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韓国「近代文学」への問いかけ――中上健次『物語ソウル』を中心に――

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『日本アジア研号(

韓国「近代文学」への問いかけ ――中上健次『物語ソウ ル 』を 中心に――

曺英愛

[論文要旨]日韓文学界の交流がほとんどなかった一九七〇年代後半から八〇年代にかけて、韓国社会に親しみ、金芝河、尹興吉、黄晳暎など文学者との交流を深めた日本人作家がいた。中上健次である。本稿は、こうした韓国体験に基づいた中上の視線を借りて、彼が関わった軍事政権下の韓国「近代文学」の実態を探るとともに、当時の韓国「近代文学」への問いかけとして書かれた『物語ソウル』を取り上げ、作者の執筆意図とその意義について考察したものである。まず、韓国「近代文学」の実態の検討にあたっては、尹興吉の二つの作品「長雨」と「九足の靴で居残った男」に着目し、二つの作品に対する中上の褒貶相なかばする評価の理由を検証する。二つの作品(群)に向けられた対照的な評価は、中上の「近代文学」=西洋文学/「脱近代文学」=東洋文学といった図式のうえに成り立っていたが、その背景には「分断文学」「植民地文学」「労働文学」などの「近代」的な「テーマ小説」が蔓延する韓国「近代文学」の現状があった。『物語ソウル』は、こうした韓国「近代文学」の偏向に対して、「近代」を相対化する視野を提案するために、中上の一つの答えとして書かれた極めて戦略的な作品である。とりわけ、小説「物語ソウル」において中上が試みた脱近代は、作中人物のキャラクター造形を中心に、韓国の伝統的な二つの物語『春香伝』と『張吉山』を「導入」し、それを交差させ、さらに「解体」する方法によって成されていた。こうした中上ならではともいえる物語の脱構築を用いることで、中上は『春香伝』のなかに孕んでいた三つの「近代」的な問題(知性、貞節、二項対立)を三段階に分けて「解体」してみせていた。さらに本稿では、日本での受容にまで視野を広げ、写真家荒木経惟との共著『物語ソウル』が、晩年の『遺族』や『南回帰船』に代表されるように、「平面」的で「劇画的」物語へと接近して行く中上の作品世界の転換の始発点にあたることをも検討した。

キーワ中上健次、物語ソウル、韓国体験、物語の「解体」、脱近代

チョ・ヨン、埼玉大学文化科研究科博士後学中、本近現代文学

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はじめに――中上健次と韓韓国において、政治的・歴史的な理由などの様々な事情により禁止されていた日本の大衆文化は、一九九八年一〇月から段階的に開放され始め、今や、アニメ、漫画、ドラマ、映画、J-POPなどに至るまで、しっかり定着しつつある。韓国におけるこうした日本文化の熱風を、韓国では「日流」と呼ぶ。ところで、この「日流」ブームに火を付けたのは、実は日本小説の活躍であった。そして、この活躍を主導した日本小説の筆頭には、一九八九年、ユ・ユジョンによって韓国語に翻訳され、近年に至るまで人気を博している村上春樹の『ノルウェイの森』(韓国版『상실의시대(喪失の時代)』)がある。この『ノルウェイの森』で代表される村上春樹の人気は、二〇〇九年八月に翻訳出版された『1Q84』によって、いっそう不動なものとなった。日本での出版からわずか三ヶ月という異例のスピーディな出版と、十五億ウォン(約一億千五百万円)という韓国出版史上最高の版権料で世間を騒がせた『1Q84』は、さらに、この話題の出版から八ヶ月という、やはり韓国出版史上最短期間でミリオンセラーを記録することで、韓国社会を二度驚かしたのである。このように現在進行中である「ハルキ現象」と相まって、二〇〇〇年に入ってからは、吉本ばななや江國香織などの作品もが次々とベストセラーになり、二〇〇五年上半期の時点では、「小説部門の販売部数上位百位までに日本の小説二十七冊が入り、韓国小説の二十二冊を上回った」のである。そして、この「日流」小説のブームは現在、奥田英朗、東野圭吾、宮部みゆきまでに引き継がれており、いまや、韓国小説の人気を脅かすほどの地位を固めつつある。しかし、日本小説がこのように一般大衆にまで人気を博し始 めたのは、一九九〇年以後のことである。それ以前、朝鮮戦争を経て一九八八年に文民政権が始まるまでの韓国社会は、軍事独裁政権による上からの圧力と、民主化を叫ぶ民衆の抵抗がせめぎ合う政治的な混乱が続いていた。そして、一九八〇年五月に起きた光州事件によってこの政治的な悲劇はピークを迎えたのである。これに前後する一九七〇年代後半から一九八〇年代にかけて韓国社会に親しみ、韓国の文学者と交流を図った日本人作家がいた。中上健次である。一九七八年六月、東京新聞の取材で初めて韓国の地を踏んだ中上は、「私に韓国人の血が流れていると親から耳にした事はないが、私は自分一人で、韓国の血が流れていると確信した」といい、写真家篠山紀信との共著である『輪舞する、ソウル。』(角川書店、一九八五)では、「パンソリと仮面劇という二つの芸能に出喰わし、魅了され、さらにその周縁として取材に行った韓国の巫堂と呼ばれるシャーマニズムの世界を知り、韓国とは文化というぶあつい鉱脈の上にできあがった国の謂だとまで思い、熱狂的な韓国病に取り憑かれた」と述べた。その言葉通り、中上は一九八一年二月から半年間はソウルに滞在するなど、一九九二年に亡くなるまでに一〇回以上韓国を訪れ、パンソリや仮面劇などの韓国伝統芸能に心醉し、金芝河、尹興吉、黄晳暎など文学者との交流をも深めていた。本稿は、こうした韓国体験に基づいた中上の視線が、彼が関わった軍事政権下の韓国文学界の実態の把握に有効であるという想定に基づき、韓国における中上健次の足取りを踏まえたうえで、次の二つに焦点を当てて検証する。第一に、中上から対照的な評価を受けている尹興吉の二つの作品「長雨」と「九足の靴で居残った男」の比較考察を通じて中上の眼に映った韓国

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「近代文学」の実態をさぐってみる。第二に、中上の韓国体験の集大成として書かれたといえる『物語ソウル』を検討し、作者の執筆意図をさぐってみたい。

一、「長雨九足の残った一九八〇年前後までに、日本と韓国との文学的な交流はほとんどなかった。日本の眼はアメリカ文学などの西洋文学に向けられていたし、韓国は政治的な混乱のなか、閉じられた世界のなかで独自の文学を発展させていたのである。中上健次はこうした時期に両国の文学の架け橋となった。『韓国現代文学

