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マルクス理論とローザ理論の間

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(1)

マルクス理論とローザ理論の間

その他のタイトル Gap between Marx and Rosa on The Theory of Realization.

著者 有田 稔

雑誌名 關西大學經済論集

巻 13

号 1‑2

ページ 105‑125

発行年 1963‑06‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15448

(2)

105 

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ 私は︑かねがね︑ Beitrag 

Zu

r 

Ok

on

om

is

ch

en

  E r

k li i

r un g

d  

es

 Imperialismus, 

1921)~.Wt

家以外のなんらかの﹃第三者﹄が心要であると主張し︑

10

マルクスとローザの間に理論的架橋の可能 つまり純粋資本主義社会を構成する労働者と資本

ここに近代帝国主義の必然性があると論じ︑このような﹃第

三者﹄の開拓が無限にはつづかないという点に資本主義の﹃歴史的限界﹄があると主張した︒﹂が︑この考えは多く

の論争を巻きおこしながらも︑正しいものとはみなされない傾向にあった︒

マルクスの再生産表式を中心とした再生産論のもつ論理的正しさと︑

性を訴える力強さとを︑ともに正しいものと感じていた︒近年になって︑

その大網がほぼまとまったので︑ここに公表し︑大方の御教示を抑ごうとするものである︒

註﹁経済学の学び方﹂山田雄三・板垣与一・木村元一編・白桃書房︑二五ニベージ︒

は︑なんらかの﹃非資本主義的環境﹄ ローザ・ルクセンブルグ

(R

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︵農民層あるいは国外市湯︶︑

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は ︑

その著﹁資本蓄積論﹂

マルクス理論とローザ理論の間

ローザが﹁第三者﹂の必要 ﹁資本主義がその生産物を実現するために

( D i

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it

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n 

(3)

106 

1500C 

750V 

750M 

11

 3000  マルクスの描く拡大再生産表式は次のようなものである︒

﹁諸商品ーーしたがって労 不変資本部分をC︑可変資本部分を>︑剰余価値をMであらわし︑社会の再生産過程を生産財を生産する部門と消

費財を生産する部門の二つに大別して考察し︑生産財生産部門を第一部門

( I )

︑消費財生産部門を第二部門

(I I)

と呼び︑第一部門では不変資本

( C )

の価値を四0

00

︑可変資本

( V )

000︑剰余価値

(M )

を一〇

00

とし︑第二部門では不変資本の価値を一五

00

︑可変資本の価値を七五〇︑剰余価値を七五0とすれば︑すなわ

ち資本の有機的構成は部門

I I

C対一>︑部門

I I

C対一>とし︑また剰余価値率を両部門とも一00彩とすれ

ば︑拡大再生産表式は次のようである︒

4000C 1000V 1000M 

11

 6000 

いうまでもなく︑ここにいう不変資本とは生産手段の価値のことであり︑それは固定資本︑すなわち機械︑労働用

具︑建物︑設備等と︑流動不変資本︑すなわち原料︑補助材料︑半製品などの生産材料とから成りたっており︑可変

資本とは︑価値の観点からみれば︑生産に応用される社会的労働力に等しい︒それゆえ︑

働もー—価値通りに売買されるものとする」という前提にもとずけば、

ことになる︒そして質料の観点からみれば︑生きた労働から成りたっている︒

これらの不変資本成分を用いて生産を行い︑もとの総資本たる︑不変資本と可変資本の価値合計の再生産以上に︑

新たに価値を生みだした余分の価値部分が︑剰余価値と呼ばれるものである︒ . 

マルクスの拡大再生産表式

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

これに支払われる労賃の総額に等しいという

10

(4)

107 

えなければならない︒したがって第二部門は︑ 費にあてられる︒それは次のような割合である︒

第一年度の資本に加えて︑

1 0

生産が行われるなら

0の価値が蓄積されることに 第二部門自身の剰余価値︵剰余 さて︑拡大再生産表式についてであるが︑以上のごとき表式は次のような論理的過程によって︑拡大が進行すると第一部門の生産物六

