長崎外人居留地に於ける
華僑進出の経緯について
菱
谷
武
平
一︑
二︑三︑
四︑五︑ 目 次序 言非条約支那人の居住権について支那人進出の実態の諸相について所謂﹁O臣bΦω①の器ω鉱ob﹂について
結 言一 序
言
現在︑曽っての各開港場︑開市場に展開した外人居留地は一様に時代
の推移に伴って︑全くその様相を変貌し︑その面影を偲ぶ﹁よすが﹂さ
え失ひつ玉あると言って良い︒長崎の場合︑それが比較的に損ぜられず
に残って屠ると言われて居るが︑急激な時勢の変遷は刻一刻とその居留
地の乗る基盤をゆさぶってその姿を変えつxあり︑現在︑僅かに東山
手︑南山手の山手風景にその面影を留めて居るにすぎない︒特に長崎に
於ける﹁外人居留地﹂造成の上から見て﹁基底﹂となった筈の第一期造
成の﹁大浦地区﹂は前面海上の埋立と銅座川の水路変更に依って全く変
貌してしまひ﹁≦讐①同国目Ob寅σq①い︒こと二一閏われた当時の海岸通りに
当って︑若干の洋風建築を残して居るにすぎず︑当時﹁幻$鎚σq①U9﹂
と言われた背後地の裏通りは全く変貌し尽して居る︒
最近︑斯うした居留地の乗った基盤の変動に伴い︑僅かに残された遺
物としての洋風建築の専門的な調査︑研究が関係者の手に依って全国的
に行なわれて居る様であるが︑臆てそれも消滅して行く運命にあると思 うと蓋し時宜に適した企図であると言わねばならない︒而も此の大浦地区の背後地の幻Φ鋤雷σQ①には︑此れと対照的に全く﹁取り残されて﹂忘れられた存在の老朽化した孔子廟とそれに附属して麦那人の学校﹁時中小学校﹂が位置して居る事は注目に価じ様う︒此の孔子廟は明治二五年の ﹁長崎港精図﹂ には見えないが︑ 明治二七年の﹁長崎港新前﹂ には現在地に記入されて居るし︑時中小学校の創立が︑それから後れて明 ①治の後期であるとしても︑日清通商の条約が明治四年にようやく締結されて︑その通商が他の条約国民並に取り行なわれ︑その居住権が認められ﹁外人居留地﹂と別個に昔の新地芸所跡を中心に﹁麦那人居留地﹂が成立して行く事を思うと大浦地区の孔子廟と時中小学校の存在は極めて奇異の現象であると言わざるを得ない︒ 孔子廟を日本の神社と同じ様うに支那人の信仰の対象として︑居住の中核として取り上げて良いかと言うことは疑問であらうが︑少くともそれに附属して支那人の小学校が存在して居る事実は支那人の当該地域に蝟集した過去の歴史と結んで考えて良いであらう︒従って︑此の支那人の外入居留地への進出の経緯について︑先づ如何なる根拠︑理由に依って支那人が外人居留地へ居住して行くかを考え︑次いでその麦那人の居留地進出の実態の諸相を捉え︑最後に彼等の進出が外人居留地に如何なる影響を与えたか︑居留地内に醸成されて行く所謂﹁支那人問題﹂︵○げ言Φω①ρGΦωゴob︶について所見の一端を述べて見度い︒① ﹁長崎港年回﹂には詳細な記載例がない丈けであり当時の明治二五年頃孔 子廟がなかったと言うう証明にはならない︒孔子廟創設について︑現在十 分の調査は出来て居ないが︑案外早かったものと推測される︒時中小学校 の設置は明治ωo︒年である︒ ︶
85
︵
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について
二 非条約支那人の居住権について
先づ最初に︑開国に伴う新条約体制下に非条約国民であった麦那人が
如何なる根拠に基づいて外人居留地に進出して行くかに就いて考えて見
度い︒開国に伴う居留地に於ける条約国民の居住権については通商条約
の中に︑その大綱が示され︑その細部規定は各地個々且ハ体的折衡に任さ
れて居た︒即ち現場の地方長官と駐在領事との協議に依って規定される
ものであり︑若しその折衡が不成功に終る場合は中央審議に入って老中と各国公使との協議となり︑その場合︑基準として﹁横浜の振合﹂が挙
げられて居た︒此事が当初︑外国奉行が神奈川奉行を兼帯して居留地問
題を一本で処理し言うとした真意である︒従って︑長崎の場合長崎奉行
と駐在領事との間で具体的にあらゆる問題が協議︑決定されて行くが︑
その中で今後長崎居留地を規定して行く大きな二本柱となったものが
﹁長崎地所規則﹂と﹁長崎港湾規則﹂である事は言う迄もない︒而も此
等の規則に就いては︑長崎略史所収の﹁外国商法沿革志﹂の中に﹁地所
規則の約定﹂を記しながら﹁港湾規則﹂については全然触れて居ない事
実が示唆する様に︑その性格上に著しい相異がある︒ ︵一八六〇・九・二七︶ 長崎地所規則は万延元年八月﹇五日︑各国領事と長崎奉行の合議︑調
印の上で成立した合法的なものであり︑その軍功としての﹁神奈川地所
規則﹂が︑我国の承認が得られず一方的な非合法に終ったのに対し︑領
事団の意図した支那国界に於ける﹁土地章程﹂の再現を﹁国の留﹂の長
崎に於いて成功したものとして特異の意義を持ち︑長く長崎居留地規制
の根幹をなして居る︒その内容は二ニケ条からなり︑前半に外国人の居
住乃至土地関係を規定し︑後半に居留地内の行政関係の権能−自治制を
規定した上で第一二条二施行細則を規定して居る点は全く非公認の﹁
