奈良教育大学学術リポジトリNEAR
平氏与党人「山鹿兵藤次秀遠」跡の処分について―
下野宇都宮氏の西遷と関連して―
著者 浅野 真一郎
雑誌名 高円史学
巻 8
ページ 17‑35
発行年 1992‑10‑01
その他のタイトル Disposal of the Domain of Pro‑Heishi (平氏)
Yaraaga Hyodoji Hideto (山鹿兵藤次秀遠)
URL http://hdl.handle.net/10105/8693
平氏与党人 ﹁山鹿兵藤次秀遠﹂ 跡の処分について
〜 下 野 宇 部 官 民 の 西 達 と 関 連 し て ー
浅 野 真 一
β 良
一 は じ め に
鎌倉時代における御家人の移動には大別して三度の契機があった︒その第一は平家没官領への派遣︑第二は奥羽平定に伴
う東北地方への派遣︑第三は承久の乱後に設置された新補地頭としての西国への派遣である︒本稿で取り上げる﹁山鹿兵藤
次秀遠﹂跡への下野宇都宮氏の西運は︑このうち第一の部類に分けられる性格のものである︒
﹁山鹿兵藤次秀遠﹂の本拠地︑筑前国山鹿荘に関する史料としては︑没官後︑当荘に入部した下野宇部官民=のちの麻生
︵ 1
︶
氏に関する﹃麻生文書﹄がある︒しかし︑この﹃麻生文書﹄の史料としての信憑性︑鎌倉期史料の希少性ゆえ︑没官後の処
︵ 2
︶
分過程については詳細に論じられていないのが現状である︒本稿では﹃麻生文書﹄を他史料との比較・検討によって補いな
がら実像に迫ってみたい︒
ー17−
二 ﹁山鹿兵藤次秀遠﹂ − その所領と平氏との関係 −
﹃平家物語 巻十一﹄の﹁鶏合壇浦合戦﹂に次のような記述がある︒
平家は千余根を三手につくる︒山賀の兵藤次遠五百余娘で先陣にこぎむかふ︒︵中略︶兵藤次秀遠は︑九図一番の勢兵
に あ
り け
る ︒
ま た
︑ ﹃
吾 妻
鏡 ﹄
に も
︑ 平家五百余腺分≒一手一︒以二山我兵藤次秀遠井松浦寅等一為二大将軍一︒
とある︒これより︑山鹿秀遠が平氏軍の主力として活躍していたことが分かるとともに︑当時︑九州において秀遠が保って
菊 池 系 図
いた勢力を窺ことができる︒
山鹿氏は肥後菊池氏より出ている︒そして︑
経政の代に至って﹁山鹿大夫﹂を称するように
なったようである︒﹁山鹿﹂ の地名は筑前・肥
後両国に見えるが︑﹃宇治拾遺物語 巻九の五﹄
の﹁恒正が郎等仏供養の事﹂に︑
昔︑ひょうどうたいふつねまさ︵兵藤大夫
恒正︶という者ありき︒それは︑筑前園や
まがの圧といひし所に住みし︒
と見え︑遠賀川河口に位置する筑前国山鹿荘であることが分かる︒また︑内容より﹁恒正﹂と﹁経改﹂は同一人物とみて良
いだろう︒そして︑この経政の後︑山鹿荘を引き継いだのが﹁山鹿兵藤次秀遠﹂なのである︒
︵
4
︶
へ
5
し
ここで着目しておきたいのが︑秀遠の父︑経遠である︒彼の名は﹃八幡宇佐害御神領大鏡﹄に﹁粥田前武者所経遠﹂と記
されており︑筑前国粥田︵かいた︶荘の在地領主であった︒粥田荘は遠賀川支流の犬鴨川中流域に広がる平野部にある︒つ
まり︑山鹿荘・粥田荘はともに遠賀川流域に位置しているのである︒このことを考えると︑菊池氏︑これより出た山鹿氏は
肥後国より筑前国に進出した後︑遠賀川に沿ってその勢力を伸長させていった︑との推測が可能である︒その結果︑両荘は
