『大和物語』に登場する御たち
『 大 和 物 語 』 に お い て、 場 の 提 供 者 と し て で は な く、 歌 語 り の 登 場 人 物 と し て 多 数 章 段 登 場 人 物 は、 監 命 婦 の 九 章 段 八 首 ( 八 * *・ 一 〇 *・ 二 一 *・ 二 二・ 三 一・ 六 九・ 七 〇 * *・ 七 八 *・ 七 九 * )、 藤 原 兼 輔 の 九 章 段 七 首( 三 五 *・ 三 六 *・ 四 五 *・ 七 一 *・ 七 三 *・ 七 四 *・ 七 五 *・ 一 三 五・ 一 三 六 )、 俊 子 の 八 章 段 八 首( 三 * *・ 九 *・ 四 一・ 六 六 *・ 六 七 *・ 六 八 *・ 一 二 二 *・ 一 三 七 * )、 在 原 業 平 の 七 章 段 一 〇 首( 一 六 〇 * *・ 一 六 一 * *・ 一 六 二 *・ 一 六 三 *・ 一 六 四 *・ 一 六 五 * *・ 一 六 六 * )、 源 宗 于 の 七 章 段 七 首( 三 〇 *・ 三 一 *・ 三 二 * *・ 三 四・ 三 九 *・ 六 三 *・ 八 〇 * ) な ど が 挙 げ ら れる。このような特定の人物による歌語りは、 『大和物語』の一つの特徴である。
ま た、 歌 語 り の 担 い 手 に つ い て 論 じ た 神 野 藤 昭 夫 氏 の「 『 大 和 物 語 』 の 成 立 背 景 試 論
(1)」 や、 僧 侶 の 章 段 の 特 質 に つ い て 論 じ た、 今 井 源 衛 氏 の「 平 安 朝 文 学 に お け る 僧 侶 の 恋
(2)」、 小 沢 サ ト 子 氏 の「 宇 多 法 皇 と 大 和 物 語 の 成 立 文 化 圏 ― 僧 侶 群 か ら 見 た 場 合 ― (3)」 な ど、 女 房 や 僧 侶 と い っ た 特 定 の 者 達 か ら そ の 特 徴 を 論 じ た 研 究 が あ る。 ち な み に、 登 場 人 物 と 同 様 に 僧 侶 登 場 章 段 を 掲 示 す る と、 一 二 章 段 一 三 首( 二 五・ 二 七 *・ 二 八 *・ 三 二・ 四 二 *・ 四 三 * *・ 四 四 * *・ 五 〇 *・ 六 二 *・ 一 〇 五 * *・ 一 二 二 *・ 一 二 三 * ) と、 こ ち ら も 特 徴 と し て 認 め ら れ る だ ろ う。 同 じ よ う に、 伊 勢 の 御 や、 若 狭 の 御 と 言 っ た 「 ― 御 」 の よ う に、 天 皇 の 寵 愛 を 受 け た 御 た ち の 登 場 章 段 も、 特 徴 の 一 つ と 考 え ら れ よ う。 『 大 和 物 語 』 の「 ― 御 」 と い う の
一
『大和物語』に登場する御たち
山 崎 正 伸
『大和物語』に登場する御たち二
は、 伊 勢 の 御( 一 *・ 一 四 七 *「 伊 勢 の 御 息 所 」) ・ 若 狭 の 御( 一 五 * )・ す け の 御( 一 六 * )・ 出 羽 の 御( 一 七 * )・ 閑 院 の 御( 四 六 * )・ 伊 予 の 御( 六 五 )・ 五 条 の 御( 六 〇 *・ 一 四 三 )・ 少 将 の 御( 一 一 一 )・ 檜 垣 の 御( 一 二 六 *・ 一 二 七 *・ 一 二 八 * ) と、 一 三 章 段 一 〇 首 が 認 め ら れ る。 こ の う ち、 檜 垣 の 御 は、 拙 論 で 論 じ た が
(4)、「 檜 垣 の 嫗 」 と あ る『 後 撰 和 歌 集 』 の 呼 称 が 正 し い。 し か し、 『 大 和 物 語 』 で「 御 」 と す る こ と は、 自 ず と、 そ こ に『 大 和 物 語 』 と し て の 意 味 付 け が あ る。 ま た、 一 六 五 段 の「 弁 の 御 息 所 」 を『 菅 家 後 集 』 の「 弁 の 御 」 で あ る と 推 定 し た。 そ れ が 正 し け れ ば、 「 御 」 と 呼 称 す る と こ ろ に、 『大和物語』の認知する世界があり、また、もう一人の「御」までもが登場していることとなる。
『大和物語』一五・一六・一七段と連続した三章段に三人の御の登場が見られる。かつ、前の一四段では、 本院の北の方のみおとうとの、童名をおほつぶねといふ、いますかりけり。陽成院の帝に 奉りけるを、おはしまさざりければ、よみて奉りける、 あらたまの年は経ねども猿沢の池の玉藻はみつべかりけ り
(5)とあって、 「おほつぶね」を陽成院に奉った、差し上げたのであった。おほつぶねの登場は、一五段の、 また、釣殿の宮に若狭の御といひける人を 召したりけるが、またも召なかりければ 、よみ て奉りける、
かずならぬ身におく夜の白玉は光見えさすものにぞありける とよみて奉りければ、見たまひて、 「あなおもしろの玉の歌よみや」となむのたまひける。 とある若狭の御との対比であり、歌は、一五〇段の むかし、ならの帝につかうまつるうねべありけり。顏かたちいみじう清らにて、人々よば ひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり。そのあはぬ心は、帝をかぎりなくめでた きものになむ思たてまつりける。 帝召してけり。さてのち、またも召さざりければ、 かぎ
『大和物語』に登場する御たち三
りなく心憂しと、思ひけり。夜昼、心にかかりておぼえたまひつつ、恋しう、わびしうお ぼえたまひけり。帝は召ししかど、ことともおぼさず。さすがに、つねには見えたてまつ る。なほ世に経まじき心地しければ、夜、みそかに猿沢の池に身を投げてけり。かく投げ つとも帝はえしろしめさざりけるを、ことのついでありて、人の奏しければ、聞こしめし てけり。いといたうあはれがりたまひて、池のほとりにおほみゆきしたまひて、人々に歌 よませたまふ。かきのもとの人麻呂、
わぎもこがねくたれ髮を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき とよめる時に、帝、 猿沢の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし とよみたまひけり。さて、この池に墓せさせたまひてなむ、かへらせおはしましけるとな む。 の 柿 本 人 麿 の 歌 に 拠 る も の で あ る。 そ し て、 一 五 〇 段 の 地 の 文 に 見 ら れ る、 天 皇 の 寵 愛 を 一 度 は 受 け た も の の、 再 び 受 け る こ と が な か っ た 采 女 の 入 水 を 根 拠 に、 陽 成 院 の 寵 愛 を 願 う も の で あ る が、 脅 迫 じ み た も の で、 以 後 も、 陽 成 院 の 寵 愛 を 受 け
る こ と が な か っ た よ う で あ る。 こ の 奉 っ た 者 に つ い て は、 森 本 茂 氏 は、 「 主 語 は『 お お つ ぶ ね の 』 の 親 で あ る 在 原 棟 梁
(6)。」 と し、 今 井 源 衛 氏 も、 「 寝 に 侍 す る 召 人 と し て、 親 が 奉 っ た
(7)」 と 在 原 棟 梁 と す る。 柿 本 奨 氏 は、 「 主 語 は 本 院 で あ ろ う が、 敬 語 が な い
(8)。」 と、 藤 原 時 平 と す る。 本 院 の 北 の 方 が 登 場 す る 一 二 四 段 で は、 「 ま だ 帥 の 大 納 言 の 妻 に て い ま す か り け る を り 」 と 舞 台 年 時 が 示 さ れ て お り、 一 四 段 で は 具 体 的 な 年 時 を 示 す 表 現 が な い の で、 「 本 院 の 北 の 方 」 と い う 表 記 が そ の ま ま 舞 台 年 時 を 示 す と な れ ば、 延 喜 六 年( 九 〇 六 ) 誕 生 の 敦 忠 か ら 推 し て、 延 喜 四・ 五 年 の こ と で あ ろ う。 父 在 原 棟 梁 は 昌 泰 元 年( 八 九 八 ) に 没 し て い る の で、 陽 成 院 に 奉 っ た の は、 時 平 か、 そ の 北 の 方 と い う こ と に な る。 陽 成 院 は 気 が 進 ま な か っ た の か、
『大和物語』に登場する御たち四
