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郵便貯金制度の歴史的意義 : 大蔵省預金部資金の形成過程

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郵便貯金制度の歴史的意義

    一大蔵省預金部資金の形成過程−一

は し が き  日本における郵便貯金制度は、明治八年に制度化されてから、幾多の制度的・機構的改革を経過しつつ、次第に国家信 用機構の一環として定着し、国民大衆の金融機関として重要な役割を果たすとともに、わが国経済社会の進展に多様な影 響をもたらしてきた。郵便貯金制度の形成は、明治前期の殖産興業政策、あるいはその後における財政政策、金融政策の 展開のように、直接的な政策手段の導入としての意義を有するものではなかったが、しかし郵便貯金制度の発展とその資 金の活用は、日本資本主義をその基底において支える重大な機能を果たしてきたものといいうるのである。我々はその機 能を二つの面に求めることができよう。  第一は、郵便貯金制度における資金吸収に関する機能である。周知のように郵便貯金制度は、全国各地に分布する多数 の郵便局を窓口に、国民大衆の零細な資金を吸収し、それを中央に集中し、巨額の国家資金として集積せしめる機能を果 たしてきたのである。もとより地方から中央への資金吸収は、他の金融機関によっても行なわれてきたのであるが、郵便 貯金制度は政府機構の一環として形成され、政治的動向と深い関連を保持し、民聞金融機関と異り、とりわけ政策的意図      郵便貯金制度の歴史的意義       一

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     郵便貯金制度の歴史的音心義      二 と緊密なつながりを有してきたところに大きな特色を見出すことができるのである。わが国においては、明治初年以来貯 蓄が美徳と考えられ、政府の指導による貯蓄運動がくり返し実施されてきた。とくに戦時体制下においては、軍事費の調 達や国債消化のために勤倹貯蓄の必要が叫ばれ、郵便貯金制度はつねにかような運動の実施機関として活用されてきたの       セントラリズム である。この意味において郵便貯金制度は、政治における中央集権主義を、金融的な側面および心情的な側面から推進し ていく上で重大な機能を果たしてきたものと考えられるのである。小野清造氏によれぽ、郵便貯金制度の形成は、 ﹁日本 資本主義が要求した最も大掛りな国家的勤倹貯蓄運動であり、維新財政の指導者達によって唱導せられ、後更に日清、日 露の両大戦を中心とする日本資本主義の上昇期を通じ、軍費の調達と戦後反動の克服而して国家的膨脹に対応する経済力        ︵1︶ の充実に備へて、益々その必要度を昂めて行った国民精神運動の最も代表的なものであった﹂としているが、氏の指摘の ように、郵便貯金制度の機能は、単なる資金の中央への集中という側面に止まるものではなく、それを通じて国民教化の 実をあげようとしてきたところに重要な機能を見出しうるのである。  第二は、郵便貯金制度における資金利用に関する機能である。明治一八年大蔵省預金局の創設以来、郵便貯金資金は国 家資金として活用され、とくに明治三〇年代以降いわゆる大蔵省預金部資金の原資として、政策金融の展開に重要な機能 を果たしてきたのである。一般に政策金融とは、国、地方公共団体、またはこれに準ずる機関が、特定の政策目的を実現 するための手段として、貸付、債券の引受け、信用補完、出資、その他これに準ずる金融的優遇措置を講ずることを意味 する。すなわち政策金融は政府による金融活動を意味し、金利政策や公開市場操作、あるいは財政支出や税制上の諸措置 など、各種政策手段の適用と相まって、財政資金による金融的調整を目的とする政策手段のひとつとして活用されてきた のである。政策金融の本質あるいは機能については、これを明確にすることが困難な面が少なくないのであるが、日本に おいてはとくに明治後期より有力な政策手段として重視され、現実において多様な機能を果たしてきたのである。

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 政策金融の担当機関および原資は、時代の経過とともに大きな変化を示してきた。明治後期以降第二次大戦期にかげて 政策金融の担当機関として前述の機能を果たしてきたのは、大蔵省預金部および特殊金融機関に外ならない。とくに﹁大       ︵2︶ 蔵省預金部は、政府低利資金の供給機関として、戦前においては財政投融資の唯一の機関であったといってもよい﹂ので あり、預金部資金は、国債の引受け、特殊金融機関の発行する興業債券、勧業債券、産業債券などの引受けや地方債の 引受けを通じ、あるいは預金部による直接的な貸付によって、特定産業への融資あるいは地方資金の供給に資するところ が大きかった。この間預金部資金の原資としてとくに重要な地位を占めてきたのは、郵便貯金に外ならない。預金部資金 は、郵便貯金および振替貯金、特別会計預金、預金部積立金、収入金、その他によって構成されていたが、郵便貯金はつ ねにその主要部分を占めてきたのである。周知のように郵便貯金は、農民および賃金・俸給生活者などの零細資金を源泉 とする貯蓄資金であり、その意味で銀行定期預金類似の安定的な長期資金としての性格を有し、しかもその資金コストが 比較的に小さかったので、長期低利資金の供給源として重要な意義をにないえたのである。以下小論においては、わが国 における郵便貯金制度の歴史的意義を、とくに大蔵省預金繋資金の形成という観点から把握し、若干の序説的考察を行っ てみたいと思う。なお前述のような視点から、対象期間は明治期に限定される。  ︵1︶小野清造﹃日本証券史論・上巻﹄九六頁。  ︵2︶ 鈴木武雄﹃近代財政金融﹄二〇一頁。 二 郵便貯金制度の形成過程  わが国における郵便貯金制度は明治八年に創設されている。すなわち同年四月、内務省達しにより﹁貯金預り規則﹂が公 布され、翌五月より駅逓寮および東京府下の郵便局において貯金業務が開始されたのである。︵郵便貯金は当初は単に貯金と      郵便貯金制度の歴史的意義      三

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     郵便貯金制度の歴史的意義      四 称し、明治一三年駅逓局貯金と改称、同割〇年に郵便貯金と改められている。︶郵便貯金制度の創設に指導的な役割を果たしたのは 前島密であった。前島は明治三年に渡英し、同国における郵政事業を見聞し、翌年帰国して駅逓頭に任命され、郵便制度 および付帯業務の導入に当っている。郵便貯金制度の創設もまたかような郵政事業の一環として形成せしめられたのであ る。創業当時郵便貯金として受け入れた現金、すなわち貯金は、東京為替会社に預託し、同社から一万円の担保品をとり、 また預金総額の五分の二は払戻し準備金として保管せしめている。その手数料として預け金高の千分の五を支払い、残額 五分の三を運用させ、これに対し年八分の利子を微心していた。その後東京為替会社の事業不振にともない、第一国立銀 行に預け替えを行い、同行より年五分の預託利子を徴収し、この利子をもって預入者に支払う利子および取扱い経費に充         当せしめたのである。  郵便貯金制度がどのような趣旨のもとに生誕をみたかは、当時の内務省の郵便貯金創設伺文書、郵便報知や東京日日な どの新聞記事、あるいは前島密の﹁郵便創業談﹂などに明らかである。前島の貯金についての告諭文である﹁貯金預所要        旨﹂によれば、 ﹁各人応分の貯金あらしめて彼篤厚忍耐の風を興し、日常即急の良心を酒養する﹂とともに、貯金預所に        ︵3︶ 対し、 ﹁人々日常の費用を節し些少の金銀をあまして之を此所に託し、以て保殖するの所となす﹂ことが期待されていた のである。貯金局編﹃六十年間における郵便貯金経済史観﹄︵昭和十年刊︶によれば、郵便貯金制度の導入は、何よりも まず勤倹貯金思想の普及にその目的が存したことを強調している。すなわち﹁当時の郵便貯金事業に課せられた課題は、 国民に対し貯蓄思想を鼓吹酒養することにあった。政府は明治八年の郵便貯金告知文を始めとして、同十年の貯金軍法諭 告、十二年貯金事務従事者に配布された貯金預所要旨中の貯蓄諭告、十六年に配布された貯金規則の要領並びに利息表の       ︵4︶ 諸言における貯蓄奨励文など、文書でその奨励に当るとともに、制度的にも幾多の改善、改革を試みてきている﹂と述べ ている。しかし郵便貯金制度の創設は、いわゆる勤倹貯蓄の奨励とともに、当初より蓄積される資金の活用を顧慮してか