00

0のうち︑不変資本四

000

に等しい部分は︑第一部門内において相互に買売され︑生産

的に消耗されてしまった不変資本部分すなわち生産財の更新にあてられ︑第一部門の生産物のうち︑残りの二

00 0

00の価値の生産財が第

I I 部門の生産的に消費されてしまった不変資本部分の更新のために売られ︑

それと引換えに第一部門の生産参加者は一五

00

の価値の消費財を手に入れる︒第一部門の生産物の残り五00

積される︒第二部門の生産物のうち︑交換に出した残りは一部は蓄積され︑他は︑第二部門の生産参加者の個人的消

まず蓄積された

5 0 0 M

は︑資本の有機的構成が依然として四C

対一>であるとすれば︑四

00

10

  0が可変資本にあてられる︒このうち四

OO

Cは第一部門内に︑

消費財を第二部門から得なければならない︑

生産物︶から調達すれば︑ その生産物として存在しており︑

O OV

そのために第一部門の生産物のうち一

00

の価値のものを第二部門に与

その剰余価値のうち︱

00

(I I 

1 0 0 M )

を︑第一部門の生産物と交換

し︑これが追加不変資本となる︒この場合︑第二部門の資本の有機的構成は依然として二C対一>であるとすれば︑

10

  0の不変資本に対して五0の可変資本が必要となる︒これは消費財であるから︑

この部門では七五OM

かくて︑第一部門と第二部門とにおけるそれぞれの追加資本を︑

(5)

108 

例えば山本二三丸氏は次のようにいう︒﹁まず︑第一に注意しておかなければならないのは︑数字による表式が︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑それだけでは︑なんら再生産の過程を証明することができない︑ということである︒大切なことは︑社会的生産物の

0 0  

各構成部分の性質を理論的に把握することである︒価値により︑現物形態により︑各構成部分を厳密に分ち︑それら

マルクスはこれについて次のように述べている︒

1600C 

8 0 0 V

  8 0 0 M   3 11

200  4400C 1100V 1100M 

11

  6600  ば︑第二年度の生産力は次のように拡大されたものとなる︐

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

以下同様の過程がくりかえされる︒

さて︑かかる再生産表式は何を目的として組立てられたものであるのか︒

再生産論の主たる課題は何か︑

︑ ︑

産において消耗される資本は︑その価値からみていかにして年々の生産物から填補されるか︑また︑

は資本家による剰余価値の消費および労働者による労賃の消費といかにからみあっているか?︑ということである﹂

この言葉から再生産表式の目的にはおのずから限界が与えられることとなった︒

﹃資本論﹄長谷部訳︑青木文庫︑第m分冊︑五一三ー四ページっ

( s .  

39

6)

 

この填補の運動 ﹁直接に当面する問題は︑ーー生

10

(6)

109 

( o

再生産の過程を図解

( il l

u st r

a ti o

n )

することができる︒数字による表式の意義は︑

ているのである﹂

結局は︑再生産表式の数字は文章で示しうる程度のことしか示していなということになる︒文字以外に数字が発明

されたのは︑文字で示し得ない数量的厳密さと明確さを示すためであろう︒折角︑

あるから︑われわれはその長所を充分に伸ばす義務を持つと考えるべきであろう︒

﹁再生産論研究﹂山本二三丸著︑日本評論新社︑七一頁︒

. . . .  

﹁マルクスの再生産表式を用いた再生産﹂は︑生産財生産部門と消費財生産部門との間の填補関係をみるためのも

のであって︑それ以外の目的をもつものでないとなす山本二三丸氏のごとき考え方は︑かく定義し限定することによ

マルクスの設定した与件や数字の不備を無視することはできるが︑その一方︑折角マルクスが数字を用いた長

それを明らかにするために︑

クス経済学のみならず︑

ー︑再生産の概念 マルクスの用いた再生産︑単純再生産︑拡大再生産の各概念を明確にし︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑経済学そのものにとって必要な︑成長再生産とも名付くべき再生産の概念を展開することと

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ 所をも併せ封じてしまうことによって︑

マルクス経済学の発展を阻げるものでもある︒

10

マルクスが数字を用いているので

0 0  

の各部分がいかに填補されるかを︑まず理論的に解明しなければならぬ︒その上で︑はじめて︑数字による表式は︑

たんにこの過程の図解にかぎられ

(7)

110 

西

マルクスは︑生産と再生産の関係および︑その再生産の概念を次のようにのべている︒社会的形態の如何を問わず継続的でなければならぬ、'~または周期的にたえず新たに諸段階を通過せねばならぬ。