関 係 を 持 つ こ と は な か っ た。 陽 成 院 の 寵 愛 を 受 け て い た な ら ば、 「 お ほ つ ぶ ね の 御 」 と な っ た で あ ろ う か。 い や、 拙 稿「 零 落 漂 泊 す る 御 」 で 述 べ た よ う に、 童 名 +「 御 」 と い う の で は あ る ま い。 「 本 院 の 御 」 と で も 呼 称 さ れ た か。 一 四・ 一 五 段 が、 連 続 と し て 一 五 〇 段 と の 関 連 で 語 ら れ て い る の は、 歌 の こ と ば か り で は な く、 『 後 撰 和 歌 集 』 巻 第 一 六・ 雑 二 の 一 一 六 九 番 歌では、 陽成院のみかど、 時時とのゐにさぶらはせたまうけるを、ひさしうめしなかりければ たてまつりける 武蔵
かずならぬ身におくよひの白玉は光見えさす物にぞ有りけ る
(9)と あ っ て、 詞 書 に 見 ら れ る 陽 成 院 と 武 蔵 と の 関 係 は、 複 数 回 に 及 ぶ も の の、 暫 く 関 係 が 途 絶 え て い た と い う の で あ っ て、 陽 成 院 と 若 狭 の 御 と の 関 係 は、 罫 線 を 付 し た よ う に「 ま た も 召 な か り け れ ば 」 と い う 猿 沢 の 采 女 と 同 じ で、 一 度 は 恩 寵 を 受 け た も の の、 再 度 に は 及 ば な か っ た と い う の で あ る。 『 大 和 物 語 』 三 段 が、 好 古 が 昇 叙 を 知 り た い と 思 っ て い た と こ ろ に、 公 忠 か ら の 和 歌 で の 結 果 を 知 ら せ た と い う が、 『 後 撰 和 歌 集 』 巻 一 五・ 雑 一 の 一 一 二 三・ 四 番 歌 の 贈 答 歌 で は、 好 古 が 既 に 結 果 を 知 っ て い て の 愁 訴 に 対 す る 返 歌 で あ り、 そ の 心 遣 い へ の 返 歌 と い う 形 で 贈 答 歌 と な る。 『 大 和 物 語 』 の 方 が、 ド ラ マ チ ッ ク で あ っ て、 語 り の 要 素 が 強 い。 作 者「 武 蔵 」 に つ い て は、 天 福 本「 つ り と の ゝ み こ の 家 に 侍 り け る 」・ 貞 応 二 年 本「 釣
殿 の み こ の 家 に 侍 け る 」 と 勘 物 が あ り、 堀 河 本 の 詞 書 と 作 者 は「 陽 成 院 の み か と 時 々 と の ゐ に さ ぶ ら は せ 給 け る を ひ さ し く め し あ げ ざ り け れ ば た て ま つ ら せ け る つ り と の ゝ み こ の 家 に 侍 け る む さ し
)(((
」 と あ っ て、 釣 殿 宮 綏 子 内 親 王 に 仕 え る 女 房 と い う こ と で は 一 致 す る。 女 房 名 が 親 の 官 職 の 昇 進 異 動 に よ っ て 変 化 す る と い う の は 考 え が た い。 『 大 和 物 語 』 と『 後 撰 和 歌集』と同一歌で、詠歌対象者や作者が異なるものは、
『大和物語』に登場する御たち五
№ 大和物語章段 (歌番号) 対象者・作者 後撰集部立 (歌番号) 対象者・作者
1 一五 二二 陽成院・若狭の御 雑二 一一六九 陽成院・武蔵
2 三一 四三 監の命婦・源宗于 夏 一七一 人・読人不知
3 四〇 五三 敦慶親王・女童 夏 二〇九 孚子内親王・童
4 四五 六一 醍醐・桑子・兼輔 雑一 一一〇二 忠平他・子・兼輔
5 五六 七五 兵衛の君・兼盛 恋五 九七八 読人不知
七六 兼盛・兵衛の君 恋五 九七九 読人不知
6 五七 七七 中興の女・兼盛 雑二 一一七二 女・読人不知
7 八一 一一五 敦忠・右近 恋二 六六五 人・右近
8 八六 一二〇 顕忠・兼盛 春上 三 /・兼盛王
9 一〇九 一七二 源巨城・南院の今君 雑二 一一三〇 人・閑院の御
10
一二二 一九五 俊子・増基法師 恋三 七二八 人・読人不知
11
一二六 二〇二 小野好古・檜垣の御 雑三 一二一九 藤原興範・檜垣の嫗
以 上 の 一 一 例 が 挙 げ ら れ る。 『 後 撰 和 歌 集 』 が 読 人 不 知 と す る も の に つ い て は、 稿 を 改 め た い。 事 例 3 は、 『 大 和 物 語 』 に お い て は、 前 段 三 九 段 が、 伊 勢 守 も ろ み ち の 娘 と 源 正 明 と の 婚 姻 の 場 に お け る、 宗 于 と う な ゐ の 歌 語 り で、 う な ゐ・ 童 女 の 語 り の 延 長 上 に よ る も の で あ ろ う。 事 例 4 は、 子 を 思 う 親 の 心 を 詠 じ た も の で あ る が、 対 象 と し て 章 明 親 王 の 母 桑 子 一 人 に 焦
点 が 合 わ せ ら れ て い る。 事 例 5 ・ 6 は、 『 後 撰 和 歌 集 』 で の 專 門 歌 人 の 扱 い の 延 長 に あ っ て、 『 後 撰 和 歌 集 』 の 問 題 で あ ろ う。 事 例 8 は、 天 暦 三・ 四・ 五 年( 九 四 九・ 九 五 〇・ 九 五 一 ) の 一 月 の こ と と 推 定 さ れ、 賜 姓 前 で あ る
)(((
。 事 例 9 に つ い て は、 後
『大和物語』に登場する御たち六
述 す る。 事 例
11 は、 純 友 の 乱 に よ っ て 語 り が 変 容 し た も の で あ ろ う (()
(
。 こ こ も『 後 撰 和 歌 集 』 の「 武 蔵 の 御 」 と い う の が、 正 し い 表 記 と 推 量 し て い る が、 確 た る 根 拠 は な い。 「 御 た ち 」 と、 御 と い う 立 場 に あ っ た 女 性 が 複 数 あ る。 そ れ に よ る 混 乱 か も し れ な い。 一 〇 三 段 の 武 蔵 と 同 一 と す る の は、 す で に、 新 田 孝 子 氏 に よ っ て 否 定 さ れ て い る が、 雨 海 氏 が 仮 説 と し て 取 り 上げた、藤原忠行と経邦の兄弟について、改めて、 『尊卑分脈』によって記すと、
)((
(
と あ っ て、 忠 行 の 兄 弟 の 忠 門 は 中 宮 大 進、 経 邦 は 皇 后 宮 大 進 と あ る。 大 進 は 従 六 位 上 相 当 官 で、 忠 門 の 修 理 亮 は 従 五 位 下 相 当 官、 丹 後 国 は 中 国 で、 正 六 位 下 相 当 と な る。 確 定 す る 史 料 は な い が、 班 子 女 王 か 藤 原 温 子 に 仕 え た と い う こ と に な ろ う。 経 邦 は、 『 扶 桑 略 記 』 延 喜 一 一 年( 九 一 一 ) 六 月 一 五 日 の 条「 太 上 法 皇 開
二水 閣
一。 排
二風 亭
一。 別 喚
二大 戸
一。 賜 以
二淳 酒
一。」 の 酒
哥人
從五 下 遠江 守 若狹 守 少納 言兵 阝大 甫
忠 行
母刑 部卿 正四 下紀 名虎 女 延喜 六十 一ゝ 卒 從五 下忠 相
母 從五 下 丹後 守 修理 亮 中宮 大進忠 門
從五 下 近江 守母安 峯氏
有 貞
母從 五上 飯高 弟光 女從五 上 武蔵 守 皇后 宮大 進
經 邦
母從 四上 富士 丸女 從五 下清 邦
母同 經邦『大和物語』に登場する御たち七
豪 八 人 の 中 に、 「 出 羽 守 經 邦 」 と あ る
)(((
。 出 羽 国 は 上 国 で 従 五 位 下 相 当。 武 蔵 国 は 大 国 で 従 五 位 上 相 当、 順 当 で あ れ ば、 こ の 後 の こ と に な る。 逆 に、 従 六 位 上 相 当 官 の 皇 后 宮 大 進 の 任 官 が、 そ の 通 り の も の で あ れ ば、 経 邦 も 班 子 女 王 か 藤 原 温 子 に 仕 え た と い う こ と に な ろ う。 経 邦 の 娘 盛 子 と 藤 原 師 輔 と の 婚 姻 は、 『 公 卿 補 任 』 承 平 五 年( 九 三 五 ) の 師 輔 の 条 に、 「 延 長 元 九 五 従 五 下( 中 宮 諱 穏 子。 今 日 自 左 大 臣 東 三 条 第 遷 御 主 殿 寮。 為 令 家 慶 所 叙 之。 大 臣 息 也
)(((
)。 」 と、 一 六 歳 で 叙 爵 し、 翌 年 七 月 一 五 日 に は、 忠 平 の『 貞 信 公 記 』 に「 十 五 日、 大 徳 子 生
)(((