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たことも看過しえない事実であ◇た。すなわち国民大衆に対し貯蓄を奨励するとともに、蓄積される資金の国家的利用が 考えられていたのである。前島の創業談には次のような所見がみられる。  ﹁今夫れ経済の点よりして之を略述せんに、朝近運輸の便なる、地租徴収の希なる、商業工業の活漫なる、此三原因に 由りて嚢日集るべき所に集るの通貨は今日散じて村市に分れ、又細分して中等以下の人民に落ち、終に盲嚢裏に沈滞し て、通貨本色の活動力を瀬廃せしむるもの必ず霧多の数に居れり、今日通邑大都において︵商業の活酷なるに拘らず︶通貨の 耐乏を告ぐるもの蓋し其源之に因る、又工業の起すべきものあるも︵工作の活澄なるにも拘らず︶資本の饒足せざるを以て之 を挙ぐる能はざるもの多少亦之が源を為さずんぽあらず、若し夫れ之を救済せんとし、政府は通貨を増発せんか、塗れ為 すべからざる事たり、然らば之を招集せんか、固より道理の容れざる所なり、遠境に立ち此面に至りては有力の商工有為 の士民ありと錐も、将た之を奈何ともすべからざるなり、但だ其之を集合して工業貿易の資に供し、其活動力を鋭敏なら       う  しむるもの即ち貯金預所を開設するの一途あるのみ﹂と。  前述のように郵便貯・金資金の活用については、創業当時より考慮されていたのであるが、郵便貯金制度そのものが多く の変遷を重ねており、また政府も一方において、 ﹁銀行会社及人民貸﹂や後述の﹁準備金﹂を通じ、政府資金の貸出しを 行っていたのであり、郵便貯金資金の本格的な活用が行なわれるようになるのは明治後期になってからであった。  郵便貯金の推進においては、すでに明治四年に制度化されていた郵便事業と同様に、その業務が全国的な範囲を前提と して施行される性格のものであるだけに、とくに創業当時においては、中央政府の意向を受けた地方官の指導・勧奨が制 度の定着に大きな意義を有していた。周知のように明治初年には多くの府県に少壮有為の地方官が配置され、新政府の諸 般の施策の実践に貢献していたのであり、郵便貯金業務もまた地方府県の協力を得て、はじめて業務の発達・拡充を可能 とせしめられたのである。その実例を滋賀県の場合についてみておこう。      郵便貯金制度の歴史的意義      五

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     郵便貯金制度の歴史的音心義      六  滋賀県における郵便事業の創設過程をみると、明治四年三月東海道に沿う大津、草津、石部、水口、土山の各駅伝馬所 に郵便事務取扱所が開設され、翌五年二月中仙道に沿う守山、武佐、愛知川、高宮、鳥居本、番場、醒井、柏原の各地に 開設され、さらに同年内に北国街道、御代参街道沿いの各地、その他県内の主要地に設置、開設されている。明治一〇年 一月現在県下の郵便局は九七に達している。一方郵便貯金業務の取扱いは、明治一〇年七月はじめて大津郵便局で開始さ         れ、翌年九月水口外八局で取扱われることとなり、明治=一年末現在、郵便貯金取扱い局は県下で=局となっている。 滋賀県は明治五年に発足し、初代県令は大津県令より移行した松田道之であった。周知のように松田は開明派県令として 著名であり、在任中県民の啓蒙につとめ、明治七年一月の滋賀県諸官を対象とした﹁県治所見﹂は、地方議会開設などの 必要を論じ、当時の地方長官として出色の見識を示していた。二代目の県令は松田に薫陶を受けた籠手田安定が就任し、 ︵明治八年権令、同一一年県令となる︶、松田の施政方針を踏襲し、明治一七年県令中井弘に地位を譲るまで、長期にわた       ︵7︶ り在任し、明治前期の滋賀県施政に尽力している。郵便貯金事業の推進もまた、滋賀県においては籠手田の勧奨によると ころが大きかった。前述のように滋賀県においては、明治一〇年より郵便貯金業務が開始されているが、籠手田三男によ る﹁貯金預り規則﹂に関する告諭文を引用しておこう。  諺二日ク群言リテ山ト為り水心リテ川ト為ルト今人民一家ノ生産二於ケルモ亦是レト理ヲ同フシ常二無益ノ費用ヲ省キ 昇平リ有ヲ貯ヘテ止サレハ縦令ヒ一日ノ飴ス所属僅少ナリト錐モ数年ヲ経レハ寛二千金ノ富ヲ致スヘシ今人民中等以下ノ 生計ヲ視ルニ.其人未タ必ス身体不具ニシテ労力二堪ヘサルニアラス父母必ス疾病アルニアラス妻子必ス徒食シテ家事ヲ助 ケサルニアラス然ル目塗モスレハ一家ノ外道ニ困、・・児ヲシテ寒二號ヒ妻ヲシテ磯二哺カシムルニ至ル柵戸何ソや是他ナシ 理財ノ法ヲ知ラス偶々一日利ヲ獲レハ忽チ之ヲ消費シ嚢中常二窮乏シテ一銭ノ蓄ナク若シ一日坐食スレハ衣服ヲ典シ家具 ヲ売ルニ非レハ一家ノ磯ヲ麦フル能ハス万一不幸ニシテ疾病水火ノ災二十ラバ将タ何ヲ以テ之ヲ支ヘンや未タ妻子離散シ

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父母凍餓二食ラサルモノハ殆ンド稀ナリ実二欄然ノ至ナラスや大凡ソ饗膳車夫馬丁ノ輩ヨリ其他人二傭役シテロヲ糊シ及. ヒ些少ノ物ヲ行販シテ生ヲ営ム者往々皆々然リ是平日唯々一日ノ生計ヲ謀りテ百年ノ産業ヲ立ツルヲ知ラス抑モ人タルモ ノ必ス不虞ノ備ナクンハアルヘカラス其備ヲ為スハ日々獲ル所ノ利二付キ幾分ヲ之ヲ貯蓄シ漸二合ミ古田殖スレハ所謂ル       みるところ 塵モ山ト為ルノ理ニシテ理財ノ良法是ヨリ外ナラス然ルニ政府夙二此二見アリ去ル明治八年薔騨逓三二於テ初メテ貯金預. リノ方法ヲ開キ華士族平民ヲ問ハス毎一人一ケ年ノ預ケ金十銭以上百円以下預ケ得ヘキ規則ヲ設ケ先ツ東京府下二施行シ 尋テ京都大早旦ヒ横浜神戸等ノ各地二開設シ之ヲ試ミシニ其法ノ善良ナル僅少ノ金ト錐モ利子ヲ生スルヲ喜ヒ人民競フテ 工費ヲ節シ其轟鹸ヲ以テ之二預クル主日月増シ月二加ハル皆其良法ヲ熟知スル故ナリ今や騨逓局回書テ漸次之ヲ各地二拡 メント当県下滋賀郡大津騨郵便局二皮テ此事業ヲ開キ本月十日半リ郵便規則中貯金預リ規則二照依シ取扱フヘキ当該.本局 ヨリ照会有之日付管下人民別紙貯金預リ規則抄録ヲ熟読シ各常費ヲ節倹シ多寡二塁バラス颪飴ヲ以テ世局へ預ケ金井シ候 様心掛クヘキ此旨篤ク告諭候事        明治十年七月五日        

