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近世後期の村社会と「村用」 : 『家』と『村』と 村落行政

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(1)

村落行政

著者 米崎 清実

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 48

ページ 22‑48

発行年 1996‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011213

(2)

はじめに近年、行政あるいは公共性などをキイワードとして近世後期及び近世から近代移行期の村落論が様変わりしつつあ(1)る。それは、従来提一不されていた近世の村落支配の特質である村請制や村役人の機能や性格を、当該時期の村落や農民の視座から意味づけ直そうとする研究である。さて、近世後期から近代移行期の社会構造を説明した世(2)直し状況論では、政治行政的な村落よりも、経済的な「豪農」分析に関心が払われていた。幕藩制国家の村落支配の特質である村請制論をふまえた幕藩制国家解体期の村落研(3)究においても、農民闘争の質をいわゆる社会経済的な視点から検討することや支配の特質を村落共同体との関わりで検討することに主な関心が向けられた。近世初期の畿内を 法政史学第四十八号

近世後期の村社会と「村用」

『家』と『村』と村落行政I

(4)対象に、村請制の形成過程を論トレた研究の中で、村落や農民に視座を置くことの意義が提起される一方、近世後期においては、幕領における支配構造の実態の検討から始まつ(5)(6)た組〈ロ村や政治的中間層などの研究が活発になると、近代(7)史からの地方行政制度の宙行検討の動向に呼応するように、近世から近代移行期の行政や公共性に関心が向けられるようになった。その背景には、従来の社会経済史的観点から地域秩序や社会的結合関係及び集合心性に関する観点へという変化があることは言うまでもなかろう。このような研(8)究動向は、近年、民衆運動Ⅱ代議制の研究や、情報Ⅱ文書(9).(Ⅲ)(Ⅲ)管理、由緒をめ〈、ろ研究、村の象徴性などの研究へと展開している。小稿では、以上のような研究史をふまえて、近世後期の

米崎情実

(3)

村方文書に散見される「村用」という文言をキイワードとして近世後期の村社会をスケッチしてみたい。その際、以下の点に留意したい。(皿)近年の近世後期の村請制の見直しは、村方出入りや村人(旧)(M)用、文書管理など公的な村政関係を中、心に進め》われてきている。小稿では、社会関係の基礎である『家』に注目したい。従来、近世史研究では、社会組織の基盤である『家』は、社会構成体の下部構造という社会経済史的観点からの(旧)研究蓄積が大きい。そこでの村落はおのずと経済的な分析概念を抽出する場という位置にあった。身分制に関する研究動向の中から、『家』を幕藩制国家の身分制度との関連(旧)で研究した成果が生まれたが、そこでの関、心が幕藩制国家の特質解明に向けられていたため、近世後期に至っても解(Ⅳ)体することのない村落固有の1輌理及びそれを村落行政との関わりの中から導き出すことが深められることはなかった。言うまでもなく『家』は、近代国民国家編成の基盤に(旧)なる》つえからも重要な検討要素である。村落行政を社会的結合関係の観点から検討する場合、このような『家』というファクターを視野に入れて検討することが必要である。また、そのような検討は、同時に領主支配を担う村からは相(円)対的に自律している『村』社今云の動向も検討しなければな

近世後期の村社会と「村用」(米崎) 本節では、近世村方文書における「村用」という文言の特徴を見いだすと共に、「村用」の意味するところを検討してみたい。まず、「村用」という文言が見いだせる史料をまとめてみよう(第1表)。この表は、武蔵国多摩郡における「村用」文言の見える史料を管見の限りまとめめたものであるが、いくつかの傾向を読み取れる。まず第一に、年代的特徴である。この表では享保一五二七三○)年の史料が古いものである。下(別)野国都賀郡においては一兀禄年間、甲斐国都留郡においては(皿)宝、水年間の史料に記されていることが確認できる。しかし、ほとんどが近世後期の史料であるということである。第二に、幕府からの通達に記されているものは、この表の らないであろう。そこで、小稿では、まず、身分制的な観点から近世後期の村政の変化を具体的に明らかにしたい。次に、近世後期の社会状況とそれに対する『家』、『村』、(別)領主支配を担う村という一二者の関係性の中から村落行政の意義について考えてみたい。その際、村役人(特に名主)と小前百姓との社会意識についても触れることになろう。

村方文書における「村用」について

(4)

第1表武蔵国多摩郡における「村用」史料一覧

法政史学第四十八号

NOL 年代 内容 出典

123456789Ⅲ

23456789012345678901234511111111222222222,2333333

享保15年12月 宝暦4年閏2月 安永9年4月 文化9年6月7日 文化11年2月 文化13年4月7日 文政3年4月 文政5年9月21日 文政8年4月11日 文政12年4月22日 天保2年正月25日 天保6年3月12日 天保7年5月 天保8年4月 天保14年7月 嘉永5年2月 嘉永5年3月晦日 嘉永6年5月8日 安政2年3月 安政3年6月 万延元年6月 万延元年7月 文久2年3月22日 文久3年6月 慶応2年 慶応2年 慶応3年3月 慶応3年12月11日 明治2年6月 明治2年11月 明治3年11月 明治3年12月4日 明治3年12月 明治4年10月27日 明治5年8月

惣百姓連印覚書 百姓組替え証文

普請人足差出万二付詫証文 農業不精百姓詫証文 組頭役頼み証文 旗本勝手賄役御免願書控 年寄役勤方二付証文 帳外人跡株相続二付願書

名主取り決め二付故障出入り願書控 分村出入り二付願書

名主役儀出入り二付済口証文控 身持不埒百姓跡式二付証文 不法百姓吟味下願書下書 救h、金取り集め出入り二付願書写 地押不法出入り訴状控

年寄跡役差し純れ出入り二付願書写 年寄跡役二付願書

村役差支出入り済口証文写 名主・年寄交代願書 名主跡役二付願書 名主跡役二付頼み証文 跡式養子相続二付議定書 名主跡役願書

名主兼帯願書控 名主跡役二付願書

打ち壊し一件二付村役人帰村願書控 組分け出入り二付願書写

組分け出入り内済二付議定書 名主跡役引き受け二付百姓請証文 肥代金拝借金願い却下二付村々議定書写 村役人取り決め議定書

村役人跡役取り決め二付願書 村役人跡役取り決め二付願書 村役人跡役取り決め二付願書 戸長・刷り戸長取り決め二付議定書写

『小金井市誌」第Ⅲ巻122頁

『日野市史史料集」近世223頁

『日野市史史料集」近世3441頁 吉野禎次家文書

『日野市史史料集」近世228頁 国立史料館所蔵富沢家文書356号文書

『奥多摩町史料集』第4号19頁

『武蔵野市史」続資料編7142頁

『調布の近世史料』上168頁

『武蔵野市史」資料編271頁

『調布の近世史料」上175頁 吉野禎次家文書

吉野禎次家文書

『武蔵野市史」資料編316頁

『昭島市史」附編419頁

『武蔵野市史」資料編276頁

『武蔵野市史」資料編282頁

『昭島市史』附編428頁

『福生市史資料編」近世1166頁

「奥多摩町史料集」第4号31頁

「田無市史』第1巻246頁

『日野市史史料集」近世215頁

『調布の近世史料」上111頁

『福生市史資料編」近世1169頁

『奥多摩町史料集」第4号33頁

『福生市史資料編」近世1272頁

『武蔵野市史」続資料編4158頁

「武蔵野市史」続資料編4167頁

『[11無市史」第2巻78頁

『武蔵野市史」続資料編6241頁

「武蔵野市史」資料編139頁

『武蔵野市史」続資料編3206頁

「武蔵野市史」続資料編3207頁

「武蔵野市史」続資料編3209頁

「武蔵野市史」資料編450頁

(5)