」 と、 一 男 伊 尹 が 誕 生 し て い る。 結 婚 に 可 能 な 年 頃 の 女 子 の 存 在 は 推 測 さ れ る。 延 喜 一 一 年 以 後 延 喜 年 間 の 武 蔵 守 を、 『 国 司 補 任 』 三 で 見 る と、 延 喜 一 七 年( 九 一 七 ) 正 五 位 下 藤 原 高 風 が 一
月 二 九 日 に、 延 喜 一 八 年 二 月 二 九 日 に 従 五 位 下 高 向 利 春 が 任 ぜ ら れ て い る
)(((
が、 武 蔵 守 某 を 確 定 で き る 史 料 が な い。 た だ、 班 子 女 王 と の 関 係 が、 釣 殿 綏 子 内 親 王 へ の 出 仕 の 可 能 性 と し て は、 こ の 経 邦 の 娘 の 可 能 性 が あ る と い う こ と だ け で、 根 拠 は な い。 猶、 『 平 安 時 代 史 事 典 』 で は、 「 若 狭 ② 」 で、 「 生 没 年 未 詳。 歌 人。 陽 成 上 皇 妃 綏 子 内 親 王( 釣 殿 宮 ) の 女 房。 藤 原 忠 行 女 と い う。 若 狭 の 御 と 呼 ば れ た。 」 と し、 「 武 蔵 」 で は、 「 生 没 年 未 詳。 七 条 后 班 子 女 王 の 女 房。 藤 原 経 邦 女
)(((
。」 と し、 同 書「 歴 代 后 妃 表 」 で は、 「 武 蔵 」 は な く、 「 伴 宿 禰 某 女 」 と し て、 「 父 従 三 位・ 伴 宿 禰( の ち 朝 臣 ) 保 平 か 〈 所 生 の 皇 子 女 〉 源 朝 臣 清 鑒〈 歿 年 月 〉 不 詳〈 備 考 〉 保 平 は、 延 喜 一 一 年 一 月、 若 狭 守 に 任 ぜ ら れ る。 清 鑒 の 母 は、 綏 子 内 親 王 に 仕 え、 『 若 狭 御 』
と 呼 ば れ る( 『 大 和 物 語 』 第 一 五 段 )。 」 と す る
)(((
。 本 文 編 に つ い て は、 雨 海 氏 の 論 文 を 承 け た も の で あ る の で 前 述 し た と お り で あ り、 資 料・ 索 引 編 の 伴 保 平 の 場 合 は、 保 平 四 五 歳 か ら 四 八 歳 の 若 狭 守 の 時 に、 出 仕 し た 女 房 若 狭 が、 陽 成 上 皇 の 寵 愛 を 受 け た と い う こ と で、 若 狭 の 御 と 理 解 さ れ て の こ と か。 保 平 は、 天 暦 三 年( 九 四 九 ) 九 月 二 九 日 に 陽 成 上 皇 が 崩 御 し た 翌 年 の 一 〇 月 一 五 日 に 八 四 歳 で 致 仕 し、 天 暦 八 年( 九 五 四 ) 四 月 一 六 日 に 八 八 歳 で 没 し て い る。 同 じ く、 康 保 四 年( 九 六 七 ) 七 月 七 日、 八 四 歳 で 致 仕 す る 小 野 好 古 の 事 例 も あ る が、 好 古 は、 翌 年 の 安 和 元 年( 九 六 八 ) 二 月 一 四 日 に 八 五 歳 で 薨 ず る の で、 体 調 な ど の 原 因 理 由 が あ っ た の か も 知 れ な い。 藤 原 文 範 は、 長 徳 二 年( 九 九 六 ) 三 月 二 八 日 に 八 八 歳 で 薨 ず る ま で、 菅 原 輔
『大和物語』に登場する御たち八
正 は、 寛 弘 六 年( 一 〇 〇 九 ) 一 二 月 二 四 日 に 八 五 歳 で 薨 ず る ま で、 藤 原 実 資 は、 寛 徳 三 年( 一 〇 四 六 ) 一 月 一 八 日 九 〇 歳 で 薨 ず る ま で 任 官 し て い た こ と か ら、 あ る い は、 陽 成 上 皇 と の 特 別 な 関 係 に 依 っ た も の か も 知 れ な い。 保 平 娘 と い う こ と が 正 しいとすれば、 『後撰和歌集』が、どうして「武蔵」としたのか、その理由が分からない。 若狭の御に続いて、一六段には、 陽成院のすけの御、まま父の少将のもとに、 春の野ははるけながらも忘れ草生ふるは見ゆるものにぞありける
少将、かへし、 春の野に生ひじとぞおもふ忘れ草つらき心の種しなければ と「 す け の 御 」 が 登 場 す る。 陽 成 院 に 仕 え て い た 女 房「 す け 」 が、 陽 成 院 の 寵 愛 を 受 け た と い う こ と に な る。 す け の 御 に つ い て、 『 大 和 物 語 鈔 』 は、 「 典 侍 平 子 也 」 と し、 木 崎 雅 興『 大 和 物 語 虚 静 抄 』 は、 「 異 本 書 写 紹 運 録 云 陽 成 院 皇 子 元 長 親 王 母 出 羽 守 遂 長 女 典 侍 有 子 云 々 是 歟 」 と す る
)(((
。 前 者 に つ い て は、 柿 本 奨 氏 が、 「『 典 侍 』 は『 す け 』 に 適 う が、 本 物 語 に 登 場 す る に は 時 代 が 下 が る
)(((
。」 と さ れ、 『 虚 静 抄 』 の 指 摘 に つ い て で あ る が、 今 井 源 衛 氏 は、 「 し か し、 類 従 本『 皇 胤 紹 運 録 』 に は 元 長 親 王 の 母 は 姉 子 女 王 と あ り、 『 尊 卑 分 脈 』 に も 該 当 者 は 見 当 た ら な い。 要 す る に、 『 陽 成 院 の す け の ご 』 な る 女 房 に つ い て
は 未 詳 と い う 外 は な い。 」 と さ れ る
)(((
。『 尊 卑 分 脈 』 に、 山 陰 の 二 男 に、 遂 長 が い て、 そ の 娘 が 陽 成 院 の 寵 愛 を 受 け る こ と は、 年 齡 的 に は 問 題 が な い も の の、 寛 平 三 年( 八 九 一 ) 誕 生 の 元 長 親 王 の 母 と し て、 後 に、 元 利 親 王、 長 子 内 親 王、 儼 子 内 親 王 を 生 み、 そ の 後 典 侍 と な る と い う の は 考 え が た い。 「 典 侍 有 子 」 と い う の は、 『 三 代 実 録 』 貞 観 八 年( 八 六 六 ) 五 月 二 八 日 の 条 に、 「 典 侍 從 四 位 上 藤 原 朝 臣 有 子 卒。 勅 贈
二從 三 位
一。 有 子 者。 贈 太 政 大 臣 長 良 朝 臣 之 長 女 也。 爲
レ性 婉 順。 儀 皃 閑 雅。 仁 壽 四 年 授
二從 五 位 下
一。 天 安 二 年 爲
二典 侍
一。 貞 觀 二 年 授
二從 四 位 下
一。 六 年 加
二從 四 位 上
一。 有 子 適
二大 納 言 平 朝 臣 高 棟
一。 生
二二 男 二 女
)(((一
。」 と あ る 有 子 で は、 時 代 が 遡 り 過 ぎ る
)(((
。『 皇 胤 紹 運 録 』 に 元 良 親 王 の 母 は「 母 主 殿 頭 藤 遠 長 女
)(((
」 と あ る。 主 殿 頭 藤 原 遠 長 と い
『大和物語』に登場する御たち九
う の は、 『 虚 静 抄 』 が「 出 羽 守 遂 長 」 と し た よ う に、 「 遠 」 と「 遂 」 の 字 形 類 似 に よ る 間 違 い で あ ろ う。 『 尊 卑 分 脈 』 の 山 陰 の二男に、従五位下主殿頭遂長がいる。
)((
(
こ の 遂 長 の 娘 と い う こ と で、 推 量 す る な ら ば、 寛 平 二 年( 八 九 〇 ) 誕 生 の 元 良 親 王 母 と し て、 年 齢 的 に も 遂 長 娘 で 無 理 が な い も の と 考 え ら れ る。 遂 長 の 官 職 は、 『 尊 卑 分 脈 』 の「 従 五 下 主 殿 頭 」 し か 見 出 せ て い な い。 『 三 代 実 録 』 元 慶 二 年( 八 七 八 ) 一 月 一 一 日 の 条 の「 従 五 位 下 行 主 殿 助 藤 原 朝 臣 扶 縄 為 頭。 」 と、 扶 縄 が 主 殿 助 か ら 頭 に な っ た と な れ ば、 す け の 御 と い うのにも、また、元良親王誕生の頃ということにも合致しようが、そこを埋める史料を見つけていない。 次段一七段は、 「まま父の少将」の連続でもあり、 「御」の連続でもあるが、
