――目次――
1,
万葉人の宗教, 竹園賢了, The Religion of Manyō Poets, Kenryō TAKEZONO, pp.1-30.
2,
物忌考, 三和礼子, On Monoimi (物忌), Reiko MIWA, pp.31-52.
3,
宗教性の測定とその統計的研究についての一つの試み, 家塚高志, An Approach to the Measurement of
Religiosity and its Statistical Research, Takashi IEZUKA, pp.53-73.
4,
聖地パレスチナを巡りて, 菅円吉, A Trip to Palestine the Holy Land, Enkichi KAN, pp.74-85.
書評
5,
吉岡義豊著『道教経典史論』, 窪徳忠, Noritada KUBO, pp.86-89.
6,
松本信広著『日本の神話』, 椿實, Minoru TSUBAKI, pp.89-90.
竹
万 の あ し だ し葉理
る て敵方
か大輝
々 い集葉
の 歌 た る の の 、 紀
京 菜 民 こ
便便
人 か 散 で 族 と 向 雨 間 ら あ 宗 が が が の 八界 つ 教 で 見 者 内 地 観ふ て め ぎ ら し
奥紬
宗 " 変 遷るれいの中
。
" が境頃
教 や し 揮 、 、 拙 さ に 外 か 想 叙 で で 関 来 も 歌 景 あ の し宗約 に歌
る 各 て 教 半 は で 宗 種 は接戦
当 も 教 の 偶取の
時 自心火
八六四二
天地
仏教 呪術 儀礼の の 世
知人
が な ま 分 影 響 ネ中 さ る 千 件 直 ま ら れ こ 元 来 観 に の た と 首 思 し表土
歌 が は 想た現活
がで製
を ま さ 体 入 ぎ 作 摂 ま れ 験 つ る 年 取 る て の て と 化 し よ い 申 い 思 が て ん る か ろ う 明 よ で 。 ら だ 。 ら ん ぃ 特 は け か だ る に と で で も の拝走
あ あ の で 借 り 一 る る が 、 駅 田こ ら 固 の な れ れ 、 有
感感
ほ ほ 外 の 動 情 よ ょ 夫宗な
な つ つ宗教
表 よ て て 教 で わ ん万葉人の宗教
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賢
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、 れ 夫 な 然 稲 宗 が の か も 文 は 、 北 汀
に 宝 は つ 成 つ つ と と い は 的 充 ま 元 こ
農神
立 て て な な え侍所
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神 々 し 来 祀 っ っ ば に 究召窩控査組粟
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康 定 あ 邑
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ず と ア 然 ム 理 は る に さ 伸 る な 昌 か ( 的 こ が祀れや
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は 国 こ た 、 承神民
ム離儀
宗
・
宗な
に 一 な 社階而
で数数
国八原
整っ会
に も あ との兵士
始理
た 生 な 自 っ 異一酌万案
せ 。 括 っ 然 たる
応家
群 教 ら と て を か を 煤 す も の 放 神 が れ 密 、 支 ら 若 田 る 察 故 家し 助 教 慶 民 の
い の 面
部 上層階級の歌が多
すことも無理であろ
Ⅰ自然神
え書 5 人もある ︵六︶ 位 香具山は鴨右足人の
︶等と よ ばれていた。 、一セ 、一八、巻 セ、
を 神と見た代表的な んだり、﹁三諸の神 奈
一六 セ 六︶等とも 万葉人の宗教 一
般に
祀られた神についてではなかった。
あった。しかし
万
る
﹁ ち
﹂﹁たま﹂の
観
立場で行われていた
級
であったから、
農
行の安全などを望む
個
華人の宗教信仰は原
観念については可成
80
祀ることに最も明ら
え 奉る﹂ るが 如 ぎである。 ついてよ セ、 ﹄ 三 0 一| 一二 0 三 、巻十五、三六二 セ、
島の歌に
巻 九・一 ︵ き一、二一 % んだ 歌 ︵ 巻 よ まれてい セ 八四︶ そ
大社 厳 な偉容に接 ,
よ ん で い ナ, し 8l
進に述べて来たあ 五 8 万葉人の宗教 神に 、平 けく早く帰
にと住吉の神に祈 っ ている。 るために祈願され 一セ 四八︶とか、 雪 を 降らせ よ ︵巻 こ 、﹂ 0 四︶とか祈った位で、 農業民の切実な請雨の祈願の如ぎはなかった。 巻 十四、三四二 とを命じたり︵ 巻二 、 巻 十九、四二三五︶と詠んだりしていた。 実の結ばぬ樹には 対する修飾から、 後 ︵七︶ に 神に冠する枕詞になってしまったのである。 思われる点もあっ つかり忘れていた。 二
、天地の神
通じた歌に はず死せ め ︵ 巻 十五、三 セ四 0 、天平十三年︶ 又 大伴駿河麻呂の歌に 左変 ︵ 巻四 、六五五、天平年間︶ 或る作者未詳の歌に
吾が 恋 止まぬ ︵ 巻 十三、三二五 0 ︶ 同様な歌に
吾が祈む甚も術 な らゆる自然神の総称である。天地の神を天の れも文字に拘泥した説明に過ぎないと思われ るかに思われることもある。しかも天地の神 た 。従って幾分知的或いは倫理的属性をもっ 人はこの神に対して大部分は恋の成功、旅行 先づ 恋愛について天地の神に祈ったのは 笠 依
せて敷妙の衣手房へて﹂︵
巻四 、 天地の神 し理 なくばこそ吾が念ふ君に遭は 士 /. Ⅹ すという人もあるが、 何 私 でもあり、文一神であ 金的な意味の神であ っ 神と異 る 点である。万葉 万葉人の知的遊戯で生れ ぅ 意味と解したい。以下歌について見よう。天地の神祇こと つた 歌に ず 死せ め ︵ 巻四 、六 0 五 、天平年間︶ 83