下「九足の靴」と略記)について、中上が対照的な評価をして られている二つの作品「長雨」と「九足の靴で居残った男」(以 ところで、この対談集のなかで注目すべきは、『長雨』に収め る』(作品社、一九八一)がある。 ソウルで行われた中上健次との対談をまとめた『東洋に位置す 他にも対談集として、一九八〇年六月二八日から七月四日まで 丹路訳、角川書店、一九八九)が挙げられる。また小説作品の (安宇植訳、新潮社、一九八二)、そして『鎌』(安宇植・神谷 〇)、韓国よりも日本で先に翻訳された書下ろし長篇『母(エミ)』 一九七九)と『黄昏の家』(安宇植訳、東京新聞出版局、一九八 品としては、短編集である『長雨』(姜舜訳、東京新聞出版局、 った。中上の強い後押しもあって日本で刊行された尹興吉の作 このなかで、中上健次が一番深く共感した作家は尹興吉であ 韓国現代文学の代表作が、次々と日本に紹介された。 煇、金承鈺、李清俊、韓勝源、尹興吉、朴婉緒、黄晳暎などの が中上の推薦によって日本で出版された。これによって、鮮干 国現代短編小説』(中上健次編、安宇植訳、新潮社、一九八五) 13人集』(古山高麗雄編、新潮社、一九八一)と『韓 受賞作であり、当時の問題作として連作が次々書かれた「九足 として位置づけられている。そして、第四回の韓国文学作家賞 現在高等学校の国語教科書に収められ、「分断文学」の代表作 る尹興吉の作品として高い評価を受けている。まず「長雨」は、 しかし、韓国文壇では二つの作品とも一九七〇年代を代表す ている。 したうえに、「知識人のふりをしている」小説であると批判し の靴」については、「プロレタリア文学の系譜」に属すると指摘 まらず、世界文学の位置にある」と高く評価する反面、「九足 いることである。つまり、「長雨」を「韓国の文学の領域にとど

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、 どうして中上健次の二つの作品に対する評価は、これ程に分かれてしまったのだろうか。その理由を探るにあたって、まずは中上に徹底的に否定された「九足の靴」に目を向けてみよう。「長雨」から四年の隔たりをおいて書かれた「九足の靴」は、連作「直線と曲線」「翼または手錠」「青ざめた中年」と共に、尹興吉の二冊目の創作集『九足の靴』に収められている。これらの作品群は、急激な高度成長による都市化が進む七〇年代の韓国の社会を背景に、インテリとして描かれている「私」(呉先生)の視点を借りて、時代に翻弄され現実から敗北していくひ弱な人間「権氏」の姿を映し出している。とりわけ、この二人の関係の様相を通して、価値観の不在と貧富の差、さらに道徳的葛藤など、当時の韓国が抱いていた社会問題を中心に「個人と社会の力学」一〇関係をメインテーマとしている。こういった点において、これらの作品群は中上の指摘通り「プロレタリア文学」に属するといえるだろう。

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ではここで、「プロレタリア文学」的な要素が、凝縮されている場面を「九足の靴」一一から一箇所だけ取り上げてみよう。

義務であり課題であった。 逸らさないでいることが、学問を学んだ私たちの、まさに 事情を相殺してしまおうとした。彼らの困窮をこころから がった財閥どもの眼を抉り抜くようなことばで、みじめな ず金を掻き集めて、今では血相をかえた金の亡者になり下 た、追い詰められた人間に出会うたびに、手段方法を選ば または新聞紙上で、行きつくところまでいきついてしまっ ことを歎かわしく考えていた。私たちは街で、喫茶店で、 す諸般の福祉が、社会の底辺にいたるまで均しく及ばない しいのだと考えていた。(略)私たちはわれわれの政府が施 に憎んではならない対象であった。当然そうすることが正 富めるものは軽蔑しても構わないが、貧しいものは絶対

確かに、右のような「プロレタリア文学」は、八〇年代までの韓国近代文学の主流をなしていた。しかも、「プロレタリア文学」だけではなく、植民地時代を素材にした「植民地文学」、朝鮮戦争を素材にした「分断文学」などの「素材主義の傾向」一二が、八〇年代まで韓国近代文学を牛耳っていたのである。こういった社会現実を反映した「テーマ小説」の氾濫は、朝鮮戦争以後の軍事独裁政権の下での韓国社会の混乱と裏表であったと考えられる。韓国の作家たちは、常に問題意識と使命感を持って、社会と政治を批判する作品を書かなければならなかった。そしてそうした作品ではないと認められない現状が、八〇年代後半まで続いていたのである。 こうした「テーマ小説」が氾濫する韓国文学界の現状に触れたときの中上の衝撃は、日本では「政治的な文学などあってたまるか、文学的な政治などあってたまるかという認識だった」が、韓国は「日本のちょうど逆ではないか」一三と述べているところからも窺うことができよう。しかし、興味深いことは、前に触れたように、中上が「圧倒的な共感をもつ」と絶賛した「長雨」も「テーマ小説」(「分断文学」)に属することであろう。であるとすれば、中上の二つの作品に対する相反する評価は、作品における現実の素材の反映の有無ではなく、いかにその素材を反映するかという描き方にあるのではないか。ではここで、「『長雨』と『九足……』の間」(『東洋に位置する』)の中上の発言に戻ってみよう。この対談集の題から分かるように、そもそもこの対談の目的は、「東洋」の意味をさぐって、これからの「東洋」文学の可能性について考察することであったようだ。そして中上は、「西洋文学」(=「近代文学」)に対する「東洋文学」(=「脱近代文学」)という図式を用いているように見うけられる。すなわち、中上のいう「西洋文学」とは、「パースペクティブ」(遠近法)が強く表れた文学、作家の「知性」や「個性とか作家存在」という近代的な主体が強く生きている文学であり、韓国のプロレタリア系の文学(「九足の靴」を含む)も、こういった「西洋文学」(=「近代文学」)の影響を強く受けたものとして分類される。それに対して、「「近代文学」というパースペクティブの欠けた」文学、「個性とか作家存在とかが破砕されて」いると見られる「東洋文学」を、「脱近代」の可能性を含んだものとして位置づけ、「長雨」をその代表作として評価しているの

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だ。さらに、「長雨」の魅力は、そういった「近代」的な要素から離れることで生かされた「韓国の大事なもの」が表れている点にある、と中上は指摘する。この「韓国の大事なもの」とは何か。このことを考えるうえでは、柄谷行人一四の「根底の不在」という言葉が有効であると思われる。柄谷は、この「根底の不在」が出ている点で、「長雨」は「新鮮かつ刺戟的」であると評価しつつ、その一つの理由としてこの作品の中に降りそそぐ長雨の非「含意性」を挙げている。つまり、日本人(日本文学)においては「無意識に長雨=眺めという連想結合」が用いられる傾向があるのに対して、「長雨」の長雨は「文字通り雨が降っている」状態を描いているだ け で

