ISSN 1346 2156
第
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8
号
真宗における仏事
講 演 近世真宗の社会的実践 僧叡 (,tj泉)学派を中心に一 道場としての寺の課題と使命 研究発表 古代中世移行期における法華一乗 思想の展開とその歴史的意義 親驚の『観経』三心観 一「化身土巻」の問答を通してー 『浄土論註』における「真実功徳」の 言音について 真宗教学学会講演会一歴史のなかの親鴛ー 親驚聖人と恵、信尼公 『伝絵J
から『絵伝』へー聖人像の展開 真宗教学学会高回大会 専修念仏と神祇不拝 なぜ念仏は弾圧されたのか 「愚禿穆親驚」の誕生 2006年度教学大会発表要旨2
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7
年
6
月
真 宗 教 学 学
児 玉 識 1 竹 中 智 秀 28 東 舘 紹 見 42 青 木 玲 63 黒 田 浩 明 75 平 松 令 コ 87 沙 加 戸 弘 101 佐 藤 弘 夫 123 楽 Z豆、 ~ 真 149 171講
I貝 真宗大谷派教学大会 二OO
六年度近世真宗の社会的実践
||僧叡︵石泉︶学派を中心にl
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に の し ま はじめに l l l 真 宗 篤 信 地 ・ 似 島 ︵ 広 島 市 ︶ の 宗 近世真宗の社会的実践 ご紹介いただきました児玉です。よろしくお願いいた します。最初に少しお断りをさせていただきます。私は 山口県の西本願寺系寺院︵通称﹁お西﹂︶の住職をいた しており、研究も主として西本願寺系の寺院、門徒の史 料に基づいてやっておりますので、同じ真宗でも東本願 寺系︵﹁お東﹂︶のみなさんには、非常に一方的な、偏見 としか思えない部分も多かろうかと思います。本来なら ば、﹁お東﹂の史料や研究も十分に踏まえた上で話すベ l日 /l.J玉
識
きですが、今の私にはそれが出来ませんので、疑問に思 われた点に関しては後でご意見を聞かせていただくこと にして、とりあえず我慢して聞いていただきますようお 願 い い た し ま す 。 また、みなさんの中には真宗学専攻の方が多いと思い ますが、私は真宗史学専攻で、真宗学については非常に 不勉強です。しかし、今日は大胆に、不勉強な真宗学の 分野にも踏み込んで話してみたいと考えております。し たがって、真宗学の方が聞かれたら、 J ピントはずれの部 分も多々ありましょうが、真宗学と真宗史学の交流が必 要であることはだれしも感じているところです。そこで 今日は、ピントはずれと言われようとも、真宗史学の観点から真宗学の方々へ私の考えを率直に投げかけ、 を今後の研究の踏み台にしていきたいと思っていますの で、学問的にははなはだ未熟な内容になることでしょう が、お許しくださいますようお願いいたします。 さて、本論に入る前に、数年前から私が関心を寄せて いる真宗篤信地帯の一つの光景について報告させていた だきます。私は、四十年以上も前から真宗篤信地域の風 習あるいは史料をたびたび見て回っているのですが、今 日もその一例をまず紹介することから始めさせていただ きます。広島の宇品港から船で南に二卜分くらいの所に に の し ま 似島という局
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富士山に似ているのでこう呼ばれるん だそうですがーーがあります。この島は、人口千六百余、 世帯数七百余で、産業は十川くから回船業を主とし、今も 多くの人が海運関係の仕事をしています。全一いが真宗門 徒ですが、ここは、私が今までに行った所で、これほど 真宗信仰が現在でも盛んな地域は他にはないのではない かと思うほど、門徒の宗教活動の活発なところです。 私がこの島を最初に訪れたのは十年以上も以前のこと です。そのときまず驚いたのは、各種の信仰行事を推進 しているのが寺ではなく、島民みずからである点です。 すなわち、島民の檀那寺は二っとも旧広島市内にあって、 こ れ 島には寺は一か寺もなく、説教所が一つあるだけですが、 その説教所︵教会︶で行われる行事はすべて島民によっ て営まれています。たとえば、毎年、説教所ではご正忌 ︵ 一 月 ︶ 、 春 彼 岸 会 ︵ 一 二 月 ︶ 、 永 代 経 法 要 ︵ 四 月 ︶ 、 降 誕 会︵五月︶、原爆忌︵八月︶、盆会︵八月︶、秋彼岸会 ︵九月︶、報思議︵十月︶の定期法要がそれぞれ三日間 ︵各五席︶聞かれますが、その際の布教師の接待から、 内外陣の荘厳、島民への案内、費用の徴収、会計事務ま ですべて島民の中から選ばれた世話人、役員が行ってい ます。さらにこれ以外に、普通は個人の家でそれぞれに 常まれる先祖の年団法要を、個人の家ではなく、有志の 遺族が布教師を招いて説教所で、一般島民も加わって法 話を聴聞する﹁法供養﹂と称する法座形式で聞いていま す。こうした﹁法供養﹂が年間には三01
同O
回︵一回 の法座は五席三日︶営まれますが、その際も費用はすべ て遺族が負担して一般の定期法要と同じ形式で行ってい ます。こうした法隆には、定期の場合も、法供養の場合 も常時 A 一OO
人 前 後 、 多 い と き は 二 一o
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人が説 法聴聞に参詣するのですから驚きます。この他に、在家 の報恩講もあり、人々は年間にはおびただしい数の法廷 につらなることとなります。また、この島ではほとんどの人が本山で﹁御剃髪﹂を 受け、法名を授与されていますが、現在でも小学校五、 六年生になると、みんな本山参詣してこれを受けている よ う で す 。 寺もないのに、一体なにがこれほどまでに人々の信仰 熱を高めさせているのか探ってみまするに、その原動力 は地域別に組織されている東議、中講、西講という三つ の講中にあるようです。この講中組織が非常にしっかり していて、講中単位に法座の費用も捻出されるし、聴聞 の風習も守られているわけですが、その講中では、今は 存続していませんが、昔はお寄講︵小寄講︶が聞かれ、 それが大変に活気のあるものだったようです。こうした 講での説法聴聞と共同飲食その他の諸行事が講中の結び つきを強め、それが人々の信仰心を培ううえで大きな役 割を果たしていたのでしょう。私はかねてから、近世中 後期の真宗篤信地域における信仰活動の強さは、寺より も講||とくに地縁的な小寄講 H 共同体ーーによって育 成されていたということを強調しているのですが、それ だけに、似島でも小寄講が盛んであったことを確認でき、 我が意を得た思いでした。 講 演 の 最 初 に 、 近世真宗の社会的実践 3 こ う し た 、 寺院が存在しないにもかか わらず信仰活動の活発な地域のあることを紹介したのも、 真宗信仰は、寺院側から民衆に押しつけられたというよ りも、近世民衆の生活単位である共同体と不可分に結び ついて育まれていったという面があるのではないかとい う私の年来の考えを補強する一例を示したかったからで す。では、なぜ共同体では真宗と結びつく必要があった のか。これについて私は、真宗信仰には共同体を強化す るうえに有効な要素︵たとえば、真宗では平等、勤勉、 連帯、質素、正直、忍耐といった通俗道徳を他宗以上に 強調する︶が多々あると民衆が感じ取っていたからでは ないかと考えています。そして、だからこそ小百姓層主 導の新しい共同体が台頭してくる近世中後期に真宗信仰 の高揚があったのではないかということを私は主張して い ま す ︵ 拙 著 ﹃ 近 世 真 宗 と 地 域 社 会 ﹄ 、 二 OO 五 年 、 法 蔵 館 ︶ 0 その当否はともかくとして、ここでは、少なくとも安芸 地方の真宗は共同体と深く結びついていた、つまり生活 と密着していた、だから寺がなくても在家主導で活発な 宗教活動をなし得る場合もあったということを強調して おいて、次の問題に入りたいのですが、その前に、後の 話との関連で今ひとっここで述べておきたいことがあり ます。それは、似島だけでなく、この沖合いの江田島、