︵ 6
︶
没官後の処分に際しても︑延応元︵一二三九︶年﹁太政官牒﹂に︑
︵前略︶関東故右大将︑惣信二 山へ別蹄二雷院﹂以二鎮西山鹿・粥田所庄所雷二百石へ 限二永代一配﹂置
護摩用途﹂毎年無∴憾恵一令レ運コ送雷院へ巳及二四十年へ︵後略︶
と見えるように︑一括して取り扱われている︒つまり︑山鹿・粥田両荘はともに遠賀川流域であるという地理的理由だけで
なく︑両荘とも山鹿秀遠一族により支配されていたという点でも深く結び付いていたのである︒
さて︑安田元久氏は九州在地武士と平氏との関係について考察され︑山鹿秀遠らの立場は平氏の家人ではなく︑平氏に同
︵ 7
︶
意・与党したものであったことを指摘された︒では︑﹁平氏与党人山鹿秀遠﹂は何を契機として生じたのであろうか︒
へ 8
︶
飯田久雄氏は﹃平氏と九州﹄ の中で︑九州が平氏の基盤と成り得た事情として︑①平正盛以来院政政権に接近し︑院の近
臣として九州所在の院御領に預所等として関与できたこと︑②院の近臣として西国受領を歴任し︑また大宰府府官・国衝在
︵ 9
︺
庁層を平氏与党に組織したこと︑の二点を挙げておられる︒①に関連して述べると︑山鹿氏同族︑菊池氏の系図に︑
経宗 上洛而鳥羽院武者所二俣
一19−
経直 鳥羽院武者
とあるはか︑先に見た﹃八幡宇佐宮御神領大鏡﹄にも︑
保元元年粥田前武者所緩速
とある︒保元元︵二五六︶が鳥羽院崩御の年であることを考えると﹁前武者所﹂と記された理由が分かる︒つまり︑経宗・
経直・経遠等が鳥羽院武者所に出仕する問に︑院司であった平忠盛と接触を持ったことは十分に考えられる︒また︑粥田荘
︑ 川︑
は院御願寺の成勝寺に寄進されている︒とすれば︑鳥羽院御領となることで︑肥前国神崎荘・筑前国宗像社同様︑平氏が当
荘の預所となった可能性もある︒この場合︑預所・下司という荘園支配関係が平氏と山鹿氏を媒介した︑ということになる︒
︵ ‖︶
②に触れて考えるなら︑九州有力武士と大宰府との関係に注目したい︒﹃菊池系図﹄﹃大蔵系図﹄によると︑﹃吾妻鏡﹄が
たびたび平氏与党人として列挙している菊池・原田・板井・山鹿の四氏のうち︑多くの者が大牢府の有力府官となっている
ことが分かる︒そこから︑府官であった彼らが︑平清盛・頼盛の大事大弐補任を契機として平氏勢力に取り込まれた︑とも
推測できる︒加えて︑これら四氏が親戚関係によって深い繋がりを持っていたことは︑平氏が九州を把超し︑基盤とする上
で非常に好都合であったはずである︒とすると︑府内での被官関係を通じて︑平氏は九州有力武士を一元的に統轄した︑と
い う
こ と
に な
る ︒
次節では︑内乱の進展の中で︑頼朝が採った鎮西支配政策について︑ここで述べた平氏与党人への対応をも含め︑考察し
て み
た い
︒
図2 菊池・原田・坂井・山鹿四氏関係系図
−21−
三 頼朝の鎮西支配政策
九州は平氏にとって有力な財政的軍事的基盤であった︒そして︑治承・寿永の内乱では︑その九州を含む西国一帯が戦乱
の舞台となった︒ここでは︑東国を中心に勢力を保っていた頼朝が争乱後の九州で行った施策︑特に御家人化と所領の処分
について見ていきたい︒
頼朝は︑平氏を迫って西国に軍勢を進める過程において︑早くも九州在地武士に対し御家人化を呼び掛けている︒﹃吾妻