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雨は歴史に対立する自然として在る」と指摘したうえで、前者は「「根底」という幻想」からきたものとし、そして後者を「根底の不在」から成る結果として見なしている。ここで注目すべき点は、柄谷が、自然をカッコの有無によって、「「根底」という幻想」からきた「自然」と、「根底の不在」から成り立つ「文字通り」の自然というように使い分けていることである。この「自然」(あるいは自然)という言葉は、『日本近代文学の起源』(講談社、一九八〇)で再考された「風景」や「内面」という言葉と関連しているように思われる。柄谷は、この本で、明治二〇年代に西欧近代思想の導入によって、日本の「近代的な諸制度」は確立され、それによって、「風景」「内面」「告白」「病」「児童」という概念が「発見」されたと述べている。これを踏まえていうならば、前者が「根底」とするカッコ付きの「自然」は、西洋からきた近代の遠近法によって「制度」 化されたものを表すといえる。反面、後者のカッコ抜きの自然はこうした近代の遠近法が排除されている状態をいうのであろう。中上は、柄谷の「根底の不在」という言葉を受けて、「柄谷行人への手紙」のなかで、次のように述べている。

大兄(柄谷行人―引用者注)の手紙、拝読した、大兄の使う「根底の不在」、言葉を変えてみれば、物語の氾濫、多極的多重的なパースペクティブ、パースペクティブという言葉すら物の用をなさないあらゆる物のカーニヴァル的林立、私が今、感知しているのは韓国にあるその氾濫、その林立が波を打っておしよせ、そしていつの間にか干潮の千潟のように異国人である私一人、ここに取り残されているという思いである。一五

中上が韓国で感心したのは、「根底の不在」がもたらす「多極的多重的なパースペクティブ」であり、またそこからくる「物語の氾濫」する現状であった。中上の言う「韓国の大事なもの」は、こうした「根底の不在」による「脱近代」的な要素に他ならない。この「韓国の大事なもの」を生かすどころか「「根底の不在」を陰蔽することが学問や思想、文学だと錯覚」一六し、近代的なパースペクティブに縛られた「テーマ小説」ばかりを作り出す、当時の状況のなかで書かれた「長雨」だからこそ価値があると見なしているといえるのではないか。では、韓国本来の「多極的多重的なパースペクティブ」は、「長雨」に如何に描かれているのか。「長雨」は、朝鮮戦争を背景にイデオロギーに翻弄される人々の姿を、少年(「ぼく」)の眼を通して描いている作品である。尹はまず、近代的なイデオロギ

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ーの対立を、それと何の関係もない少年を語り手に取って描くことで「脱近代」を試みる。そして、戦争によって父方の親戚と母方の親戚と一緒に同居することになった状況のなか、「ぼく」の目線は、右翼側に立つ「外叔父」と「アカ」(左翼)と呼ばれる「叔父」を中心に広がるイデオロギーの対立を映すよりは、それとは無関係な存在である「外祖母」と「祖母」に向けられている。こうした仕掛けによって、近代的なパースペクティブを壊していく。さらに、作品の適所にシャーマン的な要素が生かされるが、その母性的な想像力を用いることで、「父」に象徴される近代的な秩序や制度などを無効にしようとする試みが成されているのだ。その代表的な一箇所を引用してみよう。「叔父」が帰ってくると占い師が予言した「ある日ある時刻」に「大蛇」が現れる場面である。

ちょうど頭上から火の粉を嵌まれたように、取ってつけたような眼玉をぎょろぎょろ光らせながら、絶えず頭をさげて傲然と脅しかけるでかい大蛇を見ても、外祖母は少しも恐れなかった。外祖母は両手をゆっくりと胸の前へ寄せて合掌した。

「お

や、あんただったのかい、家のことが忘れられなくって、こんなに遠い道を訪ねてきなさったのか?」(中略)

「あ んたもみてのとおり、年とったおふくろさんも達者だし、他の家族たちも、みんな元気に暮らしているんだよ。だからよお、うちのことは、何の心配もいらんのだから、はようはよう、あんたの行かねばなんねえとこへ、さっさと行きなされ。」一七

「叔父」の代わりに現

れた大蛇を見て、「祖母」と「外祖母」はそれが「叔父」の分身であることを全く疑わない。大蛇を見て意識を失った「祖母」の代わりに「外祖母」は、人に声をかけるように大蛇に接し、「祖母」の白髪を燃やす儀式を通して大蛇を送り出す。物語は不和であった二人の祖母が、この事件を契機に和解することで締めくくられる。

「有難う。」生気が失せ窪んだ眼をあげて、ようやく外祖母を見上げながら、祖母は喉をぐっと詰まらせた。「何をおっしゃる……」(中略)「つつがなく無事に行ってくれたかね。どうだろうねえ。」「心配あるものかね。今頃、どこかへ行って、安らかに居住まっていることだろうに。お宅の守り神の役を、ちゃんとつとめてくれるに、ちがいねえともよ。」

蛇に関する記録は韓国に古くからあり、『三國史記』や『三國遺事』一八にも数多く出ている。それらによれば、たとえば蛇は、七つの「守り神」の一つとして崇拝されてきた。特に大蛇(구렁이/グロンイ)は、家の近くによく現れる身近なものとして、多くの伝説や民話などに登場する。「長雨」では、この韓国の土俗信仰やシャーマニズム一九といった母性的な想像力の代名詞といえる大蛇を取り入れること、また語り手と語られる対象として、近代的なイデオロギーと無関係な人物をもって来ることといった仕掛けで、「外叔父」と「叔父」に象徴された右翼/左翼という「近代」的な対立を破壊する試みがなされていたのだ。これ

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らによって、「根底の不在」による「脱近代」的な要素、いいかえれば「韓国の大事なもの」がしっかり描かれる。中上が「長雨」において評価しているのは、その点に他ならない。