社会は︑消費することをやめえないと同様に︑生産することをやめえない︒だから︑あらゆる社会的生産過程は︑そ

の恒常的関連とその更新の絶えざる流れとにおいて考察するならば︑同時に再生産過程である︒生産の諸条件は同時

に再生産の諸条件である︒いかなる社会も︑その生産物の一部分をひきつづき生産手段または新生産の要素に再転形

しないでは︑ひきつづき生産すること︑すなわち再生産することはできない︒他の事情が同等不変ならば︑社会は︑

たとえば一年間に消費された生産手段すなわち労働手段︑原料および補助材料を︑年々の生産物量から割かれて新た

に生産過程に合体される同等分量の新品により現物で填補することによってのみその富を同じ規模で再生産または維

持することができる︒だから︑年々の生産物中の一定分量は生産のためのものである︒それは最初から生産的消費に

予定されているのであってその大部分は︑おのずから個人的消費を排除するような現象形態で実在する﹂

2︑単純再生産の概念

( s s .

  5934) 

﹁資本制的生産様式のもとでは労働過程が価値増殖過程のための一手段としてのみ現象するのと同様に︑再生産

も︑投下価値を資本︑すなわち自己を増殖する価値︑として再生産するための一手段としてのみ現象する︒資本家と

いう経済的扮装が或る人間に纏いつくのは︑彼の貨幣がひきつづき資本として機能するからにすぎない︒たとえば︑

百ポンドの投下貨幣が今年資本に転化されて二十ポンドの剰余価値を生産するならば︑その貨幣額は来年も来々年も︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑同じ働きを繰返さねばならぬ︒資本価値の週期的増加分または過程的資本の週期的果実としては︑剰余価値は資本か

﹁生産過程は︑その

10  

(8)

111 

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ でそれぞれの二概念がことなるということである︒ この収入が資本家にとり消費元本としてのみ役立つとすれば︑または週期的に獲得されるのと同様に消耗されると

すれば︑他の事情が同等不変ならば単純再生産が行われるわけである﹂

﹃資本論﹄長谷部訳︑青木文庫︑第④分冊・八八五ー八八六ページ︒

﹁単純再生産の代りに拡大された規模での再生産ー蓄積ーが行われても︑趣きは変らない︒前者にあっては︑資本

家は剰余価値全部を消費してしまうのであるが︑後者にあっては︑彼は一部分のみを消費して残りを貨幣に転化する

ことにより︑自分の市民道徳を証明するのである﹂

4︑動態成長再生産の概念

単純・拡大という二つの再生産概念について︱つの問題がある︒それは総社会的にみた場合と個人的にみた場合と

拡大再生産表式においてマルクスの設定したごとき生産技術水準一定の状態で︑年々人口が増加じ︑総量︑絶対量

としての生産物が増加している状態は︑総社会的にみれば増加現象であるから拡大再生産の状態と考えうる︒ところ

が︑この社会の成員の一人一人についてみれば︑彼らは年々同じ生活水準をくりかえしているにすぎない︒なぜなれ

﹃資本論﹄長谷部訳︑青木文庫︑第④分冊・九︱ニページ︒ 拡大再生産の概念をマルクスは次のようにいう︒ 3︑拡大再生産の概念

ら生ずる収入という形態を受けとる︒

( s .  

614)  ( s .  

59

4)

 

(9)