故式部卿の宮の出羽の御にまま父の少将すみけるを、はなれてのち、女、すすきに文をつ けてやりたりければ、少将、 秋風になびく尾花はむかし見したもとににてぞ恋しかりける といへりければ、出羽の御、返し、 たもとともしのばざらまし秋風になびく尾花のおどろかさずは と、 出 羽 の 御 が 登 場 す る。 出 羽 の 御 に つ い て、 『 大 和 物 語 鈔 』 は、 「 出 羽 子 」 と し て「 橘 吉 俊 女 よ し と し 出 家 の 後 出 羽 子 か 母
従三 民部 卿 中納 言
従五 下 但馬 守
山 陰
有 頼
母同 生丘
母筑 前介 有孝 女 仁和 四二 四薨 六十 五
従五 下
従五 下 主殿 頭
散位
遂 長
中 明
母同 有頼
母
『大和物語』に登場する御たち一〇
に 小 野 絃 風 か よ ひ し 也 故 に 絃 風 を ま ゝ 父 の 少 将 と い ひ し 」 と す る
)(((
。 こ れ に つ い て は、 今 井 源 衛 氏 が、 「 ま た 鈔 の い う『 橘 吉 俊 』 と は、 第 二 段 に 登 場 し、 碁 聖 と い わ れ た 寛 蓮 大 徳 橘 良 利( 八 七 四 年 生 ) の こ と と す れ ば、 彼 の 話 は、 『 花 鳥 餘 情 』・ 『 大 鏡 』 そ の 他 多 く の 説 話 集 や 古 記 録 に 見 え る。 し か し、 鈔 が い う よ う な、 良 利 の 子 が 出 羽 御 だ と か、 良 利 の 在 俗 の 妻 を、 春 風 が 自 分 の 妻 と し た と い う こ と な ど も、 何 の 傍 證 も な い。 春 風 が 本 段 の 少 将 だ と い う 説 と と も に、 す べ て 信 用 し 難 い
)(((
。」 と さ れ る 通 り で あ ろ う。 こ の 出 羽 の 御 の 出 仕 先 に つ い て で あ る が、 新 田 孝 子 氏 は、 式 部 卿 の 宮 殿 を 亭 子 院 と さ れ る
)(((
。 そ れ は、 七 二 段 に「 お な じ 宮( 故 式 部 卿 の 宮 )、 お は し ま し け る、 亭 子 院 に す み た ま ひ け り。 」 と あ る こ と、 温 子 の 娘 均 子 内 親 王 と の 婚
姻 関 係 か ら 導 か れ た 結 論 と 推 察 す る。 し か し な が ら、 亭 子 院 と 呼 称 せ ず に 式 部 卿 の 宮 と し た の で あ る か ら、 こ こ は、 二 九 段 の「 故 式 部 卿 の 宮 に、 三 条 の 右 の 大 臣、 こ と 上 達 部 な ど 類 し て ま ゐ り た ま 」 い、 一 七 〇 段 に「 伊 衡 の 宰 相、 中 将 に も の し た まひける時、故式部卿の宮の別当したま」われた、敦慶親王邸ということで、 『兼輔集』一〇一番歌に、 こしきぶ卿すみ給ひし四条の宮にていまの式部卿はじめ給ひけるひ、今のとあるは入 道のなり きみがなもみやもむかしのしかながらかはれるものはとしにぞありける と あ る 四 条 の 宮 と す べ き で は な い だ ろ う か。 一 七 〇 段 で は、 続 い て、 「 つ ね に ま ゐ り な れ て、 御 た ち も 語 ら ひ た ま ひ け る。 」
とあって、 式部卿邸には、 複数の御の存在が知られる。伊衡が中将だったのは、 『公卿補任』によると、 延長二年(九二四) 一 〇 月 一 四 日 右 近 権 中 将 に 任 ぜ ら れ て か ら、 承 平 四 年( 九 三 四 ) 一 二 月 二 一 日 に 参 議 に 任 ぜ ら れ る ま で で あ る
)(((
。「 と ぶ ら ひ に 薬 の 酒・ 肴 な ど 調 じ て、 兵 衞 の 命 婦 な む や り た ま ひ け る。 」 と、 兵 衞 の 命 婦 を 差 し 遣 わ さ れ た の は、 敦 慶 親 王 で あ る か ら、 一 七 〇 段 の 舞 台 年 時 は、 延 長 二 年( 九 二 四 ) 一 〇 月 一 四 日 か ら 敦 慶 親 王 が 薨 ず る 延 長 八 年( 九 三 〇 ) 二 月 二 八 日 の 間 と い う こ と に な ろ う。 敦 慶 親 王 邸 に は、 出 羽 の 御 の 他 に も、 別 の 御 が 宮 仕 え し て い た こ と に な る。 御 は こ れ ま で 述 べ て き た よ う に、 天皇ないしは上皇(法皇)と関係を持った女房ということである。 『伊勢物語』でも、一九段に
『大和物語』に登場する御たち一一
むかし、男、 宮仕へしける女の方に、御達なりける人をあひしりたりける 、ほどもなく離 れにけり。同じ所なれば、女の目には見ゆるものから、男は、ある物かとも思ひたらず。 女、 天雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆるものから とよめりければ、男、返し、 天雲のよそにのみしてふることはわがゐる山の風はやみなり とよめりけるは、また男ある人となむいひけ る
)(((
。 とあり、三一段では、 むかし、 宮のうちにて、ある御達の局の前を渡りける に、なにのあたにか思ひけむ、 「よしや草葉よならむさが見む」といふ。男、 つみもなき人をうけへば忘れ草おのが上にぞ生ふといふなる といふを、ねたむ女もありけ り
)(((
。 とある。一九段は、 『古今和歌集』巻第一五・恋五、七八四・五番歌に、
業平朝臣きのありつねがむすめにすみけるを、うらむることありてしばしのあひだひ るはきてゆふさりはかへりのみしければよみてつかはしける あま雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから 返し なりひらの朝臣 ゆきかへりそらにのみしてふる事はわがゐる山の風はやみなり と あ っ て、 在 原 業 平 と 紀 有 常 女 夫 婦 の 痴 話 喧 嘩 の よ う な 話 を、 御 で あ っ た 女 を「 ま た 男 あ る 人 」 と 作 り 直 し た も の で あ ろ う。
『大和物語』に登場する御たち一二
両段とも、宮中宮仕えの場が想定されている。阿部俊子氏は、前者の注で、 御 達「 御 」 は 夫 人 の 敬 称。 「 達 」 は 本 来 複 数 を あ ら わ す が「 御 達 」 と い う 時 は、 一 般 に、 身 分 の 高 い 権 力 の あ る 古 参 の 女 房 を い い、 ま た、 し ば し ば 主 人 筋 の 愛 情 を 受 け、 女 房 の 身 分 な が ら 特 別 な 立 場 を 默 認 さ れ て い る こ と が 多 い、 と い う ような実体にあったと見られる。 と さ れ、 後 者 の 注 も、 「 宮 仕 え し て い て 地 位 も 相 当 に 高 く 経 験 も あ り、 か つ 主 人 か ら 特 別 な 愛 顧 を う け て い る よ う な 立 場 の 女 房。 」 と さ れ る
)(((
。 こ の よ う な「 御 」 と 呼 称 さ れ る 女 房 が、 改 め て 出 仕 す る と な れ ば、 何 ら か の 関 係 が 有 る と こ ろ だ ろ う か。
『国司補任』で敦慶親王在世中の出羽守を見ると、 昌泰二年(八九九)四月二日に、 従五位上源悦が任ぜられており、 この年、 悦 は 三 六 歳 で、 女 房 と し て 出 仕 す る 年 頃 の 娘 の 存 在 を 想 像 す る に 難 く な い。 外 に は、 延 喜 一 一 年( 九 一 一 ) 九 月 一 五 日 に 出 羽守藤原経邦という記録が見られ る
)(((
。「御」となるとすれば、 寵愛を受けたのは、 宇多法皇か醍醐天皇ということになろうか。 『後撰和歌集』巻第三・春下の一〇三番歌の 元良のみこ兼茂朝臣のむすめにすみ侍りけるを、法皇のめしてかの院にさぶらひけれ ば、えあふことも侍らざりければ、あくる年の春さくらのえだにさしてかのざうしに さしおかせ侍りける もとよしのみこ
花の色は昔ながらに見し人の心のみこそうつろひにけれ な ど か ら 推 す に、 宇 多 法 皇 で あ れ ば、 父 の 寵 愛 を 受 け た 女 房 の 再 出 仕 先 と い う こ と に な る の だ ろ う か。 出 羽 守 の 空 白 が 多 い ので、源悦娘でも藤原経邦娘でもない、他の出羽守の娘のか、はっきりした人物は分からない。 『大和物語』四六段には、 平中、閑院の御に絶えてのち、ほど経てあひたりけり。さて、のちにいひをこせたる。 うちとけて君は寝つらむわれはしも露のおきゐて恋にあかしつ
『大和物語』に登場する御たち一三
