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記憶の場所としての団地 : 柴崎友香『千の扉』と その時空間(2)

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(1)

記憶の場所としての団地 : 柴崎友香『千の扉』と その時空間(2)

著者 鈴木 智之

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会志林

巻 67

号 3

ページ 125‑153

発行年 2020‑12

URL http://doi.org/10.15002/00023720

(2)

家を語るには時間という概念を必要とする。家は時間のかたちである。

(多木浩二『生きられた家』)

1.「戸山ハイツ」を歩く

 前稿(鈴木 2020)において私たちは,柴崎友香の小説『千の扉』に内在し,そこに描かれた「団 地」の時間 - 空間的配置を,語られた物語とのつながりのなかで確認してきた。では,このフィク ションは現代の都市生活について何を物語っているのだろうか。これを考えるために,以下では,

物語の舞台となった実在の場所に目を向け,小説世界との呼応関係において,そこにどのような時 空間が浮かび上がるのかを考察していく。

 『千の扉』に描かれた「団地」のモデルとなっているのは,新宿区戸山2丁目に所在する都営住 宅「戸山ハイツ」である。“モデル”という以上に,テクストにはこの団地の歴史と現状がかなり 正確に書き込まれており,『千の扉』は(作中にその固有名詞こそ使われていないが)戸山ハイツ そのものを描いた小説だと言ってもよいだろう。

(1)戸山ハイツ

 この団地の所在地は,戦後の住宅難に対応して東京都が木造平屋の住宅地を建設した場所であり,

これが1970年前後から中高層の集合住宅へと建て替えられてきた。戸山ハイツのほぼ全域に相当 する戸山2丁目の総人口で見ると,1985年には1万人弱を数えていたが,その後は「次第に減少し,

2000年には7000人を切り,2015年には約5500人と半数近くまで」減っている(古賀・定行 2017:

37)。JR新宿駅から北に約2キロメートル,東京メトロ西新宿,東新宿,若松河田,早稲田駅から 徒歩圏に立地し,東側は早稲田大学戸山キャンパスに隣接,東南には国立国際医療センターがある。

 この土地は,古くは「和田戸」と呼ばれ,源頼朝の武将・和田左衛門義盛の領地で,「和田村」

と「外山村」の両方にかかっていたため「和田外山」と言われていた(手島 1995:76)。江戸時代 になって,この場所に大名屋敷が築かれることになる。

記憶の場所としての団地

─柴崎友香『千の扉』とその時空間(2)─

鈴 木 智 之

(3)

 現在の新宿区戸山1丁目~3丁目にかけての一帯には,江戸時代「戸山荘」と呼ばれる尾張藩徳川家

(61万9千石)の下屋敷が存在していました。その広さは約43万㎡に達し,江戸の大名屋敷の中でも随 一の規模を誇っていました。(栩木 2006:56)

 栩木(2006)によれば,尾張藩徳川家が戸山付近に屋敷地をもつようになったのは,寛文年間

(1660年代から70年代)のことであり,二代藩主光友の手により,寛文9年(1669年)頃から御殿 や庭園の造営が急速に進められたことが記録されている。庭園の中央には築山「麻呂ヶ嶽(のちに 玉圓峰)」が築かれ,これが現在も残り「箱根山」の名で親しまれている。

 しかし,幕末期になると,安政2年(1885年)の大地震,翌年の台風,安政6年の火災と天災 が続き,邸内はかなり荒れた状態になった。明治5年(1872年)に,明治政府に公収され,駐屯 地となり,戸山荘は終焉を迎える。この後,「明治7年(1874)に陸軍戸山学校が,明治44年

(1911)に近衛騎兵連隊等が置かれ,終戦を迎えるまでの74年間,大部分は陸軍用地として使用」

(栩木 2006:56)された。

 陸軍戸山学校は,昭和20年(1945)4月13日の空襲により殆どの建物が焼失する。学校本部は陸軍 歩兵学校内に移転し,軍楽隊,経理室,医療室関係は日本橋高等女学校内に移転した。同年8月15日 に終戦当時の校長が戦後処理にあたり,同じく9月10日廃校処理の責任を解除され,72年にわたる歴 史を終えている。(新宿区歴史博物館 2006:74)

 戦後,この空間は住宅,学校,病院などの用途に分割されるが,現在も,居住スペースと入りく むようにして緑地が配置され,戸山公園として管理されている。

 公園のなかには,ここが陸軍学校の跡地であることを示す石碑が建てられ,軍楽隊の練習場の跡 がモニュメントとして残されている(以下,写真はすべて筆者撮影)。

(4)

 尾張藩徳川家の屋敷,明治期からは陸軍戸山学校が立地した場所は,江戸,そして東京の市街地 の外縁に位置する。明治16年の「絵図」(新宿区教育委員会 1999:28-29)を見ると,陸軍戸山学 校は,「牛込区」の西北,北豊島郡に入ったところにあり,その先は西大久保村,戸塚村で,農村 地帯だったことがわかる。

陸軍学校跡 石碑(2019.05.11) 音楽隊練習場跡(2019.05.11)

陸軍戸山学校

図1:「東京御絵図」における陸軍戸山学校の位置

(新宿区教育委員会 1999:28-29)

(5)

 東京の市街地の縁にあった戸山学校の跡地には,戦後「動物園」を作るという計画もあったらし い。

 上野動物園が手狭になったことを受けて,東京都が第2動物園をつくろうと動き出したのは終戦直後 のこと。上野動物園の関係者は,陸軍戸山学校の敷地に動物園を造成しようとした。陸軍戸山学校の敷 地は約10万坪もあり,規模としては申し分ない。大蔵省も承諾し,都議会でも開園にあたって追加予 算を組むことが決まった。GHQからも内々に快諾の返事をもらっていた。

 ところが,思わぬところから横槍が入る。GHQの別の部署から陸軍戸山学校の跡地を住宅地にする プランが示されたのである。東京都は住宅を建設する代替地を提案したものの,GHQは都心部に近い 住宅地建設にこだわった。都心近くに住宅を建設すれば,多くの人の目に触れる。そうなれば,GHQ が日本の復興に力を注いでいることを内外に誇示することができるという理由からだった。(小川 2017:159-160)

 陸軍戸山学校跡は東京の第2動物園―それはのち(1958年)に多摩(日野市)に作られるこ とになる―の候補地であった。しかし,その場所は,住宅不足の解消を優先するGHQの発案で 住宅地化されることになり,1949年(昭和24年)「米占領軍放出木材」によって「木造平屋建て」

の住宅群,都営外山ハイツが建てられる。

 都市や住宅についてのエッセイを数多く記しているライター・高島平吾によれば,当時の戸山ハ イツは次のような住宅環境であった。

二軒長屋をその倍ほどの空き地がとりかこむ。柱のない板張りの一間。隣りの家との間仕切りは二枚の 石膏ボード。窓はつっかい棒で上下に開けていた。水道はあったが風呂はない。ただし,トイレだけは GHQの厳しいお達しで当初から水洗だったという。(高島 1992:122)

 「戸山ハイツ」というモダンな名前がつけられていたが,“長屋”的な作りをもつ,かなり急ごし らえの住宅であったことがうかがえる。

 木造平屋の住宅群からなる戸山ハイツが鉄筋コンクリートの集合住宅へと建て替えられていくの は,1970年前後のことである。東京都は,1960年に建て替えの計画決定を行っているが,住民の 反対運動によって実現は難航し,1969年にいたってようやく,「自治体」を母体とする住民側の