りの財の消費量も以前と同じでなければならず︑増加させようがない︒かかる生活水準の上昇のみられない状態は経

済成長的な意味で拡大再生産状態とはいいえないであろう︒換言すれば︑成長経済といえるであろうか︑ということ

である︒拡大しているから拡大再生産であるということを認めるとしても︑これを経済成長の状態とは認めがたい︒

なぜなればわれわれが経済成長を望んでいるとき︑それは決して毎年同水準の生活がくりかえされ隣人の数が増えて

ゆくことを望んでいるとは考えられないからである︒われわれが望んでいるのは国民一人一人の生活水準の向上︑物

的生活の量的・質的向上であるからである︒そこでわれわれはマルクスが再生産表式において設定したごとき形の拡

大再生産は個々人の立場からみれば︑むしろ動態的単純再生産ともいうべきものと考えざるをえない︒したがって︑

われわれが基本的単純再生産の概念としてとらえたものは︑静態的単純再生産であるといえる︒

この論法での縮少再生産を一応考えておけば次のようになる︒人口が減少しないでの総社会的生産量の減少は︑国

民一人当りの消費しうる財の減少をもたらすから縮少再生産である︒ところが年々人口が減少しており︑そして総社

会的生産量もまた減少していて︑その両者の減少率が同じである場合は︑国民一人当りの生産物の量に変化はおこら

ないから︑これは逆の方向の動態的単純再生産ということになる︒人口も年々減少しているが︑社会的総生産量の減

少の方が大きな割合であるとき動態的縮少再生産ということになる︒

さて︑次に残るのは本来の拡大再生産・経済成長とはどういうものかということである︒すでにここまでの展開で

明らかなように︑本来の拡大再生産は︑年々人口が増加しているが︑年々の社会的総生産量の増大の方が大きな割合

である場合である︒これは動態的拡大再生産であり︑これこそがまさしく経済成長とよばれるものの状態である︒こ ば︑生産技術水準が一定であって向上していないから︑

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

一人当りの生産量は以前と同じである︒したがって︑

(10)

' I

  I 

, 0 

, >   の状態は︑生産技術水準が一定であっては達せられない︒そこには生産技術水準の向上という条件が必然的に伴われ

これを要するに︑本来の拡大再生産︑すなわち経済成長とは︑その本質が技術革新︵技術進歩︶にあるということ

われわれが現実の経済現象として解明の対象としている経済はまさしくこのような経済である︒したがって︑われ

われは以後つねにかかる経済成長の状態を中心として論をすすめることにする︒マルクスが再生産表式の中拡大再生

産として展開した成長なき経済の概念は︑成長経済解明の手段の︱つにすぎないのである︒

﹁技術水準を一定とすれば﹂という条件を設定している︒この与件があればこそ︑第二

部門の剰余部分の消費者が常に存在することとなるのであって︑もし︑現実に側して︑技術的な発達を考慮に入れる

とき︑投資量に比しての被展傭者数の逓減的傾向が認められ︑第二部門の剰余部分の消費者は一体だれなのか︑否︑

第二部門の剰余部分はいかにして坦補

1

1代置されるか?ということが問題となってくる︒

現実には技術水準一定ということはありえないから︑再生産表式は大きな限界を付されていると考えざるをえな

マルクスの拡大再生産表式を基礎として︑技術変革により︑資本の有機的構成の高くなった場合を考察す

ることとしよう︒そしてマルクスにしたがって︑資本の有機的構成を価値の面と質料の面の両面からみることとす

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ 再生産表式は暗黙の裡に︑ ざるをえない︒

(11)

111, 

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑さて生産性が二倍になった第二年度は︑価値からみた不変資本の量を一定として考察すれば︑生産性の向上が二倍

であるから︑労働者数は前年の半分でよい︑あるいは︑労働者数を一定としてみれば︑質料面からみた生産物の量は

11

1

︑︑︑︑︑︑ヽ.ヽ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑この場合︑質料の一台とは︑一台の機械とそれが処理する原料︑その他一式を必要量抱合せてもっているものを︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑.︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑すなわち固定不変資本も流動不変資本も含めた一単位の実物不変資本を意味する︒そして︑出発年度においてはその︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑一台の価値が丁度労働者一人の実質賃金の価値に相当するとしよう︒すなわち出発年度においては︑

1C

II

1V

II

1

塁 ‑ ︷

1

畠 ︱

= { [ [

第二年度の拡大再生産は次のような形となるであろう︒

I

︷ 昌

渫 ー エ え

︷ 戸

る ︒

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

40

00

i3

'(

U)

+ 1000)︑︵

U ) +

1000(U)11  6000(U) 

4000C lOOOV lOOOM =6000  1500a(U)+ 

75

0.

,A︑︵

U )

1500C 

750V 

750(U) 

7 5 0 M  

11

  3000 U 

11

  3000 

いま︑ここで第一年度から第二年度への変り目に技術革新が起り生産性が二倍に上昇したと仮定しよう︒

8000i3'(U)+  1

00

0/

¥.