二、小説「物語ソウル」―語「解体」系譜の線上に尹興吉との対談から四年、一九八四年五月に、書き下ろし作品『物語ソウル』が発表される。そして、日本での刊行から間もない同年七月には、韓国語版『서울타령/ソウル打伶(タリョン)』(文学芸術社)が翻訳出版された。この『物語ソウル』は、中上健次の小説と荒木経惟の写真とで構成されている。このなかで両者の文章と写真は、交互に交差する形で並べられているが、同様の構成で成されている中上のエッセイ作品としては、篠山紀信との共著『輪舞する、ソウル。』(角川書店、一九八五)がある。この二冊は、韓国を素材としている点と、小説家と写真家の共同作品である点、これらの二点においてひと括りとされ、とりわけその異例な構成ばかりが注目されてきたきらいがある。この点については、少し後述するが、まず本節では、中上健次の小説「物語ソウル」に眼を向けて、とくに執筆経緯とその時期に着目し、同時代に書かれた中上作品との関連を探ってみる。なぜならこういった試みは、中上「独自」の脱近代=ポストモダン性の考察につながると思われるからである。さて、「物語ソウル」の内容から入ってみよう。物語は、一九八〇年のソウルを背景二〇にして展開される。この「物語ソウル」は、突然家を出た夫を捜しに一人息子をかかえて田舎からソウルへやってきた「女」が、ヨンドンポの路地(コルモッギル)とヨイドの市場(シジャン)を拠点に、ソウルの生活にしっか りと馴染んでいく姿、その動向を展開軸とする。そして、この点で「女」の成長譚ともいうべきであるが、これに、「女」と右翼テロリストにして大盗賊のチャンギルとのラブストーリーが加わり、物語に魅力を与える。ところで、この作品で興味深いところは、登場人物の全員が韓国人という設定になっている点であろう。こうした点において、日本人作家が書いた小説としては、現在まで稀有なパターンであるといえる。しかしながら、こうした作者の異例の挑戦にもかかわらず、この作品は、日本だけでなく韓国でも、あまり評価されてこなかったように見うけられる。たとえば明石福子は、「『物語ソウル』論」二一において、ソウルを「無作為」でとらえた荒木経惟の写真と、「荒唐無稽ともいうべき中上健次の小説とは、それぞれが対極に位置するが故に、互いに他を無化する作用を及ぼし合っている」と、論を展開していくのであるが、小説だけだと、「日本ではまず起こりえない大活劇」であり、「揺るぎのない作品世界を構築しえなかった、中上健次自らがその責めは負うべきであろう」と酷評している。また、李鍾旭は、「準周辺の可能性――中上健次『物語ソウル』を中心として」二二のなかで、作品の時間的な背景の不一致と「夫を探しに上京した「女」が常識的な愛情の過程もないままチャンギルと肉体関係で結ばれる設定や、明確な理由もないのに暗殺現場で見つけた夫を射殺する設定」に着目し、これは「作者の原体験の不在」のあらわれであり、「韓国社会、さらに韓国人の情緒や集団無意識などの上辺だけの理解によった可能性が多い」と指摘している。右の先行論からも分かるように、「物語ソウル」に対する酷評のほとんどは、こうした時代錯誤の印象や因果関係の説明が省

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略されている点、そしてこれらによる物語の有り得ない展開に向けられてきたように考えられる。だがまさに、これらの点こそが中上が描こうとした物語ではなかっただろうか。結論を先取りしていえば、この時期に中上が書こうとしたのは、時間の順序や因果関係による展開といった構築物としての「近代小説」からの脱構築を試みる物語にほかならないからだ。ここで中上の作品年譜に眼を向けてみよう。「物語ソウル」の執筆頃から、中上の作品世界の転換がしばしば指摘されてきた。

二三「物語ソウル」は、中上の「一部分は『地の果て

至上の時』

と執筆時期がダブっています」二四という発言と、李鍾旭二五

の『

の果て

至上の時』

(新潮社、一九八三、以下地の果て』と略記)執筆期間についての調査を踏まえると、主に八二年の九月以降から八三年にかけて書かれたと推測される。ここで注目すべきは、この『物語ソウル』の執筆開始が、地の果て』の終盤と執筆時期が重なっていることであろう。

『地

の果て』は、周知のように、『岬』(文芸春秋、一九七六)と『枯木灘』(河出書房新社、一九七七)に続く、父(浜村龍造)と子(秋幸)の物語「秋幸三部作」の最終章である。エディプス神話を下敷きにした「父殺しの物語」がメインテーマであるこの三部作は、浜村龍造(父)が突然に自殺してしまうという意外な結末で締めくくられた。柄谷行人は「差異の産物」二六において、こうした読者の「期待の地平」から背いた結末が、従来の作品に比べて酷評二七を呼んだ原因であると読んでいるが、『地の果て』から始まった「路地」消滅以降の中上の作品世界の展開には、その物語の脱構築をめぐって、批判的な論調による読みが少なくない。この傾向は晩年の作品である劇画原作『南回帰船』(一九八九~九一、未完)や『異族』(一九八四~九二、 未完)において顕著になってくる。それは、これらの作品が「問題作」や「失敗」作と批判されてきた二八ところからも垣間みられる。たとえば、いとうせいこう二九は、『異族』を取りあげ、物語の前提としてある時間と空間を排除することによって「物語を薄っぺらな空間の上に置き、徹底的に平面化」したと酷評した。また大塚英志三〇は、中上の作品年譜からも排除された『南回帰船』に着目し、その「隠蔽」の原因を、「極端に類型化された物語とキャラクターの集積」によって明らかになった「劇画的」要素に見だしている。こうした「平面」的で「劇画的」な物語への接近は、『地の果て』の転換以降から中上の晩年の作品へと、加速化していくように思われる。この転換以降の中上の仕事に向けられたこうした酷評の傾向は、作者が読者の「期待の地平」から無縁に、極端にまで物語の脱構築を試みた結果に求めるべきではないだろうか。したがって、「物語ソウル」に向けられた酷評も、こうした中上文学世界の変遷と、これによる先行論の動向のなかで考える必要があるだろう。では、「物語ソウル」で中上が試みた脱構築はどういったものか。この点を考えるにあたって、同じ時期に書かれた『地の果て』にもう一度着目したい。『地の果て』終盤のどんでん返しについて、四方田犬彦は「貴種の終焉」三一で、次のように述べている。

ある物語に別の物語を適応させることで、同一なる物の回帰に組み込まれてしまうのではなく、その物語の継承者たらんとする意志を装いながら、物語を終点にまで追い詰め、最終的には物語から脱落してしまうこと。中上健次が

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『地の果て』で提示してみせたヴィジョンとは、そのようなものである。

右の四方田の指摘通りに、『地の果て』における中上の脱構築への試みは、種類の違う物語を交差させることによって、元の物語を解体していくことであった。この時期に、中上はこうした物語の解体に意識的に取り組んでいたように思われる。それは、村上春樹との対談においての、中上の次のような発言からも窺うことができる。

ある物語がある、自然な状態でストーリーが出てくる、そこでさっき言った脇をスポンテニアスなストーリーにぶつけちゃう。ということは解体小説を非常にうまく取り入れちゃうということなんだけど。そういうことを俺は今考えているよ。三二

このような「解体小説」への戦略が、「物語ソウル」でも試されていた。つまり、この作品で中上は、二つの物語を「導入」して、その二つの物語を交差させるという方法で、物語の「解体」を試みたのである。では次節から、中上のこうした物語の「導入」とその「解体」への戦略が、「物語ソウル」において、どのように展開していくのかについて考察していきたい。

三、二つの物語――『春香伝』と『張吉山』まずは、物語の「導入」から始めてみよう。この作品で中上は、韓国の固有の二つの物語を取りいれている。その物語とは、妓生の娘と両班の息子との身分を越えた恋愛 を描いた『春香伝』(춘향전/チュニャンジョン)と、非倫理的な権力に抵抗する義賊の物語『張吉山』(장길산/チャンギルサン)である。「韓国の小説の中で『春香伝』ほど広く知られ、愛読されている作品もないだろう」三三という李在銑の指摘を引くまでもなく、『春香伝』は徐廷柱らの詩人によって現代詩になったり、パンソリ(春香歌)で歌われたり、何回も映画化されたりと、色々なジャンルに縛られることなく愛され続けている、いわゆる韓国ロマンス物語の代表作である。そして、『張吉山』も洪吉童と林巨正と並び称される民衆(庶民)側に立つ義賊の物語三四の代表作として、小説化されたりドラマになったりして、衰えることなく愛されてきた。ところで、どうしてこの二つの物語であるといえるのか。関連して、先述した四方田が興味深い発言をしているので、引用する。

