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琉球国から琉球藩へ : 琉球処分の版籍奉還的意味 を中心に

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(1)

を中心に

著者 川畑 恵

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 34

ページ 147‑180

発行年 2008‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00007255

(2)

琉球処分とは、日本政府が、琉球・沖縄地域を近代日本国家に統合していく一連の歴史過程である。その期間としては、一八七二年の琉球藩設置前後の頃から、一八七九年に廃藩置県が宣言され、翌年

の分島改約交渉を経て、明治一四年政変に至るおよそ一○年間が、琉球処分期として設定される。日本政府から見れば、歴史が完全に並行していない一」とを意識していながらも、独自の存在であった国

を藩として設置した上で、改めてそれを廃し一県として設定していく歴史過程であり、中央集権化へ

の一過程である。琉球・沖縄から見るならば、日本国家への完全なる包摂Ⅱ併合過程といえるである はじめに

琉球国から琉球藩へ

l琉球処分の版籍奉還的意味を中心にI

川畑恵

(3)

う。琉球・沖縄にとって、日本に編入されることになるのは、琉球処分以後が初めてなのである。維新史的には、琉球処分を明治維新の終期として捉える見方がある。すなわち、琉球処分により琉

(2) 球の廃藩置県が行われ、はじめて日本の近代国家としての統一が一元成すろとするのである。近代国家としての統一が、いかなる実体を伴っていたかにせよ、その意味でも琉球処分は、追求されていく(されるべき)歴史的テーマであろう。また琉球処分について、その時系列的な事実関係については、

(3) かなり明らかになっているが、明治維新全体の枠組みのなかで琉球処分をどのように捉えるか、実証

的に検討してきた研究には乏しい。依然、残された課題も多い分野ではある。

本稿は、琉球が内務省管轄とされる以前の、琉球処分方針をめぐる政府部内の検討を目的とする。本稿では、琉球処分を日本政府による中央集権化の一統合過程として捉えている。その統合には当然、

そのための理由付けが必要である。そしてその根拠に、日本政府は歴史的関係を強調してきた。現在、(4) 琉球建藩以前に大蔵大輔井上馨・陸軍大輔山県有朋・外務卿副島種臣の建議、及び井上建議に対する答申として左院の答議がある。これらの建議・答議のうち、就中、井上建議と左院答議は、松田道之

(5) 編『琉球処分」全一二冊に収められたこともあり、琉球処分研究の不可欠史料として検討され続けてい

本稿は、まず琉球処分過程における版籍奉還的側面の検証を行う。安良城盛昭氏は、琉球処分の特質として、歴史的前提としての版籍奉還の欠如を指摘する。安良城氏は琉球の前近代史を検討し、版 フ(》。

(4)

籍奉還の行われる歴史的条件の未熟さを説き、版籍奉還を欠いたままの廃藩置県が、琉球にとって全く他律的になったとしている。また島津氏の版籍奉還は、琉球支配権の返上Ⅱ放棄ではありても、そ(6) のことが直ちに琉球王尚泰の琉球統治権の天皇への返上に必ずしも直結しない、ともいう。安良城氏が説く如く、歴史過程を完全に共有していないため、日本本土と同様の版籍奉還は行われなかった。しかしながら、廃藩置県には版籍奉還が前提として必要されたこと、すなわち、廃藩置県への過渡的(7) 段階として重要な意味を持っており、琉球の廃藩置県にも同様の歴史過程が前提されているはずであ

●● ろ。本稿は、日本政府としては、琉球王による琉球版籍の天皇への返上という形をとって、はじめて沖縄置県過程を開始できたのではないか、そしてその画期は、琉球藩が設置された一八七二年九月の(8) 維新慶賀便派遣ではないか、と考えている。そして、日琉関係史上、琉球王が天皇から華族に列せられたことに重大な意義を認めており、日本本土の版籍奉還が琉球処分に及ぼした影響を無視できないものと考えている。

なお本稿は、版籍奉還から廃藩置県へという日本本土の歴史過程を、そのまま琉球・沖縄の歴史に当てはめようという意図はない。単一化できない歴史を振り返るためにも、日本史と琉球・沖縄史との比較の観点は必要であり、それはなおこれからの視座の拡大につながると考えている。山口啓二氏

は沖縄復帰(Ⅱ施政権返還)直前に、「沖縄の一つの特殊な例に光を当てることで、日本史の時代区

(9) 分問題を解く鍵がみつかるかもしれない」と発一一一一口した。あくまで日本史に基準を置いた見方ではある

(5)

が、従来の琉球・沖縄史を欠落させた日本史研究を批判している。この時期の日本の「沖縄再発見」は、特に歴史学において琉球・沖縄史を等閑視していた現状に対し、反省を促すものであった。しかしそれ以降、東アジア史・東南アジア社会を意識しての研究が増える一方で、日本史を意識したそれが、逆に見落とされているようにも思われる。本稿は日本史を意識しているが、東アジアの中の琉球の側面を無視したものではない。絶えずそれを念頭に置きながら、日本へ併合される過程を描きたいと思っている。

もある。 一版籍奉還と琉球

(、)本章では、日本本土における版籍奉還と琉球処分との関係を確認する。それは、琉球処分開始前の日琉関係を再認識することであり、かつ版籍奉還が琉球処分に与えた影響の大きさを検証することで なお、本稿では、琉球・沖縄という呼称について、地方・地域を表わす場合は沖縄を、琉球国Ⅱ藩を含めた行政単位としては琉球を使用する。また本稿は、すべて一八○○年代であり、以下、上二桁の一八は省略する。

(6)

六八年九月八日、慶応四年が明治元年と改元されると、同年一一月一一四日、「大和年号当九月八日(u) より明治と被相改候旨去廿一日到来候間同日より用候様可被申渡者也」と、明治年号の使用が一二司官より言い渡されている。これは、一般人民に明治の正朔を専用せしめることではなく、単に慶応の年号を用いるような場合、明治を使用することを通達したにすぎず、その適用範囲は先例に準拠すると

(皿)一一一一口われている。新政府発足直後の六九年一一月には、京都府が明治天皇東幸の趣旨を説いた告諭において、「深重ノ思召ハ蝦夷琉球ノハテトテモ日本ノ土地一一生レシ人々ハ皆赤子ノ如ク」と諭し、蝦夷地(皿)とともに琉球が日本に属しているとの認識を新政府は有していた。この当時より新政府は、鹿児島藩の附庸に属していた琉球を日本の版図として捉えていたのであって、それは鹿児島藩の意向にそって

その所属が決定していくものと認識していた。

ニハ九年一月二○日、山口藩主毛利敬親・鹿児島藩主島津忠義・佐賀藩主鍋島直大・高知藩主山内豊範が連署上表、いわゆる版籍奉還の上表を行った。以降、これに倣う藩が続出したが、提出藩におい

ても奉還に対する不満は強く、「版籍返上知藩事被仰付之儀(中略)然処如此徒に遷延候ては列藩向

(M) 背にも係り如何に付断然十七日より御用召知藩事被仰付候事に御決有之度」と議定岩倉具視が一一一一口うよ(巧)うに、上表聴許の御沙汰発布が急がれていた。一ハ月一七日の版籍奉還願出の御沙汰書は、一月の四藩