中では享保一五(一七三○)年の一点のみで、いずれも村落で作成された文書に使用されていることである。このことは、村落が主体となって意味づけられ、使用された文言であることをうかがわせる。第一一一に、内容としては、名主や村役人の跡役取り決めの史料に多用されている。また、村役人の役儀に関わる村方出入り(ⅢⅡ。u・胆・肥・別)や組分け(Ⅲm・町・肥)に関する史料にも用いられている。いずれにしても村請制を運営する村政に関する史料に多用されているといえる。その他の内容として小前百姓との関わりのある史料(Ⅲ2.3.4.8.,・田)にも見ることができる。では、「村用」とはいかなる内容であろうか。いくつか例示をしてみよう。まず、次に掲げるのは、管見の限りで、武蔵国多摩郡に(羽)おいて最も早い時期の文書である。八史料1V|御公用は不及申、村用共一一名主御指図次第、無滞遅急度相勤可申候、井村入用出銭丼定夫人足等相定之通無滞相勤可申候この史料は、武蔵野新田の開発によって生まれた新田村落において、代官からの通達を請けた小前百姓の連印帳に

近世後期の村社会と「村用」(米崎) 記載されている二ケ条の中の一条である。この条文では、「村用」は名主が指図し、小前百姓が「御公用」と並んで勤めなければならないものであることが通達されている。次に、村役人との関わりを示す史料を掲げよう。八史料2V乍恐以書付奉願上候武州羽村一件之内追而被召出候村役人其外一同左之名前之者共奉申上候、右一件御吟味中之処、先達而御吟味之上御呼寄被仰付候役人共方銘々始末書差上、追而御沙汰之旨被仰渡差控罷在、然ル処当節御用・村用多端之折柄、村役人共村々人少、秀々殊二秋成御上納取立実二村方難渋罷在候趣申越し、御吟味中奉恐入候得共、追而御呼寄被仰付、始末奉差上候村役人共者先般差添として出府罷在候者共二面代兼卿無差支可仕、尤御用之節御沙汰次第何時成とも可罷在候間、何卒以御慈悲前書被為聞召訳、差添人一一而代兼引受御聞済之上追而被召出候役人共者帰村被仰付被下置度奉願上候、以上江川太郎左衛門御代官所武州多摩郡羽村帰村願人名主与一右衛門

(6)

当病二付当日代兼代兼引受人名主源兵衛(後略)(別)この史料は、いわゆる慶応二年武州世直し一摸の後、村内の百姓が逮捕されたため、吟味のために江戸詰めを強いられた村役人の帰村願いの写である。ここでは、村役人が在村していないと、「御用・村用多端之折柄」、村内で難渋を生じるとされている。村役人は「村用」を扱う役務を負っていることが確認される。さらに、ここでは、村役人が「村用」を扱う役務を負っている存在として村内部での社会意識も形成されていることをうかがうことができる。次に、小前百姓との関わりを示す史料を掲げよう。八史料3V乍恐以書付奉願上候武州多摩郡駒木野村名主卯兵衛、下師岡村名主千右衛門一同奉申上候、同郡黒沢村百姓善兵衛忰丑松儀、去月廿六日夜同人組合伊兵衛方江罷越、利不尽およひ候始末、且又百姓重兵衛儀、平日農業を嫌ひ、身持不宜、御年貢不納或者親万右衛門病死之節葬式買物代金等組合一一而立替置候分不相払、芳右両人共常々我意不法相募候二付、其儘難捨置、組合村役人御訴奉申上侯 法政史学第四十八号

処、当人共御召出之上両人共御吟味中手鎖宿御預ケ被仰付、重々奉恐入、両人共相慎罷在、此上御吟味奉請、何様可被仰付も難計、昼夜寝食を忘レ、相歎罷在、相槌御慈悲奉願上呉候様相歎候二付、当人共心底篤与承糺候処、是迄大酒を好、農業を怠り、不行跡仕候段先非後悔至極仕候間、以来之儀ハ禁酒仕、農業専一二相励、村役人・組合共申聞逸々相用ひ、御公用者勿論村用急度相勤、且又重兵衛方御年貢其外組合一一而立替置候分帰村之上早々調達仕、差出、其余村役人方江詫一札差出、向後急度改心可仕候旨相歎候間、何卒格別之以御慈悲御吟味是迄一一而御下ケ被成下置候様、右村役人・組合一同連印を以御慈悲奉願上候、以上武州多摩郡黒沢村天保七申年五月駒木野村名主卯兵衛下師岡村名主千右衛門(以下略)(閲)この史料は、理不尽な行為をした二人の百姓が吟味を請け、手鎖宿預けとなった一件の吟味下げ願い下書きである。下書きであるためか宛名は記されていない。ここでい |ニハ

(7)

う理不尽な行為とは、一人については明確ではないが、いま一人は、平日農業を嫌い、身持ちが悪いこと、さらに、年貢も納めず、親の葬式の際の買い物代金などを払わないことが掲げられている。そして、これら二人が改心することと引き替えに、吟味を下げてもらえるよう願い出ているのである。ここでは、改心する内容の中に「村用」という文言が現れている。今後、禁酒し、農業専一に励み、村役人や組合の言うことをよく守り、「御公用」は勿論のこと「村用」も必ず勤める。さらに、年貢など立て替え払いを請けている分は早速返済し、村役人に詫証文を提出する、というのである。「村用」とは、本来、小前百姓が勤めなければならない義務であることがわかる。さらに、ここでは「村用」の義務を小前百姓が社会意識として自覚しなければならない内容となっていることにも注目したい。さて、表として掲げた中には、このような小前百姓と「村用」との関わりを示す史料の数は、村役人と「村用」との関わりを示す史料と比較して少ない。しかし、後述するように、近世後期の村落において、かなり一般的に作成されている史料とみられるものである。このことは、これら史料が、村方出入りや村役人改選関係の史料と比較して

