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こぺる No.185(2008)

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こべる刊行会

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ひろば⑩ 沖 縄 へ 一 「ルーツを探る旅」をつづけて 沼 尾 実 償浜・寿識字学校から⑫ 石川一雄さんのこと 大沢敏郎 光る風を見た一写真と文

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写真左文一小林 スモン被害者 家にかえれば聞こえるんだあ。せせらぎ、鳥の声、登ふむ音 屋三枝子さんは会津で就職して閣もない二十歳のときスモンを発病。全身「焼いた鉄板 であぶられているようなj痛みの中で動けなくなり、失明した。看病の母親と術室を自宅 のようにして長い間入院して亡くなった。これは人工透析をしているときの写真。二十年 後、私自身が脳話量で倒れ、透析を受けるようになるとは思ってもいなかったo 戦争の被害者あるいは加筈者としての日本人は「ワーカホリックJ(仕事中毒)となヮ てがむしゃらに働き、高度経済成長を支えたーーとある人は言及している。 70年代、その 経済至上主義のゆがみは社会のあらゆる場而に噴出した。成田空港建設反対運動、水俣病 などの公害、そして薬害の数々。劇薬キノホルムが「整腸剤jに名前をかえて、薬害スモ ンが守|き起こされた。 各地の薬害裁判は和解へと収束したが、最後まで和解を恒否したグループはその和解金 を出し合い「グラフイツク・ドキュメント スモンJ(実川悠太編集代表・日本評論社) という本を作った。私は彼らの日常を写真撮影するため、丈章担当の羽賀しげ子さんとと もに、全国の被害者を訪ね歩いた。(1985年撮影)

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ひろば⑩ 沖 縄 へ | ﹁ ル

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旅﹂をつづけて

沼

尾

実 ︵ 公 務 員 ・ 横 浜 市 在 住 ︶ 私は、一九九二年から九九年まで、横浜市鶴見区にあ る横浜市立潮田中学校に勤務しており、現在は

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︵イアベ・外国人児童生徒保護者交流会︶の顧問をして い る 。

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は、主に教育分野における外国人児童生 徒及び保護者︵主として南米日系人︶のエンパワ

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メ ン ト ︵ 力 を つ け る こ と ︶ を 目 的 と し て 九 三 一 年 に 設 立 さ れ 、 横浜市鶴見区潮田地区を中心に活動している。

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の活動は、主として南米からの子どもたちゃ日本で生ま れた南米につながる子どもたちに対する﹁母語教室︵ポ ル ト ガ ル 語 教 室 ・ ス ペ イ ン 語 教 室 ︶ ﹂ 、 ﹁ 沖 縄 へ ル

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ツ を 探 る 旅 ﹂ 、 ﹁ 少 年 サ ッ カ ー 教 室 ︵

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︶ ﹂ 、 ﹁ 教 育 相 談 や 市 民 の 交 流 ﹂ 、 ﹁ 保 護 者 へ の 日 本 語 教 室 ・ 生 活 相 談﹂等である。私は﹁沖縄へル I ツ を 探 る 旅 ﹂ と ﹁ サ ッ カ ー 教 室 ﹂ を 担 当 し て い る 。 多文化共生の地域作りをめざす取組で出会った人たち から学んだことを、一五年目を迎える﹁沖縄へル

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ツ を 探る旅﹂の取組を中心にお伝えしたい。また、﹁沖縄へ ル

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ツを探る旅﹂に参加した子どもたちから教えてもら った横浜と沖縄及び南米とのつながりを、戦後のボリビ ア 移 住 計 画 を 通 し て 紹 介 し た い 。 多文化の ﹁まち﹂|鶴見区潮田地区 潮田地区は一九二

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年前後から始められた京浜工業地 帯形成の基盤事業や、二三年の関東大震災の復興事業な どを通して、朝鮮人と沖縄出身の労働者の集住が始まっ た 。 一

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年の韓国併合により、朝鮮半島から日本へ渡っ てこざるを得なくなった朝鮮人と、琉球王国滅亡後の経

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済悪化により、生きるために海外移民や県外出稼ぎに望 みをかけた沖縄の人たちが潮田地区に集住した。二五年 に沖縄県警察部保安課が実施した﹁県外に出稼ぎ中の労 働者に関する調査﹂では、神奈川県は、沖縄県からの出 稼ぎ者が大阪に次いで二番目に多い県となっている。さ らに第三次世界大戦を通して、朝鮮人強制連行や沖縄の 地上戦を経て、戦後も多くの朝鮮人、沖縄出身者の定住 がすすんだ。さらに、九

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年の﹁出入国管理及び難民認 定法の一部を改正する法律﹂施行により、南米からの日 系人出稼ぎ労働者とその家族も集住してきた。 九

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年に出入国管理法が改正され、日系人であれば日 本で自由に労働でさることになり、先に父親が出稼ぎに きて、生活基盤ができたところで家族を呼び寄せること が始まった。横浜市外国人登録国籍人員調査票によると、 八九年のブラジル国籍登録者数は四三三一人︵うち鶴見区 の登録者数は八五人。以下、同じ︶であったが、九三一年 には、四、一一三人︵一、五五三人︶となった。同様に ベ ル

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二六四人︵四六人︶←一、五五六人︵五回八人︶、 アルゼンチン五六人︵一七人︶←三一