けている︵
巻五
、八九四、
めやも︵
巻 十三、三二八七︶
同じく作者未詳の歌に
は 思ひ益す︵
同 、二三
0
六︶
まず
け り︵
同 ・三三
0
八︶
或る娘子の歌に
或る防人の歌に
思はば
9 巻二十、四四二六︶
任を鋳
げした作者未詳の歌
︵ 巻
四、五四九、神亀五年︶
敵
に
賀 の
韓崎
︵ 巻
十三、三二四一、養老六年︶
成る防人の歌に
く 吾は︵養二十、四三七四、天平勝宝七年︶
神 ながら思ほす
な
万葉人の宗教
七
8べに天地も依りてこそあれ 文案持の陸奥国産金を賀した長歌に 天平感宝元年︶とあり、笠金村が 聖 もかもと天地の神を ぞ禧る 恐かれ ど 我が兄子 し 斯くし ぎこ さば天地の 愛児を亡くした時の歌にも﹁ 等とある。 又 天地の神は人生の条理を・正しく 致 していた。例えば妻を亡くした時 二三六︶や旅行中に妻を亡くして﹁ ある。 以上によって天地の神の観念を見 して 額 づ き かからずもかかりも神の 二五。︶﹁天地の神なぎものにあらば 坤の神 し 恨めし﹂ ひ巷 十三、三三四 という知的、倫理的属性を持つた 神 ゆば ずとも、社に祭る神も知的属性 思はぬを思ふと い は ば 大野なる 三 ﹂の条理を守る神さえ無いかと 悲 が
事離る﹂︵
巻 十九、四 二三四六︶と よ んでいる 如 ぎで 0 五︶﹁天神仰ぎ 乞ひ詰 み地祇 伏 が 念ふ心知らずや﹂︵ 巻 十三、三 れや﹂︵ 巻 十九、四二三六︶ ョ牝 、これを左右し、人間の心を知る 見ることが出来る。 又 天地の神と をもっと考えていた歌もあ 観 ㌧例えば 笠の社の神 し 知らされ︵ 巻 四、五六一︶ ノ人 ︵番一、五 0 、持続七年︶ ﹂︵ 巻 十八、四 0 九四、 玉葛絶ゆること無く万代に斯くし 清麿の歌に 、天平宝字二年︶とある。 憶良が ﹂︵ 巻五 、九 0 四 、天平五年︶撚 神の信仰に比べて
ないと断言している。
ことが多く・特に ︵ 一 -- ︶ 原を 説 き 、国王が入神 に 天皇が集団の統率 者
兄山に神を祭ったこ 九 万葉人の宗教 安全等を祈ったの
6 人格神のような 槻
分 が上記括弧内に示
をもつよ う に発展し
重点を置いて、ここ ︵一ハ レ ︶
の 成立とまでは行か
れていることが多い と 息う。 三
、現人神
も 思はぬを思ふと ぃ の如 ぎである。 はば 真鳥住む 卵 名手の 社の神 し 知らさ む︵ 巻 上 1 一一、二一一
0
パリ ︶
に に に 神 し し し に ま ま ま し せ せ せ ま ば ば ば せ
真裏
天 は木障
害 天 め る の 雲 立雷電
の つ 山 の 五荒に 上官
四 宮 に 重中敷
盧が
に き す 了 海 さ る に を す か ほ、ぎ
武春さ
る三ひ
( 本 、 ぬ一 一 " 白 ヨ "
四子夫
二め て に 弓
子に
双 に て) し て 対 し て )、二六一︶と称し、
と 称している。超人 問 的能力をもつという意味からは
なく皇子までも神と
こともある。ここで
き一 、三八、五二、巻
十三、三二三四︶ 、或 はこの観念が強くな 伊ア 一 O によっても天皇が神 あることを強調する 。入神は現実の人間
なかった。この点 か をもっ人間神はなかつたことになるのである。 と 、祭司を兼ねた
たのであったが、 万 まつった とき 、大伴 坂 いる。
竹玉を繁に貫 き垂 一セ 九︶ 君に逢はじかも︵ 同 、三八 0 ︶ 一一 万葉人の宗教 8 も この祈願には儀礼 祀 四 、 儀
為しつ︵
同
、四二六一、同︶
﹁天皇の神の尊し
︵番一、二九︶等とも称している。
二言とか、天皇に絶大
﹂とは出来ない。むし
も
特に偉業を我した
から、在来の自然神
とは大いに
異る
観念であった。
一 - 一
これを見ても古代の
木の枝に 麻 緒を飾り
ね 、獣の如くに膝を ものを手に持って神をまつったのであ った 。︵ - 五︶ つた。自分の家で 祭
の丹 生王の歌に
左佐 羅の小野の
大伴壬申 が 丈部熊鷹の自殺を弔った歌に
く 幸く坐せと 天
手に取り持ちて天神 仰
0 ︶とある。この 件
し ︵ 巻 十三、
﹂︵Ⅰは、三一一一八田 ハ ︶
六八︶などとある。 上 郎女が家持の越中子赴任に贈った歌に
g 8
と 態 る し 斎 と な 鹿 こ こ る で と の も あ 、 様
宗 こ 神 こ う 一 我 と こ ) 歌 あ 横 惑 を の
剣 の の の な 中 で ,か 態 心 あ 的 度 を
っ態
は な で 度し
( よ 放行い身
て 心 「 斎 や る を ふ航態
清 」 海鹿浄
と の で に い 様 あ し ぅな っ て 言 危 て
神薬
て )険 、 の で
((
巻見
あ っ防だコ
を 幣年表
伴
吊護わ
う な を さ場捧
得れ
充て幣
に「
合 げ 、 て に た 災 い 「妄 り 禍 る て 山
{
一 セ 「
全 " を こ
事 を
顧念れが
意見
と う な ろ 多 一 銭 す こ い三度
え と と た を 「禽志
し り 目 斎 て, 向 と サま て す 的 ふ 最 る と 」 も 儀 し とは潔
しのさ多く た宗 田 ま 現 基 毅 斎れ礎均
す90
ている。例えば
ずり
巷 十二、三二一
セ ︶
もあった。例えば
と斎ひて待たれ︵
同 、三五八
セ ︶
く 我を︵
同 、三六三六︶
ひ 待っらむ︵
同 、三六五九︶
て 待た
か ︵ 巻
十九、四二八
0
︶
ひて待たね︵養二十、四三三九︶
来 までに︵
同 、四三四
0
︶
までに︵
同 、四三五
0
︶
えま |
ひ とどめ
む ︵ 巻四
、七
0
八︶
に 逢ふまでに︵
巻 十五、三
セセ
八︶
て 待たれ︵
巻 十九、四二六五︶
一四術 六 、 呪
た 。そうして原始
部分は プ レ ザ 一の 云
を 結び留め、或は思 ヤン 7 し 結びてな︵番一、一 0 ︶ めやも﹂︵ 巻 十一、二 十二、三 0 五六︶などがある。 自ら哀傷した歌に り 見 れ ︵巻 こ 、一四一︶
亦 兄げむかも﹂︵ 巻
歌に ﹁ 磐代
枝を結ぶ心は長くと 一五 万葉人の宗教