晩年の彼(中上健次―引用者注)はもはやステレオタイプに直接的な攻撃を仕掛けない。彼は逆に『異族』のなかで、人物と場所の描写にあえて平板で典型的なパターンを採用する。台湾人とアイヌの青年は「カンカン」と「ウタリ」という、きわめてステレオタイプの名を与えられる。『物語ソウル』の主人公チュニャンとチャンギルもまた同様に、韓国では知らぬ者とてない著名な古典物語と民間伝承の登場人物の名を継承している。三五

ここで四方田のいう、晩年の中上にみられる「ステレオタイプ」そのままの固有名詞を用いる傾向は、前節で触れたように、『南回帰船』や『異族』などにおける「平面」的で「劇画的」

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な物語への接近と通底するものであるといえるが、ここで注目すべきは、『物語ソウル』は、こうような晩年の中上作品の特徴がいち早く現れた作品である点である。しかし、この作品の主人公は、「チュニャンとチャンギル」ではなく、「女」とチャンギルである。この作品のなかで女の主人公の名前は一回も出てこない。あくまでも代名詞の「女」が用いられているだけだ。だが、春香(チュニャン)もしくは『春香伝』という言葉からいうと、三回出ている三六ことが分かる。四方田はこれらの言葉と混同して、「女」の名前が、春香(チュニャン)であると思いこんでしまったのであろうか。こうした四方田の混同は、この作品のなかに、「韓国では知らぬ者とてない」「著名な古典物語」である『春香伝』と、「民間伝承の登場人物の名」チャンギルを主人公にする義賊物語『張吉山』とが入りまざっていることを見ぬいた所以でもたらされた誤解であろう。なぜならば、中上の韓国体験において、この二つは、とても関わり深い物語であったからだ。ではまず、中上の『春香伝』体験からさぐってみよう。中上と『春香伝』(「春香歌」)三七との出遇いは、一九七八年の韓国初訪問の時にさかのぼる。「歌と語りの源」や「芸能と物語の根」を辿るなかで聴いた「春香歌」について、中上は次のように述べている。

妓生に頼んで、パンソリ「春香歌」の一節をうたってもらった。(中略)韓国語をまったく理解できない私にも、春香が恋する男にあう条りだという歌のたのしさは伝わる。それに伴奏の楽器の音色。一度その音色を耳にすると、そ の弦の震える音の味が忘れられなくなる感じだ。そのパンソリの節、楽器。(中略)血がざわめき立ち、血があふれ外に流れ出さないのは、一枚皮でおおっているからだと、その音、その節をききながら思ったのだった。三八

中上はこの旅のなかで、二回も「春香歌」を聴くことになる。それから、『韓国古典文学選集③』(洪相圭訳、高麗書林、一九七五)で小説『春香伝』について調べたと記録している。こうして始まった中上の『春香伝』体験は、ついには物語の舞台である南原(ナムに足を運ぶまでにいたる。

僕はね、さっき言った全州で、根を持って生きている芸能という経験をしたのですが、川辺でも、即興のパンソリの宴をしたあと、そこの友人が南原へ行こうと言うんですよ。一時間ほど離れた所ですけど。南原は、架空の物語である「春香伝」の舞台なんです。そこには、李夢竜が春香を見染めたという広寒楼が、実際に建てられている。そこにいると、こう、古い物語が舞い上がるような気がして、胸が熱くなるような思いがしました。三九

以上を踏まえていうならば、中上の『春香伝』(「春香歌」)に対する思い入れは、相当強いものであったといってよい。韓国を背景にする物語を作るにあたって、『春香伝』を下敷きの一つに選んだことは、きわめて自然な流れであったと考えられる。では、もう一つの物語に、『張吉山』を選んだ経緯をたどってみよう。中上が『春香伝』を調べるためにあたった『韓国古典文学選集③』には、確認したところ、『春香伝』のほかにも、『秋

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風感別曲』や『洪吉童伝』もが収録されていた。『洪吉童伝』は、韓国義賊物語の元祖にあたる作品であるが、この全集で中上が、『洪吉童伝』にも眼を通した可能性は十分にある。『張吉山』に出遇う前に、この『洪吉童伝』を通じて、韓国の義賊物語に触れたと推測することができよう四〇。すなわち、韓国と関わったずい分早い時期から、中上は韓国の義賊物語に意識的であったと思われる。そしてこれとほぼ時期を同じくして、黄晳暎の『張吉山』四一が出版された。黄晳暎と中上は、一九八一年のソウル滞在中に「一夜語りあかした(というより、彼のパフォーマンスにみとれた)」四二という余談が綴られているほど、親密な仲で知られている。この親交関係から考えても中上は、当時出版された彼の話題の小説『張吉山』を常に注視していたといえる。こうした中上の動向を踏まえると、「物語ソウル」の下敷きとして、『春香伝』とともに黄晳暎の『張吉山』を取りいれたと考えられる。この『張吉山』の「導入」は、とりわけ、チャンギルというキャラクター造形に用いられている。それは、何よりチャンギル(張吉)という名前が、チャンギルサン(張吉山)から「サン」を取ったものであることから裏付けられる。そして、もう一つ指摘しておきたいことは、このチャンギルというキャラクター造形には、作品だけではなく、作者黄晳暎の体験も反映されていることである。なぜならば、黄晳暎はベトナム応召体験を持つ作家であることで有名であるが、チャンギルもベトナム帰還兵という設定であるからだ。これまでみてきた中上の『春香伝』体験や『張吉山』体験から、「物語ソウル」がこの二つの物語を導入していることが明らかになった。次の節では、作中人物のキャラクター造形を中心 に、この二つの物語が「物語ソウル」で、どのように「導入」され、そして「解体」されているのかを検討する。

四、二つの物語の「導入」と「解体「物語ソウル」の物語は、息子と自分を置いて突然失踪した「夫」を探しに、「女」が田舎からソウルにやってくるところから始まる。こうしたことは、『春香伝』で、春香と夢竜が愛に落ち、「百年の契り」を結んだものの、夢竜の父の昇進によって、夢竜は上京することになり、春香だけが田舎(南原)に残ってしまう、という設定と同じである。