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五 人 ︵ 一 二 九 人 ︶ 、 ボリビア二六人︵一八人︶←二五七人︵九一人︶となり、 入管法改正後の登録者数の急増がわかる。鶴見区の登録一 者数は、横浜市一八区の中で一番多い。この登録者数に一 は、日系人に多い二重国籍者は含まれていないので、南− 米 か ら 横 浜 に き た 人 た ち の 増 加 率 は も っ と 高 い と 思 わ れ る 。 一 出稼ぎの父親のもとにやってきた、日本語が全くわか一 らない児童生徒が、鶴見区の小中学校に編入してきた。一 私が潮田中学校で出会ったブラジルや、ベル l 、アルゼ一 ンチン、ボリビアからの生徒は、与那嶺、仲宗根、赤嶺、一 新垣、金城、首山と沖縄の苗字の子ばかりだった。ブラ一 ジルはポルトガル語、他の国はスペイン語を話し、沖縄一 の言葉は少じわかるが、日本語がほとんどわからない子一 ど も た ち だ っ た 。 一 日本語指導が必要な児童生徒が五人以上いる学校には− 国際教室が設置され、教員が一人配置される。潮田中学一 校は九三年に国際教室が設置され、英語の教員が担当し− た。その教員が異動したので、時間数で余裕のあった社一 会科から国際教室担当を出すことになり、九四年から私− が担当者になった。日本語指導について何の知識もなく、一 子どもたちと一緒に学ぶことを始めた。日本語の学習と一 ともに、子どもたちには、元気が出る行事を企画運営し一 て も ら う こ と に し た 。 一

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九三年、国際教室にかかわる教員が集まり、日本語が わからない児童生徒への取組や悩みなどを話し合った。 英語ならば何とかなるが、ポルトガル語とスペイン語の 児童生徒を前にして元気がなくなっている教員たちは、 思いを語る中で頑張ろうという気持ちになってきた。し かし、自分たちは連絡を取り合って集まり元気になるこ とができるが、各学校で孤立しているニュ l カ マ l の 児 童生徒はどうだろうかという意見が出て、児童生徒が同 じ仲間と出会える場をつくろうということになった。 地域の方にも協力してもらい﹁第一回日系人児童生徒 交流会﹂が開催された。会場となった鶴見沖縄県人会会 館は約一五

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人の参加者でいっぱいになった。みんなの 前で元気に自己紹介をする子どもを見て泣いている母親 もいた。アルゼンチンやブラジル、ベルーからの人たち の中に、ボリビアを通して知り合いだった人が多数いた ため、同窓会のような雰囲気になり、子どもも保護者も 元 気 に な っ た 。 第二固から、すべての外国人も参加できるようにと名 称を﹁日系人児童生徒交流会﹂から﹁外国人児童生徒保 護者交流会﹂に変更し、国際教室の生徒と日本人の仲間 が企画運営をして、当日の司会進行もすべて担当した。 第一回日系人児童生徒交流会のスタッフとなったメン一 パーが中心となり、外国人児童生徒が元気になる取組や一 外国人児童生徒にかかわる人たちが元気になる取組を継一 続するために、九三一年に﹁外国人児童生徒保護者交流一 会﹂を設立した。イアべという名称は﹁外国人児童生徒一 保護者交流会﹂を、国際教室の生徒がポルトガル語とス ベイン語に訳してくれた頭文字の

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を、ポ一 ル ト ガ ル 語 と ス ペ イ ン 語 読 み し た も の で あ る 。 一 第一回交流会での母語学習に関するアンケートの結果、一 子どもに母語を学ばせたいという保護者が多くいたので、一 母語教室を開講することになった。講座は母語学習だけ一 でなく、保護者も含め友だちと出会う場であり、教員も一 情報交換できる場であり、母語講座の講師が子どもの様一 流まつり﹂に発展していった。 区役所主催の﹁ラテンアメリカのお祭り﹂、﹁鶴見国際交 童生徒保護者交流会は第六固までつづき、その後、鶴見 は地元の神奈川県立寛政高校で開催した。この外国人児 高校生が共同で企画運営に参加するようになり、第五回 の生徒が作成した。そして、国際教室の生徒と卒業生の 交流会案内のポルトガル語版・スペイン語版も国際教室

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子を担任に伝えたりすることもあった。保護者の協力が 得られない母語教室の運営だったが、五年後くらいから、 保 護 者 会 が で き 、 フ エ ス 夕 刊 ン ユ ニ

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ナ等の南米の祭りや クリスマス会も行われるようになった。ポルトガル語教 室の保護者と日本人スタッフは、子どもたちが自分の文 化に自信を持てるように、そして日本の子どもたちも一 緒に楽しめるようにとの願いをこめて、﹁ブラジルと出 会 お う ﹄ ︵

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ポルトガル語教室・谷啓子・富本潤 子編、国土社、二

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一年︶という冊子を作成した。

南米日系人とボリビア

夜の学校説明会や懇談会等で保護者とつながるにつれ、 ほとんどの保護者が戦後、沖縄からボリビアへ移住した 人たちであることがわかった。アルゼンチンやブラジル からの人たちもボリビアでの生活が厳しく、転住した人 たちだった。南米への移住は戦前の話だと思っていたが、 戦後の五

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年代に沖縄からボリビアへ渡った人たちがい たことを初めて知ったのだった。 ブラジルからきた生徒の母親は、﹁沖縄で果物がたく さんなっているボリビアの映画を見せられました。豊一か な国だと思って行ったら、電気もなく井戸もなく、初め− はたまり水を飲んでいた。学校が遠くにあって、弟や妹一 の面倒をみるので、学校へは行くことができませんでし一 た。ボリビアの生活は本当に厳しくて、アルゼンチンに一 移って、アルゼンチンからまたブラジルに渡って、今、一 鶴見に来ています。私は教育を受けられなかったので、一 せめて息子には高校に行かせたい。先生方どうかよろし− くお願いいたします﹂と、思いや願いを伝えてくれた。一 その生徒の祖父からは、沖縄の地上戦闘の体験、戦後の一 米軍基地拡大のために土地を奪われてのテント生活、そ一 してボリビア移住、アルゼンチンへの転住の話を聞いた。一 最後に祖父は﹁結局、私たちは捨てられたんです。移民− ではなく棄民だったんです﹂とぽつりと語った。南米か らの子どもたちと保護者から﹁先生、もっと沖縄のこと一 を学んでほしい!﹂と訴えられたような気がした。− アメリカの占領下、沖縄戦からの復興が遅れている村一 ぽ つ ぽ つ や町がある中で、朝鮮戦争が勃発し米軍基地の拡大をめ一 ざす土地収用令が五三年に出され、翌年から﹁琉球政府一 計画移民﹂が始まった。琉球政府は五四年三月、南米ボ一 リビア農業移民募集要項を制定し、移住者の公募をした。一