主提出上表を基軸とし、それに副う内容を伴うものであるが、実体的な変革を伴うものではなかった。しかしこれにより、藩主が中央政府の任命した行政官としての身分を持つこととなり、形式上、政府

(7)

(脳)は自ら官吏を任命し、全国を統治することとなった。六月一七口uの版籍奉還の勅許が「知藩事」任用(Ⅳ) に限定されるにせよ、各藩主が知藩事を仰せ付けられたことは、廃藩置県への一前提L」して、藩権

力解体作業の一環としてなされた版籍の藩主から天皇への返還であり、従来までの主従関係が制度的に廃止されたことになる。しかしこの制度的廃止は、従来における藩による個別封建領主制の廃止であったが、封建制そのものの廃止ではなく、政府は個別領主権の接収の代償に、藩主層の既得権益をある程度まで継続することを図らねばならなかった。そのため旧藩主層が知藩事として温存された。(旧)中央政府への集権化過程で、失業する層を華族にするこ上」で、円滑な集権化を成功させたのである。そしてそれは、なるべく近い将来を予定していた琉球処分の在り方への、一つの指標となった。その意味では琉球処分にとって、版籍奉還の持つ意味は決して小さくはない。

(四)(卯)阿波徳島藩ほか一四の未提山山藩には、改めて版籍奉還が命令された。未提出藩それぞれに事情は異

(別)なるであろうが、例えば川越藩は、府藩県一一一治の藩県併立論に立っていたし」いわれている。宇都宮藩

主戸田忠友は四月三日付弁官に宛て、(前略)今般版籍奉還之儀各藩追々及建白候趣伝承仕候、元来爵録取与之大権ハ朝廷之被為執候処也、尺地一民モ人臣ノ敢テ不可私有儀天下之公道卜奉存候、依之微臣唯百事奉仰天裁候一一付今更一一奉還之儀不奉願候(後略)と言い、その添書が示す戸田(Ⅱ宇都宮藩)の不奉還の論理は、時勢が変わったからといって、改め

(8)

て版籍返上を申し上げることはなく、返上しなかったのは決して怠慢に及んだわけではない、ということである。これには王土王臣論を自明のこととしているとの背景があった。つまり王土王臣論的不(朗)奉還を唱えていた。琉球との最大の差異は、天皇の王土王臣論を自明とするか否かである。政府は王土王臣論の通用しない琉球を編入するにあたり、王土王臣論を押しつけるか、もしくは王土壬臣論抜きの新たな論理の構築を迫られたが、論理構築の代わりに、近い過去、すなわち島津氏を通じて幕藩体制下に編成されていたという歴史を根拠として、編入の既成事実化を進めていくことになる。そし

て、すべての藩が自主的に版籍を返納しなかったことは、返納命令を出し得るという経験を政府に与えたことで、琉球処分方針作成にあたって大きな材料ともなった。琉球が版籍奉還・廃藩置県を拒否

するのであれば、その対処法に、経験を生かせることを学習したのである。(鯛)島津忠義が鹿児島藩知藩事に任命され、また華族を仰せ付けられると、改めて鹿児島藩による琉球管轄が確認された。ここで島津氏が版籍奉還を行い知藩事に任命されたからといって、安良城氏が言うように、それは琉球支配権の返上Ⅱ放棄ではあっても、そのことが直ちに琉球王尚泰の琉球統治権の天皇への返上に必ずしも直結しない。だからこそ、改めて尚泰による琉球統治権の天皇への返上を求めねばならないが、琉球側の自主的返上は望むべくもない以上、それに代替する行為を創出することが必要となる。そのためには諸侯も王も、まず天皇の前では同一の存在であることが最低条件であ

り、そして尚泰の領主権を大名統治権と同じように喪失させなければならないのである。

(9)

版籍奉還の断行は、「郡県制」への移行をめぐる政府内の対立が続いた結果、まず最初に「知藩事」任用と公卿・諸侯の廃止にともなう華族任命の勅許が、あわただしく遂行され、旧体制の変革にむけ(跳)た各般の企図は、十分な議論と調整ができないままに先送りされたとされる。しかしその華族は、版籍奉還実施に当たって奉還大名の処遇のため急設されたものであり、何の実体もない空名であったと(窃)(那)もいわれている。そしてその華族間に生じた動きが、華族の同族化であり、皇室の藩屏化である。旧来の日本国内において、琉球王はいずれの階級・階層にも属すことはなかった。しかし旧来の公卿・諸侯を一体化して、新たに華族を創出すれば、その新設の華族には琉球王という「異物」も吸収することが可能となる。華族創設の際に、琉球王の存在は意識されてはいなかったにせよ、結果としては、琉球王を処遇するに適当な吸収媒体ができたことになる。版籍奉還が実施されたからこそ、華族が誕生したとも言える。版籍奉還は、不奉還藩へ返納命令を出し得ること、そして華族という琉球王を吸収する媒体を創出した意味で、琉球処分にも多大な影響を与えたと言える。次章では、その具体的実践策についてみて

い〃、。

(10)

本章では、七二年の内務大丞松田道之来琉直前までを、井上馨及び山県有朋の建議、そして左院の答議に見られる問題点を中心に論述する。それは版籍奉還・廃藩置県という歴史過程を経験した日本政府が、琉球の日本所属を明確にしていく方策の端緒を探るものである。七二年五月に井上が提出した建議は、政府による琉球処分の必要性を初めて宣言するものであった。

(幻)まず、琉球王尚泰に対して、琉球の版籍を納めることを求めた。

井上建議の眼目は、「彼ノ酋長ヲ近ク關下二招致シ其不臣ノ罪ヲ諸責シ」、「彼ヲ使テ悔過謝罪茅土ノ不可私有ヲ了得セシメ然後速一一其版籍ヲ収メ明二我所轄二帰シ国郡制置租税調貢等悉皆内地一軌ノ制度二御引直」とする観点である。この井上建議には、一方において琉球を「内地一軌ノ制度二御

引直」すことを目指していたものの、それに対する強い阻止要因を琉球が有していることに配慮して

(酩)いない、との指摘があるが、その阻止要因に対する低評価こそが、「御引直」の論理がためらいもな

く主張できる大蔵省の根拠の一つであり、山県建議との相違である。この建議は、六九年の版籍奉還

が強く意識されている。井上のいう「内地一軌ノ制度二御引直」の前提とされたのは、「彼ヲ使テ悔過謝罪茅土ノ不可私有ヲ了得セシメ然後速二其版籍ヲ収メ明二我所轄二帰」すこと、すなわち尚泰が

謝罪して琉球の統治権を否定した上で、版籍を奉還することである。版籍を奉還するということは、 二井上・山県建議と左院答議

(11)

「抑臣等居ル所ハ即チ天子ノ土臣等牧スル所ハ即チ天子ノ民ナリ安ンソ私有スヘヶンャ今謹テ其版籍ヲ収メテ之ヲ上ル願クハ朝廷其宜二処シ其与フ可キハ之ヲ与へ其奪う可キハコレヲ奪上凡列藩