(U

)3000 =12000 + 

4000C 

500V 

+ 1500M 

11

 6000  3000g(U)+ 

1500C 

7 5 0 A ( U ) + 250 2

  U11 

6000

  U  375V 

+ 1125M 

11

  3000  とすれば出発年度の再生産表式は次のごとくである︒

(12)

I I 

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ の商品である︒かくて五OOV

00

0

コ ︑

り︑その上で︑生産性が向上したのであるから︑第二年度は第一年度とはちがって︑

値からみた一

OO OV

は不要である︒なんとなれば︑労働者の実質賃銀を構成している一定量の消費資料は生産性の

向上によって︑価値が低下しているからである︒この場合︑生産性の向上は二倍であるから︑第二年度の労働者一〇

00の実質賃銀は消費資料としては前年と同量であってもその価値は︑前年と比べれば半分の五OOVである筈であ

る︒勿論︑資本の有機的構成は4C1>

8C1>に高まらざるをえない︒

10

00

人の第二年度の労働時間も第一年度と同じであるとすれば︑第二年度の労働価値は一

000

>+

O OO MI

I

000

︑の価値と同じ二0

00

である︒この二

00

0のうち必要労働時間の価値が五

00

なので

あるから剰余労働時間の価値は一五

00

ということになる︒生産性は二倍になっているから第一年度は1

11

1価値

であったが︑第二年度は1価値

11

2コでなければならぬ︑とすれば剰余価値一五

00

は質料面からみれば三000

コである︒したがって︑

OOM

000コということが理解された︒ところが︑第二年

度は生産性が二倍になったとされており︑第一年度は六000コの生産であるから︑第二年度の総生産は︱二

000

000

000

OO V)

000

コ(‑五

OO M)

を差引いた残り八〇

00

1 1

O

OO

Cが不変資本部分の質料をあらわすことになるのである︒第二部門も同じ理由から導き出される︒

部門Iの資本家消費はマルクスによれば五

00

とされていた︒部門Iは一五OOMから資本家消費を差引いた一〇

00

を蓄積する︒いま資本の有機的構成は8C1>になっているから︑この一

000

は八八八C

I>

に分か これは必要労働時間の短縮による価値の減少である︒したがって︑一方では相対的剰余価値の生産がおこなわれて

10

00

人の労働者のために価 二倍である︒この表式の必然性を説明すれば次のようである︒マルクスの前提では常に実質賃銀が一定とされてお

(13)

六 ︑

が︑ローザのように貨幣を導入しなくとも生じてくるのである︒ 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一

1

"

1

れなければならない︒そこで部門

I I は ︑

I‑

1>

をうけとり部門

I I

I>

の消費財を部

門ーに与える︒部門

1 1 の資本の有機的構成は

2 c

1

>であるから一︱

C

に対しては五六>が必要である︒したが

って一ーニ五から一︱一と五六を差引いた残りの九五八を部門

1 1 の資本家が消費しなければならないことになる︒投

術革新が起こっていない形の再生産表式ではこの九五八は六00であった︒ローザの指摘した相対的に大量の資本を

用いた部門Iの資本家に五00を消費させ︑比較的資本の少ない部門nの資本家に六00を消費させるというアンバ︐

い傾向にあることは一般に認められているところであるCこのことは消費性向についての︑経験法則として理解され

であるとすれば︑この労働者も資本家も消費しえないところの増大した剰余生産物は誰が消費するのかという問題

ローザの﹁第三者﹂

ここにおいて︑増大しつづける剰余生産物︑特に部門nのそれを消費するものを︑ローザとともに探すこととしよ ているところである︒ ここには︑相対的に減少した労働者の購買力がみられ︑一方生産力の増大に比して資本家の個人的消費の伸びは遅 ランスの問題は︑技術革新による生産性の向上を考慮に入れるとき︑ますます大きくなり︑この部門

しても資本家に消費させてしまうか︑それともかかることは現実を説明するものでないとして資本家消費の限界を認 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ は加速度的に増大しなければならない︒資本家は自己消費のための生産者ではない︒問題はいかに剰余生産物が増加 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ I I の資本家消費

めるかにある︒

(14)

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ ﹁いまや吾々は︑資本制的経済にたいするこの表式の妥当性を吟味しよう︒