4 倉橋島あたりの島々も真宗信仰の非常に強いところで、 じようあきじ 今でも常朝事︵毎朝、法座を聞くこと︶をやっている寺 がいくつもありますが、この地方で真宗を盛んにしたの が芸轍石泉学派の祖といわれる僧叡︵石泉︶だったと伝 えられていることです。以上のことを頭の片隅において、 これからの話を聞いていただきたいと思います。 近世中後期真宗研究の一視角 話がまるっきり変わりますが、近年、武士道について の本がたくさん出ています。これは、最近、日本人に倫 理観が薄れてきたことを憂えるからのようで、例えばベ ストセラーになりました﹃国家の品格﹂という藤原正彦 の著書を見ましでも、現在の日本人に倫理観、道徳心が 薄くなっているが、かつての日本人は非常に倫理性が強 かった、そして、それは武士道が盛んだったからで、そ れが廃れたために日本人に倫理観がなくなり、犯罪が増 えたということをしきりに述べています。こういう考え 方に共鳴する人が多いからこの本がよく売れているので 1 レ ト 1 6 、 叶 ノ O しかし、武士道がそんなに民衆に影響を与えたでしょ うか。藤原氏は、いろんな物語や芝居を通して、民衆に も武士道が浸透したといっています。そして、武士道に よって民衆が倫理観を得たということは、江戸時代、宗 教が民衆に倫理を教えるほどの強さをもっていなかった からと考え、﹁宗教の力がそれほど強くない我が国でそ の役割︵倫理性の函養︶を果たしたのが武土道である﹂ とはっきり書いています。日本では江戸時代に宗教が弱 かったからそうなったんだと言うんですが、この見解は 正しいのでしょうか。宗教史研究者の問でも、近世社会 での仏教の影響力をどう見るかでは意見が分かれており、 中世に比べて近世では仏教の影響力は非常に弱かったと 考える研究者の方が全体的には多いようです。しかし、 本学の大桑斉先生は、近世社会で仏教は強い影響力をも っていたということをしきりに主張され、﹁近世は仏教 的 世 界 で あ っ た ﹂ ︵ ﹁ 仏 教 的 世 界 と し て の 近 世 ﹂ 、 ﹁ 日 本 思 想 史﹄給、一九九六年、ぺりかん社︶とまで言われています。 私もその見方に賛成するものです。したがって、私は江
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時代には仏教が弱かったから民衆に倫理を教えること は出来ず、武士道がそれをしたという藤原氏の見解に賛 成する気にはなれません。そうではなく、仏教を通して 民衆はさまざまな倫理を学んだのではないでしょうか。 その仏教のなかでも、もっとも倫理と深く結びついていたのが真宗であったというのが私や有一冗正雄氏の考えで す ︵ 有 一 冗 正 雄 ﹁ 真 宗 の 宗 教 社 会 山 と 一 九 九 五 年 、 占 川 弘 文 館 、 前 掲 拙 臣 官 ︶ o それは、真宗優勢地域の調交をしていると、 門徒社会には独特の倫理観 H エートスが形成されていた ことを実感させる史料や風習にしばしば接するからです。 このことは史料ーからもご理解いただけるでしょう。 史料 近世真宗の社会的実践 け だ し 聞 く 、 其 の 徒 ︵ 注 、 真 宗 門 徒 ︶ 、 う ち 本 朝 を 山 田 市 ぴ、そと夷秋を憤り、入りでは家に孝に、出でては 郷に義にして、禍一禍を悼れず、生死を顧みず、凡そ 其のかくの如き者、奴隷婦女に至るまで、際然とし て 風 を 成 せ り と ︵ ﹃ 吉 田 松 陰 全 集 ﹄ 第 二 巻 、 原 漢 文 ︶ これは、吉田松陰が、真宗僧で熱心な尊嬢運動家でも あった周防の月性が本山の命に応じて上洛する際に送っ た激励文の一節です。松陰は典型的な武士道の体現者の ように言われていますが、その松陰が、真宗門徒が独特 の倫理観をもっていることに驚いていることがこの丈立早 から読みとれます。吉田松蔭はもちろん真宗信仰者では ないのですが、彼がこのように真宗門徒を見ていたこと は 確 か で す 。 松陰に限らず、江戸時代の知識人の書いたものにはこ ういう類のものがたくさんあります。私はそういう史料 を見ていると、民衆の倫理観を武士道だけから説明しよ うとする﹃国家の品格﹄の説に疑問が感じられてなりま せん。少なくとも真宗門徒の場合、その倫理観は、武士 道からではなく、門徒社会の信仰生活の中で培われてい ったものだったのではないでしょうか。かれらは、自ら の共同体秩序維持のために、真宗信仰に基づいて自己規 律としての倫理 H 通俗道徳を身につけていったのであっ て︵そうしないと共同体を安全に維持できないのでて それは武士道とは無関係だったと思います。 ところで、月性について述べましたが、月性に強い影 響を与えたのが安芸の宇都宮黙震という真宗僧でした。 黙震は聾唖の身でありながら、勉学に励み、筆談を通し て識見を広め、月性以上に過激な尊撰運動家として活躍 した人物です。松陰はこの黙霧とも親交をもち、黙索、 月性の二人の真宗僧から強く思想的影響を受けて、最終 的に幕政改革論者から討幕論者へ転じていったのでした が ︵ 海 原 徹 ﹃ 明 治 維 新 と 教 育 ﹄ 、 一 九 七 二 年 、 ミ ネ ル ヴ ア 書 房 ︶ 、 二人のうちでもとくに黙震の影響は大きかったと思われ ます。それを物語るのが黙霧と松陰の問でたびたび交わ された往復書簡で、史料 2 はその書簡の片隅に松陰が記
6 し た 文 章 で す 。 史料 右黙霧は一向宗の僧なり。耳一向聞こえず言舌不分 りなれども、志は至って高し。漢文を以て数度の往 復之れあり候処、終に降参するなり。此の人は芸宇 土 演 の 産 な り ︵ ﹃ 吉 田 松 陰 全 集 ﹂ 第 七 巻 、 原 漢 文 ︶ この一文から分かるように、松陰は聾唖の真宗僧黙霧 の考えに屈服したことを告白しています。そして、これ 以後、過激な討幕論を説くに至り、やがて高杉晋作、久 坂玄瑞らの多くの門下生が松陰の死後、その遺志を継い で討幕戦争へ突進していったのでして、黙霧の明治維新 に果たした役割は大きいものがあります。 さて、真宗篤信地域似島の話から始めて、門徒の倫理 観に転じ、さらに松陰、月性を経て黙宗へと移ってしま い、﹁いったい何が言いたいのか﹂と言われそうですが、 私が注目したいのは真宗における社会的実践という問題 です。また、そのことは分かるにしても﹁お前の話には 一貫性がないではないか。それに、真宗の社会的実践性 の強さが目立つような事例ばかりを強調しているが、そ れらはいずれもきわめて例外的な現象としか考えられな い。例外ばかりをピックアップして紹介しても学問的意 2 義はないのではないか﹂とお叱りを受けそうですので、 少しばかり弁解させていただきます。確かに現在の教団 状況から見ると、真宗の社会への影響力は非常に弱く、 みなさんの中にも、これまで私が述べたようなことはご く稀な現象であって、突然変異的に生じた事例ばかりを 並べ立てても、それは真宗の社会的実践を論ずる上でな んら学問的意義をもたないことではないかと思っておら れる方が多いことでしょう。 しかし、なんらの脈絡もないように見えるそれぞれの 事象にも、もしその背後に共通のなにかがあれば、その 影響下に生じた現象だったのではないかという考えも出 てくるわけで、そうだとすると、かならずしも例外的、 突然変異的事例の列挙とはいえないのではないでしょう か。そして、それにスポットを当てることによって、近 世後期の真宗史をこれまでとは違った視角から捉える手 がかりを得ることも出来るのではなかろうかと、最近、 漠然とながら私は考えているのです。 そこで、これらの現象の背後に流れていた共通の水脈 があったかどうか、あったとすればそれはなんであった かが問題となってきますが、話が複雑になるのを避ける ために結論を先に言えば、それは先にも少し申しました