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応募者四千人の中から選出された四百人が一一班に分かれ、 五四年八月に二七五人が第一次計画移民として、九月に は一二五人が第二次計画移民としてつつるま耕地﹂に入 植した。五四年の第一次から六四年の第一九次までの ﹁計画移民﹂で、約二一、三OO人の人たちが、沖縄から ボ リ ビ ア へ 移 住 し た 。 たびだち ボリビアの移住地については﹁うるまからの旅立﹄ ︵コロニア・オキナワ入植羽周年記念誌編集委員会、九 五年︶に詳しくまとめられている。五四年八月に第一次 移民団が入植した﹁うるま耕地﹂は、飲料水の確保がで きていなかった。真水がでる深い井戸が掘られるまでの 一一ヶ月間は、グランデ河の水をドラム缶に詰めトラック で運び、雑用水は自然沼から牛車で運んだ。手掘の浅い 井戸の塩水やたまり水も飲んだ。二一月に﹁うるま病﹂ と呼ばれた原因不明の熱病に多くの人が感染した。五五 は ん ら ん の ね ず み 年一一月にはグランデ河の大氾濫と野鼠の大群の侵入、 四月には熱病で一五人目の犠牲者が出て、六月に﹁うる ま耕地﹂をあきらめ、﹁パロメティリア﹂へ入植した。 しかし、﹁パロメティリア﹂では必要とする土地収用が できず、新しい

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植地をさがし、五六年九月に﹁コロニ ア・オキナワ﹂第一移住地、五九年に第二移住地、六二 年に第三一移住地に入植した。その後、﹁コロニア・オキ ナワ﹂には、大洪水が繰り返され、移住地からの離脱者 が増加した。疾病や医療に対する不安、教育や生活に対 する将来の不安、農業政策への不満などで、計画移住者 の定着率は低く、入植二五周年を迎えた七九年での定着 率は三O%、九四年の定着率は二三一%内外となった。 潮田中学校で出会った子どもたちから、戦後、沖縄か らのボリビア移住計画があったことを教えてもらい、保 護者たちからはその実態を知らせてもらった。九八年、 ﹁コロニア・オキナワ﹂が行政区となり、世界地図に日 本の沖縄とボリビアの

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が存在することに な っ た 。 沖縄へル

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ツを探る旅 沖縄からボリビアへ移住した時の子どもたちと同じよ うに、突然、ともだちゃ親戚との別れをして、南米から 日本へ来て、日本語がわからず文化も違う中で孤立して いる子どもたちは、祖父母から聞いていた美しい海、美 しい自然の沖縄に行ってみたいという夢を持っていた。 父母や祖父母も、自分が生まれた美しい沖縄に子どもや

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孫を行かせたいと思っていた。しかし、出稼ぎで忙しく、 時聞がなく、旅費の工面も難しい現実があった。 九二年六月、ブラジルから編入してきた一年生が学校 を休んでいる。担任が家庭訪問をするというので同行し た。家庭訪問の中で、衣替えの服装の準備ができてない ことがわかり、担任は生徒と一緒に夏服のワイシャツを 買いに行った。父親はいろいろお世話になったお礼にと、 行きつけの沖縄料理の店で夕食をごちそうしてくれた。 後日ブラジル料理の店に、担任とともに、同じクラスの ベルーからの日系人家族とアルゼンチンからの家族を加 えた三家族を招待した。三家族とも沖縄にル

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ツ が あ り 、 ブラジルとベルーからの生徒は日系三世で、父母も沖縄 へ行ったことがなかった。アルゼンチンからの生徒の父 母は、ともに沖縄から戦後ボリピアへ移住したそうで、 父が移住した時と同じ年齢で、生徒はアルゼンチンから 日本へ来たということだった。沖縄の話に三人の生徒は 日を輝かせた。コ一年までがんばったら、一緒に沖縄へ修 学旅行に行く約束を担任とともにした。その後、新たに 南米から子どもたちが編入してきた。しんどい思いをし ながら毎日学校へ登校してくる子どもたちにも、沖縄へ ル

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ツを探しに行こうと声をかけていった。九四年、多 くの人たちの支援を受け、﹁第一回沖縄へル l ツを探る 旅 ﹂ が 実 現 す る 。 第一回の旅を企画したとき、知人が、沖縄と交流し沖 縄からいろいろなことを学んでいる全横浜屠場労働組合 を紹介してくれた。労組事務所で﹁沖縄へル l ツを探る 旅﹂の目的と計画を説明し、資金が不足しているので、 帰りは大阪まで船できて、大阪からは普通電車を乗り継 いで横浜へ帰ることを伝えた。翌日、労組の書記長から 励ましの電話があった。﹁子どもたちは疲れて帰ってく るのだから、大阪からは新幹線に乗せてあげられるよう にカンパをしたい﹂との申し入れであった。第四回の旅 から全横浜屠場労組は、カンパだけではなく数名のスタ ッフも派遣してくれるようになった。労組から参加した スタッフは、電車網のない沖縄での親戚訪問において、 宜野湾市職労等が提供してくれるワゴン車やレンタカー を利用した親戚訪問の中心メンバーとなり、子どもたち の相談相手にもなってくれている。子どもたちは、教職 員等のスタッフには相談できないことを、おっちゃんや お兄ちゃんに相談し、重要なことは、おっちゃんたちが 教職員等のスタッフに連絡してくれる。労組のスタッフ