      滋賀県権令 籠手田安定

 籠手田安定の告諭文のなかには、貯金に対する中央政府の意向、とくに前島の所見が忠実に反映せしめられており、他 の諸制度と同様に、明治新政府の政策実現のために、とくに具体的な制度の定着のために、地方長官がきわめて重要な機 能を果たしていることを推察することができるのである。  滋賀県においては前述のように、貯金業務はまず明治一〇年七月から大津郵便局で開始され、翌一一年九月より他の県 内主要地において開始されている。次の布達書がこの間の事情を示しているが、この布達書は区長、戸長宛に出されてお り、地方官が区戸長を通じて郵便貯金の勧奨を行っていることが注目されよう。      郵便貯金制度の歴史的音心義      七

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 郵便貯金制度の歴史的意義 滋賀縣布達書、丙第百九十二号

戸旺

長長

水口八幡西大路愛知川彦根長濱勝野小髭敦賀九ケ所各郵便葺替取扱局贈遺テ本月廿五日ヨリ貯金預方法開業可致旨其筋 ヨリ通知有之候條兼テ及諭達置候通各人民貯蓄ノ鯨金右最寄各局へ精々相預ケ候様篤ク勧奨可致此旨相忘草事 明治十一年九月十三日

滋賀縣令 籠手田安定

滋賀縣大書記官  酒  井 (代 明邑理  前述のような中央政府による勧奨、地方官によるその普及への努力にもかかわらず、当初の貯金事業は、国民の制度そ のものに対する無理解のために成績をあげえず、事業開始第一年の実績は、預入人員二、一八四名、預入金額二万五五九 円にとどまった。さらに明治=年から一四年にかけては、不換紙幣の発行によるインフレーションが進行し、貨幣価値 が著しく不安定であったこと、物価騰貴、企業熱の勃興が蓄財の余裕ある者をして預貯金よりも投資に赴かしめたこと、        ゆ  あるいはさらに、国立銀行が相ついで設立され、地方在住者の資金をこれら機関に吸収したことなど、種々の要因が郵便 貯金の発達を妨げていたものと考えられるのである。しかし明治一〇年代後半期の不況期より、国家権力を背景とする郵 便貯金の安定性が認識され、次第に貯金額が累増することとなった。第1表は明治八年より二〇年代初頭にかけての郵便 貯金の推移を示すものであるが、表示期問においては、とくに明治一六年より一九年にかけて飛躍的な増加を示している。 これは貯金取扱局が全国的に普及したこと、および、不況期に当面し、民間金融機関中基礎の不確実なものがその内情を

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暴露し、それら機関の預金が郵便貯金に流入するに至っ        け  たことなどが最大の原因となっていた。  郵便貯金は本来零細資金の吸収を目的としており、預 金額にも制限が加えられてきた。明治八年の﹁貯金預り 規則﹂によれば、一人一力年の預入額は十銭以上百円迄      郵便貯金制度の歴史的音心義 (第ユ表) 郵便貯金の推移(1) 年  次 明治8年

 9

 10

 11

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 13

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現在高(年末) 人 員(人) 金 額(円)  1483  4, 442  5.761 14137 26473 36126 38974 46211  ナ87014 ユ41202 293,297 490337 568849 665822 762829   15, 222  41, 485  100, 139  286, 290  494, 115  662, 092  821, 936 !,058,224 2, 298, 502 5, 260, 485 9, 050, 255 15, 462, 054 18, 213, 282 19, 758, 482 20, 441, 354 人額 −金︶ 人預円 けり︵ 面当 8.26 9.42 17.38 20.25 18.66 18.33 21.09 22.90 26.42 37.26 30.86 31.53 32.02 29.68 26.80 九   (出所)貯金局編『六十年間における郵便貯金経済史       観』により作成。 (第2表) 職業別貯金および預金の比較 年次

職業別

業業業他

   の三

農商工そ

業卒業他

   の計

農商工そ

蚕業遅牛

   の三

農商工そ

郵  便  貯  金

人員百分比金

吹百分比 千入  473  222  96  482 1,273  485  206  92  482 1,265  485  193  81 496 1, 255  % 37.2 17.4  7.5 37.9 100.0 38.4 !6.3  7.2 38.1 100.0 38,6 15.4  6.5 39.5 100.0  千円 8, 577 6, 213 2, 467 1, 095 18, 352 8,419 5, 367 2, 200 10. 170 26, 156 6, 855 4, 866 1, 955 8,815 22, 491  90 30.4 22.0  8.7 38.9 100.0 32.2 20.5  8.4 38.9 100.0 30.5 21.6  8.7 30.2 100.0  貯  蓄  銀  行

人劇塩瀬金品分比

千人  156  366  122  454 1, 098  286  561  183  707 ユ,737  414  723  235  955 2, 327  90Zo 14.2 33.3 11.1 41.4 100.0 16.5 32.3 10.5 40.7 100.0 17.8 31.1 !0ユ 4!,0 100.0  千円 2, 512 6, 885 1, 281 7, 536 18. 214 4, 221 9, 348 1, 845 9, 978 25. 392 5, 352 10. 650 2, 335 11.706 30. 043  % 13.8 37.8  7.0 41.4 100.0 16.6 36.8  7.3 39.3 100.0 17.8 35.4  7.8 39.0 100.0 (出所)貯金局編,前掲書,45∼46頁。

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     郵便貯金制度の歴史的意義      一〇 とし、預金総額も五百円以下とされていた。その後記一三年には一人一力年預入額十銭以上三〇円までとされ、預金総額 の制限を廃止し、さらに同一五年半は一人一度の預入額を十銭以上、一日の預入額五〇円以下とし、駅逓局の認可を受け たもの、および慈恵団体の貯金に対してのみその例外を認めている。明治三三年に至り預金総額を五百円以下とする旧制       ︵12︶ に復し、同三八年に一人一度の預入額皿〇銭以上、預金総額を千円以下とし、その制限を拡張している。 一人当りの預入 金額が、銀行などに比し零細であったことはかような制限とともに、その利用者の性格にも由来するものであった。郵便 貯金の利用状況については資料が少なく、とくに創設期の状況をうかがうことは困難である。第2表は明治30年前後の三 力年における、郵便貯金および貯蓄銀行預金の預貯金者の職業別構成を示すものであるが、郵便貯金においては﹁農業﹂ の比重が﹁商業﹂あるいは﹁工業﹂に比して著しく高く、貯蓄銀行の場合は﹁商業﹂ の比重が高いことがうかがわれよ う。郵便局数の増加とその全国的な分布により、郵便貯金は他の銀行その他の金融機関に比し、農業者との関連がきわめ て密であったといいうるのである。  郵便貯金の利率は年により種目により異るが、明治期においては通常郵便貯金のみで、明治八年五月貯金業務開始当時 においては年三%、九年二月四%、同一二月五%、二年一月六%と漸次引上げられ、 一四年には七・二%の高利率とな        ︵13︶ っている。その後一八年一月明六%、一九年九月には四・二%となっている。すなわち明治期を通じ、 ﹁明治一四年∼一       ぬ  七年の七・二%を最高に、明治一九∼二四年の四・二を最低とし、ほぼ五%前後が普通﹂であった。  なお郵便貯金とともに、大蔵省預金繋資金の原資として活用された振替貯金は、その制度化が前者に比してややおくれ 明治三九年三月に至りその業務が開始されている。  ︵1︶大蔵省編﹃明治大正財政史・第一三巻﹄六三三頁参照。  ︵2︶前島密﹃郵便創業談﹄一二三頁。