近世後期の村社会と「村用」(米崎) 自治体史編纂の中でもあまり顧みられなかったために、所収されることが少なかったことに因るのではないだろうか。それは、従来、研究の対象とはならず、その位置づけが近年にいたるまでほとんどなされなかったからとも考えることができよう。最後に村政との関わりを示す史料を示そう。八史料4V連判一札之事一当村之儀者、上下弐組二相分り、御用・村用共隔番一一相勤来り候処、去ル廿五ケ年以前午年新屋鋪小前九拾三人ら組分ヶ願致し、既二及出入、隣村役人井下組役人取扱――て、新屋敷御年貢之義者、組頭一一而取集、名主方江相納候筈、其外之義へ前々仕来之通諸事名主取計、是迄村方平和二治り候処、此度新屋鋪九拾三人之内中組名主方江御年貢納度段願出候一一付、去ル午年規定書茂有之儀二付、先前之通致し度段、役人・年寄・小前一同相談之上連印を以取極申候、然ル上へ右一件出入二相成候共諸入用之義ハ無差支差出可申候、依之一同連判致し候処、如件文政五年午十一月九兵衛⑳(以下連印略)

(8)

(配)この史料は、|村内での組分けに関する史料である。この中で、当村(甲斐国都留郡下吉田村)では、従来、上下二組に分かれ、「御用・村用」を隔番で勤めてきたとされている。つまり、「村用」とは、隔番などのように、負担すべき手段を制度的に取り決めることのできる内容であり、儀礼的行為や互酬的関係の行為とは異質のものであったことがわかる。以上のように、「村用」とは「御用」とともに、村役人からの指示によって百姓が勤めなければならない村あるい(幻)は『村』に関する行政上の負担であいソ、近世後期には村役人も小前百姓も意識的に自覚していたものであった。

二名主『家』と「村用」

(泥)本節では、名主『家』と「村用」との関わりについて具体的に見ていくことにする。武蔵国多摩郡蓮光寺村の名主富沢魯平によって筆録され(油)た文政七(’八二四)年の役用日記の冒頭には、「御用向井村用の覚」と記されている。この役用日記が「御用」と「村用」を書き留めたものであるというのである。このような役用日記について、従来、「今日の役場の帳簿類に当たるもの」として、「筆まめな村役人(特に名 法政史学第四十八号

(加)主)がその仕事を日記風に書いて後日の参考とするもの」であると位置づけられてきた。また、日記は村落内部のヴィヴィッドな様子や社会意識をうかがうことのできる史料として重要視されつつも、ほとんどが日記の中の記載事項にのみ関心が払われ、日記はそれら別の関心事の素材収集の場として扱われるに過ぎなかった。しかし、近年では、日記それ自体が、近世後期の村社会が獲得した村役人の行政的職務遂行の表象であり、歴史意識の反映であった、と日記が存在することの持つ意味について視点が向け(引)られている。実際、武蔵国多摩郡においてみb、名主役を勤めた『家』だけに限っても、七ケ村の名主『家』で近世後(犯)期において役用日記が筆録されているのである(第2表)。この中でも富沢家の日記からは興味深い事例を見いだすことができる。そこで、ここでは、近年の指摘をふまえ、富沢家において役用日記と名主の役務とがどのように関連していたのか具体的に明らかにし、名主の社会意識とその変化をうかがうことにしよう。(羽)さて、一邑沢家は、近世初頭以来ほぼ一貫して蓮光寺村の名主を勤めている。また、文政一○(一八二七)年に設置された改革組合村の大惣代、日野宿助郷組合の助郷惣代などを勤めている地域社会運営者の一人である。この富沢家

(9)

第2表武蔵国多摩郡における名主の役用日記 記に類するものとして、廻状の写し帳や御用留、上意下達 一二九○八)年まで九五冊の日記が残存する。また、日 には、管見の限りでは、文化九二八一一一)年から明治四

近世後期の村社会と「村用」(米崎)

伊奈村歳中日局

小野路村二百 寄場名主

註:柴崎村名主日記は立川市教育委員会、中神村名主日記は昭島市教育委員会よ り刊行されている。伊奈村名主日記は福生市教育委員会より-部が刊行され ている。小野路村名主日記は小島日記研究会より-部が刊行されている。熊 川村名主日記は多仁照廣編「石川酒造文書』に所収されている。

の請書及び下意上進の控帳簿などが残存している。富沢家文書の近世後期から明治期までの日記をまとめたのが第3表である。これら日記は、富沢魯平、準平という二代にわたって書き継がれたものである。筆録者の交代が何時か確認はとれていない。しかし、魯平の死没が安政四(一八五七)年であること、また、弘化二(’八四五)年の(弧)「公私日用雑記」は魯平が筆録していることか》わ、後述する役用日記の諸段階と筆録者の交代との関連はみていない。まず、初めに形態上では、文化九(’八一二)年と文化一○(’八一三)年の日記以外すべて堅の形態をとっている。次に、表題では、天保一四(一八四三)年までは「用留」、それ以降は「日記」という文言が多く使われいる。また、天保中ごろまでは「年中掛合」「自他掛合」「諸向掛合」などのように「掛合」という文言が多いのに対し、それ以降は「公私」という文言や干支を記したものが多く見られるようになる。日記は、基本的に一年につき一冊という形で記述されている。また、本文ではひとつ書きの形式をとっている。そして、天保後期までは毎日の記述がなく、天候の記載も見られないものの、記載された場合の一日あたりの内容が詳細になっており、願書なども写されていることもある。

村名 主な表題 筆録された時期 備考

柴崎村 公私日記 天保~安政 小惣代、大惣代

中神村 諸用日記控 文政~天保

熊llI村 公私附込之日記 天明、文政~天保、慶応

福生村 御用日記

年中行事日記 日記

文化~天保 文政~元治 天保~明治

大惣代

伊奈村 歳中日記 嘉永~明治

蓮光寺村 公私用留 御用留日記

文化~明治 大惣代

小野路村 日記 天保~大正 寄場名主

(10)

第3表富沢家(本家)における役用日記一覧 には領主支配や村政関係の記載が豊富に見られる。 強い。それに対して、文化二(一八一四)年以降の日記 見られない。それゆえ、筆録した魯平の私日記的な性格が び文化一○(一八一三)年の日記は、村政に関する情報が 記載内容について見ていこう。文化九(’八一二)年及

大堰普

年代,

法政史学第四十八号

泗十諸控掛掛懸席掛掛掛犀事搦事掛掛掛描斥詫斥薑斥犀斥氏氏留私鞘日日序日日盛空化戌用中他他諸他他年事留合向合中向向向向中私用私私私私私用用用私私御私酉田、文尹渚牢自自一反自自千万羽懸渚遜牢渚渚渚渚牢公渚公公公公公卿御日公公未公乙御 日託事事詫帖事事事広亭外事事事事斥砿空白年鞠一一節帖託一一証訂型弓脹合合台座合合合留渚合其合合ムロ合留句留留留句留留留用記用祈留斬新円 ○○○’○○○◎。◎。◎。◎。◎。◎。◎。◎。弔畠畠雷

箔用諸諸 箔弔一笛弔弔諾

【】弓J1nN]【】 明且甲且甲甲弔電 閣外畠外畠畠詔 畠留土明壬 △△△△△△八一八

1-】 では、さらに記載内容の変化について見ていこう。そのためには、やはり記載内容の中からいくつかの事項について注目する必要がある。ここでは、大堰普請と塞神の記述に注目してみよう。大堰普請は、毎年三月中旬に実施される蓮光寺村で最も

