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『宗教研究』第1巻第1号(*1号)

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――目次―― 1,口絵 百万遍において発見したる古貝葉 2,最近の宗教心理学と宗教社会学,赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.1-42. 3,仏教の革新問題,椎尾辨匡,Benkyō SHIIO,pp.43-64. 4,唯識宗の異派,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.65-84. 5,罪に関する日蓮上人の懐抱,身延退隠までの心理的発達,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.85-110. 6,宗教的対象としての人,宇野円空,Enkū UNO,pp.111-138. 7,「六経」研究の根本問題,申命記の年代考(上),石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.139-158. 8,五学処の巴利典拠,長井真琴,Makoto NAGAI,pp.159-164. 9,大集経論,松本文三郎,Monzaburō MATSUMOTO,pp.165-212. 10,古代思想の研究においていかなる点まで新解釈を許し得るか,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.213-223. 11,批評紹介,pp.224-226. 12,学会彙報,pp.227-228. Posted in 1916(大正5)年

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宗敦率挽近の発達はまとして技に所闊宗歌心迎撃と宗教杜骨噂の沌歩とに負ふ所あるは、今

改めて云ふ迄もないのであって、嘗てブートルー敢授が基著﹁利率と宗敦﹂の中に論述した両沢

の串的旨趣及び其の踊係を見ても、略々その︼斑を窺ふことが出凍ると僧中るのであるが、自分

−丑近心理謳混の代襲的拳耽及基批評−−1ふボ敢の個人的及批骨的怠範 − ふ不敬歩lニ於ける 闊憂の甘馳 スの批評 − ナ† ツ タートy・七ルの争耽 心理争湿及社食争混の法事叱る傾向 − t虻¢宗♯㊥珊奉と宗♯批壬 ハ霹♯︶

最近の宗教心理学と宗数社曾嬰

赤 松 智 城

宗教槌資性の問砿に劉†る耐湿の麓戌−− サ才Ⅵ − 最近社食畢汲の鹿渡1宗教の批骨的墳能∼

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宗 教 研 究 卯︼奄 償二披

は今更に別個の方面から穀侵の未だ論及しなかった両者の閥係と、並びに基以後に放ける凌建

とを少しく述べて教授の詑む描足すると共に、この三脚の草混が一般宗教畢の中に占むペき地

位と旨趣と考技に明かにして見托いと愚ふ。そうしてこ∼に宗教心理涙といふのは普通に親 解せらるゝ如くまとしていり米用に行はる∼ものを云ひ、宗数址脅由とは近く彿観のデュルヶ

ーム教授に代表され、ユーベール及びモース両氏等に伐て開拓されて居る一派の邸説を指すの

であるり宗教心甜撃といふ語は型名としても已に耳馴れて居るが、宗致祉骨璧∽鼓O10g岩.reli− gie弓︶といふ語は鞘々奇異に成せらる、かlり知れない。しかし最近宗敢の配付轟的折究が頓に 勃興し凍て甚だ石森語る貢献を肝らしつ∼あることを知る者は、決して此派の功拭を茂成する

偲はぎるのみならや、その旨趣は宗教心理隼振に托しても劣らないことを挺めなければならな

いのである。組じて㌫歓心埋蝉派はかのスタンレー、ホールやジェームスに伐て開拓されて以疎

まとして偶人▼い一理り拍方法に伐て居るから−従て宗放談骨寧露の祉骨心埋邸的又は祉骨形績諭 ︵冒rpl邑品i。S。。i。ニ的方法と全くその方法論に於て胡て摺ることは多く諭を待たないのである が、持し北壁−三の未開に於ける宗歌心班Ⅲ∵ポは後に遇ぶる如く大に政骨意識若くは祉骨囲貼

の㌫数十誠⊥に放ける意鶉を認めて、頻にこれな高調して居る様である。されば故に述べんと

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する両派の嘩統は、敢然これを分で二とすることも精々困難であると思ふ。現に﹁水間宗放心 理畢難証﹂ は赴骨申的方面ぉも明かに包括して居るのである。然るに宗歓就骨畢派は個人心 理畢的方法ぉば少なくとも宗致の起源及び本栗の折衷上殆ど無用税し、此般の椚兜は決して この方法を以て解決する能はすと断言しで居る。デュルケームに依れば宗教は本凍特に一個の 軟骨的串耳であって、宗数的軌念は常集合的蟹在を衷はす集合衷象︵穿p詔搾已已i。n∽乱打ti焉Sし であるから、それは自ら個人心理寧の封象ではない。然し此派は必ずしも一般心理的桝兜を閑 却するのではなく、寧ろ宗敢を根本的に︼偶の軋骨心理現象と見て、その起源と敏速とむ考究 せんと欲するのである。固よb宗数的維脇には一面に於で個人性の頗る強烈なる者があるから 偶人心理邸的方法をまとする宗改心理邸は、ジェームスも既に云った様に桝網HロS告註0日乳re −⋮giOPよ♭も謬r容邑邑ig訂日を以てその対象となすは、その常然の職分であるが、今敵骨邸 派の封象はこれと典♭まとしては所開銀合衷象に依て結成せられた侶仰と伐紐とに存するので ある。しかしそれは亦必ゃしも宗敢の個人性を公然無細するにあらや、欝はその根陳に御報し て締局これを軋骨膜l締の中に凝見せんとするに過ぎない。約言すれば此派は宗敬意融の鮎骨的 産物むその韮なる対象とする。即ち紳髄なる鶴弥の洗足や、犠牲、歓鶉、儀式、政則噂の岡隠せ 土近の京歓心珠静と宗軟iた†郡 ︵赤を︶

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蓑 救 研 兇 禅−せ 霹一‡ 拘 特に就曾邸的見地よゎ説明し、而して更に進んでは㌫放と他の敢骨現象との相互閥係を考察し 以て典膿的雷敢現象り散骨的機溌と進化とを削映せんとするのである。されば此況の磁度は極 めて客翫的であり且つ自然的であると云はれるのである。 然るに心理撃派の感度はこれと英り根本的には一般に主観的であらまた追白然的である。こ れ蓋し此派の単著の宗教意識に対する解秤よ虫凍たのであって、彼等は多く宗数の本肇な純ま 軌的心理的謳葦と見、徒て宗教の規範ををの客机的東現の基礎の上に求めんとすることを排斥 する。而して宗教が心排撃上の一問題となち得る所以は異にこの純ま軌的性質に存すると見放 して居る。而して此のま軌性はまた宗教意識の超自然性又は超越性と結合して考へられたので ある。澱近に於て大府に宗敢の性欲起源説を唱へたシュレーデルでさへも宗敢を定義して所謂 ﹃超韓的﹄に締結するエクスクチックなる連取的経験であると云って屈む、また近くデュルケーム ノ の就骨畢的見地を論難したタータスの如きも明かに宗敢の脂質を超日銀的若くはスーパー、 ル†ルの軌念に求め、而して此勘合に伐て一個の阿紡が勧かされた帖に、始めて宗敬を就骨的 と吼撤し得るのみであると云って居る。然るに敵骨草派はこれに反してこの超自然性を金銭面 詳しで前にも︼首せる如く宗教S純然光る自然的説明暫試みんと欲して屠る。此鮎に於て両沢

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は極端なる対立を鰯して居ると云って差支ない。デュルケームは彼の﹁敢曾単年報L︵巳Annee sOeiO訂gi唱e︶第三懲及び基著﹁宗数的生活の原始形態﹂︵﹁店誉巨eS監日e口紅詔de㌻ま2邑igぎse︶

第一草に於て明碓に此釦を論述し宗教には必ずしも一定の神格をも要しないと云って居る。尤も

氏と腫も決して宗教に必然なる超個人性む無税せんとするのではないのであって、欝は寧ろこ

の超個人性の根源をば後に逓ぶる如く詳細に諭及して、これを経唸的自然の範囲に求めて居る

のである。然もかく云へばとて宗致の本栗をば自然にして胃漑曾。許ユなる観念に求むるにあ

らすして、寧ろこれを追越し若くはこれに対立する紳魂の観念に蹄して居るのである。

前述せる如き心理畢派のま規約超自然的僚向と漑曹準派の客翫的自然的停向とは、これを更

に両派の宗敢に対する賓際的鯛心︵守P邑昏=Ptere旦及び所謂宗敢の椎茸性の岡地の上に考へで

凍るならば、一府明瞭にその封立を恕め得ると愚ふ。

米観の宗歓心狸学者は既にブ丁ソ、チモクー〝戊が指摘し批評した様に、多く宗敢−−韮督故 − の賓際開港に対して固よb一両に於ては有益なる科拳的研究を耽みて居るが、仙南に於て 丑近の来秋心理撃と宗教祉食事 ︵赤松︶ 玉

