危険実現連関論の展開(一)
その他のタイトル Die Lehre vom
Gefahrverwirklichungszusammenhang (1)
著者 山中 敬一
雑誌名 關西大學法學論集
巻 46
号 2
ページ 231‑274
発行年 1996‑06‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00024558
危 険 実 現 連 関 論 の 展 開 曰
目 次 一.はじめに 二.直接的危険への介入類型
︱‑﹁間接的危険への介入類型
①間接的危険の事例類型の特徴
②潜在的危険源介入類型︵以上本号︶
③内部誘発危険介入類型
④不合理行動介入類型
⑮帰属基準の総括 四状況的危険への介入類型 五.規範的・自己答責的行動介入類型 六
. ま と め
危険実現連関論の展開日
山 中
四 五
︵ 二
三 一
︶
敬
険 ︵ 危 険 創 出 連 関 ︶
︵ 二
三 二
︶
先に︑経験的・規範的観点から危険実現連関の判断における事例の﹁類型化﹂を図る場合︑創出された第一次的危
の展開過程のどの段階で︑どのような形態で︑どのような第二次的危険が﹁介入﹂するかという
(1 )
観点から︑この﹁類型化﹂を図るべきであるという結論に達した︒そして︑そのような類型に応じた﹁帰属基準﹂を
展開すべきであるとした︒そのような方法を理論的に根拠づけるために︑評価法学の一種としての﹁類型化﹂の方法
論と規範主義的方法論に対する最近の批判に対して反論するという形で︑事実的・経験的基礎および規範的・評価的
基礎の複眼的な方法論によることを明らかにすることによって︑類型化の方法論の基礎を考察した︒さらに︑大きな
理論的・体系的枠組みとして︑刑法の任務について︑帰属論の中で﹁危険創出連関論﹂と﹁危険実現連関論﹂をそれ
ぞれ刑法の事前予防的機能と事後処理的機能に対応するものとみる立場にもとづくことを明らかにした︒
本稿の目的は︑危険実現連関の判断のための﹁類型﹂に応じた帰属基準を具体的に呈示することである︒この作業
の方法については︑二つの方法がありうる︒第一は︑できるだけ呈示する理論そのものを単純化し︑またできるだけ
﹁典型的な具体例﹂のみを呈示することによって︑理論の明確な枠組みを示す方法である︒この方法は︑簡潔に主張
を先鋭化して示すことができるので︑﹁理論﹂としては明晰で輪郭づけ易いが︑現実の判例などにその理論を当ては
めようとするとき︑その理論の呈示者でさえどのような結論を示すのか分からないということがありうる︒すなわち︑
説明に都合の悪い現実︵事例︶が無視され︑理論が現実を歪曲するプロクルステスのベッドになりかねない危険があ
る︒第二の方法は︑テーゼが複雑になるという欠点を意識しつつ︑はじめから現実の判例を意識して︑実際の問題解
は じ め に
関法第四六巻第二号
四 六
山 中
﹁ 危
険 実
現 連
関 の
理 論
的 基
礎 i 観的帰属論の展開ー﹂法学論集四五巻二
11
三 合
併 号
= =
︱ ‑
五 頁
以 下
参 照
︒
こ れ
に つ
い て
は ︑
山 中
﹁ ﹃
客 観
的 帰
属 論
﹄ へ
の ア
プ ロ
ー チ
﹂ 法
学 教
室 一
八 五
号 二
八 頁
以 下
参 照
︒ 二.直接的危険への介入類型
直接的危険類型の特徴
創出された危険が︑具体的な当該結果の発生に対して直接の大きな結果惹起力をもち︑そのまま因果経過の通常の
流れが進行して行けば︑その危険からの典型的な結果に至るはずの経過に︑別の第二次的危険が介入したために︑予
定外の具体的結果が発生した場合がこれにあたる︒この匝接的危険は︑創出された第一次的危険自体のもつ物理的な
危険を意味する︒それは︑別の危険系列に属する因果予測の将来の展開を考慮せずに︑もっぱらその危険創出の行わ
れた既存の状況の中での当該行為の物理的・科学的な危険を意味する︒それは︑行為時に典型的・外形的に予見しう
る行為自体の危険である︒その点で︑行為状況のみならず︑将来の因果経過の予測を考慮に入れた﹁間接的危険﹂と
( 1
)
( 2
)
危険実現連関論の展開日 例証の目的で引用されることになる︒
四 七
決に役立つような理論を展開するよう心掛けるものである︒この場合︑理論が簡明性を失うが︑理論はより具体化さ
れて︑応用例を増やすことになる︒本稿では︑この第二の方法に従う︒その要点の摘示は︑解説論文などの形で公け
(2 )
にすることもあろうが︑ここでは︑できるだけ多くの判例や講壇事例への具体的適用を考慮しながら︑類型化と帰属
基準の呈示を行うこととする︒その際︑本稿の目的から判例を用いるので︑判例研究︑とくに判例の史的展開の研究
が主眼ではない︒したがって︑ドイツ︑オーストリア︑日本の判例が空間や時系列を無視して︑もっぱら帰属基準の
︵ 二
三 三
︶
合︑人の有意的行動の介入の場合︑および潜在的危険源の介入の場合などがありうる︒
︵ 二
三 四
︶
介入する危険の種類としては︑自然的・社会的事象の介入︵自然事象︑日常生活事象︑社会制度的反応事象︶の場
直接的危険への介入の類型においても︑その介入する第二次的危険の危険源となる重要部分が︑創出された第一次
的危険によって内部的に誘発されたものではなく︑いわば﹁外部誘発された事案﹂であった場合には︑第一次的危険
と第二次的危険の﹁寄与度﹂︑つまり︑いずれの危険が結果発生に決定的な動因を与えたかによって危険実現の有無
が判断されうる︒これに反して︑第二次的危険の危険源の動因の主要部分が︑むしろ︑第一次的危険の内部にあり︑
いわば﹁内部誘発危険の介入﹂の事案であった場合には︑第一次的危険に付随する﹁経験上通常﹂の危険であるかど
うかが重要な意味をもつ︒これは︑しかし︑自然事象の介入の場合には︑その自然事象の﹁支配可能性﹂が基準とな
り︑日常生活危険の介入の場合には︑﹁一般的生活危険﹂かどうかが基準となり︑社会制度的危険の介入の場合には︑