「住宅対策会議」が建て替え案を受け入れ,調停にこぎつけた。そこから,ちょうど半世紀を経過 した現在,「起伏の多い24万4700平方メートルの敷地」に,都営賃貸住宅32棟と都公社の分譲住宅 1棟が立っている(同:123-124)。これに加えて,戸山2丁目には,公務員住宅1棟,民間賃貸 住宅1棟がある。

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(2)陸軍病院跡

 この土地の履歴を考える上で,もうひとつ見落とすことのできない要素がある。それは,陸軍学 校に隣接して病院が設置されていたことである。

 現在の国立国際医療センターは1993年に発足しているが,その母体となった国立東京第一病院 は戦後・1945年に開設されている。さらに,その前身の東京第一衛戍病院は1906年にこの地に設 置され,1936年に東京第一陸軍病院と改称されている。

 江戸時代の日本には,(小石川療養所のような一部の例外を除いて)患者を収容して治療する施 設としての病院は存在しなかった。「医療は医者が薬籠と匙を持参して患者の家を往診し,薬を調 合するスタイル」(福永 2014:60)によって行われていたのである。明治維新の時期に,欧米の医 療に学んで病院を開設する動きが起きるが,その重要な目的のひとつは幕末から国内で相次いだ戦 争によって傷を負った武士・兵士の治療であった。病院という制度は,「疾病の治療・看護を目的 とする」ものである以前に,「銃創に対し救急の外科的処置を実施する軍陣病院」(同:111)とし てスタートしたのである。この意味で,病院は,もとより戦争や軍事との深い結びつきの上に成立 したものであった。

 軍病院の歴史は,日本国家による軍事体制構築過程の重要な一部分である。明治元年,新政府は 軍事を司る「海陸軍務科」を設置,「医学所」「大阪府大病院」はその管轄下に置かれた。明治2年,

「兵部省」への改組。翌年,大阪城内に「軍事病院」を開設。明治4年,兵部省内に「軍医療」が 設置され,東京・麹町区に軍医療附属病院が開かれる。政治機構の変革が目まぐるしい時期で,

翌・明治5年には兵部省が海陸軍両省に分割。麹町区の軍医療附属病院は陸軍へ,さらには東京都 の管轄へと移される。明治6年,陸軍本病院と改称。明治14年に東京陸軍病院,明治19年に東京 鎮台病院,明治21年に大衛戍病院へと次々に改称される。これが,昭和4年(1929年)に新宿区 戸山町に移転し,東京第一陸軍病院に生まれ変わってゆく(国立国際医療センターHP,福永 2014 参照)。福永によれば,「衛戍病院とは鎮台にあって,陸軍関係の患者を収容し,衛生材料の保管・

供給と軍衛生部下士官以下の教育を担当する病院」であり,のちに「陸軍病院」と改称されたケー スが多いという(福永 2014:116)。傷ついた兵士の治療だけでなく,人員の衛生を管理すること は,軍の兵力の増強において欠かすことのできない課題であって,これを担う機関が衛戍病院(陸 軍病院)であった。東京におけるその中心的な施設が,新宿・戸山町の軍学校に近接して建てられ たのである。

 だが,軍と医とのつながりは兵員の治療と衛生管理に尽きるものではない。

 衛戍病院が戸山に移転した1929年には,これに隣接する土地に陸軍医学校が建てられている。

この軍医学校には,731部隊を率いた石井四郎軍医の「防疫研究所」が置かれており,「軍事的な 医学研究」の拠点としての役割を果たしていた。この軍医学校もまた,空襲によって1945年に焼 失しているが,その跡地である国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の建設現場から,

1989年7月に大量の人骨が発掘されている。

 新宿区は,この人骨の身元確認調査を厚生省に依頼するが拒否され,独自に調査を行うことを決

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断。札幌学院大学の佐倉朔に鑑定を依頼し,1992年3月にその報告書が提出されている。それに よれば,人骨の大部分は頭骨およびその破片であるが,少数の躯幹骨と四肢骨を含む。個体数は,

少なくとも62体,破片の数から見ておそらくは100体以上である。3対1の比率で男性が多く,壮 年が大部分を占めている。人種としては大部分がモンゴロイドに属するが,変異性が大きいので,

異質な集団に由来するものと考えられる。そして,日本人が含まれている可能性はあるが,「一般 日本人の無作為標本ではない」と推定される。さらに,10数個の頭骨に「ドリルによる穿孔,鋸断,

破切などの人為的な加工の痕跡」が認められる(佐倉 1992)。

 731部隊の歴史について研究を重ねてきた常石敬一は,この鑑定結果から,「軍医学校跡地で発 見された人骨の中には,外国人のもので,殺人の被害者となった人のものが相当数含まれることが 明らかになった」(常石 1992:101)とし,また,この土地の歴史的来歴を精査した上で,人骨が 投棄されたのは,「1927年の軍医学校の起工以後」である可能性が高いとしている。そして,軍医 学校と石井機関(731部隊と防疫研究所を含む医学的軍事研究組織の総体)とのつながりを考えた 時,これらの人骨は「石井機関での残虐行為が絵空事ではなく,現実のことであったことを身をも って告発している」(同:20)のだと論じている。

 軍医学校跡地から発見された人骨の正体・身元については,政府(厚生省)が一切関わりを放棄 しており,上の報告書に示されたこと以上の発見はなされていないようである。私たちは,その

「歴史的事実」そのものの検証を行いうるわけではない。しかし,軍と医の強いつながりを示すこ の場所において,大量の傷ついた人骨の投棄につながる何かが行われていたことはまちがいない。

そしてそれは,石井部隊によってなされていた「人体実験」につながる行為であったことを,強く 疑わせるのである。

2.歴史の地層,痕跡の露出

 このように,都営住宅「戸山ハイツ」が建てられている土地の来歴を概観してみると,江戸・東 京という都市を構想していく政治・文化的な力学のなかで,時代毎に異なる役割が割りふられ,そ れぞれの企てと破産が幾重にも歴史的地層を積み上げてきたことがわかる。体制の転換(徳川幕藩 体制から近代軍事国家体制へ,そして米軍統治によって始まる戦後体制へ)に応じて,時々の政治 権力が,東京の市街地の外縁に位置するこの場所に新たな用途を見いだし,そのつど(病院を除け ば)異質な建造物を設置してきた。したがってこの空間には,ひとつながりの滑らかな時間が流れ ているのではなく,断絶をともないつつ折り重なるような,複数の層が堆積しているのである。

 どのような土地であれ,土地には固有の可能性が秘められている。その可能性の軌跡が現在の土地の 姿をつくり出し,都市をつくり出してゆく。東京の場合も,決して例外ではなかった。むしろ近代の東 京の歴史は,そうした土地の歴史の集積として見られなければならなかったのではないか。都市の歴史 は土地の歴史である。(鈴木 2009:9)

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 これは,建築の変遷に照準を置いて都市・東京の近代史を記述する鈴木博之の言葉であるが,

「戸山ハイツ」という場所の歴史もまた,文字通り,この土地に託されたいくつもの「可能性の軌 跡」としてとらえることができる。それぞれの時代における人々の企ての集積が,その土地の現在 時の姿を作り出し,それを空間上の任意の一点ではなく,歴史性を帯びた「場所」として現出させ る。鈴木は,こうした「土地の歴史の集積」が,いわば地下から働きかけ,新たな可能性を産出し ながらも,それぞれの場所に歴史的な意味が残存することを見事な筆致で描き出し,その力の顕現 を「 地ゲニウス・ロキ霊 」という言葉で表現する。

