平等・博愛の精神はもとより、
民主主義精神のもと世界平和の実現が広く叫ばれている。しかし、現実はどう だろうか。世界平和どころか、21 世紀に至ってなお世界各地で武力紛争は絶 えない。それどころか、もっと基本的なこと、すなわち民主主義の旗を掲げて いる国々の内部で法やさまざまな規則を守らない者の絶えないことは日々の報 道から知るところである。「人」の権威を超えた、「主」すなわち神の権威をもっ てしても、人間が定めを守らない存在であること、人間の悲しい側面を旧約聖 書の上の「主」はみごとに語っている。だから向上への努力を断念するのか
――それは各人の判断するところであり、責任である。聖書に立ち返ってみて も、イスラエルの民すべてが「姦淫する者」ではなかった。「義人」と呼ばれ る生き方をしていたにもかかわらず突如艱難辛苦の非常なるこころみにあい、
それでも「主」から離れなかったヨブ、あるいはイスラエルびとの祖先の時代、
腐敗・堕落に満ちたなかでそれに染まらず生きたロトの例などが想起される。
とはいうものの、聖書のなかに判断の拠り所をもとめた場合、つまり聖書内 的立場からみても、本来的にそのような存在、すなわち「主」との契約であっ てもそれを遵守しない存在として「主」みずから人を造り、かつそのことを 知っていながら人に契約の遵守を要求するイスラエルの神とは如何なるものか という難題に直面する。実はこの問題は〈「主」と「悪」との関係〉というよ り高次の論題に発展する。加えて、ここに「罪」の問題も関与する。したがっ て、この問題をここで扱えば、本稿の本来の論旨からそれる恐れがある。稿を 改め、あるいは別な考察の場で扱うべき問題である。ただし、筆者にとっては 数十年にわたり考えてきた問題であり、また教派を問わず教会にとっても長き にわたり課題となった事柄であろうから、聖書から簡潔に 3 個所を引用し、そ のむずかしさを暗に示しておきたい。なお、それぞれの引用ののち簡単な説明 を加える。
《サムエル記上》第 24 章
13 昔から、ことわざに言っているように、『悪は悪人から出る』。〔13 節後略〕
《マタイによる福音書》第 7 章
16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどう を、あざみからいちじくを集める者があろうか。
17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせるこ とはできない。
19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
《ローマ人への手紙》第 11 章
30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によっ