神奈川地所規則﹂と同一であるが︑長崎の場合︑それに第一三条が一箇条加えられて成り立って居る︒此に対し長崎港湾規則については勺曽ω犀Φω日一叶ゴ ︵一八六〇●六●二〇︶パスケ.スミスに依ると既に地所規則よりも早く万延元年五月二日には 成り立って居るとして居るが︑我国は此規則の公的成立を認めて居な ℃器冨ωヨ帥夢①い︒パスケ・スミスは其著書の中に︑此の長崎港湾規則の全乳を収録して︑寧ろ﹁地所規則﹂より高く評価した感があり︑此規則が臆て各開港地に於いて援用︑実施されるに至った事を説き︑当時日本の置かれた国際的環境を..レbΦ讐ω巴 oh9①巴①σq巳讐ざbωげ○げ芝ω≦﹃讐℃o毒ΦHω≦Φ↓ΦΦ図①Ho一ωΦαぎ①図讐QみΦHぼ8目益一α鋤望ωび︽Oobω巳ω︑︑と結んで居る︒その内容は二三ケ条に渡るもので︑入港手続から船長︑乗組員の規定︑居留外人の生活規定に及ぶもので︑此を前の地所規則と対照して見ても決して重複や自家撞着するものでなく︑寧ろ鳴禽規則が一体にな ②って条約国外人の居留地内の生活が規定されて居る事は間違いない︒ 麦酒人の﹁居住﹂を認める根拠は︑此の日本側が認めて居ない長崎港湾規則の第二五条の中に在る︒ ﹁非条約国民﹂の日本居住については港湾規則の中に次の如く規定してある︒即ち一五条の前半に﹁条約国民で長崎居住を求める者は到着後十日以内に領事館へその氏名を登録すべき﹂事を規定した上で後半に黛・bα碧目しdぼけ一︒︒げωG9Φ9げ鋤く一bσqぎ三ωΦ日覧3pω二9Φg︒h鋤b軸二㎞︒bb︒け①b葺δαξ臼お舞︽8重くΦおω益①b8凶b冒嚇b鴇日G台子σq巨興夢①墨B①︒h望9ωΦ辱き↓h9芝9ω①げ①冨く㎞︒霞毒言げΦ冨5p88三鋤巨Φと規定し︑非条約国民の日本開港地居住が︵それが各開港地に援用される場合︶条約国民の﹁の輿く9葺﹂の名目で︑而もその責任下に於いて認めら 剛薗ω犀ΦωB坤げれると言う道が講じられて居る︒パスケ・スミスは﹁今後︑居留地に重大な影響を与えた規定は非条約国民は条約国領事の保護下に身を置かざる限り日本への上陸が出来ないと言う箇条である﹂事を指摘して居るが︑それがこの一五条を意味する事は言う迄もなく︑而も此の規則が非合法の片道通行のものであった点に問題があらう︒ 勿論︑此処に規定する﹁非条約国民﹂が直ちに﹁麦那人﹂の代名詞で
あったわけではない︒五ケ国条約の米・英・蘭・露・仏を除いた其他の
〆
︶86
︵
外国人は当初︑何れも当然此の範疇に入る事は言う迄もなく︑唯それ ③等の国々が日本と条約を取り結ぶ事に依って︑漸次その範疇が支那人
に絞ぼられ︑而もその数が圧倒的に多かった点に於いて此規定が支那
人の居留地進出と結んで取り上げられる所以である︒此規定が真実の
﹁ω書くぎご︵召使︶ ﹁国目℃δ団①①﹂︵使用人︶の域に留る限りに於いて
は︑その影響は余り大きくはない︒然し此の規定が利用︑逆用されて一
つの意図のもとに条約国領事の保護権獲得︵居留権︶の為めに条約国民
の﹁の①同く簿b己﹁盲溝b一〇℃①①﹂の名目にかくれる﹁段階﹂に立ち至るとその影響する所は極めて大きいと言わねばならない︒
而もその﹁段階﹂は意外に早く︑と言うよりも寧ろ﹁段階﹂もなく︑
殆んど同時的な現象として起って居ると言って良い︒条約居留外人の日
本人を僕碑其他に雇傭する事の出来る権利は条約に於いて規定してある
から召使その他の使役に関して特別の不自由はない筈だし︑外人と支那
人との結び付きば当初から一つの﹁意図﹂が潜在する︒従って︑此処に
此の白人と支那人の結び付きの源は一体那辺に在るかと言う事が問題と
ならう︒ 元来︑支那人は三人と共に鎖国時︑清蘭貿易の根強い基盤を持って居
り︑和蘭が開国と共に新条約に切り替わり︑条約締結の列強と貿易の一
線に並んだのに対し︑支那人は当時︑日蘭全権追加条約の締結の経過の
中に窺える尚﹁官貿易の夢を追う﹂幕府の曖昧な態度の中に︑従来の貿
易の堕勢の上に乗って︑後述の様に﹁非条約国民﹂と言いながらギルド
制の俵物貿易の特権を保持して居たから︑新来の外商は此に信晶出来な
かった︒開港直後︑長崎駐在の英領事の議会報告の中に﹁長崎に於いて
は従来よりの支那人ギルド制の存在に依って自国貿易の進展は期待薄で
ある﹂とある事は端的に当時の実情を伝えるものと言って良い︒従っ
て新天地に飛び込んで︑巨利をむさぼろうとする新来の﹁ζ費︒冨暮
諺α<①葺霞霞﹂が斯うした支那人と結托して有利の地歩を捉え様とする
意図とギルド制の特権を確保しつx窮屈な館内生活から脱して自由の天
長崎外人居留地に施ける華僑進出の経偉について 地を求め誓うとする支那人の意図は期せずして一致し︑而もその結合を促進︑助成したものが﹁介入仮泊地﹂の協定であったと見て良いであらうQ 鎖国時︑外人は﹁出島﹂を以て﹁牢獄﹂と酷評するが︑麦那人の唐館はそれ程のきびしい取締りはなかった︒然し支那人も特別の場合を除いては外出の許されない館内に住んで居り︑而もそれは商品販売期の三四ケ月から半年に限られた滞在で︑その数も和蘭の様に極少では無かったとは言え︑それは館内収容の限界のものであった筈である︒然し幕末︑外交の紛糾の裡に各国外船の長崎渡来が頻繁となると結果も自つから変貌のきしを持つ藻である・大村藩の勲就轟日襲奮迫ると
﹁長崎市中平常之志井唐人屋敷為取締﹂に西館前に勤番所を設け︑従来
よりあった大村藩の七口番所の一︑大浦番所と別個の警備を大村藩に命じて居るし︑次いで天保六年には唐船︑唐商の取締を厳にすべき事を命
じ﹁近来唐人共作法不冷冷に館外いたし不法之儀も有之哉に相聞﹂とか
﹁抜荷密売買之儀は前々如景仰二黒重々御制禁候喪いつとなく相紬近来専ら不正筋取扱候もの有之哉に相聞﹂の事実については容赦なく﹁召捕