 ラテン語で「土地の守護霊」「土地の精霊」を意味する「ゲニウス・ロキ(Genius Loci)」は,

「ある土地から引き出される霊感」や「土地に結びついた連想性」,あるいは「土地がもつ可能性」

を意味するものとして用いられてきたが,鈴木はこれを,「単なる土地の物理的形状に由来する可 能性だけでなく」,「その土地のもつ文化的・歴史的・社会的な背景と性格」に関わる要素として位 置づける。それは,直接には「目に見えない」,その土地の「潜在的構造」(同:12)を解読する ための概念なのである。

 これと同じ意味において,私たちがここに読み取ろうとしているのは,「戸山ハイツ」という場 所に漂う「地霊」の姿である。だが,ここで留意しなければならないことは,「地霊」は決して

“場所の同一性”を担保するとは限らないこと,その空間にはいくつもの異なる歴史の痕跡が残さ れているということである。ひとつの体制のもとで追い求められた可能性は,時代の変化(体制の 転換)によってしばしば放棄され,新しい計画が持ち込まれる。そこに“断層”が生じる。しかし,

過去の生産物はきれいに一掃されることなく,古い地層,あるいは痕跡として露出する。鈴木が東 京の各所に見いだしているものも,かつてそこに生きた者たちの企ての残存物,時には潰えてしま った夢の痕跡である。それぞれの土地には,現在時の生活空間のなかでは必ずしも明確な意味を結 ばない“過去”が堆積している。

 例えば,「戸山公園」のランドマークとも言える「箱根山」。それは,先述のように,尾張藩徳川 家の下屋敷「戸山荘」の庭園内に盛り土によって築かれた人工の山である。「戸山荘」は,三代将 軍徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川藩第二代藩主光友に嫁いだことを受けて,寛文年間に建てられ たと言われ,近隣の川から水を引き,泉水をあしらった「池泉回遊式庭園」が造園されている。そ こには,小田原の宿を模したと言われる「御町屋」が設けられ,庭園中央の「山」も同時期に築か れたと記録されている。このような「大規模な屋敷が江戸の郊外に設けられた」のには,「将軍の 娘である千代姫への気遣い」等の理由があり,同時に「藩主光友の趣味」が反映しているとも言わ れるが,いずれにせよ,東海道沿道からの借景によって構築されたこの庭のなかで「山」にはシン ボリックな意味が充填されていたと考えることができる(栩木 2006参照)。

 しかし,「明治維新」によりここが「官有地」となると「屋敷と庭園は取り壊されて箱根山だけ が残った」(手島 1995:75)。以後,軍学校時代から戦後の戸山公園時代に至るまで,この山だけ は,同じ場所に残されて行くことになる。だが,周囲を「団地」に囲まれたこの緑地のなかにあっ

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て「箱根山」はいささか唐突な存在である。都市的集合住宅の環境にうまくなじまない“異物”,

と言っては少し言葉がすぎるかもしれないが,少なくともそれは,“思いがけないもの”が“思い がけない大きさ”で現れたという感覚を抱かせる。戦後に建設された大規模団地のなかに,江戸時 代の大名屋敷の庭園の一部分だけが取り残されている。そのミスマッチこそ,ある種の趣を生みだ している,という言い方も可能である。

 あるいは,戸山公園の一画,箱根山の西南側の麓に建てられているキリスト教会(日本基督教団 戸山教会)。教会のホームページによれば,この施設は,戦後この地に「戸山ハイツ」が建てられ た時,「心のよりどころとなるセンターをというGHQの意向」に対して,東京都の建築局長が教会 を建てるという案を示し,プロテスタント教団である日本キリスト教会と米国チャーチ・オヴ・ゴ ッド宣教局の援助を受けて,1950年に建堂されたものであり,幼稚園(戸山幼稚園)も付設され ている(日本基督教会HP)。

 この教会の建物の基礎の部分は,旧陸軍の建造物がそのまま利用されており,石積みの土台とそ の上に建てられた印象の教会建築との質感のアンバランスは,どうしても否めない。しかし,ここ に見えている断層こそが,この土地の歴史を語るものである。帝都東京の西北端に位置した軍施設 の痕跡の上に,戦後GHQの管理下でプロテスタント教会が立つ。軍学校の礎石の上に,教会付設 の幼稚園が開かれる。その歴史的時間の地層が,堅固で重厚な石積みの地下室と,白壁に赤い屋根 を輝かせる清楚で華奢な上層部分とのコントラストとともに現れる。

「箱根山」(2019.05.11) 頂上の案内図(2019.05.11)

(登頂証明書を発行します,とある)

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 さらには,国立国際医療センターの東側の道の壁面に見える,不可解なドーム状の痕跡。

 この,何かを塗りこめたような跡はしばしば,「陸軍軍医学校と東京第一陸軍病院を地下で結ぶ 坑道」があったという情報に結びつけられて解釈されているが1,かつてここに何があったのか,

実際に何に使われていたのかを正確に確認することは難しい。しかし,その不明さゆえに,何かの

“入口”を連想させる形状は,私たちの想像力を触発する。とりわけ,先に触れたような「軍病院」

日本基督教団戸山教会

(2019.05.11)

教会の土台となる旧陸軍建造物

(2019.05.11)

トンネル跡? (2019.07.07)

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としての歴史を重ね合わせてみる時,ここに秘匿されるべき,封印されるべき何かがあったのでは ないかという憶測が呼び起こされても不思議ではない。

 このように,戸山ハイツとその周辺には,破産してしまった過去の残存物が,現在の風景のなか に溶け込み切れない形で散在している。その痕跡との出会いは,必ずしも明解な像を結ばない曖昧 な触知の経験をもたらす。それが,この場所を構成する“時間”の一部をなしているのである。

 団地という居住空間は,その設計思想において,ル・コルビュジェの言う「機械としての住宅」,

すなわち「効率的で機能的に適合する型」を推定し,「標準」を設定して,均質な住宅を大量に供 給しようとするものであった。それは,「土着性と歴史性,場所性から自由な,グローバル・スタ ンダードを目指す住宅」(朴 2019:69)なのである。だが,住宅が土地に根ざすものである以上,

それはその土地の「歴史性」から完全に解放されることはない。高層の集合住宅が「場所」にとら われない,その意味で均質な「空間」を提供しようとしても,住まいは,あるいは住むという営み は「地霊」の働きかけから自由になることができないのである。

3.「教会」「トンネル」「山」―線型的時間とは別の形で

 ここまでに見てきた土地の来歴,そして歴史の断層を示すいくつかの物たちは,小説『千の扉』

にはどのような形で呼び込まれ,いかなるトポスを作り出しているのだろうか。実在の「戸山ハイ ツ」の風景を踏まえて,再び小説のテクストに目を向け,両者の往復のなかで「団地」という場所 の成り立ち方を検討してみよう。

 前稿において見たように,『千の扉』は,「団地」に移り住んできた千歳が,この土地に流れる,

あるいは積み重なる時間を発見していく物語として読むことができる。しかしそれは,生活者の共 同体が紡ぎだしてきた「集合的記憶」(アルヴァックス)に身を浸していくということでは必ずし もない。これまでに見てきたように,この空間には,居住のためにデザインされた集合住宅地とし ての意味連関には収まらない,いくつもの謎めいた痕跡が露出しており,それらは,この場所の履 歴が住民生活の歴史には回収されないものを孕んでいたことを物語っている。こう言ってよければ,

生活の外部が生活空間のなかに見えてしまうのである。

 例えば,団地の域内に残る陸軍の「石造りの建物」。千歳には,その「古びた石の表面から,時 間の経過を想像することもできる」のだが,それは教会と幼稚園の礎石として使われていて,「幼 稚園側には子供を乗せる椅子がついた自転車が並」んでいる。「立派な枝振りの桜から木漏れ日が