女、返し、 白露のおきふしたれを恋つらむわれは聞きおはずいそのかみにて と 閑 院 の 御 が 登 場 す る が、 閑 院 の 御 に つ い て 考 察 す る 前 に、 『 大 和 物 語 』 一 〇 八 段 の「 南 院 の 今 君 」 と の 関 係 に つ い て 整 理 しておく必要がある。一〇八・九段は、 南院のいま君といふは、右京の大夫宗于の君のむすめなり。それ、おほきおとど内侍の督 の君の御方にさぶらひけり。それを兵衞の督の君、あや君と聞えける時、曹司にしばしば おはしけり。おはし絶えにければ、常夏の枯れたるにつけてかくなむ、 かりそめに君がふし見し常夏のねもかれにしをいかで咲きけむ となむありける。 おなじ女、巨城が牛を借りて、またのちに借りたりければ、 「奉りたりし牛は死にき」と いひたりける 返
マし
マに、 わが乗りしことをうしとや消えにけむ草にかかれる露の命は とある。一〇九段は、 『後撰和歌集』巻第一六・雑二の一一三〇番歌に、
人の牛をかりて侍りけるに、しに侍りければ、いひつかはしける 閑院のご わがのりし事をうしとやきえにけん草ばにかかる露の命は と 閑 院 の 御 と な る。 一 〇 八 段 は、 藤 原 師 尹 が 元 服 以 前 に 同 衾 し た と い う こ と で、 承 平 一・ 二 年( 九 三 一・ 二 ) が 舞 台 年 時 で あ り、 一 〇 九 段 は、 わ ざ わ ざ、 巨 城 と 具 体 的 な 人 物 が 指 定 さ れ て お り、 そ の 巨 城 は『 扶 桑 略 記 』 裏 書、 承 平 三 年( 九 三 三 ) 五 月 一 二 日 の 条 に、 「 民 部 史 生 諸 藤 殺
二 ︱害 源 宗 城 朝 臣 并 其 母
)(((一
。」 と あ っ て、 こ れ 以 前 が 舞 台 年 時 と な る。 巨 城 の 父 は 敦 固 親 王 で、 敦 固 親 王 は、 敦 慶 親 王 と 敦 実 親 王 の 間 の 誕 生 と な り、 寛 平 二 年( 八 九 〇 ) こ ろ の 誕 生 と 推 定 さ れ る。 ま た、 巨 城 の 弟 寛
『大和物語』に登場する御たち一四
忠 は、 『 僧 歴 綜 覧 』 に 拠 る と、 貞 元 二 年( 九 七 七 ) 四 月 二 日 に 七 一 歳 で 寂 し た
)(((
と あ っ て、 延 喜 六 年( 九 〇 六 ) の 誕 生 と 知 ら れ る。 よ っ て、 巨 城 の 誕 生 は 延 喜 四・ 五 年 と 推 量 さ れ、 ほ ぼ 三 〇 歳 で 没 し た こ と と な り、 巨 城 か ら す れ ば、 南 院 の 今 君 が 正 しいだろう。よって、ここでは、閑院の御の資料から除いて考察する。 さ て、 『 大 和 物 語 』 四 六 段 に 登 場 す る 閑 院 の 御 と、 邸 第 に「 閑 院 」 に よ っ て 呼 称 さ れ る 女 性 で あ る が、 『 古 今 和 歌 集 』 巻 第 一四・恋四、七四〇番歌に 中納言源ののぼるの朝臣のあふみのすけに侍りける時、よみてやれりける 閑院
相坂のゆふつけ鳥にあらばこそ君がゆききをなくなくも見め と、 源 昇 が 近 江 介 で あ っ た の は、 『 公 卿 補 任 』 に よ る と、 仁 和 四 年( 八 八 八 ) 二 月 一 〇 日 か ら 寛 平 四 年( 八 九 二 ) 一 月 二 三 日 に 美 濃 権 守 に 任 ぜ ら れ る ま で の 間
)(((
の こ と で、 昇 が 三 〇 歳 か ら 三 三 歳 の 間 と い う こ と に な る。 藤 原 冬 嗣 の 閑 院 の 伝 領 を 明 ら か に す る こ と は で き な い が、 『 平 安 時 代 史 事 典 』 に、 「 冬 嗣 の 後 は 孫 の 基 経 に 伝 え ら れ、 基 経 は 表 向 き に は 堀 河 殿 を 用 い、 内 向 き に は 閑 院 を 用 い た と い う。 そ の 後 右 京 大 夫 藤 原 致 忠 を 経 て、 太 政 大 臣 兼 通 の 手 に 移 っ た
)(((
。」 と い う 伝 領 過 程 で あ ろ う。 『 貞 信 公 記 』 延 喜 一 三 年 一 一 月 二 七 日 の 条 に、 「 廿 七 日、 乙 丑、 今 夜 閑 院 君 着 裳
)(((
」 と あ る。 着 裳 年 齢 は、 一 二 歳 か ら 一 六 歳 く ら い と 幅 が あ る が、 仮 に 一 五 歳 と い う こ と で 推 定 す る と、 昌 泰 二 年( 八 九 九 ) の 誕 生 と な り、 延 喜 元 年( 九 〇 一 ) 誕 生 の 源
兼 忠 か ら 推 し て、 貞 元 親 王 の 女 と い う こ と で、 閑 院 と 呼 ば れ た か、 『 平 安 時 代 史 事 典 』 の 閑 院 大 君 で は、 「 生 没 年 未 詳。 平 安 中 期 の 宮 廷 女 房 で 歌 人。 『 貞 信 公 記 』 延 喜 一 三 年( 九 一 三 ) 一 一 月 二 七 日 条 の『 閑 院 君 』 と 同 一 人 で あ れ ば、 閑 院 親 王 貞 元 の 一 女 か。 源 宗 于 女 説 は 疑 わ し い。 藤 原 実 頼・ 同 師 尹 ら と 贈 答
)(((
。」 と あ る。 推 定 年 齢 で あ る が、 実 頼 と は 同 年 齢 に な り、 師 尹 よ り も 二 〇 歳 ほ ど 年 長 に な る。 『 貞 信 公 記 』 の 閑 院 君 は、 貞 元 親 王 の 娘 で、 閑 院 大 君 と は 異 な る だ ろ う。 ま た、 『 古 今 和 歌 集 』 の 閑 院 と、 閑 院 君 と、 閑 院 大 君 は 別 人 で あ り、 閑 院 は、 基 経 と 関 係 す る 女、 基 経 の 娘 と 推 量 し て い る が、 資 料 を 見 出 し ていない。
『大和物語』に登場する御たち一五
『 後 撰 和 歌 集 』 巻 第 五・ 秋 上、 二 二 五 番 歌 に も 昇 に 閑 院 が 装 束 を 贈 っ た 時 に 添 え ら れ た 歌 が あ る。 『 古 今 和 歌 集 』 巻 第 一 六・哀傷の八三七番歌は、 藤原忠房がむかしあひしりて侍りける人の身まかりにける時に、とぶらひにつかはす とてよめる 閑院 さきだたぬくいのやちたびかなしきはながるる水のかへりこぬなり と あ っ て、 延 長 八 年( 九 三 〇 ) 一 二 月 一 日 に 没 し た 藤 原 忠 房 は、 生 年 未 詳 で あ る が、 昇 よ り 若 干 若 く 平 貞 文 と 同 年 配 と 推 量
されるが、その忠房に弔意を表したものである。 『後撰和歌集』巻第一六・雑二、一一二六番歌は、 やまひし侍りて、あふみの関寺にこもりて侍りけるに、まへのみちより 閑院のご 石山に まうでけるを、ただいまなん行きすぎぬると人のつげ侍りければ、おひてつかはしけ る としゆきの朝臣 相坂のゆふつけになく鳥のねをききとがめずぞ行きすぎにける 閑 院 と 呼 称 さ れ る 女 房 が、 天 皇 の 寵 愛 を 受 け る こ と に よ っ て、 閑 院 の 御 と 呼 称 さ れ る よ う に な る と 考 え て 良 い の で は あ る ま いか。敏行の歌について、 木船重昭氏は補説で、 「『逢坂の木綿付鳥もわがごとく人や恋しき音のみなくらん『 (古今・恋一・
読 人 不 知 ) を 踏 ま え る
)(((
。」 と し、 工 藤 重 矩 氏 も「 ※ 閑 院 の 御 の 歌 で あ る『 逢 坂 の ゆ ふ つ け 鳥 も 我 が ご と く 人 や 恋 し き 音 の み 鳴 く ら む 』( 古 今・ 恋 一 ) に 拠 る
)(((
。」 と す る。 岸 上 慎 二・ 杉 谷 寿 郎 校 注『 後 撰 和 歌 集 』 は 前 記 し た 七 四 〇 番 歌 を 指 摘 す る
)(((
。 こ ち ら で あ れ ば、 歌 の 意 味 も よ り 深 く な ろ う。 敏 行 は、 昌 泰 四 年( 九 〇 一 ) に 没 し た
)(((
。 敏 行 と 貞 文 と の 関 係 を 考 慮 す る と、 伊 勢と同様に、宇多天皇の寵愛を受けたものか。 『大和物語』一一一段には、 「大膳大夫きんひら」の長女で后の宮に仕えた少将の御という女房が居る。 大膳の大夫きんひらのむすめども、県の井戸といふ所にすみけり。おほいこは、后の宮に、