「】円〃00【M円】『】 ○’○△○○×○○○○○○○ △○○×○○○○○○ 。|○

○○○○○

JlIllUJL

年代 表題 日次 天候 大堰普請 塞神

(11)

大規模な事業である。そして、人足扶持米が領主から毎年(弱)二一俵づつ下賜されている。では、大堰普請は、どのように名主の役職と関わる行事であったのであろうか。八史料5V 帳帳帳帳帳帳記記帳帳記記帳記記□記帳帳帳記紀記紀記覚日日記記新新記記記新日□新記記紀日日日日日記私私日日日日新日日日留□日日日日留留留留留日公公留留留留日留留亥用丑寅卯辰巳用用用用用亥子丑用用用用私用用辛御癸甲乙丙丁御御御御御癸甲乙御御御御公御御4567234567223元223元2345延久治応治万文元慶明 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ ○○○○○○○○○○’’○’○○’○○’○

近世後期の村社会と「村用」(米崎) ○○○

史へ右組相三 料辿之頭始月 は趣共メ廿

、御万不二 蓮屋事申日

奎勢等匿名

村も差藤主

呈禦毒右罷 け紙之衛農

辮:震 に仰申問農

Difi摂懸

出付而請

人、も未

典拠:富沢家文書(国立史料館所蔵)

Nul504,2044,2048,2049,2050,2376 註l:年代及び表題は原史料のとおりとした。

2:日次及び天候の項目中

○は基本的に毎日記されているもの

△は部分的に毎日の記載が見られるもの

×は毎日の記載かないもの 3:大堰普請の項目中

○は記載の見られるもの

◎は詳細な記載の見られるもの

-は記載の見られないもの 4:塞神の項目中

○は記載の見られるもの

-は記載の見られないもの

(12)

りの際の書留に記載されている事項である。すなわち、領主の取り調べのため、名主が出府中、大堰普請の時期に当たり、普請が始められないことを組頭が出府して名主に伝えたところ、名主が留守でも組頭などの取り計らいにより普請を実施するよう名主及び領主からも申し伝えているのである。ここでは、名主が大堰普請の実施にとって重要な役割りをもっていたことがうかがえる。当然、領主からの人足扶持米の村内での割り振りも重要な役割りではあった。八史料6V一同日、宗左衛門占去亥年大堰人足賃銭として壱両御地頭様ら被下置候分、右之内引残三貫文受取申候、尤宗左衛門・甚五郎勤分右一一而相渡し申候、奥右衛門占右ヲ村人足勤高二而割渡、帳面江印形取呉候様申来、承知致取置申候(師)この史料は、前年の文化一二(’八一五)年に名主役を勤めていた宗左衛門(富沢分家)が領主より受け取った大堰普請人足賃銭の残額を今年(文化一三年)から名主役に復帰した富沢本家方が受け取り、割り振り処理を進めていることがわかるものである。大堰普請は蓮光寺村の生産・生活に関わる行事でありな 法政史学第四十八号

がら、名主の役職と密接に関わる事項だったのである。このような大堰普請に関する記述は、文化期から見られるが、文政期の半ばまでは「大堰普請いたし候」などのように記述が極めて簡潔なものとなっている。しかし、それ以降天保後期までは、大堰普請を勤める百姓名まで記載されるように、内容は詳細なものに変化する。しかし、一時期安政期に大堰普請の記載は復活するものの、天保期以降、その記述は見られなくなる。|方、塞神とは小正月に行われる道祖神祭礼のことで、無病息災を願う村人の祭礼である。それゆえ、大堰普請とは対照的に領主との関連をほとんど考えなくてもよい民俗儀礼といえる。この塞神に関する日記の記述は、簡潔なものであるが、天保後期に始まり、弘化期から安政期にかけて毎年記載されるようになる。幕末期から明治期にかけて、記載の無い年もあるが、記載そのものは消滅しないようである。しかも、塞神に関する日記の記述は、ほぼ日記の形態が日次的になった時期と一致している。以上、富沢家文書の日記の形態上、内容上の推移を見てきたわけであるが、御用留や控帳簿類などを中心とする行政管理から次第に役用日記が生まれ、さらに日次的な日記へと変化していく過程をうかがうことができる。これを段

--

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階的にとらえると、次のように考えることができよう。第一期…役用日記そのものの筆録が始まらない時期(文化一○年まで)第二期…名主の役務に関連した内容が第一義的だが、役用日記の筆録が始まる時期(天保後期まで)第三期…役用日記の内容が日次的なものとなり、簡潔ながらも村落生活全般の日常的な事項まで網羅するようになる時期(天保後期以降)このような役用日記の変遷は、蓮光寺村における村方出(犯)入りの変遷と密接に関連している。蓮光寺村では、近世初期からほぼ一貫して名主役を勤めてきた富沢本家と領主である旗本天野氏を後ろ盾とした富沢分家との間で、寛政期から安政期まで村方出入りが生じている。この村方出入りの過程で、文化八(一八二)年から文化一二(一八一五)年まで、天保一二(一八四一)年から天保一四(一八四三)年まで、弘化一一(一八四五)年から安政五(’八五八)年にかけて、たびたび富沢本家は名主役から退いているのである。富沢家における役用日記の筆録開始は、まさに、村方出入りによって初めて名主役から退いた後に、名主役に復帰する時期と重なる。さらに、役用日記が日常的な内容にま

近世後期の村社会と「村用」(米崎) で及ぶ時期は、蓮光寺村における村方出入りが小前百姓を巻き込み、村内を二分し、幕末期まで継続化する時期とほぼ重なるのである。では、「御用向井村用の覚」という役用日記が記される(羽)ようになった名主役の性格について、一邑沢本家と分家の相反する動向を村方出入りの過程の中から紹介しよう。八史料7V入置申議定一札之事一御年始御出府御留守中、御水帳面番壱人シ、夜番可致事一御皆済御出府之節、御留守中、御水帳面番壱人シ、夜番可致候、尤小前順番之事一公事訴訟井諸願等之節、宿掛り之儀者一日四百文積り、尤腰掛入用之儀別段可差出し可申候事一御上様占手鎖井宿預ケ之儀者何れ成共小前方順々一一差添人可罷出取極申候、尤人用等者当人方可差出候事一御年貢、諸役銭、村入用井触当候品日限通り急度相納可申候一御屋敷様江相納候餅草、糠芽井御錺道具、杭木諸色之儀、御役人ハ相除候而、御触当通り無相違差出し