1 例えば,「帝都を歩く」と題されたあるブログでは,この「トンネル跡」と見える痕跡が紹介され,「コ ンクリート擁壁の上は国立国際医療研究センター病院の敷地になっています。/この国立国際医療研究セ ンター病院は,太平洋戦争の敗北で陸軍が解体されるまで陸軍省所管の臨時東京第一陸軍病院でした。/

この封鎖された横穴は,陸軍軍医学校と東京第一陸軍病院を地下で結ぶ坑道であったと言われています」

と記載されている(http://teitowalk.blog.jp/archives/74806031.html)。

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差す斜面を,犬を連れた人が横切る。坂道をジャージを着た学生が走っていく」。そして,「低層棟 のベランダに花柄の布団が干してある」(147-148)。この,日常性と非日常性との隣接が,日常の 風景の一部となっている。これが,この「団地」という空間のありようである。

 同様に,隣接する医療センターの外郭の石垣に開かれていたという「穴」。千歳は,朝,ゴミを 出したついでに散歩をしていて,その埋め跡を発見する。

 まだ青みがかった空気は,気持ちよかった。緩やかに弧を描く坂道を下り,医療センターの外周を歩 いて行くと,石垣があった。それに沿って右へしばらく行くと,石垣の一部が,不自然にコンクリート で塗り固められている場所を見つけた。上部がアーチ型,まさにトンネルの形がはっきりと表れていた。

(94)

 ここにも,生活空間の只中に生活の論理を超えた“何か”が露呈しているという感じがある。そ れは,「陸軍の施設」跡からの「大量の人骨」の発掘という歴史的事実とも結びついて,「団地」の 住人達のあいだに様々な妄想をかき立てている。団地内のどこか別の部屋につながっている。ある いは,未来の世界に通じている。団地の地下には「要人専用の地下道」として使われた「秘密のト ンネル」(20)が張り巡らされている。そして,「あっちの教会の地下から幻の地下鉄ホームに行 ける」(59)のだと語られる。こうした言説は,日常生活の空間に空洞を穿つ物質的想像力の作動 を物語っている。

 そして何より,団地の敷地の中心に鎮座する「山」の存在。住宅棟のあいだに設けられた「公 園」スペースと呼ぶにはあまりにも巨大で,その唐突さにおいて“意味不明”の感すら与えるこの

「築山」は,「団地」の住人達の日常的な憩いの場というよりもむしろ,生活空間の只中に“非日 常”の場所がある,という印象をもたらす。「山」をめぐって想起されるさまざまな場面は,特別 なことが起こってもまったくおかしくないような,その意味で“リミナルな空間”であることを教 えている。

 一俊が少年時代に見た,テレビの「特撮ヒーローものの撮影」が行われたのも,この山とその周 辺であった。この番組の主演俳優が「子供のころ,この団地に住んでいた」(15)という設定で,

入れ子状に呼び込まれた俳優の回想のなかにも「山」の風景が現れる。

 この山には,真夜中によく来た。家を抜け出して,小学校の前を通り過ぎ,人がいないのを確かめて から登った。誰にも会わないことは,まずなかった。不良少年たちが,階段や公園の隅でたむろしてい た,大きな暴走族のチームがこのあたりを拠点にしていて,何度か喧嘩を目撃した。警官が巡回してい たから,出くわさないように気をつけた。(15-16)

 家庭に居場所のない少年が,こっそりと部屋を抜け出してやってくる場所。そこは「暴走族」が たむろする“悪所”であり,たびたび「喧嘩」の舞台になっていた。その空間が,今度は,「テレ

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ビの撮影」で,“正義”と“悪”の闘いの舞台となる。

 また,一俊が「豹」を連れた男たちを見たのも,この「山」でのことだった。中学3年になる年 の三月。真夜中に家を抜け出して友達と遊んでいた一俊の前に「悠然と一頭の豹が歩いて」くる。

 腰に向かって引き締まった胴,長い後ろ足としっぽ。その後ろから黒ずくめの男が二人,歩いて来た。

豹の首から伸びる紐を握って,豹と同じくらい大きな黒い犬も三匹連れていた。

 「すげえ」

 「ものすごく速そう」

 三人は,美しい曲線をうっとりと眺めた。(48-49)

 いったいこの「男たち」はどういう筋の人々なのだろうか。そもそも,団地のなかで「豹」を散 歩させるなどということが,本当にありえたのであろうか。この場面は,どこか夢想の産物のよう な印象すら与える。

 ここで大事なことは,一俊の想起が事実であるかどうかではない。「山」は,日常性を超えた出 来事が起こる(起こりうる)場所として立ち現れているのだ。何が起こってもこの場所ならそうか もしれないと思わせるような,リミナルな空間としてこのエリアはある。もとより,江戸時代の大 名屋敷の庭であった時代から,この「山」は,生活の空間に象徴的な形で呼び込まれた“聖域”と いう意味をもっていたはずである。この庭を眺めた徳川家の姫君の思いは容易に想像しがたいのだ が,聖俗の混在という事態は少なくとも,そのまま戦後の「団地」に引き継がれていると言えるだ ろう。

 かくして「団地」には,生活者の感覚に対して異質なものがあふれている。生活の論理に接続し えないものが生活空間に内在している。人々は当然,そこに何かしらの“亀裂”を読み取る。この 事態が,前稿で“時空の歪み”という言葉で示したこと,イマジネールの次元での“奇妙なねじ れ”,あるいは“つぎはぎの感覚”のベースとなっている。

 また少し視点を変えれば,この空間の雑種性は,単一の線型的な時間の構成を妨げ,そこにかつ てあったけれど断ち切られてしまった複数の物語,あるいはその残存を感受させていると言えるだ ろう。「団地」を構成する時間は,ここに集住する人々の生活の時間の内に閉じていない。生活圏 の外部にあったものがこの空間の内部に浸潤し,随所に露出しているのである。

4.「団地」の生活の履歴

 だが,土地の歴史は,居住のための空間をその外部から規定するだけではない。言うまでもなく,

他方では,この場所における人々の暮らしの継続が,それぞれの空間に固有の時間的風合いを与え ている。

 「戸山ハイツ」においても,戦後の平屋住宅群が建設されてから約70年の,中高層の集合住宅と

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して建設されてからでもすでに半世紀におよぶ生活の積み重ねがある。この土地に暮らすというこ とは,“団地人の生活の履歴”に触れるということにほかならない。

 団地とは,賃貸または分譲の居住スペースの集積として構成される空間である。しかし,そこに は「住宅」だけがあるわけではない。その設計上のコンセプトとして,団地は,住民の生活上の必 要の最小限をすべて敷地内でまかなえるようにデザインされており,様々なニーズに応える諸施設 の複合体という性格を有している。それは,「シリンダー錠」に象徴された私的空間としての住居 と,公共性の高い空間・共有の社会資源が一定の配分で並存する場所であることを意味している。

 では,戸山ハイツには実際に,どのような施設があった(そして,ある)のだろうか。

 平屋の住宅群から中高層の集合住宅に建て替えがなされた時点で,戸山ハイツにどのような施設 が置かれていたのかについては,古賀繭子・定行まり子(2017)による詳細な調査報告がある。

それによれば,敷地内には,平屋住宅期からの継続として「小学校,2つの幼稚園,3つの保育園,

警官派出所,管理事務所」が「建替え・移転等」を経て運営され,「区民センター,集会室3室,

都市計画公園,郵便局,福祉会館(1階ことぶき館,2階児童館・学童クラブ)」(同:37-38)が 新設された。商業施設については,建替え以前からハイツ内で営業していた事業者との話し合いを 経て,3号棟,10号棟,25号棟,33号棟で店舗営業が行われることになり,最終的な配置におい ては,既存都営住宅内営業者の多い住棟(3号棟,25号棟)と公募等によって外部から誘致され た営業者の多い住棟(10号棟,33号棟)に分かれることになった。業種は,生鮮食品などを扱う