大村宮内へ差置﹂と言う為心得の御達書が大村藩に届いて居る︒事実同
年末には不正唐人七五人と言う大量が大村牢屋に収容されて居るから開
国前後の唐館を囲む二二気には自つから変貌が起りつxあった事は諒解
が付くであらう︒
開国当初︑既に条約国民の﹁使用人﹂の名儀に入った麦蒔入の数は多
い︒唐館の特権を保持しつ\︑その﹁制限﹂ ﹁拘束﹂を排除し様うとし
叉不正潜入の合法化の弛めに︑彼等は長崎港湾規則の援用を求めて競っ
て条約国民の﹁ω①H︿9三﹂列に加わらうとする︒それは言わば一種の
﹁株﹂であったから自然高価な代償が払わる可き事は言う迄もない︒然
し逆に外人に取っては此の﹁高価な代償﹂は単に保護の﹁役徳分﹂に留
まらない︒麦那人の長年に渡って克ち得た地歩と背景が有形︑無形に新 ︶
87
︵
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について
団⇔ω閃Oω白一什げ来の外商には有利に結び付いて来る筈である︒パスケ・ス︑・・スは此の事
実についてho暦日pb畷唄①母ω島Φ鋤Ω<①bけ霞ΦHoすのω9DBObσq︾B①同㍗
︒きω四巳国自︒℃$bω目巴①鋤H琴鑓怠く①ごくぎαqξbOωωぢαq9①旨
①琶甘︒団震と述べて︑居留外人の中のレα<Φづけ霞①頃︒蚕ωωの長年の豪
奢な生活が此の支那人をその﹁支配﹂下に置く事に依って支えられて居
る事実を指摘して居る︒
当時は我国も政情混屯の幕末の時勢であったから投入の条約国民には
大なり小なりに一様の︾α<ΦbεHΦ村の性格のあった事は否めないであ 勺鋤噂犀ΦωB一世げらうが︑パスヶ・スミスはその中でもを諺αぐ①葺葺興Ω四ωのをピック・
アップしてその出現︑存在を地域的に限定された麦那人との結び付きと
言う﹁特殊性﹂と﹁地域性﹂に於いて捉え様うとして居る点は極めて興
味深いものがある︒斯うし﹁召使﹂ ﹁使用人﹂と言う偽装のもとでの支
那人の商行為は︑従来の○ぼbΦの①σq塩竃の商行為と別個に新しい形で
現われて来る︒彼等は後述の様に︑その長崎上陸が制限されると先づ不
正投入に当って自己の﹁隠れ蓑﹂として︑従来の唐商貿易の巨①目σ①同
ohさ①〇三bΦω①σq巳δに接触︑潜入するのが自然であり︑当然唐館前
庭の﹁広馬場﹂を中心とする所謂﹁奥浦﹂のふところに蝟集して居たの
であるから必然居留外人の︾α<①黛薮霞巳9︒ωωとの接触は当該地域に
発生する現象でなければならない︒
条約国民の為めの居留は条約面に於いて開港と同時に認められて居り
ながら︑居留地建設は各港一様に後れて居る︒特に長崎の場合︑狭隆の
地勢上極めて困難な問題であり︑開港期が迫っても完全な具体像は得ら ︵一八五六・六︶ ⑤れず︑取り扱えず安政六年の五月︑彼我の間に﹁外人仮泊地﹂の協定を
取り結んで居る︒現在その関係記録を失って居り詳細は不明であるが︑ ︾一〇〇〇犀幸いその内容を伝える長崎駐在の英領事から英公使オールコックに送っ ⑥た書翰が残って居る︒それに依ると此の仮泊地範囲は出島前面の江戸町
から内浦沿岸地域を経て南方︑妙行寺に至る広汎な地域に当り︑それは ⊃図
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︶
88
︵
後日︑居留地のb①妻8≦bの完成と共にそこに集中︑移住すべき事が約束されて居る︒此文書も当時添付された筈の図面を失って居るのでそ
の仮泊を許した正確な地域は不明であるが︑少くともその線が唐館を抱
え込んで︑その横手の兵陵の大徳寺︑十善直穿小島を含んで東山手へ
延び更に南方の南山手の単行寺あたりえ引かれて居た事は香港総監督 08薦Φω日一9ジョージ・スミスが大徳寺に於いて新教の宗教行事を執り行って居る⑦ ⑧し︑叉十善寺小島郷外停止宿所の図面が残って居るから間違いない︒
然し当該地域は海を離れた山手であるし︑海手は梅ヶ崎から南は大き
く東へくびれて大浦湾が入り込んで居り︑其処に新居留地の﹁海上都
市﹂が造成中であったから機を見るに敏な外人達が出島と押し並んだ内
浦の奥地−唐館前の広馬場に蝟集して行く事は自然の勢と言わねばなら ⑨ない︒此の居留地建設に就いては既に詳述する所があったが︑開国の前
提として逸早く我国独自の構想を持ちながら外国側との具体的折衡に入
ると我国の意図は全く水泡に帰し︑先方の意向に押されながら追次変更 ︵一八六〇・一一︶に変更を重ねて漸く万延元年十月に第一期造成の大浦居留地が一応の完
成を見て居る︒それは先にも触れた様に︑仮泊地域の中に含まれる雄浦
を埋立てる海上都市であったから従来幅広く仮住を許され而もそこに有
利な地盤を築きつ\あった条約国民を此処に結集せしめ様うとする事は極めて至難な問題であり︑その解決は長い歳月をかけて︑居留地拡大の
線に沿って﹁なしくずし﹂に解決されたと言って良い︒
大浦屠留地の竣工と共に仮泊地協定に基づいて我国は同年一二月末迄
に新居留地への移住を要請して居るが︑此に対し領事団の指導権を握っ
て居た英米の間には可成りの見解の相異があった様である︒仮泊地協定
には移住の場合の弁償には日本政府は責任を負わない事が明記されて居
る丈けに米領事は﹁自己支弁﹂に依る移住の不能な自国居留民の多い事
を口実として有利な地域からの移動を拒否︑此に対し我国は新居留の住