全を祈る場合に現
目 すべ
き ものである。
く 呪術があった。例えば大伴百代の恋歌に
は ね妹
かも︵
巻 四、五六一
こ
とあり、同類の歌に
っ 逢はぬ人かも︵
巻 十二、二九
0
し
、二四
0
八 、二五七
る 。
三九
セ
八︶などがあ
屈
することを考えた模倣呪術であった。
袖の内側を外に出す呪術もあった。例えば
見え
ぎや
︵
巻
十一、二八一一
%
りし如し︵
同
、二八一三︶
3 一 Ⅰ / 、の 枝を結 ぷ ことは、
と れ つ
以入
一そ
れにそ
占が
足 ト一白的
" と " ト佳言
の 「夢あ
都て「
る 上 六 で っ れ は 二 は 又 古 く 霊 に り 路 、 5 % の 丘 あ い で 泰 正 た は も る と も 、 を 享 け よ る て あ む 0 そ 職 呪 」 ぃ 見 そ 還 ら ひ づ 。はる歩人が業
術 ( ぅ えのみ
愛 」 れの の ば
外不
ト 奇六道
も 種二言
げ妹が夢斎
め上口げ
呪術宗教取ら 呪 に 明と は重 数 か 行く ので であ 語児 ひて に逢 地頃 に見 して も 万 せむと
術云い
ね有数二のなが
偶、
八%
る三桁
五のれむ
寝ははる
うた煮
神っ
る葉見
し れ を か六言
愛 一 玉 る じ 茂 三 の 足 の 成 人 特 に 時 ぬ 八 白 り 、 め
。 し 一 の の 一 っ
吉を 巻舌 古称
傲 る 一 巻家は四
四 持 )遊 が
物を
る る三断等
れ あ こ大上に
あ 戯 そ 崇 判 占 占 四 す に を る 、七大堀
る 曲 れ 拝 じ浅浅
六 る ょ 行 な で も た で で 九 こ つ つ 「 も あ 見 の 、 と て て 昔 め る ら で 巻 巻 巻 で 、 い で れ は 三 四 十 、 恋 た た 万 た な 古 ナ, Ⅰ そ の ( 番 9 て よ 珪ノ ナ, し な 雨 八 同 本、一
九 来 の 「意味 十は 二 病退
九八。
、
が水歌
のる
。
巻 十タ食
霊 ) 忘 ㏄
も
早や消えかけて
に
待た
かと
﹂︵
同、
6
具らなかった。
を
悼んだ歌に﹁
鳥翔
て
不滅であるという
後
﹁山にかくれる﹂
観念は漠然としてい
ではなかった。
五
、八八二︶
、
﹁
ほ
い
守れども
魂ぞ逢
ぎている人の霊魂、
所謂生霊神の遊離の観念に塞くものである。
一八 95た 効果のないことを 知っていた。 七 、霊魂観念と他界観念
八
、仏教の影
軒神道的であった と
った 。神の観念の進
る 限り、たとい国民 一九 万葉人の宗教
0%
去 ︶
と云ひ、又
云った。
隠れぬる﹂︵
巻 十五、
る 。
方 による文学的
表
ぅ 考えがあっても、
かったので、仏教が
速かに受容れられたのである。
97 又 問 の 教 の 理 儒 た
業太
儀 と っ が 的 は 題 断 で 方 儀 解 散 。 八 千 社 ム な て げ 概 宗 四 に 絶は葉礼
し " 従 の を と 教 つ " れ し 教 諦 つ と こ の の て 仏 つ 牛 婚 し は た 人 ど て と ( ぃ 見 れ 知 場 ぃ 教 て で め て 民 。 生 も 現 し 諸 行ててを調所たの
輝人
輝人とか大等
彼も、
伏そり
取族
宗こ
又を人世
苦虫生紙
て、
専有夫来
た る 想 生 な の ら 異 常 に 験 せ れ長え
限 な 述 こ 貴 に観知留
れ り 感 見 が 界 た 生 る 性 か べ と い は も講学
る 、 な る 重 観 時 滅 も なって
は 資 一仏人者面
個 目 ょ な を 代生な
り 彼 よ に あ じ で る化か
自 家 な っ た つ 滅 か 、 等 ぅ 明 る て あ九僧
つ 覚 に つ 二 れ と て 戯 つ こ は な ら 。 いつ麻の
た と 投 た二て 云 も 已 た れ花貝
か 何 た た 呂 研 が 救 入 Ⅳ 、 わ " か な の 族 で 故 と " 究 " 済 し そ 更 れ 儀 社中 寂滅 ら、
仏説 厳粛 宗教 ある なら 思わ 憶良 憶良 はそ 自覚 とを て体 さし に深 るの 為 煩 の な を が ば れ の 、 の の 試 験 て 刻 で 心地理 者た
、人華
等 て は し面で
か( じ の が 、解純
の こ な 教 の ん 用、 に が 学 。 教 に さ な 埋 れ 人 理 教 だ 想 っ 、 の 我 の つ 現 実
れ三にを
て 法ょ生
生 間解字
はがは
歌にい
直て良
奈振
興国
がい 印 つ の
顕如
振 , 接 の 朝 に へ に 煩 義 主 つ し ょ 悶 で あ て つ 真 人 ナ, Ⅰ行 間 げ の ら 無 こ O た が 知 り り に に く の れ 常 点 て な か 、 感 ら 無 ず も 常 る 0 棟 方 白 に 葉 覚 な 人
三年間道悪 や辮正
も 多く外来思想を入
記 、論語、荘子、老
仏典では最勝王経、 ︵一一七︶
察せられる。 8 - 一一 万葉人の宗教 ているが、挽歌を においては無常の理 袖を振り、その跡を は はあれど世の申を 空無常の理を免れぬ
老 五年十月十三日の 、万事簡略にせよと 諸行無常、生者必滅 の 当時の思想を代表したものであった。
無常
を 感 ず ると
が 、般 ヤァ し 弘 が 、 ノつ ナ, Ⅰ 桶、 想 と (
三)
なり 万 葉 集 で は 後 期 の 歌 人 ケプ 甲の 思 想 が , 著 し
@
一一一一
裕 もなく、死ぬ 年 終生低い地位で過し
苦に 悩んだ彼の歌は 読む者の肺胴を打つものが多い。
旅人を慰め、浄土 往生の徳を述べている。
常にありける。 息 - 、釈迦能仁杢目 於雙林 - 、無レ免ニ泥 恒之 苦 - 、故知、二聖至極、 捜来 - 、二鼠競走、 水城、 何図 偕老遠目 掩 、 無レ由ニ 再見 - 、 従来 厭こ離此抜土 - 、本願 託 ニ空 彼 浄刹 - 、
られている。
ぬを 主題とするも
﹂と述べ、歌には 丈夫の壮仝さび 五、六 0 四︶ 留めかね っ も︵ 同 、八 0 五︶
99
で 勤、敬二重 百神 ︶ 、
、 ︵﹁ 沈レ荊自 基文﹂︶ といって、その原因の理解に苦しみ、更に
