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大正・昭和初期における商い船研究序説

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大正・昭和初期における商い船研究序説

一長崎県西有家町の須川船を一パターンとして−

西川源一

I はじめに

Ⅱ 須川船に関する資料と方法論

Ⅲ 須川船の歴史的背景

Ⅳ 須川船の活動とその商圏

Ⅴ その商業資本の性格と意義

工   は じ め に

須川船とは長崎県南高来郡西有家町の須川港を拠点とし,同町が素麺の特 産地であるところからこれを商品として,九州西北部の海岸線や離島海域一 帯を商圏として活躍した「商い船」である。その発生の時期は明治初射こ繋る と恩われるが,明確にこれを託する史料に欠け,大まかに云って明治20年前後 を画期として,かなりの須用船が存在するようになったと推定される。その 最盛期は大正・昭和期であるが,昭和についてはとくにその初期に限られる のは,その商品が食糧を主とするところから,戦時中の統制により廃絶した からである。戦後においても食糧事情好転の時期を迎えて少数ではあるが再 び姿を現わし,現在もこの海域の一部を巡航している。

ところで長崎県は地形的に見れば,その某幹部は肥前半島に属し,これは さらに分肢して島原,野母,西彼,松浦等の小半島となって多くの海湾をつ

くり,また五島列島,平戸,壱岐,対馬の離島部は県面積の45ノ1−セントを 占め,そのため全国的にも離島県の名を垣にしている。さらに南に散らばる 熊本県の天草諸島を含め,これらの海域を好個の商圏として,前後1世紀に

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わたり,商品流通の担い手として須川船が果した役割は決して軽いものでは なく,わが国商業史の上から見ても看過できないものをもっていると思われ

須川船は別称「そーめん船」として,早くから一般に周知のことである が,しかしその実態については必ずしも明かではなく,僅かに市川信愛氏が かつて長崎談叢誌上に「そーめん船の乙と」として取上げられたのが唯一の 文献としてよい。乙のことは,本土側が明治期以来,資本主義商品流通機 構に組みこまれてのちも,この海域ではその潮流から取残されて前期的商業 資本による前期的商品流通の遺存形態がながく行なわれたことについて学界 の評価までに至らず,それはまた研究対象としても現代史の死角の中にある ことから識者の関心を喚ぶに至らなかったものと考えられるO 乙のたび端な くも須川船に関する研究の機会を得て,ほぼその全容を明らかにすることが できたと考えるので,これらを集約的に述べてみたい。

みよ L

l汎船時代の須川船姿図,植木清之助氏自隼回 須川船に関する資料と方法論

叙上のように須川船はすでに明治期以来の伝統をもち,その盛行期と思わ

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れる大正・昭和初期には50""'60般の帆船がこれらの海域を頻繁に往来し,か っその活動の時期も現在に近接しているところから,その資料l乙事欠く乙と はないように思われがちであるO ところが事実は乙れに反し,須川船は第2 次大戦時に消滅してから今ではすでに30数年を経過しており,商い船業者の 手によって作られたであろう多くの帳簿類なども,戦中戦後の資材不足に災 いされて殆ど散伏,消粍され,もはや注減に瀕しているoそれは同地の旧須 川港の大部が既に埋築され,眼前にあるものは近代化された大築港で,かつ ての須川船の船影はどこにも見当らないのと似ているo

また後ζ も述べるように須川船の活動は何の権力機構にもよらない個々人l の自由競争を原理とする商法であったので,拠るべき何らの公的資料も作ら れず,乙の分野については当初のほのかな期待にもかかわらず一片の資料も うる乙とはできなった。それはまた須川船との関連において当時の銀行や海 運関係についても調査したが,自社創立の年代さえも不分明であり,一口に 明治,大正とはいうが,それは厳しいまでに世代の交替を示し,史料的には 特に明治は遥かに雲姻の彼方に在るおもいである。

乙の中にあって研究に曙光を賓らしたのは当時の須川船商人であった西有 家町須川名字灘の泉屋商居主,植木清之助氏(明治29年生れ, 77才)の帳簿 類と,当時の同業者で今では雰々たる数名の現存者にめぐり会えたことであ った。とくに植木氏は高齢ながら至って元気で,その精細な帳簿についての 説明や,須川船についての明断な解説は他の多くの元業者の懇切な証言と併 せてまことに貴重なものであったし,またこれが10年も先でなく折よく機会 をえたことは天佑というも過言ではないであろう。同氏の手になる帳簿類は (1)  大正2年から昭和15年までその間約30年にわたり,仕入関係,売上関係を2 本の柱として附属書類など百数十点に上り,大正期に属するものは上質和紙 の大福帳式のものに毛筆で記載されており,また昭和期に入って普通に用い る出納簿にペン書きされているo

同氏は小学校高等科を卒業と同時に当時の土地のしきたりに従って進学の 素志をすて,父の家業を扶けて商い船に乗り,傍ら経理や簿記の講義録を取 りよせて勉強したということであるO 従ってこれらの帳簿類は単に商業用の

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実務に聞に合えば以て足れりとせず,日々の辛酸を記録して将来の方途を講 ずる指針とするその真草な営業態度の一つの表現とすべきものである。しか も全く他人の手を藷らず夜に入り船室のほの暗いカンテラの灯の下で作成さ れた彼の業績であったし,それ故にこそ商い船の廃絶後も棄てるにはいとお

しい記念塔的な意味において,残存資料となりえたものと思われる。

ところでこれらの帳簿を披見して知られることは,彼は自らその商い船で ある豊繁丸に乗りくみ,専ら野母半島の全域と西彼半島外海地方をその販路 としており,従って須川船全体の行動商域の中で,この地域に限られた内容 となっているのは当然のことながら余儀ないことであるD このほか,須川名 下八回,佐藤喜惣平氏の下五島方面を販路とした昭和9年度の大福帳がある が,これは部分的で充分なものではないO 概して当時の同業者はそれほど九 帳面に帳簿記載をせず,ただ売掛金の心覚え程度のメモで済ましたようで,