その﹁相当性﹂が基準となるなど︑類型によって基準が異なる︒
切外部誘発危険介入類型
︐ー︐a
直接的﹁危険修正﹂の事例
•創出された第一次的直接的危険の物理的危険力が極めて大きく︑介入した第二次的危険が︑その具体的結果に対す
(1 )
︵2
)
る条件関係を否定するまでには至らないが︑第一次的危険によって﹁圧倒﹂
( V
er
dr
an
gu
ng
)
さ れ
︑ ﹁
呑 み
込 ま
れ て
﹂
しまうような事例群がこれに属する︒例えば︑ナイフで腹部を刺されて瀕死の重傷を負って路上に倒れている被害者 は
異 な
る ︒ 関
法 第 四 六 巻 第 二 号
四 八
妨 げ
な い
﹂ ︒
四 九
の傷口に野良犬が噛みつき︑傷口が広がったことによって被害者の死期が早められた場合がそうである︒条件関係論
(3 )
において︑﹁具体的結果観﹂を採った場合︑または﹁法的に重要な結果の変更﹂を要求する見解に立っても︑この場
合︑因果関係は肯定されうる︒客観的帰属論の観点においても︑この場合︑第二の危険は︑すでに存在している﹁瀕
死の状態﹂という状況を捨象して︑それ自体を採りだして観察すれば︑結果につながる大きな危険性をもつものでは
なく︑その﹁寄与度﹂は小さい︒それは︑第一の直接的危険の継続を遮断し︑﹁新たな危険系列﹂を開始するところ
までは至っていない︒この場合︑危険実現は︑肯定されうる︒この事例においては︑介入する危険の種類は︑問われ
ない︒したがって︑第三者の任意の行為による介入であっても︑自然事象の介入であっても︑それは︑考慮する必要
東京高判昭和二九・六・︳
0高刑特報二八号一三八頁
A が
被 害
者
B の
頭 部
を 殴
打 し
た こ
と に
よ っ
て
B の 左 硬 脳 膜 静 脈 な ど か ら 打 撲 傷 の 出 血 が あ っ た ︒ そ の 出 血 量 が 少 な い
間 は ︑ 遂 に は 死 亡 の 結 果 を 致 す も の で あ っ た と し て も ︑ そ の 危 険 は 徐 々 に 進 行 す る に 止 ま る も の で あ っ た ︒ A
の 侮
害 行
為 後
︑
X
お よ
び
Y は ︑
B を 殺 害 す る 目 的 で 二 階 か ら B
を 投
下 し
た ︒
B の 死 因 は ︑ そ の 頭 部 の 殴 打 の た め 起 こ っ た 静 脈 の 各 切 断 に よ る 僅 か
ず つ の 出 血 が 漸 次 脳 底 に 貯 留 し て 凝 固 し 呼 吸 中 枢 を 圧 迫 し た 呼 吸 麻 痺 に よ る も の で あ る ︒ B が 高 所 か ら 落 下 し た こ と に よ り ︑ 右
の 出
血 は
助 長
促 進
さ れ
︑ そ
の 死
亡 の
結 果
を 早
め る
こ と
に 役
立 っ
た ︒
︻ 判
旨 ︼
﹁ あ る 行 為 が 単 に 結 果 の 発 生 を 助 長 促 進 し た に 過 ぎ な い と き で も ︑ そ の 行 為 と 結 果 と の 間 に 因 果 関 係 を 認 め る こ と を
この事案では︑すでに
Aの第一次的な危険創出行為によって
Bの死に向かう因果経過が進行しつつあったが︑
Xお
危険実現連関論の展開日
︻ 事
実 ︼
︻1︼
がない︒この種の類型の例を挙げよう︒
︵ 二
三 五
︶
よび
Yによる投下行為により︑結果の発生が﹁助長促進﹂された︒﹁因果性﹂の次元においては︑﹁助長促進﹂によっ て︑具体的結果ないし法的に重要な具体的結果の変更が惹起されているのであるから︑この結論は是認できる︒
直接的危険の介入の類型にとって重要なのは︑逆に︑
A
の投下行為の危険実現連関が肯定されるかである︒まず︑
﹁因果関係﹂の観点からは︑出血による﹁死﹂が時期を早めるという形で﹁修正﹂されてはいるが︑因果経過が﹁転 換﹂され﹁切断﹂されてしまっているわけではないから︑これは肯定される︒危険実現連関の次元では︑第三者の
﹁犯罪行為﹂が介入しているが︑前述のように︑直接的危険の段階ですでに結果に向かって進行しつつあった﹁出 血﹂を﹁助長促進﹂したにすぎない﹁介入﹂危険については︑危険実現連関を遮断する程度の﹁寄与度﹂を認めがた 最近のこの事例群に属する判例として︑最高裁の木材置場事件決定がある(︻
2
︼最決平ニ・一ー・ニ〇刑集四四巻
(4 )
八 号
八 三
七 頁
︶ ︒
X は︑午後八時ころから九時ころまでの間︑自己の営む三重県にある飯場において洗面器の底や皮バンドで被害者の
頭部等を殴打するなどの暴行を加えた結果︑恐怖心による心理的圧迫等によって︑被害者の血圧を上昇させ︑内因性高血圧性橋
脳出血を発生させて意識消失状態に陥らせた後︑被害者を大阪市住之江区南港所在の建材会社の資材置場まで自動車で運搬し︑
午 後
一
0 時
四
0 分ころ同所に放置して立ち去ったところ︑被害者は︑翌未明︑内因性高血圧性橋脳出血により死亡するに至った︒
右の資材置場においてうつ伏せの状態で倒れていた被害者は︑その生存中︑何者かによって角材でその頭頂部を数回殴打されて
いるが︑その暴行は︑既に発生していた内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ︑幾分か死期を早める影響を与えるものであった﹂︒
︻ 決
定 要
旨 ︼
︻ 事
実 ︼
﹁ 犯
人 の
暴 行
に よ
り 被
害 者
の 死
因 と
な っ
た 傷
害 が
形 成
さ れ
た 場
合 に
は ︑
仮 に
そ の
後 第
一 ︱
︱ 者
に よ
り 加
え ら
れ た
暴 行
いというぺきである︒
関法第四六巻第二号
五〇
二 三
六 ︶
五