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ノ可申候事一郷御蔵垣詰之儀、馬引沢・諏訪坂井下河原一一而格番一一相勤可申候事一郷御蔵番、御年貢米取立蔵人候節者、小前順番二無油断相勤可申候事一御錺御伝馬之儀者、本村・馬引沢・下河原一一而格番二相勤可申候事一二月奉公人出替之節者、引越候迄御水帳為番名主方江定使、夜番可致候事一御役人中井百姓代御立合御相談之上可成儀者御取極メ被下候事、小前方二而決而相背申問敷候事一本村氏神掃除之儀者、氏子一一而一ケ月壱軒宛之順番一一相勤可致、尤九月祭礼之節者、前日氏子中罷出、諸事可取計候事一死馬捨場之儀者、御屋敷加き畑ケ荒所へ取捨之積り、又赤坂之久保江取捨候筈、小前相談之上取極候事、尤代地者元捨場八幡台一一而割取候地所者本村之事一大堰普請之儀者、本村・馬引沢・諏訪坂不残罷出、普請可致候事一本村火之番人相抱候節者、本村二而順々一一扶持可致、尤馬引沢・諏訪坂・下河原一一而者別段扶持米井 法政史学第四十八号

味噌代共可差出候、猶又寒中夜食扶持之義者、村方不残番人相廻り侯節、相対一一而心付遣可申候事右之趣村方不残打寄、得与相談之上一一而取極申候上へ柳申分無御座候、万一已来滞申者御座候ハ、、何様二被仰立共一言之申訳仕間敷候、為後日惣百姓相談之上連印仕置候処、佃而如件天保十二辛年丑七月(以下連印略)(㈹)この史料は、天保一二(一八四一)年、富沢分家が名主役に就任した際に、村内小前百姓との間で取り交わした議定書である。一五ケ条にわたる内容は、いずれも村内小前百姓が勤めるべき事項である。この中には、領主からの負担だけでなく、村請制運営に関わる負担や氏神の掃除や祭礼の運営のように領主支配とは関わりのない事項まで含まれている。さて、これとほぼ同じ内容の議定書が文化九(’八一(岨)二)年にも作成されている。両者ともに、{畠沢分家が名主役に就任した直後に作成されているのである。一方、これと同様の文書を富沢本家の文書群に見いだすことはできない。すなわち、新たに名主に就任した富沢分家は、議定書という形で小前百姓の勤めるべき役負担の保証を取りつけ

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ること無しには、名主の役職を遂行できなかったのである。富沢分家の名主役としての正統性は蓮光寺村において生まれておらず、その正当性は小前百姓との議定書でしか得ることができなかったのである。(妃)一方、次に掲げる史料は、一邑沢本家と蓮光寺村の隣村坂浜村名主が領主天野氏へ提出した願書控である。八史料8V乍恐以書付奉申上候武州多摩郡坂浜村郡司・蓮光寺村忠右衛門一同奉申上候、此殿御勝手御賄方之儀此右衛門殿方御断相成候一一付、私共両人罷出月々御賄方被仰付奉畏候得共、私共御勝手江相詰居候而者外御用向井村用等差支、難渋至極奉存候間、御雑用之儀者御定通御差支無之様取計可申候間、何卒御手賄一一成共被遊度奉願上候、勿論折々私共罷出御相談可申上候間、御勝手詰之儀者御免被成下度、此度御聞済奉願上候、以上文化十三子年御知行所四月七日蓮光寺村名主忠右衛門坂浜村天野孫左衛門名主冨水郡司

近世後期の村社会と「村用」(米崎) 御役人中様富沢忠右衛門と冨永郡司が旗本天野氏から勝手賄い方を依頼されたことに対し、勝手賄いを引き受けては、勝手へ詰めなければならず、「外御用向」きと「村用」とに差し支えが生じるという理由で、その就任を断っているのである。つまり、近世初期から名主役を勤めており、その正当性と正統性を持っている富沢本家にとってさえ、領主天野氏の「御用」は、村が負担すべきさまざまな「御用」の一部でしかなく、さらに、名主というものは「村用」をかえりみる役職であることを述べているのである。このことは、近世初期以来の名主役を勤めてきた富沢本家でさえ、名主役が「村用」に拘束されるべき役職であるという社会意識が生じていることをうかがわせるものといえる。このような社会意識の形成こそが、役用日記を記す契機となっていたといえよう。一方、このことは、同時に村落行政の限界をも示していることにも留意しなければならない。すなわち、名主自身の「御用」と「村用」を勤めるという社会意識は、家職から生ずる意識だったと考えることができるのである。逆に言うなれば、「村用」とは、「御用」と並んで名主『家』の家職意識に依拠した近世後期固有の村落行政を象徴的に示

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(“)本節では、小前百姓と「村用」との関わりについて、‐とりわけ、小前百姓の『家』が「村用」を意識する背景には、村内部でいかなる社会状況が出現していたのか、検討していきたい。改めて、小前百姓と「村用」に関する代表的な史料を掲げることにしよう。八史料9V|札之事私儀農業不精一一いたし甚以身不正二而、度々御異見被差加候へ共、不得止事、農業怠身不正一一付、此度厳敷心底可相改旨厚御理解被御申渡、自得仕候、已来農業専一相励、旦雇稼等二罷出候二も村内井隣村を限り、遠方江決而罷出不申御公用・村用御差支一一不相成様可仕候、且又御役人中御申付候儀何一一而茂相背間敷候、依之心底相改之一札差出申所、如件文化九申年六月七日下師岡村当人七左衛門⑳五人組嘉兵衛⑳ (佃)す文一一一三といえよう。

三小前百姓の『家』と「村用」 法政史学第四十八号

名主千右衛門外村役人中(妬)この史料は、下師岡村百姓七左衛門が「農業不精」と「身不正」を名主と村役人に詫びている証文である。七左衛門は、今後、「農業専苣に励み、旦雇稼ぎも村内及び隣村に限り、「御公用・村用」を差し支えなく勤めることを約束している。さて、七左衛門がこの証文を作成する契機になった行為は、「農業不精」と「身不正」である。ここからは農業不精や身不正がいかなる行為なのか明らかではないが、少なくとも約束している内容とは逆の内容、つまり、農業に励まず、稼ぎも村内及び隣村に限らず、「御公用・村用」を勤めなかったことはわかる。ところで、このような農業不精を約束している詫証文は近世後期には頻繁に作成されている。第4表は、管見の限りで、武蔵国多摩郡下師岡村及び新田の百姓が作成した詫証文の一覧である。ここで注目される点は、まず第一に、|村で四三通もの

同同同 一一一一ハ

佐兵衛⑳幸右衛門⑳次郎助⑳

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詫証文が作成されているということである。しかも、寛政期以降の近世後期に集中している。詫証文が近世後期の村落において一般的に作成される文書であると見ることができる。第二に、詫証文の宛名がすべて村役人になっていることである。これらの中には、当事者が村役人に対する不法行為を働いているように、村役人が詫証文の対象者と見られるケースであったり、関東取締出役による吟味を受けているなど村役人が領主支配の媒介として機能していると考えられるケースもある。しかし、それ以外のケースの方がむしろ多いようである。このことは、村役人が詫証文の作成にとって必要不可欠な存在であることを示している。第三は、詫証文を作成する理由である。そもそも詫証文には、作成されるべき「民事的」あるいは「刑事的」な理由がある。しかし、史料として掲げたようにその理由が明確に記されていないものもある。そして、表を見ていくと、時代を下るに従って前者から後者の割合が大きくなる(㈹)傾向をうかがうことできるのである。このことは、村落にとって詫証文を作成する意義が、百姓の行為によるいわば一つの事件に対するものから、百姓の日常的な生活態度や規範に対するものへと次第に変化していていることをうが