(羽)ノ封土更二宜シク詔命ヲ下シコレヲ改メ定ムヘシ」ということであり、それを実行に移すことである。予想され得る非王土王臣論に、尚泰の「悔過謝罪」を持ち出すことで対抗したのである。そして

そのためにこそ、尚泰の上京が不可避となるが、それはあくまで日本政府の論理の強要であり、琉球

が到底承認できるものではない。日本政府にとって、予想される摩擦を最小にとどめるために必要なことは、琉球と鹿児島県との歴史的関係を最大に利用することである。そのためには従来までの謝恩慶賀使を維新慶賀使へと転換させ、明治天皇に拝謁させることが効果的となる。井上建議の示す方向は、以上を実践する(させる)ことである。つまりは明治天皇・明治新政府と琉球王・琉球王府との関係を、「一視同仁皇化洽挾」とする中で捉え直することが、最初の階梯であり、速やかに「内地一軌ノ制度」を布くこと、すなわち県を設置することによる完全な地方化が最終目標として設定され

ているのである。この建議は、後に琉球処分過程で最大問題となる二つの中心的な主題を提議している。一つには王土王民的論理を琉球側に押しつけることによって、琉球王尚泰の日本の天皇への忠誠を強要したことであり、二つには中国との伝統的関係の解消、つまり冊封l朝貢関係の断絶を迫ったことである。これは両者ともに、琉球国の社稜につながる問題である。この問題を同時に解決し得ないものと判断した政府は、前者から整理することになるのである。

(12)

(釦)翌月提山山された左院の答議は全九章からなるが、その中から琉球壬の地位に関する条項に焦点を絞り検討してみる。第六章の冒頭は他の八章とは異なり、外務省申立琉球取扱う三ケ条ノ中外国ト私交ヲ停止スルハ較ご可ナリトスヘシ其華族併琉球藩王ノ宣下ハ異議ナキーーァラスといい、外務省の申立に対する左院の見解である。清国との独自の外交を停止させることは了解しながらも、尚泰を華族にして琉球藩王を遷下することに神経をとがらせている。そして上記の理由として、井上建議が歴史的に日琉関係が密接であったことを説いているのに対し、左院では「琉球国主ハ(皿)乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スヘカーフス」とする見解を打ち出している。これに(犯)ついて政府内部に存在する伝統的な琉球Ⅱ異国論の影響が指摘されていうCが、井上・山県両建議は、日琉の歴史的関係に重きが置かれているせいか、左院答議ほど強く琉球Ⅱ異国論的論理が貫かれては

ここで左院が正院から琉球処分の審議上陳を命ぜられ、井上建議と異なる内容の答議を提出した背景には、地方統治に関する大蔵省と左院との対立があり、それが琉球政策にも少なからず影響を及ぼ

していることを念頭においておく必要がある。七一年九月中旬には地方行政を巡り、大蔵省と左院の対立が顕在化し、この過程で左院は自らの権限拡張の必要性を打ち出した。また、奏任官以上の任免

権を有していたのは正院であったが、事実上は大蔵省が実権を掌握しており、大蔵省の職掌を「租税 いない。

(13)

(郷)勧業」に限るべきだとする左院は、大蔵省の地方統轄には批判的であった。大蔵省L」しては、その職掌として地方統治関連業務を担っており、当初から琉球問題を担当することに積極的であった。左院が大蔵省の琉球管掌には消極的で、大蔵省より外務省に担わせるべく答申したことは、琉球使節接待に関し、「(前略)国内地方官ノ朝集スルト同日一一談スヘカラス維新後今般使人始テ来朝スレハ其事件モ地方官ノ朝集スルョリ重大ナラン故二各国ノ応接一一熟シ且シ其官員モ全備シタル外務省ニテ権リニ其事ヲ掌ル寧ロ大蔵省ヨリモ便ナリトス」(第四章)とする見方にも表れている。それに対し大蔵省は、八月一三日付で史官に対し、井上が「(前略)此般接対ノ礼ハ大略版図内ト看倣シ旧習ヲ改革致

(弧)シ漸各地方官朝集一般ノ御処置二帰シ候様仕度右ハ御躰裁ニモ致関係候義(後略)」と、自らが管轄する地方官会同とまったく同様の扱いを求めていろ。しかし左院は、先の答議とは別に、「琉球国使者接待之議」とする意見を残しており、前半部は第四章全文と同一であるが、これに続いて、外務省ニテ琉球使人ヲ待遇スルニ限り内国事務ノ心得ヲ以テ欧米各国ノ特派使節トハ格別ノ事ト(妬)為シ両国匹縄ノ礼ヲ用ヒス属国ノ扱『フナサシメ旧幕府接待ノ式ヲモ参考スルヲ可ナリトセンとの見解を示しており、大蔵省との琉球に対する意識の違いが明白となっている。大蔵省が、国際的

観点からも、琉球問題を当初から内政として扱う、つまりは大蔵省管轄に置かんとしているのに対し、左院は性急な内国化を求めておらず、むしろ旧来の方針を維持しようとしている。外務省は、八月一五日付で正院に宛て、

(14)

近日琉球人上京に付ては接対振の儀見込可申進旨致承知候同国は固所属の儀に付外国人と視傲し接対候には不及候乍去猶客体を以被遇候儀に付琉人に附添来候鹿児島県官員共総て本省に属し右接対御用掛被命御維新以来初て入貢の儀に付優握の御取扱相成可然存候右にて可然は本省井鹿児(詔)島県へ速に御沙汰有之度候也

と、琉球の日本所属を自明のこととする認識を提出しており、琉球の「入貢の儀」と鹿児島県との関係を強く意識している。太政官は、これにしたがって接遇に関する万事取扱を外務省へ委任した。大蔵省と左院との琉球をめぐる見解の相違のなかで、外務省は独自の姿勢をとったが、維新慶賀使の接(胡)待を軸に、左院に近寄った。しかしあくまで琉球の日本所属を鮮明にしていた。(羽)また左院答議第七一旱の規定には、朝貢1冊封関係的な発想が窺える。左院答議は、井上・山県両建議とは異なり、日清両属を不可とはしないものであったが、第八章は、前章を承けて「我ヨリ琉球王一一封シタリトモ更二清国ヨリモ王号ノ封冊ヲ受クルヲ許シ分明二両属ト看倣スヘシ」と規定する。左

院答議は「我ヨリ琉球王一一封」することが清国へどのような影響を及ぼすのか、について考慮されていない。両属という形態を許すことは、日本の皇国イデオロギーの発揚であり、西洋から新たに学習した帝国観念に基づいている。

左院の琉球処分論は、政府部内の欧米の脅威を意識した琉球処分推進論とは、対照的な欧米観をとつ(㈹)(机)ていたとの見方があり、また左院答議はどこまでも両属を固執しているにすぎないとの指摘もある。

(15)

しかしその両属とは、あくまで左院が理解する両属であって、琉球及び清国が共通して理解している

●●●● ものとは隔たりがある。左院答議は、中華秩序に依拠しているようで、中国との朝貢関係をほとんど

経験してこなかった日本一国史的発想から解放されているものではなかった。幕藩体制下の徳川時代は、「日本型華夷」秩序を形成することで、「中華Ⅱ中国」という等式を相対化することに成功してい