安芸の僧叡︵石泉︶とそれに近い学僧たちの教学や行動 だったのではないかと私は思うのです。といっても、そ の関係はあまり明確なものではなく、﹁風が吹けば桶庄 がもうかる﹂式の論にすぎないと一笑に付せられるかも しれませんが、それでも私は、わずかに感じられる程度 の関連でも、その関連の糸を手繰り寄せ、その内容を検 討することによって、当時のこの地方の門徒社会の特質 を少しばかりは嘆ぎとる手がかりを得ることができるの ではなかろうかと思っているのです。 そこで、まだ学問的にはあまり煮詰めてはいないこと を話すのは失礼かとは思いますが、以下にこの間題を取 りあげ、最近感じている事柄を率直に申し述べさせてい た だ き ま す 。 僧 叡 ︵ 石 泉 ︶ の地域社会への影響 近世真宗の社会的実践 先に似島の話をしたとき、似島に限らずこの近辺では 真宗門徒の活動が活発であること、そして、この地方の 真宗発展に僧叡が貢献したと伝えられていることを述べ ました。また、真宗篤信地域では小寄講活動が盛んであ ることについても触れました。そこで、次に問題にした いのは僧叡と小寄講の関係ですが、ここで注目されるの 7 が史料 3 に 掲 げ た “ 丈 で す 。 史料 3 是迄ハ兎角世間之出入機之事ニ而も異種意魂を差挟 ミ、同行之寄合等ニ打混じ候事甚以不心得ニ候問、 自今己後右等之義相慎ミ決シテ同行之付合へハ出し 不申候事、殊ニ御法義頂戴之上よりハ信後之身慎ミ ニ候ヘハ、申迄も無御座右等之事ハ相備ハリ候事 ︵ 広 島 県 山 県 郡 戸 河 内 町 道 教 寺 蔵 ﹁ 奥 田 吹 会 合 講 中 定 脊 ﹂ ︶ これは僧叡の故郷山県郡戸河内村の小寄講の講中規約 で、僧叡の死後まもない弘化三︵一八四六︶年に記され たものの一部です。僧叡は、教学のさまざまな分野で新 機軸を聞き、その評価をめぐって賛否両論で争われ、多 大の反響を呼んだ、真宗教学史の上できわめて存在感の 大きい学僧です。僧叡教学についてはまた後で話します が、その学説の一つの特色は、弥陀一仏への帰依を説く だけでなく、信後の行を重視し、世俗生活における倫理 性を報恩行として強調する点でした。ただ、これは﹁信 心正因・称名報思﹂の立場をとる当時の正統教学から批 判を受けながら展開された独自の真宗教学で、その著書 はいずれも難解な仏教用語で記されていて、それは学僧 間で論議の対象となっただけで、その内容がはたして広
8 く門徒社会に受容されたであろうかと疑問を感じさせる ほ ど の も の で す 。 ところが、史料 3 に見られるように、小寄講の規約の 中に﹁信後之身の慎み﹂という、僧叡が強調していた言 葉がそのまま入っています。このことは、僧叡教学は単 なる机上の論理としてではなく、当時の門徒社会で実際 に生きた思想として機能していたことを示唆していると 思われます。民衆にとって、自分たちの生活防衛組織と しての共同体を護持するためには倫理 H 通俗道徳の画養 が不可欠だったでしょうから、その点で、小寄講では倫 理を強調する僧叡教学の方が、後で申します三業惑乱後 の正統教学よりも歓迎されたのではないでしょうか。こ のような観点から、私は僧叡教学は小寄講を通して深く 門徒社会に浸透していった、そして、それをもっとも端 的に物語っているのが史料 3 だと思うわけです。しかし、 僧叡の流れを汲む教学は教団中枢から異端としてさまざ まな制約を受け、次第に変質していきますが、これにつ いては後で述べることにして、次に、黙森と僧叡の関係 について考えてみましょう。 黙震は、父峻嶺が加茂郡広村長浜にあった僧叡の石泉 塾遊学中に、そこに出入りしていた宇都宮家の娘琴との 間にも、つけた子で、生まれたときから僧叡との関係は深 いものがありました。また、黙霧は十五歳のとき叔父の 長浜専徳寺住職常諦のもとにひきとられ、常諦から学を 授かったのでしたが、その常諦も僧叡の門下生でした。 その後、安芸郡蒲刈島弘願寺円識の私塾樹心斎で学びま すが、円識もまた土佐の大円と共に僧叡門下の両傑と称 せられる学僧でした。さらに晩年の黙霧は、僧叡が後半 生を送った長浜に隠棲します。そして、かつてこの地の 豪商多賀谷千兵衛が僧叡に贈ったという黄奨版﹁大蔵一 切経﹄の和訳に専念したし、﹃知泉欄講録残篇﹄と題する、 僧叡の講説筆録を漢文に書き改めたものを絶筆として遺 してもおります。今も長浜の石泉文庫には、僧叡が使用 し、後に黙霧もこれによって書き物をしたという経机が 現存しており、これも二人の因縁の濃さを象徴している ように思われます。二人は年齢的に大きな隔たりがあり、 両者に直接の師弟関係はありませんが、しかし、以上の ことから、間接的ながらも黙霧は僧叡の影響を受け、そ の行動、思想に強く共鳴していたことと私は思います。 そこで、僧叡の行動、思想のどのような面で共鳴して いたかが問題となってきますが、まず行動面では、国家 や教団の権威に屈しない態度があげられましょう。叫抗措称
近世真宗の社会的実践 は﹁蓄髪議﹂︵慶応二年︶を草して、当時の教団が権威に 開ぴて司教・勧学などの学階昇進のみにあくせくしてい る風潮を厳しく批判して還俗の挙にでていますが、僧叡 はこれより六十年以上も前の、一二業惑乱直後に教団教学 が再整備され、新たな権威主義が確立されようとする時 期に、中央教権に対し怯むことなく批判の声を発して正 統派から攻撃され、本山に召喚されて信心の正否を札さ れるも、自説をまげず、逆に﹁高イ山カラ学林︵本山︶ 見レパ、今ハ愚僧ノ花盛リ﹂と中央教権をあざ笑ったと いう逸話をのこしているほどに気概をもった僧でした。 また、あとでも触れますように、僧叡は親鷲の言った ﹁国王不札﹂を肯定する発言もしています。こうした僧 叡の野人的な生き方に黙霧は共鳴していたのではないで し ょ う か 。 しかし、それだけでなく、来世往生のみに力点をおく 西本願寺教団の正統教義に抗して、現実生活を重視し、 倫理思想と結びついた信仰を強調する僧叡の真宗教学そ のものに強く心ひかれるものがあったからと思います。 現実社会の矛盾・不条理を座視できず、身の危険を覚悟 で社会改革を目指した黙霧にとって、来世往生を説くだ けの教義よりも、現世の倫理を重んずる僧叡の教義の方 9 がはるかに優れていると感じられたのではないでしょう , 刀 以上のような観点から、私は黙謀を僧叡の影響を強く 受けた人物と考え、二人の関係を重視するのですが、そ れは、実は黙霧以外にも、社会的実践に力を入れた真宗 僧の中に、間接的ながら教学的に僧叡に近い人物が比較 的多かったと思うからです。たとえば、僧叡教学の影響 を強く受けたといわれている僧に豊後の南渓、筑前の宝 雲、豊一前の月珠らの名があがっていますが、かれらの門 からは、信仰の世界だけに沈潜するのではなく、社会の 改良、改革に尽力した人物が幾人も出ています。今、そ のうちの一人、東陽円月について簡単に述べておきまし ょ う ︵ 詳 し く は 拙 稿 ﹁ 月 性 と 真 宗 教 団 ﹂ 、 三 坂 圭 治 監 修 ﹃ 維 新 の 先 覚 ・ 月 性 の 研 究 ﹄ 、 マ ツ ノ 書 店 、 一 九 七 九 年 ︶ 0 円月は、豊前宇佐郡水崎西光寺の生まれで、豊前学を 月珠について学び、それを大成した人物として教学史上 に有名です。しかし、円月の功績で私がもっと注目した ド グ マ いのは、郷里豊前において、中央教団の教義や慣習とは 無関係に独自の教化活動や社会福祉運動を推進して多大 の成果をあげたことで、円月ならびにその一族の偉業は、 現在も国東方面で広く語り伝えられています。たとえば、