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︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ ︵11︶ ︵12︶ ︵13︶ ︵14︶ 同右、一一七頁。 貯金局編﹃六十年間に於ける郵便貯金経済史観﹄六頁。 前島密、前掲書、 一一七∼一一八頁。 滋賀県庁編﹃滋賀県史・第四巻﹄四四∼四六頁参照。 滋賀県議会史編さん委員会編﹃滋賀県議会史・第一巻﹄一七一頁参照。 滋賀大学経済学部附属史料館所蔵史料による。 同右。 貯金局編、前掲書、八頁参照。 同右、一八頁参照。 東洋経済薪報社編﹃明治金融史﹄五〇頁参照。 同右、五〇頁参照。 志村嘉一﹁金融市場における預金部資金とその意義について﹂ ︵﹃金融経済﹄ 三 貯蓄奨励運動の展開 一九六〇年八月号所収︶。  郵便貯金制度の創設およびその後の展開については以上に述べたとおりである。前述のように郵便貯金は、明治一〇年 代後半期以降、順調な発展を実現しているのであるが、かような展開を可能にするためにはそれなりの理由が所在したの である。周知のように明治以来わが国においては、いわゆる貯蓄率が国際的にみて高い水準を維持しており、かような貯 蓄率が急テンポの経済成長を可能とせしめた一要因と考えられている。ところで高い貯蓄率をもたらした背景としては、 日本人固有の勤倹貯蓄性向、社会保障制度の未発達、あるいは凶作、水害など災害の頻発が、備荒貯蓄の必要を意識せし め、貯蓄への重要な誘因として作用したことなど、種々の理由があげられるのが一般であるが、旧幕時代からの経過にお いて、すなわちその歴史的要因として、商人あるいは農民など、いわゆる庶民の問に、勤倹貯蓄が尊重され、消費を節約 して貯蓄を高めていくことを美徳とする考え方が強かったことと、同時に時の為政者が財政上の観点から、これを積極的      郵便貯金制度の歴史的音心義      一一

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     郵便貯金制度の歴史的意義       一二 に奨励し、あるいは強制的にこれを推進せしめてきたことをあげることができよう。藩政時代において都市・農村をとわ ず、生活の苦しさの中に勤労節倹が尊重されてぎたのは、庶民における素朴な家族への愛情が大きな役割を果たしていた ものといえよう。徳川時代も後期になると、宿命的な生活慣習として受け取られてきた勤倹、節約といった道徳が、祖先 から継承されてきた家産を少しでも増殖して、子孫に受けついでいこうとする積極的な考え方と結びつけられてくるので あり、庶民意識の底流に存在する祖先崇拝の観念や家意識あるいは家族への愛情といったものが、勤倹、節約に示される 禁欲の思想と結びつけられているのである。西川如見が﹁町人嚢﹂で﹁家財は先祖より子孫栄久のために貯へ置れし物な れば、我身一分の栄花に費し失ふは大なる罪なり、おのれまったふして又童子に譲りあたふるは、先祖よりの預り物を又        ︵1︶ 先祖に返へす道理あり、是孝行の第一なり﹂と述べているように、家族制度と結合した勤労観は、庶民社会における精神 的内面的生活態度の向上を意味するものであった。庶民階層にあっても、とくに農民の場合には、農業労働や生活環境の 特殊性のゆえに、前述のような勤労主義思想は、生活に密着したものであり、それは農業生産力を増大せしめる背景たる とともに、農村における共同体的秩序を媒介として、相互扶助的な農民組織、例えば互助的な金融組織や備荒に関する蓄 積機関を育成せしめる契機となっているのである。  一方徳川期においては、為政者の側からも、風俗の矯正、備荒貯蓄、勤労節約などにかかわる指導・奨励が、封建体制 の維持を目的とする、彼等の政策的意図との関連において展開されてきたのであるが、とくに徳川中期以降幕末にかけて は、商品・貨幣経済の発展に基づく幕藩体制の動揺と、それにともなう新たな社会情勢の出現を背景に、庶民生活の実情 や、庶民の内面的心情に対する盲目的、楽観的な考え方を改めて、いわゆる経世済民の思想に基づく、利用厚生の術とし ての新たな実学の発達がもたらされることとなった。例えば救荒書、本草学、農学などに関する著作が公刊され、また庶 民の間に生まれたこれらの著作が、為政者によって意識的に採用せられ、備荒制度の必要をとき、また庶民教化の上で重

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要な役割を果たしているのである。  しかし貯蓄奨励運動が国家的規模において展開されるようになったのは、いうまでもなく明治維新以降のことである。 幕末・維新の政争を経て、明治新政権が生誕し、明治四年の廃藩置県を契機に、政府は中央集権体制の基礎を一応確立し えたのであった。しかし当時の政権の基礎は多くの面において薄弱であり、しかも国民生活の多くの部分について、旧時 代の残澤がなお根強く残存せしめられていたのである。明治政府の中央集権化にとって、焦眉の急務とされたのは、政府 の財政的基盤の確立であり、このためにまず地租改正が施行されることとなったのである。地租改正は、明治六年に着手 され、同一四年春至り一応の完了をみたところの、 ﹁徳川封建制から資本主義制への劃期の、最も基礎的な改革であり、 土地制度と土地課税との根本的変革を意味し、その主内容は、旧田制租法の弊害を菱除して、地価による定率地租の制を       ヨ  定め、以て新しい土地所有制度と税制の基本を確立する﹂ことを目的とする一大事業であった。  地租改正と並ぶ重要な施策として殖産興業政策の展開があげられる。殖産興業政策は、明治政府による最初の体系的な 経済政策であり、その主要なる目標は、鉄道・電信・海運・鉱山・造船・化学工業・紡績・製糸業などの育成、助長にお かれていた。しかしかような政策の遂行には巨額の財源を必要としたのであり、政府はこれが確保のために、政府紙幣の 発行や借入金によるところが多大であった。しかしかような措置の累積は、インフレーションを惹起せしめる原因となる ものであり、政府はこれが対策として、安定的な財源を確保するために地租改正事業を強行したのである。  周知のように明治前期においては、国民経済における農業亜門の地位は圧倒的に重要であった。資本主義経済は未発達 の段階にあり、明治二〇年代以降における紡績業あるいは製糸業などの発展を除けば、製造工業の多くは前近代的工業に 過ぎなかった。つまり﹁経済は米によって支配される傾向にあり、工業は主として地方的必需品をみたす手工業型であっ  お  た﹂のである。明治前期における生産国民所得の産業別構成比において、第一次産業の比率は五〇%代以上を占め、産業      郵便好金制度の歴史的意義      一三

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     郵便貯金制度の歴史的意義      一四 別労働力構成比においても七〇%代以上を占めており、さらに第一次産業の成長寄与率は、ほぼ三〇∼四〇%代を維持し ていた。すなわち農業部門の重要性が端的に示されているのである。そしてかような﹂段階において資本の蓄積を行なって いくためには、いきおい農民あるいは農業からのいわゆる収奪を通じて蓄積を行なうという方式が、不可避的とならざる をえなかったのである。政府経常収入のなかに占める地租の比重が、明治五、六、七、八年において八O%代に達し、明 治一八年において七六・六%、二三年においてなお五〇・七%ときわめて高い比率を占めていることがこの事実を明示し        る  ているのである。明治前期における政府の貯蓄奨励は、かような背景のもとに、地租の納入者としての農民に対し、義務 の遂行のために、生活態度を質素に維持し、勤労節倹を旨とすべきことを教化するための重要な手段に斜ならなかったの である。備荒儲蓄の制度化は政府におけるかような方向をもっとも具体的に示すものに外ならない。すなわち政府は地租 納入の確実を期するために、地租改正の進行と併せて、備荒儲蓄の制度化をはかり、政府の指示により各府県もこの制度 の具体化のためにっとめてきている。滋賀県における次の告諭はかような事態の推移を示すものといえよう。  社倉積穀ノ儀旧基ル明治三年善大津縣二於テ別紙ノ通り管内工及告諭坪庭多少電蓄ノ村モ有之其以降藩縣廃合ノ都度再 三及諭達心尽然ル庭昨年以来地租改正帯付テハ年ノ豊凶ニョリ納税増減不相三儀ハ勿論二型凶荒聖訓ノ爲メ年柄相當積蓄 野盗ハ實二今日ノ急務二宮自今一層注意致スヘク尤モ本年ノ如キ早事ト錐モ墨水不乏村々ハ相応ノ作柄二付無益ノ失費ヲ 省キ協救ノ道議遅漏様身許相慮精々勉励致シ前途一層積穀増加シ凶年豫備ノ實効濡濡候様可注意猶積蓄高ハ該区長へ可申 出区長ヨリハ区内取纒メ當聴へ可届出候事  右管内工無洩告諭スル者也        明治九年十一月十五日        ︵5︶