「食料品店」,室内装飾や家具などの「日用品店」,洋服,履物などの「服飾品店」,銀行,クリーニ ング,美容・利用などの「サービス業」,医院,整骨,介護事務所などの「医療関連」,習い事など の「教育関連」など,多岐にわたっている。

 こうした施設配置は,当然のことながら,居住者の年齢構成の推移や周辺地域の商業環境の変化 に応じて変わってきている。公的な施設としては,2000年代に入って介護保険認定者の利用する 社会福祉施設が新設される一方,一保育園が廃園となる。2009年には,高齢者施設・コトブキ館 の機能が拡大され「シニア活動館・地域交流館」に転換され,これにともなって戸山児童館・学童 クラブが閉鎖・移設されている(同:38-39)。高齢化にともなう福祉事業へのニーズの変化が,

施設の内容に率直に現れていると言えるだろう。他方,商業施設については,業種変更や閉店が相 次ぎ,88店舗あった施設が2013年までに46店舗となった。特に「生鮮食品店や食料品店が閉店し,

代わりに高齢者施設や事務所が増加している」(同:41-42)。

 一連の変化は,ある見方からすれば,「団地」という集合的生活体そのものの“老い”や“衰え”

(活動力の低下)の現れである。それは,例えば“シャッターの下りた店舗”,“子どもの姿が少な い=高齢者ばかりが目立つ,広場や街路”といった光景のなかに,実感としても読み取られる。し かし,見方を変えれば,団地内の施設の変容は,子どもを対象としたサービスから高齢者を想定し たサービスへの中心点の変化であり,人口構造の転換に応じた機能的適応が進んでいるということ でもある2。商業店舗の業態変化や縮小についても,周辺地域の商業施設に外部化できない部分が 残り,この団地だからこそ必要な店が存続・再生している面がある。戸山ハイツの団地内商店街は,

(15)

他の集合住宅(団地)に比べれば相対的に“元気”であり,周辺に大量の商業施設がある新宿区内 にあって,これだけの活力を維持していることの方が,むしろ着目に値するかもしれない。

 また,居住スペースに関しても,諸施設に関しても,土台となる建物はほとんど建て替えられて いない。壁の塗り替えが行われ,耐震のための補強の跡が随所に見られるが,鉄筋コンクリートの 建造物が,時間の経過に耐えつつ,ゆっくりと古びていく様子が,その外観からもうかがえる。錆 を見せる鉄製のボード,罅割れが目立つ木製の案内板,手入れを重ねられてきた植栽,庭の植え込 み,ブランコやシーソーといった公園の玩具のクラシックなフォルムと色彩,古木と言うべき樹木

…。建築物としての基本的な骨格が変わらないからこそ,団地には,時の経過が染みわたるように 広がり,随所に物質的な質感をともなって現れている。ここには,景観的な質の同一性を失うこと なく,ゆっくりと老いていく場所としての一面がある。その質感はもちろん,新築のマンションな どのつやつやとした外観にはないものであるし,他方で,“廃墟”のマテリアリティとも異なって いる。人が住み続ける場所に,そこにしつらえられた頑健な“物”たちの上に,ゆっくりと圧力を かけるような時の重み。団地を歩き回り,しばらくそこに滞留して,その風景のなかに身をおいた 時に感じられるのは,そんな時間の表情である。

5.「植物」「煙草」「万国旗」,そして「喫茶店」

  ―団地の生活時間とその空間的表出

 『千の扉』には,この団地に積み上げられてきた生活の時間とその沈殿の様相もまた,巧みに取 り込まれている。

 前稿で述べたように,この場所が団地になってからの年月の経過を,最も可視的(可感的)に示 しているのは,敷地内に生い茂る樹木群である。テクストのいたるところに,巨木となって居住ス ペースを覆っている木々(とりわけ欅)の織りなす風景が描かれている。千歳は,「のしかかって きそうな欅や楠と鬱蒼とした低木で覆われた斜面」(47)を「山」のようだと感じている。「鬱蒼 と茂った欅の梢から,高く長い声で鳴いて鳥が羽ばたいた」(125)り,強く風が吹いて「残って いた欅の葉を散ら」すと,「四階の窓までその葉がときおり飛んできた」(259)りもする。これら の木々は,この場所が住宅地として利用され始めた時期(戦後)に植えられたものである(36)。

勝男が,まだ平屋の住宅だったころの戸山ハイツでは,木々はまだ「低木」で,その「枝振りは貧 弱で,まだその場に馴染んでいないように見えた」(100)。それから,おそらく30年ほど経った頃,

少年時代にこの団地に住んでいたという「俳優」が,テレビの撮影で再び訪れ,「木がずいぶん大 きくなって,驚きました」(16)と言う。貧弱だった樹木が鬱蒼とした梢を広げて,豊かな影を作 るようになる。それだけ時間が,人々がこの「団地」に住みつくようになってから,流れてきたの

2 古賀・定行(2013)によれば,居住空間の内部でも,継続的にここに暮らす人々は,高齢化・世帯構 成の変化に応じて「住まい方」を変えながら生活している様子がうかがえる。

(16)

である。

 しかし,時の経過を感じさせるのは,こうした大木だけではない。それ以外にも,例えば,団地 の住人が「庭」に植えて育ててきた植物たちの姿がある。

 階段へ続く小道の両側には,一階の住人が植えた花が,日差しを浴びて目に痛いほどの発色で咲いて いる。赤,ピンク,白,オレンジ。ベゴニア,インパチェンス,ユリ。この数日で急に花が開いたタチ アオイは,千歳よりも背が高い。(5)

 この草花がいつから植えられているのかは分からない。しかし,実際に歩いてみるとすぐに体感 されるのであるが,住人の手になるこの種の花壇は“年季”を感じさせる。人々が,時間をかけて,

この公共空間を自分たちにとって心地よい暮らしの場にカスタマイズしてきた,その振る舞いが,

目に鮮やかな色彩の風景を作り出している3

 そして,屋内・室内に目を向ければさらに,人々の生活の営みが,均質にしつらえられた空間に それぞれの“場所性”を与えていることが分かる。

 例えば,千歳が住み始めた部屋の壁や絨毯に染み付いた煙草のヤニとそのにおい。

 ここは東京の都営住宅で,子どものころ住んでいたのは大阪の市営住宅,という以外に違うのは,部 屋中の壁が全体に薄茶色に変色していることだ。今でもこの部屋の世帯主として登録されている日野勝 男が,毎日煙草を吸っていたからだった。三十五号棟まである広大な団地の最初の数棟が建てられたす ぐあとから住んでいるから,四十年以上。畳の上に重ねた絨毯に,千歳は寝転んだ。煙草のにおいがす る。(7-8)

 既述のように,千歳が子ども時代に暮らした大阪の市営住宅と,今住んでいるこの団地はまった く同じ間取りなのだが,そこには,暮らしてきた人の営み(喫煙)が染み付いて,それが“別の場 所”であることを教えている。

 さらには,先にも見た,居住棟の1階の商店街に掲げられている万国旗。今一度,テクストを引 用しよう。

 三五棟の建物のうち,一階部分が商店になっている棟が,三つある。

 千歳の住む棟から近いところは,半分がシャッターが下りたまま,残りはデイサービスの事務所や倉 庫になっているが,幹線道路に近い大型棟の下は,まだなんとか「商店街」と呼べる雰囲気が残ってい