は︑何よりも先ず︑蓄積のための出発点は何か?を問題とせねばならぬ︒この見地からして吾々は︑再生産部門にお

段を自由にしないでは蓄積を行いえないという限りにおいて︑

働力のための照応する分量の追加生活手段なしには行われえない︒ ける蓄積過程の相互的依存性を追求せねばならぬ︒疑いもなく︑資本制的にも部門

1 1 は︑照応する分量の追加生産手

ーに依存する︒逆に︑部門ーにおける蓄積は︑追加労

この両条件さえ守られた

ら︑両部門における蓄積が事実上でも行われ︑かつ、年々まったく自動的に逐行される‘|—マルクスの表式による

とそう見えるのだがー—'ということには決してならない。蓄積にかんする右の条件は、まさに、それなくしては蓄積

が行われえないという条件にすぎない︒また著積の意志も︑

少くとも絶対的に逮増する部分

ーにも

I I にもあるかもしれない︒だが︑蓄積の意志およ

び技術的前提条件だけでは︑資本制的商品経済においては不充分である︒事実上蓄稿が行われる︒すなわち生産が拡

大されるためには︑なお他の一条件︑すなわち︑商品にたいする支払能力ある需要の拡大が必要である︒さて︑

クスの表式における継続的生産拡大の根抵に横たわるたえず増大する需要は何処から生ずるか?

この需要がIおよび

I I の資本家自身から︑すなわち彼等の個人的消費から︑生じえないことだけは明

らかである︒その反対に︑蓄積とはまさに︑彼等が剰余価値の一部分l

ーを︑自分では消費しないで︑その代りに︑他人によって使用される財を作る︑ということである︒なるほど︑資

本家たちの個人的消費は蓄積につれて増大し︑消費される価値からみてさえも増大するかもしれない︒といっても︑

資本家たちの消費のために使用されるのは剰余価値の一部分にすぎない︒蓄積の基礎はまさに︑資本家たちによる剰

" つ ︒

だがこのことからは︑ このばあいには吾々

(15)

余価値の非消費である︒剰余価値のうちこの蓄積される他の部分は︒誰のために生産されるのか?・マルクスの表式に

したがえば、運動は部門I•生産手段の生産・から出発する。この増加した生産手段は誰が使用するか?表式は答え

る.ー部門nがより多くの生活手段を生産しえんがためにこれを使用する︑と︒だが︑その増加した生活手段は誰が

Iはいまやより多くの労働者を働かせるから︑と︒﹂

︵上︶ローザ・ルクセンプルグ︑長谷部訳︑青木文庫︑一三

0

ところが︑技術革新を考慮に入れて動態的に作り直した再生産表式においてみた如く︑技術革新があれば︑増大し

た生産物の供給のため必ずしもヨリ多くの労働者を必要としない︒したがって︑

するか?表式は答える、ー~まさに部門Iだ、けだし、Iはいまやヨリ多くの労働者を働かせるから」ということは

の節約は購買者︑消費者の減少︑少くとも相対的減少ではないか︒ひきつづき︑ 技術革新が労働を節約するというこのような作用が︑失業者︑産業予備軍創出の原因の︱つなのではないか︑労働

ローザは次のようにいう︒

﹁より多くの労働者を維持しうるためにのみより多くの消費手段を生産し︑より多くの労働者を働かせるためにの

みより多くの生産手段を生産するということは︑資本制的見地からすれば不合理なことである︒個々の資本家にとっ

ては、もちろん労働者は、1支払うことができさえすればー—ある資本家または他の何びととも同様に、その資本

家の商品のよい顧客であり買手である︒各個の資本家は︑彼が労働者に売る商品の価格において︑彼の剰余価値を実

現するのであって︑それはまさに︑彼が他の任意の買手に売るあらゆる商品の価格においてそうするのと同じであ

る︒資本家階級全体の見地からすれば趣きが異なる︒資本家階級全体は︑労働者階級全体にたいし︑社会的総生産物 理由にならなくなってくる︒ 使用するのか?表式は答える︑ーまさに部門I

だ ︑

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

﹁その増加した生産手段は誰が消費

(16)