10 円月は元治元︵一八六四︶年に本願寺の命で長崎へ御用 講として出張したことから西洋文明に関心をもち、医学 を学び、布教に際しでも医学や本草学をまじえて民衆に 語りかけ、それが歓迎され、西光寺の東陽学寮へは多数 の青年が入り、やがてこれが発展して﹁修道院﹂となり、 さらに﹁修道会﹂と改まって近年まで存続しました。そ こでは、早くから捨子救済や海外布教運動を実践し、そ の後は救癒運動や同和運動にも力を入れていたようです。 また、円月は地方産業の育成にも力を入れ、水崎地方の 干拓に大きく貢献したし、寺には馬を二十頭近くも飼っ て、農民に貸与していたとも伝えられています。教団に 対しても、一般僧侶が法衣・袈裟の色によって位階を競 い合う風潮を厳しく批判し、自分は常に黒衣のみを用い、 また、節まわしのついた説教を否定して、平語で語々と 説法したといわれています。円月のこうした行動は、信 仰がただ信心としてだけでなく、倫理と結びついた信仰 だからこそあり得たことで、そこには能行派として中央 教団から批判されることの多かった僧叡の思想に通ずる ものがあったと私は解するのです。そのことは、円月だ けでなく、法雲・南漢の門下で幕末期に暦法の研究をし たり、明治初年に﹁世益新聞﹂を刊行したりした肥後出 身の佐田介石や月珠・南漢について学び、白坊に孤児院 を聞いて病床にありながら孤児救済に尽くした博多の七 里恒順らについてもいえるのではなかと思います。もち ろん、個人的に社会事業や福祉に力を注いだ真宗僧は、 かれら以外にも全国にはかなりいたでしょうが、ただ、 三業惑乱後、教団が﹁信心正因・称名報恩﹂の立場から、 能行一点を極端に抑圧し、社会への能動性が衰退し始めた 時期に、教学的にこれに対抗する論陣を張ると同時に、 社会救済のための努力をさまざまなかたちで展開したと いう点で、彼等はやはり当時の西本願寺教団の中では異 色の存在だったと私は思います。 そこで、次に、その源をなした僧叡の三業惑乱後の思 想・行動はどのようなものであったのか、また、それが なぜ弾圧されたのかといった問題について、これまでの 僧叡研究を参考にしながら私見を述べさせていただきま す 。 三業惑乱とその後の教団の姿勢 僧叡の立場を論ずるには、まず−一一業惑乱と惑乱後の状 況をどう考えるかが問題になります。一一一業惑乱は、それ までの西本願寺教団を教学的にも制度的にも大きく揺る
近世真宗の社会的実践 がし、その後の教団に甚大な影響を与えた、教団史上未 曾有の大事件で、これについて西本願寺教同では早くか らよく研究もされているし、おおよその経過については だれもが知っているところですが、東本願寺教団ではこ ういう騒動が発生しなかったため、これについてまった くご存知ない人もあるようですので、失礼ですが、まず 惑乱そのものに関する、西本願寺では常識化している事 柄の簡単な説明をすることから始めさせていただきます。 周知のように、一二業とは、身業︵行動︶と口業︵一言 葉 ︶ と 意 業 ︵ 意 識 ︶ の 一 一 一 つ を い い 、 そ の 三 業 を 一 心 不 乱 にふりしぼって﹁助けたまえと頼む﹂のが信仰の正しい あり方であると説くのが三業帰命説ですが、三業惑乱の そもそもの発端は、その三業帰命説を異安心︵異端︶と 見るかどうかが教団レベルで問題となったことでした。 これは近世初期から教団内の一部にあった説ですが、宝 暦十二︵一七六二︶年に第七代能化功存が﹁願生帰命 弁﹂を著してから学林ではこの立場を支持するものが増 え、さらに第八代能化となった知洞がこの思想を継承す ると、これが学林の定説としていっそう広く浸透するよ うになりました。しかし、在野の学僧の中から、このよ うな救済を強く祈願請求することは自力であって、本来 11 の他力の教義︵弥陀の本願による救済を信ずるだけとい う思想︶に反するという理由から批判の声が各地でわき 起こりました。そして、両者互いに譲らず、教団を二分 して激しい論争がくり広げられることとなりました。二 派のうち、学林の説に賛成する方が新義派︵三業派︶、 これに反対する在野の方が古義派︵信楽派︶とよばれま したが、その古義派の中でもっとも積極的に新義派批判 を展開したのが僧叡の従兄弟の大減を中心とする安芸の 学僧グループで、大減は﹁横超直道金剛稗﹂を刊行して ﹁信楽帰命﹂︵如来の本願真実を信じて疑わない︶の立 場から新義派を厳しく批判したのでした。ところが、本 山は学林派の出願を受けてこれを発売禁止にしてしまい ま し た 。 しかし、こうした古義派に一方的に不利な処置は全国 各地の学僧を強く刺激し、やがて門徒を巻き込んで社会 的騒擾と化し、美濃大垣では訴状を藩主に提出した古義 派の門徒数千人が本山へ陳情に押しかけ、一挟的様相を 呈するまでに至りました。一方、新義派の学林所化︵学 生︶の態度も一段と硬化して暴力行為でこれに対抗する という有様で、収拾の見込みも立たない状態になってし まいました。そのため、事態を重く見た幕府が紛争の鎮
12 定に乗り出し、両派の代表的人物を江戸へ百喚して取り 調べ、結局、文化三︵一八
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六︶年に古義派の主張を認 め、新義派の関係者に遠島その他の処罰を下してようや く沈静化したのでした。 三業惑乱は、以上のように幕府権力の介入によって最 終的に古義派が勝利し、以後、その教説が教団の正統教 義となり、新義派の三業帰命説は異安心の熔印を押され て教団内で完全に禁止されてしまいました。ではなぜ幕 府は古義派が正しく、新義派が誤りという判決を下した のか、これについては、従来からいろ/\な説があり、 最近では、注目されるものとして、美濃古義派の法中・ 門徒が幕府寺社奉行を巧みに味方につけたのが大きかっ た と い う 説 も 出 さ れ て い ま す ︵ 子 田 厚 志 ﹁ 美 濃 占 義 派 騒 動 ﹂ 、 ﹃ 日 本 宗 教 文 化 史 研 究 ﹄ 第 七 巻 第 二 号 、 二 O O 一 二 年 ︶ 。 そ の 解 釈も正しいと思いますが、私はそれだけでなく、幕府側 はもっと重大な理由から新義派を抑圧しようとしたので はないかと考えます。というのは、身・口・意を了心不 乱に振り絞って救済を祈願請求するほどに能動的な三業 派の信仰意識は、民衆の政治的不満が高まったとき、過 激な百姓一授と容易に結びつく可能性を秘めていたので はないかということが想像されるからですが、実は最近 の青木忠夫氏の研究︵﹁飛騨における本願寺の法義争論と大 原 騒 動 ﹂ 、 ﹃ 日 本 宗 教 文 化 史 研 究 ﹄ 第 九 巻 第 一 、 − 一 号 、 二 O O 五 年︶、によると、飛騨幕領で明和八︵一七七一︶年から 断続的に二十年近くにわたって展開された大原騒動の際 に、それが実際にあったようです。大原騒動は、伐山休 山反対闘争に端を発し、新検地反対、郡代の非違糾弾な ど、さまざまな要求をかかげて長期にわたってくり広げ られた騒動で、その期間中にこの地方の真宗の寺院間で も法義争論が起こっています。これは、吉城郡古川の円 光寺浄明の説く教義に賛成の四か寺と反対の法中方一六 か寺の対立が、やがて飛騨一国に広がった争論で、西本 願寺がその沈静化に乗り出しています。青木論文による と、このとき西本願寺は円光寺方を﹁三業を琢磨して往 生 を 願 う 一 二 業 説 ﹂ と 裁 断 し て お り 、 三 業 帰 ム 叩 説 が 広 が っ ていたことが窺われます。