愛 す る 人 と 女 性 と

の「 「

離 別

」、

あ る い

は「

離 別 の 恨

」」

、 「 韓 国の伝統的情緒と称され」ると指摘されることがあるが四三、この「伝統的情緒」を、中上は『春香伝』から見だして「物語ソウル」に取りいれた。このような愛と別れという観点からみると、「物語ソウル」の「女」と「夫」という図式は、『春香伝』の春香と夢竜から導入されたものであるといえる。ということは、「女」に春香を代置すると、「夫」に夢竜を代置することができるはずである。まず、後者の関係の確認から始めてみよう。夢竜は朝鮮時代の貴族である両班(ヤンバン)の息子であり、学者(ソンビ)または官僚の卵である。元々学問に優れていた夢竜は、春香と別れて当時のソウルである漢陽に上京してから、「夜を日に継いで、詩書、諸子百家を熟読精通」四四し、朝鮮時代の高級官吏登用試験である「科挙試験」に首席で合格する。では、「物語ソウル」の「夫」はどうなのか。「女」の記憶のなかで、「夫」は次のように描かれている。

本をばかり読んでいた夫だったが、由緒ある家柄だし、親

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が日帝時代からうまく立ち廻り、解放後もソツがなかったから食べるに困ることがなかったので、故郷で一家水入らずの時は、不満はなかった。

になるが、ここで注目すべきは、この物語で中上が、「本」を徹 このような仕掛けによって、「本」のイメージが「夫」と不可分 でいた」という形容が、枕詞のように頻繁に用いられている。 伝』の夢竜のそれと重なる。特に、「夫」には「本をばかり読ん る「由緒ある家柄」出身(両班)という「夫」の設定は、『春香 「本をばかり読んでい」る学者タイプで、経済的に恵まれてい

底的にマイナ

ス イ メ ー ジで 描いて い るこ とで ある。こ

うした

「本」に対する否定的な捉え方を、中上は、作中人物らの発言によって表象してみせる。たとえば、「夫」に似ている近所の息子を見て「夫」を思い出した「女」は、「昔から韓国で本を読むような男は、皆が皆、人の話をまともに聞かないで、苦しくなれば自分一人、女子供を置いて逃げ出したのだろうか」と付け加えている。また、チャンギルの部下パラムは、チャンギルの育ての親に当たる飴屋との会話のなかで、「猛虎兄(チャンギルの渾名―引用者注)が、昔から本を読むような奴は駄目だと言っとったのは、アジシの口真似か」と、確認をせまる。どうして中上は、ここまで「本」を徹底して否定しているのか。それは、中上が「本」を、夢竜や「夫」といった両班(=支配階級)の象徴として取り入れているからであろう。ここで、前節で中上が、尹興吉の「九足の靴」を「知識人のふりをしている」小説と酷評したことを思い出してほしい。前節を踏まえていうならば、この作品における「本」の徹底否定は、中上の 「本」→「知識人」→「近代」的知性、といった認識の連鎖によるものではないだろうか。『春香伝』は妓生の娘と両班の息子との身分を越えた恋愛をメインテーマにするラブストーリーである。中上は、春香に「女」を、夢竜に「夫」を、という図式を導入することで、『春香伝』のロマンス的な要素を取りいれるかのように見せつつ、「本」と両班のイメージと不可分な「夫」を徹底的に否定することによって、身分を越えた恋愛というロマンス的な要素を壊していく。ここに中上健次による一つ目の「解体」がみられる。では、「女」と春香の関係はどうなのか。先述したように、男に別れを告げられ取り残される、「離別」される女性といった点で、二人は共通していた。だが、春香がそのまま南原(田舎)に残って、夢竜が戻ってくることを待つのに対して、「女」は「夫」を探しに田舎からソウルにやってくる。こうした点では、春香の方は、自分が置かれた状況に順応する、受動的な女性であるといえるし、「女」の方は、自ら置かれた状況を解決しようとする、能動的な存在であると思われる。このような「女」の能動的な人物設定には、『張吉山』の妙玉(ミョオギ)が関わっていると見なされる。妙玉とは、主人公である張吉山の恋人である。元々娼妓であるが、吉山(ギルサン)が住んでいる「才人村」にやってきて、吉山と恋に落ち、結ばれる。が、吉山が海州の商人申を成敗しようとして捕まり、収監されることになると、姿を消した吉山を探しに旅に出る。すなわち、突然失踪した「夫」を探しにソウルにやってくる「物語ソウル」の「女」は、吉山を探しに積極的に旅に出る妙玉と相似形である。

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こうした二人の積極性は、恋人(「夫」)を自ら探しに赴くという点だけではなく、自分の愛や性的欲望に素直に向き合うという姿勢においても読み取ることができる。『張吉山』の妙玉が、男性経験の豊富な娼妓であるという設定は、こういった点で示唆的である。たとえば、吉山と初めて結ばれるとき、妙玉は「もっときつく抱いて」四五といい、吉山との性行為を終始リードしていく。そして中上は、自分の欲望に対する妙玉のこの素直な態度を、「物語ソウル」の「女」に反映させたと考えられる。ソウルのヨンドンポ路地で義賊チャンギルと出会い、「女」は自分のなかに渦巻いていた性欲に目覚める。出会って二回目のとき、道端で抱きついてきたチャンギルに、「女」は、次のように反応する。

「いかんよ、わたしを好いてくれるんやったら、後で家に来て」と言い、ダンボールをしっかり抱え、「若いアガシ(お嬢さん―引用者注)と違って、子供いるんよ。小さいスンミナ、一日中一人で、母親が働いて帰るの待ってるんよ」と言う。チャンギルは腕を離しかかる。女はふっと切なくなり、チャンギルがくぐもった声で、「よし、分かった。後で行く」とつぶやくのを聴いて、自分の方から、「キスして」と身を寄せた。

右の引用から、妙玉と同じく、自分の欲情に素直に従う「女」の姿を、確認することができる。このように、妙玉と「女」は、自分の置かれた運命に対する能動的な姿勢や、愛や性的欲望に積極的に向き合う点で、共通していた。こうした類似点から「女」は、『春香伝』の春香より、『張吉山』の妙玉に近い存在である といえよう。ところで、どうして「女」に、ここまで能動的で積極的な性質を与える必要があったのか。それは、韓国人なら誰でも知っているように、『春香伝』は「貞節尊重を重視する倫理的要素」

四六を孕んでいる物語でもあるからであろう。つまり、韓国において春香とは、貞節の代名詞であるのだ。

『春 香伝』の物語に戻って、この点を確認してみよう。夢竜が去っていたあと、新しい南原府使としてやってきた卞学道(ビョンハクト)は、南原一の美人という春香の噂を聞きつけ、春香に自分の伽を勤めるよう命令する。これに対して春香は、「忠臣は二君に仕えず、烈女は二夫にまみえず」と述べ、「血と涙が一つになって、凄惨極まりな」いほどの拷問を受け収監されながらも最後まで屈服しない。こうした意味で『春香伝』は、春香の貞節が試される物語でもある。物語の終盤、王の隠密派遣使となって南原に戻り、卞学道の悪政を裁いたあと、処刑寸前のところで春香を助け出すヒーロー役夢竜が(顔を隠して)、「予のお伽でもせぬか」と春香に問う部分にも、それは表れている。儒教社会とも言われる韓国社会において、「貞節尊重」の風潮は近年、少しずつ弱まっているとはいえ、未だに根づいている。中上が関わった八〇年代前後には、かなり厳しいものだったことは想像するに難くない四七。この貞節の問題は、男尊女卑といった父権社会の倫理と連動する。さらに、この点において、父権的な秩序の上に成り立つ「近代」と通底すると考えられる。こうしたことから、『物語ソウル』の「女」が、『春香伝』の春香を、さらにいえば春香が代弁した貞節の物語を、否定する存在として設定されたことは、中上が強く意図したことである