近世後期の村社会と「村用」(米崎) がわせる。さて、このような詫証文と関連するものに旧離勘当願いがある。実際、下師岡村で「平日大酒を好、農業不精一一いたし、其上度々悪敷風聞等有之」として、文政五(’八二二)年五月七日に詫証文を作成した武右衛門については、その前日に旧離帳付願いが作成されている。また、天保期にたびたび詫証文を作成している孫八の場合にも旧離帳付願いが作成されている。では、このような旧離帳付願いの一例を示そう。八史料ⅥV差上申一札之事私忰忠次郎当寅廿三歳二罷成候処、平日大酒を好、昼夜二不限遊行、無益之金銭を遣捨、身持不宜、追日不埒増長可致も難計、安心不仕候問、此度御訴被下、旧離勘当御帳附二相成候様御願可被下候、右之者往々如何様二相成候共御恨無御座候、且右二付路用雑用等相懸候共無差支出銭可致候、依之親類・組合加印之一札差上申所、如件下師岡村文化十五寅年三月願人左平次⑳親類小平次⑳

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出替田朴鰍図十くロID 第4表下師岡村における詫証文一覧 11|<

匝斥;と□言命0

【艮刀、 ̄」と梢

弓主・村假_Ⅱ悴01ローI]

F7個

鼠奴9.10.|冶右侭肛門・茂右衛門・半蔵’二辱日明福]祭

又イr:7-lu。IFWワFRB厘宿1臣■

叉化7-lU受容副』新田村獲人MIB:生(力腿堅』ヨU・仁IqtF灰RUヒエ宿

ゾゴー一七=fZBLUXJ1r;9-t

更-F弓’三取り途中にて酒を欲‘x4rl4-b

更序諏頁縁の際酒給0弓ノロ慣

-17(・7匹

呂主・村投XlEY6-4-IN 又政6.10.10’(文右衝、'可=一七=FTJl四イヤイ窪イIF申し合い0

ZtY8、上r8

ZlMZlU

Zi主・村假1台村内皐

硯類・組合・村役人|平日身椙=Z石;7百

「JlFnUjJlJJJl

甚身持悪〈、農業営み申さず、不孝・道普請村一同にも出会申さず届け出もせず家作始め、家作地所前々の場所と引違い酒粭のうえ不法行為女房と口論のうえ両親より|日離帳付願出権太郎娘かつと密通新右衛門と密通村内家出人一宿いたさせ春日明神祭礼獅子舞村役人井若衆中へも相談無く稽古風斗取登せ度々家出娘誘引き出し一件の際疑請け娘誘引き出し一件の際疑請け農業不精にいたし甚身不正女子引き取り途中にて酒を飲み、遅刻女房復縁の際酒給のうえ不行跡平日大酒を好み、農業不精いたし、度々悪しき風聞有之大酒を好み酒代返金延引酒代金催促のところ、押し合いのうえ金子紛失、村役人に不当の挨拶小商い小屋土壁破られ五兵衛持小家打ち破られ-件に疑心掛けられ預かり金子持参のうえ家出平日大酒いたし、とかく組合村内事立を好み平日農業不精いたし、昼夜遊歩行、妻子養方手当ても不行届き平日身持ち不宜、昼夜遊歩行、農業不精 年代作成者宛名作成理由 Hosei University Repository

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農業不精、御用の際の呼び出しにも不参人別調印の際、酒給のため御用差支え長谷部新田より相手取られ出訴届けを請け伜心得違い-件につき組合井村内へ相談無く、自分の存意にて他村へ印書差出無沙汰に他行し、帰らず文右衛門家事不取り締まりより文右衛門女房と半兵衛と悪しき風聞有之農業を嫌い、不行跡募り身持ち不宜、取締出役廻村まで村預け申し付けられ農業を怠り、身持ち不宜、取締出役廻村まで村預け申し付けられ身持ち不宜、取締出役より召出され忰徳次郎一件にて自分の存意から疑心かけられ平日不行跡にて、風聞不宜平日農業不精にいたし、所持の畑荒し農業を怠り、所持の畑を荒し、不心得の事募り`伜万吉酒狂にて御村清蔵妹と契約有之と理不尽成る始末他村地内山林にて他村百姓と喧嘩不正の筋有之、火附盗賊改に召補られ酒狂のうえ通りがかりへ打榔届出無く神社仏閣拝礼に出大門村百姓妹と馴れ合い、誘い出し、家出 名主・村役人名主名主・村役人名主・村役人 理右衛門(文右衛門)(文右衛門)弥兵衛 天保7.3.20天保12.4.21天保14.正.天保14.2.

名主名主・村役人 天保14.3.29天保14.6.19 (留五郎)(半兵衛・文右衛門)

・人人人・ 主役役役主 名村村村名 村・木・村 主主主主主主主主門主主シ主門 名名名名名名名名大名名三名大

天保15.6.29天保15.8.19天保15.8.19天保15.8.25弘化3.8.嘉永元.10.22嘉永元.10.22嘉永2.8.嘉永4.2.14嘉永43.25嘉永5.8.27嘉永7.閏7.19安政4.9.安政6.5.14 孫八(文右衛門忰徳次郎)(半兵衛忰半次郎)(文右衛門忰徳次郎)(文右衛門)(文右衛門)(留五郎)(留五郎)当人万吉親五兵衛(徳次郎・半次郎)(勝五郎)金三郎・吹上村忠蔵代助当人兄金兵衛

典拠:吉野禎次家文書註:作成者項目中の()表示の百姓は、下師岡新田の百姓を示している。

'11頁リヨ主l麹野e垣弾くKA)「転匪」(釆磐)

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第5表下師岡村における旧離勘当届け-覧

年齢関係 法政史学第四十八号

典拠:吉野禎次家文書 註l:年齢及び関係の項目については、『青梅市史史料集』第33号、第34号、第36号を参照した。

2:欠落・勘当人項目中の()表示の百姓は、下師岡新田の百姓を示している。

組合甚兵衛⑳名主千右衛門殿村役人中(〃)この史料は、百姓左平次が忰忠次郎の「身持不宜」ことを理由として勘当のうえ、旧離帳付願いを名主及び村役人に提出しているものである。後述するように、明確に分類することはできないが、旧離帳付け願いには、「失院(欠落)した親類との親族関係を断絶する行為」である旧離の場合と「親がこらしめのために子を放逐する行為で(州)ある」勘当の場〈口とがある。いずれにしても、基本的には、親あるいは親族が身持不埒な子または縁者に対する行為であることには変わりはなかったのである。下師岡村における旧離勘当願いも表にしてみよう(第5表)。ここでも、まず第一に、旧離勘当願いは詫証文ほどの数は見られないものの、近世後期に作成されていることが確認できよう。第二に、作成される理由として、家出と共に詫証文の作成理由でも多数確認できた身持不埒や農 四○

年代 欠落・勘当人 年齢 関係 理由

天明8.9.