によって死期が早められたとしても︑犯人の暴行と被害者の死亡との間の因果関係を肯定することができ︑本件において傷害致 本件に関する第一審の判断は︑次の如くであった︒そこでは︑﹁飯場における一連の暴行は︑被害者に内因性橋脳出血を発生 させ︑あるいは少なくとも既に生じていた同出血を拡大進展させる形で被害者の死期を早めたものと認めることができ︑被害者 の死亡との間に因果関係を有する﹂とし︑他方で︑資材置場における殴打は︑被害者はすでに意識消失状態にあり︑被害者の死 亡に対して因果関係を有しないとした︒かくして︑﹁飯場における暴行により︑被害者に内因性高血圧橋脳出血を発生または増 悪拡大させ︑同人を右出血の拡大進展により死亡するに至らせたものである﹂とした︒第二審も︑﹁被告人の飯場での暴行によ り既に死因となるに十分な程度の内因性高血圧性橋脳出血が被害者に惹起され︑それのみによって近接した時間内に被害者は死 に至ったものと認められるのであり︑それに対し南港における角材殴打は︑それによって頭蓋骨骨折や頭蓋内出血あるいは脳挫 傷等の頭蓋内損傷が引き起こされていないことなどに照らすと︑いまだ死に至る脳損傷をもたらす程度のものとは認められず︑
せいぜい既に発生していた右内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ幾分か死期を早める影響を与えたにとどまると推認される﹂と
し︑南港における角材殴打は︑被害者の右橋脳出血を拡大させ右のような程度の死期を早める影響を与えたことがあるだけで
あって︑それが加わることによって被害者に死をもたらすような損傷を与えたものではなく︑死因の惹起自体には関わりを持た
ないものであるから︑被害者の死亡との間に囚果関係を有しないものといえる﹂とした︒
このように︑最高裁の決定においては︑第二の暴行と結果との因果関係の存否については論じていないのに対して︑
第 一 審
︑ 第 二 審 の 判 断 に お い て は
︑ 第 一 の 暴 行 と の 因 果 関 係 は 肯 定 す る が
︑ 第 二 の 暴 行 と 死 亡 と の 因 果 関 係 は 否 定 さ れ て い る
︒ こ の 意 味 の
﹁ 因 果 関 係
﹂ と は
︑ 条 件 的 因 果 関 係 な の か
﹁ 法 的 因 果 関 係
﹂ す な わ ち
﹁ 相 当 因 果 関 係
﹂ な の か そ れ と も 原 因 説 的 な 意 味 に お け る 因 果 関 係 な の か は
︑ 明 ら か で は な い
︒ し か し
︑ 第 二 審 の 記 述 か ら は
︑ 最 後 の
﹁ 原 因
危険実現連関論の展開曰 死罪の成立を認めた原判断は︑正当である﹂︒
︵ 二
三 七
︶
︵ 二
三 八
︶
説的な因果関係﹂の意味で用いられているものと推認される︒なぜならば︑﹁幾分か死期を早める程度﹂の影響を与
えただけの条件であっても︑条件説における具体的結果観を前提とすると︑条件的因果関係は肯定され︑法的に重要
な結果の変更を要求する結果観に立脚しても︑条件関係は肯定されうるのであり︑本件においては条件関係は否定で
きないからであり︑また︑第二暴行が日常生活経験上予想しうる事情かどうかは問題にされておらず︑相当因果関係
も問われていないからである︒原因説的思考に立つと見られうる積極的な根拠は︑﹁死因の惹起﹂であるといえるよ
うな条件を与えたものを因果関係を肯定するための要件として要求していることからも窺われる︒第一審︑第二審は︑
このようにして︑第二暴行と死亡結果との因果関係を否定することによって︑第二暴行の介入が実質上無意味であり︑
第一暴行と結果との﹁因果関係﹂に影響を及ぼすものではなかったということを論証しようとしたものと思われる︒
また︑﹁死因の同一性の範囲内における第三者による死亡時期の繰り上げは因果関係の判断において重要でないこと
(5 )
を示したもの﹂とされている︒
この事案について︑大谷調査官は︑実務上因果関係が問題になる場合︑行為と結果とをつなぐ糸の﹁存在﹂のみな
(6 )
らずその﹁太さ﹂についても認定の対象となるものとされ︑﹁本件のように︑医学的な見地からみた被告人の行為に
よる影響力︵寄与度︶が圧倒的に強固なときには︑仮にその後に異常な事情が介在したとしても因果関係は肯定され
る﹂とし︑他方︑たとえ条件的なつながりはあっても﹁結果への寄与が極めて軽微であれば︑介在事情の異常性を問
(7 )
題にすることなく︑当然に因果関係が否定されると解されてきた﹂とする︒この解釈は︑﹁原因説的思考﹂に立脚す
るものとも読むことができるが︑実務家の中に︑﹁判例は︑具体的な事例の集積を通じて︑いわばモザイク的にその
(8 )
立場を明らかにしていくという態度を基本にしている﹂という指摘があり︑﹁類型ごとに︑結論に影響を与える要因
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
五
五
(9 )
についての取捨選択﹂が行われていると見る見解があることは︑われわれの客観的帰属論の構想を大枠として︑判例
を捉えることが最も適切であることを証示しているといえよう︒
実務家によっても︑﹁具体的影響力﹂﹁寄与度﹂の観点からの検討の必要性が説かれているが︑このような結果発生
( JO )
に対する介在事情の﹁寄与度﹂という観念は︑相当因果関係説に立脚する前田︑曽根︑山口の各論者によっても認め
られている︒このように︑第二危険の﹁寄与度﹂が極めて軽微であれば︑﹁介在事情の異常性を問題にすることなく﹂
第一危険との ︵相当︶因果関係が肯定されるという見解に対しては︑結局のところ︑介入事情が抽象化されうるのは︑
当該の﹁具体的な死も蓋然性・可能性の範囲内にあったとして相当性を肯定﹂できる場合であるとして︑相当性の観
( 11 )
点から説明する見解が対立している︒しかし︑介入事情の因果的寄与度の考え方と︑介入事情の介入が蓋然的であり︑