3 同様の光景は,「千歳の母方の祖父母が住んでいた」という「公団住宅」の思い出としても描かれてい る。「祖父母の部屋は二階だったが,一階の住人が庭に興味がなかったので,祖父が花を植えて池まで掘 った。池など掘るのは禁止だったろうが,水を循環させて金魚を飼っていた」(55)。

(17)

る。色の褪せた万国旗がジグザグにかかっている。今はない国の国旗がないか見上げたが,見つけられ なかった。(24)

 その風景は,戸山ハイツの西端,明治通りに面したエリア(33号棟)の路面商店街に見いだす ことができる。

 古賀・行定(2017)によれば,この棟の商店街は「外部から誘致された営業者の多い」エリアで,

実際に足を運んでみれば,ビストロ風のカフェや,作品中に登場する店のモデルと思われるラーメ ン店など,比較的新しい装いの店舗が並んでいる。表通りにも面して,比較的活気のあるゾーンで あるが,そこになぜか「万国旗」が飾られている。ある種の国際色を示す記号でもあるのだが,そ の装いがどこか“昭和”の気配を漂わせる。千歳が探している「今はない国の国旗」とは,ソ連の それだろうか。万国旗は,(オリンピックや万博に象徴される)高度経済成長期からの賑わいの持 続を示すアイテムでもある。

・「喫茶 カトレア」を探して

 もうひとつ,これは「団地」の敷地内にあるものではないのだが,この地域の生活の歴史,その 戦後の時間の流れを表す場所として,「喫茶 カトレア」を忘れることはできない。

 千歳が,はじめて「カトレア」を訪れたのは,一俊の高校時代の手芸部仲間が集まる飲み会がそ 団地1階の商店街(万国旗)

(2019.06.01)

(18)

こで開かれ,夫とともに招かれたからである。「団地から大通りへ出て坂を下った」(43)エリア にあるこの店は,「喫茶」と銘打ちながら,酒も出している。常連が平日の夜に「ちょっと食べて 帰るか」という感じで寄っていくような,町の食堂的な場所。店主のあゆみは元音楽ライターで,

そのころからの付き合いだという「ヤマケン」というフリーターの男や,かつては近在にあったテ レビ局に勤めていた男,マンション開発をしていたというサラリーマンなどがやってくる(千歳は,

こうした客たちから「昔の東京」(150)の話を聞いている)。貸し切りで「料理教室」(130,240)

が開かれたりもしており,地域のネットワークのハブとして機能している。また,中村枝里をはじ めとする一俊の古い友達が出入りしており,それぞれの私生活の事情などが伝わってくる,情報の 回路でもある。オルデンバーグの言う「サードプレイス」(Oldenberg 1989)という言葉が似つか わしいかもしれない。

 千歳はここで,会社勤めの傍らアルバイトを始め,また既述のように,一俊との関係がうまくい かなくなった時期には,店の2階の部屋にしばらく居候として暮らすようにもなる。「喫茶 カトレ ア」は,小説の主な舞台である「団地」の外にあってこれを補完し,千歳の物語を推し進める重要 な空間になっている(千歳が一俊の先妻・マリコの再婚と出産の話を聞いたのも,「カトレア」で の飲み会の席であった)。そして,そこでは,店主や客たちの思い出話として(戦後から高度成長 期を経て,バブル経済の時代にいたるまでの地域の歴史)が語られ,またその時の経過が,店舗の 構え,古びた装備や家屋の作りに色濃くしみついている。

 作品中では,この店の建物はかつて「北川青果店」で,その時代から,二階の部屋には“訳あ り”で逃げ込んできた女が住みつくことがあったとされる。「喫茶 カトレア」となってから,少 なくとも30年以上経っており,カウンター式の店舗の内装が,“昭和的”とも言えるレトロな雰囲 気を醸している。

 例えば,店先に出して置いている「喫茶 カトレア」の看板。「コーヒー会社のロゴ」が入った その看板は,内側から電気で光るようにできていたのだが,長年使っているうちにその蛍光灯がつ かなくなっている。しかも,そこに記された会社のコーヒーを,もう店では出していないという。

 「喫茶 カトレア」の看板は,中の蛍光灯がつかなくなった。三十年以上使ってるから,と店主あゆ みは修理をあきらめたようだった。千歳は,光らないままの看板を道に出した。看板の下半分に入った コーヒー会社のロゴを眺め,もうこの会社のコーヒーは出していないのに使っていてもいいんだろうか,

と気になった。(63)

 そして,千歳が団地の部屋を離れて,一時避難していた「二階」の居住スペース。

 「カトレア」の二階は,思ったより広さはあった。六畳が二間と道路に面した窓際に三畳ほどの板張 りのスペースがあった。しかし,この木造家屋が建てられてから五十年の間に溜まった荷物,段ボール やブリキの衣装ケースに入ったなにかが奥の六畳をほとんど占拠してしまっていた。

(19)

 真ん中の六畳にある押し入れは少々黴くさく,襖も歪んで開けづらかった。茶色に近い畳はささくれ ていて,裸足で歩くのは気をつけた方がよさそうだった。終電を逃したときにあゆみが泊まることもあ るので,布団が置いてあり,千歳はそれを敷いて眠った。

 大型のトラックやバスが通ると,家は揺れた。車の音以外は,夜はとても静かだった。隣が空き家の せいもあって人の気配が感じられず,新宿から歩いて十五分ほどの場所だとは信じられないと,千歳は 布団の中で思った。朝になると,裏の駐車場から車が出ていく音がして,目が覚めた。(184)

 「ブリキの衣装ケース」,黴くさい「押し入れ」,歪んで開けづらい「襖」,「ささくれて」変色し た「畳」,三畳の板の間スペース。この場所には,戦後のある時期に都市の中間層の家屋として建 てられた家の二階間が,そのまま残されている。

 この家だけではない。その一帯には,「再開発」の連続で目まぐるしく相貌を変えていく新宿界 隈にあって,エアポケットのように取り残される,“昭和的”な住宅地・商店街のにおいが立ち込 めている。

 車通りは多いし数百万人が住む街の真ん中なのに,歩行者の姿が少ないせいかなんとなくさびれた雰 囲気に感じた。マンションや雑居ビルの隙間に,いわゆる看板建築,木造家屋の正面にだけ洋風の壁が くっついたスタイルの建物がぽつりぽつりと残っている。何十年か前には商店街として賑わっていたの かもしれなかった。(43)

 「喫茶 カトレア」のモデルとなった店がどのエリアにあるのかについては,柴崎自身があるエ ッセイのなかで明かしている。

 余丁町と富久町の路地をぐるぐる回ってから,小笠原伯爵邸,東京女子医大のある若松町の交差点へ 向かい,今度は大久保通りを西へ歩く。通りの両側には,看板建築の二階建てがまだ多い。『千の扉』

で主人公のバイト先に設定したみたいなオーソドックスな喫茶店や,学習雑誌や漫画など子ども向けの 本が目立つ書店,青果店,町の電気屋さん……。夕方が近づいて,買い物をする主婦たちに,下校時間 の子どもたちの姿が交じる。(柴崎 2020:57)

 戸山ハイツから総務庁の庁舎前に出て,大久保通りを左手に進み,緩やかな下り坂で若松町の交 差点まで,500メートルほどのあいだ。ここを歩いてみると,コンビニやドラッグストアーになっ ている建物や,狭い敷地に無理やり立ち上げたようなペンシルタワー的なマンションも少なくない のだが,それらを挟んで,一階が店舗でその上に居住スペースがある2階建ての家屋をいくつも見 ることができる。畳屋や電気屋,小さな書店,よろず屋的な雰囲気の文具店,中華そばや和菓子の 店。そして,そのなかに「純喫茶 ロマン」がある。