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宗 教 研 免 罪一巻 第一筑 六 は亦著しく個人の威憫的閻心と功利的若くほ教育的閥心とに影ぜせられて、純乎たる教卒無私 の研究音速行することを阻縛されて居る傾がある。されば彼等の興妹は結局は護数的であると も云はれる。即ち宗改憲論の説明に心理畢的方法を用ふる所以は、一定の信仰を設題せしめて これを通常に護持凝居せしむる故良の方法であると見恨されて居るのである。スクーパプクに 依れば﹁心琴邸の宗薮に射する要は恰も閏拳の健康に於けるが如く、又は柏物箪め研究が植物 の鑑賞に資するが如くである。而して宗歓心理邸の職分は宗数々育上の知識と、精紳蕉清の理解 とを樹進せしめるに在るL。またコ一に依れば﹁昔々が宗数的経験の心理畢の中に起る全ての関 越を理解せんとする所以は、如何なる境遇の下に於て盈宣は人心にかゝる韓化を超すかを知ら んとするに在る﹂。然もゴーは所謂蛮塞の何物たるかを科挙的に秋蛮も開明せすして、超越的に 唯これを想定して居るのみである。かくしで恰も常挙が希臓の末期に於て諾紳の婦保と打T,、 中世に於ては数骨の碑伐となったやうに、心理畢は第二十世紀に萱すて新たに同じく信仰や亜 墜や政曾の碑伐となった。宗教心瓢箪稟中比較的に公中隊健なるプラグト、ジューメ、エームス諸 氏に於ても吾々は椅ほ此の傾向を寵むるに躊躇しないのである。 次にかゝる賓際的闘心と密接に閻聯して観るペきは、彼等が如何に所謂宗教の確賓恍の開通

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を取扱うて居るかである。然るに彼等は簡ゎに多く此の問題に就て論議を壊さす、唯狗断的に これを想定するに止て居る。これ蓋し彼等のま観的超越的傾向よ♭白然に適わ凍る締結であっ て、敢て怪しむに足らないのである。コーは明かに﹁宗数的僧侶の究紬的棟準は心理畢的聴生 的問題にあらゃして、紳及び同胞に対する変に伐て到達せられ且つ説明せらるペき倫理上の問 題でもる﹂と云って居る。而して此の倫理たるや科轡以上の神秘的超越的根掟に基てのみ可龍で あることは弦に多言を要しない。要するに彼等は自己のま軌的倍仰をば紳串的超越的に断定是 祝するに止ら、竜もその科挙的客椀的理由を示さないのである。 さで此等の鮎に就て社食邸派の採った態度は甚だその他を異にして居るのであって、串賃上曲 沢の串常には心理畢振に見るが如き耳際的関心なく、仮令少しくその籠むペき鮎はありてもそ れは灘静的締結の正常なる演繹に過ぎないのである。されば心理畢派に於ては已にその︼郡よ む一定の信仰や敦骨に対する従属的関係から心理螢の開放を叫ぶ壁が洩れで屠るが、祉骨邸涙 に於ては初めから殆どその蜜を見ない。そうして所開確貨性の問過に重ては此派は全然かの超 越的瑚断的ま軌的見地を脱却して、異に純正宗敬啓として探るペき立場を混も明確に且つ池常 に規定して居るのである。次に少しくこれを述べて見やう。 轟荘の哀歓心趨歩と宗秋能書串 ︵赤松︶ 七

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≡ デュルケームはその宗数社骨串的研究の第一の対象として原始宗敦を選んだ理由を恕げた中 にかう云って居る。 融合壁の問題はかの塵史又は土俗畢の同値とは異なb、後者の如く文化の遠路を浬解してこ れを轟現する串智唯一の目的として其の過程に衷はる1形式を怒めやうと努むる着ではない。 敢骨寧は金ての他の成立科挙の如く寧ろ青々に近く存在し徒て青々の軌念や行癌に影響を及ば す活肋的の現茸を特に説明せんとするのである。然らば此の現賓とは何であるかと云へば、そ れは云ふ迄もなくこの人問であって一掃適切に云へば現代の人間である。されば此意妹に於て 敢曾挙がかの奇怪極まる原始宗教を採てこれを研究せんとするが如きは、重く無用の沙汰であ る様に恩はれる。然るに今膏々が荘に特にか∼る梅めて胆純親野なる原始宗敦を放て先づこれ を折兜の対象とす・0は何故であるかと云へば、蓋し此等の原始宗放こそ人l聞の宗教性哲理解せ しむるに最も通隠した着であって、これこそ奥に人位の永久にして本貿的なる方面む普々に示 す着であるからである。併しながら此の方法には必すや烈しい反射があるであらう。日くか∼ 幕 瀧 研 先 第一令弟一¢ Å

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る方淡は現増山八性従て宗放性を理解せんとするに常ては全然本末哲細倒せる謬見である。現 鱈む用催せんとするのにこれむ膝史の肺腑に潮らんとするが如きは全く無用の穿カであって的 なきに矢を放つに瀕するではないか。抑々一切の宗敢は骨同様の岱伯と食指とを有する着では ないのであって、彼等は決して同一の革理性を布しないのである。是故に若し高等なち宗放と 劣等なる宗放とを比蚊してその間の︼系の脈絡を散見せんとするならば、前者をば後者の地位 まで引下げねば花らない。例へば技に偶にアサス!アクア土人の机野なる機種が基衡数の理解 を助け、両者の間には或柑の聯紡があると云ふ様な見方があるとすれば.か1る説明は基衡故 をばアゥストクリア土人と同様の心理から生じ托者とするのであって、従て立替数は此等土人 の宗教と同︼の迷信や誤謬の上に成立したと云ふのと等しいではないか。されば原始試飲に対 して部静的侶位を輿ふるのは正しく宗数性を無税し、又は冒漑するのであって樗ては誤れる鮎 諭に鳴く新であると。然しながらか1る非難は決して我が赴膏由ゐ根本的見地に秋蛮も触れて ヒユI▼●一、インスナチエーション は屑ないのである。組じて軋骨畢はその根本的想定として︼切人数の施設は決して誤謬脆偶を 兆礎としないことを籠むるのである。それで若し其の施設が事物の本性に裁かすしで視て存在 する者ならば、それは檻ちに打勝つ能はぎる抵抗に遭通して破滅し去るであらう。そこで杏々 濃近の霜歌心璃貌と宗政敵甘準 ︵赤松︶ 九

(12)

宗 教 研 究 弟一巻 第一読 −0 が今技に原始宗敦を研究せんとするに皆ても彼等は留明かに具現性を有し且つこれを表現せ ることを碓鋤伸するのである。勿給原始の信仰や儀純は不定酸味卑稼怪誕に充ちてほ居るが、併 し此尊の象徴の下に吾々は異の賓在性の伏在する所以を注意しなければならない。即ち此の場 合に於て英理は唯象徴の形式を取て衷はれたまでーある。故に其の形態の甚㌍粗野中幡なるの みを見て.その群に深く存在する選球の表象を顧みないのは、皮相の見と云はねばならぬ。如 何に単械野蟹なる儀式や神話にも留人類の成梯の欲望をその中に表して居るではないか。語を 換て日へば個人的又は敢曾的生命の或方面を其盛に具現して居るではないか。尤もある借着白 身がその信仰を是認せんとして自己に剋へた理由には往々視れる鮎も少なくないだらうが、︼ 般に新物の奥野なる部由は其の賢在性と離る∼ことは揖凍ないのであって、布くも賓在する者 は常眞理性を具有するのである。而して此を螢見するこそ科串の職分であるのだ。是政に宗敦 に就てこれ智観ても、本務誤った宗敢は一として存在しない。︼切の宗教には各々眞埋がある 暇命各椰の宗教は其の袖に於ては椰々異ならと錐も何れも常人顛の存在の劉へられた成郁の條 件に和地して居る。勿論此等む一系の櫓統的耽序に従て取扱うとするのは甚だ困難でぁって、唯 甲の宗敵は乙の㌫敢に比して柿帥的樅舵が優れ、軌念及び戚僻が教官であって其の系統組織が