鏡﹄文治元︵一一八五︶年正月六日条に︑
下 鎮西九図住人等
可卜早員二鎌倉殿御家人一且安﹂堵本所一且随二参河守下知l同心合力迫叫討朝敵平家上事 隋腑陥
右 仰 疲 団 々 之 輩 4 可 レ 追
﹁ 討 朝 敵 一 之 由
︒ 院 宣 先 軍
︒ 仇 鎌 倉 殿 御 代 官 両 人 上 洛 之 虞
︒ 参 河 守 向 二 九
園︒以l九郎判事所レ被レ道一l四囲一也︒愛平家縦錐レ在!四囲l一︒堆レ着二九図一︒各且守二 院宣旨㍗且随二参河
守下知一︒令一同心合力l︒可レ追﹁討件賊徒1−也者︒九団官兵宜承知︒不日全l動功之賞一夫︒以下︒
元暦元年正月自
前右兵衛佐瀬朝臣
とあるのがそうである︒つまり︑名主層の弱小武士に対しては︑比較的寛大に対処しっつ広範に御家人化を進めたようであ
る︒なお︑この史料について安田元久氏は︑頼朝が自著した下文において﹁鎌倉殿御家人﹂という敬語を用いていることに
︵ 1
2 ︶
疑問が残るとされているが︑たとえ﹃吾妻鏡﹄編者による加筆があったとしても︑この下文の意図までを否定するものでは
ないだろう︒北
一方︑菊池・原田・板井・山鹿氏等︑平氏に与党した九州有力武士︑﹃吾妻鏡﹄の言う﹁同コ意平氏一之謹﹂ に対しては
へ︑
厳しい態度で臨んでいる︒文治元︵二八五︶年十二月に地頭補任の勅許を得た数日後︑九条兼実に宛てられた頼朝の書状
によると︑彼らの所領について
如此之間︒種直︒隆直︒種遠︒秀遠之所領者︒依レ夢一没官之所4任二先例︒可レ置二沙汰人職一之由難二令レ
存候l︒且先乍レ中二事之由り尚椒子レ今不▼成敗l候︒何況自余之所不レ及二成敗一候︒
とある︒これによると︑﹁自余之所﹂については不干渉の立場を示し︑院の意向を考慮した表現を用いているものの︑裏を
返せば平家没官領には是非とも家人を沙汰人として置きたい︑という頼朝の強い意思が感じられる︒
以上のように︑頼朝は九州在地武士を御家人として取り込んでいく一方︑平氏に与党した有力武士に対しては厳格に処分
を行った︒そして︑東国御家人が守護あるいは地頭に補任され︑中でも小地頭の上に補任された者は惣地頭と称された︒こ
︵ 1
4 ︶
うした東国御家人の西達の例としては︑島津荘惣地頭で︑後に薩摩・大隅・日向三国守護にもなった惟宗忠久がいる︒彼は
近衛家下家司惟宗氏の出身であったが︑摂関家と縁故のある東国武士との関係より鎌倉御家人化し︑頼朝の側近としても活
躍する等︑公武両勢力に接点を有する人物であった︒内乱を通じての武家勢力の西国への展開は︑自然︑公家勢力との間に
摩擦を生じさせるものであったが︑忠久の特殊な立場は公武問に妥協を引き出し︑摂関家領島津荘への惣地頭補任を可能に
したのである︒ともかく︑東国御家人の西運は︑彼らの勲功に対する恩賞としての性格にとどまらない︑頼朝の意図的な鎮
Ⅳ舶血
西統制政策であったと言えるだろう︒
安田元久氏は﹃初期封建制の研究﹄の中で︑﹃吾妻鏡﹄が広義に︑かつ不統一に用いている﹁平家没官領﹂ の語について
−23−
検討され︑その内容と性格に三類型あることを示された︒これによると﹁平家没官領﹂は︑
︵A︶平氏一門所領であり︑平家没官領の根幹をなしていたと思われる所領