(蛇)(鍋)た。琉球の「藩属化はかえって冊封関係の清算を困難にするという問題」との指摘があるが、明治維新以降、琉球を日本国家へ統合していく過程において、琉球の日清両属という伝統的関係を再編する

ことは必然とされていく中で、左院答議は両属関係を、日本主導型に置き換えることを模索していた

八月には陸軍大輔山県有朋が建議を上呈する。山県建議と井上建議は、ともに処分着手の必要性が

(“) 挙げられ、総じて山県は国際的視野に立ち、井上は国内的視点を専らとしている、といわれている。(妬)山県建議は井上建議と同様、「其主ヲ朝セシメ我ノ華族二列セシメ我ノ政令ヲ奉セシメ」ろとの方針はみられるが、井上建議・左院答議にはみられない特色として、琉球所属問題に関する日清協議の主張がみられろ。しかし同建議は、琉球が清国の正朔を奉ずるのは「僅力一一恩恵ノ賜ヲ貧り貿易ノ利ヲ重ンシ卑辞以テ自ラ尊大ニスルノ愚ヲ欺クニ過キサル耳」との認識を示しており、必ずしも日清同等

の立場に立ち協議するという態度ではない。また琉球王の地位に関する論旨は、井上建議の意向に異なるものではないものの、尚泰に対する要求ばかりではなく、「保護ノ法ヲ立テ」ることで、よ》っや のである。

(16)

く諸外国に日本の琉球所属を明示できるとしている。しかし山県建議が上呈された翌月に、維新慶賀

使の天皇拝謁が行われたことを考慮すると、政府部内でこの建議が十分に検討されたとは言い難い。いずれにせよ、井上・山県両建議は、元来、琉球が日本の主権範囲内であることを前提としており、明治新政府が発足されてから、特に廃藩置県が断行されてからは、沖縄が日本の一地方となることを必然としているものであった。以上をまとめると、琉球処分は、その処分着手の必要性は認められていながらも、その在り方等を(輪)巡って政府部内で異なった見解が存在していたことになる。琉球処分とは、琉球国が有してきた歴史的関係の清算を求め、日本本土と同様、版籍奉還過程、もしくはそれに代替する過程を経ることにより、中央集権国家体制に編入することを可能としたものであった。そうであるからこそ、政府は琉球の版籍奉還を象徴的に演出する必要がある。そしてその契機となったのが、七二年九月の琉球国から

の維新慶賀使上京であった。

七二年九月一四日、上京した維新慶賀使は、朕上天ノ景命二腐り萬世一系ノ帝詐ヲ紹キ奄一一四海ヲ有チ八荒一一君臨ス今琉球近ク南服ニ在り気 三尚泰への華族宣下

(17)

類相同ク言文殊ナル無ク世々薩摩ノ附庸タリ而シテ爾尚泰能ク勤誠ヲ致ス宜ク顕爵ヲ予フヘシ陞シテ琉球藩王ト為シ叙シテ華族二列ス杏爾尚泰其レ藩屏ノ任ヲ重シ衆庶ノ上一一立チ切二朕力意ヲ〈灯)体シーナ永ク皇室ニ輔タレ欽ョ哉

との詔書を受けた。この拝謁の実態は、明治国家の琉球に対する冊封儀礼にほかならなかったが、まずこの拝謁の中心的役割を果たした外務省の琉球方策について検討する必要がある。

「陞シ」た結果が藩王であるから、琉球王より琉球藩王の方が上位に置かれていることに注目した(棚)い。李氏朝鮮王朝が、清朝皇帝から藩王に封ぜられ、冊封体制下に置かれたのとは、決定的に異なっ

ており、政府は冊封l朝貢体制下における王より、日本国家が管理する藩主を重視しているのである。慶賀使が上表した表文は、琉球出発前に使節に同行した鹿児島県権典事右松祐永ほかと打ち合わせた(伯)もので、最後に外務省で中山王尚泰を琉球尚泰と訂正している。接待の一切を取り仕切った外務省で

●● は、あくまで王の存在を許さなかったのである。そして琉球藩王宣下が行われた。詔書は、藩王宣下に反対した左院答議を否定したようではあるが、両属維持方針を当面は、というより即座に拒否しなかったということでは、折衷を図ったともいえるのである。九月三日付で外務少書記官大原重実は欧米出張中の岩倉に宛て、

(前略)琉球王子伊江王子宜野湾親方其外都合三十七人来朝(中略)参朝可相成候此より之見込は華族之号を賜り中山藩王に封し勝手に外交する事を禁するの事既に卿より建言に相成候右全

(18)

見込通に相成候得は全く日本の属国と申者に有之只今之所にては清国日本両属暖昧たる者に有之(釦)候何卒見込通被行候事翼望する所に有之候(後略)と書き送る。前述したように、左院答議第六章の冒頭は、「外務省申立琉球取扱う三ケ条」の存在を示唆している。この外務省の申立が副島の建議、つまり「亦建議シテ琉球王尚泰ヲ藩壬一一封シテ華族

(皿)(皿)二列シ其外国トノ交際ヲ週メンコトヲ請う」建議のことである。大原は外務省の申立がその通りに実施されるであろうことを見越しており、また日本の属国にすることで、両属状態という暖昧さが解消されることを企図していろ。この時点での政府部内の琉球論は外務省が主導しており、詔書は副島建議の実践化なのである。左院議官宮島誠一郎は、琉球処分案が正院へ上陳された後、左院にて副島と

議論とした時のことを次のように記録している。(前略)琉球処分議案正院へ上陳セシ其後副島外務卿左院へ来リ已二琉球国王一一於テハ我封爵ヲ

受ルヲ悦フノ内情有之認タリ価テ左院二於テ異義有之候一ナハ施設上頗ル差支有之旨御談有之副島は左院に対し、外務省主導による琉球処分方針を主張しており、この時点での外務省の強い姿勢

があらわれている。これに対し宮島は、「但本院ハ議政ノ局ニテ本自行政上一一ハ関係不致決議ノ後ハ正院ノ施行二帰スル而已云々」と返答していろ。

正使伊江王子尚健ほかは、すぐさま「(前略)聖恩寡君ヲ封シテ藩王トナシ且華族二班セシム(後

(別〉略)」との御請申上(「藩王御請」)を行った。ということは拝謁以前に、すでに尚泰を藩王にして華

(19)

族に列せしむることが使臣へ通知されていたことになる。前述したように、慶賀使の持参する文章は右松ほかとの合作で、しかもそれを外務省が「加工」したのであれば、外務省の意図した通りに明治天皇の拝謁(Ⅱ日本国への冊封)が行われたことになる。後藤新氏によれば、副島が外務省申立を受(弱)諾するように維新慶賀使を説得したのは、九月九日のことだという。副島は、維新慶賀使の拝謁直後、正院へ対し、「此度琉球使節尚泰二代り封冊ノ詔書ヲ謹領シ候上ハ彌以我藩属ノ体制徹底ニ到り候様