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といってよい。そして、この「女」の設定には、『張吉山』の妙玉のキャラクターが反映されていた。すなわち『春香伝』を「導入」しつつ、そこに『張吉山』の趣向を交差させることで、『春香伝』の貞節の物語を壊していく。ここに、中上の二つ目の物語の「解体」がある。さて、ここからは、『春香伝』の卞学道というキャラクターに着目していきたい。この「卞学道」は、夢竜のライバルで、春香を取り合う人物である。『春香伝』において卞学道は、欲望と快楽に酔いしれ贅沢な生活をするために権力を乱用する人物で、悪なる存在として描かれ、善なる存在として描かれる夢竜の対極に位置する人物である。こうしてみると、『春香伝』は、女一人(春香)に男二人(夢竜と卞学道)を配した三角関係の物語であるといえる。ところが、問題は、男の方は二人とも、支配階級である両班として設定されている点である。つまり、こうした設定によって、「進歩的な側面を持つ両班・李夢竜が悪徳両班・卞学道を処断することによって、あたかも社会的差別と不平等がすべて「氷解」するかのような印象をあたえ」四八ることになってしまった。この問題点に気づいたはずである中上は、この男二人とも支配階級の両班であった『春香伝』の構造を、「物語ソウル」で再構成することから取りかかる必要があっただろう。すなわち、悪徳両班(卞学道)の位置に、権力に抵抗する義賊の物語『張吉山』から取り入れた義賊チャンギルを配置する。さらに、『張吉山』の張吉山が、広大(旅芸人)という賤民出身であることを踏まえて、『物語ソウル』のチャンギルも「親爺は白丁(被差別民)での」と、物語の冒頭でカミングアウトする仕掛けを用意する。 このようにして、再構成された『物語ソウル』を、簡略に図式化してみると、奔放な「体」への欲望を持つ「女」を中心に、「本」が好きな両班の代表「夫」(支配階級)と、賤民の代表の義賊チャンギル(被支配階級)、というふうに再編成された三角関係の物語になる。こうして『春香伝』ではヒーローであった夢竜の分身といえる「夫」は否定され、義賊チャンギルがヒーローとして浮上する。こうした支配/被支配という対立図式でいくと、この「夫」を殺すのは、チャンギルでなければならないはずであろう。しかし、中上は、こうした図式とは関係ない「女」に「夫」を殺す役割を演じさせるように仕掛ける。これで物語は、「女」と義賊チャンギルのハッピーエンドで結末を迎える、かのように見えた。が、ここに中上は、最後のどんでん返しを用意する。つまり、このチャンギルも「猛虎会」

の部下のパラ

ムによって呆気なく殺されてし

まうので

ある。

「女」を中心に、支配/被支配の両側に配置され対戦されているかに見えた男二人は、意外な人(「女」とパラム)によって、突然殺害される展開になる。それで、生き残った「女」が「猛虎会」の新しいリーダーになったことが暗示されるところで、物語は締めくくられる。このような物語の展開から、中上が最後に試みた「解体」をまとめてみよう。それは、支配/被支配問題が勧善懲悪の問題へとすり替えられていた『春香伝』の問題点を、『張吉山』から導入されたキャラクター、チャンギルを配置することで、支配/被支配の問題へと再編成することから始まっていた。それで、支配/被支配という図式で成り立つはずだった対立の物語を、一方の勝利によって解決させるかのように見せつつ、最後の最後に二人の男を共に殺すことで、対立図式自体を無効にしてし

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まう。つまり、この最後の「解体」によって、中上は、善/悪、そして支配/被支配、という対立図式=二項対立を超越しようと試みたように見うけられる。が、このようにして、中上によって徹底的に「解体」される二項対立とは何なのか。こうした二項対立の超越といった観点からは、川村湊の「中上健次とソウルの物語」四九が、有効であると考えられる。川村は、写真家荒木経惟との共著という『物語ソウル』の構成に着目し、荒木の「男根的な写真集」と見なしたうえ、中上の小説「物語ソウル」については、次のように述べている。

男性的な、男根的な視線も、反発も、行動も含めてそれらのすべてが「女陰」的なものに飲み込まれてゆくのであり、男女や陰陽という二項対立を超越したところにある原母的な「女陰」の世界こそが、『物語ソウル』の最終的に雪崩込む世界なのである。

川村は右で、「物語ソウル」で中上が描こうとしたのは、男性的/女性的といった「二項対立を超越」した「原母的な「女陰」の世界」であると指摘している。ここで、川村のいう「二項対立」を無効にする「原母的」物語とは何か。一節で尹興吉との対談集から確認したように、中上が評価し、そして試みた文学とは、近代的遠近法から自由な「東洋文学」(=脱近代文学)であり、その母性的な想像力が生かされる文学であったことを想起しよう。この点を踏まえていうならば、ここまで見てきた「物語ソウル」における「解体」は、中上が目指した脱近代的な「原母的」物語への仕掛けであったといってよい。この点において、さらにいうならば、「物語ソウル」は、「二 項対立」の問題だけではなく、近代的知性の問題や、貞節の問題をも、またこれらの近代的な思考のうえに成り立つといえる全てを、「原母的な「女陰」の世界」に「飲み込」んでいこうとする、中上の極めて戦略的な作品であったのだ。

りに――日韓「近代文学」の転換期に際して

『枯木灘』

(一九七七)を完成させた後、中上健次は、一九七七年一二月のニューヨーク滞在を始発点に、異文化体験を重ねていくことになる。この異文化体験のなかでも中上は、特に一九七八年から『物語ソウル』が刊行される一九八四年を前後とする時期に集中していた「韓国体験を、文章上の戦略として相対化」五〇する契機にしたいと言っていた。この発言からも窺えるように、中上は韓国体験を自らの文学の新しい起点五一として捉えていた。ところで、このように中上が、韓国体験を通して文学世界の新展開を模索し続けていたこの時期に、日本の文学界も、一つの転換期を迎えていた。というのは、中上と同時代の作家である村上春樹や村上龍、高橋源一郎などの戦後生まれの作家らが、次々と文学界に登場してきたのである。こういった全共闘世代に代表される作家らによるポストモダン的な作風は、既存のモダンな文学とは一線を引いていると評され、「日本近代文学の終焉」五二が囁かれるようになったのも、この時期である。こうした日本文学における同時代の動向を視野に入れていえば、韓国体験を基として転換していく中上の脱近代的=ポストモダン風な晩年の仕事は、同時代の流れの一環として位置づけることができよう。しかし、本文でも触れたように、中上の転換以降から晩年に至る作品が、同時代評ではあまり評価されて来なかったきらいがあった。