植木氏の場合も先代鶴松のとき,ただ一冊,明治41年 に つ く ら れ た 帳 簿 も 単に「金貸記」となっており,その内容は同じく売掛金のメモとなってい O

以上によって,本稿主題の研究は唯一の完全な残存資料として評価できる 植木氏の帳簿についての実証的研究以外には手がかりは得られない。そして この資料を駆使することによって当時の商い船,この場合は須川船業界の全 般に及ぼすことができれば乙れらの資料はさらに有用なものとなるであろ O しかし,植木氏の帳簿がいかに精彩を放つものであっても,それはあく までー業者の,かっ一地域に関する資料に留まるべきものであるという原点 認識は堅持されなければならない口後l乙述べるように須川船の主商品である 素麺にしてもその需要や選択には地域差が見られ,また船体の大小,職能の 分化その他,同じ須川船であっても,その各種の条件は必ずしも同一ではな いからであるD

一例をあぐれば,植木氏による素麺の積荷量を帳簿によって検出しえて も,これに当時の須川船の隻数を乗ずることによって,単純に須川索麺の積 出総量を導くことはできない筈であるD 従ってそれはあくまで一事例とする とともに,他の元業者らの証言によってこれを補うしかないであろうo これ

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らの諸点をふまえたうえで同帳簿を見るかぎり,これを以て単なるモデノレと はせず,これらを素材として種々の徴表を抽出することによりマックス・ウ ェーパーの「理想型」的思考も可能であり,これによって須川船という名の

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「商い船」のパターンが得られるものと考えるO

例えば植木氏の商い船であった豊繁丸は約2万斤(積載重量)で五島方面 への外洋を航するものより小さく,一方天草方面の内海へ向うものより大き かったo ここで誤解を招くおそれがあるので断わっておかねばならないの は,それは決して単に平均的であることを求めたのではないことであるo 体の大小を取上げたのは先づその堪航条件にかかわるものであるが,それは 同時に積載量や資本規模などとの適合関係においてー徴表をなすものという ことができるo同様のことはまた販売取引の仕方や,延いては商業資本の運 動の形式G‑W‑G'についても多くの徴表を得ることができるo このよう に諸要素を抽出する乙とによってパターン認識のもつ索出的役割が期待でき るのではないであろうか。

これについて今回の取材行でえた一つのエピソードを紹介しておきたい。

それは須川船商人たちが行なった取引の内容やしくみについて個々に面接し た数名の元業者の話をきくと「自分は卸しが専門で,小売りはやっていなか った」という人が殆んどであった。ところが,そのように語った人のことを別 の業者によると「あの人は小売りが専門であった」と,それとは全くうらは らの証言で戸惑うことがしばしばであった。数十年間も同業者として相互に 相手の商法を知悉した間柄でありながら,その証言に乙のような矛盾を生む のは一体どうしたことであろうか。それは各々の販売地域が異なっており,

そのへんの正確な認識があってのことではないと考えるのが一応妥当とされ るであろうD と同時に離島僻地を相手とする場合の販売方法が都会地の流通 機構のそれとは多分に異質のものであることから来る表現上の混乱として受 けとめる見方も可能であろうO

このことはむしろ,はじめに述べた前期的な商品流通の形態を掘り下げる ことによって,この場合の卸しとは何か,小売りとは何かを概念的に洗い直せ ば,自ら別種のパターンが得られるわけであり,それによってこのような矛

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盾も抵抗を感ずることなしに受取ることができょうし,それどとろか,その ような表現にも微笑をもって応えることができるのではないであろうか。

須 川 船 の 歴 史 的 背 景

それでは須川船というのはいつの頃からどのような事情で乙れらの海域に 姿を見せたのであろうか。このことを明らかにするためには,大正,昭和初 期を内容とする植木氏帳簿はしばらく措き,これについて直接陳述する史料 がなければ,他の多くの文献や伝承などの傍証によって推定する以外に途は ないであろう。そ乙で順序として次のように見てゆくのを便宜とするO

1.  西有家町が素麺の特産地として成立した事情 2.  素麺の商品生産を喚起した需要の背景 3.  その販路を担当した商い船発生の経緯

旧須川港. (須川河口部)昭和 48.1.15筆者撮影

先づ特産地である西有家町は長崎県の穀倉と呼ばれる島原半島の東南部に 位置し,後に雲仙岳山塊を背負い,前面は有明海に臨んで須川港を抱いてい る。同町は北に隣接する有家町とともに,旧藩時代にはそれぞれ隈田村,有 家町村と称し,ともに在町場としての地子免許の取扱いをうけ,本郡南白地

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方における商業のー中心とされていたD

(3) 

この地方は寛永15年(1638)の島原の乱で無人の荒野と化したところであ り,乱後l乙就封した高力氏のとき幕府の移民政策により他領から来住したも のが多く,現在の住民はその後育であるとされており,また素麺製造の技法 もそのとき四国の小豆島から招かれた先祖が伝えたものであると伝承されて いるO

にも拘らず素麺lこ関する伝承を裏付ける史料が全く見当らないのは一体ど うしたことであろうか。松平藩政期の旧史料にも温鈍についての記事は散見 するが,乙れは素麺と同類とは称しながら,その技法も異なり似て非なるも のであり,しかもそれは特に有家地区を指してのことではないD 素麺が史料 の上で明確に現われるのは明治9年の「各区農産表」が初見であり,さらに 明治26年の「南高来郡町村要覧」によって当時の西有家村,束有家村,大三 東村等がその産地としてクローズアップされるのであるo