宅も引受けるからと受諾を求めて居る︒英領事も一応此に賛意を表した
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について ものの︑そうした処置が重て﹁ゴミく﹂とした小住宅の建ち並ぶ一種のスラム街を将来することを怖れ︑半ヶ年の猶予期間を置き期限を明年四月一日とし︑その間に資力なきものは長崎を立ち去る可きであると主張︑その意見が通って居る︒尤も此は一種の空手形にすぎないが︑仮泊地協定に基づいて英国が領事館を仮泊地の南限︑南山手の早行寺に設定 毛巴ωプして他日居留拡大えの遠大な布石を置いて居るのに対し米領事ウォールシュが商人としての≦巴ωげ陣0︒●の半面を持ちつx出島から新地に移住して居ることは両者の著しい性格の相異を示すものと言って良い︒ ζ団げ⊆おげ b一80閃 英副領事マイバーグは此問題の処理について︑公使オール・コックに ⑩次の如く報道して居る︒ 暗記i9Φ︒巨b①ω①σq乱δに接続した広馬場を中心とする地域には米 人を中心とする多数の条約国民が仮泊して居り︑彼等は支那入と結托 して不正な商行為が行なわれつNある︒彼等は支那入に﹁使用入﹂の 名儀で居住権を与え︑それに伴う可成りの収入がある上に商売上の有 利︑密輸その他の便宜を獲得するから品物を高く買い︑安すく売って も正規の居留外人よりも優位の立場に立って居る︒従って此際広馬場 に生じたあらゆる悪徳を一掃︑人員を陶訳した上で外人︵支那人をも 含めて︶を新居留地に転住させ﹁より公平な﹂貿易を実施すべきであ るQ以て当時の実態を理解出来るであらうが︑此の外人の支那人との結合の問題は居留地内に於ける全体と個の関係に於いて利害が相反する性格を持って居た丈けにその推移は極めて微妙である︒
② ①
霊輿①ωB博げ︑︑薫Φω審遷しd母9泣きωヨ冒℃聾口餌巳口︒﹃目︒銘ヨ臼︒軍
βσq餌≦鋤U四矯ω︑︑
外務省所蔵記録﹁条約改正参考の為め各開港市アル府県ヨリ上申シタル書
類調査案︵コンニャク版のもの︶の中に﹁︵長崎県︶一定ノ港則ヲ設ケザ
ルハ神奈川県ト相同ジ︵中略︶英米両国領事庁二丁長崎港取扱規則ト題セ ︶
︵ 89
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について
④ ③
⑥ ⑤
⑦
⑧
⑲ ⑨
ル定規ヲ壁派出ケ壇二長崎港ノ位置等ヲ制限セリ此規則ハ曽ッテ旧幕奉行
ノ認可ヲ得シモノト唱フレトモ其証挙グルニ由ナシしと見えて居る︒
尚此の港湾規則が少くとも居留地内に於いて有効に支配力を持って居た事
は暮Φ乞お霧9匠三図℃話のω︵<o一.ワ例︒●二心︶言5ΦHO夢H︒︒凶の中にも見
える︒幕末万延以降慶応に至る間に左の六ケ国条約か締結調印されて居る︒
日葡条約
日普条約
日瑞条約日白条約
日貸条約日丁条約 万延元︒ 六・ 七締結万延三︒=一︒二ご締結文久三・一二・一九締結慶応二︒ 山ハ〇二一締結慶応二︒ 七︒一六締結
慶応二︒一二︒一七締結 文久二︒ 三︒一〇調印文久三・一二・二二調印慶応一︒ 五・一四調印慶応三︒ 八・一三調印慶応三︒ 九︒ 六調印
慶応三︒ 九︒ 四調印
大村市御厨文庫
安政六︒五︒一四英口領事オールコツ書影長崎奉行へ﹁外国人居留地の
件﹂幕末外国関係文書
℃拐屏Φω巳夢㌦︒を①ω富ヨしU鎚びp・目坤きω.︑剛・鵠ω○所収の文書内容
Ωσo謁Φ6個日一寸..6Φ5望Φo閑ω一p宣O①旨︑︑
安政七年外国人借家篁件︵自第一号至同一七号︶地図二養崎置所外務課
拙稿﹁長崎外人居留地埋立に関する四一古今について﹂
℃器貯①ω琶詳互..芝①馨曾pしd錠σ三尊5の︑.℃●め端坐潟
三 支那人進出の実態の諸相について
饗した支那人の屠留地進出は言わば日本側の黙許の裡に居留地内に起
る現象であったから﹁麦那人進出の実態は公式表面に強く現われて来な
い︒日本の最初の外字新聞﹁§ΦZp⑳蝉ω鋤匹ωげ首℃ぎσqい一ω一9bα︾げf ︵文久元年五月一五日︶①同ゴω2﹂は長崎に於いて一八六一年六月二二日にその第一号を出して
居り︑其中に当時の極めて規模の小さかった大浦地区の現状を展望して ①居るが︑その一節に
甚Φ酔︒妻b毛器9①b四窪Φ8ωξO︒二鋤団︒おおづ蜜蕃ぴζ①のω諺 を器︒巨Φ冨巳9目冨bざσ︒二冨お≦器巴﹁$身g①言Φぐ冨げH① 〇三b①の①8日需葺oH一b9①冨話obO暁鋤宗同・ご諺b寓G一・とあり︑外人洋服商の出現に当って逸早く麦那人の洋服蛇遣諺b団巳︵李安元?︶が店を構えて居て張り合った事実が誌されて居るが興味深く︑注目すべき記事であらう︒外人商社を支える居留地諸機構の中に斯うした麦那人達の進出は想像出来ても︑表面此を物語る資料はなく︑恐らく此が居留地に支那入の名の見える最初かと思うが︑それから五︑六 ︵慶応二・三年︶年の後︑居留地が整備された一八六六・七年には可成りの麦那人の居留地進出が窺える様である︒ 上海で市販された一八六七年用の﹁い一馨oh聞︒お茜b国obαqω餌bα ②幻①ω乙Φ暮の﹂は上部に地割︑地番入りの居留地図をのせ︑陛下に地番毎の坪数︑借地人名︑居住者名が記入されてあり︑それにアルファベット順の﹁じ凶珍Oh国①の竃Φb房﹂が付いて居るので︑現在﹁O旨①08身﹂を失って居る長崎居留地の研究には極めて貴重である︒勿論︑下中には非条約国民である支那人の氏名の記入はないが大浦地区に六件︑出島地区に