︵B︶平氏の家人である在地武士で︑平氏一門とは身分的に区別できる階層が所有していた所領
︵C︶平氏与党人・謀叛人の所領
に分類できる︑と述べられている︒また︑没官後の処分についても︑︵A︶は関東御領になり︑かつて平氏一門の所有して
いた本家・領家職等の荘領主権が将軍家に移されたとするのに対し︑︵B︶︵C︶は関東御領となる性格の所領ではなく︑地
頭・下司職等の在地領主権が頼朝の御家人に分与された︑と規定されている︒安田氏の分類に従えば︑本稿が取り上げてい
る山鹿秀遠跡は︵C︶の類型とみなすことができるだろう︒次では︑山鹿秀遺跡が具体的には誰に︑どのような形で処分さ
れたのか考察したい︒
四 山鹿秀遺跡の処分
治承・寿永の内乱後︑平氏に与党していた九州有力武士︑すなわち菊池・原田・板井・山鹿の四民の所領跡処分が実施さ
れた︒まず簡単に山鹿氏以外の三氏所領跡の処分について触れておくと︑菊池隆直跡は一度没官されたものの再び菊池一族
︵ 1 b
︶
︹ 1 7
︶
︵ 1 8
︶
に安堵︑原田種直跡は武藤資頬に︑板井種遠跡は宇都宮信房にそれぞれ与えられている︒しかし︑残る山鹿秀遺跡=山鹿荘・
粥田荘については詳細に論じたものがないので︑以下において考察を加えていきたい︒
山鹿秀遠の本拠地となっていた山鹿荘については︑投官後入部した下野宇都宮一族麻生氏所伝の﹃麻生文書﹄のはか︑そ
の処分所有関係の変遠を窺わせる史料に乏しいと言わざるを得ない︒一方︑粥田荘は︑後に高野山金剛三昧院領となってい
︵ 1
9 ︶
るため︑当院関係文書が多くの史料を提供してくれる︒これらを手掛かりとして処分の実態を明らかにしてみたい︒
﹃ 麻 生 文 書 ﹄ 一 四 三 号 文 書 に よ る と ︑
一品房ハ︑頼朝大将依レ為t一御祈師↓平家追討時︑山鹿兵藤次秀遠跡筑前固山鹿庄ヲ頼朝ヨリ下絵
と見える︒文中の﹁二品房﹂とは︑﹃吾妻鏡﹄に頼朝の右筆してたびたび名前の見える﹁二品房昌寛﹂のことである︒この
﹃麻生文書﹄の記述をそのまま信用することができないが︑﹃吾妻鏡﹄文治四︵二八八︶年五月十七日条にも︑
次鎮西庄者︒成勝寺執行昌寛眼代成レ妨之間︒召二昌寛返状﹄邸一下賜一︒猶以不二静泌彗企二檻行−之趣︒
訴申云々︒
とあり︑やはり呂寛が九州荘園の経営に関与していたように読むことができる︒
さて︑昌寛を介して︑﹃吾妻鏡﹄の言う﹁沙汰人﹂として差し置かれた人物を考える史料として︑﹃粥田庄々務頼順注進状
︵ 2
0 ︶ 案 ﹄
が あ
る ︒
ー25−
麻
宇都宮系図 図3
筑前国粥田庄之事
文治□□□∩ハ成勝寺領候裁︑︵中略︶
其時分ハ山鹿左衛門尉家長拘ト云々︑︵後略︶
これより︑文治年間︵一一八五〜一一九〇︶には﹁山鹿左衛門尉
家長﹂なる人物が粥田荘に入っていたことが窺われる︒この山鹿
家長の出自であるが︑没官の実地状況︑また名前から考えるに︑
山鹿秀遠ら旧山鹿一族であるとは信じ難い︒やはり︑没官後に入部した下野宇都宮一族︑家政に始まる新来の山鹿氏と見る
︑ コ︑
べきであろう︒﹃宇都宮系図﹄にも﹁家長﹂の名前が見える︒
ところで︑﹁山鹿﹂姓を名乗る人物が粥田荘に入っていたことは︑山鹿荘についても同族のものが入部している可能性を
︵ 2
2 ︶
十分推測させる︒事実︑﹃麻生文書﹄に︑
︵ 花
押 ︶
︵ 北
条 時