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶

︱ ︱

のうち︑ちょうど可変資本の額だけの部分にたいする手形を与えるにすぎない︒だから︑労働者たちが生活手段を買

うばあいには︑彼等は資本家階級にたいし︑資本家階級から受取った賃銀額すなわち手形を︑可変資本の額に達する

まで返すにすぎない︒彼等はそれ以上は一文も返しえないのであり︑しかも︑もし彼等が自立して小企業家となるた

めに﹃貯蓄﹄しうる場合には︑ー│'そんなことは例外であるがーーむしろ幾らか少くしか返しえないのである︒資本

家階級自身は︑剰余価値の一部分を生活手段の姿態で消費する︒⁝⁝だが︑剰余価値のうち資本化される他の部分が

体化されている生産物を資本家階級から買うのは誰であるか?表式は答える︒ーー一部分は資本家自身が買って生産

一部分はこの新生産手段を充用するために必要な新労働者が買うのだ︑と︒﹂

技術革新のある限り︑

れた労働者数以上に新労働者を必要とする程生産規模が大きくなることもありうる︒したがって︑

たに労働者をやとったりするのではない︒資本家は増加した生産物が︑消費される見込のあるときのみ︑他の資本家

の剰余部分の消費者となるのである︒

この新労働者の出現は当にできないことはすでに述べた︒しかし︑技術革新によって節約さ

︱ ニ ︱ ︱

︱ ペ ー ジ

答は恐らく次ぎのごとくでありうるーー人口の自然増加がこの需要増大を創造するのだ︑と︒事実︑吾々は︑社会

︵上︶ローザ・ルクセンプルグ︑長谷部訳︑青木文庫︑ ﹁生産拡大のため

の新たな生産手段や︑これを充用する新労働者﹂を剰余部分の消費者︑購買者と認めよう︒しかし︑﹁だが︑新労働

者を新生産手段で労働させるためにはi資本制的にはーーあらかじめ生産拡大の目的が仕上げられるべき生産物に

たいする新需要がなければならぬ︒﹂資本家は他の資本家の剰余価値を実現するために︑生産手段を購入したり︑新

﹁資本蓄積論﹂'︵上︶ローザ・ルクセンプルグ︑長谷部訳︑ 拡大のために新たな生産手段を作り︑

(17)

120 

西

人口およびその慾望の増加から出発した︒

は︑社会の慾望が︑生産の充分な基礎だったし︑またその唯一の目的なのである︒資本主義社会では問題は別な趣き

を呈する︒吾々が人口増加を云々するばあい如何なる人口が問題とななるか?吾々はここでは︑ーーマルクスの表式

では、ー—資本家および労働者という二つの人口階級しか知らない。資本家階級の増加は、もともと消費される剰余

価値部分の絶対量の増加のうちに含まれている︒いずれにしても︑資本家は剰余価値を残らず消費することはできな

い︑というわけは︑もしそうすれば︑吾々は単純再生産に逆戻りすることになるからである︒残っているのは労働者

だ ﹂

生活手段の生産は︑労働する者とその慾望の充足とが経済体制の基礎をなす社会のばあいとは異なり︑自己目的では

ない︒部門

1 1 において︵資本制的に︶それだけの生活手段が生産されるのは︑1および

1 1 の労働者階級が養われねばな

らぬからではない︒逆である︒その時々にそれだけの労働者が1およびnで養われうるのは︑彼等の労働力が所与の

販売条件のもとで使用されうるからである︒すなわち︑ある与えられた数の労働者と彼等の慾求とが資本制的生産の

出発点なのではなく︑かかる大いそのものは︑たえず変動するところの︑資本家的な利潤見込に﹃従属する可変量﹄

人口の自然的増加は可変資本以上に達する支払能力ある需要の新増加をも意味するかどうか︑ということが問題とな

る︒そんなことはありえない︒吾々の表式では︑労働者階級にとっての貨幣手段の唯一の源泉は可変資本である︒だ

この﹁労働者﹂も剰余部分の消費者ではありえないと︑ローザはいう︒すなわち﹁IVおよび

I I V

を充たすための

主義社会における拡大再生産の仮説的研究に際しては︑だがその場合に

︱ 二 0

(18)