相当かどうかとの考え方とは全く異なるものであり︑ここで︑重要なのは︑介入の相当性ではなく︑寄与度なのであ
る︒因果的変更の相当性を問題にしているこの見解は︑当初から予期される具体的な結果からの逸脱の度合いを問題
にしているのであるが︑実際には︑それは︑相当性を問うているものでないことは︑介入事情の介入の異常性が問題
とはならないことからも明らかである︒例えば︑たとえ本件の被害者が工事現場に運ばれ︑そこにおいては通常予想
されるように角材がクレーン車から投げ捨てられたのに当たって︑死因を同じくしつつ介在事情によって影響されて
死亡した場合であっても︑資材置場の近くにたまたま航空機が墜落した地響きによって立てかけてあった角材が倒れ
てきて下敷きになり︑別の死因によって即死した場合であっても︑その介在事情の介入の相当性・異常性を問題にす
ることなく︑専ら因果経過への第二危険の﹁寄与度﹂が問題になるのみだからである︒このように︑相当因果関係説
にとっては︑﹁寄与度﹂の概念は︑本来﹁異質的要素﹂であるが︑有力な相当説の論者が︑このような客観的帰属の
危険実現連関論の展開日
︵ 二
三 九
︶
に お
い て
は ︑
直接的﹁危険転換﹂の事例
︵ 二
四
0 )
さて︑客観的帰属論における危険実現論の立場からは︑やはり本類型のようなほぼ必然的に結果に至りえたような
高度の第一次的危険を幾分か修正するにすぎず︑第二次的危険の﹁具体的影響力﹂︵寄与度︶が十分に大きいもので
はなく︑いわば︑第二の介在危険が第一の危険によって﹁圧倒﹂されてしまうような場合には︑発生した具体的な結
果は︑創出された第一次的危険の範囲内にとどまるものというべきである︒これを︑介在危険が第一次的に創出され
た危険に﹁呑み込まれた﹂と表現することもできるが︑ここでは︑これを結果帰属否定のための﹁危険圧倒基準﹂と
創出された第一の直接的危険は︑ほぼ必然的に予定された具体的結果に向かって経過しているが︑その経過が︑第
二の介入危険によって︑別方向に転換される事例群が︑これにあたる︒例えば︑地上数十メートルのビルの屋上から
他人を突き落としたところ︑被害者が︑路上で犯人を追いかけ︑停止させようとして空に向かって威嚇射撃した弾丸
によって頭を撃ち抜かれ︑地上に落ちる前に即死した場合︑あるいは︑野原の一本杉の下で︑他人を殺害しようとし
てナイフでその胸を突き刺したところ︑その被害者が瀕死の重傷を負って倒れたが︑その杉に落雷があって︑被害者
( 12 )
が即死した場合などがその例である︒ここでは︑﹁結果の抽象化﹂が許されるかどうかが論じられているが︑﹁結果の
抽象化﹂は︑条件関係の認定において問題になるものであるが︑条件関係の存在を前提とした﹁客観的帰属﹂の次元
一般論としては問題にならないというべきである︒なぜなら︑ここでは︑結果に対して影響を与えた各
条件の重要性が問われているのであり︑その重要性は︑帰属基準に照らして判断されるべきであるのに︑はじめから
( b )
呼ぶことにしよう︒ 思想を裏扉からこっそりと忍び込ませているのである︒
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
五 四
は 否 定 で き な い ︒
五五
﹁結果を抽象化﹂すべきかどうかを前提にして議論するのは︑不当前提だからである︒したがって︑現実に発生した
具体的結果を考察の出発点としなければならない︒
この事例群の場合︑その特徴は︑創出された︑結果発生に向かう高度な直接的危険がその経過中に︑自然事象︑別
の一般的生活危険︑潜在的危険源あるいは第一次的危険に﹁外部誘発された﹂危険によって別方向に転換されている
ように見える点にある︒第一次的危険は︑第二次的危険の﹁条件﹂になっている︒しかし︑﹁危険の修正事例﹂との
相違は︑第一次的危険が創出した﹁具体的結果﹂への経過自体に︑別の危険発生系列から干渉した第二次的危険が
﹁影響﹂を与えているのではなく︑それとは別個の﹁新たな具体的結果﹂への結果惹起力を与えている点にある︒第
二次的危険の介入は︑第一次的危険の向かう具体的結果への﹁内部的展開過程﹂にではなく︑たとえば︑ビルの上か
ら突き落とされたために︑その空中を落下しつつあるという時間的・空間的な意味での﹁外部的展開過程﹂にのみ介
入しているのである︒この類型にあっても︑やはり第二次的危険の介入の﹁経験的通常性﹂は重要な意味をもつこと
一般的には︑﹁危険修正﹂の事例の場合に比べて︑外部的展開過程にのみ介入していることから︑
﹁危険転換﹂の場合には︑危険実現連関は否定されることが多いと思われる︒
内部誘発的危険介入類型 2
次に考察するのは︑内部誘発的危険の介入の事例群であり︑したがって︑第一次的な直接的危険の︑第二次的危険
の招来に対する﹁誘発度﹂ないし﹁寄与度﹂はかなり高く︑それがその主たる動因を与えたという類型である︒した
がって︑第一次的な直接的危険は︑第二次的危険の介入を誘発することについては︑その誘発の確率が一般的には高
危 険 実 現 連 関 論 の 展 開 日
︵ 二
四 一
︶
自然事象介入類型
︵ 二
四 二
︶
くなっているような事例がこれに属する︒この点で︑外部誘発的危険の介入類型にあっては︑第一次的危険は︑第二
次的危険の発生に対しては︑たんに条件をなすにすぎないのとは異なる︒この類型には︑い自然事象の介入類型︑⑯
日常的生活危険介入類型︑国社会的制度的反応行動介入類型︑切潜在的危険源介入類型などがある︒自然事象の介入
は︑①既存の行為事情における自然事象の介入の場合と︑②将来発生する自然事象の介入の場合とがある︒いずれに
せよ︑自然事象そのものの発生は︑行為者の意思とは無関係に生じる︒ただ︑その事象を利用し︑支配することはで
きる︒内部誘発危険としては︑前者の類型が多くこの場合︑利用・支配可能性が肯定されやすいが︑後者の類型につ