頼 ︶
下 小二郎兵衛尉資時
可レ令三早縞二筑前閻山鹿庄内麻生庄・野面庄・上津役郷三箇所地頭職代一事︑
右人︑任ご親父二郎入道西念今月日譲状︑須一彼職﹂可レ致二沙汰一之状如レ件︑
建長元年六月廿六日
︑ ﹂
. 1
とあり︑﹁二郎入道西念︵山鹿時家︶﹂の譲状により︑その子﹁小二郎兵衛尉資時︵麻生資時︶﹂に地頭代職が安堵されてい
る︒すなわち︑山鹿秀遠跡には下野宇都宮氏が下向し︑山鹿荘には時家・資時が︑粥田荘には家長がそれぞれ入っていた︒
そして︑先に見た通り︑文治年間には粥田荘に入っていた家長が︑おそらく﹃吾妻鏡﹄の言うところの山鹿秀遺跡の﹁沙汰
人﹂であったと考えられる︒
山鹿秀遠は先程の地頭代安堵状が﹃北条時頼袖判下文﹄であることからも分かるように︑下野宇都宮氏入部後︑北条氏所
領となっている︒北条氏所領化の時期を確定することは難しいが︑前出﹃粥田庄々務頼順注進状案﹄の続きに︑
一員應三年ヨリ 高野山金剛三昧院領也︑配詣墾二位殿御寄進︑頼朝︑
眞朝︵実朝カ︶繭代之御菩提所︑大将軍家代々御判六巻文語二明鏡也︑︵後略︶
︵24︶
とあり︑﹁二位殿﹂すなわち頼朝の妻北条政子により金剛三昧院に寄進されていか︒
奥富敬之氏は︑頼朝存命中において平氏勢力圏であった九州︑奥州藤原氏勢力圏であった陸奥国では︑北条氏所領の形成
︵ 2
5
︶
が顕著にみられ︑しかも頼朝からの拝領という形式を採っているものが多い︑とされている︒山鹿・粥田両荘も同様にして
北条氏所領化したものと考えられる︒
五 下野宇都宮氏の西遷 −その契機と経過−
ここまで山鹿秀遺跡=山鹿荘・粥田荘に焦点を合わせ考察を進めてきた︒そして︑没官後︑下野宇都宮一族の山鹿時家・
︵ 2
6 ︶
家長らに処分されていたことを明らかにしてきた︒ところで︑﹁宇都宮氏﹂と言えば︑板井種遠跡に入った宇都宮信房が思
い出される︒同族の者が筑前・豊前に分かれて入部していること︑これは偶然の一致なのか︑それとも何らかの意図が働い
て い た の で あ ろ う か ︒
宇都宮信房が内乱後の九州で得た諸職としては︑正和元︵一三二︶年﹁鎮西下知粒に︑
高祖父大和前司入道々賢所二拝領・板井兵衛尉種遠之跡也︑嘗国税所職別種遠跡也︑
︵ 2
8 ︶
と挙げられている︒﹁板井兵衛尉種遠之跡﹂には︑豊前国田河郡柵原名地頭職等がある︒そのはか︑謀叛人跡同国伊方荘地
じ蝋 爪
頭職にも補任されている︒ここで注目したいのは︑伊方荘・柿原名とも豊前国内にあり︑遠賀川支流彦山川近くに位置して
いることである︒前節までに触れてきた山鹿荘・粥田荘も遠賀川流域にあったことを考え合わせると︑山鹿秀遺跡・板井種
遺跡は遠賀川を通じて不可分の地理的関係を有していたことを指摘することができる︒それゆえに︑両氏跡に下野宇都宮氏
ー27−
氏同族の者が入部したのだ︑とは考えられないだろうか︒
もう一点︑前出の﹁二品房昌寛﹂に目を留めて︑下野宇都宮氏西運の必然性を論じてみたい︒
日日寛は︑先に述べたように︑山鹿荘処分に当たって何らかの役割を担っていたと思われる人物であるが︑その呂寛の活動
u呪 乃
の一端を示す史料が﹃肥後志賀文書﹄に残されている︒
︵ 在
御 判
︶
︵ 一
品 房
昌 寛
︶
下 往生院々主所
可卜早任一先例免榊除桑公事狩﹂事