、老実着 妄 、 焼 こ 其 印川廿払孜 、 奉 : - 散℡ 阜 - 血淋レ 丁令 -- 江川 禧 - 、 ︵目凹︶
た 。老身の重病に堪 え 兼ねて
な ︵ 巻 五 、八九 セ ︶ 万葉人の宗教 一一一一一 @ @ を 述べている。 収合期離見 レ去難せ 智詩﹂において痛切である。 之 光華 - 、故知、生 猶レ撃レ目 、人事 経 がレ寄、
っ たから、現実にほ
四歳で重病にかかつ た 時、
がその時であると
感
にもならず、毎日泣き暮していた。
っ ︵ 同 、九 0 一こ
の 病気の時も天神地祇に祈った。
かるも神のまに
無し︵ 同 、九 0 四︶
に者、病、死という @ 二四
大伴旅人 能 に恵まれ 実に安住し ことをさせ 世の中は は妻の死と 感じをよん 世の中は とよんだ。 の訳語とし 彼は天平 はかなさを T は 国家有為の て豊かな性格 切れないもの ︵三︶ なかった。 そ 空しきものと いう厳しい事 だのである。 空しきものと これらの歌に て用いたので 二年、京に帰 歎いたのであ ん葉人の宗教 来 思想にも十分接してい をもっていた彼は現実を諦 敵 しそうであるが、 実は彼の家柄と藤原氏の があった。そこに言 い しれぬ憂 い もあったが、 彼の育った鷹揚な性格が したが、その弔問に答え 五、セ 九三︶ て 、これをム教の無常の じた膳部三を い たむ人が 、四四一 コ
底 した感じを表わした あるとも 去百 われている。︵三三 だ 歌人音 は 変らは自然の 一方即興的な請酒 歌 十三 二五 た 。此様に地位、 オ 権勢との関係から 現 事 に執着し停滞する た歌 理 によって首肯いた もので、仏語の﹁ 空 ﹂ 風物に比べて人問の 昔 をょんで、悲哀を べ
ぎ雑た
もつる
。
思、
で 然 の 従 愛 も と も つ 十ま ら し こ て 断 う た の 彼 ち 。 宗 た は 難 教 め 低 く 行 で 道 事 あ を 生 さ る惨死
と 営 し は す み 憶 て 尽 る 、 良 生 き ム 世 を死難教
問 ム の か に着 と 脱 こ す が 見 す こ ろ 強 る る に 訳 す 人公 と 世 に ぎ
と 冗い 間 は 矢 の 度 定 な
張知
に も か り 識 ま 田 つ 万 人 で 来 た 葉 と は ず 人 見 徹 、 ム の る底超教
中 人呈出 蔵 め で と 9 来 も 無 は が な 出 常 最 あか来観
も る つ な に 博 が た<
い 塞 ジ < ム 枝 枝 レ 人 教 を が ン 生 を 信 長 マ 観 学 者 族 に を ん と 宗 陥 抱 だ 見放つ
い 思、 る 的 て て 想 に な い か 家 は 行 た な と 余 事 の が 見 り を で も る に 行 あ ち ウ q Oみ か み 常 、 年 わ 次 じ . 時 と ね の た こ 少 れ
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代同 篇 あ も 刻 は、 め か で 、 む し ( な う ね っ も
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山 四 ん 悉 な か し 道 六 で 観 か し 彼 ( を 正 い 的 つ 名 は 同 指 ) る に た 門 名し
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で し う た が 原 あ か 。 悲 、 氏 る セま 其仮役
はが
哀、
のか
勢 も 息、天憶
優 カ ふ平良
美 に 家 に胸土や
、 圧 門 一 旅 せ さ の 亡心れた楽 聖と負せ 一 貫 生者つ はム説の 抱いてい 本 思想に をあら な ︵ 巻二 、三四九︶ム 教思想を ︵一一一一一一︶ 、 ム教の根 よって自ら納得することが多かつた。 一一幸、 ノ
﹁酒の名を
。この中の
お現世に永く生きる欲望は消えなかった。
千歳の命︵
同 、四四七
0
︶
二セ
万葉人の宗教
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他見
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あ り 歌 そ 、 山 が 照 く ぞ 回 る の埋忠
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や 命 る大知
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五 み る
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花 蓮 ち の の て あ 常で深歩調
年 げ 。 て m ぬ は か ご 束 ぬ る 観 あ く で 人 ほ ろ 例 表 の れ れ げ と 師 かむを
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つ た の て が の の 天 よ 泡ノ氏
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平二 んだ な が 難 午 歌 し の 帝ア く - 」っ前
ぎ 歌 た 期 を 水 「 結 の 自 の 果 と敵営
人 し 上 見 の た ヰブ ヒ て 親 か 数 2 世 ら Ⅰ 05った てい 民族 遷と 睡 一 一 一 のである。この意味で万葉人は民 た 。従って彼等の間には儀礼的に 宗教と仏教との併存の一つの理由 外来宗教摂取の様子とを知る貴い 土屋文明氏万葉年表に よ る 春陽 堂 刊、万葉集講座、第二巻 万葉集大成、第八巻 松村武雄博士、万葉集に於ける宗教 万葉人の宗教 、神話 族 宗教 は 現実 を 見る 資料で の 儀礼を行 肯定の民族 ことが出来 ある。︵ 一 ︵春陽 堂 、万
、よ
。九五