一件計七件に及んで外人借地の中に﹁︒三bΦω①頃Obσq﹂と記入されて居
る︒而もその記入形式が地所に依って単︑複数の区別があるから地所は
七ケ所でも麦那商社の数は件数を遙かに上廻って居たと見て良い︒而
もその大浦二二番の〇三bΦω①缶︒づσqωには︵↓oo冨目B讐︒三︶と註が
入って居ることは注目すべきで︑当時既に大浦居留地の裏通りに当る
幻のP︻Qσq①の一角には一種の﹁唐人町﹂が出現して居た事実を想定し
て良いと思われる︒然しその商社名︑支那人名はなく︑又九件に及ぶ
↓$霊ユbαq国ω室屋一ωび目①bけ︵茶短所︶には可成りの支那人が活躍し
て居る筈に不拘︑その記載はない︒
幸い長崎の県立図書館に旧居留地掛の保管に係る﹁外国署名員数書﹂
﹁外国人名調帳﹂ ﹁﹁外国人麦那入名前調帳﹂の類が保存されて居り
その中に白人と共に支那入記載がある︒尤もその記録類には記載形式に ︶
︵ 90
多少の差異があり記録の疎密もあり︑叉文久二年の分は僅か一ケ月分し
か残って居ず︑丈久三年︑元治元年は三ヶ月分が残って居るにすぎな
いが︑その後は大体に於いて揃って居るので︑此等を整理して見ると 二八七〇︶
(一
ェ六二︶文久二年から世羅が正規の条約を取り結ぶ前年の明治三年迄の幕末︑維
新の極めて微妙な九ヶ年間の外人居留地の動静を窺う資料が得られる様
うである︒従って此等の資料に基づいて各種のデーターを整理して︑外 人居留地に進出し
拗
平
峰
表 移
推
の
再進
地
回居人外
阻の
1 遡
表
考
払
出 寒
梅ケ崎
手
山浦
大
支 伯
浦
大
南斜
ン ロ
棟
北
皿1
支 三白 人 ︐︑傾
■4 斜 11
91
総 数
潮
07
レ勿久
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31
−一 2
匹︐︐屍︐
圏副図咽の酬久 治紋玩
63@64
18@18
1訓
8 7
︐垢︐︐1
扇
踊−
一
画矧
応 D
65 峻
18
釧
支帯 那那 人人 ︻∠︵∠一13S2㎝
地内.新館
8
5 10
3︐川︐慮
21
︐︐雌︐︐
㎜螂 謝 醜
の
峻応 66 18
一減目債 21 田 増
の
峻応 67 18
4
磁︐短−
㎜ 鵬 鰯
︑1 2
︐︐屠︐︐睡
﹁郷面
ら
44
治一 D
棚一
1868
勿治
69 鰯
18 剖
短, 2
摩
鵬
画
鵬
釧黒
棚
1870
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について て行った支那人の実態の諸相を窺う若干の調査表を作
って見た︒
表e﹁長崎外人
居留地進出の麦那
入推移表﹂は﹁長
崎外人居留地投入
の外国入推移表﹂
と﹁長崎外人居留
地進出の支那人の
地域別推移表﹂の
二表を便宜一つに
まとめて︑麦那人
の外人居留地への
進出を白入の投入
との対照の上で︑
その﹁時間性﹂と
﹁地域性﹂を窺う
としたものである︒
先づその時間的推 移を見ると居留外人の総数は警守人を含めて︑此の約十年間の推移の中で三二・五倍に増加し︑その内訳を見ると正規の居留外人の白人が二倍︑非条約国民の支那人が三倍に増加して居り︑居留地に於いて支那人の占める割合は50%から66%にのびて居る︒遺事は外人居留地の居住民の半分以上が非条約国民の麦那であると言うことであるが而も此の支那 ︵一八六八︶人の数は長崎在住の麦那人の全体ではないのであって明治元年に於いて︑新地住居及館内住居の麦那入を合せると合計七四三名になるから︑同年その中の40%が居留地に進出して居たことになる︒ 次いでその地域性f麦那人が居留地の中のどの地域に進出して居るかを見て見るとその殆んどが大浦地区に集結して居り︑その全体比は最高99
刀A最低でも90%で︑慶応年間の出島の特殊現象を除けば極めて僅か
な数が山手の東山手︑南山手に見られるにすぎない︒表の中に大浦を︵1︶︵皿︶と分けてあるのは︑図eに示す様に︑居留地の大浦地番は大
浦川の対岸の下り松︵松ケ枝︶へ延びて居るので大浦三三番迄を︵1︶
とし︑対岸の三四番以下を︵皿︶として区別したものであり︑麦踏入集
結の大浦地区を︵1︶に限定したのである︒明治三年の﹁長崎港図﹂の
中に﹁外人居留地十万余丁︑支那人居留地二万坪余︑上中下三等の差あ
り﹂と附記してあるが︑此外人居留地十万坪の中で大浦地区︵1︶の占
める地域は上等地白六千九百坪︑中等地約一万五千五百坪︑計二万二千
四百坪に当って居り︑此の一劃だけに焦点を絞ると半分以上が支那人で
あると言う外人居留地の全体的様相は更に著しく趣を変えることにな
る︒その為め大浦地区︵1︶の居住白人の数を記入して︑比較して見る
と全体的に60%の中皿人の対比は白人の五倍−七倍となって居り︑大浦
地区が外人居留地と言うよりも寧ろ麦那入居留地の様相を呈しつxあった事が窺えるのである︒
ではこの様に異常な進出をする支那人の居留地投入の形態はどんなも
のかと言うことである︒尤も﹁投入形態﹂と言っても﹁居住権獲得につ
ながる形態﹂と言う内面的考察と﹁白人と同居が独立かの形態﹂と言う ︶91︵
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について
外面的考察の二つの面があるが︑先づ後者に関して表口﹁居住形態から