 店はすでに閉じられていて,「2010年閉店」という手書きの小さな告知が,入り口のガラスに貼

(20)

られている。「喫茶 カトレア」の着想の源泉に,おそらくこの店があったのだと思われる(柴崎 が『千の扉』を執筆した時期にはすでに営業していなかったのではないかと推察されるが,これは 未確認である)。

 しかし,大久保通りに面したこの区画だけではない。戸山ハイツの周辺を歩き回ってみると,オ フィスビルの裏手に木造住宅と小規模商店が立ち並ぶ道が曲がりくねって続いていたり,高層マン ションの足元に小さな稲荷神社の社が残されていたりして,新宿周辺の再開発の波が取り残した浮 島のような空間が,あちらこちらに残っていることが分かる。

 そこにあるのは,近接する都市空間のなかにいくつもの異質な時間の層が積み重なっていること を感じさせる風景である。

 『千の扉』のなかで,千歳の会社の同僚である須田広志という男が,先輩であった「大野さん」

という男性の体験談として「幽霊の店」に入ったことがあるというエピソードを語っている。新宿 周辺の再開発が進むなかで,「新しく建ったばかりのビルの隙間」に,ひっそりと灯りをともして いる飲み屋を見つけ,そこで酒を飲んだ。ところが,翌日の帰り,同じ場所に行ってみると,その 店はもう塞がれていて,「その店は先月閉めたよ」と教えられる。「女将さんが急に亡くなったから 閉めたんだけど,店に立つのが好きな人だったからねえ」と,通りがかりの老人が言うのである

(129)。

 いささかできすぎた,定型通りの“怪談”なのだが,その話を受けて,須田が言う。「おれが東 純喫茶ロマン:新宿区若松町

(2020.10.6)

(21)

京に来てから二十年以上になるけど,新宿駅も,その周りもずーっと工事してるじゃない? 再開 発の再ってなにに対しての“再”なんだろ」(130)と。

 近年,2000年代に入ってから盛んに語られる「再開発」は,郊外への都市圏の拡大も頭打ちに なったあと,「世界都市」と呼ばれた東京の中心部に資本が回帰して,例えば,丸の内や六本木や 渋谷周辺の景観を一新していくような大規模建設プロジェクトを指していることが多い。しかし,

東京は確かに,戦後を通じて(あるいはそれ以前から)スクラップ・アンド・ビルドをくり返し,

かつてそこにあった風景を一掃し,場所としての同一性を失い続けることで“発展”を遂げてきた。

加藤周一(1988)の言う「記憶喪失症の都市」なのである。

 だが,「再開発」は,都市空間の全面を均一にならして刷新していくのではなく,スプロール化 する郊外と同様に,虫食い的,場当たり的に建設が進み,その合間に古びた(戦後的な,あるいは 昭和的な)色合いの“町”を残していることがある。「喫茶 カトレア」が存在するのは,そうし た“再開発の取りこぼし”のような地域であり,上の逸話に語られたような“霊的存在”が宿る場 所なのかもしれない。

 この“古風な”商店街・住宅地に流れる時間と,「団地」に流れる時間もまた,必ずしも同質な ものではないだろう。しかし,両者は,急速に開発されていく大都市のリズムからは取り残されて,

半世紀にわたる生活の履歴が,その“マテリアル”において露出している場所であるという点では 一致している。「喫茶 カトレア」と「団地」。この時の浮島のような場所,時空間のエアポケット を往復しながら,千歳は生活史の移行を成し遂げていくのである。

6.日常生活空間のヘテロトピア化―『千の扉』と「団地」の時空間

 ここまで,『千の扉』とともに戸山ハイツとその周辺を歩きまわり,そこにテクストを介して浮 かび上がる景観をたどってきた。では,この作業を通じて私たちは,どのような都市空間の様相,

及び,その時間的な編成を見いだしてきたのだろうか。

 現象学的な視点に立てば,生活世界は志向的な主体のまなざしに対して,そのつどの現在におい て立ち現れるものであり,その時間性もまた,主体の構成的な働きかけに応じて現出するのだと言 える。だがその際,主体は,この世界がたった今ここに現れたばかりであるとは受け止めず,自己 の経験に先立ってあらかじめ存在し,構造化されているものだと信じている。「生活世界それ自身 は常に予め与えられており,この先所与性の地平から私は触発され,受動性は認識と行為との能動 性へと呼び醒まされるのである」(Hohl 1962=1983:19)。とはいえ,この意味での「先所与性」

は経験の普遍的な構造であり,それぞれの空間の時間的な立ち現れ方については,まだ何ひとつ語 るものではない。

 しかし,世界は私の志向的な働きかけに先立って既に存在していたという確信は,多くの場合,

場所の歴史性の感受とともに成立する。私は,過去からのつながりの上に前もって何かしらの意味 を充填された世界に投げ込まれている。今自分が置かれている場所は,私が経験しなかった過去の

(22)

累積によって形づくられている。そのようなものとして世界の履歴性を感じとりながら,私は所与 のものとして現れるこの「場所」を自らの「生の地平」として受け止め,その文脈性に応じて「行 為の能動性」を獲得するのである。ここで問われるべきは,この空間を形作ってきた過去が,どの ような形で私を触発しているのかにある。

 この場所において,まだ私がここにいなかった時に生じた出来事や人々の営みは,今,私の経験 している世界の空間的・物質的な現れに対してどのように関わってくるのか。これを「場所の記 憶」という観点からとらえるとすれば,記憶の2つの形態,すなわち「エピソード記憶」と「習慣 記憶」の区分に対応して,そこに2つの側面を見いだすことができるだろう。

 ひとつには,かつてここで起こった出来事の跡が残されており,物質的痕跡を通じてこれを想起 することのできる場所として,この空間が「私」の前に現れるということ。かつてここで戦闘がく り広げられた。痛ましい事故が起こった。革命的な行動がなされた……。こうした出来事の記憶は,

何かしらの言語情報(知識)と結びつきながら,目前の物質的環境に触発される形で喚起され,

「私」はそれを,身体感覚に結びついたイメージとして呼び起こすことができる。「原爆ドーム」や

「震災遺構」を訪ねる。あるいは,交通事故の現場で花を手向け,手を合わせる。こうした場面に おいて,私たちは空間に媒介されつつエピソード記憶を想起している。もしくは,空間に宿る出来 事の記憶を,自己の身体に引き寄せながら呼び覚ましているのである。この時,この場所に関わっ て過去の出来事を想起する複数の人々が,同一(または類似)の表象を共有するのであれば,そこ には,言葉の強い意味での「集合的記憶」が成立していると言えるだろう(「原爆ドーム」や「平 和記念資料館」を中心に「被爆地ヒロシマ」の記憶が構成されているように)。

 これに対して,例えば古い民家を訪ねていにしえの暮らしぶりを偲ぶとか,昔ながらの街並みや 地形を眺めて,かつての人々の往来を感じ取るような場面は,想起の対象が一回性の出来事ではな く,習慣的に反復された行動の様式であるという点で,先の場面とは異なっている。人々の生活は 空間の物質的な配置や形態と相互規定的に成立しており,そこに残されている“物”には過去の 人々の立ち居振る舞いが刻み込まれている。例えば,古い生活道具を手にする時,私はかつてそれ を用いて何ごとかをなそうとした人の身体所作をなぞることができる。物の形や空間の構造,ある いはその物質的な質感が,人々の身体図式と表裏一体のものとしてあるので,すでに人がいなくな ったあとにも,その物を介して「私」はかつての生活ぶりを再現することができるのだ。こうした,