ところで有家地区が索麺の特産地として成立した事情について一般に云わ れていることは,こ乙からさほど遠からぬ深江村に良質の小麦を産する乙 と,その製造に必要な塩をつくる塩浜が附近にあったとと,そして年聞を通 じての気象条件がその製造に適していた乙となどがあげられている。本稿主 題の須川船とのかかわりあいにおいても,乙の地区の特産地成立の時期やそ の生産量の推移は重要な意味をもつことであるが,以上の説明はただ素麺特 産地成立に必要な立地条件を示すにとどまり,何ゆえに特産地になりえたか

という歴史的説明は施されていないO

このことを明らかにするためには,明治の変革期におけるわが国の政治,

経済,社会制度についての時代的背景を知ることが必要であろう。云うまでも なく!日藩時代は全国おしなべてそうであるが,生産も流通もすべて封建的な 領主経済の枠内で処理されたO 厳しい封建貢租を基本とした身分,職業への 繋持,作付け統制,穀留めに見られる農産物移動の制限などがそれであるo

これらは明治新政府によって全て除かれ,自由な生産と商業活動が可能と なったことを以て,これを特産地成立の先行条件としなければならないO して有家地区における当時の素麺製造について最初の資料と思われるのは土

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地で最も古い製造元の一軒である須川名字志斗の高橋屋の明治19年当座帳で (4)  あるD 乙れによると素麺の原料である塩,ごま油,小麦などを農家に給して 作らせたとあり,問屋制家内工業の形跡も認められることから,明治初期に おいてそれまでの自家消費の段階から商品生産の段階へ進んで行・ったとする 推論が可能となるであろう。

そこで次には素麺の商品生産を促した事情についての考察に移らなければ ならない。ここで先つ。云っておきたいことは,それはすでに資本主義経済の 中での生産であり,商品としての生産であったことを前提とすべきことであ O このような発言はいかにも蛇足の感があるが,それは後に述べる物々交 換の問題との関連や前期的な注文生産との区別をつけておきたいからであ oだからと云って今日の商品のように不特定の市場を目ざして売るために のみ作るというのではなく,むしろ売れるから作るという程度の単純生産で あった。つまり須川素麺の場合は,その商品価値のゆえに需要をよび商品化 されたというところにその発生史的意義があるO

と云うのは,との地方における食生活の事情と、深いかかわりをもち,当時 の封建色を脱しきれない民情なり民度についての歴史的考察をぬきにしては 理解ができないからであるO さきに述べたとおり,明治初期における農民は それまでの重い封建貢租を免れる乙とができたが,しかしそれに代えて明治 政府が与えたものは金納地租であったし,そのうえ商品,貸幣経済の奔流は 農漁村にまで浸透した。乙のため農漁民はその家計維持のため,米穀をはじ め労働力まで商品化して貨幣の欠乏に対処しなければならなかったD 彼らの 新時代の生活レベルは旧藩時代の御触書に示された耐之生活から21よも出る ものではなかったとしてよい。このことについて前掲「要覧」の記事に,住民 の家計として「上等の人と雌も単に米穀のみを食するもの少く,多くは粟を 加ふ。中等以下に至っては之を等分し,或はコッパ(切干諸なり)を加え,下 等に至てはコッパに粟麦を雑るは其上にして多くは甘藷或はコッパのみを食 す,以て其生計の度をトすべし」と述べているのは当時の農漁民の生活がい かに粗食を強いられていたかを如実に示しており,そしてそれは大正,昭和 期に至るまで永い食生活の伝統として受けつがれたのであった。

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同様の事情はこの半島の南に海を隔てた天草も乙れと択ぶところはなかっ た。天草はわが国でも有数の大島であるが,その地積に比べて人口多く,ま た農産,林産,海産ともに見るべき資源なく,その婦女子が海外出稼ぎで名 をなしたのも農漁民の貧困に由来すべきものであった。

(5) 

さらに乙の乙とは西方海域の離島方面についても一般であり,その地形は 山島的景観を呈し,水田に乏しく,住民の多くは半農半漁でその食生活も芋

(6) 

どきには芋だけ粟どきには粟だけというほどのものであったD そしてこれに 添える副食として僅かばかりの素麺が用いられ,乙れが美味しい素麺汁とい うほどに用いられる場合は御馳走とされた。冠婚葬祭にはきまって大量に用 意されたということであるO また素麺の売れ行きによってその村が美食であ るか粗食であるかのバロメーターとすることができたとする元業者たちの証 言によっても当時の農漁民の貧困による粗食に需要の根源があったのは皮肉 なことではあるが真実とされなければならないO )11素麺の約8割が天草と 五島で消費されたと云うのもこのことを裏書きするものとしてよい。

素麺の商品性については,それが保存食品である乙と,インスタント性を もつこと,その価格が米麦の中間にあって身近かなものであった乙となどが 数えあげられるが,これによって上に述べた各地域の需要の条件にも適応し えたことから,それははじめ島原半島の西部地域や天草などでそれぞれ西目 がえ,肥後がえと称して物々交換に用いられたようである。

しかしそれが商品として,その販路がこれらの海域に拡がりを見せるため には,その流通手段としての須川船の登場が要詰されなければならぬ。それで は素麺を主商品とする須川船つまりそーめん船の濫筋をどの時点に求めたら よいのであろうか。この課題についても直接の手がかりとなる史料を見出す ことはできないO ただ商い船そのものについては,旧藩時代の記録lこも散見

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し,改番所や問屋の監督の下に領内数か所iこ貸物出入の津口が指定されてい るが,これには須川港は含まれておらず,また商業取引には欠かせぬ銀札 引替所も有田村(現有家町北部地区)に置かれて須川名を遠く外れている。