見た麦那人進出の推移表﹂を作って見たのである︒即ち支那人の居留地
に於ける居住形態を一地所に白人と同居するものと独立するものとに分
け︑地域別にその件数︑人数を年次別に整理したものである︒表中の数
字は規準を各年次の十月に置いてある関係上年平均で求めた表eの数 ︵一八六二︶字と必ずしも一致して居ない︒此表に依って既に文久二年には支那人独
立の居留地所五件があり︑そこに三二人の麦那入が住んで居ることが明らかであり︑それは後述の︑その前年一八六一年六月のζ瓢註︒首巴
Oo¢bo一一の決議書が指摘した﹁ω虹び−一〇叶鉱bαq﹂ の事実と符節を合せるも
のと言って良いであらう︒爾後︑支那人の独立地所は増加して居り︑
(一
ェ六二︶丈久二年次︑白人と﹁同居﹂して居るものN方が﹁独立﹂して居るもの
に対し︑件数で三倍︑人数で二・五倍であったのに対し︑その後次第に ︵一八七〇︶其比は変化して︑明治三年次は逆に件数は同等となりながら入数では
﹁独立﹂のものが﹁同居﹂の二倍になって居る︒而も慶応年間から件
数︑入数共に多くなって居り︑それも﹁独立﹂のものが目立って多くな ︵一八六七︸るのが特色で慶応三年に焦点を置くと件数が最高の二八件︑その内同居
のもの一八件一三五人︑独立のもの一〇件一七三人となり︑当時の居留
地総地所一四〇ケ所の20%に当るし︑更に地域を大浦地区︵1︶に絞る
と一九件で︑その総地所三三ケ所の60%を占めることになる︒
前者に関して表国﹁手続形態から見た麦那人進出の推移表﹂を作って
見た︒ ﹁外国入名員数書﹂の類に記載される麦那入の型には︑肩書のあ
るものと無いものとがあり︑肩書に﹁召使﹂とあり明らかに規定に基づ
くの①赤く鋤暑と銘打てるものとそれに﹁附属﹂と言うのが圧倒的に多
い︒外に菓子屋・仕立屋・料理人・妾・書林などと業種を示すものが若
干あるが又全く何等の肩書もないものも可成り多い様である︒ ﹁召使﹂
が主に山手住居地付である事はホ.・推諒が付くが外人商社群の企業化に
伴って大浦地区には可成りの茶製所︵臼①鋤霊鼠bσq国ω釘三凶のび目Φb侍︶が
表
移推
の
出進人肉支た見
.勘カ態形
住
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表
70 4
沮 18
69
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68コり
睡
67」り
国
66」り
睡
65コり
5 18
94 18 10 63
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18
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数
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計 15
白人と同居形態
31
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10 78
巨
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71鵬
i8一囲
d
74
11
9
51 蜴 41 31
51 32
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11手
山
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11 22
11
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31 11
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51 32
計
支那人独立形態
61
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27
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13
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計 20
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︵
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表 3
備 考
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の
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他
其 普葡蘭回米再
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伎久
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鵬
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8
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16 7