寛政4.4 寛政9.正.

寛政9.正.

寛政12.4.

文化元.3.6 文化2.9.24 文化12.3.

文化13.9 文化13.9.

文化15.3.

文政2.5.24 文政5.5.6 天保6.3.12 天保10.4.5 天保10.4.11 嘉永4.2.17

(伝右衛門忰庄左衛門)

丑之助娘かつ 権太郎娘かつ 孫右衛門忰新右衛門 五郎右衛門忰清八 政右衛門弟勘平

(惣右衛門伜儀兵衛)

(忠兵衛忰利兵衛)

(寅蔵女房みよ)

(左平次親類佐右衛門)

左平次忰忠次郎 (左平次女房もと)

武右衛門 孫八

伊右衛門,伜理右衛門 千右衛門'伜啓五郎 五兵衛忰万吉

閲囲朋加皿朋別Ⅳ蛆蛆朋町朋一明弘肥 女女男男長長長長 弟一一 |房 男房長長女家 男男長長

身持不埒、農業不精 家出

身持不埒、家出 身持不埒、家出 身持不埒

身持不宜、農業不精 家出

家出 家出 家出 身持不宜 家出 身持不埒 身持不埒 不身持 農業不精 身持不宜

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業不精が多いことがわかる。この内、寛政九二七九七)年正月作成された新右衛門の旧離帳付願いでは、「家出致立帰り不申」「身持甚不宜」「農業等も不仕、昼夜遊ひ歩行」「不益之金銭を遣ひ捨」「田畑を質入一一いたし」「家督一一も相離」などの文言が連なっている。つまり、家出と身持不埒、身持不宜、あるいは農業不精とは、意味的にさほどの違いは見ることはできないようなのである。第三に、旧離勘当願いの対象とされている百姓は二○代が最も多い。この年齢層は、村落での生産、生活を中心となって担うべき者たちといえる。|方、『家』内部においては、家長となることは稀で、いまだ家長の管理下にある(い)年齢層と見ることができる。では、改めて詫証文と旧離勘当願いの関連を見ていこう。次に掲げる史料は、下師岡村にほど近い南小曾木村の旧離勘当願いと詫証文とを関連づける事例である。八史料nV水穴清太郎不埒二付、父清兵衛願出候は、清太郎義不埒、人の異見も不用候に依、張外の趣名主方へ申立候処、当役にても当人呼、相尋候処、当人心得達の事有候に付、明日迄に得とかんがえ、あいさつ可致由被申候に付、十六日組合・組頭つれ出す、然共当人了簡達

近世後期の村社会と「村用」(米崎) の事を申故、組合直右衛門、庄右衛門行、小虫秀七、岩倉五右衛門出、名主より下ケを願候て異見致し候処、漸々承知致候に付、十七日の夜名主方へ詫入相済申し候、隠居清兵衛表を張、清太郎へや住と成、夫婦にてはけの借金払可仕由にて相済候八史料皿V若者日待ち有、今日亀右衛門口開にて清太郎事、去る十月より藤助宅に居り候処、是迄五右衛門引受にて居り候、猶又是より庭場一同へ咄し有、相頼み酒三升持参致し候、是により父清兵衛、清太郎を帳外可致し趣申出し候に付、名主、庄之介・五右衛門より組頭両人方へ咄し有、庭場若衆宗代三□右衛門・重左衛門両人、当組合直右衛門・熊次郎四人にて清兵衛方へ行、清太郎詫事申候え共、清兵衛聞入無之、是非共帳外致し由申故、参り候、去共何にても一シ趣意無之ては不帰と申ければ、しかれば帳外の事はのべに致すと申故、それにて皆々帰り、其旨組頭五右衛門方へ咄し致し候処、清太郎を帳外はのべに相成候はば、其儘にて差置事に猶又水穴方へ咄しに来り候との事也(卯)まず、八史料ⅡVは、隠居清兵衛が息子清太郎の不埒なことによる帳外願いを名主に申し出ている記述である。清

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法政史学第四十八号

太郎の不埒な内容は明らかではないが、一」れに対して、組合、組頭が立ち入り、名主宛ての詫証文と引き替えに帳外願いの取り下げを行っている。(別)八史料皿Vは、再び清兵衛が息子清太郎の帳外願いを名主に申し出ているものである。清太郎はこの前年、近村の湯屋にて盗んだ着栩を質入れして得た金銭で博打を行って(犯)いることが記されている。清兵衛の申し出に対して、名主は組頭へ伝え、若衆惣代と組合が清兵衛のもとへ行き、帳外を取り下げるよう努力している。その結果、帳外は延期となっているのである。このように、身持不埒な百姓に対して、村落側では、旧離帳付け願いによって村落から放逐する方法と詫証文を作成することによって村内部に留めておく方法があったことが確認できる。しかし、これらの二つの方法は、全く相反するものではなく、|連のものであった。すなわち、旧離帳付願いを作成し、そのまま帳外となることは稀で、その過程で詫証文を作成することによって、そのまま村内部に保留していたのである。下師岡村の事例で見たように、旧離勘当願いより詫証文の作成数が多いのも、このことによると考えられる。さらに、ここでは、帳外願いを訴える情兵衛『家』に対 して、組合や若衆惣代などは帳外を取り下げ、村内部に保留する方向に努力していることにも注目したい。『家』と『村』との身持不埒な百姓への対応は異なるのである。では、帳外願いや詫証文の作成がこれだけ近世後期に集中しているのには、いかなる意味があるのだろうか。家出人や身持不埒な者が近世後期になって「存在」する意味はどのようなものなのであろうか。確かに従来の研究で明らかにされている農民層分解によって、さまざまな生活の糧を求めるために、家出人や身持不埒となる者を排出する客観的な条件はそろっていたと考えることはできる。また、(兜)近世後期の通俗道徳の形成も見落とすことはできない。|方、幕府の農村政策を見落とすこともできない。すなわち、もともと、村内の百姓は、宗門人別帳に把握されていることから、帳外願いを村役人に提出することは当然の(別)ことといえる。さ》bに、次に掲げる史料は、文政一○(一八二七)年、改革組合村が設定される時に、幕府が村々に申し渡し、作成させた化政期における幕令の集大成ともいえる内容をもつ議定書の中の一条である。八史料旧V|村々之内心得達一一而、農業ヲ嫌ひ遊歩行、親類・組合・村役人異見取用不申辿、直二帳外者不致、組合