いても利用・支配可能性が認定される場合もある︒次に︑日常的生活危険は︑第一次的危険創出後の被害者の状態や
行動が日常生活経験上通常のものである場合︑第一次的危険の特有の危険であるとはいえないということを示す︒さ
らに︑社会制度的反応行動の介入とは︑第一次的危険の創出後︑それに対する社会の反応︵相互行為︶として︑社会
的に一般化・制度化されており︑社会的に受容されうる反応として一定の事象が介入する場合をいう︒
a 自然事象の介入が︑第一次的危険によって内部誘発されるという事例は︑第一次的危険が︑第二次的危険に対して
かなり高い蓋然性を与えた場合に限定される︒ここでは︑外部誘発危険の介入の場合とは異なり︑自然事象は︑むし
ろ︑第一次的危険をもたらす行為の際に︑計算に入れることが容易であるという事案が多いであろう︒
この事案に属するのは︑例えば︑堤防の上で他人をナイフで突き刺したところ︑重傷を負った被害者が倒れて川に
はまり溺死したというような︑当該行為の具体的状況から第二次的危険が経験上通常生じうる場合と︑雷雨の日に︑
堤防の上で他人を突き刺して逃走しようとしたところ︑突き刺さったナイフに落雷があり︑被害者が死亡した場合の 関法第四六巻第二号
五 六
五 七
ように︑経験上の通常性が否定される場合とがありうる︒事後的に判明した資料にもとづく事後予測としての﹁通常
性﹂の判断は︑この自然事象の介入の場合に最も重要な役割を果たす︒先の事例において︑﹁川に転落するという危
一般に﹁支配可能﹂であるが︑将来の出来事である﹁落雷﹂については︑それが不可能であるかに
見える︒しかし︑後者の類型においても︑内部誘発的危険の介入する事例群に特有の具体的状況においては︑﹁支配
自然事象介入類型の場合︑このように︑内部誘発的危険であるということから︑第一次的危険の際の結果の発生に
対する﹁支配可能性﹂が肯定される場合が多いものと思われる︒先に述べたように︑これは︑自然事象の外部誘発事
例とは異なり︑その計測・予見可能性が︑﹁支配可能性﹂などとして規範的に評価されるためであろう︒このような
類型の帰属基準は﹁危険支配可能性﹂基準である︒
日常的生活危険介入類型
直接危険の創出の後︑それが誘発したことによって︑第二次的危険が介入するが︑それが︑日常生活上︑その創出
危険の特有の危険とはいえず︑どこにでもある日常生活上の危険であるという場合がある︒例えば︑交通事故によっ
て被害者に瀕死の重傷を負わせたが︑被害者が︑救急車で病院に運ばれる途中に交通事故によって死亡した事例︑カ
プセル入りの毒薬を飲ませたところ︑その毒薬のカプセルが溶ける前に︑カプセルを喉に詰めて窒息死してしまった
事例︑などがそうである︒この類型は︑創出された第一次的な直接的危険は極めて高く︑結果発生に至る危険はいま
だ極めて高い段階で︑その直接的危険とは直接の関係はないが︑その第一次的危険行為によって誘発された状況にお
いて日常生活上随伴する第二次的危険が発生する場合である︒第一の交通事故の介入事例については︑第二次的危険
( b )
危険実現連関論の展開日 可能﹂な場合があるといってよいであろう︒ 険 ﹂ に つ い て は ︑
︵ 二
四 三
︶
般的生活危険基準﹂と呼ぶことにする︒ ないから︑危険実現連関は否定されるべきである︒
︵ 二
四 四
︶
の発生が経験上通常︑予見できない場合であるともいえない事例もあるにもかかわらず︑その交通事故の惹起者のよ
( 13 )
うな他人にも帰属されるべき﹁一般的生活危険﹂の介入であることから︑危険実現連関は否定される︒他方︑毒入り
のカプセルを喉に詰めた事案では︑カプセルによって窒息するという危険は︑毒薬入りのカプセルを飲ませるという
行為によって惹起されており︑それは主たる危険力を与えた契機となっている要因であるが︑喉を詰めた結果は︑毒
薬を飲ませるという直接的危険に典型的な結果ではなく︑特有の危険が高められていない﹁一般的生活危険﹂にすぎ
このように﹁日常的生活危険﹂の介入類型においては︑当該の日常的生活危険の発生に対して︑第一次的危険が一
定の蓋然的な因果力を与えたが︑その日常的生活危険が︑他人の帰属範囲にも属するべきものであって︑他人にも危
険が分担されるべきものであること︑あるいは︑直接的危険がなくても一般的に被害者が遭遇しえた生活危険であっ
て︑それが︑当該直接的危険の﹁特有の危険﹂ではないということによって︑危険の実現が否定される︒これを﹁一
この﹁一般的生活危険﹂は︑わが国において最近唱えられている﹁一・五段階的構成﹂の﹁因果関係論﹂としての
( 14 )
判断基準とは全く異なる︒この理論は︑﹁相当因果関係﹂を採らず︑むしろ︑因果関係の概念に条件関係と﹁因果的﹂
な﹁帰責限定﹂の基準を含めて考える︒しかも︑﹁因果関係の実体については﹁利用可能な法則性の存否﹄という一
段階の判断と考えるが︑事案への適用に際しては二段階の判断方法を用いる︑いわば一・五段階的構成﹂を採ると主
張する︒因果関係を﹁実体﹂と﹁適用﹂に分け︑それを﹁二段階﹂とせず︑﹁一・五段階﹂というらしいのであるが︑
実体と分離された適用としての因果関係とは何なのか不明であり︑また︑因果関係の中に条件関係と︑﹁半因果的﹂ 関法第四六巻第二号
五 八
五 九
な原因説的なものを認める﹁一・五段階﹂は︑折角の分析的思考を半世紀逆行することになるのではないのかが疑問
である︒いずれにせよ︑この見解は︑因果関係の概念の中で︑相当因果関係も用いず︑それを客観的帰属と呼ぶこと
もなく︑疑似条件説的な﹁凌駕的因果関係﹂および﹁一般的生活危険﹂の概念を用いて︑因果関係の存否を判断しよ
( 1 5 )
うとする独自の﹁理論﹂である︒ここでは︑この全体構想について論じることはその場所ではないので︑この説がい
ぅ﹁一般的生活危険﹂の概念についてのみ言及しよう︒まず︑この説によれば︑﹁行為者の行為によって増減させら