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ツの旅だけではなく、いろいろなところで子ど もたちを励ましてくれている。親が仕事で忙しく卒業式 に出られない生徒のために、保護者の代わりに卒業式に 参列してくれることもあった。旅の中で、労組のスタッ フは、と畜場での仕事を紙芝居にして紹介し、と畜の仕 事に対する思いや願いを子どもたちとスタッフに伝えて くれる。教職員等のスタッフは、と畜の仕事に対する自 分の意識の振り返りを始める。 学級や地域で孤立しがちな外国からの子どもたちが集 まり、サッカーを通して仲間をつくろうと、サッカー チ l ム ﹁

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﹂が結成された。全横浜屠場労 組の人たちは、このサッカーチ l ムの練習にも参加して くれている。初期はポルトガル語教室とスペイン語教室 に通っている児童が主として参加していたが、現在は外 国につながる児童を学扱担任が練習に連れできたりして いる。練習は、土曜日のポルトガル語教室が終了する一 一時から一一一時半までで、潮田小学校のグランドで行っ ている。労組のスタッフは、サッカーを通して子どもや 保護者とつながり、﹁沖縄へル l ツを探る旅﹂への参加 につないでくれている。

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二年の沖縄へル l ツを探る旅 に は 、

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に参加している子どもたちと家族 一

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人 が 参 加 し た 。 ﹁ 沖 縄 へ ル

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ツを探る旅﹂は、祖父母や父母たちが、 船で約二ヶ月かけ南米に渡ったことを追体験するため、 東京から船でコ一日間かけて沖縄へむかう。全行程九日間 の旅で、子どもたちはル l ツを探り、沖縄の自然・歴 史 ・ 文 化 を 学 ぶ 。 親戚訪問をして宿舎まで送ってくれたおばさんと別れ たあと、中学三一年生のアルゼンチンからきた生徒は、感 激のあまり一人で泣いていた。親戚訪問の連絡・調整を 担当した沖縄のボランティアが生徒を抱きしめて大粒の 涙をおとした。この生徒の日記には、﹁おばさんが﹃ち ゃんとしたひとになるんだよ。自分で道をえらぶときは まっすぐ歩いていくんだよ。絶対悪い道へいってはいけな いよ。頭なんかどうでもいいんだからね

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。おばさんはあ なたと会えてよかった。このことは、このことは、一生わ すれることはないからね。死んでも忘れないからね。﹄ といった。僕はもう涙がすごく出て、ありがとうしか言 えなかったけど、本当に親戚のみんなが心からあたたか く迎えてくれて本当にありがとうございました。僕もこ のことは忘れることはないでしょう﹂と記されていた。

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親戚訪問では、今まで沖縄の身内にも語っていなかっ た戦争の話を、ルーツを探しにいった南米の子どもたち に 伝 え て く れ る 親 戚 が 多 い 。 第 一 一 一 一 回 の 旅 で は 、 ブ ラ ジ ルからきた子どもの祖父の姉にあたる

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さんが、伊江島 の沖縄戦と戦後の話をしてくれた。﹁伊江島には日本軍 の飛行場があったため、島全体がアメリカ軍の攻撃目標 な き じ ん にされ、伊江島から多くの人が今帰仁の山の奥へ疎開し た。アメリカ軍の攻撃で、母と一二人の弟と妹が死に、父 は日本軍とともに戦い死んだ。日本軍が南部へ撤退した 後の生活では、日本軍が残した食糧庫から食糧を確保し 生き抜いた。暗くなってから食糧の調達に動いたが、照 明弾を打ち上げてのアメリカ軍の激しい砲撃で仲間が爆 死し、自分も何度か死に直面した。その後アメリカ軍の 設置した収容所に収容された。アメリカ軍の攻撃を受け た伊江島には多くの不発弾が残り、戦後の復興は不発弾 処理から始まった。一九四七年八月六日、不発弾を積ん だアメリカ軍爆弾処理船が伊江島の波止場で爆発する事 故があった。本部港からの渡し船に乗っていた一八歳の 妹が爆発事故に巻き込まれて亡くなった。沖縄戦を一緒 にくぐり抜けた妹の死は本当に悔しかった﹂。戦争の話 はしたくない、しなかったという

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さんは、弟の孫の ルーツを探る訪問に際して話をしてくれたのである。ブ一 ラジルからの子どもは、戦争の悲惨さと自分の存在の尊一 さ を 実 感 し た 。 一 沖縄を訪問した子どもたちは、ル l ツを探りながら沖− 縄の自然や歴史・文化を学び、自らのアイデンティティ一 を確認し、横浜や母国で生き生きと生きていく力を沖縄一 からもらってくる。旅に参加して力をつけた子どもたち一 は、旅で学んだことや自分の思いや願いを地域や学校で一 発信したり、南米以外の外国人の子どもたちに力をあた一 えたり、アイデンティティの確認の機会をつくったりし一 て、多文化共生の地域作りをめざす取組の原動力になっ一 て い る 。 一 九五年一月九日、朝日新聞が夕刊で﹁沖縄の方、酔つ一 ている方の入店は大変失礼ですが御断りしています﹂と一 いう張り紙をしているカラオケスナックをとりあげた。− この記事を見た第一回﹁沖縄へル l ツ を 探 る 旅 ﹂ に 参 ノ 加 − した子どもたちは、﹁先生、この店の人を殴ってもいい− か﹂と聞いてきた。﹁話をしてやめさせよう﹂というこ一 とで、先ほどのアルゼンチンの生徒を含め代表四人とと一 もに、横浜市神奈川区にある店に行った。子どもたちは、一 沖縄を大切にしていることや悔しいということを店主に一