宗払笘る し ヰ 」 六 か が が 七六 五 く " ら も 、人生観には普遍的宗教である 思想的には現実否定の仏教が行わ て 万葉集は日本宗教史の一環とん 九・一︶ 葉集 講座、第二巻、一 セ 一頁︶ 原田敏明氏、万葉集と宗教信仰︵ 方 セ 五頁︶ 久松潜一博士、万葉集考 説 、 序 武田祐吉博士、万葉集全註釈、第二 二九 巻 葉 て れ 体 ていた。 教の理解を こ 、古代七万数 集大成、第八 一、五三頁 もつ こに の変 一巻、 06を 肯定讃美していた
を厭ふ歌
﹂も仏僧
め
書いたものと想像されるが、その歌
るかも︵
巻 十六、三八四九︶
ね らずも︵
同 、三八五
0
︶
想の浄土を求めようとしたものである。
仏教の無常観によ
つ
にまでは踏み出して
むまでには至らなか
二五 ト 一山、 ノ ニセ 二 O Ⅰ一一 Ⅰ一一一 二三 二四 コ 一一一 一一一 一四 ︶ 五 一山、 ノ 一・七 一八 一九 一 一 一 0 九 八 原田氏、前記、七三頁 松村博士、前記、一七六頁 武田博モ、前記、第四巻、二一 0 頁 やの ︵ 0 ダ づ く ・の , ㏄∼︶ ロ ︵︶︵ 0g. d, ∼︶ e セゃ笘 Ⅱ oh づ ・㏄の ㌧︵ 曲 ze ﹁ ,ナの 二円二の目 曲幅ざジロ 0 二幅 ドコ 久松博士、前記、一一五頁 松村博士、前記、一 セ 七頁 西村真次 氏 、万葉集の文化史的研究、 同 周三一三頁 仝 子 九目 氏 、万葉集評釈、第二巻、一 同 前記、第二巻、一五四頁、 一巻、五 0 九頁 比佐敏夫氏、万葉の諸相、九 セ頁 大西 克 礼博士、万葉集の自然感情、二 仝 子 氏、前記、第一巻、五九一頁 武田博士、柿本人麻呂評伝︵万葉集大 頁 ︶ 比佐 氏 、前記、三一頁 続日本紀、同日乗 ぬ回真幸氏、山上憶良論︵万葉集大成 、第九巻、一セ 二 d す 0 の 0q の・︶のうの, oh パソ目的, ド のめ 巾 三上八一一一旦 五六五頁 金子氏、前記、第 前記、二 0 三頁 五四 | 六頁 成 、第九巻、四六 二九金子氏、前記、第二巻、一四二頁 三 0 武田博士、前記、第五巻、二四頁、二五三頁
昔 、一五 セ頁 ︶ 二三土屋 氏 、前記、五九頁
三三周
同八九頁
0 セ頁 ︶ 二八土屋文明氏、旅人と 捷良 、一九四頁 三 O 頁 ︶ 107
一 習俗としての物忌
Ⅱ物忌の概念
気に懸 る 専有時、陰陽師に ず 家の内に引こもり居て 、人 附 てしのぶ草の茎にゆ ひ射 て ゆ患者
、 是は大事の事 也 幾日が 謹 しみゐる 也 、 某問は柳 一一一一ものいみしには、
真
和
一
一
子
小
4
奉仕する人Ⅱ巫を
で
用みられてゐる。
を
帯びてゐる。それ
御霊信仰の隆盛、
軒
想
的基底を明らめる
集め得た結果を整理報告する。
思
考
物
一一一一一 I0
雑記、十六神仏︶
﹂れは平安車 期 に盛
があり、さらにその
の 特徴を見出すことができる。 ㈲御堂関白記の物忌記事 数 周知のそうに御堂関白記は一世の寵児藤原道
半年単位の具注暦︶、自筆 木 が一四巻を占める。
を 併せ考へれば当然でもあらう。
事 ㈲ ヰこ
寒行
食 り し ほ な の が のる 。
さを示し、 且 、 そ
四十余日を数へな
く、 此の表は半年
傾向はより一般的
日常にも例を得る
0 の物忌日を記録
次頁 B 表参照︶
B 表に明らかな 通
祖 吾一 0 ︶、一一日
、習俗の忠実な 履
会 にあって独特な 盤を確立して ぬ たことを示さ う 。
日記々 事ゃ 物語類
て考 へられる。 物忌日の設定
忌の項に﹁ 毎 有権
に侠 っ ものである 一一一一一一
物忌
考 ⅠⅠ 0B 表 A.D ⅠⅠⅠ そ 3 ( 文声 キ ぢ在タ体 )
O0' 。 0000
ⅠⅠ ノ
ⅠⅠⅠ
0
Ⅰ● 0 ● / チL"
Ⅰ
(貴
, 雙キ時ヰ せれ・ぉ幣祇
4%)
0 サ&.
誼
タタ Ⅰ,
@ ⅡⅡⅡ ( 史 若干木練若 ) 6 丁 味乙穏み る ⅠⅠⅠ + /2 Ⅰ グ ⅠⅠ● ● /o % ⅠⅠ ち / 3ST 併科 ねズお ) 毛色 丁戊色i.
3%
ゾ Ⅰ ⅠⅠ Ⅰ + みⅡ
ナ て ホタ∼ 4Ⅰ
も五/
申 * ⅠⅠ Ⅰ● キ紀が之 三四 、たと へば 左に知られるごとぎである。 11%
﹁小右記﹂寛弘九年六月十六日王子、
月 十二日四時、
白虎、 悔過 卦力 知 曲作 竹 功力
正月四月 節 中中 る 目地云々 ﹁
同右
﹂ 萬爵 五年 セ月 十日葵 卯 、緯誇辻施 ㌻相姦 納韻 、
、丈高志、子道 不敬正午
、主計頭・暦博モ と
と 並び称され﹁ 光
遺跡をついで暦道の る 。 文 高は 惟 十本氏、このころの陰陽頭。
忌 設定に用 ゐ られ
る 陰陽道は広義に用 この式占は易占とな
られた古兵、典拠は
ト 署の規制そのま ム
物忌
考 三五 1 Ⅰ 2二日目を乙の日と称 、 以 篇目、 謂之 子貢 辰午 甲皮 為 陽 、 丑 卵目 未 西友 為陰 、 是 台十二支 地之 敏也、
人事、覆載 之問 ︵﹁ 暦林 問答 集 ﹂上荻十千十二支第二十三︶ 吉凶窮達、不可難地 表 における原則的
で 得られるのも、 蓋
五一Ⅰ
ハ
太ト 今によると式 用法はお ょそ 次のごと ぎ ものであった。 心為レ地 、刻 ロ十 二日日立 陰、
ハ辰 十二樽 以ニ 太常、五古 獣 魁、三月
従魁 一月神 后 て慎 しむための 想 にもとづく行事と 云ふ べきである。 答 集は日の干支を釈して次のそうに 云ふ。
も天 王 二 の Ⅰ 13
思 は 、 の時 忌 ・ へるもの 存続すべ 束は、む 二 物忌の原因 に 述べ 勢 におい 繁さにも意味が生じてくる。
物忌
考 の 知識に包ま 始めて物忌の 三七 陰陽道に 方忌 や 、 である。 ぎ 要件と し ろ天文 塞 く 天文 それ して 禁忌 ・暦道禁忌をはるかに凌ぐものであった。 よって諒解されるところである にっきかなり長期にわたるこ か禾 調査であるが、事例のすべ 廿五 ・ 肝 ・ 升五 ・ 冊 ・ 冊 五日の 一件は、最大月六日を拘束する 続く物忌を生ずるわけであり、 、わりない思ひに悩む姿はこの とが、また先の例より徴される ては﹁ 期 佐田以後 ? 日向、 及 ︶ い づれかをとり、月数は将神の こととなり、二件では一二日・ 蜻蛉日記や和泉式部日記にお い 際 非常に印象的である。 - 。原因 月 飾串 動向 次 三件で て、 廿号 114