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だが、近年、「失敗」作として切り捨てられていた晩年の遺作『異族』や『南回帰船』などに、大塚英志と東浩紀らによって再評価の光が当てられている。こういった文学界の動向は、中上の文学世界における物語の構築/脱構築といった観点をめぐっての賛否ではなく、名前の記号化に象徴される「平面」的で「劇画的」物語への接近に、中上流のポストモダン的な「社会の変化に対する対応」五三を見出して、その点を見なおそうとする動きである。ここで、近年に見られる右の動向を踏まえたうえで、着目したいのは、『南回帰船』の執筆にあたって、中上が意識的に取り組んだと見られる若者文化を先導する「新しい芸術ジャンル」である「劇画」の可能性である五四。中上が意識した「劇画」の可能性とは何なのか。それは、物語の平板な記号化を目指してきた中上が、乱暴にいってしまえば、記号化された物語=記号化された文と、画を交差させること、これによって物語というジャンルを越えることを目指したということではなかっただろうか。さらに指摘しておきたいのは、「文」=物語と「画」の交差によるジャンル越えの試みという観点からみると、『南回帰船』のような試みは、写真家との共著作品『物語ソウル』まで遡ることができるということである。もちろん、これは写真と劇画を同様に扱ってしまうという点から問題は残る。この問題は別稿に譲りたいが、重要なのは、『物語ソウル』が、中上がポストモダン的な時代に呼応した答えの一つとして選んだ「文」=物語と、「画」の交差によるジャンル越えが、初めて試された作品であるという点である。また、もう一つ着目すべきは、この作品が、いち早くポストモダン的な若者の文化と、さらにそうした若者の受容をも意識したと見うけられる点である。『物語 ソウル』が、渋谷を拠点として若者文化を先導するPARCO文化事業の一つであるPARCO 出版から刊行されたことは、この点を裏付けるといえよう。さて、ここからは韓国文学界に目を向けてみよう。

「日本近代文学の

終焉」から少し遅れた一九九〇年前後から、韓国文学界にもポストモダン的な風潮が流行することになる。それは、この時期に、金聖坤「小説の死とポストモダニズム」

五五や、金旭東「文壇に吹くポストモダニズムの風」五六などに代表される、ポストモダンに関する多数の論文が書かれたことからも窺うことができよう。ところが、何故かこの時期に、韓国文学界では、文学の危機が囁かれるようになる。これはたとえば、座談会「脱現代理論と九〇年代の小説」五七において、「どうしてこんなに作品が少ないのか」や、「近年の小説は既存の、七、八〇年代の小説より落ちる」といった発言からも窺える。さらに、この座談会で、崔允は、「いま、素材へのタブーはありませんからね」と嘆き、この危機的な状況に疑問を隠さなかった。「素材へのタブー」がなくなり、多様な文学が展開されると期待されたはずなのに、何故このような逆の状況が起こり得たのか。それは、第一節で中上の視野を借りて確認したように、七〇年代から八〇年にかけて、「分断文学」や「労働文学」などに代表される、政治色の強いテーマ中心の「社会文学」が主流を形成していた故に、多様な視点と感性を持つ新人作家が育っていかなかったからであろう。この転換期に登場した新人作家とは、軍事政権下に活躍していた既存の「ハングル世代」(「四・一九世代」)作家五八に加えて、台頭してきた新世代(「三八六世代」)作家五九のことを指す。

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一九九二年に、この「三八六世代」作家の代表格とも言える張正一と朴一文の間で、「ハルキ模倣是非」論争六〇が起き、法廷にまで持ち込まれそうになるという衝撃的な事件が発生した。この事件は、パスティーシュ(pastiche)技法をめぐるポスト・モダニズム論争へ流れ込み、結局、結論が出ないまま終わってしまうことになった。だが、この事件で注目すべきは、結論ではなく、新しく入ってきたポストモダン的な風潮に適用できる基盤を「三八六世代」作家が備えていなかったことが裏付けられたことにあるのではないか。中上健次が懸念したのは、まさにこうした状況に他ならなかった。とくに、この時期、「多極的多重的なパースペクティブ」が混在する韓国文化に刺激され、自分の文学の相対化を模索し続けていた中上は、時代の変化に対応する基盤すら持たないぐらい、テーマ中心の「近代小説」に偏ってしまっていた韓国文学界の現状に疑問を抱かざるを得なかったのであろう。『物語ソウル』は、こうした当時、韓国「近代文学」の偏向に対して、それを相対化する視野の必然性を訴えるために書かれた、中上からの問いかけであるといえる。しかし、そのために、本稿で考察した中上が試みた物語の「解体」による「近代文学」の相対化が、有効であったかといえば、疑問が残る。そもそも、脱近代という言葉からも分かるように、「近代」を越えようとすること自体が、極めて「近代」的であるからだ。この点において、中上の脱近代への試みが、近代文学=西洋文学、脱近代文学=東洋文学といった二項対立の図式の上に成り立っていることを見逃すべきではない。だが、中上が関わった七〇年後半から八〇年代にかけての韓国文学界においては、中上が問いかけようとした、こうした「近 代」を相対化する視野が、何より必要であったと言わざるを得ないだろう。遅れてきたポストモダン時代の到来が、これを証明しているように。

[注] 「日流」とう言葉見のでは、韓国刊朝〇〇六・一・二)「小説市〝日流〟訳は筆による。以下、韓国語による未訳の文献についても同)の用い時は、映画など像分続く日韓流人気する、韓国の文学界起こるブームをす言葉でた。しかし、してしている。年は日本ドラマのマアを指す「日ド族日本風のパッションを指す「ニッポン・フィール(feel

いる(金恵珍「韓国におる日本大衆化の受容につい」『大衆化』創刊号、教大学江戸川乱歩記大衆文化研究セター、〇九・三を参照

韓国

出版から一〇年る一九九九年五月には、初版から

百刷を突破し(「韓国文化と座った日本文学」、『時事ーナル』一九九九九)七年には累計五〇〇万部を突破した(『韓国日報』二〇〇七・三・三〇)。そし、今続けてる。

1Q84ヶ月ぶりに百万部突破――人気爆発は何故」(『ソウル新聞』二一〇・・二七)

『東京新聞二〇〇六・三・八

夕刊

「風景のうへ――韓国の」(『中上健次下、の引用と参照は、『中上健次全集』(全一五巻集英社、一九九五~一九九六)による。但し、『物語』の引用は単行本PARCO出版四)った。の際ビは適宜省略した。

参照

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