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三
七
65 18
10 4412
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11
37
11
23
15
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6の16 P8
一匡 10
38
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18
10 12
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15
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11
20 11 14 3
35 75
1
︶444ロ﹂−←1 ︵
9
88﹄ D 治 棚
68 18 中なで料の論いがどたひえが捉差で落間し
95 皿
8一75 2
の治
棚
69 18
38
38 3
治 の 3
棚
70 18
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について 設立され︑そこに可成りの三三人が﹁附属﹂の形﹁肩書無﹂で見えるから此奴の①目覧︒団①Φも多かった筈で︑﹁召使﹂に近い﹁附属﹂も考えられるし又県立図書館には﹁唐商︑成記号より本籠町福島屋忠太郎相手取貸金滞候﹇件﹂に言う唐商の通債一件の書類群の中に﹁英商ゴロウル附属支那人︑久記号より本籠町住居商人菱屋安兵衛にかxり候一件﹂と言 ロ うが如き附属支那人の通債一件記録も若干残って居るから形式上は雇傭関係にあるが︑その実︑雇主に﹁寄留費﹂を支払いながら商取引の便宜もはかってやり︑︑σq一くΦ鋤bα雷瞬Φ.︑の﹁持ちつ持たれつ﹂で︑雇主同様の生活をし経済的実権を握って居たと考えられる﹁附属﹂も居た事は明らかであるから﹁附属﹂の幅は極めて広く︑それは居留地居住の麦焦入の前述の﹁召使﹂と後述の﹁其他﹂の間に介在した中核体をなすものと見て良いであらう︒ ﹁其他﹂は﹁召使﹂ ﹁附属﹂の肩書のないもの︑仕立屋・料理人・菓子屋・妾などどちらにも入れにくいものを一括して便宜名付けたものである︒では︑その正体は如何なるものかと言う事になるが︑パスケ・スミスは白入の使用人として支那人の居住権を認めた事について 麦那人の身元が非常に判りにくい為め支那人が源となって奉行と領事 の問にしばくトラブルが起った︒その為め本当の雇用人かどうか証 明する為め奉行は雇傭された麦那人には特別のパスを領事から与えさ せたが何の役にも立たず︑支那が条約国になる迄種々の弊害は絶えな かった︒と述べて居る様に︑正規の手続を経ずして居留地に多数の支那人が込り込んで居た事実は否定出来ず︑言わば一種の﹁ヤミ行為﹂のものと断じて良いであらう︒表に依って判る様に﹁召使﹂の数は極めて少く而もその数の大半は表0の山手の数に一致し︑﹁附属﹂を中核として﹁其他﹂
﹁召使﹂が雑多な構成を以て表eの大浦地区︵1︶に集結して居る事が
明らかである︒而もその﹁附属﹂の数が圧倒的に多く︑それが居留地進 ︶
93
︵
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について
︵一八六五︶出の麦那人の中核体を為して居る事が判るが︑それも慶応元年迄は増加
の一途を辿るが以後その数が漸次減少し︑それと同時に︑対照的に﹁其 ︵一八七〇︶他﹂が増加して行き︑明治三年には総てが肩書を外して所謂﹁其他﹂の
枠組に変ってしまって居る事は特に注目に値し様う︒
恐らくそれは﹁附属﹂と﹁其他﹂との限界は極めて漠然たるものであったから支那人の取締りが厳しくなると肩書のないものが﹁附属﹂の株
を買って︑その保護の下にかくれ︑叉﹁附属﹂の株を買って居留地内に
潜入する不正麦那人の数がふえ︑それが緩むと﹁附属﹂の形から離れて
居留地内に勢力を伸ばして行った経過を示して居ると思はれる︒後述の
﹁甚①Z①σQ四ω四匹写図器Φωω﹂の社説の中に﹁身元証明のパスが殆んど無
視され︑日本官懇の禁止の掲示も支那人に嘲笑を以て馬耳東風と聞き流 ︵一八七〇︶されて居る﹂時勢を嘆じて居るから恐らく同新聞が刊行された明治三年
には既にコ肩書﹂の魅力は失われ︑無力と化したものと断じて良いであ
らう︒ 次ぎに此等の麦那人が如何なる白人に寄留し︑所属関係を結んで居る
かと言うことである︒その為め中核体である﹁附属﹂に焦点を絞って作
った﹁附属麦那入の白人所属関係推移表﹂を簡単化して︑便宜表⇔に追
補して見た︒尤も此の場合︑統計資料を各年次の十月︵十月の資料を欠ぐ場合は他が取ってある︶を基準として居るので︑年平均値で出した
﹁附属﹂総数の基本数に若干のクルヒがあるから︑それを総数欄に﹁カ
ッコ﹂で記入してある︒両者の数字に著しい差異の見られるのは年間に
於ける外人居留地投入の異動の著しかった事を意味する事は言う迄もな
い︒此の表に依って判ることは支那入の白入所属関係が意外に極めて少
数の特定の白人に限られて居ることである︒一転語を下せば︑それは又
進出の麦那入が集団的に特定の大浦地区にかたまって居ると言う事にも