また、この円光寺が日頃巡回 する地域の﹁隠寄﹂︵隠れ講のことであろう︶の村々に 騒動の指導者が多く、代官所はこれらを召し捕り、﹁隠 寄﹂を厳しく監視、あるいは停止させたりしており、三 業派の信者が深く騒動と関わりをもっていると代官側が 呪んでいたことは確かと思われます。しかもこの地域が 幕府領だっただけに、こうした情報が幕府に詳細に通報近世真宗の社会的実践 されていたにちがいありません。 このような観点から、幕府は三業惑乱が発生する以前 から、大原騒動の体験を通して、三業派の危険性を知っ ており、そのために、二一業派に一方的に不利な判決を干 したと私は考えます。また、幕府がこういう姿勢をとっ ていたからこそ、教団は惑乱終結後も徹底して一一一業派の 残党狩りに力を入れ、少しでも三業派に近いような思想 が感じられる場合、それを駆逐するために執劫なまでに その摘発に力を注いだのだと解します。 そして、このことを知ってこそ、惑乱後、教学の二冗 化を推進することに躍起となっていた教団中枢に対して、 信 念 を 貫 、 ﹂ 、 つ と 努 め た 僧 叡 の 存 在 音 るのではないかと思います。さらには、僧叡の学派がそ の後の教団でどのように遇せられたかを探ることによっ て、近代教団の性格について、これまでとは違った角度 から照射することも可能になってくると思います。 四 三業惑乱後の僧叡とその周辺 13 先に申しましたように、三業惑乱で勝利した古義派の 拠点は安芸で、大減を代表としてこの地方の僧俗は、一 致協力して闘い、勝利の原動力となったのでした。その 大一織の従兄弟で、大減と同じく慧雲の門弟であった僧叡 は、この惑乱の際に表舞台には出ませんでしたが、大滅 の活躍を陰で大きく支えていたようです。それは、僧叡 が、大一織の﹁横超直道金剛鉾﹂の序文を書いていること からも窺われます。この中で僧叡は、三業帰命を説く ﹁晦蒙﹂を見るに忍びず、邪道を直道に復すべく筆をと った大減を﹁祖門之俊良﹂と讃えております。また、僧 叡が大滅の.死を伝えた実父宛の書簡︵戸河内真教寺蔵︶で は﹁小子儀は若年より重々の世話に預り、別して近来無 二に相交り何かと談合、去る極月にも関東相形付候上は、 兎角の計密満々申合候所、万事夢の如く消え果て:::﹂ と記しており、僧叡が大減ときわめて親しく、これを篤 く尊敬していたことは間違いありません。 しかし、僧叡の学僧としての偉大さは、親しく尊敬す る先輩の学説を無批判に継承することに力を注ぐのでは なく、むしろその正反対で、たとえいかに尊敬する人物 の学説であろうと、学問的に同調できない場合は、きっ ぱりとこれに反論する点にあったと思われます。それを 実際に見せつけて世間を驚かせたのが、三業惑乱終結後 の問もない時期に、大減とは異なる新学説を提唱したこ とでした。それは、文化元︵一八
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四︶年、広島仏護寺14 で﹁般舟讃﹂を講述したときのことで、僧叡は﹁安心は 廃立、助正は行儀﹂ということを説いたため物議をかも すこととなりました。これは、﹁助正行儀説﹂または ﹁弘願助正説﹂といわれる学説で、これと反対の、大漏 らの主張した﹁方便助正説﹂のいずれをとるかで、その 後、現在に至るまで多くの論争︵ H 助正論争︶がなされ、 真宗学におけるもっとも煩演にして複雑をきわめる研究 課題のひとつと言われております。それだけに、助正論 について真宗学専攻でもない私が軽々に口を挟むべきで はないとも思いますが、僧叡の思想を知っていただくた めに、論争の口火となった僧叡の主張の主眼点について だけ、教学者の諸研究を参考にしながら簡単に述べてお き ま し ょ う 。 僧叡の立場は、報恩行として五正行をあげ、そのうち の称名念仏を正定業、他の読諦・観察・礼拝・称名・讃 歎供養を助業と判じ、称名こそが弥陀願力の直爾の活現 であり、報恩行にあっても称名は正業にして、その徳義 と地位は格別であるが、しかし、称名には必然的に助業 が常に実践行業として随伴し、称名念仏の下に統摂され る ︵ 水 戸 善 英 ﹃ 真 宗 助 正 論 の 研 究 ﹂ 、 J 九 七 五 年 、 永 岡 文 日 間 堂 ︶ と、正定業たる称名の絶対価値を強調しながら、 同時に 助業が不可欠であることを説くものです。しかもその助 業には、同類の助業︵読諦・観察・礼拝・讃歎供養︶と 異類の助業︵右の四種以外のさまざまな善根、行業︶が あることを法然教義に基づいて説き、信心獲得後の真宗 者は、報恩行として称名行を中心としながら、同時にそ れを助成するために同類、異類の助業にも励むべきこと を主張したのでした。これは、史料
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からも明らかなよ うに、礼持その他の諸行︵善根︶で念仏を扶助すること によって念仏の功徳に対する社会的評価が高まり、それ が本願弘通に有効に作用すると考え、﹁自信教入信﹂の 立場から助業は欠かせないとする観点に立っていたと思 わ れ ま す 。 史 料 4 念仏三昧ハ無上ノ法王ナリ、礼拝等ノ諸行ハ乗輿百 官ノ如、ン、諸行扶二助念仏モテ普十方三世ニ流行セ シム、有縁キクモノ以知一其威神功徳不可思議べ於 レ是一切ノ助業愈盛愈好、明月夜光モ暗ニ投スレハ 人按レ剣顧ルトイフ、馬乗ノ貴モ単独微行セパ或有 不慮、念仏モ亦爾リ、若無礼拝等臣従ペコレヲミ ル モ ノ 不 レ 軽 詩 、 不 レ 可 ニ 以 紹 一 隆 仏 法 ベ コ レ 起 行 ニ 助 正アル所以ナ︵﹁助正変杵﹂巻下、﹃真宗全書﹄第五十巻 ︶ 近世真宗の社会的実践 したがって、信楽峻麿氏が僧叡においては﹁真宗者の 実践は、基本的には報恩行としての称名行に帰結するが、 さらにはまた、この称名行を拡げるならば、称名念仏に 随伴する行業、実践として﹂、﹁同類の助業はもとより、 異類の助業としての、さまざまな善根までも語りうる﹂ わけで、﹁このような発想のところには、真宗者として、 必然的に社会的実践が展開してくることになりましょ う﹂と、僧叡教学を社会的実践という面から高く評価さ れ て い ま す が ︵ ﹃ 現 代 真 宗 教 学 ﹂ 、 永 田 文 日 向 堂 、 一 九 七 九 年 ︶ 、 確かにそう言える可能性をもっていたと思われます。 僧叡のこうした立場が、帰命のかたちを身・口・意の 三業に顕わして救済を祈願・請求すべきことを説く一一一業 派の教説と大きく異なっていることは明白です。しかし、 僧叡教学には﹁信楽帰命﹂の立場に立つ大滅教学の信奉 者にとっては許し難い部分があり、反論が起こったのは 当然です。すなわち、僧叡が正助二業を真実義と解した せ い え ん のに対し、名号以外に別に行相を認めない大滅派︵荷園 学派︶は、五念門の立場からこれを方便義と解し、僧叡 教学は教団の基本教学たる信心正因説と異なる、自力仮 門上の所談にすぎないと批判したわけです。 15 世親が浄土往生の道として掲げた五種の行︵礼拝・讃 嘆・作願・観察・廻向︶たる五念門をめぐるこの論争は、 私のような真宗学を専攻していないものには内容的に容 易に岨唱できない部分が多いのですが、信楽氏がこの五 念門に閲する大減側の見解について適切な説明をされて いるので史料 5 にそのまま引用させていただきました。 史 料 5 近世の教学では、この五念門、こういう五つの行は、 私たちが修する行ではない。これは名号の中にすで にこの五つの行の功徳がこもっているのであって、 名号をいただく信心には、そういう行為が本来にそ なわっているのだ。だから、信心の人にはそういう 行為が、必然的にでてくるのだと、こういうように、 原文とはまったく逆に解釈をいたします。自己が修 すべき行を、如来からいただくのだというかたちで 捉えるわけであります。そしてここに真宗者の実践 行を語るのであります。すなわち、この信心の中に こもっている、その信心から必然的にあらわれてく る五念門の行為こそ、真宗者の実践行だというわけ であります。称名報恩の実践は、さらに具体的には この五念門行として展開してくるというのでありま