( 16 )
一般的生活危険という﹂と定義される︒そして︑﹁一般的生活危険﹂にいう﹁一般的﹂
とは︑﹁その危険に関わる人の数量や構成をメルクマールとするのではなく︑行為者の行為によってはじめて生じた︑
( 17 )
新しく︵人為的に︶創出されたものでないことを意味する﹂というメートリッヒの定義を引用する︒そして︑そこか
ら推論して︑﹁数百万人に一人の割合で発病する稀有の病気であっても行為者によって増減させられないものであれ
ば一般的生活危険で﹂あるとする︒この意味における﹁一般的生活危険﹂概念は︑﹁高められた危険﹂の概念とほぼ
同義に用いられており︑その概念は︑実は︑﹁危険実現﹂の概念とほぼ同義である︒つまり︑この見解は︑
活危険の概念によって︑われわれのここでいう﹁危険実現﹂連関という一般的帰属基準の意味で用いているのである︒
この﹁一・五段階構成説﹂は︑凌駕的因果関係の概念と︑これとほぼ同義の一般的生活危険の概念を︑その﹁因果関
係﹂の判断基準における唯一の基準として用いるのであるが︑このような用い方には疑義がある︒あらゆる帰属連関
の判断を﹁一般的生活危険﹂という基準のみで判断することはできないことは︑この概念が︑被害者が︑第一次的危
( 18 )
険がなかったとしても︑遭遇していた危険かどうかをその実質的な判断基準としていることからも明らかである︒つ
まり︑この概念は︑﹁被害者﹂が︑第一の被害者とは異なる場合には用いることができない︒たとえば︑行為者に故
危険実現連関論の展開日 れていない法益侵害の危険を︑
︵ ︱
‑ 四
五 ︶
一 般
的 生
︑ ス
は ︑
一般的生活危険ではないのであろう 一般的生活危険なのであろうか︒それとも︑重傷を 意で刺されたという連絡を受けた母親が神経にショックを受けた場合︑あるいは︑息子が死亡したと思って自殺した
一般的生活危険性は否定され︑﹁因果関係﹂は肯定されることになろう︒また︑第二に︑被害者が︑自ら
の﹁任意な意思決定﹂によって危険行為を行った場合も︑この見解によれば︑﹁因果関係﹂が肯定されることになろ
う︒たとえば︑交通事故で顔を傷つけられた女性が︑悲観のあまり自殺した場合にも︑第一次的危険によって﹁危険
が高められた﹂ことは否定できないからである︒それとも︑この事故の加害者によるのでなくとも︑被害者は自殺し
ていただろうといえるから危険は高められていないというのであろうか︒そうだとすれば︑まさに︑どこまでの事実
を仮定するのかという基準が明確でないという批判が可能となる︒さらに︑第三に︑事故の被害者の手術を施した医
( 19 )
者が︑生体実験をしようと待ち構えてたため︑その患者に生体実験によって故意に殺害した場合について︑これを
﹁単独で結果を発生せしめえた一般的生活危険と解しうる﹂のであれば︑たまたま︑被害者がその医者の長年にわ
たって恨みを抱いていた人物だったので︑この機会にと思って︑手術にかこつけて殺害した場合には︑
険ではないのであろうか︒交通事故の被害者が︑たまたま薮医者のもとに運ばれたが︑重傷を負っていた被害者が︑
医師の軽微なミスで死亡した場合︑ 一般的生活危険なのであろうか︒この薮医者は︑重傷を負った被害者であれば︑
当該の被害者でなくても軽微なミスをおかしたであろうから︑
負っていた者は︑重傷を負っていたことによって︑危険を高めているのだから︑
一 般
的 生
活 危
か︒あるいは︑そのような場所で事故を起こしたがゆえに︑当該薮医者のもとに運ばれたのであり︑そのような手術
一般的生活危険なのであろうか︒ここでは︑どのような要素が︑仮定的判断の対象になるのかが︑明確でな
く︑その要素次第で︑異なった結論に至りうるのであって︑判断の安定性を欠く︒ 場
合 に
は ︑ 関
法 第 四 六 巻 第 二 号
六 〇
ニ 四
六 ︶
︻ 事
実 ︼ 社会制度的反応行動介入類型
六
﹁一般的生活危険﹂の概念は︑被害者の第一次的危険への遭遇の後の外形上の日常的状態や日常行動が日常生活に おいて遭遇する危険に限定して用いられるべきである︒この基準は︑第一次的危険に誘発されたものではあっても︑
その危険と内部連関のある被害者の状態や行動ではなく︑それと無関係にも存在しうる被害者の日常状態や日常行動 が︑遭遇する危険の発生の類型において用いられるべきである︒したがって︑被害者が︑第一次的危険の特有の危険 源となるその傷がもとで医者に生体実験をされるのも︑被害者が自殺するのも︑医師の過失行為が介入するのも︑日 常的生活危険の問題ではなく︑したがって︑﹁一般的生活危険﹂という帰属基準を適用すべき場合でもない︒
社会制度的反応行動の類型は︑被害者の側からではなく︑第一次的危険に対する社会の反応の側からの危険の介入 の判断の類型である︒この類型に属する危険の介入は︑直接的危険段階においては︑危険実現が否定されることにつ ながらない︒社会的制度的反応は︑予期しうる事態であり︑社会における通常の反応であって︑それを経過していて 例を挙げよう︒脳死段階での人工呼吸器取り外し事件(︻
3
︼大阪地判平五・七・九判時一四七三号一五六頁︶がそ
れ で
あ る
︒
X が ︑ 被 害 者 の 眉 間 部 を 右 手 げ ん 骨 で 一 回 殴 り つ け た と こ ろ ︑ 眉 間 部 打 撲 傷 を 負 い ︑ そ れ に よ っ て 脳 機 能 障 害 な い し
頭部外傷によるびまん性脳損傷の結果︑脳死状態に陥り︑脳死判定の結果脳死が確定された︒その後︑被害者の妻らは︑被害者
の 人 工 呼 吸 器 を 取 り 外 す こ と を 承 諾 し ︑ 医 師 に よ り 取 り 外 さ れ ︑ 心 臓 が 停 止 し た ︒
弁護人は︑被害者が心臓停止に至るにつき人工呼吸器の取り外しが介在しているところから︑被告人の暴行と被害者の心臓死
危険実現連関論の展開日 も︑危険実現連関が中断されるわけではない︒