右︑件桑等事︑宜任l薗記譜文﹂且依二等覚房歎申状付﹂如二先例へ四至内桑波多免除軍︑自レ今巳後︑
令非法停止へ任二正道哩一︑可レ致l沙汰一状如レ件︑
建久三年正月十九日
︵ 3
0 ︶
文中に見える﹁往生院﹂については︑同文書﹃豊前往生院々主春宗申状案﹄の中に﹁豊前国堺御庄往生院﹂とあるのがこれ
である︒堺荘はその名の通り筑前国と豊前国の国境にあり︑しかも︑これもまた︑遠賀川支流彦山川に面する要地に位置し
ている︒すなわち︑堺荘が︑粥田荘と伊方荘を結んでいるのである︒この地で日日寛の活動が認められるということは︑山鹿
氏所領跡・板井氏所領跡が一括して把撞されていたこと︑その処分に広く昌寛が関与していたことを示唆している︒
さらに︑この指摘を補強するのが︑昌寛の﹁成勝寺執行﹂の地位である︒
粥田荘は︑﹃粥田庄々務頼順注進状案﹄で見たように︑旧山鹿一族粥田経遠の時︑保元元︵一一五六︶年以来の成勝寺領
であった︒これ以外にも︑宇都宮信房が本拠地を構えた豊前国伝法寺荘も﹃八幡宇佐宮御神領大鏡﹄によると︑
29
博法寺 本庄四十町 加納三百錬町︑︵中略︶以二仁平二年﹂立コ券成勝寺御庄l也︑ ︵後略︶
と見え︑仁平二︵二五二︶年以来成勝寺領であったことが確認できる︒これらの成勝寺領を含んだ平家没官領の処分を円
滑に実施するに当たって︑昌寛の﹁成勝寺執行﹂の地位は好都合であったはずである︒
そこで︑鎮西の昌寛の活動を考える上で思い浮かぶのが︑先に紹介した島津荘惣地頭惟宗忠久である︒彼に見られた公武
両勢力との接点を昌寛にも求めてみると︑﹃新訂増補国史体系 尊卑分泳﹄所収﹁道兼公孫﹂の中で︑没官後の筑前国山鹿
荘に入部した新来の山鹿氏初代家政の註記に︑
朝綱猶子
実父高階民業遺子
成佐曽孫
言m房昌寛子也
︵ 3
1 ︶
とある︒高階氏は︑盛章が鳥羽院庁・美福門院庁別当を務める等︑院の近臣であった︒昌寛がこの高階氏を出自とすること
は︑近衛家下家司出身の惟宗忠久と同じく京下り宮人であったことを窺わせるとともに︑﹁成勝寺執行﹂となった事情につ
いても︑成勝寺が鳥羽院御願寺であることから容易に理解することができる︒一方︑頼朝の下での昌寛は︑﹃吾妻鏡﹄ に見
えるように頼朝側近・幕府公事奉行人として活躍している︒そんな昌寛の名前が鎮西においても認められる以上︑惟宗忠久
同様の惣地頭的立場で九州荘園の処分に臨んでいた︑といって良いだろう︒
加えて︑﹃麻生文書﹄一四三号文書には︑次のように記されている︒
昌寛 成勝寺執行二品房ハ宇都宮親俗ナリ
この言葉を信用するならば︑以下の結論を導くことができるだろう︒
鎮西における平家没官領のうち︑遠賀川流域を占めていた山鹿秀遠跡・板井種遠跡には︑成勝寺と関係を有する所領が数
箇所含まれていた︒そこで成勝寺執行であり︑かつ頼朝の右筆でもあった昌寛がこれら﹁鎮西庄﹂の管理・処分に惣地頭と
して当たることとなった︒その過程において︑昌寛と﹁親俗﹂関係にある頼朝御家人下野宇都宮氏が西遷するに至ったので
あ る
︒
六 む す び
本稿では︑﹁山鹿兵藤次秀遠﹂とその旧所領である山鹿荘・粥田荘を中心として︑治承・寿永の内乱後の平家没官領処分
について考察を試みた︒これを要約すると次のようになる︒