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鳴うて居ると云ふ理由に伐て、叩は乙よりも商事である阜見徹し得るだけである。研漁一切の 宗数は菅同等である。恰も一切の種物はその一潤も劣繹なる藩よ土蔵も高等なる人間に到るまで 覗く同︼の僅物である様に、その惜侃︵少なくとも謹静的には︶に於て上下はない。従て青々 が原始宗致お対象とするのは決して桝開港通約宗放任の惜佗を低下せしむる所以ではないので ある。即ち原曲㌫致は他の高等稔る宗故に托して惜佗少なく弦も顧みるに足らない者としで斥 くべきではない。蕊しそれは賓に他の者と同様の必然性に依て生じ、同様の役綱ぉ粥じ、同一 の原田から起った着である。総てそれは亦同根に一般㌫敷の本栗を表はし、此鮎に於ては断じ て他の宗敢と瞳別する所はないのである。 四 研発動象としての原始宗致の旨趣に硫て、デュルケームは以上迎ぶる外に佃ほ一二方法論上の 却由を怒て居るが、鎧にはこれを細説する要はないから略して聴くが、上越せる桝にはて知り 縛る如く氏は第︼に全ての宗致に同一の報静的惜醗と碓賢性とぉ認めて、かのま翫的刷隼的見 地な脱却し、第二には特に原始宗教をそのま鹿妻云封忽とする紙肛、自ら頂始㌫致の哺性を研究 最近の宗教心毯ゆと宗教批骨畢 ︵赤松︶

(14)

宗 改 新 究 節︼密 葬一班

一こ

して獲られた締結ぉ産礎として以て他の宗教ぉも梓せんとする停向がその中に合まれて屠る、 而して先にも二言せる如くその態度は大憤上自然的客動的であることも亦自ら想察されるので ある。然しデュルケームは駆に宗教の形借的衷現のみを採てその対象と焉さんとするのではな い。現に此鮎に兢て氏はかう云って居る。 ︼切の宗教は皆比較し得べき着であゎ、叉彼等は全て同一種の選れる属に過ぎないのである から、その間には必ずや彼等の何れにも共通した本質的要素が存在しなければならない。然ら ばこの本栗の研究に於て青々の対象とするは何であるかと云へば、夫は単に各宗故に同様に衷 現する外部的外敵的なる宗敦の性質又は形感のみではない。蓋しかゝる外商上の衷現を凝鬼す ることは寧ろ比校的に容易の兼であって、研究の出竣鮎に於ては或は此れに依て︼偶の共通な る仮定的の定義を得ることも出凍るであらうが、併しかゝる観察は単に串貨の東面を見るに過 ぎないのである。事態の農相は茸に此の外部的類同の裡に吏に深奥なる他の要素の存在する串 を致恋して居るのである。只Pち灸ゆる信仰及び儀祀の組織の根底には必ずや︼先の根本的表象 と儀線的態度とが伏在して屠る。而して此等は其の形式に於ては各々窮なるに拘らす常に同様 の客取的表現と機能とを有するのである。かヽる常任の要素こそ欝に宗敢の永久普漣なる生命

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を構成する着であるのだ。昏々の所謂普遍的宗致観念の客祝的内容は正に援に存すると。

之に伐て敷れば就竹串択は先づ宗敬意諏の本栗観念 − 此派に依れば紳鞭の観念1を浦へ

て、次に之と併せてその形感的方南を対象とするのであって、決して後者のみに依るのではな

いのである。然るに宗敢の蔽骨寧的研究ぉ目して単にか∼る形態の研究に止まるが如く訳解し

叉ほ知らずしてかく倍する若が邸新聞にも少なくない。例へば最近にデュルケームの見解む批

評したクォタスの論文の如きそれである。戊に依れば敢骨串派は宗数的形櫨と宗故意繊基者と

ぉ瞳別せす。前者は大場上杜愈的であるが後者は根本的に常に個人的であるに拘らす、雨着を

混同して何れも敢合的と鬼仮す謬見に陥て居る。宗敦共著は本水心迎畢的及び桐人的であって

決してデュルケームの云ふ如く乱骨的一般的ではない。勿翰個人的宗致武融は赴倍化され若く

は軋曾に交付されで一定の形式と衷現とを具へ凍るのであるけれ其、この交骨わ過細如ち宗敦

の敢骨的方面は偶然の現象であって、その本栗的要素ではない。恰も思想は言語に依て哉来せ

られで始て他に偶るけれども、音譜は単に思想澄表の形式に過ぎやして決してその内容では互

い橙に、所謂宗教の赦骨的方面も艶に宗敬澄緻の費現する形式方便に過ぎゃして、その本腰内

容は偽造個人的である。抑々個人は英自身に完全なる一個の畢位であって、決して敵骨の中に

最近¢宗敢心踵撃と宗教軌甘嬰 ︵赤松︶

(16)

一因 幕 政 研 究 妨一巻 第一せ 没了し去る着ではない。膏寧ろ敵骨と対立して然もこれに大なる影響を輿へるのである。故に 敢骨相紳は全然偶人粕翻を包宿する能はす一両者は常に二偶の典れる単位として然も相互に交 錯影響しで居るのである。従て今宗敦の本栗と表現とを考察せんとするに常ても、寄々は個人 心理寧と政令心理撃とを併用し、亙に相排斥せゃして協同補充しなければならないと。 さてこゝにクオプスが個人心理撃と祉曾心理学との協師lを設ける鮎は、固よb重曹なる見解 であるが、宗政の木屑的要素を全然個人的であると断定して秋竃も政令的要素を舐めないのは 氏が椰々諭耕せるに拘らす未だ敢骨率派の眞港を充分に理解せざるに基くと恩ふ。此鮎は仰ほ 後に詳論する機曾があると侶するが、今仮に氏の用ひた管喩をそのまゝ抹て云へば、宗敢の本 貿とその敦規とは個人内部の思想とこれを駿東する言語とに和宮するのであって、前者は個人 的、後背は敢骨的と見催すのであるが、然し前者の思想基者は一般に果して純然たる個人の所 産のみであらうか。若しこれを他の方面から軌佗ならば侶令この思想を悌抱する者は個人であ っても、その教生的起酔は誠忠妹に於て配合的集合衷象の産物ではなからうか。即ち個人内部 の思想ではあっても、その︼両の本貿に赴骨的要務を認め得ないであらうか。宗敵意融の本質 に就ても亦両横であって、・ク†リスの云ふが如く恥骨的場東は唯その形態的表現のみに限られ

(17)

五 デュルケームやユーベール及びモースは、主として樽ほ原始宗敦や臆術の研究に止って居る が、今此派の傾向を捜承して其の締結を更に大腑に一般宗教の上に諭及したのはチ†ツタート ン、ヒル氏の﹁韮督敢の祉骨拳的慣偲﹂である。氏はまづ宗教の確耳性の問塩より始めで、進ん で宗教の祉骨的機能を詳述し、かのま翫的個人的方法に反対して、宗敢触骨畢派の所関谷規約 態度を最も鮮明に演繹して居る。それで技に其のま澄を逓ペて現代に於ける政派の傾向の一班 む示さう。 氏に依れば徒賽の紳邸的数鶉的見地から一定の宗致健系の些慧品慈し諭旺せんとする如き 企固は重く無用の莱である。紳単著の知識は所詮ゲーテの既に云へる如く﹁盲凍常に同一の追 を併細して居るのであって、秋竜も地歩鍵連なくその不可解にしで奇蹟的なるや古今同一轍で あるL。所謂ぷボ敢の根本的碓資性﹂の問題に裁てはこ十世紀の現代も箪︼世紀の基督教徒もそ であると恩ふ。 少しもその本肇にこれを恕め得ないのであらうか。此専の鮎は飼ほ充分に考究せらるべき同視 ︳近の素数心理邸と宗敢敢‡ ︵赤松︶

(18)

〓ハ 宗 教 研 究 弟−窄 第一披 の解辞に何等選ぶ所はない。否現代の韮督教徒も古代印度吠陀の詩人も此問題に関する知識に 於ては何等樹液する研が巧いのである。蓋し各信者個人の信仰の確資性は結局は仙人自身の内 部威偶に伐て決するのであって、基揖lに何等の推理や思索を容る1を許さないから、紳串上よ わ見たる宗数的眞聖の規範は本務常にま軌的個人的である。即ち一個人が何故に基督敦を取て これを眞理なむとするかは、彼の個人的感情経験に伐るといふ外はないのである。然しながら 宗数−−尭懲疲の碓雫性む論結するのに、か∼る鈍重軌的籠明法のみを以てしてをは果して十 全且つ妥常なむや。吾々は育と答へぎるを得ない。何となればかゝる龍明法に伐てはかの初代 の韮督散骨が常時の頑強なる典故に対して勝利を博せし事賓や、また数曾が爾水飴多の危険に 嚇されながらも佃ほ今Hまで存耕せる理由を充分に説明し禍ないからである。乃ち基暦数はか かる畢純なるま軌的根班以外に夫自身澱も碓欝㍍る鮮麗上の客観的根披に基て是認され且っ緋 逆されねばならない。換言すれば具醍的串賓の範陶に立入て、精密なる科挙の批判に依で吟味 されて、野際の軋曾珪活土有功碓質にして異に批く可らざる一要素であることが怒明されねば ならぬのである。韮暦数はその静敵lこ対するやそ∽批判を免れんために怯然として利率的推挫 の達する能はぎる個人内性の連取に逃避し、その裡に避難所を見出すが如き熊度を取らす、宜