なる︒ 幕末︑維新の此の九ケ年間に﹁附属﹂の支那人が所属関係を結んだ白 人の数は総二三名にすぎず︑その内訳は英人一〇が最も多く︑それに続いて米人四︑蘭引三︑葡人三︑色人二︑仏人一であり︑年次的には
(一
ェ六二︶文久二年︑六九人の﹁附属﹂が英米二国の五入に独占されて居るのが最 ︵一八六五︶低で︑最高は慶応元年︑二一八人の﹁附属﹂が英︑米︑仏︑蘭︑葡︑李六ケ
国入一四人に独占されて居るにすぎない︒此等の白人は集団的に居留地
進出の支那人を握って居り︑それはパスケ・ス︑ミスが指摘した所謂﹁支
那入と結托して豪奢な生活をする︾Ω<①二二ΦH︒冨明﹂の一群である事
は言う迄もなく︑調査の上に浮び上って来る外人の顔触の中に︑英人のO目︒く︒同 Oδo日 ︾一け 窯巴ωげ O僧団日⇔5居げゴロウル︑グルーム︑オールト︑米人のウォールス仏人のカーイマソス︑
︾αユ四口 いO仁円Φ酵O 囚ロ一h自Φ村学人のアテリアソ︑葡人のローレイロ︑李人のキニッフルの名が見える
が︑何れも当時一流の外人商社群の顔役である事は興味深い示唆を与え
るであらう︒
斯うした麦那人の居留地進出の実態は臆て支那人商社の成立を見て行
く事は自然の勢であった︒記録の中から所謂﹁商社﹂としてピック・アップして行くについてはその限界に微妙なものがあるが一応の規準に基 ③ついて︑各商社名と数を年次別に整理し表⑳﹁麦那人商社の推移表﹂を
便宜︑件数と商社数だけで示して見た︒支那人の商祉は言わば支那人の
﹁一本立﹂する姿であるから︑形態的に言って﹁独立型﹂の﹁附属から
離れた肩書なしの型﹂であるかと言うと︑発展過程から言えばそうで
もそうスッキリした系列化は認められない様である︒即ち白人の﹁附
属﹂の形で︑白人と﹁同居﹂しながら商社を営む支那人もあれば叉スッ
キリと白人の﹁附属﹂から離れて﹁独立﹂した地所に於いて商社を営む
麦焦人もあるのである︒表に依って判る様に支那人商社は慶応年間に僅
か一件丈けが出島に見られ︑その殆んどが大浦地区︵1︶に集結して居
り︑時代と共にその地域を拡げつx数を増して居ることが窺える︒ ④ 表中大浦一〇番で一線を引いてあるのは借地料に差等のある局層obサ
黛。
ミq@の上等地と肉①蝉舜ひqΦの中等地を区別したのであって︑楽章人商 ︶
︵ 94
社群の主体が居住支那人に支えられながら大浦地区の裏通りに当る中
等地の特定の場所から派生︑展開して行く事が一目瞭然であらう︒
(一
ェ山ハニ︶丈久二年には大浦二二番の一件一地所に三つの商社が出来て居るにすぎ
︵ D
表 移
推
の
社商
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表 1旙1幡4番103番131番153番181番201番221番29件9
16
1旙1幡3番103番131番152番18番420餅1番221番29件10
17
ユ旙1幡4番101番13
卸15 1番173番18番3一20餅15番221番251番29件12
22
2幡3番102番135番222番251番29
剛番33 ユ番22件8
17
1幡3番103番13ユ番141番151番167番221番23
剛番33 1番22件10
20
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祖番33件4
10
10鰯1ー妬鵬da鵬01卸鵬ー
2番101番151番161番22件4
8
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3
「
大 浦 島出数件総数社商 ないが︑それが慶応年間から急激に増加し︑而も大浦二二番から派生して件数に於いて一〇件︑商社数に於いて二〇社にふくれ上って居る事が判る︒而も最初の大浦二二番の三つの商社︑大昌号︑森大号︑長益号の 商社名は既に見えず︑新しい顔触の商社名に代って居る 事は大浦二二番を母胎に︑麦那商社群は拡大しながら︑ 其間可成りの変動が行なわれた事を暗示し︑それは当時 の外人商社群の辿った運命推移と軌を一にして居る事は 興味深い︒ ︵慶応三年︶ 今︑先に述べた一八六七年用の﹁=20h句o同虫σqb 国obσqのpbαΦω一αΦb房﹂に基準を置いて︑表⑳の中か ︵一八六六1六七︶ ら慶応二︑三年の麦那人商社の具体的推移をクローズ・ アップして表田コ八六六ー六七年の支那人商社の推移 表﹂を作って見るとその具体像が把捉出来る様である︒ 此に依って﹁い一ωこの記す〇三b①のΦ国obσqωの商社名と 社数か自つから明らかであるが︑はげしい変動の最中で あった丈けに若干の誤差も生じて居り叉〇三bΦω①類oロσqω の記載なく支那商社の見える箇所も可成りある︒唯出島 二四番はO﹃ぎΦω①缶Obσqとあるが日本記録には記載は ない︒恐らくそこは橋ぎわの門見張番所になって居るか ら何等かの錯誤ではないかと思うが現在不明である︒尚 此を表⑳と対照すれば同年次の件数と商社数の且ハ体像が 明瞭となるが︑同時に地所の﹁同居と独立﹂︑商社の所 属関係の﹁附属と肩書なし﹂が明らかとなり︑同居より 独立へ︑附属から肩書なしえと移行しながら件数︑商社 数に多少の変更はあってもその含む支那人群は増加して 居る事が窺える︒ 附属と肩書無との関係︑限界については先にも述べた
様に極めて曖昧であり︑性格的相異が見られない様に同 ︶
95
︵
長崎外人居留地に於ける華僑進出の経緯について