      滋賀縣権令籠手田安定

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 明治政府はこの間﹁備荒儲蓄法﹂の制定につとめ、明治一三年六月に至り同法が公布され、翌一四年一月から施行され ている。同法は﹁非常ノ凶荒不慮ノ災害二罹リタル窮民二、食料、小屋掛料、農具料、種差料ヲ給シ、叉罹災ノ爲メ地租︵国        ︵6︶ 税ノ部分二限ル︶ヲ納ムル能ハサル者ノ租額ヲ補助シ或ハ貸与スル﹂︵第一条︶ことを目的としており、これがために、各府       ︵7︶ 県は﹁土地ヲ有スル人民ヨリ地租ノ幾分二当ル金額ヲ公儲﹂せしめ府県儲蓄金の設置を義務づけられ、政府も毎年=一〇 万円を支出してこれを補助することとなったのである。儲蓄金の徴収方法については﹁府県会ノ議決ヲ以テ之ヲ定メ﹂る ものとされていたために、各府県会においてこれが審議が行なわれている。しかし本制度は地租の重圧にあえぐ農民に対 し、府県が区長に命じて強制的に蓄積を行なうことを意図していたために、強力な反対や抵抗が行なわれ、とくに松方デ        フレによる農村疲弊の増大を背景に、明治一四年以降各府県会の重要問題として紛糾の原因となっている。備荒貯蓄制度 の成果については、例えば福島県にみられるように、﹁明治前期備荒儲蓄法が公布され、主として備荒物を中心に行われ、       ︵9︶ 窮迫町村民の相互救助を目的として政府、県民一体となって救出に努力し、その効果叉顕著なものもあった﹂場合なども あるが、全般的にはその成果は満足すべきものではなく、備荒儲蓄金の滞納者が続出し、官治的な蓄積制度の限界を明確 に示していたのである。政府はこのため明治二〇年代より、新たな観点から民間における蓄積を促進せしめるために、報 徳社などの民間組織を重視し、豪農層を中心とした民間指導者と結び、勤倹貯蓄の奨励や、貯蓄組合の設立を推進するこ ととなった。その具体的な経過を広島県の状況についてみておこう。  ﹁明治十五、六年頃、銀、米の下落に伴ひ、諸物価下落し、金融愈々梗塞して、農家の疲弊甚しく、政府は襲に騨遁貯 金を奨励したりしが、更に勤倹貯蓄組合の設立を奨励し、明治十八年八月富田農商務権大書記官県下各各を巡回し、到る 所に経て戸長、勧業委員其の他有志を召集し、説くに斎家の趣旨を以てし、汎く勤倹貯蓄を強調したり。当時県は特に布 達して勤倹貯蓄組合設立標準を示し、 之が実践勧誘のことを郡区長以下に訓令し、尋で郡区長は之が督励の方法を設く      郵便貯金制度の歴史的音心義       一五

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     郵便貯金制度の歴史的意義       一六 等、勧誘に従事し、相当多数の勤倹貯蓄組合の設立を見たりしが、落首も亦後年設立せられたる信用組合の母体として見       ︵10︶ 逃す能はざる関係を有するものなりしと。  明治二〇年代以降において、貯蓄増強運動はさらに一層の強化をみるに至った。とくに日清戦争後、軍備の充実あるい はこれに照応する軍需産業部門の拡充が政府にとって重要な課題となり、国家財政は急速に拡大されることとなった。こ れにともない国民各層における零細な貯蓄を集積して、これに充当せしめる必要が急務とされるに至り、政府は勤倹貯蓄 を奨励し、様々な形態における貯蓄運動が展開されることとなったのである。例えば日清戦争後の明治三二年頃から登場 する、学童の貯蓄を推進するための郵便切手貯金、海外出稼人のための特別貯金など特殊貯金の新設、あるいは明治三七 年からの集配人取集貯金の開始などがあげられる。郵便切手貯金は、郵便局で交付する郵便切手を貼歯せしめ、郵便貯金 の最下限に達した時に貯金に繰入れるものであり、当時全国的な普及をみていた。農村地方の小学校などでこれがどのよ うに活用されていたかを、滋賀県下の一事例について示しておく。 ︵かような事例は当時の官報に多数記載されている︶  ﹁滋賀県甲賀郡下策町村ノ学校二野テハ学童ヲシテ害虫ノ駆除二従事セシメ農会ヨリ受クル各自ノ報酬ハ郵便貯金切手 ヲ以テ之ヲ下付シ学校其貯金帳ヲ保管シ費ヲ退クノ時学童ハ之ヲ学校基金二寄付スルノ例アリ是レ学童自カラ業務二従事        ︵11︶ シテ然ル後貯蓄ヲ爲スノ制ヲ尚トヒ貯蓄ヲ爲シテ之ヲ公共ノ黒戸貢献スルノ精神ヲ養ハンが爲メナリ﹂  本文は内務省地方局の編集した﹁模範的町村治﹂と題する資料に記載されるところであり、明治三〇年代における貯蓄 奨励運動が、国民内部の文字通りの零細な資金をも吸収し尽すために、網を張りめぐらしていたことをうかがわしめるの である。なお第3表は明治二〇年代初頭以降同末年に至るまでの郵便貯金の推移を示すものであるが、人員、金額ともに 順調な発展をみているが、とくに日露戦争の期間において、増税や国債引受けの重圧のなかで、なおかつ貯金残高の増勢 がみられたことは、前述のような貯蓄空言運動の成果とみることができよう。

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(第3表) 郵便貯金の推移②

人額 1金︶ 人預円 けり︵ 預当

現在高(年末)

人員金 塗

(人)  (円) 47 W9 X8 T4 Q5 T2 R3 X5 P2 P7

U896475462971駕315762⑳

   箆肱

       箆鉱皿凪拡1211臓軌ε臥皿11U毘玖15

      箆 箆 金 額 (円)  19. oF 14. 844  20. 149. 848  21, 854, 789  24, 815, 986  24. 962. 459  27. 748. 216  28. 078. 291  26. 335. 629  22. 492. 202  23. 332. 242  24, 015, 138  27. 009. 671  28, 804, 533  31.471.211  38. 779. 884  52. 836. 447  72. 266. 434  91.531.586 105. 330. 195 123. 379. 422 !61.026.815 183. 513. 763