(19)

しく明白なる外部の世界に出で∼現に抑捉し得べき客酌的具醗的事賓を材料とする利率的批判

に打常わ、その臓窮なる吟味を受くることを要する。蓋しかくしてこそ茄に茶督敢の碓貨性は

諭許されセと云へるであらう。かのま勅諭者の如く偶人ま蜘の内性に隠れす寧ろ個人以上に出

でゝ此の賓軋骨を厨く観察しなければならぬ。抑々個人の感情種脇は極めで剃那的偶然的であ

るが、これに対して赦曾は永久であゎ普遍的である。されば基材敬も宜しくその展狸むばか∼

る永久普遍の根蛇に求むペく、決しでま軌的刺那的なる経脇にこれを求むべきではない。串野上

韮督致が過去に於て雑多の危険に濫過せるにも拘らず常にこれを征服して毅屈し永続せる理由

は、正しく耶鯨の信仰がこの永久且つ潜逼なる根城の上に建設亨れて居ることを陸別して居る。

著し光れ耶蘇の数が畢に仙人内性のま軌的閃光に過ぎないとすれば、その説は恐らく耶蘇基人

の個人的形響が明かに佃ほその弟子の悶に残って居た期間即ち紋の死後約数十年聞だけ存紙し

たに止ったであらう。触るに基数が今日に至るまで永線せる所以は鼻くそれが西洋胱骨の永久

普遍なる努求に協うた原軋の上に娘役された着であることを征して屠るのであ・る。約冒すれば

耶蘇の敢は一の融骨的数ぬであって西洋文明を存留せしむるに眺く可らざる触骨相晴上の決闘

を敦へたものである。避督致の鼎憤を判断すべき客軌的規範は賓に産に存する。耐してかの偶

土鑑¢菜鴨心凛鴨と幕軟歓喜 蒜較︶

(20)

凡そ基替歌に限らす一切の宗致の僧侶は正にその宗敢が敢骨に対する客観的旨趣に依て判断

せられる。換言すればその宗教の保持する客観的眞理若くは敢骨的倍位が、彼等の眞倍を判断す

る唯一の規範である。然り而して所謂宗政敵骨邸的研究の窓覇も亦貨に弦に存するのである。

就骨畢は一の宗数の就骨生活に於ける具龍的功果と影癒とを見て、此を樺串としてその惜放を

定め以て或は此を是謁し若くはこれを批斥する。即ち融骨の要求に應する宗敦は永久に在荷し

而してかゝる宗教こそその客軌的融曾的侶位が明かに綻別せらる∼から、此意味に於てその宗

教は鼎理であると云はれるのである。絶じて眞理とは一個の勅封的軌念である。従イ二㌫放の

鼎理性は輿へられたる境遇に閥聯せしめて始て判断せられるのである。即ちその墳皿の中に於

て宗敦の眞偶は定められるのであって、その判断は軋骨生活に及ぼせるその宗敢の具憤的効果に

依て決するのである。そこで韮督敦が南洋に於て眞理であったと同機に、回数、婆羅門敢、沸教

儒教は各々その境遇に於て輿理であった。蓋し夫々常その凝れる社骨の要求に適臆した着であっ

たからである。かの原始宗致の如きも同橋にその赦骨に於て始て眞狸であったので、若しこれ

を個人的見地から触るならば到底その英和を功かにすることは出奔ないのである。従雄琴界に

宗 敢 研 究 第一奄 算一♯ 然なる個人的経験は秋竜もこれに閲輿しないのである。 ー八

(21)

喧博せられたるクイラ㌧フレーザー、小一とフソド等のアニミズム説の加古は個人の祝念を

宗致現象の兆礎とし、然も原整ポ致を詮明するに現今の文化人と同様の方法と諭響しを施用し

たから、原始の宗教軌念は今日よゎ見れば自然の正常なる知融を秋如した不合理の幻細と見

仮さる∼に至ったのであるが、しかし今昏々が原始の状態を若し︼厨探く且つ適切に考察する

ならば、かゝる見解は全く謬て居ることを知わ得るのである。何となれば若し原始宗敢は駅に

奇怪なる幻想に過ぎないならば何故にか1る視れる観念がしかく普遍的に散在して居るのであ

るか。また原始宗政は本凍自然及人事現象を理解せんと欲する異なる個人の要求に基因して居

るとすれば、その・観念がしかく一般的に遍在し且つ永蔚せることは賓に根本的に不呵購ではな

いか。然るに今青々ほ生物畢の数ふる夙に伐て成抑嵐の一機官が到る握に存在し且つ永何せる

理由は、その機官が鑓存競軍の渦中に在むて常に同園の祉骨に髄く邁臆しまたこれに貢献する

に依ることを知で居る。宗教に放ても亦同様であって、〓ポ致慨系の佃捕と存頼︵Di浮siOn呂み pりr仇許n且は央がその融曾の結合及び存将を確保するに甚だ有功なる撒官であるからである。例

へば今原始人の宗教を分析せんにその信仰には個人的見地よむしては何等の利金も効用も存在

しない。即ち純粋の個人的利害よむ打算すれば原始の宗数的信仰には秋蛮も益する併を磁鬼し

最近の票数心瀧畢と幕散批曾蓼 ︵赤な︶

(22)

嘉 教 研 先 #一● ●〓墟 こ0

ないのである。ラボククも夙に云うた様に原始宗教は寄ろ個人の上には甚だ不都合な多数の禁制

を課して少しも個人の我意と辛夷とを怒ならしめない。諸和の儀組殊にブ丁ソ、誓ネッブ氏の所

謂訂:訂品︵訂p論議窃に於ける時の如き、或はアサス!フリアのトーテム敢曾に於ける興族結

措い・規定の如き、此等如何なる場合に於ても、個人の利己的欲望要求は禁腰せられて寧ろ苦しい

虫梢′ダ〓人に課す㌫のである。さればかゝる無数の革質は到底これ哲個人的見地よむしては説

明し得だいり即ちか、る信仰や儀撒は明らかに個人より澄鎮せゃして全く個人以上に優越せる

ーの勢力よ、り派焦せることを示しで居る。語を換て云へば此等の信仰及び偶繊の規定は全く鹿

骨高森の要求から鵡ったのであって、推て夫は畢に偶人心理嬰に伐ては理解し得す、宜しくこれ

を敵曾心翔箪の説明に待たなければならねのである。

抑々吾人の㌫職の範岡内に於て個人よbも優越せるカを求むれば、央は瀧曾の勢力の外には 在b得ない。故に原始生活上にしかく偉大なる勢力一ど有する信仰は須ら︵融や的性貿を有すべ

く、決して個人的ではないのである。即ちその根源は正に配骨必然の婆状のホに求めらるペき着

であって、決して偶人打撃北に存しない。︼伐に佃人ほ枇脅已外には存在する龍はす、また鹿骨

よゎ周立に生存し得す、而して就骨は賢に付人の上に不可抗的の拘武力、、霊竿るが故に従て上

(23)

寵の社食的信仰は個人を支配制御し得るのである。か∼る信仰を澄明したのは個人にあらやし て耳は個人が此を酢曾又は祉骨意識から柑て衣たのである。故にか∼る倍仰は集合的性慣を有

し従て各個人に射して先天的性質を有する。原始人のアプリオブーは貿に此の処合的信仰であ

る。然も此の集合表象又は胱骨意融は固よb偶人意識と同一ではなく、叉個人意識の胆なる購 合でもない。夫は正にs已ge旨i兢であるから決して個人心を支配する偶人心理蝉の法則に従 て鋤くものではないのである。固より赦骨ば個人に伐て構成せらる∼けれども、軋骨生酒共著

は佃人の鑓借とは自ら胸立なること、恰も個人の生活基満が個醗を構成する各細胞の存在と自

ら璃立なるが如くである。畢細胸を如何に吟味しても偶人各般の生活を知る龍はぎるが如く、

個人の銀箔のみを如何に解挿しても散骨の鐘紡は理解し縛られないヤ蜜之宗教融骨邸次の研究

は下に渦ぐる三伯の根本的命退を提示するのである。

一、敵骨はP甘e呂mePOP血2.gene訃であって其の鵜化は個人の池化とは狗立である。

二、宗教的僧仰及び制腔は靴曾の桝應、恥骨悪渕の成果であっで個人より教生せるにあらす。

三、霧散的侶仰及び制戊は購大なる軋骨進化S過群の根底に械はる公ゆる勢力中瀬も根本的

の新である。

最近の宗教心埋草と哀歌洗骨嬰 ︵赤松︶

(24)