場 師の占方を求めた ものである。 一紀 ︶ 0 ︵外記︶ 庁虹立怖館 ㌃ セ ・ ギ ・ 勤 ︶ 散咋 椅子 借或 駅前祝 蒜 前日神, 蒜 ︶ 0 各式 峯鳴 、左近陸夫 繍 ㌔・ q0 ド一 き 右記︶・ハ二 あれば、大樹緑樹の 明の投石、外出後の落 蟻 烏鷺 鴨 鳩笛な ゼ に るるのであって 、そ る つ に と い 三八 直接 因 11 % 異 ・夢想・ものの け ・その他
陰陽と天文、陰陽
れぞれ別個な 範嘩
現象を占するにあ
具体例から分類 す
れる。
田怖異
㈲夢想
0 今明夢想物忌 綜窒 ユニ・ き 0 依 有人夢想籠居物忌 鏑㌔
コ ア 巴夢枕に現れたものま
断 で物忌を成立せし して物忌かたくして
ていかに ぞ とこまか
ばしは内へも まゐり したか明らかでない 様 二日を単位としてゐる。
㈹ものムげ
自記︶一・七 甘八案 ︶よりつぎは病の一つ
弱を覚える心にはそ
におぼしめして御物 にも御ものいみがち もなってくるのであった。
物忌
考 三九 ⅠⅠ 6
女東宮妃婿子の逝
㈲その他
一生、祖父大納言籠物憂
ぬ和
五連・
廿巴
0
今明一合物忌
繍
体力、
炉
、
廿趨
でもあらうが、この
減少を見る一方、
た
う
に暦道禁忌や易占
、
単に﹁
慎
﹂を示す
普通名詞と堕してゐる。年の戒慎については、
としてゐる。
六日、今昔物語
巻
一ではあるが、むし
慮
すべ
き
かも知れぬ。
㈲間接
因 1場
べき性具現象は
、
廊
の御古に付された
の型を有ってゐる。
㈹社寺陵墓
ワ
﹂の太政官符が出さ
いて神祇官 ト ・陰陽
るものであった︵ 類
異は神祇官の亀ト に
目は 、両者のト占の
かを判ずるにと % ま
統 によってたつ 官ト あって国政に寄与・拘束を与へたのである。
・石清水・出雲 杵
にいたり、やがて 春
国幣の区別なく、 寺
ができる。 ㈲氏神・氏寺・祖廟
びに各式 峯 ・春日・
、その時に藤氏
忌 をかぎて一の 所 よりくばらしめ給ふ ︵大鏡太政大臣道長の条︶ 四一
物忌
考 1 Ⅰ ;8四二
新興氏族として政権
此等氏神、氏寺、祖 めたのである。
老友卯酉 亜 末年、 月明年正月四月飾串 並 甲乙 也 云々 ︵小右記、寛弘九年一八月十六日王子︶ はあるらしい︶は 年
物忌の履行を求めら 得た理由もこ ュ にあらう。 る 。御堂関白記・
して実家を出た場合
之、 ︵小右記永観二年十一月八日︶
の妻 源 倫子も夫の物
にも及ぶのである。
父 ではあるが、天皇 に 価しまう。その後 Ⅰ 19
の
て、
る
司
ゐ
し
物忌
考 0% 、他は左近陣に は 、同官左右弁官 局 例は 、小右記長和 四 物語ってゐる。これ あった左大臣の肩書 北の板間をい ひ、宮 四三 20ぬ之由
﹂︵
萬詩
三年五
月
七、八日︶
㈱諸所司
0
左経記
長元
セ年
十一月十三日乙女、
盛ト云
、
佐所寅
廿
主薬日、口
主
期
息慎、
兼又被
初篇
無其
替手者、
同十六日茂實⋮
依
外記
虹佑奇
今明閉門
% 減
吋鵠矢
不当御年
同二十四日
乙酉
御物忌
交渉も絶
散らし、
のであ っ
0 間柄
﹂の御方
は ﹁ かぅ
を 気遣っ
何で、周囲は
耳 おし そへ た ︵蜻蛉日記、天 祓 元年︶。
﹁くれには
から御座所に
ほどのつれな
同門外耳開業
年 五月六月十月 節 期 冊目以内皮 己日 、不取達朗
蒜窒
・ヂ
・三 % 物忌を課するのであ籠る︵枕草子一二三 りの御文など取り入
申 会議の座となってゐる。陣の物忌中の ヰハ - し 。 かや う にして行はれる所司の物忌 例と 上司を勤める者は寺の佐 異 が年廻を間は 記 長保元年九月十七日︶。 ㈲ 家 四四
を 遷して事をはこぶ例であ っ
見るのみであるが、更に寺の
院の物忌も見出される︵小君 Ⅰ 2t
の 物忌を尊重しあふ礼儀と等しい。 ところで家のあるじのもとに養育されあるい
三物忌の態勢
Ⅱ閉門籠居
物忌の最も基本的な型はその住居に引籠り 閉 法 ・程度などに複雑な様相を有してゐる。 ﹁今明堅固物忌閉門 殊慎 、 修楓諦干 広隆寺・ 0 左大臣 殿 にかたぎ物忌出きに げ り、御門の 戸ょ 9% 子なども入れずして 僧 ばかり ぞ参 とするに、とねり二人 ゐて ﹁人ないれそと 0 既に莫目に成ぬれば 極く 物忌を固くして 物 の 迫よ り 臨は物忌
考 の 非社会性は 、物 - 忌の来訪者との 接 渉の方 の 貴族社会一般におい れた様子である。 はざまにかいだてなどして仁王講おこなはる 、 僧も高陽院のかたの 上 りて土戸よりま ゐ らん
二臥 長物忌事︶ したり⋮門を強く 閉て
一一一︶ 四五
たか、は疑問である。
なめられてゐる︵落窪物語︶。
122に
白梅
事度
げ と の 破 遺 児 訴下天
を 如 て 当 0 な そ で っ 此 0 さ 術 へ待網 誰何
を 時 方 大 つ し あ て等今
木 れ 的 ら 即 青 し に り の 到 将 て て る 怨 の 日 朝 て なれ町
充 て あ " 風 " 日 く さ 。 霊例格
世 ゐ 要 て奉天
ゐ っ そ 潮 依 来 る ら に は 由 紀 る 素 ゐ 老 将 る た の は 有 官 。 に と み 称 " 。 の る し に 。 事 た 、荷悩
り な 大 仁 孝 こ間物
平 分 、 回 虫 而 の め 門 恵 三 な らが大年
行 た な 閉 捧 て ・ 詰 る 門 十 あ や 慎 戸 人 る る 、み懸
日 が 、 の葛水
子 か 陣 に 香 を 声 で 間 る は な う巻 風 広じ
く 妖 習 沖 土よ 二 た 井 云 当 ば界今
か へ 日 時一 牙、 り の 疫 師に 悪 鬼 サァ し は
薄柿
可 見 な れ 外 泊、 Ⅰも 理
庶政充
実入
案 遮 や意其
の 断 は味難
を 、 を 有 当持此
見、
持つ事
え、 @ の こ 近 説 と 衛 話 を 朝 集 証 帝ァ "- に しお呉
し よ い あ て るばし
ぅ。
左 の 見 際出
如 ぎ さ 物 言色れ 忌 録 官 佛 の
た強談
彼 確 る を が , 123ぬ る。