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伝えた。店主は子どもたちの思いを受け止め張り紙をは がした。帰り道の子どもたちは、みんな誇らしげだった。 第一回と第二回の旅に参加したブラジル生まれの生徒 は、文化祭で全校生徒に次のようなメッセージをおくつ た。﹁僕はブラジルで生まれ、一

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歳ぐらいの時にボリ ビアへ行きました。そしてボリビアから日本へ来ました。 僕は去年の夏休み、ふるさとの沖縄を訪ねてきました。 父と母は沖縄で生まれ、子どもの時に南アメリカへ移住 しました。父の村はアメリカ軍の飛行場になったそうで す。母は一九六

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年 一

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歳の時にボリビアへ移住しまし た。ボリビアからアルゼンチンへ行き、結婚してブラジ ルに行きました。今、母は琉球民話の教師免許の試験を 受けにブラジルへ行っています。母はブラジルにいた時 さ ん し ん から三線をひいていました。ブラジルで野村流のヨナミ ネセイキチ先生に八年間琉球民謡をならいました。母は 三月四日にブラジルから帰ってきます。教師免状を取れ たら師範をめざすと言っています。去年の沖縄では、ア ルゼンチンからもどったおじいさんとおばさんに会いま した。おじいさんからは、今まで知らなかった沖縄の戦 争や移住について話を聞きました。おばさんからは、ア ルゼンチンから沖縄へ来たときに、日本語が読めなくて 苦労をしたことがんばったことを教えてもらいました。 去年と今年、沖縄にいかしてもらって本当に勉強になり ました。みんなにも沖縄の戦争や今の沖縄のことをもっ とわかってほしいです﹂ o

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スタッフの諸見里みゆきさんが、高校三年生 の 時 、 ﹁ 横 浜 国 際 フ ェ ス タ 一 一

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五 国 境 の な い 世 界 を 描く﹂で、市民におくつたメッセージ﹁夢にむかつて﹂ を 紹 介 し た い 。 私はアルゼンチンで生まれ、三歳になる前に家の 事情で日本に来ました。父は日系ボリビア人、母は ボリピア人です。まだ幼かったので日本語を覚える には苦労しませんでしたが、自分の国の言葉を覚え てほしいという母の強い意志でスペイン語を忘れな いように勉強してきました。そして、小学校三一年の 夏休みにボリビアに二ヶ月滞在しました。その時、ボ リビアの自然や文化や人々を知り、自分がボリビア につながっている事を強く感じました。それまでの 自分は、自分のことを日本人だと思っていたり、で も周りからは外国人と言われていじめられたりして

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いました。ボリピアに行った事で、日本とまるっき り違う世界があることを知り、心のより所ができま し た 。 中学に入り民俗芸能部という部活に所属した事で、 ダンスなどを通し自分の持つ文化を表現できるよう になりました。そして、中学一一年の時に、ボリピア の文化や舞踊をたくさんの人に知ってもらうために、 ﹁カントウタ﹂というダンスのグループを作りまし た。このグループで様々なイベントに参加していま す。﹁鶴見国際交流まつり﹂には、中学二年の時か ら参加し、高校一年の時はボリビアの踊りをステー ジで発表しました。高校一一年の時には、ボリビアの 独立記念日のイベントで踊りました。この活動を通 じて多くの人たちにボリビア文化を知ってもらい認 めてもらうことが嬉しく大切なことだと思いました。 私は小学校の四年から﹁

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︵ 外 国 人 児 童 生 徒保護者交流会︶﹂という団体で行う母語教室でス ペイン語を学び、中学からはスタッフとして活動を サポートするようになりました。そして、高校に入 ってからは、自分のスペイン語力を活かし、スペイ ン語教室の講師として活動するようになりました。 スペイン語教室に通う子どもたちのほとんどが日本 生まれですが、両親は南米の日系人です。何人かの 子どもたちは、スペイン語を話したくないという気 持ちを持っています。私は以前、子どもたちと同じ 立場だったので、よく気持ちがわかります。彼らが 大きくなったらスペイン語は役に立つだろうし、何 よりも自分と自分の家族を誇りに思えるような人に なってほしいので、私は彼らにスペイン語や南米の 文化を伝えていきたいと思っています。 中 学 三 一 年 の 夏 休 み に

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の﹁沖縄へル

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ツ を 探る旅﹂に参加しました。私は祖父母が沖縄からボ リビアへ移住したのですが、私は沖縄について何も 知りませんでした。﹁沖縄へル l ツを探る旅﹂に参 加して、祖父母の移住する前の様子ゃなぜ移住した のか、そして、移住してからの苦労を知り、自分の 存在について考え、前へ進む勇気をもらいました。 そして、自分がウチナンチユ︵沖縄人︶だというこ とを誇りに思い、高校に入ってから三線を習い始め 寺 品 1 レ れ ∼ 。 また、高校では色々な国籍の友達と出会い﹁国際 理解入門﹂﹁ポルトガル証巴などの授業を受けたこ

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2007年、第11回目の旅。「ありあけj号船上にて とで、他の文化を知ることもできました。私はすべ一 ての人にそれぞれのルーツや文化を大切にしてもら一 いたいと思っています。そして、これからもたくさ− んの国の人と様々な場面で出会いたいし、また、た一 く さ ん の 文 化 を 学 び た い で す 。 一 私には夢があります。私はボリビアと日本の文化一 を持つ者として将来は日本と中南米との架け橋にな一 りたいと思っています。日本の人たちには、もっと一 中南米を知ってもらいたいし、中南米の人たちには、一 もっと豊かになってほしいです。また、沖縄の人た一 ちにも豊かになってほしいし、円本の中には外国人一 や沖縄出身者に対する差別意識があるので、それを一 なくしていきたいです。この夢のために必要なこと一 を大学でしっかり学んでいきたいです。なぜ、日本一 とボリビアには大きな経済格差があるのか。なぜ中− 南米から日本へ出稼ぎに来る人が多く、その中には一 沖縄出身者が多いのか。世界の金融や政泊の仕組み一 など、学ぴたいことがたくさんあります。さらに、一 スペイン語と英語の勉強も続けて行くつもりです。自 そして、様々な知識を’身につけたうえで、世界を舞一 台に活躍できる仕事につきたいと思っています。.