宗 教 研 究 帯一巻 第一慣

二こ

かく宗致は単なる個人現象にあらすして本貿的に一の赴骨現象であTク、敢骨生活上の一産物 としてまた赦曾凝展の一根本要素として衷はれて居る。デュルケームが宗敦は敵紆生活の金ゆ る要素を潜勢的 曾pO訂已i且 に包含すると云ったのは至言である。即ち科革も絆も紳詔より派 生し、塑造張術の避源も宗教上の濃飾及び儀式に在る。また儀式上の蜜際的規定は法律及び造 嗜を産み、家族親族の㈲係も始めは全く紳秘的聯勤と見催された。刑罰、契約、姻輿等も宗敢 的犠牲の樽説の鼻形に過ぎない。霊魂及びその不滅叉ほ生命の問題に僻する衝撃思想もその原 型を古代の宗教の中に有する。仰ほ敢近の研究に依れば就骨の握臍的活動及び組織は、かの歴 史的唯物論に反してその起痴は亦宗数的倍仰とその影響とに蹄せられて居る。併給崇敬は軋曾 生活の一要素元b、またその活動と凝度ししの︼機柵であって、常に同様の敵骨的要求に臆する ものなるが故に、その存在は耳に普遍的であるのだ。 然らば次に超るべき問煩は如何なる要求が宗致を教生せしめ、叉宗政は如何なる社食的要求 に臆する薯な5や。此間題に射する解答は︼言以て之を約するならば、宗教は軋曾の統︼、倒結、 集成 ︵翼iP−βnity邑謹訂P∵nte明邑⋮On︶ の焉めに秋く可らざる輩粟であって、以て個人の自由 を馴倒し社食を存輯せしむるために個人をば軌骨に従属せしむる着であると云ひ得る。蓋し就

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骨生活は一般に個人の自由を制限しその欲望を或程姥まで抑制すること−こ依で始て可能となる のであるが、此の個人自由の制限は云ふ進もな′・個人以上の優越せるカに依る外はないのであ る。然るに落人の経験内に於てか1るカを求むるならば先にも〓一日せる如く央は敵曾よ♭外に コントP−ル は在む柑ない。かくで融曾は個人を統制寸る方便として宗数的信仰を顔出し、似てその先天的集 合的不可抗力に伐て個人を支配し抑制するのである。此澄妹に於て宗致は個人の利嘗を軋昏の 要求の虐めに犠牲とする方便であると云ひ得られる。而して個人の生存は敢骨の中に於て始て 維持せられ、赦骨以外に於では個人なく叉その発展なきが故に、宗敢は個人の利啓を社食の承め に犠牲としてその軋骨む存摸せしむることぉ節一報とし、而して後にその軋骨の倒結を確保す る範囲内に於て個人の要求む容るゝのである。前述せる如く原始宗敢は全然個人の問過を納税 し却て祉骨の痛めに個人の上に苛酷なる負樽を駁したが、後に宗敢が少しく池化して珊々高恕 なる段階に達した時に於ても、かゝる宗教の散骨的意鶉は等しく澄見せられるのである。例へば ペルーのIn琵メキシコのA旨岳イモフエルの可PF扁F紫邦等に於て如何に個人の碓鶴が無 税せられ、その帥の名に於て如何に個人の食い血が洗されたかを見る者は、産に集合怒識の拘 束的成爬カの甚だ強大なるに批かざるを村ないであらう。宗敢が若し単なる個人的要求の所産 最近の宗教心現車と宗教誓串 ︵赤を︶

(26)

幕 政 研 兇 界︼旬 節一班

こ四

ならばかゝる個人に封する魔迫や虐待は公然不可解の事塞ではないか。それで古代の宗致はか

く常個人の要求を犠牲としたが、然し宗敢の後に正に弘化するや一面に於てはその根本的なる

鹿骨的要求を把持しながら、他面に於ては個人的要求をも容れて即ち個人の救済又は其の信望

変の封象となるに至った。約言すれば此鮎に於て宗致は個人化されたのである。而してこの革命

を匙したのは賓に基督敢であっね。即ち韮督数は一面配曾的軍準と併せて同時に個人的要求の

擁護者と捏アり、若くは個人に対して瀬上の駆制着ねると同時に個人の無上の尉締着となったの

である。韮督敦以前の宗教は一前約であったが韮斬敦はか、るこ茄性を有するのであって、かく

ソシ丁ル.インチレスト イシダイげイヂユhル イシナレスト

して新教は融合的利害と個人的刑事との均術を野現せんとしたのである。而して技に揃

致の偉大なる眞憎が存在するのである。然し此の現賓の人生に於ては敢骨及個人の両栗沢は決

して先金に均衡ぉ経挿する髄はす、両者は共親しっ∼然も互に相反射するを常としで居る。故

に今基督敦は此の均衡ぉ耳現せんと欲するけれども、それは視野には到底完全に落行されない。

技に於てか盗聴敬は光づ個人の犠牲を捌炎して然もこの犠牲は現世に於ては報いられないが、

死後凍世に於てその充分なる果報を縛らるペきことを説いたのである。即ち現世に於て完全に

均衡を保つ能はぎる就曾と個人との両要求は凍るべき永久の他界に於て嗣和せらるべく、現世

(27)

於てまづ個人¢頚求を無成するは彼岸に於て皿蒲ぢる雉活七倍む序指であると沃徹したハりで ある0 上述せる如く基層数が融合羞び偶人の再要求に適旛せんとするに至った所以は、亦これ′で少し く他の方面から論究することも出頭るり飽じて原始人に特有なる塊合衣魚はレブィー、ブルール 氏が滴切に指摘した堵に根本的に神秘的性感を有するのであって、吾人の所謂合祀的闘偉に伐 て成るのではない。而して心理畢的見地よゎ云へば、政令の進歩とはこの盛付表象の紳腐的勢 力範囲が漸次減退し、而して個人6思想がこの集合意識の拘束影ぜから離れること考㌫ふりで ある。かくで其の結果としては始め場合表象の中に結合されて存在し陀知的輩素と憫‡的粟嘉 とが、亦漸次に分推して前者は始めて猟立に作用し得るに挙り花に所謂論理的無念が構成せら れ、やがて︼般に合理的思想の教壇智見るに至ったのである。さて個人がかく焔倉∴象山拘束 よb脱して自由に合理的に思索すもに至れば、云ふ迄もなく集合表象の勢力は著しく減殺さる ゝから、所謂合理的個人はそり社骨の焉めに自己の存在の︼部分だも檎牲に供するを喜ばざる に至るであらう。かくて合理ま頚の磯展は自ら個人或鴻に覇き、而して偶人ま亮い撹昆はが盤に 敢骨存在の基礎を危くせすんば止ます。於此敢曾の進化すると共に政甘と偶人との利器に引立 丑近の宗歓心癌撃と宗教批†準 ︹赤松︶

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二六 哀 歓 研 究 第一巷 霹一哉 し徒てこれを調和するの必要が急務となって凍詑。そこで庄に此の調和な賓現せんとする基督 敢が現はれたのである。 六 徒凍需放の政令的機鴇を論じ托畢者は少なくない。併し何れも断片的であって精強でないが 宗致献曾学派は前適せる所に伐ても略々窺ひ得る如く此の問題を力説しで狗特の拳説を開展し て屠る。それで仰ほチャックートン、ヒルの併設に依て此鮎に関する此派の叔近に放ける見解を 下に並べて置く。 抑々原始軋曾に於ては宗教国籍基東を示し、後者は前者に依て始て発現され托。思想の原始 形式は即ち宗致思想であ♭、従て解物の分類は宗教に伐て始て示された。原始の文化に放ては 宗教と社食、宗教意識と社食意識とは同鶉苅語であって、宗数的即ち祉曾的ならぎる思想は原 始には存在し㍑かったのである。然しながら前にも述べたる如くこの敵骨的集合衷象が分化し て個人化の傾向が鋤くなら、紳秘約数力範園が減退して合理的革索が狗立に敬虔するに至るや、 軋曾は抜に池化するが然も同時に軋骨のイソテグレーショyは弱く打丁り、合理浅鶉が個人ま畿