(髄)(訂)御処分有之度」と、琉球処分過程における拝謁の意義を認めている。原口邦紘氏によれば、「藩属ノ体制徹底」箇所を外務省草案からみると、藩王冊封によって琉球の「藩属」の体制を確定し、藩王冊封の「御趣意」を尚泰並びに琉球藩士民に徹底させるということが、政府の対琉球施策の絶対方針であったことが窺われ、そのためになによりもまず、外務省により管理体制の樹立が図られねばならな(鉛)かつたという。まさしく外務省主導で琉球処分が開始されたとも一一一一口えるのである。翌七三年八月には、副島・外務省六等出仕伊地知貞馨より在東京琉球藩臣に対し、「琉球国躰政躰(弱)、氷久不相替且清国交通是迄通被仰付候段」と発一一一一口されている。この発一一一一口では旧来通りが強調されてお

り、両属の可否さえ問われてはいない。前記外務省申立がなされた時期は、当然、左院答議の前になるが、一年を経て一段と外務省の姿勢が強調されている。九月には伊地知・外務大丞花房義質より伊江王子に宛て、朝廷への反抗あるいは被治民への残虐行為のない限り廃藩処分はないこと、またすでに締結した外交条約・外交案件は外務省の指示に従うよう書面が提出され、一○月には再度「国躰政

(20)

(印)躰永久不相替」についての確認がなされている。七一二年の副島等の発一一一一口について、「外交の権を回収(Ⅲ) するに急なるの余、其の歓心を買はむし」したる筍安姑息の権法に過ぎざりしと雌」との評価がある。しかし琉球をめぐって大蔵省・左院・外務省とが微妙な競合関係にあったことを考えると、上記副島等の発言は、琉球藩臣に対する慰撫をも含めて、琉球問題に関する外務省の権限拡張策とも考えられなくもない。外務省は大蔵省のように性急な内国化路線を採るのではなく、琉球を藩として存続させ、維新慶賀使の拝謁時の段階より強固に、外務省で維持・管理していく方向へと方針を強めた。つまり、左院が模索していたような日本主導型の両属関係の中で、琉球を日本専属へと移行させるべく企図していたのである。そしてそれを推進するのは大蔵省・内務省ではなく、外務省であらねばならなかつ

「叙シテ華族二列」せられた華族には、前述したように、前史未共有の尚泰を受容する作用があっ

た。尚泰は、版籍奉還後の六九年一二月以降八四年七月の華族令制定までの間に、新たに華族に加えられた七六家の内の一つであり、この時期に華族に列せられること自体は、特に例外というわけでは(舵)ない。七八年一○月に華族の特別族化のため編纂された『華族類別録』は、皇・神・外の一二別体制をとるが、尚泰は肥後守家定蕎の木下利恭・木下俊原とともに、その枠外にある。華族という範嶬では(田)完全に「異類」ということでもないのである。また、拝謁が終わった九月一一九日付で、藩王は一等官(晩)取扱を仰せつけられている。同時期の状況をみれば、一等官は、正院における太政大臣・左大臣・右

(21)

大臣・参議・左院議長・諸省長官、神宮における祭主、開拓使長官および各省の卿のみであり、府県の長としては、府知事が三等官・県令が四等官であることを比すれば、尚泰の一等官は開拓使長官と並ぶ等級である。尚泰の一等官待遇は、「等級定めず候てハ不都合二候故王爵の廉を以て」与えられ(閲)たものであったとしても、かなりの優遇なのである。そして「爾尚泰其レ藩屏ノ任ヲ重シ」とは、初めて琉球人が皇室の藩屏となった(させられた)ことを宣言するものであった。

詔書の示すことは、あくまで日本政府による一方的な通知であったが、維新慶賀使がそれを収受し

たことにより、詔書を琉球で一方的に拒否できないものとなった。つまり、藩王御請があったからこそ、詔書が示す内容が琉球に対し効力を持った、ということである。片方による一方的な宣言だけで

●● はなく、受容側が「御請」という儀式をとることにより、初めて関係が成り立ったのである。従来、冊封という関係の中で王の代替わりを自主的に決めていた琉球王及び壬府にとって、藩王という地位を与えられた(持たされた)ことの意味は、知藩事と同様、日本政府によりその任免権を掌

握されることである。天皇と皇帝とは異なるものであるとはいえ、天皇と王の併存は認められない。尚泰が華族に補せられたことは、前述したように、円滑的な日本帰属への条件であった。尚泰の処遇を他の諸侯と同様のものとしその存在の特異さを喪失させることにより、日本国家への包摂が摩擦の少ないものとされたのである。藩主と藩王との扱い方は異なったが、華族へと編入することで統一した。井上(Ⅱ大蔵省)建議は、尚泰による自主的な版籍奉還を促したが、琉球側はそれに抵抗した。

(22)

この建議提出から僅かの期間に、政府から一方的に「琉球藩壬卜為シ叙シテ華族二列」せられた。それは尚泰および琉球王府官僚にとってみれば、版籍奉還命令を受けたに等しい。本土における不奉還藩(主)とは異なり、琉球側に王土王民論を受け容れる余地は全くなかった。しかし、政府は従来の日琉関係史の中から継承(Ⅱ使用)できるものを選択し、日本流に調整を施し、形式的には抵抗のな

●● い儀式を演出することに成功した。詔書を御請したことと、それに伴うその後の副島ほか外務官僚の対琉球策は、明治六年政変による副島辞職後も、政府の琉球政策を制約することになる。基本的には詔書の枠内で琉球処分を漸進させるということである。七二年の琉球藩設置以後、七九年の廃藩置県まで間隔が開いたのは、相次ぐ政変による各政策遂行の滞りにもよるが、副島建議(Ⅱ外務省路線)が、少なくとも内務大丞松田道之の登場までは、忠実に堅持されたからだともいえるのである。(髄)本稿は、前述した西里氏の琉球処分過程の区分設定を支持するものである。琉球国を琉球藩として

日本に併合する足掛かりの設定から、琉球処分過程は始まることになる。まず版籍奉還的措置が実施され、然る後に廃藩置県がなされた、そして琉球国存亡の分岐点が、七二年九月ではなかったかと思

うのである。「内地一軌ノ制度一一御引直」すことに積極的であった大蔵省は、性急な県設置を志向し

●● たが、外務省は、まず琉球藩を設置し、それを育成する策を採った。外務省の最終目的は沖縄県設置

であったとしても、それは琉球藩設置の事後処理としての措置であったとも言えなくない。しかし、

七四年に内務省へ移管された段階で、外務省の役割は琉球問題全般から、琉球と清国との関係清算に

(23)

以上、琉球処分過程における版籍奉還的意味を検討してみた。前述したように、琉球藩設置から最終目的である沖縄県設置まで、政策的連続性はあったとみるべきであろう。政府は当初、外務省が主(師)導する漸進的専属化を選択したが、琉球藩の要望により、七四年に内務省の管掌となる。琉球藩が設置されたからといって、県設置へと一気に向かったわけではない。尚泰を「藩王卜為シ叙シテ華族一一列」した政府は、尚泰の役割の少なからざる部分を喪失させたが、尚泰は依然として琉球藩内にとど