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現在、みゆきさんは、夢にむかつて大学で国際経済の 勉 強 を し な が ら 、

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のスタッフとしてスペイン語 教室の講師をし、ボリビアのダンスを子どもたちに教え ている。みゆきさんは、﹁沖縄へル

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ツを探る旅﹂に参 加し、日本人か外国人かではなく、ウチナンチュであり 日本人であり、ボリビア人であり、アルゼンチンにもつ ながっている、重なっていることは、素晴らしいことだ と思えるようになった。﹁ル

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ツを探る旅﹂に参加した 子どもたちの多くが、みゆきさんと同じようなアイデン ティティの確認をする。南米では日系人として差別を受 け、あこがれの日本へ来たら外人といじめられ、自分は 何者なんだと悩んでいた子どもたちは、沖縄で自分をあ たたかく迎えてくれる親戚に会い、沖縄の自然を満喫し 沖縄の歴史を学んで、自分はウチナンチユであること、 いろいろな国につながっていることを確認し、沖縄から 大きな力をもらう。そして、

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のスタッフとなっ て 活 躍 す る 。 九日間の﹁沖縄へル!ツを探る旅﹂を通して、参加者 全員が一つにまとまり家族になる。

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七年に一四回目の 旅が終わり、一四の家族が生まれた。この旅に参加した 子どもたちは約三

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人となった。﹁沖縄へル l ツ を 探 る旅﹂は横浜、鶴見、沖縄、南米等の人たちの支援によ って一四年つづいてきた。スタッフは、子どもたちを沖 縄へ連れて行ってあげるのではなく、人との出会いを大 切に、楽しみにして、子どもたちとともに学び、豊かに なるために参加している。旅を支援してくれている人た ちも同じ思いである。今年も第一五回目の﹁沖縄へルー ツを探る旅﹂が実行される。そこで学んだこと、豊かに なったことを支援してくれている人たちに、しっかり伝 えていきたい。八月、一五番目の家族ができるが、一五 の家族が大きな一つの家族となっていることも大切にし て い き た い 。 * 二

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八 年 第 一 五 回 ﹁ 沖 縄 へ ル 1 ツ を 探 る 旅 ﹂ 日 程 七月三一日︵木︶東京有明埠頭より﹁ありあけ﹂号 出航/八月一日︵金︶船上/八月二日︵土︶那覇市 あ ピ や 安謝港着|親戚訪問/三日︵日︶親戚訪問/四日 ︵ 月 ︶ j 五日︵火︶伊是名島/六日︵水︶読谷村/ 七日︵木︶宜野湾市から南風原町、那覇市/八日 ︵ 金 ︶ 那 覇 市 、 那 覇 空 港 か ら 羽 田 空 港 へ

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横 浜 ・ 寿 識 字 学 校 から⑫

石川一雄さんのこと

大沢敏郎︵横浜・寿識字学校主宰︶ 一 九 七 四 年 一

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月 一 一 一 一 目 、 曇 り 空 の 東 京 ・ 日 比 谷 公 園 内の小公園は、五千人ほどの集会参加者によって熱気に つつまれていた。朝、九時ごろから集会は始まっていた。 無実の被差別部落出身の青年・石川一雄さん︵当時二四 歳︶が、捜査当局の被差別部落に対する予断と偏見によ る見込み捜査によって別件逮捕され、後に女子高校生の ︵ 1 ︶ 誘拐・殺人等で起訴された事件︵狭山事件︶の二審・東 京高裁の判決が出される目だった。一審・浦和地裁︵埼 玉︶では、約六ヶ月の早期結審で﹁死刑﹂判決が言い渡 さ れ て い た 。 この事件の判決を出す東京高裁の裁判官が寺尾正二裁 判長に代わった前年の七三年から、裁判の公判日に聞か れる集会に参加していた。そのころ京都に住んでいたぼ くは、京都中央卸売市場のなかのある漁業会社の巨大な 冷蔵庫で、冷凍魚類を中心にした品物の入出庫荷役の日 雇いの仕事をしていた。冷蔵庫での作業であるから、寒 いのは当たり前だといってしまえばそれまでだが、とに かく極端に寒かった。朝早くから市場で仕事をしている 人たちの働きぶりは活気に満ちていたし、一緒に作業を した人たちからは世間の機微を学ぶことができ、楽しか っ た 。 東京で集会のあるときは︵一日休みをもらって︶、前 日、夕方まで仕事をして、数人の仲間を誘って京都駅か ら東京・八重洲口までの夜行パス︵と言っていた︶で行 き、集会とデモのあと同じパスで京都に朝戻り、市場の 仕事に直行していた。 判決前の九月には、弁護団の最終弁論が六回にわたっ て行われ、体力的にも財政的にもきびしいものがあった が、ぼくにとっては充実した日々でもあった。 被差別部落の歴史や部落差別のことなども、しっかり 学習したという寺尾裁判長の発言に、集会参加者たちは 全面的な﹁信頼﹂とともに無罪判決を確信していた。昼 前、法廷から判決が集会場にとどけられた。無罪ではな く﹁無期懲役﹂の判決だった。