( c )
︵ ︱
‑ 四
七 ︶
と の
間 に
は 因
果 関
係 が
あ る
と い
う に
は 疑
問 が
残 る
と 主
張 し
た ︒
︻ 判
旨 ︼
﹁ 被
告 人
の 眉
間 部
打 撲
行 為
に よ
り ︑
被 害
者 は
︑ び
ま ん
性 脳
損 傷
を 惹
起 し
て 脳
死 状
態 に
陥 り
︑ 二
度 に
わ た
る 脳
死 判
定 の
結 果
脳 死
確 が
定 さ
れ て
︑ も
は や
心 臓
死 が
確 実
に 切
迫 し
て こ
れ を
回 避
す る
こ と
が 全
く 不
可 能
な 状
態 に
立 ち
至 っ
い て
る の
で あ
る か
ら ︑
人 工 呼 吸 器 の 取 り 外 し 措 置 に よ っ て 被 害 者 の 心 臓 死 の 時 期 が 多 少 な り と も 早 め ら れ た と し て も ︑ 被 告 人 の 眉 間 打 撲 と 被 害 者 の 心
臓 死
と の
間 の
因 果
関 係
を 肯
定 す
る こ
と が
で き
る と
い う
べ き
で あ
る ﹂
︒
︵ 二
四 八
︶
( 20 )
この判決は︑先に挙げた平成二年最高裁の﹁木材置場事件﹂決定に依拠して︑介在した第二次的危険たる条件と死
亡の間の条件関係が存在しても︑第一次的危険と死亡との因果関係は肯定できるものとする︒本判決は︑第一次的危
険により﹁心臓死が確実に切迫している﹂状態にあることによって︑第二次的危険の介入が︑因果関係は認められる
としても︑死因に影響を及ぼしたという意味では︑重要性のないものとして﹁結果の抽象化﹂を行うものであるが︑
死亡時期が早められることによって︑人工呼吸器の取り外しと死亡との間の法的な意味における﹁因果関係﹂を肯定
したのかどうかは微妙である︒条件関係のみならず相当因果関係も︑
ようとも︑存在するのであり︑仮定的因果経過を考慮することによって因果関係を否定できないというのが︑通説で
ある︒材木置場事件決定において最高裁が︑角材殴打行為と死亡との﹁因果関係﹂の存否につき言及しなかったのも︑
この点を考慮して︑第一審︑第二審のようにこれを否定することを回避したものと推測される︒このように見てくる
と︑材木置場事件の事案とは︑異なり︑まさに﹁死因﹂に影響しそれを促進したのではなく︑医師の手によって心臓
の鼓動を支えていた人工呼吸器を取り外すことによって︑第二次的危険によって第一次的危険を﹁圧倒﹂するような
条件が設定されたようにも思われる︒しかし︑この事案では︑第一次的危険が︑第二次的危険によって﹁転換﹂され
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
いかにすでに﹁死亡時期﹂が確実に切迫してい
六六 たとはいえない︒なぜならば︑医師の人工呼吸器の取り外し行為そのものが︑第一次的危険により﹁内部誘発﹂され
この事案では︑確かにこのような事実的な危険の展開の事情は︑帰属判断の基礎となりうるが︑それは︑決定的な
ものではない︒むしろ︑危険事象に対する社会的・法的評価が最終的には重要な役割を果たすように思われる︒ここ
では︑脳死状態に陥った者の人工呼吸器の取り外しが︑社会制度的に見て︑正当化され︑非難の余地のないものでは
ないとしても︑社会的に異常な事象でもなく︑﹁受忍限度﹂内であることが意味をもつ︒すなわち︑脳死状態に至っ
た被害者の人工呼吸器の取り外しは︑脳死臨調によっても脳死を人の個体死とする見解が多数であり︑脳死説に立脚
しないとしても︑刑法学界の中でも︑脳死状態に至った者から人工呼吸器を取り外すことが︑違法行為でなくあるい
は期待可能性がなく責任を阻却する行為とする有力な学説が唱えられており︑大雑把にいえば︑社会的受忍限度内の
事象であるということができる︒このような第二次的危険の介入は︑社会的に予期しうる﹁相当な﹂反応の︱つであ
り︑社会のシステムの中にある程度取り込まれているものである︒それゆえに︑第二次的危険により惹起された死亡
結果も︑創出された第一次的危険の範囲内にあるということができる︒このように︑第一次的危険の創出に対して社
会の制度の中で介入することのある第二次的危険は︑直接危険の創出から﹁相当な﹂反応の範囲内にある危険である︒
このように直接的危険という大きな危険力の展開の前で︑そもそも第二次的危険の独自の意味はほとんど喪失させら
れ︑しかも︑第二次的危険は︑内部誘発された相当な危険であることが帰属肯定の理由である︒
次のドイツの判例の事案も︑人の行動の介入がある事例であり︑ここではさらに︑その行動が必ずしも社会的に適
切なものとはいえないが︑社会的に予期しうる反応の範囲内にあり︑﹁社会的に制度化された﹂内部誘発的なものの
危険実現連関論の展開曰 たものだからである︒
︵ 二
四 九
︶
シュトウットガルト上級裁判所︳九八
0年六月三
0日判決
( J N 19 80 , 6 18 )
︵ 二
五
0 )
X は︑ある夕暮れ︑住居地域に入る道を自車を運転していたが︑住居地域であることを表示した標識を見落として︑
高速度で前を走るオートバイを追い越そうとした︒追越しに入ったときに︑バスの停留所のある両方の歩道に︑一 0 歳くらいの
四人から六人の学童のいるのが見えた︒その時︑その集団の中から一三歳の女児 A が車道に飛び出してきた︒急プレーキをかけ
た が
及 ば
ず ︑
A を
跳 ね
︑
A は︑舗装に頭をぶつけた︒すぐに病院に運ばれたが︑脳挫傷の疑いがあったので︑集中治療室に入れ
られた︒専門医は︑軽い脳震盪および脳挫傷であると診断した︒事故の翌々日になって容態が悪化し︑脳内出血の疑いがあると
のことで︑頭骸骨が開けられた︒循環機能が衰え︑人工呼吸器を付けなければならなくなった︒その後︑ A は︑脳浮腫により死
亡した︒病院側が︑もう少し早く心鼓動の乱れや血圧の変動を止める措置を施しておれば︑子供の命は救われたであろう︒刑事