年次

   797. 486    843. 320    911.427 1. 011. 285 1. 073. 747 1.179.555 1. 257. 695  1,256,915 !2337ユ9 1. 359. 030 1.883.262  2, 271, 799 2. 707. 118 3. 227. 658 4. 583. 355 5. 685. 551 6. 745. 677 7.837.695 8. 557. 077 9.815.058 11.017.555 11. 687. 047 明治23年    24 25 Q6 Q7 Q8 Q9 R0 R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 S0 S1 S2 S3 S4 (出所)貯金局編・前掲書,により作成。 ︵1︶ 西川如見﹁町人嚢﹂︵﹃日本経済叢書・巻五﹄︶   六九∼七〇頁。 ︵2︶大阪市大経済研究所編﹃経済学小辞典﹄六   七九頁。 ︵3︶ W・W・ロックウッド編大来佐武郎監訳   ﹃日本経済近代化の百年間四二頁。 ︵4︶拙著﹃近代日本農政思想の研究﹄四九∼五   〇頁参照。 ︵5︶滋賀大学経済学部附属史料館所蔵史料によ   る。 ︵6︶︵7︶ 産業組合史編纂会編﹃産業組合発達史   。第一巻﹄一三七頁Q ︵8︶ 滋賀県議会引田さん委員会下、前掲書、二   六二∼二六三頁参照。 ︵9︶ 産業組合史編纂三編、前掲書、 一四〇頁。 ︵10︶ 産業組合中央会広島県支会編﹃広島県産業   組合史﹄一∼二頁参照。 ︵11︶ 荻野千之助編﹃府縣郡市町村模範治績﹄一   〇頁。        四 大蔵省預金部の形成と機能  いわゆる大蔵省預金部の実体が、政府機構のひとつとして形成されたのは、明治一八年五月差ことであった。すなわち 太政官布告により﹁預金規則﹂が公布せられ、政府は同年大蔵省内に預金局を創設し、その職制および事務章程を定め、 従来国債局で取扱ってきた預金をすべて預金局に引きつぐこととなり、駅逓局貯金もまた預金局に預入れられることとな       郵便貯金制度の歴史的意義      一七

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     郵便貯金制度の歴史的意義       一八 つたのである。既述のように、駅逓局貯金は創設当時は第一国立銀行に預入れ、これを運用せしめていたのであるが、明 治一一年五月から、まずこれを第一国立銀行に預入れ、その預入高は駅逓局で取りまとめの上、さらに国債局に預入れ、 準備金中の預金としてその運用を計ることとなり、資金の預託先は第一国立銀行と国債局との二本建てとなったのであ  ユ  る。ここにいう﹁準備金﹂とは、政府により明治二年に創設された﹁積立金﹂を引きつぎ、明治五年六月に公布された         ﹁準備金規則﹂に基づき制度化されたものである。当時常用部と呼ばれた一般会計以外に、常用部の諸機能を補完するも のとして、のちの特別会計にみられるような役割を果たしていた制度であり、政府事業や民間事業に対する出資また融資 を行っていたのである。政府はさらに明治九年に至り、﹁準備金取扱規則﹂を制定し、この規則に基づき大蔵省国債局は、       き  ﹁官庁及官庁外諸向より先有する所の現金を、其の性質に従ひ準備金第三類中に預金として其の取扱を具す﹂こととな り、いわゆる政府預金制度が創設されたのである。この結果﹁騨逓局貯金及各官庁に於ける一時の絵有金蛙に民間に於て 神社仏閣等の諸建物保存の爲め蓄積する所の資金を預り、準備金と共に運用して利殖を計り、又は公債証書に交換して運     る  用利殖する﹂こととなったのである。  明治一八年五月新たに﹁預金規則﹂が公布され、大蔵省中に預金局が設置され、駅逓局貯金、各官庁の成規に従うとこ ろの積立金、社寺・教会・会社其の他人民の共有にかかる積立金を預り、運用利殖の取扱いを行なうこととなり、預金局 は政府預金の監督管理運用を行なう機関となったのである。大蔵省預金部の発端を、預金制度創設の時点に求めることも できようが、ここでは一応預金局創設をもって預金部の発端としておきたい。 ﹁所謂預金部なる名称は、当初は預金局預 金に属する現金の終局の出納勘定として、国庫中に設けられたものであり、預金局は新規の預金を預金部に払込むととも に、預金の払戻し又は運用のため現金を必要とする時は、預金部より引出してこれを使用し、その運用の実務はこれを日       う  本銀行をして取扱わしめたのである。﹂周知のように日銀は明治一五年に設立されており、政府の委嘱により国庫金の出

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納事務を担当していたひそして明治一八年から預金局預金も国庫金として同行に委託されることとなったのである。第4 表は国債局から預金局に引継がれた当時の預金高の内訳を示すものであるが、駅逓局貯金の圧倒的な地位と、官庁におけ る一時的余裕金、神社・仏閣など諸建造物保存のための積立金などが含まれていることが注目されよう。  前述のように、預金規則において認められていたのは、駅逓局貯金外二種の預金に過ぎなかったが、この他にすでに預 金制度創設当初より特別預金の預入れがあり、また明治二〇年代以後、法令の規定により、あるいは特定の法令なくして預 金部へ預入れられるところの各種預金が増加し、郵便貯金の躍進的増加とともに、大蔵省預金部資金は年々増加の一途を 明治18年6月末現在の預金高 (第4表) 額(円) 金 類 種 6.107.455.093  ) 一v t p   29.090.138    2. 100.000   242, 168.009 1, 074, 406.877  106. 697,056   19.666.725     ’ 駅  逓  局  貯  金

内務省所管保晃金

同   物部神社修繕費備金 大蔵省印刷局営業収益据置金 米国政府返還下ノ関償金

朝鮮政府填補金

傭外国人バロン・シーボルト 恩賜金 口 7, 581, 583.898 『明治大正財政史・第13巻』598∼599頁。 合 (出所) 預金部資金年度末現在高 (第5表) 年 度 現在高(円) 現在高(円)

年度

 77. 940. 475   ) V LvJ  60. 242. 390  68, 733, 770  90, 689, 275  96. 235. 241  81. 709. 294  75.910.020   t 一一v)  99, 756, 026 144.931.266 186. 043. 563 201.975.838 269. 860. 647 247. 688. 021 明治32年   33   34   35   36   37   38   39   40   41   42   43   44 !7. 418, 966 23.960.636 24. 320. 568   ) vmv) 26. 585. 205 25.664.397 20, 651, 702 22.708.511 23.619.!93 27, 218, 201 26.956.350   s vwU1 50.760.796 53. 380. 452 28. 352. 756 23.838.099   J wvw) 『明治大正調政史・第13巻』604∼605頁。 明治18年    19    20    21    22    23    24    25    26    27    28    29    30    31 (出所) 一九 たどることとなった のである。第5表は その経過を示すもの に外ならない。その 経過の大要を﹃明治 大正財政史・第一三 巻﹄の記述によって みておきたい。  ﹁今預金増加の大 要を窺ふに、当初預 金局が国債局より引 継ぎたる預金額は七 郵便貯金制度の歴史的音脚義