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集会ごとに石川さんは、獄中から集会参ノ加者宛にメッ セージを送ってくれていた。その文章は、凍々しく気迫 にみちていてぼくらを勇気づけ励ましてくれた。学校教 育を十分に、つけることができず、文字の読み書きも十分 にできなかった石川さんが、拘置所のなかで文字を自分 のものとしていったその学びの精神に、ぼくは感動して いた。その頃、ぼくは、まだ識字学習を始めていなかっ たが、どこかでそれをやってみたいと思うようになって い た 。 その後、横浜の寿町で識字学習を始めていたぼくは、 集会に参加しつつ、識字共同学習者︵講師・パートナー など︶の視点から狭山事件の隠された真実を明らかにし っ か たいと思いながらも、確たるものを掴むことはできてい なかった。何度も目をとおしてきた、石川さんの警察官 や検察官︵以下、取調官︶に供述した調書︵以下、供述 調書︶を、もう一度、読み直してみることにした。そし て、やっとあることに気づくことができて、昨年、﹁狭 山事件・2007・石川一雄供述調書の検討||身分証 ︵ 2 ︶ 明書・時計・脅迫状などについて﹂と題する文章をまと め る こ と が で き た 。 横 浜 の 寿 町 と い う 簡 易 宿 泊 街 で 二 八 年 ほ ど 、 一 宇の読み書きのできなかった人たちと識字学習をしてき一 て分かってきたことであるが、彼ら・彼女たちの話す言一 葉は、身近な生活や行動範囲のなかの言葉が、確かな自一 分の言葉として話されていた。また、文章に書かれると一 きも、自分の生活や行動範囲のなかでなれ親しみ培って− きた言葉が身のはばの言葉としてつかわれていた。一 石川さんの供述調書にしても、やはり石川さんの生活一 や行動範囲のなかの話す言葉で調書が取られている。取一 調官の話す言葉で、石川さんの生活や行動範囲を超えて いる言葉は、石川さんにとって全く理解不可能な言葉で一 あったのではないか。取調官たちにとっては、この石川一 さんの﹁無知﹂は、都合のいいことであった。しかし、一 石川さんは、取調官の話す言葉に引きずられることなく、一 過酷な取調べにもかかわらず、頑固に、自分の生活や行一 動 範 囲 の な か の 言 葉 で 供 述 し て い っ た 。 一 かつて文 供述調書は、事件の被疑者が取調官に対して話したこ とを取調官が聞き取って作成していくものだ。石川さん の供述調書は、七五通︵調書添付図面五

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枚 ︶ あ る 。 殺された女子高校生が所持していた学生証というか

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﹁身分証明書﹂は、脅迫状の入った封筒に同封されて被 害者宅に届けられたとされている。この﹁身分証明書﹂ に関して取調官が調書の体裁を整えるために、さかんに ﹁学生証﹂とか、﹁身分証明書﹂という言葉をつかつて誘 導したにもかかわらず、石川さんは一貫して﹁写真のつ いた紙﹂﹁写真を貼った紙﹂﹁写真の貼つであった紙﹂ ﹁写真をはったのが入れであった﹂などという言葉で供 述している。石川さんは﹁身分証明書﹂という言葉を知 らなかったのだ。知らなかったということは、﹁身分証 明書﹂がどんな意味をもち、何を証しているのか分から なかったのだ。確かに石川さんの生活歴から見れば、女 子高校生の所持していた﹁身分証明書﹂など見たことも 触れたこともないものだった。取調べ中、それを提示さ れて、石川さんが﹁写真を貼った紙﹂などと言ったのは、 知らなかったことをより明らか仁し、石川さんの生活や 行動範囲のなかの言葉として、それに石川さん流の呼称 をつけたのだと思った。石川さんにとって﹁身分証明 書﹂は、単なる﹁写真を貼った紙﹂だったのだ。 これは、﹁脅迫状﹂についても同じことが言える。取 調官に﹁脅迫状﹂を見せられでも、石川さんは、それが 何であるのか分からなかった。石川さんは、﹁脅迫状﹂ については﹁脅かしの手紙﹂﹁脅し手紙﹂﹁届けた手紙﹂一 単なる﹁手紙﹂などと供述しているもこれも一貫してい一 る。﹁脅迫状﹂という言葉を知らなかった石川さんにと一 って、取調官から﹁脅迫状﹂の説明をきき、自分の生活一 や行動範囲のなかのなじんだ言葉として﹁脅かしの手一 紙﹂などと供述していったのだ。 公判廷においても石川さんは、取調べ中断時には、− ﹁脅迫状﹂︵写し︶を示されて、それを書き写す練習をず一 つとさせられていたというが、当時、石川さんは自分が一 書き写しているお手本が何であるのか分からなかった旨一 の証言をしている。石川さんは日常の生活や行動範囲の一 なかの言葉として、﹁脅迫状﹂を﹁脅かしの手紙﹂など一 という言葉に置き換えて供述していったのは見事だった。一 鎌田慧さんは﹃狭山事件石川一雄、四十一年目の真一 実﹄︵草思杜︶のなかで﹁字のかけない男が、脅迫状を一 書こうなどと発想するわけがない﹂と言っている。その一 通りだと思う。しかし、ぼくは﹁脅迫状という言葉その一 ものを知らない人間には、脅迫状は書けない﹂と強く言一 、 , 一 ミ O し 丈 し 一 時計について。石川さんは事件当時、時計を持ってい