す。そして、真宗者の実践すべき報思行は、この五 念門以外には語るべきではないというのが、この五 念門説の立場であります。このような主張は、大滅 にはじまる古川園学派の考え方でありますが、このよ うな考え方は、今日では空華学派に継承され主張さ れております。かくして、この立場では、阿弥陀仏 に向かって、あるいは浄土に向かっての、宗教的実 践を説くだけで、社会的実践としては何ら具体的に は語らないわけです。すなわち、真宗者の信心にお ける実践としては、社会的な横の広がりをもった実 践は、何ら積極的には語らなかったのであります ︵ 信 楽 、 前 掲 書 ︶ 0 ここから分かるように、大滅側には社会的実践という 視点が欠落しているのですが、しかし、彼らは、弘願助 正説は﹁称名正因﹂の邪説に近いのではないかと厳しく 批判しました。これに対し僧叡側は、本願力を領受して 心におさめるのが信、口に顕れるのが称名で、信・称は 無二︵信行一如︶であって、称名正定義と信心正因説と は矛盾しないと反論して自説を譲ろうとせず、論争がエ スカレートしていったのでした。 こうした状況の中で、 16 教団中枢はあくまで大滅側に荷 担し、これを批判する僧叡は本山に召喚されて糾問され たりもしましたが、教団権威に屈することなく、多数の 著書や説法を通して自説を主張し続け、やがて直接、間 接その学説の影響を受け、これを信奉する学僧や在家者 が数多く各地に誕生したのでした。史料 6 もそれについ て記したものです。 史 料 6 師行信ノ説一一於テ一機軸ヲ出シ、頗ル精綴ヲ極メタ リ、但其説古今ノ学匠ト訴戻スル所アルヲ以テ頗ル 物議ニ触レ、特ニ空華荷園両派ノ学者力ヲ極メテ攻 撃スル所トナル、然ルニ斤量ノ相敵セサル、章モ師 ヲシテ其説ヲ柾ケシムルニ力ナク、本山モ亦之ヲ奈 何トモスル能ハスシテ遂ニ之ヲ不問ニ付セリ、是ヲ 以テ学階司教ニシテ終レリ、而シテ今日ニ至テハ、 其注疏海内学者ノ浄フテ伝写スル所トナリ、咳唾珠 ノ如ク、人ヲシテ拾フニ暇アラサラシムル者、奇ト 謂ツヘシ、亦栄ト謂ツヘシ︵﹁真宗学苑談叢﹂初編、 ﹁ 新 編 真 宗 人 工 童 日 ﹂ 史 伝 編 6 0 ︶ ここからも分かるように、僧叡は教団の主流たる空 華・砺園両学派から攻撃され、教団内で異端視されなが らも、徐々にその教学の偉大さが人々に認められるよう
になったのでしたが、しかし、これを冷遇する風潮はそ の後も長く続いたようで、信楽氏によると、僧叡が西本 願寺から勧学職を追贈されたのは、親驚聖人六百五十回 忌法要に際し、広島の学僧たちの陳情があった明治問十 四年のことだったし、また、龍谷大学の図書館に僧叡の 全著述が収蔵されたのもこの頃だったというから︵﹁い ま な ぜ 石 泉 教 学 か ﹂ 、 ﹁ 現 代 教 学 ﹂ 第 六 O 号 、 一 九 九 一 年 ︶ 、 随 分と長い期間、僧叡アレルギーが教囲内にあったと推察 されます。いや、それどころか、史料
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に 掲 げ た よ う に 、 今もってその体質が教団にはあると信楽氏は言われます。 史 料 7 近世真宗の社会的実践 今日の西本願寺教団における真宗教学は、性格的に 大別すると、この僧叡の石泉学派といまひとつの空 華学派の二学説に分けられ、それぞれが特色ある教 学として理解されているが、実際の教団教学として は、その空華学派が主流をなし、いまでもこの石泉 学派の学説を唱えると異端祝される傾向がある。こ れが今日の教団教学の実情である︵前掲論文︶ C この一文から分かるように、僧叡教学が教団中枢から 長期間、遠ざけられていたのは否定できないところです。 それは言うまでもなく、三業派のような忌まわしい学派 17 を二度と台頭させまいとしてきわめて神経質になってい た教団指導層には、少しでも三業派に近いと思われる教 学に対する警戒心が強く、そのため、称名念仏と共にそ れに随伴する助業を強調する、能動的、実践的性格の濃 い僧叡教学は要注意と見倣されたからでしょう。 しかし、僧叡はそれを承知でなお自説を主張し続けま した。そこで、なぜ僧叡は教同から批判されながらも弘 願助正説を主張し続けたのかを検討する必要がありまし ょう。もちろん、僧叡としてはそれが聖教の正しい解釈 に基づくものという自信があってのことでしょうが、そ れにしても三業派を一掃して安定しかけていた教団を再 び揺るがすような新教学を提唱したのは、それなりの理 由があったからではないでしょうか。つまり、大減教学 とは違って、社会的実践に結びつくような真宗教学を樹 立する必要性を感じさせるような客観的情勢があったの ではないのでしょうか。 それを示唆するものとして、私は大一婦が江戸で客死の 前に国元の老母へ送った﹁かたみの文﹂と言われている 一文に注目します。史料 8 が そ れ で す 。 史 料 8 身の行はあしくとも心ざまはあしくとも、称名は18 浮かばずとも、ありがたく思ふ心はおこらずとも、 これでは往生いかがとうたがふべからず、この者を 助けんとありて、厚く御苦労まします本願よと、安 堵の思ひに住して御入候へ こ れ は ﹃ 真 宗 本 派 学 僧 逸 伝 ﹄ ︵ 井 上 哲 雄 、 永 田 文 日 円 堂 、 一九七九年︶から引用したもので、はたして本当に大減 の書いたものかどうか、原典に当たっていないので分か りません。おそらく、このような﹁無帰命安心﹂的な内 容のものを大滅は書かなかったと思いますが、ただ、大 滅の名でこういう文章が出回っていたとすると、三業帰 命説を否定した大減の考え方はこんなものだと受け取る 人は多かっただろうと推察されます c しかし、そうだと すると、大滅の思想は、これを有難く感じた人も多かっ たでしょうが、逆にこれに危倶の念を抱いた人も少なく なかったはずです。というのも、自己省察を踏まえるこ ともなく、﹁身の行﹂、﹁心ざま﹂の悪さも、称名、感謝 の念の欠如も全肯定する、このような倫理性皆無の教え の蔓延は、民衆が秩序ある共同体生活を維持していくう えで障害となることは明らかだからです。僧叡の心配も この点にあったのではないでしょうか。あたかも﹁あつ ものに懲りて輸相を吹く﹂かのように、能動性の強かった 三業派の復活を警戒するのあまり、極端に受動的になっ た大漏教学 H 教団正統教学の欠陥を克服するために、僧 叡は実生活を直視した倫理性、社会的実践性の強い教学 の樹立を目指したのではなかろうかと私は考えるのです。 また、民衆の側にも、近世中期以降、貨幣経済の浸透 に伴う階層分解の激化によって家維持に危機感をおぼえ るようになると、勤勉、正直、倹約、連帯、敬度などを 説く通俗道徳を、上からの強制としてではなく、地域社 会の秩序を自らの手で維持するために望ましい生活規範 として積極的に摂取しようとする気運が全国的に高まっ ていったことは広く知られているところです。したがっ て、倫理性の強い僧叡教学は、そういう点で当時の民衆 社会に歓迎される要素をもっていたといっても過言では ないと私は思います。 五 僧叡の倫理観 僧叡教学に関して、これまで主として信楽氏の研究に 依拠して、その社会的実践という面に淀目しながら若干 の私見を述べてまいりました。そこで、次に問題にすべ きは、社会的実践が実際にどのようなかたちで展開した のかということです。この点について信楽氏は、﹁必然