①山鹿秀遠跡が平家没官領となる前提︑すなわち山鹿秀遠と平氏との接点は︑所領の院御領化により生じた荘園支配関係
のはか︑平清盛・頼盛の大宰府大弐補任を契機とした大牢府官との被官関係の成立に求めることができる︒
②平氏追討の間︑頼朝は九州在地武士を御家人として取り込んでいく一方︑平氏に与党した九州有力武士に対しては厳し
い処分を実施した︒山鹿秀遠跡も二﹇垣屏昌寛を介して︑下野宇都宮氏=新来の山鹿氏・麻生氏に処分された︒
③山鹿秀遺跡・板井種遠跡はそれぞれ筑前国・豊前国に位置するものの︑遠賀川を通じて地理的に結びついている︒それ
ゆえ︑処分に当たっても一括して取り扱われることとなった︒また︑これらの所領処分に二品房昌寛が関わったのには︑
頼朝右筆・公事奉行人であったこと︑さらに﹁成勝寺執行﹂の地位であったことが深く関係していると思われる︒これ
一31−
らを踏まえると︑二品房昌寛の鎮西における立場は惣地頭であったと推測される︒加えて︑彼が﹁宇都宮親俗﹂であっ
たことが︑下野宇都宮氏西達の大きな要因であったと思われる︒
以上︑これまで言及されていなかった没官後の筑前山鹿荘の処分過程を明らかにし︑筑前・豊前両国への下野宇都宮氏下
向を合理的に説明することができたのではないだろうか︒しかし︑山鹿荘については︑当荘が北条氏所領化する契機とその
時期の検討が残されている︒また︑下野宇都宮氏西達に関わって紹介した一品房昌寛は︑いまだ不明の部分の多い人物であ
︵ 3
2 ︶ る︒初期の幕府体制を考える上でも重要な意味を持つこの人物を機会を改めて考察したいと思っている︒
︵3︶
︵4︶
︵5︶
︵6︶
︵7︶
﹃ 九
州 史
料 叢
書 ﹄
三 九
第
一 七
︒
筑前国山鹿荘・麻生氏に関する研究としては︑長沼賢海氏﹁筑前麻生氏について﹂︵﹃史淵﹄二一︑一九三九年︶︑竹中岩夫氏﹁鎌
倉時代の麻生氏とその一族﹂︵﹃郷土八幡﹄創刊号︑一九七三年︶ のはか︑室町時代における麻生氏の動向については川添昭二氏
﹁ 室 町 幕 府 奉 公 衆 筑 前 麻 生 氏 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 九 州 史 学 ﹄ 五 七 ︑ 一 九 七 五 年 ︶ が ある︒
文 治 元 年 三 月 廿 四 日 条 ︒
﹁経遠﹂については︑正木喜三郎氏﹁粥田緩速考﹂︵﹃日本歴史﹄一七七︑一九六三年︶に詳しい考察がある︒
﹃ 神 道 体 系 ﹄ 神 社 編 宇 佐 ︵ 糟 興 杜 ︑ 一 九 八 九 年 ︶ ︒
﹃ 鎌
倉 遺
文 ﹄
五 三
八 九
号 文
書 ︒
﹃初期封建制の研究﹄︵吉川弘文館︑一九六四年︶︒﹃吾妻鏡﹄養和元年二月廿九日条に︑﹁平家方人原田種直﹂とあるところから推
して︑原田・板井・山鹿氏等の九州有力御家人は平家人ではなく︑平氏に同意・与党したものであったとされている︒
︵ 8 ︶ ﹃ 荘 園 制 と 武 家 社 会 ﹄ ︵ 吉 川 弘 文 館 ︑ 一 九 六 九 年 ︶ 所 収 ︒
︵ 9
︶
﹃ 統
群 番
類 従
﹄ 第
六 輯
所 収
︒
︵10︶ 竹内理三﹃律令制と貴族政権﹄︵御茶の水書房︑一九五八年︶︒成勝寺は崇徳天皇御願寺であるが︑実質的には鳥羽院御顧寺の性
格を有していたと見て良いだろう︒
︵ 1
1 ︶
﹃