まり続けた。今後の目的は尚泰を上京させ、定住させること、つまり王の存在を琉球から喪失させることであった。七三年の政変と翌年の台湾出兵・日清交渉を乗り切った政府は、内務大丞松田道之を中心にして琉球藩の沖縄県化を進めることになる。それを支えた自信は、内務卿大久保利通の言う「征蕃ノ挙ハ琉球難民ノ為メ保護上ヨリ不得止ノ義務二出テ巨万ノ金額ヲ費シ御処分相成候訳ニテ藩(餌)王初メ深ク御趣意拝戴早々上京恩義ヲ奉謝儀当然ノ事」とする抱負と、琉球藩が自ら内務省管轄を望 向けた交渉に縮小される。藩王上京を軸とする内政処理は、内務省が負うことになる。そしてそれが大蔵省とも関係を保ちながら、琉球を「処分」する主流となっていき、当初の外務省企図は破綻することになるのである。

おわりに

(24)

琉球処分の際、廃藩置県は軍隊の威圧の下に行われたとする議論がある。しかしその議論には、本土のそれには御親兵の存在が、より円滑に行われる大きな要因であったという事実認識が欠落している。廃藩置県と琉球処分とが同一条件に行われたものではないにせよ、琉球処分における暴力装置の

存在を、過大に受けとめすぎてはいないだろうか。まさしく軍隊の背景があっての首里城明け渡しではあった。しかしそれは何も琉球だけに限ったことではない。歴史の理不尽さは、日本全土に及んで

いたのである。一九七○年二月一二日衆議院予算委員会において江田三郎は、七二年返還をにらんで、沖縄の置かれた状況に関する内閣総理大臣佐藤栄作への質問中に「(前略)沖縄の諸君は、第三の琉(的)球処分が行なわれるのじやないかという不安を持っているのでありまして(後略)」と発一一一一口し、初めて国会の場で「琉球処分」の語が使用された。この時すでに「第三の」と数えられているように、琉

球処分(もしくはそのように捉えられている歴史過程)は、琉球・沖縄にとって平穏な環境で行われてはいない。日本政府の琉球・沖縄に対する施策の中で、琉球・沖縄の住民がある種の反感・違和感 遂行された。て扱いたい。 んだことにあった。内務省は大蔵省と連携しつつ、琉球処分を漸進させたが、清国との両属関係が完全に清算されてはいなかった。清国の関係解消については、外務省を軸に折衝が重ねられるが、後々、大蔵省の介入を受けることになる。琉球処分は、大蔵・外務・内務の三省の微妙な連携と対立の中で遂行された。本稿は、七二年の維新慶賀使の拝謁問題を中心に検討してきた。以降の問題は、別稿に

(25)

が催されるものを琉球処分と称するのであれば、それは明治の琉球処分時における軍隊の存在がそれ

●●●●●●●● を規定してしまっているように思う。それはその意味において厳然たる歴史事実であろう。しかしそれに束縛されてはならないのではなかろうか。琉球処分研究は、沖縄復帰(Ⅱ施政権返還)の前後、量産された歴史を持つ。その大きな部分を担っ(、)たのは、沖縄出身で戦後世代の研究者たちであった。その世代の琉球処分研究は、必ず引用される、

いわば《聖典》となっており、それ以降の研究はその恩恵に大きく浴している。上記の研究により、琉球処分が抱えた諸問題・論点は少なからず提示された。しかし、それをなしえた姿勢・日本の地方編成の在り方の対する視角が、同時代に沖縄復帰(Ⅱ施政権返還)運動を経験することで、逆に柔軟性を欠いてしまった部分もありはしないだろうか。前述した「琉球処分」という呪縛からの解放とともに、その枠組みからの脱却が必要であろう。そしてそれが今後の琉球処分研究の課題となる。

注(1)琉球処分期の最も詳細な区分設定を行っているのは、西里喜行氏である。「那覇市史通史編第二巻』(那覇

市、一九七四年三月)に所収された「沖縄近代史の時期区分」以降、「琉球処分と樺太・千島交換条約」

(『アジアのなかの日本史Ⅳ地域と民族』東大出版会、一九九二年九月)において、琉球処分のプロセス

(26)

を、七二年の琉球置藩前後から七五年前半まで、②七五年七月の進貢冊封停止命令から七九年三月まで、

③七九年四月の廃琉置県から八○年三月まで、④八○年一一一月から八一年三月まで、⑤八一年一一一月から八五

年一一一月までの五段階に区分する。また『清末中琉日関係史の研究」(京都大学学術出版会、一一○○五年二月)

では、琉球処分過程を狭義と広義とに分け、それぞれの概念規定を行っている。森宣雄氏は、廃琉置県過

程から琉球併合過程を経て最終的に併合が完成するとみるという、新たな概念規定を行っている。(森宣雄

「琉球は『処分』されたか」(『歴史評論」六○三、一一○○○年七月)

(2)田中彰『日本の歴史型明治維新』(小学館、一九七六年二月、後、講談社学術文庫、一一○○三年二月)、

二四頁~二五頁

(3)琉球処分研究には多大な蓄積がある。新里恵二編『沖縄文化論叢1歴史編」(平凡社、一九七二年)の巻

末は、沖縄返還(Ⅱ施政権復帰)直前までの沖縄歴史研究目録を、金城正篤『琉球処分論』(沖縄タイムス

社、一九七八年七月)及び安岡昭男『明治維新と領土問題』(教育社新書、一九八○年九月)の巻末には、

一九七○年代までの琉球処分研究リストを載せる。一九八○年以降は、桑原真人・我部政男編『幕末維新

論集第九巻蝦夷地・琉球』(吉川弘文館、二○○一年六月)巻末にも載せる。

(4)山県建議については、安岡昭男「山縣有朋と琉球処分l壬申八月建議をめぐってl」s政治経済史学』

三一一一、一九九二年六月)が、『一一一條実美公年譜』に所収する建議全文及びその主旨を紹介している。

(5)明治文化資料叢書刊行会編「明治文化資料叢書第四巻外交篇』(風間書房、一九六二年七月)、以下、『琉

(27)

球処分』と略す。

(6)安良城盛昭「琉球処分論」(安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス社、一九八○年七月)、後、「幕末維

新論集九蝦夷地と琉球』、一九一頁

(7)『岡義武著作集』第一巻(岩波書店、一九九二年一○月)、九二頁

(8)琉球藩設置について、毛利敏彦氏は、一八七四年の台湾出兵問題とは直接の関係なしに、近代日本国家の

統一の観点から策定されたと理解すべき(毛利敏彦『明治維新政治外交史研究』(吉川弘文館、二○○二年

九月)、一四二頁)だとし、後藤新氏は、琉球藩設置はさらなる処分を見越したものではなく、留守政府に

おいて一つの「琉球処分」として行われ、その決定過程に中心的だったのは、外務卿副島種臣であった

(後藤新「「琉球処分」の基礎的研究I琉球藩設置過程を中心として」(「法学政治学論究』五六号、一一○○三

年三月)、四七一頁)とするなどの見解が提出されている。

(9)牧瀬垣一一・山口啓二「『日本史の再発見としての沖縄の歴史」をめぐって」(「歴史評論』一一五九号、一九七一一

年二月、一六頁

(皿)版籍奉還については、浅井清『明治維新と郡県思想』(厳南堂書店、一九九一年一○月)・『大久保利謙歴史

著作集一明治維新の政治過程』(吉川弘文館、一九八六年一一月)・『大久保利謙歴史著作集三華族制の創

出』(吉川弘文館、一九九三年六月)・『藤田省三著作集第一巻』(みすず書房、一九九八年三月)・松尾正

人『廃藩置県』(中公新書、一九八六年六月)・同『廃藩置県の研究』(吉川弘文館、二○○一年一月)など

(28)