近世真宗の社会的実践 的に社会的実践が展開していくことになりましょう﹂ ︵前掲著書︶と、可能性があったことを言、つだけで、実 例までは挙げておられません。しかし、歴史学専攻の私 としては、そこがもっとも気になるところです。先に戸 河内の小寄講規約の﹁信後之身慎ミニ候へハ:::﹂の一 丈 ︵ 史 料 3 ︶を紹介しましたのも、これは僧叡の教学が 地元の民衆の問で共同体強化の面で実際に機能していた ことを示す一例と考えたからです。 また、最初の部分で宇都宮黙霧を取りあげたのも、さ きに述べたように、父峻嶺や叔父の専徳寺常諦、弘願寺 円識などを介して僧叡教学に親しんだ黙霧には、社会問 題への感心が強く、それがあのような行動をとる一つの きっかけになったのではなかろうかと推測したからです。 黙霧の影響が孫弟子の行動に現れていたのではなかろう かと推測するなんて、ナンセンスも甚だしいと笑う人も ありましょうが、それを覚悟で敢えて私の推測を申し上 げるのは、実は、僧叡が後半生を送った広村地方では、 僧叡没後も長く僧叡の影響ということがいろいろな面で 語り継がれているからです。たとえば、広村は明治四十 三年に模範村として国家から表彰を受け、当時の小学校 の教本にも載るほど、全国に広村の名が高まるというこ 19 とがあったのですが、その素地は﹁日々念仏せよ、俗諦 に励めよ﹂と、常に念仏と倫理を説いた僧叡の教化によ って培われたと伝えられています︵﹃嶺稲山専徳寺町大洲 蹟 昭 、 会 九 九 六 年 ︶ c このことは、僧叡の社会的実践が、 口先きだけでなく、地元で実際に大きな効果を発揮して いたことを物語る一例と言えるのではないでしょうか。 ところで、信楽氏は僧叡教学について非常に優れた研 究をされていますが、ただ、以上に私が申したようなこ と、つまり僧叡の社会的実践の実例について、それを探 ろうという研究はこれまでほとんどなされていないよう です。それはなぜかについて、少しばかり私見を述べて お き ま し ょ う 。 信楽氏は、親驚教学は世俗的な人倫道徳の価値体系の 根元的な否定において成立するものであるという観点に 立っておられます。したがって、親驚が﹁化身土丈類﹂ において﹁究網経﹂を引用して﹁国王不札﹂を明す文に ついて、僧叡が﹁凡ソ出家タル白八刀、仏弟子タル者、三 世諸仏解脱瞳相ノ服タル袈裟カケル者ハ、俗ニ向テ礼拝 スルコトハ無キコトナリ﹂︵﹁教行信証文類随聞記﹂第六十 三巻︶と、これを肯定していることについて、近世の学 僧の中で、このように﹁明確に不札を主張するものは、
20 ひとりこの僧叡のみのようである﹂と、信楽氏はその姿 勢を高く評価されています︵前掲論文︶ C また、本山法主 権威が絶対視されていた時代に、僧叡は、﹁演暢院ノ言 ニ、拙僧ニ在テハ、御門主ノ思召ニ叶ヒ度トハ思ハヌ、 高祖ノ思百二契ヒタシト思フ、此レ常言一一ハセラレネト モ僧分タル者ハ、此意ヲハツサヌ様ニスヘシ﹂︵﹁教行信 証文類随聞記﹂巻二十八︶と、随分大胆な発言をしており、 この点も信楽氏が僧叡を評価される一因となっていると 思いますが、こうした信楽氏の見解に私も同感です。 しかし、僧叡の神祇観に関する信楽氏の考えには、若 干の違和感を感じます。と申しますのは、信楽氏は﹁教 行信証丈類随聞記﹂巻六十三に神祇などの外教について ﹁真宗ノ人此ヲ犯セハ既非一仏法一往生浄土ナト云コト勿 論云ハレヌコトナリ、又此ガイヨイヨ邪偽ノ非法ナレハ コソ仏態ニ誠メ給フナリ、此非法ヲ少シテモ心ニ執シ挟 テ居ルト一五ト正見ニハ入込マレヌナリ﹂とある記事を根 拠に、僧叡の神祇観は神祇否定を貫いた親驚の神祇観と 本質的に大差がないと解し、それは、親驚の神祇観を歪 めて解釈する正統派教学のそれとは一線を両するもので あったことを主張するだけで、親驚と僧叡の違いについ ては言及されていませんが、私は両者の違いにも注目す べきと考えるからです。それは、信楽氏が依拠した同じ 丈献に見える史料 9 の部分からも読みとれましょう。 史料 天照大神モ応神天皇モ本ハ実人ナリ、此ガ加持身デ 蛇度、ンタ実者ガオノオノ権者ニナル、正教法カラ云 フト本ニ就テハ邪神ナルガ今ノ処ニ就テ初メテ其名 ヲ免レル:::︵中略︶神道デ人法ヲ分ケテ、人ハ神 ナリ、其法ハ、日本紀神代ノ巻ナド読ムニ、如来ノ 真教ヨリ見ルト、全ク邪説ナリ:::︵中略︶其外一一 吉田流・藤波流ナドアルガ、異同ハ其内場ノコト、 此正法教ヨリ見ルト、一等ニ邪説ナリ、トキニ斯様 ノコトハ学者ノ上ニ於テモ只内心ニ心得ヘキコ ト 此 ヲ 妄 リ ニ 口 走 リ テ 人 ニ 聞 カ セ ヌ コ ト 此 様 ナコトヲ顕露ニ沙汰スルト忽一一国ノ機嫌ヲ犯スナリ 禁庭ヲ初トシテ斯様ナコトハ忌ミ悌ルコトナリ 折角快ク弘通ノ出来ル世ノ中ニイカナル障リニナ リ テ 罪 ニ 陥 入 ル コ ト モ 知 レ ヌ ︵ ﹁ 教 行 信 証 文 類 随 聞 記 ﹂ 巻 六 卜 一 三 、 ﹃ 真 宗 全 書 ﹂ 第 二 十 九 巻 ︶ 確かにここには神祇台定の姿勢は見えます。しかし、 この部分の記述に基づいて、藤村研之氏は僧叡の立場は 近世の他の学僧と同じく本地垂遮説の枠を抜け出ておら 9
近世真宗の社会的実践 ず、﹁存覚のそれと基本的な相違は見出しえない﹂と三一口 い、親驚と僧叡の神祇観の違いを強調されています。僧 叡の場合、当時の他の学僧と一律に論じてよいかどうか、 この点は今後大いに議論されるべきと思いますが、いず れにしろ、親驚と僧叡では藤村氏が言われるように神祇 観にかなり隔たりがあったことは否定できないと私も思 います。それは傍点部からだけでも明らかです。神祇批 判は﹁内心ニ心得﹂るだけで、﹁人ニ聞カセヌコト﹂な どという態度は親驚とはほど遠いものです。また、同じ 傍点部から、僧叡教学が世俗的な人倫道徳の価値体系の 否定において成り立っていた親驚教学とは大きく異なっ て、反体制的姿勢が微塵もなかったことも明らかです。 したがって、社会的実践といっても、僧叡の場合、幕 藩体制そのものを否定するような要素をもっていなかっ たのは当然です。そのため、信楽氏は僧叡の社会的実践 がどのように展開したかについて探究することにはあま り意義を感じられなかったのかもしれません。 しかし、近世民衆史研究の一環として、幕藩体制下に おける宗教と民衆との関係に関心を抱く私にとって、こ れは重要な課題です。特に、地域社会の秩序形成に宗教 がどうかかわったかについての学界の関心が高まってい 21 る折から、称名と倫理 H 通俗道徳を重んずる教学を樹立 し、中央教団から批判されながらも、民衆生活に直接か かわる布教活動を活発に反問した僧叡についての研究は、 近世後期の地域住民と宗教の関係を探るうえで大いに意 義があると私は思います。 ー』− J
、