一方,川上幸智氏(南高来郡深江町現住)は曽祖父太八(文久元年没,商い 船の草分け)以来祖業を継承しており,また前記植木氏の祖父清太郎も明治

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期から船持ちではあったが,乙れらの証言に徴してもそーめん船が明治以前 からあったということはきいたことがないという点で一致し,これらの資料 によって結論を導けば明治以前におけるそーめん船の存在については否定せ ざるをえない。

乙れに対し須川船の発生を積極的に支持する史料は明治12年商い船の取締 りが廃止されて戸長がこれを兼務したとする事実,それに先に述べた素麺が 自家消費から家内工業化の段階へ進んだのが明治10年代とされる乙とであろ o さらに前掲「要覧」によると,明治26年,西有家村における素麺製造戸 数は116戸に上り,その製造額は郡内の約7割に該り,しかもその半分が他 郡への移出となっている。これを当時の島原地方における交通事情から見る かぎり,その搬送を可能とする輸送手段は帆船に依存する他はなかった。乙 れらの事実を総合すれば,須川船発祥の時点を明治10年代におくのが妥当で あり,そして20年代にはもうかなりの須川船が活発に動いていたとしてよい であろうD

そしてとの推論を力づける史料は本郡各町村別に船舶数を示した前掲「要 覧」の記事であるO 乙れによると汽船について口之津村, 3とあるのは同港 が石炭特別輸出港たることで乙れに属するものとすべく,須川船l乙関連あ りと思われるものは大回船,小田船l乙限られるであろうO 大回船,小田船の 分類についてはとくに説明は施されておらず,元業者の証言によれば商い船 のことを「小廻り船」と呼んでいたというから小田船が乙れに該るとすれ ば,大回船はし、わゆる廻船で通念上,運搬船ということになるであろうo かし北国廻船ともいわれた北前船の場合は千石積みの大船でありながら商い 船であり,必ずしも用途による分類ではなく単にその船体の大小による便宜

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の区分としてよく,航海上の条件によってその用途を定めたと解すべきであ ろう。須川船の場合はl万斤から 3万斤の間であり,トン数でいえば6トン前 後から18トン前後であるO 後来の基準によれば20トンをもって大小に分けて おり,乙れに拠れば須川船の多くは小回船に含まれるわけである。乙れによっ て記載の数字を検すれば,西有家村の小回船75隻はとくに顕著とは云い難い が,その中のかなりの部分が先に述べた素麺の移出額に照応する輸送手段と

(11)

しての任務を担っていたと思われるO

最後に見落してならない主体的な事項の一つは須川船の船主(つまり同時 船長)である須川船商人層の発生の事情についであるO それは須川船の存在 を支える大きな歴史的条件でもあった。乙の乙とについては同じく前掲「要 覧」によれば,西有家村は郡内第一の素麺の生産地であったが,同時に郡内 屈指の漁村部落でもあった。1"その漁民は遠く五島,対州,薩摩の海洋に出 漁し,数月家l乙帰らざるものあり,近年土佐の海洋に出ものあり」とあって その漁民は海上に習熟し,彼らは漁業が不振に陥れば再起の途を商い船や運 搬船に求めるのはいとも容易なととであった。事実,須川船商人の多くが漁 業からの転業者であることから見ても,乙の漁村部落が培養源、となって須川 船商人を創出したとしてよい。このほか少数ではあるが,生産者(製造元) 自体の直販や,地元で商業を営むかたわらの外商などもあり,乙れらの人た ちが自由競争の原理をそのままに販路の開拓に挺身し,それはまた父子相承 の販売区域となって固定化したD 乙のようにして明治末年までには天草,野 母,西彼,下五島方面までがその商圏に入り,さらに大正期になって遠く壱 岐,対馬の縁辺部まで拡がりを見せたD

乙の過程を他の面から見ると,素麺l乙対する需要の増大は産地における生 産を刺戟するととであり,併せて明治後半期における製麺機の導入とその動 力化が量産を可能とした乙とから製造元の専業化を促した。そして乙の共鳴 現象を映して多くの須川船がこの海域における前期的商品流通の主役として 振舞ったと見ることができるO

須川船の活動とその商閤

そこで須川船の活動について試みに一,二の例をあげてその航跡をあとづ けてみよう。

先づ植木氏の場合は先代鶴松が明治22年創業以来開拓した販売区域を受け ついだものであるが,これを同氏の大正7年度の売上帳から拾いあげると次 のようになるO

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。須川船の行動商域図 a~î i

︒臼ノ仏

ノ小lト川川附、叶,111似f

t

;IJkb Jザイ1 ・恥[' 

‑印は巡航地を示す。。部分拡大図

(13)

)11港‑樺島一脇津一野母‑有海ー深堀一江)11ー土井ノ首ー伊王島一大名 一神ノ島‑福田一式見ー神ノ消‑雪ノ浦一瀬戸‑松島

また上五島方面を販路とした前記川上氏の証言により同氏の巡航地を示せば 須川港ー樺島‑若松本村一宿ノ浦一荒川一郷首一道土井一大平一日島一桐 古里ー佐尾一土井浦‑神部‑岩瀬浦ー神ノ浦一鯛ノ浦‑阿瀬津

となっており,彼の場合も父祖以来のお得意廻りであったD さらに他の証人 によって数例を加えるならば,ほぼこの海域の全体を蔽うネットワークが完 成するO これらの地名は云わば名もない津々浦々というべきものであり,一 津一浦を凡て得意先としたことに先づ以て須川船の本質にかかわる一つのパ ターンを読みとることができる。さらにとれらを素材として幾つかの徴表を 抽出すれば次のようになるであろうD

1.  須川船の順路にとくに天草と対馬でそれぞれ西海岸地域の欠落がある 乙と。(対馬については挿入の地図を参照)