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     郵便貯金制度の歴史的音心義      二〇 百五十鯨古平︵明治十八年六月末現在︶に過ぎざりしが、明治十八年度末には千七百鞘当圓を算し、翌十九年度末には二千四 百飴萬圓に及べり。明治二十三年度には郵便貯金の減少と、会計規則の整備に伴ふ三十積立金等の梯喜多かりしが為め、 年度末現在高は減少して辛うじて二千萬圓壷を維持したりしが、其の後再び増加して、明治二十八年度には軍事公債発行 せられ、国庫飴湯金二千百萬圓を日本銀行より預入するあり、日清戦争の好況に件ふ郵便貯金の増加と相挨って、同年度 末には五千萬圓を突破したり。然るに明治三十年度には前記日本銀行預金の梯戻あり、翌三十一年には郵便貯金の減少等 ありて、年度末現在高は再び二千萬圓毫に減少せり。明治三十二年度には軍艦水雷艇補充基金・教育基金及災害準備基金 の所謂三基金の預入せらるるありて、年度末現在高は七千七百鯨萬圓に達せしが、翌年には清国事変勃発の為め、軍艦水 雷艇補充基金預金中二千萬圓の差戻ありて、六千萬圓壷に減少せり。越えて明治三十七年度以降に於ては貯蓄債券募集金 の預入あり、南満洲鉄道株式会社外債手取金も亦明治四十年度より預入せられしが、他方明治三十七八年の爾年度には日 露戦役費支辮の為め所謂三基金の預入は大部分沸戻されたる為め、結局三十七八雨年度に於ては約二千萬圓の減少を見た り。然れども其の後戦後財界の好況持に郵便貯金の増加に伴ひ預金現在高は引続き増加の傾向を辿り、明治三十九年度末 には九千九百鯨萬圓、翌四十年末には一億四千四百鯨萬圓、四十三年度末には二億六千九百絵萬圓に達せり。然るに翌四 十四年度に至り新に東京市外達書集金の預入ありしも、南満洲鉄道株式会社外債募集金預金の大部分の梯戻あり、為に年        ︵6︶ 度末現在高は二億四千七百鹸萬圓に減少せり。L  明治二〇年代後期以降日本経済は本格的な発展を実現するのであるが、この間明治末年に至るまで数次にわたる景気の 後退や日清・日露の両戦役を経過する。預金部資金もまた日本資本主義の全般的な上昇気運を背景に拡大を続けているの であるが、しかし不況や戦争などによりその振幅は大きく、預金部資金の累増過程そのものが、政治・経済の動向を端的 に反映しているのである。

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 この間大蔵省預金局は、国庫出納制度の改正により、明治二六年一一月に廃止されることとなった。このため従来預金 局が取扱ってきた預金および各種の金銭・有価証券の保管事務は日銀総裁を出納役とする金庫によって取扱われることと なり、大蔵省はこれを管理・監督するに止まることとなったのである。なお預金部預金に関する大蔵省の事務は、その後 明治三〇年四月に大蔵省に理財局が新設されるに及び、主計局より同局の所管に移され、理財局国庫課の主管とされて大 正一四年に及んでいるのである。しかし前述の﹁,預金規則﹂は、預金局廃止後においても、預金の預入れおよび運用に関 する唯一の根本法規として、大正一四年に新たに預金部預金法が制定されるまで、その機能を果してきたのである。大蔵 省預金部の形成過程および同預金の累積状況などについては以上にとどめ、次にいわゆる預金部資金の運用面について若 干の検討を加えておきたい。  預金部資金の運用面については、明治期を通じ、国債証券に対する投資が最も重要であったといえよう。後述のように 明治四〇年代においては、特殊金融機関の債券引受け、特別会計への貸付、地方債証券の引受けなどに活用されているが とくに明治一〇年代から三〇年代にかけては、専ら国債の引受けに充当せしめられていたのである。  周知のようにわが国における国債の発行は、明治三年に発端を有する。明治初年の国債は、外貨債が多く、また交付国 債が主要分を占めていた。 ﹁明治元年より十年に至る間に、政府の起した公債は七種に達し、九分利付外国公債、七分利       ︵7︶ 付外国公債、新公債渠魁公債、金利引換公債、秩禄公債、金禄公債﹂などがこれであったが、松方デフレ終熔後、近代的 な信用制度の形成とともに、明治一九年整理公債条例が制定され、近代的な国債制度への転換が行なわれてきたのであ る。国債の発行はいうまでもなく財源不足に悩む明治政府にとり、重要な財政資金補填の途であり、その消化が急務とさ れたのであるが、引受けには金融機関が活用され、明治七年以来国立銀行により、同九年より民間銀行により、さらに明 治一三年からは横浜正金銀行によりその引受けが行なわれており、また前出の﹁準備金﹂においても明治一〇年代を通じ      郵便貯金制度の歴史的意義       二一

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(第6表) 預金部保有国債証券年度末現在高      郵便貯金制度の歴史的意義       二二 国債の購入が行なわれているのである。ただ﹁準備金﹂の場合は、出納局に対する貸付金が大部分を占め、国債に対する 投資は少額であった。明治一八年の預金局の創設後、預金部資金の国債への投資はその主要なる運用対象となり、前記の 銀行につぐ国債引受け機関となったのである。志村嘉一氏は当時におけるかような事態について次のように述べている。 ﹁整理公債発行以後、国債分布に占める銀行のウエイトは高い。また第二位を占める預金部資金が、郵便貯金に依存して いる事実を考えると、民間での貯蓄資金の形成が公債制度の近代化11公債市場の形成のひとつの重要な資金的基盤をなし       き  ている事実が窺知できる﹂と。なお第6表は、預金部による国債投資の推移を示すものであるが、日清・日露戦争におい てとくに軍事費調達のために国債が発行せられ、預金部資金がその消化のために使用されていることがうかがわれるので ある。前述のように、戦時においては多様な形態での貯蓄の奨励が行なわれ、とりわけ郵便貯金の増加は著しかったので あるが、この場合の貯蓄の意義は、巨額の国債を国民貯蓄によって引受けることにより、できうる限りインフレーション の拡大を防ぐことに求められているのである。       大蔵省預金部資金は、前述のように、金本位制確立以後 現在高(円)    964. 276  22, 387, 104  23, 550, 762  20, 592, 451  23, 008, 004  53. 610. 015  32. 925. 915  50, 431, 732  61, 352, 945  48, 697, 160  39. 207. 572 109.927.717 184. 343. 188 128,188,299 度 年 明治!8年    20 22 Q4 Q6 Q8 R0 R2 R4 R6 R8 S0 S2 S4 (出所) 『明治大正財政史・第    13巻』808∼809頁。 郵便貯金あるいはその他の預金の増加により急速な増大を 示し、資金運用の面においても国債投資以外に新たな活用 対象が加えられることとなった。特殊金融機関の債券引受 などとくに注目すべきものであった。周知のように、わが 国においてた、明治三〇年代初頭以来、公信用制度の整備・ 確立が推捗し、既存の金融制度に新たな要素を加えること となったのである。ロックウッド︵毛・毛・い。。衝。巳︶の表

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現によってこの経過をみておこう。  ﹁近代日本の信用制度は、一八八○年代に形を整え始めた。増加する民間銀行に加えて、 一群の政府金融機関および準 政府機関の創設は支配的な重要さを持つものであった。横浜正金銀行︵一八八○年︶は、日本の主たる外国為替銀行となり、 日本銀行︵一八八二年︶は紙幣発行と国庫収入を取扱う中央銀行となった。勧業銀行︵一八九六年︶は、不動産を担保として 長期低利の貸付をする四七道府県の農工銀行に対する中央機関として設立された。日本興業銀行︵﹁九〇〇年︶は、大規模 産業や南満州鉄道会社のような政府事業に融資し、その経営のため巨額な外国資本の借入れを行った。その他の植民地事 業は、官設の台湾銀行︵一八九九年︶、東洋拓殖会社︵一九〇八年︶、朝鮮銀行︵一九〇九年︶によって企てられた。最後に零       き  細郵便貯金から成る大きな流れを吸収して国債や半官半民事業への投資を行う大蔵省預金部を挙げなければならない。﹂  大蔵省預金部資金は、とくに明治四〇年代より、勧業債券、興業債券など金融債の引受けや地方債の引受けに活用され、 また特別会計に対する貸付などにも利用されることとなったのである。明治四〇年代以降における預金部資金は、 ﹁財政        ゆ        当局者政策実行ノ方便影供セラレ﹂、その多くは﹁国債証券、外国債券又ハ諸会社々債二投資﹂されることとなり、この ため資金は中央または海外金融市場に分布され、 ﹁預金部ハ零細ナル資金ヲ地方二単離テ中央二之ヲ放チ一国金融市場ヲ         ︵12︶ 頭熱足寒二到ラシム﹂る原因ともなったのである。  大蔵省預金部資金が、地方在住の農民その他の零細資金を集積したものであるために、その資金の地方への還元は当然 考慮されてしかるべきものであった。しかし実際には明治末年に至るまで具体策が講ぜられず、明治四〇年代に至り、国 会において資金の地方還元と、その公共団体への融通が要望されるに及び、明治四二年五月、逓信大臣後藤新平、大蔵大 臣桂太郎、内務大臣平田東助の三大臣名をもって、 ﹁郵便貯金奨励及運用二関スル三大臣訓令﹂が地方長官宛坐せられ、 預金部資金の地方還元が策されており、いわゆる地方資金融通の沿革において、重要な意義を有するものであった。同訓      郵便貯金制度の歴史的意義       二三