裁判所は︑過失致死罪で X を 有 罪 と し た ︒
︻4︼︻ 判
旨 ︼
れば︑しかし︑予見可能性は︑因果経過の予見可能性をも問うものでなけれはならない︒その際︑因果経過が︑﹁あらゆる生活
経験の外にある﹂かどうかが︑予見可能性判断の基準であるが︑﹁行為者の行為と結果の間の因果関係に︑第三者の意識的・無
意識的行為が中間項として介入する﹂場合に︑生活経験の外にあるとされる︒医療過誤の介在についても︑判例において重大な
過誤であったか無視しうる程度のものであったかなどの基準が展開されたが︑それらは︑十分なものではない︒
﹁しかし︑ただ治療ミスの重大さだけを基準とする区別では足りないことは︑後に生じうるミスの重大性を測定しうる基準が
ない限り︑偶然にそうであるというのではなく︑実際上︑必然的なものである︒この基準は︑一般的治療水準からの逸脱の程度
にのみ求められるものではなく︑まず︑第一の侵害によって創出された第一次的危険を手がかりにして発見されるのである︒医
︻ 事
実 ︼
枠内にある︒
判決は︑因果関係の中断を否定し︑構成要件的最終結果に対する予見可能性の存在にも疑いはないとする︒判例によ
関 法 第 四 六 巻 第 二 号
六 四
も妥当しなければならないであろう︒
六 五 療過誤が︑すでに第一次的危険によって惹起された危殆化の枠内においてのみ作用し︑義務違反によって創出された死の危険が︑ 最終的にやはり実現されたのだという以上のことではないかぎりで︑予見可能性[の判断]にとつても︑まさにこの特殊の危殆 化を抑制しようとする事後の努力に際して︑何らかのミスや誤った措置が行われたかどうか︑どの程度そうだったかが決定的に 問題ではありえない︒ただし︑すでに義務違反的な第一の侵害においてそれを確実に抑制しうるということから出発しうる場合 を除く︒その場合︑しかし︑結局︑死に至る第一の危険がないことになる︒これによると︑ツェレ上級ラント裁判所
( N
J W
1958 2
71 )
の敗血症事件においても︑ハム上級ラント裁判所
( N
J W
19 73 , 14 22 )
の血清肝炎事件においても︑医学的に必要とさ
れる輸血から生じる敗血症も︑肝炎感染も︑その種の事故侵害の直ちには排除できない危険に属するがゆえに︑予見可能性は肯
定されえたものである︒同じことは︑原則的に︑第一の侵害を抑制するために必要な手術麻酔の死に至る危険に対しても妥当す
る︒これに反して︑死に至る危険が︑第一の危険にすでに示されていたのではなく︑死の結果が本質的に医師の手術によっては
じめて作用した場合には︑その危険は︑第一の惹起者には︑予見可能であるとして帰属されえない︒したがって︑例えば︑侵害
が︑麻酔なくしても抑制されえたであろう場合には︑または︑さしあたっては死に至る傷を負っているとはいえない被害者が︑
まだ十分にテストされていない治療方法のために死亡したときは︑予見可能性は否定される︒同じことは︑死がすでに第一の侵
害を抑制する時にではなく︑後の整形回復処置の時にはじめて発生した場合には︑ライヒスゲリヒト
( R
G S
t
29 , 2 18 )
の 事 案 に
新しい﹁保護目的論﹂も同じような区別に至る︒それによれば︑第一の惹起者は︑後に生じうる医療過誤にも︑﹁事故の被害
者の死が︑行為者によって義務違反的に創出された危険の実現﹂を意味する限り︑帰属されうるのである︒連邦裁判所︱二巻七
五頁七八頁
( B
G H
S t
12 , 7 5)
の判決も︑同じ意味において理解してよい︒それによれば︑介在する事情の予見可能性は︑﹁結果
がもともと社会生活上の義務に違反する行為の可能な作用の枠内にとどまる限り︑問題にはならない﹂のである︒
﹁このような諸原則によれば︑本件においては︑致死の結果の客観的予見可能性を認めるについては︑決定的な疑いは存在し
危険実現連関論の展開日
︵ ︱ ‑ 五
一 ︶
︵ 二 五 ︱
‑ ︶
な い
︒ な
ぜ な
ら ば
︑ 医
師 お
よ び
看 護
人 が
事 故
の 被
害 者
の 死
に 導
い た
脳 震
盪 を
︑ 誤
っ て
適 時
に 認
識 せ
ず ︑
従 っ
て ︑
必 要
で 可
能 な
救
助 措
置 を
遅 く
取 り
す ぎ
た 場
合 で
す ら
︑ 致
死 の
最 終
結 果
は ︑
つ ね
に 義
務 違
反 的
に 被
告 人
に よ
っ て
惹 起
さ れ
た 第
一 の
危 険
の 枠
内 で
作
用 す
る も
の で
あ ろ
う か
ら で
あ る
︒ な
ぜ な
ら ば
︑ ⁝
⁝ こ
こ で
問 題
に な
っ て
い る
種 類
の 頭
蓋 骨
・ 脳
の 侵
害 に
お い
て は
︑ 脳
の 生
命 に
危
険 な
浮 腫
の 発
生 の
可 能
性 は
︑ 直
ち に
排 除
で き
な い
危 険
に 属
す る
か ら
で あ
る ﹂
︒
このようにして︑本判決では︑﹁予見可能性﹂の概念を用いても︑﹁保護目的﹂の概念を用いても︑第一の事故にお
いて﹁創出された危険﹂の大きさが︑具体的結果の発生についてすでに覆っているかどうか︑﹁第一次的危険の枠内
で作用するもの﹂かどうかが︑危険実現連関の判断にとって重要であるとする︒ここでは︑介在した医師の過失の介
入は︑第一次的危険そのものがもつ危険性から直接に脳浮腫の発生の危険が導かれるために︑意味をもたないとされ
ているのである︒本事案では︑﹁治療ミス﹂の介入は︑創出された第一次的危険の寄与度の大きさの中で意味を失っ
の︱つであって︑こ ているのである︒第一次的危険は︑治療ミスという第二次的危険を内部的に誘発しており︑第二次的危険は︑社会的
( 21 )
に正当化されうるものでないとしても︑社会的制度的危険の相当な付随的危険
(B eg le it ri si ko )