2.  離島各地域の中心的都市部が原則的に避けられていること。

3.  野母半島の尖端部に位置する樺島の立地条件に特別の注意を払う必要 があることO

4.  長崎港口一帯に群がる炭坑島がなぜか合まれていないこと。

これらのうち2.については後に関説するが,ここではただ指摘するに留め 7

(9) 

次にこれらの須川船について,その船体の規模や構造,乗組員の構成,積 荷商品の類別や積載量,販売地域別の航海所要日数などについて多くのこと を知らねばならない。

そこで先づ船体の規校および構造についてはさきにも触れたが,その大さ 1万斤から3万斤程度であり,よくぞ乙れでと思われるほどの小型船であ った。またその構造は波に強いといわれる西洋形帆船であるが須川船の場合

(註10)

は和船を改良した程度のものであり(挿入の姿図を参照) ,明治jV]以来その 船腹l乙施された筋目の化粧板が目を惹き,永く一般にも親まれてきたが,昭 和期に及んで漸次動力船に改められた。

その乗組員は通常1""2名で10トン以上のものには3人ということもあっ

(14)

た。その構成は専ら家族に依り,船員を傭入れることは稀であった。その 積荷商品は勿論素麺(温鈍を含めて)を主とするが,余積みとして米麦,清 酒,醤油,酢,味噌などのほか,注文に応じて日用百貨の全般に及ぶもので あった口中には米を専らとするものもあり,この場合は「乙め船」と別称さ れたが,総じて島原半島から赴く食糧船は須川船と汎称された。

一航海の所要日数については,販売地域への距離により,また後に述べる 販売方式の相違により,さらに昭和期の動力船化後は別としても,それぞれ 異るが,概ね天草で15日,野母,西彼は25日,五島は1か月から1か月半,

対馬ともなれば1か月半以上を要した。乙のことは同時に年聞における須川 船の稼働回数を示し,さらにその資本回転数に繋がるものであることを注意

しておきたい。

その積荷量については,柏木氏帳簿の大正7年度仕入帳によると,一航海 につき概ね素勉j50俵から 100俵と,同じく 70箱から 150箱が普通であった。

当時素麺の刷包には俵を用い,後に箱詰めも行われるようになり,乙のため (11)

俵と箱の両単位で表示され,それはそのまま販売先では素麺の商品取引の単 位でもあった。これらを金額的に見ると,余積み商品の分と合せて乙れも概 ね1000円を下らず3000円を超えざる程度であり,それは同時に須川船の商 業資本の規校を示すものでもあった。今日の貨幣価値からすればにわかに測 りがたいが,同じく大正7年版の樺島村郷土誌によれば同村の村長や小学校 長の月俸がそれぞれ35円とあり,その水準から推しても一応商業資本たる規 校を備えたものとしてよいであろうO

lこ須川船の商業活動については先づ仕入れ段階から見て行かなければ ならない。そこで前記植木氏の仕入帳,仕入仕訳帳,貝原簿などを検する と,例外なく各航海の出荷時に十数軒の製造元から仕入れを行っており,他 の元業者の証言に徴しても多数の製造元からの集荷を常態としているD その 理由とすると乙ろはふだんの得意関係であるとする説明もまた一致した。然 らばなぜ多数者相互間の得意関係がどのような必要から成立したのかを掘り 下げることもまた須川船の本質に迫る一つの試みであろう口そしてこれらの 素材から得た徴表に基き次のような理由づけが可能である。

(15)

1.  それは須川製麺業の低生産性にかかわるものである。手延めんの場合 は特に顕著‑で,その工程は長時間を要し,また家内工業による生産には 限界があった。そ乙でー航海分として数十俵,数百箱を積出すためには

このような集荷方法に依らざるを得なかった。

2.  仕入れは現金によることは稀で,一部内金を含めて殆んど掛売買によ り帰航後lと決済された。乙のため両者の問には複雑な信用の交叉関係を 生じたが,これは製造元値IJから見れば一部須川船業者に偏る場合よりも 危険度を分散しうる乙と,さらに海損の場合にも乙れを軽微にとどめう

(12) るととでもあった。

3.  乙れも同じく製造元の立場から見た場合で前項とも関連するが,須川 船業者との複数関係によって製品のストックを回避し,その出荷を恒常 化するとともに,雨垂れ式lこ資本の還流を確保する必要があった乙と。

4.  商品としての素麺は各製造元ごとにその品質,重量,価格の点で千差 万別といってよく,これによって販売地域の小売庖からも銘柄別の注文 があり,これにも応える必要があったことO

以上によって仕入れのしくみや慣習が専ら前期的な諸要素の複合によって 形成された事実を知るのであるD 従って両業種に共通してい足ることは棋に 同業的組織もないまま,仕入れも出荷も個人閣の取引で処理され,ょうやく 品質や価格について業者間に話し合いがもたれるようになったのは戦時色も 深まった昭和11年のことであったことも附言したい。

そこで次にこれによって商圏の各地に搬送された素麺はどのような方法で 販売されたのであろうか。須川船商人はもとより中間的商業者であり,その 商業資本の増殖運動,つまり商品や貨幣との交換行為を通してこれを売上額 に転化せしめなければならぬ。この乙とについては先づ定説化している「須 川船は物々交換によるいわゆる置きがえによって物資交流の担い手となり,

そこでは不等価交換が行われていた」とする命題に尊かれるのを使とする。

(註13)

それは須川舶の商圏である乙れらの海域の交通未発達とそれに伴う商業機構 のおくれとを前提とし,さらに経済的に未発達な社会の諸生産物の交換を媒 介する乙とによって,より多くの利潤の獲得を可能とする前期的な商業が乙

(16)

こで、行なわれた乙とを指摘したものといえるD さらにそれらの社会で商品生 産や交換がすすみ,等価交換性が発展するようになると,このような仲介商 業も衰退にむかうものであるという法則的説明を加えることも必要であろ