『大和物語』に登場する御たち一六
少将の御といひてさぶらひけり。三にあたりけるは、備後の守さねあきら、まだ若おとこ なりける時になむ、はじめの男にしたりける。すまざりければ、よみてやりける、 この世にはかくてもやみぬ別れ路の淵瀬をたれに問ひてわたらむ となむありける。 こ の 大 膳 大 夫 き ん ひ ら に つ い て は、 迫 徹 朗 氏 は、 「『 き む ひ ら
○』 は『 き む ひ こ
○』 の 誤 写 か、 そ れ と も 公 彦 と 改 名 し た の で あ ろ う か。 こ の 点 に つ い て は 解 決 を 見 い だ せ な か っ た が、 大 膳 大 夫 公 平 を 大 膳 大 夫 公 彦 と 同 一 人 と 見 て よ い こ と だ け は 一 応 論 証
で き た の で は な か ろ う か
)(((
。」 と さ れ る。 し か し、 柿 本 奨 氏 は「 源 公 平 説 に す っ き り し な い 点 が 残 る に せ よ。 他 の 説 よ り も 無 難 と い え る の で は な か ろ う か
)(((
。」 と さ れ、 森 本 茂 氏 も「 い ち お う 源 公 平 と み て お く
)(((
」 と さ れ る が、 『 後 撰 和 歌 集 』 巻 第 三・ 春 下 の 一 〇 四 番 歌 の 作 者 表 記 に、 「 橘 き む ひ ら が 女 」 中 院 本「 た ち は な の 公 平 の む す め 」 堀 河 本「 き
公む ひ
平ら か む す め 」 片 仮 名 本「 公 平 女 」 と あ り、 「 橘 き む ひ ら 」 な る 人 物 は 存 在 し た と 考 え る べ き で あ ろ う。 公 平 は 公 彦 の 誤 写 か 誤 伝 と み な す の が 良 い と 思 う。 公 彦 と す る と、 『 政 事 要 略 』 承 平 七 年( 九 三 七 ) 一 二 月 一 一 日 の 条 に、 「 少 納 言 藤 原 俊 房。 大 膳 大 夫 橘 朝 臣 公 彦 圍
レ
碁。 是 間 參 議 顯 忠 朝 臣 有
レ障 罷 出。 右 中 將 師 輔 朝 臣。 仰
二外 記
一勘
下無
二參 議 已 上 一 人
一舁
二板 枕
一例
)(((
上
。」 と あ り、 『 本 朝 世 紀 』 天 慶五年 ( 九 四 二 ) 四 月 一 五 日 の 条 に 、「 又 今 月 十 七 日 賀 茂 齋 内 親 王御 禊 也 。 而 彼 院 長 官 兼 摂 津 守 藤 原 朝 臣 成 国 依
二身 病
一不
二奉 仕
一。 仍 以
二大 蔵 少 輔 藤 原 朝 臣 敏 生
一為
二長 官 代
一之 由 被
レ定 已 了。 而 敏 生 朝 臣 依
レ申
二病 由
一。 改
二 ︱定 兵 庫 頭 平 朝 臣 斉 章
一。 而 件 朝 臣依
レ申
二傷胎穢
一。差
二 ︱替大膳大夫橘朝臣公彦
一御禊并祭日可
二奉仕
一之由被
二召仰
一了
)(((
。」とある。 『尊卑分脈』によると、
文章 博士
備前 守 従四 下 延長 七ゝ 卒
公 統
播磨 守 従四 下
公 緒
左中 将 左少 弁 斎院 長官
左兵 衛督
右京 大夫
公 頼
弾正 大弼
中納 言 大宰 権帥 大膳 大夫
従五 上
公 彦
義子
宇多 天皇 女御
皇后 宮
女 子
参議 女立 后例
山城 守 大内 記 従四 上
三品 齊世 親王 妾
橘 広 相
公 廉
女 子
中納 言庶 明卿 母 長者
文章 博士
右中 弁 但馬 守 近江 守 右京 大夫
従四 上
公 材
母左 馬頭 博風 王女
『大和物語』に登場する御たち一七 )((
(
と あ っ て、 大 膳 大 夫 が 極 官 と な る。 兄 の 公 頼 は、 元 慶 元 年( 八 七 七 ) 父 広 相 四 〇 歳 の 時 の 子 と し て 生 ま れ、 天 慶 四 年( 九 四 一 ) 二 月 二 〇 日 に 六 五 歳 で 没 し て お り、 公 彦 は、 元 慶 の 半 ば 頃 に 生 ま れ、 天 慶 の 終 わ り 頃 に、 六 〇 代 半 ば 過 ぎ で 没 し た と 推 量 さ れ る。 も と よ り、 公 彦 に 近 衞 少 将 の 経 歴 は 記 録 も な く 考 え 難 い が、 婚 姻 可 能 の 長 女 の 存 在 は 想 像 に 難 く な い。 そ し て、 三 女 が「 備 後 の 守 さ ね あ き ら、 ま だ 若 お と こ な り け る 時 に な む、 は じ め の 男 に し た り け る 」 と あ る。 「 若 お と こ 」 と い う こ とであるが、 『伊勢集』に、 寛平みかどの御時、大宮す所ときこえける御つぼねにやまとにおやある人さぶらひけり、
おやいとかなしくしてなべてのをとこはあはせじとおもひてさぶらはせけるに、宮すどこ ろの御せうといとねむごろにいひわたりたまふを、いかがありけむ、おやいかがいはむと おもへど、さるべきすくせにこそあらめ わかき人たのみがたくぞあるや とぞいひける、と しふるほどに、その時の大将のむこになりにけり、 と あ っ て、 仲 平 は 寛 平 二 年( 八 九 〇 ) 二 月 一 三 日 元 服 一 六 歳。 伊 勢 と の 恋 愛 は こ の 頃 と 推 量 さ れ る。 同 じ よ う に 一 〇 代 後 半 と な れ ば、 延 長 二 年( 九 二 四 ) か ら 六 年( 九 二 八 ) の 頃 と な り、 別 れ た 後、 一 一 二 段 で、 「 兵 衛 の 尉 も ろ た だ に 」 逢 う と い
文章 博士
備前 守 従四 下 延長 七ゝ 卒
公 統
播磨 守 従四 下
公 緒
左中 将 左少 弁 斎院 長官
左兵 衛督
右京 大夫
公 頼
弾正 大弼
中納 言 大宰 権帥 大膳 大夫
従五 上
公 彦
義子
宇多 天皇 女御
皇后 宮
女 子
参議 女立 后例
山城 守 大内 記 従四 上
三品 齊世 親王 妾
橘 広 相
公 廉
女 子
中納 言庶 明卿 母 長者
文章 博士
右中 弁 但馬 守 近江 守 右京 大夫
従四 上
公 材
母左 馬頭 博風 王女
『大和物語』に登場する御たち一八
うことに矛盾はしない。庶正は、 『後撰和歌集』巻六・秋中・二九四番歌に、 八月なかの十日ばかりに雨のそほふりける日、をみなへしほりに藤原のもろただを野 辺にいだして、おそくかへりければつかはしける 左大臣 くれはてば月も待つべし女郎花雨やめてとは思はざらなん と あ る。 木 船 重 昭 氏 も 工 藤 重 矩 氏 も、 「 藤 原 の も ろ た だ 」 を 左 大 臣 藤 原 実 頼 の 弟 師 尹 と さ れ る
)(((
が、 詞 書 に は「 朝 臣 」 が な く、 師 尹 は 七 三 五 番 歌 に は「 も ろ ま さ の 朝 臣 」 と あ り、 六 七・ 一 九 六 作 者 表 記 で も、 二 〇 三 詞 書 で も「 朝 臣 」 と あ っ て、 師
尹 で は な く、 藤 原 兼 輔 息 の 庶 正 と す べ き で あ る。 前 栽 栽 植 の 料 と し て 女 郎 花 を 掘 り に 遣 わ し た 庶 正 の 帰 参 が 遅 い の で、 夜 道 を 心 配 し て 深 夜 に 昇 る 二 〇 日 余 り の 月 の 出 を 待 っ て 帰 参 す れ ば 良 い と の 思 い 遣 り で あ ろ う。 『 源 氏 物 語 』「 蓬 生 」 巻 に、 「 君 は、 い に し へ に も ま さ り た る 御 勢 ひ の ほ ど に て、 も の の 思 ひ や り も ま し て そ ひ た ま ひ に け れ ば、 こ ま や か に 思 し お き て た る に、 に ほ ひ 出 で て 宮 の 内 や う や う 人 目 見 え、 木 草 の 葉 も た だ す ご く あ は れ に 見 え な さ れ し を、 遣 水 か き 払 ひ、 前 栽 の 本 立 ち も 涼 し う し な し な ど し て、 こ と な る お ぼ え な き 下 家 司 の こ と に 仕 へ ま ほ し き は、 か く 御 心 と ど め て 思 さ る る こ と な め り と 見 と り て、 御 気 色 た ま は り つ つ 追 従 し 仕 う ま つ る
)(((
。」 と あ り、 『 栄 花 物 語 』 巻 第 三 〇「 つ る の は や し 」 に、 「 関 白 殿 の 上 の 家 司 因幡前司庶政をば、 頼明が代りの美濃になさせたまひ、 下の家司左衞門尉為長をば、 使かけさせたまふ宣旨下させたま ふ