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を導くと共に赦骨身裂の傾向は強くなって凍る。於此赦骨の閻結を維持せんが超には此の倉淵 ま鶉お抑制しなければならね。如制限なる合理ま鶉の凝展は敢骨のデスイソテグレーショソを 必然に請通せしめ、徒てこれに件で亦個人ま我が凝達するや、先に原始敵骨に於で全然同一の 命題であった宗教と敢曾とは亦必然に分離せざるを得ない。かくて宗教と赦骨との分化は賓に個 人と軋命の分化と細胞するのである。そこで宗敢は蔽食生活の要求に應じで赦骨岡姑の本捗を 娘さんが承には、先づ此の合理ま鶉を抑制しなければならね。宗数が文化の柑々高等なる段階 に於ける解一の機能は賓に此の合理ま鶉の制限に存する。而して之に伴うてまた第二の敢骨的 機能を派生せしむることが出水る。即ち合理ま鶉を制限して以て宗敢は前述せる如き個人と祉 骨との均衡を保たしめ両者の判官を調和するのである。然す而して此の均衡調和は賓に紳弛な カテゴリカル.インベ’ナげ る﹁鶉務﹂の観念に伐て賓現せられる。此鶉務は絶対に強制されたる無上命令である。然も義 務の反面には云ふ迄もなく櫻利があるから、基督敦の道徳に於てはこの梯利と義務とぉ相聞せ しめ亦その均衡を保たしめて居る。即ち個人の犠牲を要求する鶉務戚とその醸牲に対する正常 なる報償即ち正鶉む要求する梯利との網和を侶命現世に於ては求め村ぎるも雄世に於て散見せ んとする。かくて犠牲の軌念と詑鶉の軌念とは陪食されたのである。 最近の宗教心球界と完敗批官邸 ︵赤松︶

(30)

宗 教 研 究 節ご職 位〓銑 こ八 次に宗致の第三の社食的機髄は金敷骨とその内部の印々なる小敵骨との問に亦上記の均衡調 和の㈲係を似たしむることである。而してか∼旦嗣和的闘稀はまた常然此等の各小敵骨の聞に ち均衡を保たしむることゝへ仏るのである。線じて敵曾の純化するに件ひ、個人化が樹逸すると共 に軌倉共布の内部に於ても亦郁々の分化を鐘じ抜に無数のSロbdiま乳0巳を見るに至るは固よも 必然の結果である。諸種のC㌻莞S︸9rpOm什㌃烏︸S呈訟9t謡、守0紗臥0ロ已Org呂訂t訂ロm等は即ち これである。而して此等め小軋曾は亦これに屈する偶人を統制して以て一個人と金敷骨との中 ロlぅに立ち個人の敵曾化に貫献する。従て個人はその屈する幾多の小敵骨七通して垂鰻の敢骨の 利益に買献しっゝあるのである。そこで今昔し宗政が個人と祀骨との均衡な保ち.敢骨㈲砧の 機佗を蓬行せんとするならば、宜しく亦此辞の小敵骨に向て宗数固有の勢力を運用しなければ なら氾。於此先に掲げた第三の軋骨的横倍が澄押されるのである。かくて宗教の赴骨風締約機 能は公憤の軋骨に対して個人の利己ま鶉を繁藤すると共に又各小軋骨の利己韮鶉をも抑制す る。前者にして禁服せらるれば後者も串宮上抑腱せられるであらう。然り而してこの利己ま鶉抑 魔の機鴨は文化乱骨に於ては全く一の造穂的汚物として衷はれるのであるが、今吏に︼歩を進 抄で叔も十条且妥常なる道徳的勢カは何ぞやと間は‘、央は正に宗教のカ以外には求められな

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い。撃レ宗敢の名に於て験せられた命や︶を埴且元金なる者であって、これこを眞に無上命令

の名に負かないのである。宗数はか′、て利己‡我智完全に抑制して政令的閻結を確保する唯一

のカであるのだり宗数の澱も根本的なる機鵠は揖に技に存するのである。然し宗敢の敵骨に射

する勢能又は構成は吏に一掃設屈し凍るや終には現質の軋愈以上の範囲に燐張せらるゝに至る

のである。而してこの追放令範城とはこれ即ち墨限なる世界の制限以上にその様龍と範囲とを

和するかの紹封無限の世界に外ならない。一位軋宵以外に偶人化してその統制ぉ経れた合理的

人格は更に此の串軋曾的相成に従属しなければならぬ。そうして此の椛成はこれを紹封界の彼

方に認むる外はない。かくして無限紀封のカ向に政敵恵盃の■鱗張されることに伐て、個人的婁

求は正に一府抑靡され拘束されるり宗敵の酢骨張戊カは賓に弦に至て完成するのである。

梁之宗致の眞迎と旨趣とは客観的に軋骨の固拙集成を確保し呵批する鮎に存する。是政に木

本個人的宗敢と都する解なく唯集令的宗数あるのみ。宗敢は正に︼偶の敢禽的創造︵S苫i已。r7 乳iOn︶である。

長蛇の宗批心理墜と宗教批骨組 ︵赤松︶

(32)

宗 教 研 究 第一聴 解一軒 三〇 さて上水梯通せる杜骨邸振のま張と次に考察すべき心理申派のま覗とは、果して如何なる鮎 に於て交渉を有するか。これ欝に重要なる問題である。 枕近需歓心迎撃上注憩すべき有感なる三伯の著作がある。尤も此外に旦二ここの方商に関係 を有する者があるけれども、何れも一方に偏して包括的組織的でない。開ふ朗の三者ししはエー ムス氏の﹁宗教的経撥の心理串L︵P唱。邑0顎。︻Reli各日切貯perie胃・−巴虐とキング氏の﹁宗敢 の殴旋﹂へせe邑。づmen:”Religi。P−讐○︶とリューバ氏の﹁宗教の心甜邸的研究﹂︵憎骨邑鼠昏− ∽t已寸旦ご評−igぎ・−讐蒜︶とである。それで自分はこの三者に就て弦に注目すべき要凱を述べ、 併せてその宗数社曾単記との関係を論究して見たい。 コシヴァ−dこdシ 兼闘に於ける宗敢心理嬰涙の最初の封象は云ふ迄もなく立として発心の問桜であったが、 ゼチチック 枕近に立て此の研究は漸く磨れて、箪者は大鯉上︼般宗教忠融の発生的研究に従ひ、宗教意識 の鵡断と特異とぉ開明せんと努めて居る。そうして従妹の純然たる個人心馳単的立脚地を離れ 又はこれと併せて先にも二宮せる如く著しく敢骨串的方法に依らんとする仲南が見えるのであ って、技に述べんとするエームスやキングは賓にその油例である。 エームスに依れば宗教は瀬高の敢曾的慣位の焉識である=原始の甲慣、偶祀、魔術、柿宴、

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供峨、新藤、紳諮等の超瀕及螢展は殆ど全く酢骨的であっで、一切の宗教的倍仰及び構組もそ

の起源は就骨忠誠の巾に求められる。そうしで宗教音調は茸に融合意識の根本的中心的方南を

示し、基本貿は生命の叔高僧侶基者である。人窺は乱骨的馳物でム丁り且つ赦骨的債惰成を有す

るが故に、票数的動物となむ得るのでぁると。併し戊は所謂宗数的慣班と他の胱骨的倍位とを湛

別する嘩覚ぉ肌かにせす、また金他の軋骨澄誠基者と将に宗教的と耕し得べき政令意識とな鮮

明に囁別して居ない。されば氏は︼股に青年期に入て個人に鹿骨意識が凌鹿すると共に、彼は

串賓上宗数的と捏丁り、徒で無宗汲の人々は赴骨意識を秋血せる者と鬼催すに至っ咋。恩へらく

異に欣骨的防潮及び融合的戚偶の他界に入ら凍らざる者は、宗教な有しない。蓋し彼等は政令

的秩序の負祝する磯路成と刺戟とに反腰せや、軋骨的良心を構成する珊想的慨偶成む触て周る

からである。心魂坪的に云へば敵骨的経験よら離れて宗数的感慨ぉ経挿せんと試みる人は、侶

命日ら宗数的な♭と弐航するもその敵骨的ならざる鮎に放て桝かに彼は宗教を有しない。反之

充分に基時代の赦骨的運肋に感興する人は、自らは宗数的と耕せざるもその融骨的なる鮎に於

て彼は確かに宗教的であると。斯の如くエームスは単に宗教常識と祉骨潜流とぉ同一視して居

るが、併し前者の特質む開明せぎる已土光は何呼の紀明柁る慣低がないと恩ふ。卸∴彼はその

︳虹¢解散心理申と舅故紙甘傘 ︹赤松︶

(34)