(註14) O

事実,この海域は,はじめに述べたとおり,大正・昭和初期において九州 本土側が資本主義流通機構に組みこまれた後も,依然として明治期以来の前 期的商業資本である須川船の活躍の舞台に委ね。られていたのであるo

そこで課題に取りくむ前に物々交換についての概念の整理を行う必要があ るであろう。と云うのは,乙〉に古代共同体聞に見られた単純な物々交換の 範鳴を求めるのは妥当ではないからであるO いかに離島僻地とは云いながら 巨視的には日本経済史のながい道程の枠内で考えるべきものであり,従って それはすでに早く物品貨幣(観念貨幣)としての交換機能に転化しておる以 上,仮象的には物々交換であっても,物品貨幣を用いての商行為であるとす べきものである。このような限定規定を施す乙とによって須川船がその初期 の段階で西日がえ,肥後がえを行った事実はこのことを端的に示したものと して理解されるO

しかし素麺が商品として量産化され商業資本としての須川船が活動期に入 った段階では例外的に素麺代金として,物で乙れを受取る乙とはあっても,

それはあくまで商品の対価としての観念貨幣であり,初めから物々交換を目 的としたものではなかった。

次に須川船の販売方式の基調をなした「置きがえ」について述べなければ ならぬO それは仕入れの場合と同様,得意先の小売屈に商品を卸し,その決 済を次回の航海時に行うもので,その際に商品を改めて置くととから置き換 える,つまり置きがえ(俗称)と呼びならわされたものであるO これを一言 を以て尽せば「貸付販売」ということであるO それは商品ひいてはその代金 の貸付けであり,その乙とを単に「敷く」ともいうO これは一部業者が行っ た現金取引の例外を除けば須川商人に共通した販売方法であった。

乙の場合もその恒常的関係が得意関係であり,前l乙見た仕入段階のそれと 併せて有機的な信用関係の体系をなした。そして乙の販売方法は積極的に離

(17)

島僻地の生産社会l乙最も適合する流通方式として定着したのであった。

そこで次には乙れらの販売方法によるとしながら須川船商人と商圏におけ る得意先との流通機構上の関係について分析を試みることは主題の核心に触 れる意味で注目されなければならぬ口このことについては前記柏木氏の帳簿 や他の多くの証言に徴し須川船の得意関係を概ね次の三様に分類することが

可能である 3 その第一は小売商に対する û~J し,第二は販売地のít!J し商に対す

る中卸し、そして第三には個人消費者に対する小売りがそれである。これを 地域的にいえばその第一は最も一般的であり,第二は本土側とも結びつきの 強い都市部であり,そして第三は乙の海域の縁辺部としてよい。これによっ て具体的に分布状態を示せば拠点港須川から比較的近距離かっ内径的な天 草,野母,西彼,下五島方面は卸し圏,これに対して遠距離かつ外周部にあ たる上五島,松浦,壱岐,対馬は小売り圏,そしてそれらの都市部は中卸し圏と してよいであらうD このことは別の面から考察すれば各地域における消費人 口とこれに見合う商業機構にも対応するものであり,従って状況により同一 圏内で卸しと小売りが併存しえたとしてもそれは大勢に逆らうものではなか 7o

この三様の得意関係のうち対限的関係に立つのは中心的都市部の中担]し方 式と縁辺部の小売り方式であるD そこで先に掲げた法則を援用することにな るが,交通の発達,商業機構の整備,自由競争の可能な都市部ほど等質等価 ゐ原則が支配する。翻って乙の海域でもそこは必ずしも須川船の独j立場では なく,長崎市内で作られる機めんのほか佐賀県の神的めんや遠く四国の小立 島から高級手延めんが長崎商人の手で汽船によって離島都市部へ送りこまれ た。これによって須川船商人間の競争にさらに長崎の問屋資本も加わり離島 都市部はその角逐の場をなしたといってよい。従って多くの須川船は故立に

ここを避け,その商戦に参加したのは中却し)j'jえによるものに限られた。

これに対してこの海域の縁辺部は交通が不便で商業機構(小売活)もなく 従って市場機会に恵まれず,さらに貨幣欠之の状態があるとすれば,須川船 商人による置がえ販売方式は個人消費者にとってはま乙とに有難いことに相 違なかった。それはまた須川船商人にとってもそこでは伯段を立てないで,

(18)

つまり実質的には売手市場としての浦まわりの巧ま味があった筈である。乙 れを以て前期的商業を象徴する物々交換や不等価交換が云われるわけである が,少くとも大正・昭和初期の時点では余程の辺地でない限りその例証をう ることは困難と思われる。なおここではじめに問題提起を行った卸しか小売 りかの命題に触れるわけであるが,両者はともに置きがえ方式により,また ともに俵または箱を単位に取引した点が共通であるO 一方その相違は卸しマ ージンか小売りマージンかによって区分されるわけである。ここにも一般の 通念とは別種の前期的なパターンがあるとしなければならぬ。

須川船の場合,もともと販売利益の大小は基本的には小売り>卸し>中卸 しとなるが,そのいずれによるのを最も有利とするかについては俄かに結論 の出る問題ではない。例えばそのいずれの場合についても云えることは貸付

(註15)

販売におけるサイドによる利率の幅,現金販売における値引の幅,それと輸 送手段がl汎船か,動力船か,家族構成か,傭入れ船員か,等が条件となるう えに,利益を決定する要素として得意先の占有数,商品の類別による利潤 率,積荷量等があり,さらに年間航海回数(資本回転数)による利益の総和 を求める乙とによって初めて対比しうる問題であるからであるD 仮りにいず れかを有利としても彼らの販路は父祖伝来のものであり,これらの地域差に 適合した方式が成立したことについては法則的な必然性があったとしてよい であろう口