2 I 

マルクス理論とローザ理論の間︵有田︶ すでにまさしく就業労働者の数のなかに含まれている︒

スの表式における蓄積過程を吾々に説明することは出来ない﹂

﹁だが待った!社会はー資本主義の支配下でもー資本家と賃労働者とだけから成立っていいない︒この両階級のほ

かになお︑土地所有者︑使用人︑自由職業者すなわち医師・弁護士・芸術家・科学者・というような一大人口集団が

あり︑なおその牧師や僧侶をもつ教会があり︑最後にその官吏と軍隊とをもつ国家がある︒

は︑範疇的な意味での資本家にも労働者にも数えるべきではない︒だが彼等は社会によって養われかつ維持されねば

ならぬ︒したがって︑資本家および労労者以外のものから成立つこの人口層の需要が生産の拡大を必要ならしめるの

だ︑といえるかもしれない︒だがこの逃げ路は︑仔細に観察すれば外観上の逃げ路にすぎない︒土地所有者は︑地代

すなわち資本制的剰余価値の一部分の消費者として︑明かに資本家階級に数えられるべきであり︑彼等の消費は︑剰

余価値が未分割の最初の形態で考察されるこのばあいでは︑すでに資本家階級の消費のなかで顧慮されている︒自由

職業者は︑彼等の貨幣手段︑すなわち社会的生産物の一部分にたいする彼等の手形を︑

本家階級の手から得るのであって︑資本家階級はその剰余価値のかけらを与えて彼等を満足させる︒そのかぎりでは

彼等は︑その消費にかんしては剰余価値の消費者として資本家階級に算入されるべきである︒同じことは僧侶につい

は労働する子女は︑

︵上︶ローザ・ルクセンプルグ︑長谷部訳︑青木文庫︑

から可変資本は︑あらかじめ労働者層の増加を含む︒もし賃銀が労働者の子女をも養うように度量されているとすれ

ば︑労働者の子女を消費拡大の基礎としてもう一度勘定に入れることはできない︒またもしそうでないとすれば︑若

い労働者すなわち労働者の子女は︑みずから労働を提供して賃銀および生産手段を得なければなならぬ︒その場合に

すべてこれらの人口層

ほとんど直接または間接に資 人口の自然的増加は︑マルク

(19)

西

費者としか看なされえない︒

てもいえるのであって︑ただ僧侶は︑その貨幣の一部分を労働者すなわち労賃からも引きだすだけである︒最後に︑

官吏と軍隊とをもつ国家は租税によって維持されるのだが︑この租税は剰余価値からでなければ労賃から出ている︒

総じて吾々は︑ここではー̲ーマルクスの表式の限界内ではーーI社会における収入のたゞ二つの源泉1労賃または剰

余価値Iしか知らない︒かくして︑資本家および労働者以外の前述のすぺての人口層は︑この両収入種類の共同消

マルクス自身︑買手としてのこの﹃第三者﹄を逃げみちとして挙げることを拒杏してい

る、ー—_「労働を以てすると否とをとわず、直接に再生産に携わらない社会成員はすべて、年々商品生産物に対する

つまり彼等の消費手段を︑生産物を第二番に入手する諸階級ー│'生産的労働者︑産業資本家および土

地所有者ーーの手からのみ引出すことができる︒そのかぎりでは彼等の収入は︑実質的には︑労賃︵生産的労働者の︶︑

利潤および地代から派生したのであり︑したがって右の本源的収入に対しては派生的収入として現象する︒だが他

面︑この意味でのかかる派生的収入の受領者たちは︑王︑僧侶︑教授︑淫売婦︑兵卒等としての彼等の社会的機能に

よってこの収入を得るのであり︑したがって彼等は︑彼等のかかる機能を自分の収入の本源的源泉だと看なすことが

出来る﹄と︒利子および地代の消費者を買手としてあげることに対してマルクスはいう︒ーー﹃だが︑商品での剰余

価値のうち︑産業資本家が地代または利子として他の剰余価値共有者に譲渡しなければならぬ部分が︑久しきにわた

って商品そのものの販売より実現されえないならば︑地代または利子の支払もできなくなり︑したがって土地所有者

または利子収得者は︑地代や利子の支出により︑年々の再生産の一定部分の任意な貨幣化に救いの神として役立つこ

とはできない︒いわゆる不生産的労働者たる官吏︑医師︑弁護士︑等々のすべて︑その他︑経済学者たちの説明でき

ないことを説明するために﹁大衆﹂の形態で彼等に﹁奉仕﹂する人々の支出についても︑事情は同じである﹄と︒

参照

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生産費を最低ならしめるための技術的な最適関係をもとめるという点だけである。

内在する抽象的価値が,貨幣形態をとることによって具体的価値としてあらわ れたものにほかならない。

一84一 滋賀大学経済学部研究年報Vo,10  2003

結 呈五 ロ口 マルクスの株式会社論と社会主義 -283

「生産」を説明するのに,資本制生産のみに限定されるものではないからである。そ れ故, 「労働価値説を

75, 全集訳 71, 渋谷編訳 152) である。  ⑦生産力の発展は諸個人の力の発達の歴史であるが,物質的生活の生産関係

個人の原子的あり方」 (ヘーゲルは「平等な人格」と言う) によって共同体は喪失する

   . . .       ︵〃︶ を伴う個別性としての特殊である︒﹂ かくして選言推理は︑へーゲルによれば︑