)(((
。」
とある。庶正も『尊卑分脈』に「左兵衛尉天暦元三卒」とあり、 定方女に「左兵衛少尉康〈庶〉正 妻
)(((
」とある。 『本朝世紀』 天 慶 五 年( 九 四 二 ) 四 月 二 七 日 の 条 に は、 「 又 石 清 水 被
レ奉
二 ︱遣 神 財 并 儛 人 歌 人 等
一。」 の「 歌 人 十 人 」 の 中 に、 「 前 加 賀 介 藤 原 庶 正
)(((
」 と あ っ て、 官 途 に は 恵 ま れ な か っ た よ う で あ る。 実 頼 の 下 家 司 と し て つ か え て い た の だ ろ う。 『 後 撰 和 歌 集 』 二 九 四 番 歌 作 者 表 記 に、 烏 丸 本「 右 大 臣 さ ね よ り 」・ 片 仮 名 本「 右 大 臣 」 と い う の が 見 ら れ る。 左 右 の 誤 写 は 多 く、 こ こ も そ の よ う に 思 う が、 舞 台 年 時 を 表 し て い る な ら ば、 天 慶 七 年( 九 四 四 ) か ら 天 慶 九 年( 九 四 六 ) の 八 月 二 〇 日 頃 と い う こ と に な る。 一一一段も一一二段も橘公彦の長女と三女として無理はないと推量する。
『大和物語』に登場する御たち一九
五条の御についてであるが、一四三段に、 むかし、在中将のみむすこ在次の君といふが妻なる人なむありける。女は山蔭の中納言の みめひ にて、五条の御となむいひける。かの在次君のいもうとの、伊勢の守の妻にていま すかりけるがみもとにいきて、守の召人にてありけるを、この妻の兄の在次君はしのびて すむになむありける。われのみと思ふに、この男のはらからなむ、またあひたるけしきな りける。さりければ、女のもとに、 忘れなむと思ふ心の悲しきは憂きも憂からぬものにぞありける となむよみたりける。今はみな古ごとになりたることなり。 と あ る。 傍 線 部「 み め ひ 」 に つ い て は、 天 福 本 は「 み め か 」 と す る。 「 み 妾 」 と も 取 れ る が、 「 ひ( 日 )」 と「 か( 可 )」 の 類 似 と し て 整 理 す れ ば、 伝 為 氏 筆 本・ 大 東 急 記 念 文 庫 本・ 類 従 本・ 大 永 本・ 静 嘉 堂 本 は「 み ひ め
)(((
」 と で、 藤 原 山 蔭 の 娘 か 姪 か と い う こ と に な る。 そ れ が 出 仕 し、 天 皇 の 寵 愛 を 受 け て「 御 」 と 呼 称 さ れ る よ う に な り、 そ の 後、 伊 勢 守 の 妻 の も と に 宮 仕 えし、召人となっていたということになる。系図にすると(姪としての系図であるが、娘とすれば「山蔭」が に入る) 、
棟 梁 師 尚 在 原 業 平
滋 春 高 房 山 蔭
妻 五 条 の 御 女 子 女 子 真 夏
弘 蔭 浜 雄
家 宗
伊 勢
伊 勢 の 御 女 子
召人
伊 勢 守 継
蔭
弁 の
御
『大和物語』に登場する御たち二〇
尚、 『 尊 卑 分 脈 』 弘 蔭 の 脇 附 に「 母 中 納 言 山 蔭 卿 女 」 と あ り、 継 蔭 に は「 母 同 」 と あ る。 新 田 孝 子 氏 は、 伊 勢 守 の 候 補 者 に
ついて、詳しく検討されている中で、愚考に触れて、 山 崎 正 伸「 『 大 和 物 語 』 作 者 試 論 」( 『 大 和 物 語 の 人 々』 ) に 第 百 四 十 三 段 に つ い て 次 の よ う に 説 明 さ れ て い る。 『 尊 卑 分 脈 』 の 藤 原 弘 蔭 の 傍 注 に、 「 母 山 蔭 中 納 言 卿 女 」 と し、 継 ぐ 蔭 に も「 同 母 」 と あ っ て、 名 の 点 か ら も 同 じ 母 の も と に 生 ま れ た 子 と 考 え ら れ る。 そ う す る と、 当 時、 他 に、 こ の よ う に 山 蔭 と 近 い 家 系 の 者 で、 伊 勢 守 に な っ た 者 は 無 く、 上 記 の系図が出来る(一四八頁) と引き、 右 は す な わ ち、 第 百 四 十 三 段 の「 伊 勢 の 守 」 を 継 ぐ 蔭 に 擬 し て い る の で あ る が、 山 蔭 女 が 家 宗 女 で 継 ぐ 蔭 母 で あ る か ら
に は、 山 蔭 姪 も ほ ぼ、 母 親 の 年 齢 に 近 く な る 虞 な し と し な い。 と は い え、 前 述 の ご と く 同 じ 山 蔭 女 と は い っ て も、 家 宗 室と定方室とでは親子ほどの年齡差のあることを想定すれば、必ずしも、あり得ないことではないであろ う
)(((
。 と し て く だ さ っ て い る が、 家 宗 が 従 五 位 下 に 敍 せ ら れ る の が、 斉 衡 三 年( 八 五 六 ) 一 月 七 日 四 〇 歳
)(((
従 五 位 上 が 天 安 二 年( 八 五 八 ) 一 一 月 七 日 四 二 歳
)(((
、 正 五 位 下 が 貞 観 五 年( 八 六 三 ) 一 月 七 日 四 七 歳
)(((
と な る。 弘 蔭 が 従 五 位 下 に 敍 せ ら れ た 時 は 明 確 で は な い が、 元 慶 二 年( 八 七 八 ) 一 月 一 一 日 の 条 に「 宮 内 少 輔 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 弘 蔭 為 少 輔
)(((
」 と あ っ て、 こ れ 以 前 に 従 五 位 下 に 敍 せ ら れ、 継 蔭 は、 元 慶 五 年( 八 八 一 ) 二 月 一 四 日 に、 従 五 位 下 に 敍 せ ら れ て い る
)(((
。 弘 蔭 も 継 蔭 も 父 家 宗 と 同 じ よ う な 叙
棟 梁 師 尚 在 原 業 平
滋 春 高 房 山 蔭
妻 五 条 の 御 女 子 女 子 真 夏
弘 蔭 浜 雄
家 宗
伊 勢
伊 勢 の 御 女 子
召人
伊 勢 守 継
蔭
弁 の
御
『大和物語』に登場する御たち二一
位とすれば、承和の初めから中半までの生まれということになろう。倉田実氏が、 兄 弟 の 母 は、 『 尊 卑 分 脈 』 で「 中 納 言 山 蔭 女 」 と さ れ て い る が、 藤 原 山 蔭 は、 仁 和 四 年( 八 八 八 ) に 六 十 五 歳 で 死 去 し て い て、 家 宗 よ り わ ず か 七 歳 下 に な る。 そ の 娘 が 家 宗 と 結 婚 す る こ と は あ り 得 て も、 孫 と な る 伊 勢 の 誕 生 は は る か に 遅 くなってしまう。 「山蔭女」説は信じがた い
)(((
。 と さ れ る よ う に『 尊 卑 分 脈 』 の 誤 り で あ ろ う。 山 蔭 の 娘 が 弘 蔭 や 継 蔭 の 妻 と い う こ と な ら ば、 『 尊 卑 分 脈 』 の よ う な 誤 解 の 基とも考えられるが、そのような史料も見つけていない。新田孝子氏は、五条の御を繋累と出仕の関係から、
明 証 は な い が、 「 五 条 の 御 」 は 智 泉 女 で あ っ た よ う に 思 わ れ る。 『 尊 卑 分 脈 』( 中 略 ) で 高 房 母 が 紀 氏 で あ る こ と、 佐 高 母 が 紀 氏 で あ る こ と は、 智 泉 と 紀 氏 と の 由 縁 が 浅 か ら ぬ も の で あ る こ と を 示 し て い る。 紀 氏 は、 名 虎 女 の 種 子 が 仁 明 天 皇に、 同じく静子が文徳天皇に入内している家柄である。紀有常女が業平室であることはいうまでもない。 「五条の御」 が 業 平 女 の も と に 身 を 寄 せ た こ と か ら 推 測 す れ ば、 彼 女 は、 佐 高 と 同 一 の 紀 氏 を 生 母 と す る 智 泉 の 女 子 で あ っ た と 見 ら れよ う
)(((
。 とされる。繋累ということではない推測を敢えて加えるならば、 『三代実録』貞観五年(八六三)三月二八日の条に、 詔以
二從四位下秀世王。正五位下在原朝臣善淵。從五位上紀朝臣有常。有宗宿祢益門。大春日朝臣眞野麻呂。平朝臣實 雄。藤原朝臣安方。在原朝臣業平。從五位下坂上大宿祢瀧守。藤原朝臣山陰。文室朝臣卷雄。高橋朝臣文室麻呂。藤 原朝臣良近等
一。爲
二次侍 從
)(((一