ととろで以上によって須川船商人の商業活動の全てが終ったわけではな い。乙れを以て仮りに第一次業務とするならば,第二次業務と云うべきもの は帰り荷であるO 帰航時の船腹の効率的な活用によって往復利益を得ること は望ましいことであったし,植木氏帳簿売上帳にも売上代金をもって小麦や 姐の買付けを行った記事があり,他の業者の証言によっても五島では季節に より春には裸麦,そら立を秋には甘藷を買付けたということであり,また肥 後では多生する竹材が積込まれた。しかし須川船の場合は往復商品を本来的 な業務とした江戸時代の北前船や内海船の場合とは異り,その帰り荷は副次 的なもので余業というべきものであった。

さらに附言すべきことは帰り荷と関連をもちながら,乙れとは概念上区別

(19)

すべき第三次的な業務のことである。それは「一口買い」と称する仲買業務 で,これは臨時的かつ投機的商法であり,これこそ不等価交換を以てその本 質とするものであったD しかし乙訟で注意しておきたいことは,それが成り 立つ要因の全てをその地域性に帰することでなく,広く日本経済の枠内での 経済変動や経済外強制の要因にも顧慮する必要があることであるo事実,須 川船の商人たちも虎視耽々として一次的業務のほかにいわゆる一口買いを行 い,素早く利を望むことを忘れなかった。巧まくいけば巨利を博する代りに 下手をやれば裸一貫にもなりうるわけであった。またそれは現金買付け,現 金売りの一発勝負であったし,他の輸送機関を利用する乙ともあった。従っ て須川船商人の売上帳や貸立帳には乙の分野の記載は隠蔽されており,全く 別途の営業として考えられた口これらの実例については元業者らの証言によ って明かであるが,これを要するにそれはあくまで投機性を本質とするだけ

(註16)

に一次的な業務との倒錯はありえない乙とであった。

その商業資本の性格と意義

須川船の商業資本がその一部を製造元の資本に依存していた乙とについ ては前にも触れたが,乙れは云ってみれば,須川商人たちは,それにも拘ら ず産業資本や金融資本の支配をうけることなく商業資本の主体性を貫いたと とでもあった。このことについて植木氏によれば「物は借りても金は借る な」つまり商品代は借りても,金利のつく金は借りるなということが須川船 業者聞の基本的通念とされていたということである。これは当時の貸付金利 と須川船の利潤率との相関々係をふまえての立言としてよく,貸付資本に依 存したとしたら初めから商売にならないとの謂でもあった。従って須川船業 者の全般についていえることは当時の銀行や高利貸資本は無縁の存在でしか なかった。大正・昭和初期における地方中小銀行の相次ぐ倒産閉鎖は当時の 経済金融恐慌に遭遇したことと併せてこのような在方的商業資本の在り方に

も適応しえなかったことを示している。

須川船の商業資本は云ってみれば農家の尺祝い同様,粒々辛苦の経営の果 実,つまり自己蓄積によるものであった。その須川船営業による利益は概ね

(20)

""1.3割の程度であり,それも時代の推移とともにいわゆる等価交換過程 の進行を映して利益率の低下は自然の勢いというべきものであった。従って その間,素麺の単品依存から積荷商品の編成替や,自家製品の直販方式の徹 底,帰り荷や一口買いに意慾を見せるなど企業努力を傾けたことは云うまで

もなかった。

また当時は第一次大戦時の好況,戦後の不況,米騒動,関東大震災,昭和 になり世界大恐慌の波及,満州事変から戦時体制へと推移し,これらに照応 して景気は周期的に波のように打寄せた。このような変動期に資金の借り入 れでもしようものなら不況の谷底で高い金を返済させられることになり,云 ってみれば須川船資本は前にも後にも勤きのとれない状態に置かれていたと してよい。 r須川船で成功したものはない」というのがこの土地での通説に なっているD それが第一次大戦直前までその命脈を維持できたのは,自前の 船で家族労働に依ったからであり,結果的には船の償却賀を無視した食い潰 しであったともいわれている。それともう一つ,須川船を支えたのは明治期 以来の製造元一須川船商人一小売庖という一連の得意関係であり,それは流 通機構の公式的関係、であったことと同時に多分に前期的な人脈関係でもあっ たことであろうO

須川船は昭和初期から漸次動力船にかわり,これによってその運航は著し く能率化し,須川船商業にも近代化が訪れ今後の発展に期待がかけられもし た。しかし須川船の商圏はそれ以上に拡大されることはなかった。その理由 として考えられるのは,

1.  それは須川素麺が機械めんは別として,手延めんは依然として家内工 業による製品であり,その生産力に限界があったことと,その品質が高 級消費地へ向かなかったとと。

2.  須川船商人が父祖以来築かれた得意関係を地盤として置きがえ商法に よる取引を基調としたこと。

3.  他産地商品の出廻りによる等価の浸透により索麺の利潤が低下したこ o

などがそれであるが,それにもまして重大な出来事は昭和12年に勃発した日

(21)

華事変突入の時期を迎えた乙とであり,物資の欠之から配給制度の実施へと 進み,それはもはや須川船の死命を制するものであった。須川船は昭和15 6月23日をもってその営業は停止され,酒類についてはなお1年間の猶余期 間があったとはいえ,ーたんとの海域からその姿を消すことになった。

なお戦後の須川船は昭和30年代の食糧事情好転の時期を迎えて少数ながら 離島海域に再び姿を現わし,現在も対馬と五島の一部,北松方面の島々を巡 航しており,別に物々交換を目的として天草に赴くものも二,三あるといわ れている。