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     郵便貯金制度の歴史的意義       二四 令の一部を引用しておきたい。  ﹁加フルニ全国各地二就キテ仔細二之レヲ究ムルトキハ遺利ノ開発スベキモノ産業ノ作興スヘキモノ甚多シ宜シク尚一 層ノ奨励ヲ加へ以テ愈々各人勤労ノ風ヲ興シ更二生産ノ増加ヲ促カスバ洵二刻下ノ急務タリ而カモ其ノ辛苦二成リタル鯨 資ニシテ徒ラニ之ヲ費消シ敢テ増殖運用ノ法ヲ講セサルカ如キハ民業ノ進歩ヲ期スル所以ニアラス又箇々各人ノ手二散在 スル零細ノ資モ尚能ク之ヲ蓄積シテ汎ク活用ノ道ヲ開カンカ優一二般ノ生産ヲ進ムルコトヲ得可シ此ノ如ク貯蓄漿励ノ真 意ハ営二消極ノ節約ヲ奨ムルニアラスシテ一二生産ヲ進メ民資ヲ纏蓄シ進テ地方開発ノ基礎ヲ立テントスルノ趣旨ナルヲ 以テ此旨ヲ諒シテ具サニ其ノ道ヲ端サムコトヲ望ム而シテ郵便貯金ト地方経済ノ調和二関シテハ政府夙二融資ノ法ヲ講ス ル所アリ今回愈々公共団体二対シテ資金供給ノ法を定メ以テ民力培養二資セトス各位又宜シク此意ヲ膣シ各自ノ勤労ト貯 蓄トハ一家一郷ノ爲二繁栄ヲ開キ又地方公益事業ノ爲メ有用ノ資源ヲ與フルノ道タルコトヲ諭示シ部下ノ諸僚並町村ノ當        あ  局者其ノ他有志者ヲ督励シ管下一般ヲシテ尚一層其業二励ミ民資ノ充実ヲ図ルニ努メシメンコトヲ期セラルヘシ﹂  前記の訓令は預金部資金による地方資金融通の必要およびその趣旨を述べたものであり、この結果特殊金融機関を経由 ⋮機関として、地方公共団体あるいは農業団体などに対する融資が本格化せられることとなった。しかし当時の預金部資金 の運用には、適切なる規定が存在せず、大蔵大臣の一存で資金の融通を自由に行ないえたために、産業資金供給の美名の もとに、財界の救済に多額の資金が放出され、あるいは殖民地投資に活用され、地方資金の融通は少なく、充分な役割を        む  果たしえなかったのである。  ︵1︶大蔵省預金部の形成過程については、主として大蔵省編﹃明治大正財政史・第=二巻﹄、山田幸太郎﹃大蔵省預金部論﹄、小川郷太郎﹃預金部論﹄   などを参照した。  ︵2︶ ﹁準備金﹂については.高橋誠﹃明治財政史研究﹄第二章に周到な考察が行なわれている。  ︵3︶大蔵省編、前掲書、五六頁。

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へ4︶ 同右ト五六六頁。 ︵5︶ 同右、五六九∼五七〇頁。 ︵6︶ 同右、六〇二∼六〇三頁。 ︵7︶ 同右、九〇頁。 ︵8︶ 志村嘉一﹁日本の公社債市場﹂︵﹃証券経済講座・5﹄所収︶二二買㊨ ︵9︶ W・W・ロックウッド四・中山伊知郎監訳﹃日本の経済発展・上巻﹄三三三頁。 ︵10︶ 山田幸太郎﹃大蔵省預金部論﹄一三〇頁。 ︵11×12︶ 同右、=一二頁。 ︵13︶ 奥田孝一﹃地方債概論﹄九五頁。 ︵14︶ 同右、九七∼九八頁参照。 五 む す び  日本における郵便貯金制度の形成過程、およびその歴史的意義についての概観は、以上に考察したとおりである。日本 経済の発展過程において、明治時代とくにその前半期は、いわゆる資本蓄積が強行せられた時期であり、政府はこの間、 殖産興業政策を推進し、地租改正を遂行した。それは国家的課題たる富国強兵の目標を達成するための基礎的過程に外な らなかった。しかし同時にわれわれは、明治八年郵便貯金制度が創設され、以来明治期を通じて急速な発達をとげ、金融 的な側面を通じて、脆弱な財政を補強するとともに、他面において、貯蓄奨励運動を通じ、国家主義的な心情を育成し、 中央集権体制の確立・強化に寄与してきた事実を看過することができない。貯金という行為は本来自発的貯蓄としての性 格をもつべき筈であるが、日本においては、国家目的・政治目的との関連においてつねにその重要性が唱導され、明治時 代においては、国民の義務として強制的な形態において推進されてきたのてある。ところで郵便貯金は、農村を中心とす る細民の預金であり、明治後期においては預金部資金の七割程度を占め、まさに預金部資金の大宗となるに至っている。      郵便貯金制度の歴史的意義       二五

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     郵便貯金制度の歴史的音心義      二六 預金部資金の累積は﹁国家的施設によってのみ、吸収し集中することが可能な下すい地まで含めて、零細な資金を根こそ     ︵1︶ ぎ動員して﹂はじめて可能となったのである。農民あるいは勤労者階級に、低い生活水準を持続せしめながら、一方にお いて相対的に高い貯蓄率を可能とせしめた国家的施設こそ、郵便貯金制度であったということができよう。ヌルクセ︵菊・ Z霞訴①︶は、日本において、低い生活水準からどのようにして高水準の貯蓄が可能であったかについて云及し、工業化の       ヨ  初期段階において、 ﹁進歩した消費水準の誘引﹂すなわちデモンストレーション効果を遮断し、生産水準と生活水準との       ︵3︶ 相違を、きわめて自然に利用することによって達成してきたものとしている。ヌルクセによれば、日本は工業化の初期段 階において、総ての面において西欧を模倣したにもかかわらず、消費の型においては伝統的なパターンを維持し、そして        かような経過が、国内資本形成と工業的発展とを成功せしめる一因となったとしているのである。郵便貯金制度の形成過 程を顧りみるとき、ヌルクセの仮説は甚だ示唆的であるといえよう。そしてかような工業化政策の強行は、他面において 国民大衆の生活水準向上への抑圧を意味し、国民的福祉の向上に逆行するものであったことは、改めて指摘するまでもな いのである。しかし問題は郵便貯金制度そのものにあったのではなく、かような制度を育成し、活用した政府の政治姿勢 そのものに存したものといわねぽならないのである。  ︵1︶ 今井則義﹃日本の国家独占資本主義﹄二〇〇頁。  ︵2︶ R・ヌルクセ︵土屋六郎訳︶ ﹃後進諸国の資本形成﹄一一〇頁。  ︵3︶ 中山伊知郎﹁経済発展における政府の役割﹂ ︵有沢広已外編﹃経済主体性講座。5﹄所収︶一一二∼二三頁参照。  ︵4︶ R・ヌルクセ、前掲書、 一一〇頁参照。

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