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村役人江相談、異見差加、其上一一茂不取用候ハ、帳外いたし、肌心得達有之候速、後難ヲ恐れ無宿一一いたし候得者、可便処無之、弥増シ悪事仕成候二付、無宿二不致、以前厳敷教諭可致候事ここで、幕府は、「農業ヲ嫌ひ、遊歩行」いわゆる身持不埒な百姓に対して、むやみに帳外とせず、村内での教諭を心がけるよう申し渡している。村落や『家』の解体は、幕府の基盤の喪失でもあったのである。しかし、幕府の政策によって詫証文や旧離勘当願いの作成が増えたと考えることも早計であろう。本来、『家』内部の問題lとりわけ、身持不埒など生活態度や規範に関わ(弱)る問題lは家長によって処理されるべきものであったか壽bである。一方、前近代において、「家』は『村』から閉じられた私的な空間として独立していたわけではなかった。例えば、しばしば『村』の慣行に違反した婚姻などでは、『村』の若者仲間が中心となって儀礼的な制裁行為が実施された。このことは、『家』内部の問題が『村』の問題でもあったことを意味する。しかし、近世後期には、『村』の経済から独立してくる富農層を中心に、『村』の儀礼的な制裁行為と対立する動向が見られるようになってくる。このことは、『家』の秩序が『村』の秩序から独立してく

近世後期の村社会と「村用」(米崎) ることを意味しよう。そして、その際、『家』内部の問題を担保する存在として、行政的な枠組みが浮上してくるの(卵)である。身持不埒な百姓に対する『家』や『村』の対応も、従来の『家』や『村』秩序だけでは対応しきれなくなってきていることを物語るものといえよう。『家』も行政機関である村役人に旧離勘当願いを作成し、『村』側も身持不埒な百姓には、行政機関である村役人宛に詫証文を作成することで対応を図っているのである。さらに、身持不埒な百姓にとってみると、詫証文を村役人宛に作成することによって、従来どおりの村落生活が許されるのである。このことは、身持不埒な百姓にとって、村役人は担保する位置にあったことを意味しよう。いずれにしても『家』、『村』ともに行政的枠組みに依拠していることを示している。このような『家』と『村』の変化をふまえて初めて詫証文や旧離勘当願いなどの増加といった村落における行政機能が浮上してくる動向を理解することができるのではなかろうか。その点で『家』、『村』、幕府の意図は合致していたのである。そして、行政的な村落の枠組みの浮上を示す指標が、小前百姓の『家』が意識する「村用」という文言だったといえよう。

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小稿では、近世後期の村方文書に散見される「村用」という文言を導きに、村政の変化を身分制的観点から具体的に明らかにするとともに、『家』と『村』と村という三者の関係から当該時期における行政の意義について、検討を試みてきた。その結果、以下の点を指摘した。①村役人が指示し、小前百姓が勤めるべき行政的負担を意味する「村用」という文言は、近世後期の村社会内部の変動の中で、百姓が主体的に意味づけを行ったものであった。②近世後期における小前百姓の村政参画により、村役人は「御用」とともに「村用」をかえりみる役職であるという社会意識が芽生えた。「御用」と「村用」及び村内部の日常生活を記した役用日記はその社会意識の表象であった。しかし、その社会意識は身分制的な家職意識に根ざしたものであり、小前百姓からも認知されたものであった。③近世後期の村社会には身持不埒、農業不精、家出人が「存在」した。これらの百姓に対して、村内部では、旧離勘当願いによって排除する方法と詫証文の作成によっ おわりに 法政史学第四十八号

て保留する方法があった。前者は『家』の意向が強く、後者は『村』と幕府の意向でもあったが、いずれの方法も『家』や「村』の内部問題が行政的枠組みに依存する構造であった。その行政的枠組み浮上の指標ともいえるものが、小前百姓の『家』が意識する「村用」という文言であった。まさに、近世後期’’九世紀の前半lは村社会にとっては村用の時代であったといえよう。さて、いつも通り雑な検討に終始してしまったが、最後に今後の検討課題として次の二点を掲げておきたい。まず第一は、『家』をめぐる社会状況と内部秩序の検討である。詫証文や旧離勘当願いに関わる限りでの社会状況と『家』の内部秩序について触れただけである。この点については、近世を通じて検討すべき課題といえるが、とりわけ、近代国家形成過程における家の形成と『村』内部の社会状況の変容及び両者の連関を学制などの国家政策をもふまえて検討していきたい。第二点は、行政機関に関わる課題がある。周知のごとく、明治政府は大区小区制において戸・副戸長とともに村用掛を設置する。これらの「重層的」な行政機構について改めてその実態から検討していきたい。 四四

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近世後期の村社会と「村用」(米崎)

(u)註(9)保坂論文「〔補説〕組合村(村連合)」(『日本歴史体系3近世』 (6)その後の組合村や地域秩序に関する研究は、熊沢徹編第一○号、一九八五年) ’第五号・第六号、一九七八年)(旧)矢沢洋子「近世村落と村財政」(『史学雑誌』第九四 惣代の機能について」(1)。(2)(『信濃』第三○巻研究紀要』第二四号、’九九三年) (皿)渡邊尚志「幕末維新期における村と地域」(『史料館(5)久留島浩「甲州市川代官所管下の天領における郡中 ’九八七年にまとめられている諸論稿。八号、’九九五年) 帳所持・引継争論と近世村落」(『関東近世史研究』第三(4)水本邦彦『近世の村社会と国家』東京大学出版会、 国を歩く」吉川弘文館、’九九三年)、富善一敏「検地機能を動態的に分析した論稿として掲げておきたい。 (、)久留島浩「近世の村の高札」(永原塵二編『大名領史研究』第一七一号、’九八一年)を村請制及び名主の 理されている。参照されたい。並木克央「村方騒動とその背景に関する一考察」Q地方 伸之編『近世の社会集団』山川出版社、’九九五年に整の人民闘争と社会変革』上、校倉書房、一九八○年)、 は、広瀬隆久「天保期の村方騒動と相給村落」(『天保期(、)近年の由緒をめぐる一連の研究は、久留島浩・吉田 究』別冊特集、’九七四年一二月)、その後の研究として紀要』第七号、’九九三年) 「畿内における幕藩制支配と村落の諸特質」(『歴史学研五郎兵衛新田における記録管理と村政」白学習院史料館 (『歴史学研究』別冊特集、’九七四年一二月)、薮田貫(『学習院史料館紀要』第六号、一九九二年)、同「近世 (3)広瀬隆久「幕藩制解体期における村と農民闘争」(9)保坂裕輿「村方文書と文書の作成・管理システム」 して説明されたことは、村落研究に大きな影響を与えた。二年 主の農民支配機構の末端として機能する二重の性格論と(8)薮田貫『国訴と百姓一摸の研究』校倉書房、’九九 とする奥村氏の業績を念頭においている。この中で、村役人は共同体構成員の代表者である一方、領 開」(『日本史研究』第二五八号、’九八四年)をはじめ(2)佐々木潤之介『幕末社会論』塙書房、’九六九年。 (7)奥村弘『大区小区制』期の地方行財政制度の展を念頭においている。 岩波書店、’九九五年)とその論稿に収められた諸論文出版、’九八九年)にまとめられている。 と地域秩序」(村上直編『日本近世史研究事典」東京堂(1)久留鳥浩「百姓と村の変質」(『日本通史』第旧巻、 山川出版社、’九八八年)、久留島浩「組合村(村連合)

四五

参照

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※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.