物と人との循環的な関係を通じて過去の営みは生活世界の内に「沈澱」していくのだと言うことが できるだろう。多木浩二(1984→2019)が「生きられた家」と呼んだもの,すなわち「そこに住 む主体の経験に同化され,主体を同化した複雑な織テキスト物」(多木 2019:37)としての「家」もまた,

生活に形を与えると同時に,生活者の身体と営みによって織り上げられていく空間のありようを示 すものであった。

 この時,身体と空間との相互依存関係の上に生活が継続されているのであれば,そこは人々にと って“慣れ親しんだ”場所となって立ち現れる。そうではなく,その生活が今の自分自身のもので はなくなっているとしても,物に触れることで,私がすでに身につけている身体図式が呼び起こさ

(23)

れるのであれば,そこは“懐かしい”場所―ノスタルジーの対象―として現前することになる だろう。

 “出来事”の想起と“習慣”の現働化。いずれの回路を経るにせよ,物質的環境はしばしば,今 ここにいる私が実際には経験しなかった時にまで遡って記憶を呼び起こし,その空間が歴史的な持 続のなかにあることを感受させる。この時,生活世界の「先所与性」は,単に先験的な確信である だけでなく,ここが過去とのつながりにおいて意味に充ちた場所であること,時の流れのなかで醸 成された「質感」を備えて私の前に現れていることを示すものとなる。

 しばしば,「空間」と「場所」が概念的に区別され,空間が場所性をもつとはどのようなことな のかが論じられる4。これに対しては様々な答えが可能であるが,そのひとつの含意は,今この時 において主体の前に現前する世界が,一個人の体験の時間的な広がりを超えた「持続性」を表して いることにある。そして,その対極には,この意味での「場所性」をもたない空間,すなわち,現 在時の行為文脈に対する有意性しか示さず,過去とのつながりを感受させない空間のあり方を見る ことができる。

 さて,こうした予備的な考察を挟んでみた時,『千の扉』に語られた「団地」,あるいは「戸山ハ イツ」は,いかなる時間性を備えた場所として現れているだろうか。

 この「団地」は,歴史的な出来事の痕跡をとどめ,それを露出させている場所であると,ひとま ずは言うことができる。居住棟のあいだにそそり立っている「山」(箱根山)は,徳川将軍家から 嫁いだ姫君のために,屋敷の主が造築した庭の一部である。公園内に建てられ石碑や音楽練習場の 跡は,ここがかつて陸軍学校の敷地であったことを伝えている。病院の外壁に残されている「地下 道」の埋め跡は,陸軍病院と軍医学校のあいだをつなぐ通路があったことをほのめかす。全国共通 の設計規格に基づいて建設された「団地」は,地域ごとの伝統から切り離されたモダンな居住空間 を構築してきたのではあるが,決して場所の歴史性をすべて消去してしまったわけではなく,随所 に,過去の出来事を思い起こさせる物質的痕跡を露わにしている(そして今や,「団地」そのもの が歴史的建造物になりつつある)。

 そして,この「団地」に特徴的なことは,歴史を示唆するそれらの物たちが,生活空間の外部に 切り離されて保存されているのではなく,住民の日常的な往来の圏内に散在している点にある。ピ エ ー ル・ ノ ラ(Nora 1984-92) の 言 葉 を 援 用 す れ ば, 歴 史 の 痕 跡 は「 記 憶 の 場(lieux de mémoire)」に分離して保存・展示されるのではなく,日々の生活のなかで目に留まる場所に,い ささか無造作に投げ出されているのである。

4 イーフー・トゥアン『空間の経験』(Tuan 1977)では,「空間」は「自由性」によって,「場所」は「安 全性」によって性格づけられる。「空間」は「広がり」と「運動の可能性」を示し,「自由であるという感 覚」と結びついている。「場所」は「休止」と「慣れ親しみ」の場であり,「保護されている」という感覚 を呼び起こす。

(24)

 しかしそれは,この「団地」が濃密な歴史的意味を充填させた場所として共同的に生きられてい るということではないし,「記憶の集団=環境(milieux de mémore)」として,生活のなかに過去 の経験が浸透し充溢しているというわけでもない。空間内に散在する「痕跡」は,人々に共同的な 想起を可能にするような強い象徴性を帯びてはおらず,日常的にこれと触れる人にとっても,何を 記念しているのか,いかなる出来事を想起させるのかがよく分からないままになっている。もちろ ん,団地の住人たちのなかにも,学習して「箱根山」の由来を知っている人が一定数いるだろうと 思われる。しかし,彼らが徳川時代の大名の暮らしを思いやりながらその景観を眺めるかと言えば,

必ずしもそうではないだろう。

 『千の扉』の登場人物たちの目線に立てば,「一俊」にとって「山」は,「特撮ヒーローもの」

(14)のロケ現場であり,「豹」(48)を連れた黒服の男たちを目撃した地点である。「勝男」は,

戦後間もなく,この団地に越してくる前に,焼け跡に立ち並んだ木造平屋の住宅群の向こうに「山」

を見上げていた(100)。隣室の住人「川井さん」にとっては,「山」は毎年の花見を楽しみにする 場所である(176)。かつてこの団地の広場で「高橋征彦」と再会した「よっちゃん」と呼ばれる 男は,戦時中にこの「山」の斜面で少年たちが「軍事教練」(62)をやっていたことを思い起こし ている。そして,この場所に暮らした過去をもたない「千歳」にとってみれば,そこは団地の敷地 の中心に唐突に現れる不思議なエリアでしかない。

 人物毎に,「山」は別々の出来事を想起させ,別様の意味を帯びたトポスとなっている。時代に 応じて,またこの土地との関わりに応じて,人々はそこに異なる記憶を結びつけ,異質な時間性の なかでこの場所を経験している。言い換えれば,この場所に宿る歴史は,人々にその意味が共有さ れるような象徴としての強度をもちえず,「山」は団地コミュニティの“集合的記憶の結節点”と 言うよりもむしろ,個々の思い出が自由に投影される“フリースペース”のようなものとして立ち 現れている。

 これに比すれば,「陸軍学校」の石碑や「音楽練習所」の跡や,教会と幼稚園の土台にしてはい ささか堅牢すぎる建造物のもつ意味は,相対的に明確なものとしてある。それは,この場所がかつ て軍のものであったことを示している。しかし,それらが日常の空間から切り離されずにあること によって,かえって現在の生活との無縁性が際立っている。音楽練習場の周辺を散歩する家族や,

教会の周辺をジョギングする人々にとって,そこに見えているはずの歴史は,現在の行為との有意 連関をもたない,その限りで“無意味”なしるしでしかない。土地の履歴は,生活空間の内部に露 出しながら,生活世界の意味に関わらない外部性を保っている。

 千歳は,インターネットで得た情報から,かつてここに「陸軍の施設」があったことも「土中か ら人骨が大量に出て」きたことも知っている。しかし,「この場所に実際に暮らして」みると,そ れらの情報や画像をもとに構成されるイメージ5は「誇張されたもの」に感じられると言う(147)。

歴史的出来事の痕跡は,生活者の振る舞いには関わりのないものにとどまり,生活世界の“慣れ親 しみ”の内には収まらない異物として現れている。しかも,その歴史的事実の一部は,調査そのも のが拒絶されたことによって封印され,“真実”として共有されぬままになっている。明らかに見

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山元 孝広(2012):福島-栃木地域における過去約30万年間のテフラの再記載と定量化 山元 孝広 (2013):栃木-茨城地域における過去約30