三こ 宗 敢 研 究 第一令 弟︼坑 祉骨意識とは何であるかを明かにせす、また多くの宗致は何故に個人的要求に反射し又はこれ を東成して敢曾的に教展せるか、而して氏の所謂敵骨的遊務威とは何であるかぉも少しも問題 として屑ない。若し氏の云ふが如く敢曾的なるが故に宗数的捏アワと云はい、殆ど全ての人類は 成澄昧に於て慣敢曾的なるが故に徒て温く宗教的であるといふが如き、何人も承鯨しない様な 親栗なる結論に陥るであらう。且又氏は自ら明言せる如く所謂機簡的心理学の立場を探りなが ら、宗教の赴骨的機偶に就て多く考究した痕の見えないのはその大なる難鮎ではなるまいか。 然るにキング戊は此等の鮎に裁て精々忠誠の特質を陶明せんと試みて居る。氏もエームス氏 と略同様に宗故意融をば社曾的評慣の濃度と見倣して居るが、併し宗教的旨趣を有せざる多く の憤位魔戊の存在を認め、従て宗数的憤位罷放と非宗教的僧低価度とを湛別すべき惟件を決定 せんとして居る。而して前者の特肇をば結局瀬高至大究棒永久普遍尊慮大紋の形容詞を以て云 ひ衷はさるペき倍位に求め、且っ此億他の後生する仙北を赦骨鳳結に求めた。日く融骨団結は金 ゆる永久なる価値観念の鹿出される子宮であると云ヘム。而して此等の軌念は根本的には其敵 骨閣結の存続に何程か丑大なる問退例へば出盛.設備.純姉、咄非、探食、職印等の問題を仲介する 活勒と騙聯して起れる澄舐的鮭度である。而して軋骨の閻蹄軌綴が森々強固となむ高専となる

(35)

や、この慣低位皮は亦益々永久普遍に教臆する。即ちをれは−府宗教的となって凍るのである と。キングは一般には融骨園姑よゎ離れて弼立に惰兢の軍艦し待ることを拒まないけれ基、併 し敢曾的影響は佃人の場合に於けるよbも慣位の認櫨に︼厨有利なト一とし、従てかの原始人に 於て恥骨即紡が或窓妹に於て絶対究極なるが如く、敢高概伍は組じて個人の金融骨に対する踊 係に於て最も能く敬展すると云って居る。然し氏は何故に倍位岱度が就骨圃結と㈲聯し舐れば 普遍的究極的となるか、またか1る常温究極の恥骨的僻仇は如何なる烹煉に於て㌫歌仙と糾せ らるるかを評かにして層ないのである。それで宗教造語の特貿は正に期の如き着であるとして も其の理由が少しも削らかでない。婿又氏の設に従へば宗数的慣徹態度と他の慣借越皮との別 は畢克郎斬の差にあらやして異に程度上の差に過ぎない。即ち一個の低位髄皮は敢曾性習滝性 究極性を比按的多く保持すれば宗教的と押丁ク、触らぎる帖は宗教的たるに伍しないのである。若 し曳して然らば宗教避舐を他の悲観と明確に臨別すべき規範は終に求められないではないか。 さて上述せるエームス及びキング両氏の串舵並にその不満足なる鮎は、卑見に依れば全くそ 畿近¢素数心痛蓼と某敢靴甘夢 ︵赤松︶

(36)

ほさきの宗教赦骨甲泥の説明に伐て充分に補充され且つ解決されると恩ふ。 前述せる如くエームスの根本的映鮎沃㌫数点描軋曾意識と一軍耶に同一硯し、前者は如何なる 悪妹に於て乱曾的なるか、語を換て云へば需敬意識の乱曾的時男如何む未だ充分に究明しない 凱に存する。叉キングの鋸什“も略々同株に軋令開拓的惜伍は何故に憩鮎恒久打アりや、而してか かる惰梢は何故に宗教的と糾せらるるか、描叉宗数的嵩らぎる侶位とは具僚的には如何なる者 なるかを判明に説明せぎる鮎に在る。而して両氏蓑に軋曾的竜妨戚が宗教に詭婁なる旨趣を有 し、且つ宗数的僧机は最高帯封恒久の祉曾的惰侃であると云ひながら、此の竜結成及び常温恒 久性の根源ぉ金然忽縞に附して膚乙。然るにかかる聞出は前に述べたる乱曾嘩振の詫張に用み るならば賢に容弟に解決されるのであって、その一委曲を故に吏に改めて評通する必要は殆どな いと倍する。組じで敵食草派の諦家も亦、エームス及びキングも宗故の恥骨性智諭するにそのま 婁なる基鹿材料を頂飴宗歓に求めて、以て一般宗教蕊離の上にその蹄紺を通用せんと試みて居 ることは根命紋等はこれを肌瞭に意識せざるにもせ上肢ふ可らざる串聾である。即ち前週せる 原始宗敢の特性たる融骨的薬務成とその普遍究摘的惜鞘組合とな亦一切宗致の峠肇と見恨さん とするのである。エームスやキングの説いた㌫数的祉曾的惜侃の敬珪的秋保は、詳らかには軋曾 宗 敦 研 究 好一覆 好一す

(37)

撃沈のま張に依て解−ジーせらるることは、鎧に述べた両説む射比して何人も軒ちに首肯し得るで

あらう。宗数的即軋骨的即普海南の公式ほ聾に彼等に共独なる組合である。

然しかく原始宗放の軌骨的性儲をば一切の宗教の嘩異に推及することは、勿論一面の英独を

有するけれども、未だ綬新の全豹を舷ひ麗し些着でないことは明白であると愚ふ。斯の如き

推静は寄ろ大胎に掲ぐろ揃紺であって、また宗敢の巾心飢念に触るる所以ではないのでぁる。

それで若しこの見那のみを以て満足するならば、前述せるキングの難鮎に階るは常然の締結で

ぁらう。即ち需繁心諭と他の忠融との拓別は、単にその祉骨性の程度上の差に止まり何等の朋

碓なる規範を縛る鵡はぎるに壷るであらう。然らば此郡酎は如何にして救はるるであらうか。

宗教心理解説上、私が偶に鑓物心理轡紀と御する狐聴の一見解を捉嘱して邸界の注臼を惹い

たかのタラクレー氏は、宗数的慣位を定職して﹁和魂性﹂︵S買ed−1且哲有する惜位であると云っ た。リrメ氏もキングの併郡普轟究極の宗教的偶伯とは、紳鞄なる恍肇む和する着であると押 して摺るの但しリFノ氏はこの紳洩鶴を以て霧散意識の聴戯とするは、除♭に㌫致の観念を成

く解し過ぎる嫌があると云って腐るが、私はこの紳鞄の観念を以で宗改悪融を他と拡別する混

鵜と鬼撤すのは弛も池切なる見解であると倍する。而して先の酢骨邸振は亦此鮎を明瞭に敵い

最近の哀歓ふ亀皐i志免融杏弟 ︵赤松︶

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ナ’レー ’ロワーlン て居るのである。デュルケームに依れば宗教意織は世界一切の事物を紳遁の部分と閂洩の部分と に分つ。これ即ち浣故意初の特徴である。信仰や翻話や敢確答は紳由なる性質を示す表象であっ て、また夫はこの性愛に属するカとその旛史と紳塾なる事物相互の関係と並にその胃洩の串 物との銅棒を衷はすのである。此の紳盈と胃洩との囁別は云はば紹射的であって失は金銅種類 の差である。宗教は前者に閥係する着であって儀租の形式に於て表現せられる。紳垂の観念は プpヒ 賓に信仰と儀稚とに伐て成る︼初の宗教組織の中心要素である。さうして紳轟なる事物とは賛 ビタツナ†バレーナツr 止され隅鞋されねる者を云ひ、胃憤の串物とはこの禁止を蒙らされ紳亜なる解物より隔で られて居る若宮富ふ。要するに宗教とは翻弛なる串物に関する信仰及び行薪あ組梯であって、 且つ此の信仰と行串とは、致骨と耕する道徳的即結とこれに属する一切の事物とに於で結合さ れて居るのである。而して此の紳塾観念の超酔は原始に於ける社食全般の集合意志に依で決定 され、これには、必然に鶉務成を件ふのである。即ち腎漑わ組物に瀞するや.宗教意識は滋に 前説なる義務の澄融となって衷はれる。さうしで此の鶉務戚が原始に於ては全く祉曾的であ′ たことは亦多く云ふを須ゐないのである。 然し此の紳塾観念又は神政化︵C。nSり巧註且の春賀及び喪現を包括的に詳密に解明することは 宗 畿 研 兜 井疇● 幕一♯

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決して容易の業ではない。自分はマレ,−次の試みた如く其の変貌をかの日Pnpとす冒さとの 二偶の観念又は方向に於で見ることも邁切なる︼方法であゎ、或はレディー、ブルールの所謂神 秘的前論理的︵pr巴Ogiq且集合未象を地盤としてその中から︼先の催件の下に導き出されるで あらうとも信じて居るが、技にこれを評給する除裕がない。 九 クエーメ氏の宗敦心理嘩的椚兜は糀々の鮎に於て有益なる暗示を喝へ、先きに掲げたる最近の 著作の如きはその食も包括的なる着である。今︼々その所説に就て論評する乙は出凍ないが、殊 に氏の忠恕用ひて絆細に冷遇した鮎は.宗放念融の特欝と及び魔術と宗敬とのl肘係とである。 前者に就ては氏はこれを宗数的対象の勢力の性儲とこれに対する吾んの腿庇とぉ瞭準として考 察し、その勢カの性貿哲ば人格的勢力若くは紳︵Pe琶邑唱宅30りg屋 と見て他の非人格的 勢力の軌念を棄て、又その薄皮即ち宗数的施皮の嘩偏を以て、戊の所謂機械的及び強制的感度 ︵試各呂i邑昌一さ叩乳房訂F笥i且よ♭置別されたる人格戚僻的盲邑5pOp賢i且鰻姥に求めで 居る。然し宗数的封象を人格的でなければならねと観るのは、除かに宗教の軌念を狭く僻したの 最近の演歌心魂歩と宗教批甘串 ︵赤松︶