ところで現在の須川船を戦前の須川船の復活として遠く明治期以来の須川 船の残存形態と見るか,それとも,それとは全く別種のものと見るかは,そ の間約20年の空白期の取扱いについて,これを単に時間的つながりとする か,いわゆる「近代化」理論をふまえ,これを以て越えがたい断層とするか

(17)

ということと深くかかわる問題とされなければならない。これについて現在 乙の方面を巡航している業者らの証言と元業者らのこれについての評価をま とめ,これを素材的に列記すれば次のようになるO

l.  戦後の須川船は少数の例外を除き,かつての業者の再起を意味しな い。現在の須川船は全く新規の人たちによって営まれており,従って戦 前の業者との伝統的な系譜が存在しないこと。

2.  戦時中の米穀配給制度を通じて離島僻地の食生活も本土と均質化し,

かつての素麺需要の背景はすでに失われていること。

3.  離島地域における交通未発達や商業機構のおくれも,年を逐って架橋 やフェリーの就航によって本土化し,また島内の道路の開発や本土資本 の進出によって,その活動の範囲は著しく狭められていることD

(18)

4.  従って現在の須川船による須川素麺の販売は極めて微量に止まり,か つての須川船が担当した販売機構としての任務はすでに終了している乙 (註19) O

5.  離島の消費人口は大正,昭和初期に見られた不況による郷土への還流 はなく,過疎化は日増しに進み,小さな属島は無人化さえしているこ D

(22)

6.  現 在 で は5ト ン 以 上 の 船 舶 に つ い て は 全 て 免 許 を 要 す るO し か も 有 資 格 者 は 大 資 本 の 海 運 会 社 に 就 職 し 須 川 船 の 後 継 者 は 育 て に く い 乙 とO

以 上 に よ っ て 戦 前 の 須 川 船 と 戦 後 の そ れ と を 対 比 し た 場 合 , そ こ に 立 ち は だ か る 歴 史 の 厚 い 壁 は 好 む と 好 ま ざ る と に 拘 ら ず 意 識 せ ざ る を え な い で あ ろ う。乙れを以て見れば,やはり「前資本主義的」をレーゾン・デートノレとす る 明 治 期 以 来 の 須 川 船 は そ れ な り に 歴 史 の 「 時 代 区 分 」 の 中 で 位 置 づ け る の

(20) が 正 し い 評 価 と 云 う べ き で は な い で あ ろ う かD

‑ 7 G ‑ ‑t壬フ

(1)  拙著;須川船の研究 80頁から83頁参照。植木清之助氏所蔵帳簿一覧表には乙 のうち約90点を収録した。

(2)  林健太郎氏;史学概論(新版)177頁から198I r歴史における個別性と一般 性」を参照。

(3)藩政期の領内の状況を記したのが「島原大概様子書」である。島原入部後の2 代目藩主松平忠雄の乙ろ宝永4年に完成し,その後たびたび改訂を加えられた。

(島原半島史下巻所収)

(4)  市川信愛氏;須川そーめん(2)長崎談叢41輯81頁参照。

(5) 森克己氏;人身売買ー海外出稼ぎ女‑182頁から198頁参照。

(6)  河地貫一氏;離島社会の後進性とその歴史的展開「経営と経済J1091頁か ら7頁参照。

(7)入江沼氏;島原の歴史(藩政編)参照。

(8)豊田武氏;日本商人史(中世編)9 頁から 4~頁参照。

(9) 拙著;前掲書 39頁から43頁を参照。

西洋形帆船と日本形船との船形の得失については石井謙治・松本哲・小佐田哲 男氏;明治初期における海運近代化に関する史料(1)[""建言」海事史研究5号参

ω 拙著;前掲書 95頁から98頁で詳述。

(

12)  海難事故は稀有のととであるが,僅かに一例として五島福江地で停泊中の須川 船が出没した乙とがあり,それは共同海損についての一例ともなっている。

志津田氏治氏;船長責任の海事法的構成参照。

(

13)  市川信愛氏;前掲論文,参熱。

(23)

(14)茂木六郎氏;前資本主義商業とその理論(商業経済論大系〉所収, 76頁から82 頁参照。

出) 拙著;前掲書 139頁から141頁を参照。

(

16)  一口買いについての実例について,先づその失敗例について紹介すると,大正 8年,植木氏の場合であるが,西彼小麦800俵を買付け,須川の自宅へ帰りつ いたときには,米穀相場の暴落によって半値になり,倒産を案ずる母親 lと泣か れた苦い思い出があり,乙れは不等価の裏目が出た例としてよい。

乙れに対してその成功例ば前出, ) 11上氏の場合で,同じく大正中期の米騒動時 代を背景に熊本県が肥後米の県外移出を禁止した乙とから,同県内の生産農家 が手持の米の処置に困っていたので,これを安値l8円で300俵を買付け,

己れの商域に運んで12円で売捌き忽ち巨利を得た事例は,経済外強制を巧みに キャッチした不等価としてよいであろう。

(

1百林健太郎氏;前掲書267頁から283頁,近代化論では人聞社会の発展を伝統社会 より工業社会へという流れの中に把えるもので,即ち基本的には同ーのパター ンの反覆によって構成されている静止的な「旧社会」に対して不断の拡大と変 動を本質的な特徴とする現在社会を区分し,そして乙の二つの社会類型の対比 の中で意義づける。

(1 8)茂木六郎氏;対馬の交通と商業, (対馬地域総合開発振興計回現況編,昭40.) 所収,参照。

(19)  長崎県手延素酒製粉協同組合(所在地は西有家町須川名)の第四回決算書 (46. 9.1‑47.8.31)によれば,その年間売上高は約18千万円となっており,そ の製品は殆んと、近畿圏内へ直送されているという。

(2 「時代区分」については,明米府三氏;歴史をみる限, 72頁から85頁参照。

(以上)

参照

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