セ 苗間朝節三間大
たものらしいが、 日
段 ︶に見える。
り 、物忌と記した 口七
物忌
考と 、物忌は蔵人所 出納は物忌札を関係 各所に配布、それらは 注 その他に貼付された。 進物所、造酒内侍、
の御 住居にあたって を 遠ざ
㈲尾
大鏡 て 強い 忌 習俗 け んが為の方策であったら ぅ 。 内での態勢 道長 もまた時折別殿に息籠りてゐる。 こ をも含めて屋内での態勢を告る史料にほと の 一面を物語るといへる。 所 かムる 習は しないのであャま
せ 取入れず、あるいは物忌のあげる ず 、仲介して近侍の蔵人が口頭で まで 開 ぎみる 奏し、奏覧の に付するのも れは戒慎の度 んど接しない の の " 必 こ も 栖 外塁き と
物め
気 あ な四八
たのであった︵ 禁秘
千三一段︶。
は 天子の御物忌を妨
も殿上間は天子御座
籠の作法である。
㈲参籠の規則
0 機縁となりがち
規則づげられてゐる。 下 すのである。
目 遺して ぬ るのは 前 ﹁明日御物忌なるに
子 一二一段︶と心がげる事を忘れぬ公卿達は 、 まの ﹂ 剋 、宿衣装束
宇多胡時においてす
の時刻はお ほかた忌
発を重視する傾向は
関る際は、 丑 一刻 以 へる事になるからである。 Ⅰ 25
Ⅰ 26
を 備へるものであ るに拘らず、何故成立し、遵奉されたのか。
午 卯酉 人 看病妻 嫉
する凶事の本体であ る 。
ある。他に 刀其 の 口元
物忌
考日 に控へた物忌を
座所枇杷殿の焼亡 に
持家たる枇杷 殿 の 焼
。禁中での除目・
脅威するものとはな
する。しかも ナナ よま 、
幣使 発遣にあたって
場 師・武人らがこと は 物忌の頻繁さと併せ考へるまでもない。 匹物忌の心理的背景
127
は外
ょ場
避 な 門 万 医 御だ舌繍
: の 厄 房昂り、
鸞婁嚢患烏妄
9
、
裏菩宅
・巴檸紹鴬苧
対還
り が倒ぬ
れ 、 8 者 は と 他(れ下
疫あ
す慮給
「 な る 故 そ の ・ を の 方 疾 、 可 ま る る をねい
ど 理 に の 統 祈 ら 背 、 疫時令たが
大 息 病宿棄
老師
な に 族 と の絵事
元 こ経袋
二の の っ ゐ 、 ま が 鬼 げ の
音支 忌物
表 基 、 ら る あ で 外 に を 犠 のへ節忌
現度さ
じ 。 る の 部帰府
牲 双て例先
し を し 、 当 い 反 に し の 者策ゐ 不例
な な ろ さ事は
覆 対の に 6
町石
は す っ ら者腕
に す 更 に 申 昔 の 忌 令 し も れ に の 咀 も る に 数 か のにふ
立を
か 開士へ
らしん
は口」
給 悪 給 たも
有情、実音名号
日者分持人々 、如 五一
物忌
考あとがき
先考・宇多胡 に歴
忌に 別邸を使用した
景 には、御霊信仰 と
霊 会は清和朝 肯輔軌五
。 さぅ して性具を恵
蔵 下総等の辺城諸国
る 。長い 繭胚 期間は
して大過がない。 而
注意すべぎである。
紀 初頭において 既
ついに本来の義を失
にあっては一応 昔 な
南北朝時代の約半世
五二 % 町 令 守護
臆
秋 された事を示すが
るのである。
的であるとか、 或 に 表現する事は出来 ないものだろうか。それが可能であるならば、 あろうし、 文 その数 れた他の人格特性な 仰 をもっ人の心理構 をもっものではない 方の御批判を仰ぎたいと思 う 。 、メーソナリティ て 、宗教的対非宗教 五三 130
計約
試み
高
家
士
二
1
Ⅰ く Ⅰ
塚
︵一︶
。態度的特性は
、人
ろ う 。人格構造にお
ぅ 事が可能である
筈
それを数値で表わ
ではないであろう
カ
する宗教性とはど
無限に偉大な存在
や
という尺度を考えた
﹂こでい
う 測定とはこ
学的測定に表われた
るならば、向性指数
0
の者に比して二倍
序 関係を示すだけで
宗教性について行
う
わけである。
法 を用いた。質問
る 為に出たらめを 答
、 或はこうであると
法 の結果 は 石刃の 真
紙法 が一番便利であ 出来るだけそれをさげる よう に注意しながら、 質問紙法を使って 行
間紙 法によ る調査に
問題であるので、 自
施の際の注意、この 三点に特に気を つ げなければならない "
関心が深いという 事と、調査が比較的容易であるという事から、
の 標本は 、 い う 迄も 五五 I32 ヰ 一
は
多くの研究がなさ
は
宗教性については
れた数値を統計的
方
特質について考えて行く事を試みてみたい。
五 ムハ
みの段階として、 ま
往 に対する態度がどの程度に表われるか。 てくれるグループで
母集団について 9 推
にまで考を及ぼさな
﹂の中の四八名を含む
続 観察という意味を ほ ついて、三一年一月 の 調査の結果である。 題は、 次の 感動の程度
つの解答の基準をつ げる。
ぃ 偉大な存在 や力 ︵神様、仏様、死んだ肉親、
或は大宇宙の意
おこるか。 Ⅲしばしば感ずる ㈲時々感ずることがある 2 Ⅵ 殆ど感ずることがない エ 33
同時々感ずることがある
㈹
殆
んど感ずることがない
︶という歌に
よ
まれているような
気
㈱どれにも
労
らない
㈲しばⅠⅠ感ずる
㈲時々感ずることがある
4
五セ
あるか。㈲しば
ノ
Ⅰおこる ㈲時々感ずることがある ㈹ 殆 んど感ずることがない ㈲全然感じない㈱どれにも
当 うない がする事があるか。㈲しば
ノ
Ⅰ感ずる ㈹ ㈲ ど 全 れ 株 に 感 も じ 篭 な ら t, 、 な㈹ 殆 んど感ずることがない ㈲全然感じない
㈹どれにも
造 らないの ㈲強い感銘をづけることがある
㈲やや感銘を
ぅ げる方である ㈹ 殆 んど感銘はさげない㈲全然感銘を
ぅ げない㈹どれにも
肖 らない安 ㈲強くいたくことがある
㈹ややそれに近
い 気持をいたくことがある ㈹ 殆 んどいたくことはない ㈲全然いたくことはない㈹どれにも
労 らない 宗教的対象 や 、礼拝などの場︵例えば、仏像、 神 ︵例えば神々しい、頭の下がるような感銘︶ な ど セ / ト 正 特殊な感銘、 なう けることがあるか。 他 ︶から感銘を ぅ げる事があるか。 、 何か特殊な るか。 五八 135以 もの し、 ので せる では この 八