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三八 宗 教 研 究 第一怨 第一兢 であって、未だ十全なる説明と補し難く、文人鮪感情的闇皮なる者は、氏はこれに就て和々 論述して居るけれども、結局甚だ曖昧であって到底一般の宗数的鰻既の縛貿を並した者とは云 はれまいと愚ふ。次に魔術と宗教との聞係問題に就ては、これより先きブント並にユーベール 及びモース両氏の評細なる研究があゎ、又米闘に於てもリューノの外に二三之を論じた琴鶉が あるが、此問題も崖に諭許する恰硲がないことを師て泣く。それから先にも禍げたクラ∴ノレー の生物心期単調並にこれに形博されたエームスやキングの所説及び浪近に睨はれ陀るシュレー ダル氏の大脇なる宗敵意誠の性欲髄源説なども.カーレソト、プアブレムの一であるが、これ 新は耽骨的であると云っで居る。然し、今近に深く考究するならば桝珊⋮思想宜︰ポもその敬狂的題 も他=の横骨に鵠らなければならぬ。 見終に、宗致は本来個人的捏7りや描た配分的打アワやといふ先の問題に立蹄てその折終につき 澗短に一言しておきたい。 前述せる如くクオリスはデュルケームを批評して、宗故意織基老とその旦醗的表現との別を桝 へぎる新とし、且つこの院別を㍊想とその発表たる言語とに封比して、前部は個人的であるが後 抑に於て金地敵骨的性貿む布しないであらうか。デュルケームやユーペール及モースは、已に鵡

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も朋確に常々の思㍊認恋の範囲や叩け物分類の梓粋が、萌庄的に云へば全く乱曾的であると哲詳 論して居る。されば思想従て再小数意識もその超酔は亦稚かド酢骨的であえと云ひ柑るのである。 但し央はまとして原始宗政に就て完全に認め狩るのであって、此現在に択では軋抒的即㍍薮的 であることは前に説いた沌である。然し或は開始宗教忠識の中にも桐人的要塞な認め、その意識 の個人的澄珪むま張せんとする苓があるかも知れぬけれども、これは頂殆の融骨及び偶人の鼎 袖に通じないのであって、原始の恩想観念は、総じて所謂集合発象の外に何物もなく、個人的ま 碗ほ秋蛮も温められなかったことを知らないのである。尤もかかる躯令表象従て叉集合的霜故 荒翻を保挿し縦撥する者は、固よ♭個人であった左は云ふ迄もない。仙人の精紳に各これな分捕 しなければ拠金意識は何握にも存在しないのである。此意炊に於て原始宗政志納を個人的打7り と云ふは何等の忠煉む超さないと云ふよ♭も、解ろ特にこれを云⊥必要がないのである。これ 恰も桝開群衆心靴に於て個人忠誠は殆ど重く無溺せられるが、併し耶衆意減数余蹄するポは各 個人であると同様である。さうして此の以脊に放ける群衆忍耐の旨趣は、さながら原始試飲意識 リー〃− に舶常するのである。然るに今叉抑衆心抑の構成には骨槻を必婆とする如く、脱胎の張介的㌫敬 意諏も誠に一桁深くその舷酔な求むるならば、その成立上成戴妹に於て脚人的凝別む組めなけ 最鹿の宗歌心創断と素敵敵脊風 ︵赤松︶

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ればならぬかも知れない。而してかるる個人は固よゎ吾々には明白に知られないが、夫れは原始 敢骨に於ける首長、若くは所謂選良であったであらう。されば著し強て個人的要素を求めんと欲 するならば、かるる倍想的個人に推及する外はないと思ふ。然し原殖宗教意識共著は斯の如き 個人の内部に潜んだ意識でもなく、またこれを負持する各個入り心理的窮地む云ふのでもない。 蓋し此等は原始雷故意識螢生の地盤であっても、その皆健ではないのである。これ亦恰も群衆 意繊共著が単にその甘鰯基人の内部意識を指すのでもなければ、これを受容し得べき個人意識 の兼偏を云ふのでもないと同︼である。 然しながら原始宗敦の範囲を脱して宗教の漸く池化するや、一面に於て一般思想の個人化す るに伴うて、個人的要素は亦漸く宗教の中に勢力を占めて凍る。即ち特殊の宗教的天才の個人 的蓉明が新しき宗教意潮を創造して、宣に宗教の池化を促すことは改めて云ふ迄もない。此意味 に放てその宗教意識は個人的創造である。併しかかる宗教的白魔にも融骨的影響は著しく認め られ、同時に又この自覚は祉曾化されて始めてその勢力を撥押するのであるからー所謂個人化と 赴骨化との聞係を宗教忠誠の凝展上に考究する必婆がある。佃して現代は賓に個人化旺盛の時 代であるから、従て宗敬意潮も梯喘に個人化される似向に富んで居る。それで仙人心理畢的折兜 幕 敢 研 光 男一報 第一墳

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は正に此方両に向て葬カする職分を有する。組じて徒凍の個人的宗教心甥嘩派はまとしてその 対象を個人的宗敬意識に求めたから、自ら宗敢の個人的凝維を高醜したが、反之宗教社食率振は 駒通せる如く原始宗教をそのま更なる対象とする枯野自ら宗敢の社食的薇生を説くに至った のである。対象の相違に依てその折特にも差異を凍すのは勢止むを村ないけれども、相互の旨 趣を認めて通常にこれを調和するは賓に宗敢畢者の任務である。恩ふに現代及び肺凍の宗数串 健系はこの両派の串訣を︼定の秩序の下に綜合し澄屈することに伐て組織されるのではあるま いか。 正光るき尊書鞘 A甘皮、弓FO吋す註已0喝○へ家i乳OeEH電話口声−芦P 9−t訂rどP白l︼二芦こど邑身許lゴーー琵○︻C訂i邑買itツーり︻柑. P許F軋日、せ仲買tiO日計冒訂。ヨ曾巾邑宣告H¢t計−PRelig夢二七A日計00乱已風雲♪tJHJ吋.−.乱写iこ こ 訂中﹃○︻臼庄町外日昌す軒店dOF司iO扁ligi巾一宮.−讐柑. Hロ訂−露だF盲、︼患︻§望坊聖日管i記一決醇Wl⋮乳0巳.−宮戸 Hゝ■7醇ヨ已.﹁語句Od象○宏日β好一現計巳−金野dh㌫u in篇乱琶り乎−芦〇. 訂ロ﹃、月訂汐叫臣已局i邑Sどd句○叫出&giOロ●−り6, 再訂g,つ訂じ彗乳Opmβ−○”因監giOP H巴声 ゴll冒−彗・夢。乎。家臣旨か吋詔播已S芝巳。︻家宣。己憎摺n邑虐ナ︵9岩邑0叫汐︼乾昌u g,計已○笥・ ♯近の嘉廠心理串と幕歓批碁 ︵赤松︶

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宗 敦 研 究 書一審 井一す ↓已.ヾ城訂,N︶● 宅巳︼㌻−声OElem邑0、﹃β=P琶宣告、︵J呂r・0”芝・帽章ゴー・P声P︶ ︵ 丁 せ胃k訂i巨︸ロゴ箋OhR巴直旨・ −ヽ ↓Ol■P∴甥p∴ド︶ 四 ●■■ ∵

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椎 尾 桝 屋

東歌研兜哀刊に際L枯殊研究の小黒む哲硝→る署長リトも、肘的耶兜多放み占むるね以て−眈 に、、のー小文ね群Lて勅的攻拝の︼而わ郁ふ。革新の馬1=拍兜†べさもの三並にLて盗さ

す。見識而の確聞に任じ、他ほ後日の樹食む待づのみ・

−最大の宗教改革

宗敢は人生の要求に敬し、文野の程度に伸ふも、何等か螢現の形式を撮るが承に、人鑓の内

容博池に合せざるに至る。榊諮祭儀泌柵文章よら胱骨の習慣風俗制波紋仲、衣食繁柑の貧富− 山河自然の張象等骨形式を制限せざるなく、かかる形式は結いて内容の自由曲雇Tこ致せぎる 仲秋の革新輌虹 ︵柏尾︶

彿敦り革新問題

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