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え ん ざ い なかったことは明らかになっている。多くの菟罪事件が 分刻みの時開設定で事件が進行してデッチ上げられてい くわけであるが、狭山事件も同じ構図となっている。詳 しく書くことはできないが、脅迫状の時間に関わる部分 を羅列的に拾ってみる︵原文は横書き。原文のまま︶ 0 − 五 月 2 日 の 夜 ・ 時 が 一 分 出 も を く れ た ら・時かんどおりぶじにか江て気名かッたら 時かんどおりぶじにかえツて気たら かんごに車出ぶじにとどける 1 2 時 − 子 供 わ 1 時 簡潔な短い文章の脅迫状のなかに、これだけの厳しい 時間の指示・指定がしてある。しかし、石川さんは時計 を持っていなかった。時計を持っていない石川さんは、 どのようにして、自分で書いたとされている脅迫状の時 間の特定をし判断をしていくのか。時計を持っていない 人聞には、狭山事件の脅迫状にあるような時間の指示・ 指定はできないし、脅迫状そのものも書くことはできな い と 思 う 。 狭山事件の﹁身分証明書﹂﹁脅迫状﹂︵﹁時計﹂︶につい 注︵ 1 ︶ 犯 人 と さ れ た 事 件 て大雑把に書いてしまったが、生活や行動範囲のなかの 言葉が劣っていたり軽いと言っているわけではない。む しろその反対だ。識字学習においても解放教育において も、寡黙な彼ら・彼女たち︵保護者もふくめて︶の生活 や行動範囲のなかからのつぶやきや語りの︿声﹀を、ど う受けとめ内実化していくのかが大切なことだと思って い る 。 石川さんは、一九七七年に無期懲役の刑が確定し千葉 刑務所に収監され、九四年に仮釈放となったが、部落差 別によるその菟罪は今も晴らされてはいない。一九六三 年 五 月 一 一 一 一 一 日 に 逮 捕 さ れ て か ら 、 今 年 で 四 五 年 と な る 。 今、東京高裁に対して第三次再審請求中である。 一 九 六 三 年 五 月 一 日 、 埼玉県狭山市で女子高校 生 が 誘 拐 ・ 殺 害 さ れ 、 五 月 一 一 一 一 一 日 、 石 川 一 雄 さ ん が 別 件 逮 捕 、 自 白 の 強 要 、 ︵ 2 ︶ ﹃ 明 日 を 拓 く ﹄ ︵

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・ 刊 合 併 号 、 東 日 本 部 落 解 放 研 究 所 、 二

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七 年 ︶

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鴨水記 マ読者からのお便り| ﹁ハンドバックにもスッと入る大き さ・厚さ!だけど、中味は濃く、熱 い﹃こぺる﹂は何度も読み返したくな る、小冊子どころか、大冊子です!﹂ ︵ 大 阪 M さ ん ︶ 。 ﹁ 四 月 号 、 ﹁ 自 分 史 のこころみ﹂も加わり、鴨水記までの 七篇。小さな総合雑誌、いよいよ面白 躍如たり、ですね﹂︵岐阜 K さ ん ︶ 0 いずれもほめすぎであることは重々承 知しています。しかし、ほめられて悪 い気がするわけがない。先日も歯科医 院で﹁きれいに磨いておられますよ﹂ といわれていい気分になり、歯磨きに 精励することを誓ったのでした。つま り、わたしは単純にできているんです。 ア ツ ハ ツ ハ 。 ﹁ 7 月号はよかったです。一気に読 了。こういう分かりゃすい読み物が私 としては大歓迎。その趣旨云々よりも 読みやすいのが嬉しいです。書いた人 の思いがよく伝わり、親しく感じまし た ﹂ ︵ 愛 知 A さ ん ︶ 。 た し か に ﹁ 分 か りゃすい﹂文章が一番。そこでふと辰 濃和男﹁丈章の書き方﹄︵岩波新書︶ の 一 節 を 思 い 出 し ま し た 。 ﹁ひとりよがりなことばかりをいっ ている人が、目配りのきいた、均衡の とれた文章を書くことができるでしょ うか。表面はごまかせるかもわかりま せん。しかし心のゆがみは、その人の 丈章のどこかに現れます。/ですから、 文章の修業をするということは机の前 に座ったときにはじまるわけではない のです。いい文章を書くことと、日常 の暮らしの心のありようとは深いつな がりがあります。その人の文章のあり ようと、その人の生きる営みとは切り 離せません。/文章を人さまに見せる ことは、己自身の心の営みをさらけだ すことでもあります﹂︵ H 頁 ︶ 。 辰 濃 さ んの指摘に照らしてわが身を振り返る と恥ずかしくなってしまいます。硬い こころからは、硬い丈章しかうまれな い。だからいつもこころを柔らかくし ておきたいと思っているのですが、な か な か そ う も い か 、 な く て 。 マ部落解放同盟の組坂委員長は、上杉 佐一郎元委員長の没後日周年の記念集 会︵ 5 ・ロ、福岡市︶で、﹁上杉委員 長の先見性をもった指導のなかで、九 州では不祥事を生みだす土壌ができず にすんだ、松本精神、上杉魂を継承し よ う 、 と 語 っ た ﹂ と い う ︵ ﹁ 解 放 新 聞 ﹂

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︶。これでは上杉さんの指 導を受け入れなかったから﹁関西方面 での不祥事﹂が起こったといっている のにひとしい。﹁松本精神・上杉魂の 継承を﹂という古風な呼びかけにも、 ある種の地域主義の臭いがする。ちな みに松本・上杉・組坂のお三方とも福 岡県連の出身。こんな状況は、地域主 義から地方割拠主義への移行を予感さ せます。もしそうなれば、事態はより 深刻化するでしょう。これは決して和 ゅ 、 つ 憂ではないと思いますよ o ︵ 藤 田 敬 ご 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町739 阿件社 干602-0017 Tel. (75-414-8951 Fax. 075-414-8952 第 185号

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一 八 五 号 二 O O 八 年 八 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 阿昨社 発売 阿昨社 干602-0017京都市上京区衣棚 通上御霊前下ル上木ノ下 町73-9 Tel 075-414-8951 F田 075-414-8952 定価840円 1987年6月20日第1刷発行・2003年第8刷 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第 三 種 郵 便 物 認 可 定価 三 百円 ﹄ 棒 体 己 ハ 民 ー円

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