㈲強く感銘を
ぅ げることがある
㈲やや感銘を
ぅ げる方である
㈹
殆 んど感銘を
ぅ げることはない
㈲全然感銘を
ぅ げることはない
㈹どれにも
当 らない
㈲強
い 魅力を感ずる
㈲やや心を引かれる
㈹
殆 んど魅力を感じない
㈲全然魅力を感じない
㈹どれにも
労 らない
五九
6
7 ムハ O 込型式とを 併肚 した 質
恕 している担任教師
きさせ、かえって 所 に 止めたわげである。
口を 4 、
すものと考えた。 こ ︵四︶
異なる集団について 比較するような場合は素点のままの方がよい。
なる。心理学的 測
、中央で最高になり
が 正規分布する事を
るとみなし、実際の
測定方法が適切でな
分布とはならない。
る 時には、分布の山
場合である。こ うい
能 な正規分布をする
は 測定方法が誤って
。温度の増減 と水
らの現象の間には 正
上 ノ 、一
の
問題となる。この しこのずれが或る一
として取扱 う 。このイ
自乗︶検定という。 0 輻 盗心帖
さが 鞘︶
れてヵイ 自乗の値は 同じか或はそれより そしてこの確率㌧Ⅱ 仮設は棄却されるも 布 とみなされるかどうかを検定五︶る
。
性質を考察するこ 代表値のみでなく、 ち 散布度の中で一番 により 表 わされる。139 し な る い 少 の 算 か れ は 関 は れ 関
タ ㌣ 蛙 ぉ
と か で め い な い と
時数
い ら ぅ の い いが相 が相
で あ合離
。 相 あ 関 あ 関 表 9 ほ の わ は 関 な す 先 負 係 い 。 全 の の相 な 相 ょ 相 関 正 係 の 英 が に ぅ 関 は
教相
に 関 あ る - 」 、 の っ が と 方 ヰ Ⅹ 。 ぃ あ い が て る の う 増 は 時 。 せ ぎtt
そ ば 倍 の 相 こ 方 関が , 般 で ょ そ あ 自 @ ミ舌 モ る に わ う れ な に と は し み
次
正 の れつ六
こ な の 完 相 て し よ 金 閣 滅 て 5 な 中ま 6 % へ な 賃 貸 し な 青 め の ら語相
棺 」 な いが あ な 滅
140 の こ 完 布 い 間 形 る の 五 科 妥 の 全 曲 ぅ こ の に わ 通 前 人 は 以 生 結 な 線 催 の 壊 し げ り 葦 毛 つ 上 の
測 作 宗 一 い こ の ' と れ 高 5 一 の な 第 を は な 年 べ 方 一 便 全 辛 皮 る 法 国 宝 都 統 調 ケ, "- の 上 5 ぎ 査 前 ょ よ 11 と で の 述 り ぅ の 評 、 正 の る に た に 一 に 集 つ ノ 。 わ 者 つ め 三 田
こ げ で い 二 つ に ね 、 何 て 百 の っ は そ 、 そ 名 謁 ぃ
試 Ⅰ 人 数 ぅ 意 B
み プ 格 の 事 大 は 度 の 金 性 東 い 性 が 特 順 が 準 Ⅰ 数 紋 部 を 京 て の 宗 性 に わ ょ v 即 問 1 算 女 で 分 教 の な か り P ち に と 出 子 あ 布 人 属 し す 中 る と
横 大 で 宗 一 政 特 棲 み 、 の か の
教 に ま 得 を 上 い や、 る 最 を に 調 試 切 。 低 表 ・ す 査 み
とこ
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ナ, し Ⅰ を う な 間 る 玉 具 数 度 に と 別 体 論 定 あ 中 的の 資 ニ 名 蓬沌 ゆ弗
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B出て
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け A の 肢 数多角形 中 3 男子 (56 名 ) M 亡 29.89 S.D 肝 5.85は均
Ⅰ 沖 00
靭 A 事 し が う 20 と は か か A B 大 お
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、 十 ま 分 あ 推 ょ C ち 9 案 つ " B の度数多角形、 10 高 l 男子 (200 名 ) Ⅱ 耳 22.47 40 S.D.= ㌔ 乃 0 75 l05 l3.5 ℡ 5 度 5 刀 5 2 め 285315 %5 3t.5405 第 一 図 (a) 30 と合法
ず は に う い ほ ら 20 て り, し宗田
Ⅰ o A 場 顧 慮 よ い な こ な に ぅ の る の し 入 に は の 時 ら れ A 、 で 期 べ な と 必 は で る げ B
ずなは
第 一 図 (b)方 ら で 令 い 多 六四 の ・ づ g C はの・のの、と大差はないといえる。 141
六五
A 碍 『 柏 田 口
+0.36
+0.15
+0.26
+0.20
+0.35
+0.43 第 二 表
9
Ⅰ
A@ A つよ たり B も B 同 のの 点 方 の が も 止 め 6 201@ 16
8 16
10 Ⅰ 1
3 17
20 問 題 は 二九、五 る 。 又 A と 下った者が 六題にっい り、 い づれ 見られる。 A 、 B 、 値 が上った であるのに対し、 B では 一 0 に下って い B と比較すると数値が上った者七名に対し、 四一名存在している。 A と B との共通の問題 て 比較してみると第二表のような結果にな も上った 昔 よりも下った者の方が著しく多く とそれ
ハ
Ⅰ同じ 頃 行った向性検査では、偏差 者が二五名、下った者が二二名で、平均値は 資料となる。この四八名 の 宗教性 平 増値 は、 A において C の度数多魚形 申 3 女子 (ll2 名 ) M =26. Ⅲ S.D. キ 6.93 7.5 ℡ 5 13.5 @6.5 l9.5 皿 S ぬ 5 28.5 3l.5 34 万 3T5 冊 J , 鰍 一 図 (c) 第 一 表 11 ∼Ⅰ 38 ∼ 10
Ⅰ 5 I
外 が い