能行派と社会的実践 僧叡派だけでなく、それに近い学派で、僧 叡同様に﹁称名正因﹂の邪義として教団中枢から異端視 されながらも、称名と倫理を強調して、一時期、現在で は想像もつかないほど活発に社会的実践を展開したケー スはかなりあったように思われます。それらの学派の教 学内容については、真宗学の方では早くから片言隻句も ゆるがせにしない、実に精綴な研究がされているのです が、それが社会にどう受けとめられたかについては、ほ とんど研究されておりません。そのため、一般的には、 三業惑乱後の教団では、三業派を一掃し、教学の一元化 を図って教権がますます強化されたという見方をする人 が多いのですが、実際には、民衆社会との対応を模索し て、教団内で複雑な葛藤があったと私は思います。そし て、その葛藤の過程で誕生した学派の中に、社会的実践 と こ ろ で 、22 を重んずるところに特質を有する、僧叡派、およびそれ に近いいくつかの学派があったと考えられますが、それ にはどういう学派があったのでしょうか。 三業惑乱後の西本願寺教団には多くの学派が成立しま すが、それらは大別すると、行信論をめぐって二つに分 けられるようです。すなわち、﹁所行立信の立場より信 心正因・称名報恩の特色ある行信論を主張した﹂グルー プ︵ H 名号を重視するグループ︶と﹁能行立信の立場よ り念仏往生の法義を主張した﹂グループ︵ H 称名を重視 するグループ︶で、前者の学説﹁名号大行説︵所行説︶﹂ をたてた主な学派︵所行派︶は、部園学派、龍華学派、 空華学派で、後者の学説﹁称名大行説︵能行説︶﹂をた てた主な学派︵能行派︶は筑前学派、越後学派、僧叡 ︵石泉︶学派、豊前学派であったといわれています ︵ ﹁ 龍 谷 大 学 三 百 五 十 年 史 ﹂ 通 史 編 ・ 上 巻 ︶ 。 そ し て 、 前 者 が 教団主流派で、それらの教説が正統教学とされたのでし た。したがって、これに抵抗して称名を重視する後者日 能行派は教団中枢から非難されることが多かったわけで すが、実は、それらはいずれも直接、間接僧叡教学と関 わりがあり、そして、僧叡派と同じく社会的実践という 面でいずれも前者より積極的であったといえるのではな い か と 私 は 思 う の で す 。 たとえば、先に豊後の南漢、筑前の宝雲の門下生で暦 法の研究をした佐田介石や孤児救済に尽くした七里恒順 について述べましたが、その南漢、宝雲が属したのが筑 前学派です。また、豊前学派の東陽円月の社会事業につ いても紹介しましたが、その円月門下からは、独力で大 分に孤児院を聞いて、地域の孤児救済活動に多大の貢献 をした平野覚性のような人物も出ています︵日浦保徳 ﹃ 九 州 真 宗 史 と 四 日 市 別 院 ﹂ 、 本 願 寺 四 日 市 別 院 、 一 九 七 四 年 ︶ 0 さらに、円月との関係でいえば、先に申しました宇都 宮黙震と共に尊王討幕論者として活躍した周防の月性に ついて、円月は﹁例頚ノ友タリシ﹂と記しております ︵ 宇 佐 郡 水 崎 西 光 寺 蔵 ﹁ 明 細 帳 ﹂ ︶ 0 二人の関係は、青年期 に豊前築上郡の恒藤塾で漢学を共に学んだことに始まる のですが、この記述から、二人は終生眠懇の間柄だった ことが窺えます。とすると、海防僧といわれた月性のあ のバイタリティーも、社会的実践を重んじた円月との深 いつき合いと無関係ではなかったのではなかろうかとい う 気 が し て き ま す 。 ところで、円月との関係でもっと私が注目したいのは、 月性の仏法護国論の感化を受けて、維新後の西本願寺教
近世真宗の社会的実践 団の宗政を担当すると同時に、日本仏教界を代表して新 政府との政教問題の対応で活躍した防長出身の島地黙雷、 大洲鉄然、赤松連城の三人が円月を非常に尊敬していた といわれていることです︵日浦保徳、前掲童 H ︶ C こ こ か ら 、 彼らの社会的実践の根底にある思想には、能行派にたっ 豊前派のそれと通ずるものがあったのではなかろうかと いう思いが頭を過、ぎるのですが、黙雷が明治十一年に ﹁称名正因﹂の異安心の嫌疑をかけられて教団から糾明 された事件は、その推測を傍証する出来事だったように 思われます。この事件を取りあげた福間光超氏の論文 ﹁西本願寺教団における公選議会の成立について﹂︵二 葉 博 土 還 暦 記 念 会 ﹃ 仏 教 史 学 論 集 ﹂ 、 永 田 文 昌 堂 、 一 九 七 七 年 ︶ によって、その一部を紹介しておきましょう。 明治八年に黙雷は、東京に白蓮社という聞法会を組織 して伝道を開始しましたが、翌年ころから、黙雷の教説 は﹁能称立信﹂説であって、﹁信心正因・称名報恩﹂の 義に反する異安心ではないかという風評が生じたため、 明治十一年に宗主明如は宗政当局に調査を命じました。 その﹁能称立信﹂説とは、﹁八王綜念仏トハ即称名ニ候ヘ ハ、正信念仏トハ称名ヲ正信スト申スカ当然ニテ、此ヲ 釈スルニ当テ称名正因ニナラサル様信因称報ノ以弁述致 23 候ヘハ、何ノ子細モ無之事ニ有之候、然ルヲ彼称名正国 之邪計ヲ恐ル冶ノ甚敷ヨリ、称名トアルモ念仏トアルモ 直二名号ナリト解スルカ如キハ、丈ヲ造リ変ヘテ漸ク宗 義ヲ成スル道理ニテ、甘世迂遠ナル解釈ト存候﹂と、黙雷 自身が後藤霞城宛て書簡に記していることからも明らか なように、称名を重視する説であることは歴然としてい ます。ところが、調査に当たった宗政当局が大洲、赤松、 香川藻晃ら長州出身者で占められていて、彼らは黙雷の 説は異安心に抵触しない旨を明如に上申します。しかし、 明如はその上申を認めず、﹁改心ノ相ヒ見ラレ候マテ﹂ という条件付きで黙雷を処分します。これに対し、防長 グループから処分撤回の運動が起こりますが、明如は直 ちに同答書を下し、黙雷が教団要職にあるため、教団へ の影響が大きいことや、その後に黙雷が提出した﹁念仏 往生義﹂にかなり訂正された部分があることを考慮して、 公的処分は行わないが、しばらく公職を離れさせて今後 の動静を看取する旨を伝えております。 こうした背景には、防長グループとそれに反対する明 如を担ぐ側との激しい派閥争いがあったわけで、その対 立はますますエスカレートし、宗義とは離れて政界の大 物も関与して、長州閥対反長州閥の抗争となっていきま
24 す。それについても福間論文で詳しく書かれていますが、 今はそのことには触れず、ここでは、以上のことからだ けでも、黙雷のような宗政のトップの人物が、﹁称名正 因﹂の異端に近い立場にいたこと、また、その黙雷でも、 宗主から異安心の熔印を押されると、教団での地位を失 いかねない状況があったことが読みとれることだけを指 摘しておきます。そして、このことからまた、﹁称名正 因﹂に対する教団統制が非常に厳しかったこと、にもか かわらず、この思想は大きな広がりを見せ、宗政のトッ プクラスにまで浸透していて、明治初期の教団では両者 の激しい葛藤が繰り広げられていたことが想像されます。 広島沖の似島の話から始めて、話題が方々に飛び、宗 政トップの島地黙雷にまで至りました。いずれも十分な 調査を踏まえた上ではなく、思いつき発言のような部分 も少なくありません。それに、真宗学を本格的に学んだ こともないので、随分無謀な割り切り方をしていると感 じられた方も多かったことと思いますが、それでも敢え て以上のような話をさせていただいたのは、近世真宗史 研究の風通しをよくするためには、能行派といわれた、 これまであまり宗教史研究者が注目することがなかった が、しかし、正統派よりも社会的実践に積極的であった と思われる学派の動向も看過してはならないことを主張 したかったからです。 お わ り に この三十数年来、私は、仏教の影響力が著しく弱まっ た近世にあって、真宗は他宗よりはなお社会に対する強 い能動性を保持していたということをさまざまな事例に 基づいて主張してまいりました。︵拙著﹃近世真宗の展開 過 程 ﹄ 、 吉 川 弘 文 館 、 一 九 七 六 年 、 お よ び 前 掲 拙 著 ︶ 。 し か し 、 この私見に対しては、現代の真宗教団にそのような活力 が見られないことから、これを疑問視する声も耳にしま す 。 そうした批判に対し、私は、明治以降に教団が大きく 変貌したという見解をとっています。そして、その変貌 の主な要因として、①講の衰退、②国︷ゑ神道の強制、③ 在家信者の活動制限の三つをあげているのですが︵前掲 拙著﹃近世真宗と地域社会﹄︶、最近、それ以外に、本日申 しました能行派の衰退ということも追加することが出来 る と 考 え て お り ま す 。 つ ま り 、 二 一 業 惑 乱 後 、 能 動 的 な 一 一 一 業派の鎮圧によって教団の活力は大きく削がれてしまっ たが、それでも、称名と倫理を重視する能行派が明治前