。 と あ っ て、 紀 朝 臣 有 常( 四 九 歳 )、 在 原 朝 臣 業 平( 三 九 歳 )、 藤 原 朝 臣 山 陰( 四 〇 歳 ) で、 共 に 次 侍 従 と な っ た こ と が 見 え る。 こ の よ う な こ と も、 業 平 娘 の 許 に 五 条 の 御 が 出 仕 し た 縁 が あ っ た の だ ろ う か。 『 大 和 物 語 』 で は、 零 落 し た「 御 」 と し て 国 司 の 召 人 と な っ た 五 条 の 御、 『 後 撰 和 歌 集 』 の「 檜 垣 の 嫗 」 が 正 し い が、 純 友 の 乱 で 零 落 し た と 語 ら れ る「 檜 垣 の 御 」、 父 親 が 亡 く な っ て 漂 泊 し た「 弁 の 御 」 と、 陽 成 院 の 寵 愛 を 受 け る こ と な く、 「 猿 沢 の 池 玉 藻 」 と 詠 じ た「 お お つ ふ ね 」 な ど 多 く
『大和物語』に登場する御たち二二
の 御 た ち や、 一 三 四 段 の よ う に、 醍 醐 天 皇 の 寵 愛 を 受 け た も の の、 主 な る 御 息 所 に 追 い 出 さ れ た 女 童、 一 〇 五 段 の 近 江 介 平 中 興 が 娘 を 天 皇 に 奉 ろ う と 考 え て い た こ と な ど、 「 御 」 に な り そ こ ね た「 お お つ ふ ね 」 と 類 型 と な ろ う か。 京 極 御 息 所 藤 原 褒子も、 出家後の宇多法皇の寵愛を受けたもので、 その寵愛振りは六〇段に語られている。 『三代実録』貞観四年(八六二) 八 月 是 月 の 讃 岐 朝 臣 永 直 卒 伝 に「 少 女 爲
二光 孝 天 皇 更 衣
一。 生
二源 皇 子 舊 鑒
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。」 と あ っ て、 従 五 位 下 大 判 事 兼 行 明 法 博 士 永 直 の 娘が更衣となったのも、 『三代実録』貞観一五年(八七三)四月二一日の条に、 定
二親 王 八 人 源 氏 四 人
一。 皇 子 貞 固。 母 橘 氏。 治 部 大 甫 休 蔭 之 女。 皇 子 貞 元。 母 藤 原 氏。 參 議 治 部 卿 仲 統 之 女。 皇 子 貞 保。
母 女 御 藤 原 氏。 故 中 納 言 長 良 之 女。 皇 子 貞 平。 母 藤 原 氏。 右 中 弁 良 近 之 女。 皇 子 貞 純。 母 王 氏。 中 務 大 甫 棟 貞 之 女。 皇 女 孟 子。 母 藤 原 氏。 兵 部 大 輔 諸 葛 之 女。 皇 女 包 子。 母 在 原 氏。 參 議 左 衛 門 督 行 平 之 女。 皇 女 敦 子。 与
二貞 保
一同 母 並 爲
二親 王
一。 皇 子 長 猷。 母 賀 茂 氏。 越 中 守 岑 雄 之 女。 皇 子 長 淵。 母 大 野 氏。 前 石 見 守 鷹 取 之 女。 皇 子 長 鑒。 母 佐 伯 氏。 信 濃 權 介子房之女。皇女載子。與
二「貞」長猷
一同母並爲
二源 氏
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。 と あ る 中 で、 治 部 大 輔 休 蔭 の 娘・ 中 務 大 輔 棟 貞 王 の 娘・ 兵 部 大 輔 諸 葛 の 娘・ 越 中 守 岑 雄 の 娘・ 前 石 見 守 鷹 取 の 女・ 信 濃 権 介 子房の娘のように公卿に昇らぬ者の娘達も光孝天皇の龍潜の間に寵愛を受けたのだろう。 『三代実録』 貞観一八年 (八七六) 三月一三日の条 「皇子貞數爲
二親王
一。年二歳。母更衣參議大宰權帥從三位在原朝臣行平之女也。皇女識子爲
二内親王
一。年三歳。
母 更 衣 故 神 祇 伯 從 四 位 下 藤 原 朝 臣 良 近 之 女 也。 皇 子 長 頼。 賜
二姓 源 朝 臣
一。 年 二 歳。 母 更 衣 從 五 位 下 行 信 濃 權 介 佐 伯 宿 祢 子 房 之女 也
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。」では、良近の娘も子房の女も更衣となっている。 時代が下るが、 『栄花物語』巻第三八「松のしづえ」に、 一 品 宮 に 参 ら せ た ま ひ し 侍 従 宰 相 の 御 女、 内 お ぼ し め す と い ふ こ と 世 に 聞 え て、 た だ そ な た に な ん お は し ま す な ど い ふ ほ ど に、 た だ な ら ず な ら せ た ま へ り 。 お ほ か た も 宮 仕 へ ざ ま に も あ ら ず、 も て か し づ き き こ え さ せ た ま ひ て、 た だ 宮 の 御 同 じ こ と に て、 御 台 な ど ま ゐ ら す る こ と も、 姫 君 の 御 台 と て、 女 房 取 り て ま ゐ ら す る に、 ま し て か く さ え も の せ さ せ
『大和物語』に登場する御たち二三
た ま へ ば、 い と 心 こ と に も て な さ せ た ま ふ。 も と よ り 帝 の 御 母 に な り た ま ふ べ き 宿 曜 も の し た ま ふ。 御 夢 に も、 紫 の 雲 立 ち て な ん 見 え た ま ひ け る な ど 聞 ゆ る を、 「 な ほ さ こ そ 人 は も の は い へ 」 と 言 ひ し を、 「 ま こ と に た だ 今 に て は か な ひ ぬ べ き に や 」 と、 人 々 は 思 ひ い ふ め り。 七 月 に 尾 張 前 司 経 平 と い ふ 人 の 家 に 出 で さ せ た ま ふ。 「 こ の た び 帰 り ま ゐ ら せ た ま は ん に は、 更 衣 な ど に て な ん お は す べ き 」 と 言 ひ の の し る。 出 で さ せ た ま ふ 夜 は、 暁 ま で お は し ま し、 御 供 の 人 な ど のたちやすらふも、 昔物語の心地す。さべき睦まじき殿上人、 御送すべき宣旨ありて、 いとめでたし。殿ばらなど、 「な ほ 女 ご こ そ 持 つ べ き も の は あ れ 」 な ど め で た ま ふ。 母 北 方 も 良 頼 の 中 納 言 の 女 に も の し た ま へ ば、 仲 ら ひ い と あ て や か に、 昔 物 語 の 心 地 す。 御 息 所、 更 衣 な ど に、 皆 中 将・ 少 将 の 女、 受 領 の も 皆 参 り け る を、 こ の 近 き 世 に は、 お ぼ ろ げ の 人 は 参 り た ま は ぬ も の に 慣 ひ た る に、 い と あ さ ま し き な り。 入 道 殿 に 后、 帝 は お は し ま す も の と 思 ふ に、 こ の 関 白 殿、 右 の 大 殿 だ に、 大 臣 に て こ そ 参 ら せ さ せ た ま ひ し か、 昔 に 返 り て、 か く 人 の 宿 世 も 定 め あ る べ き こ と か は と な る べ し。 神わざの隙には忍びて参らせたまふ。御使隙もな し
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。 と、 康 平 七 年( 一 〇 六 四 ) 五 月 一 五 日 に 薨 じ た 源 基 平 の 女 基 子 は、 聡 子 内 親 王 に 仕 え る 女 房 で あ っ た が、 後 三 条 帝 の 寵 愛 を 受 け 懐 妊 し て、 実 仁 親 王 出 産 後、 延 久 三 年( 一 〇 七 一 ) 三 月 二 七 日 に 女 御 と な っ た。 正 式 な 入 内 を 経 て、 女 御 更 衣 と な っ た 后妃たちの外に、 正式な形ではないものの、 京極御息所(三・三八・六一段) 〈注記〉のように、 法皇の寵愛を受けることで、
栄 光 に 浴 す る こ と も あ り、 ま た、 後 宮 解 体 や 天 皇 の 寵 愛 衰 微 に よ っ て の 零 落 も あ っ て、 多 く の「 御 た ち 」 が 大 和 物 語 で 語 ら れることになったのではないだろうか。
注
( 1 )『平安朝文学研究』二巻七号、昭和四四・六 ( 2 )『語文研究』三七号、昭和四八・八 ( 3 )『国語と国文学』五二巻六号、昭和五〇・六 ( 4 )零落漂泊する御 ― 「弁の御」と「檜垣の御」 ― 『二松学舎大学論集』六二号、平成三一・三
『大和物語』に登場する御たち二四