(Ⅲ)『岩倉具視関係文書第四』(日本史籍協会、一九三○年一二月)、二七七頁

(通)「今般版籍奉還之儀二付深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採政令帰一之思食ヲ以テ言上之通被聞食候事」

(「太政官日誌」第六八号)

(咄)前掲岡著、九二頁

(Ⅳ)松尾正人『廃藩置県の研究』、八一頁

(肥)『大久保利謙歴史著作集一明治維新の政治過程』(吉川弘文館、一九八六年二月)、一五四頁

(岨)未提出藩(主)は、以下の通り。

阿波徳島藩主蜂須賀茂詔・筑後柳川藩主立花鑑寛・武蔵河越藩主松井康載・下野宇都宮藩主戸田忠友・美

作鶴田藩主松平武聡(名代重臣)・越後村上藩主内藤信美・石見津和野藩主亀井迩監・上総花房藩主西尾忠

篤・松前館藩主松前兼広(名代重臣)・肥前大村藩主大村純煕・上総大多喜藩主大河内正質・伊勢長島藩主 (、)『那覇市史資料篇第二巻中の四』(那覇市役所、一九七一年一○月)、一○二頁、以下、「史料稿本(尚泰関

係史料上と略す。

(皿)『尚泰侯実録』(『東恩納寛惇全集第二巻」第一書房、一九七八年三月)、一一一一七頁

(田)安岡昭男「明治前期官辺の沖縄論策」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』’○、一九八三年一○月)、 を参照した。

(29)

増山正同・河内狭山藩主北条氏恭・筑後三池藩主立花種恭

(別)「今般版籍奉還之儀列藩及建言候一一付深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採政令帰一之思食ヲ以テ言上之通

被聞食候価之於其藩モ封土版籍返上被仰付候事」(「太政官日誌」第六八号)

(Ⅲ)『新編埼玉県史通史編五近代一』(埼玉県、一九八八年三月)、六五頁

(〃)(前略)扱又天下ノ賞罰与奪之大権ハ自元朝廷之御掌握中一一被為在候儀天下之公道ニテ当今之如ク名分大

義分明二相成候御世一天諸侯之封土御取与之事ハ天意人情ヲ御熟察被遊時勢御斜酌之上御施行二相成候ハ私

深ク御憂慮二不及儀二奉存候、右一一付臣忠友二於テハ御政体一新郡県之御制度被為立候ハf元来王土

王臣二候故何時ニテモ御取与速一一可奉朝命候、是臣忠友平生之目的二御座候間改テ返上之儀不奉申上候、

今日迄建言遅延之儀盟テ愛惜怠慢之意一一出候儀ハ毛頭無御座候(後略)(栃木県史編さん委員会編「栃木県

史史料編近現代一』(栃木県、一九七六年三月)、五三頁~五四頁)

(邪)諸県郡井琉球其外諸島御管轄ノ儀、於東京公用人ヨリ奉伺候処、是迄之通可致管轄旨被仰渡段、御到来

候、此旨不洩様向々へ可申渡候s鹿児島県史料忠義公史料第六巻』(鹿児島県、一九七九年一月)、

二九四頁~二九五頁)

(皿)松尾正人『廃藩置県の研究』、八一頁

(妬)『大久保利謙歴史著作集一一一華族制の創出』、八三頁

(妬)同右、一七八頁

(30)

(〃)(前略)尤彼従前支那ノ正朔ヲ奉シ封冊ヲ受候由相聞我ヨリモ又其携弐ノ罪ヲ匡正セス上下相蒙昧ヲ以数百

年打過行トモ不都合ノ至二候へトモ君臣ノ大体上ヨリ論シ候ヘハ仮令我ヨリ酒容スト雌モ彼二於テハ人臣

ノ節ヲ守り卿惇戻ノ行不可有義勿論一一候況百度維新ノ今日二至リテハ到底御打捨被置候筋ニモ無之二付従

前暖昧ノ随轍ヲ一掃シ改テ皇国ノ規模御拡張ノ御措置有之度去速威カヲ挟侵奪ノ所為二出候テハ不可然

依テ彼ノ酋長ヲ近ク閥下一一招致シ其不臣ノ罪ヲ鑓責シ且前文慶長大捷以後ノ情況順逆ノ大義土地ノ形勢

其他伝紀典章待遇交渉ノ上一一表見スル証跡ヲ挙ケ詳細一一説明シ彼ヲ使テ悔過謝罪茅士ノ不可私有ヲ了得セ

シメ然後速一一其版籍ヲ収メ明二我所轄二帰シ国郡制置租税調貢等悉皆内地一軌ノ制度一一御引直相成一視同

仁皇化洽挾二至候(後略)s琉球処分』、八頁)

(肥)我部政男「明治初期の政府と沖縄地方I脱清行動と血判誓約書を中心にl」『年報政治学八四」(岩波書

店、一九八五年三月)、後、「幕末維新論集九蝦夷地と琉球』、二一一一頁

(羽)宮内省臨時帝室編修局『明治天皇紀第一一』(吉川弘文館、一九六九年一一一月)、二○頁~二一頁

(釦)『琉球処分』、八頁~九頁

(Ⅲ)○華族宣下ノ不可ナル所以ハ国内形勢沿革ノ自来ルー一従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メ

タルハ国内人類二於テ自然一一斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢二立至リシモノニシテ今般更二琉球国主二華

族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国主ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類卜同一ニハ混看スヘカラス

○琉球王トカ又ハ中山王トカーー封スルハ可トス琉球藩主ニテハ藩号穏当ナラス内地ハ廃藩置県ノ令ヲ布テ

(31)

琉球一一更二藩号ヲ授ルハ名義ヲ以テ論シテモ前令ト相応セス琉球ハ兵力単弱ニシテ皇国二藩屏ダル能ハサ

ルハ世ノ知ル処ナレハ実際ヲ以テ論シテモ藩号ノ詮ナシ故二藩号ヲ除テ琉球王ノ宣下アルヲ可ナリトス

(『琉球処分』、九頁)