続 群
書 類
従 ﹄
第 七
輯 所
収 ︒
︵ 1 2 ︶ ﹁ 御 家 人 制 成 立 に 関 す る 試 論 ﹂ ︵ ﹃ 学 習 院 大 学 文 学 部 研 究 年 報 ﹄ ハ ︑ 一 九 六 九 年 所 収 ︶ ︒
︵ 1
3 ︶
﹃
吾 妻
鏡 ﹄
文 治
元 年
十 二
月 六
日 条
︒
︵14︶ 惟宗忠久については︑井原今朝男氏が﹁荘園制支配と惣地頭の役割−島津荘と惟宗忠久−﹂︵﹃歴史学研究﹄四四九︑一九七七年︶
の中で︑忠久の公武両勢力との﹁重層的主従関係﹂が忠久の惣地頭補任の要因になったとされている︒また︑野口実氏は﹁惟宗忠
久をめぐってー成立期島津氏の性格−﹂︵﹃立命館文攣﹄五二二号︑一九九一年︶において︑摂関家の東国におけるネットワークが
忠久の鎌倉御家人化に寄与していたこと︑忠久の南九州での所領補任の背景として︑忠久一族の父祖が当該地域の国守として在任
中に培った勢力基盤を︑その在地支配に活用し得た可能性があったこと︑を指摘されている︒
︵15︶ 鎮西における幕府の施策︑特に西遷した東国御家人の動向については︑瀬野精一郎氏﹃鎮西御家人の研究﹄︵吉川弘文館︑一九七
五 年
︶
に 網
羅 的
な 研
究 が
あ る
︒
︵ 1
6 ︶
﹃
菊 池
系 図
﹄ ︒
隆直 初簡∴源為朝一首二大忠司平家没落ノ疇哲雄レ廟レ之︒忽チ復二源氏当︵後略︶
ー33−
降定 父隆直源家在二忠功一︒不幸而属二源義経一被レ誅︒後二頼朝公在二感歎一之︒子孫ヲ召二鎌倉可肥後国所々知
行︒
︵ 1
7 ︶
﹃
武 藤
系 図
﹄
資頼 ︵前略︶文治申従二頼朝卿奥州退治可
︵中略︶為二此賞一建久中賜二九国岩門少卿種直之跡三千七百町﹃︵後略︶
︵ 1
8 ︶
﹃
鎌 倉
遺 文
﹄ 五
八 二
号 ・
二 三
七 〇
〇 号
文 書
︒
︵19︶ 粥田荘についての研究には︑舟越康轟氏﹁金剛三味院領粥田圧の研究﹂︵﹃社会経済史学﹄第七巻一号︑一九三七年︶がある︒
︵ 2
0 ︶
﹃
金 剛
三 昧
院 文
書 ﹄
一 七
四 号
文 書
︒
︵21︶ ﹁山鹿家長﹂について︑﹃粥田庄々務順注進状案﹄では﹁山鹿左衛門尉家長﹂とあるのに対し︑﹃尊卑分豚﹄には﹁家長 又二郎
法名正宗﹂となっており︑官途が記されていない︒しかし︑彼の父・祖父とも﹁左締門尉﹂と見えるので︑両史料の ﹁家長﹂が同
一 人 物 で あ る こ と は 十 分 推 測 さ れ る ︒
︵ 2
2 ︶
﹃
麻 生
文 書
﹄ 二
号 文
書 ︑
﹃ 鎌
倉 遺
文 ﹄
七 〇
八 八
号 文
書 ︒
︵23︶ 本稿に挙げた﹃北条時頼柚判下文﹄中では﹁地頭職代﹂とあるが︑この後麻生氏に下された﹃某柚判下文﹄︵﹃鎌倉遺文﹄九〇六
七号・二 二六号文書︶には﹁地頭代職﹂と見えているため︑これに倣った︒
︵24︶ 北条政子は建保六︵一二一八︶年十月十三日に従二位に叙せられている︒
︵ 2
5 ︶
﹃
鎌 倉
北 条
氏 の
基 礎
的 研
究 ﹄
︵ 吉
川 弘
文 館
︑ 一
九 八
〇 年
︶ ︒
︵26︶ 宇都宮信房については︑恵良宏氏﹁豊前国における東国御家人宇都宮氏について﹂︵﹃九州史学﹄二四号︑一九六三年︶︑小川武志
︵27︶
︵28︶
︵29︶
︵30︶凹
馳洞
へ 3 2
︶