(塊)西里喜行「琉球処分と樺太・干島交換条約」、一八「頁

(胡)勝田政治『内務省と明治国家形成』(吉川弘文館、二○○二年二月)、一八頁

(弧)『琉球処分』、一三頁

(妬)同右、一四頁

(部)『大日本外交文書第五巻』(日本国際協会、一九三九年一一一月)、三七一一一頁

(師)「琉球処分提綱」(平塚篤校訂『秘書類纂雑纂・参」秘書類纂刊行会、一九三六年六月)、一六六頁

(銘)毛利敏彦氏はこの時期の政府部内の琉球論を、大蔵省Ⅱ急進説・外務省Ⅱ漸進説・左院Ⅱ現状維持説に分

類する。(『明治維新政治外交史研究』、一四一頁)いずれも最終的には日本専属を前提するものである。

(胡)皇国ハ東西洋一般二知ル所ノ帝国ナレハ其下一一王国アリ侯国アルハ当然ノ事ナレハ琉球ヲ封シテ王国ト為

ストモ侯国トナストモ我為ント欲スル所ノ儘ナレハ藩号ヲ除キ琉球王ト宣下アリテモ我帝国ノ所属ダル一一

妨ケナシs琉球処分』、九頁)

(伽)小熊英二『日本人の境界』(新曜社、一九九八年七月)、一一二頁

(u)中島昭三「沖縄政治史研究(一)」(『國學院法学』第九巻第四号、一九七二年一一一月)、一一四頁

(32)

(蛆)ロナルド・トビ「近世における日本型華夷観と東アジアの国際関係」(『日本歴史」四六三号、一九八六年)、

(妃)小風秀雅「華夷秩序と日本外交l琉球・朝鮮をめぐって」(明治維新史学会編『明治維新とアジア』(吉川

弘文館、二○○一年一二月)、七頁

(“)安岡昭男「山縣有朋と琉球処分l壬申八月建議をめぐってl」、八頁

(妬)宮内省図書寮『三條実美公年譜』(文化資料調査会、一九六九年一○月復刻)、七三七頁

(妬)安里進ほか『沖縄県の歴史』(山川出版社、一一○○四年七月、一三九頁)は、前述の一一一建議・一答議のほか、

参議大隈重信・フランス人政府顧問ギュスターヴ・ポアソナードの建議の存在を明らかにしているが、琉

球建藩以前と確認できるものは三建議・一答議である。

(〃)『明治天皇紀第二』、七五六頁

(蛆)青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、一一○○六年一一一月)、一九三頁

(伯)宮城栄昌「明治政府の沖縄県治に対する態度l琉球処分の経過からみてl」(『日本歴史』二五○号、

一九六九年三月)、一○三頁

(別)『岩倉具視関係文書第五」(日本史籍協会、一九三一年五月)、一八四頁~一八五頁

(Ⅲ)『岩倉公実記』下巻(財団法人岩倉公旧蹟保存会、一九二七年七月)、五七一頁

(兇)井上清「沖縄」(『岩波講座日本歴史一六近代一一一」岩波書店、一九六二年九月)、一一一一一一頁 五二頁

(33)

(昭)「琉球処分について」(宮島誠一郎日記(マイクロ・リールニ)、国会図書館憲政資科室蔵)

(別)『琉球処分』、一九頁

(閲)前掲後藤論文、四六六頁伊江朝雄氏によれば、拝謁の数日前に維新慶賀使に対し琉装をするよう指示が

あった。(伊江朝雄「琉球慶賀使節I維新後間もない東京での足跡l」(「沖縄学』第七号、一一○○四年三月)、

(別)『大日本外交文書第五巻』、三八五頁

(印)後藤新氏は前掲論文において、「同藩ハ従来清国二関係シテ現在福州府二商民来往シ其他曾テ外国人ノ航渡

応接セシ旧轍モ有之辺睡ノ要地一一候得ハ本省官員在勤為致度候事」とする箇条と、『尚泰侯実録』にある

「清国政府は、琉球所轄の事に就きては、毫も問ふ所なく、又怪しむところなかりし由」との記述(三四六

頁)から、副島は両属を容認していたという。しかし、外務省は在福州柔遠駅に官員を派遣した上でそれ

を管理するという改革を企図していたのであり、また清国は七四年の台湾出兵・日清(北京)交渉を経て、

七五年の琉球の貢使入清問題から琉球の所属に神経をとがらせることになる。「国内の政治は凡て藩王に一

任」というのは、外交関係が除かれているのであって、この時点では両属を容認したというより、現状を

確認し漸進的なR本専属化を推し進めようとしていたと考えた方がいい。

(冊)原口邦紘「外務省六等出仕伊地知貞馨と琉球藩(上と(「西南地域史研究会編「西南地域史研究』第七輯、

文献出版、一九九二年一二月)、四七五頁 あった。一○○頁

(34)

(印)「史料稿本(尚泰関係史料)」、一二六頁

(帥)同右、一二六頁

(Ⅲ)『尚泰侯実録」、三五八頁

(田)大久保利謙氏によれば、『華族類別録』は公武華族同族化のためのでっち上げの感があるという。S大久保

利謙歴史著作集第三巻華族制の創出』、二七三頁)

(岡)尚泰を『華族類別録』に編入するに際し、姓氏の相続と血統の継承のどちらを採るかについて議論があっ

た。「華族従三位尚泰ノ華族類別録編入一一関スル意見書写」(独立行政法人国立公文書館所蔵岩倉具視関係

文書)には、

(前略)華族類別録編製ノ儀例一定ナキヲ以テ右両様(姓氏の相続と血統の継承のことl引用者)ノ疑

義決シ難シ当今内国一般一一行ハル邑ハ血統ノ如何ヲ問ハス其姓ヲ称スレハ其姓ニョリテ苗蹟ヲ定ムルコ

ト相続ノ通法トナリタル様ナリ然レハ尚姓ノ始二基ツキ思紹ノ商トスルモノ正キヲ得ン歎但琉球王ハ内

地華族トハ事体梢異ナル所アレハ断然血統一一従ハン歎猶熟議ヲ遂ケラルヘシ従前琉球王子源姓ヲ称シ朝

某卜名乗ルコトァリ右ハ和歌題詠ノ署名等一一テ性ご見及へり彼レ別一一所伝アリテ然ル哉尋問アリテ若シ

確説アラハ源姓為朝筒卜編製アリタシ中山世譜ノ如キハ専ラ支那一一差向ケタル書体ナレハ参照一一供スル

一一足ラス

とある。姓に対する捉え方が日本本土と異なることを認識していながらも、「琉球王ハ内地華族トハ事体梢

(35)

異ナル」ことが華族編入の妨げとはならない議論となっている。

(N)「官制表」七三年八月二八日

(筋)前掲原口論文、四九六頁

(師)注(1)参照。

(町)(前略)初め琉球事務は外務省の管理する所と為るも外務省は清国及び西洋各国交際事務を取扱ふ所なれば

琉球日本の隷属たるを各国に敗露し清国交通の障碍を生ずる恐れあるを以て琉人自ら命を朝廷に請て外務

省の管理を辞し内務省に改属するなり(後略)(喜舎場朝賢『琉球見聞録』(ぺりかん社、一九七七年一二

月、一二頁)

(冊)『琉球処分』、七八頁

(開)『予算委員会議録第二号昭和四十五年二月二十一日』

(刀)琉球処分研究に限れば、田港朝昭・金城正篤・比屋根照夫・我部政男・仲地哲夫・西里喜行・ほかの各氏。

(高良倉吉「研究展望琉球史研究の状況」(『日本史研究』第一一三五号、一九八九年九月)、八四頁)

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