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安中藩士岡田源七郎と新島家 : 関口徹氏の所説に ふれて

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(1)

安中藩士岡田源七郎と新島家 : 関口徹氏の所説に ふれて

著者 籠谷 次郎

雑誌名 新島研究

号 99

ページ 3‑23

発行年 2008‑02‑29

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011714

(2)

―関口徹氏の所説にふれて―

籠 谷 次 郎

はじめに

一 関口氏の所説 二 疑問と意見

三 岡田源七郎とその家族 四 「親類岡田氏」

1 「双六引移」一件 2 とみの記憶 おわりに

はじめに

近世新島家を対象とする研究は、新島研究の中で最も遅れた分野である。

新島襄を対象とする研究状況の中では、当然の結果ともいえる。しかし、彼 がどのような家庭に生まれ、どのような生活環境の中で成長したのかを考え るとき、歴史的環境としての新島家を知ることは極めて重要な課題である。

それはまた、新島家が属した近世社会の下級武士の生活をとらえることにも なり、近世史一般の研究課題とも重なる。

2007年3月、太田雅夫氏は『新島襄とその周辺』(青山社)を刊行された。

研究対象は近代であるが、氏の研究には学ぶべきことが多い。同書は四章一 二編からなる。著者は「まえがき」で研究の視点について次のように述べて いる。

(3)

新島襄に関する研究は、『新島襄全集』(同朋舎出版、1983年2月−1996 年11月)の刊行を機に、「顕彰」から「検証」へと、第三世代の研究者 たちにより、飛躍的に進展した。そしてその研究成果が続々と発表さ れている。しかし新島襄を取り巻く周辺の人物や事柄に関する研究分 野は、不明確なところや未開拓のところが多々あり、立ち遅れの感を 拭い去れない。

同書のうち、私にとって最も印象深いのは第四章の「同志社余録」の三編 である。「余録」といいながら、これまで新島研究が気づかなかった大研究 であり、氏の新島研究の懐の深さを示す。太田氏の言葉を拝借すれば、近世 新島家の研究も、また周辺研究といえるであろう。しかし、そこには近代の 領域以上に知られていないことが多く、知られていてもまだ不明確なところ が多い。人物では岡田源七郎もその一人である。

近世新島家の研究は、古くは森中章光氏によって新島襄研究の一環として 進められた1)。その後は主として鏑木路易氏によって2)、またその前後、韮 塚一三郎氏によっても進められたが3)、その後はあまり進まない。しかし 2006年、竹内力雄氏『新島雙六のこと』4)、関口徹氏「新島襄の母とみの

『口述』を改めて聴く―家老尾崎直右衛門父子と媒酌人岡田源七郎―」5)の 二編が生まれた。近世新島家に関心を持つ者には嬉しい一年であった。

本稿は、このうち後者の関口徹氏の研究にふれ、近世新島家の鳥瞰図とも いえる「新島家祝物到来覚帳」の翻刻(2002年)6)以来強く関心を持つ岡田 源七郎および同家と新島家の関係について述べるものである。調査は十分と は言えず、個々にはまだ詰めなければならない課題も抱えるが、両家が生活 上どのような関係にあったのか、とらえようとするものである。

一 関口氏の所説

関口氏の研究は緻密である。近世を対象とする研究は多くは原文書からは じまる。新島研究とて例外でない。氏の丁寧な読み、緻密な作業は、本編

「新島襄の母とみの『口述』を改めて聴く―家老尾崎直右衛門父子と媒酌人 岡田源七郎―」の他に、あわせて発表された「補遺 安中藩家老尾崎の表記

(4)

について―新島七五三太を可愛がったのは直紀か直記か―」の一編によって もわかる。同一人物の名の表記に二つの表記は許されないとする厳しい研究 姿勢は、本編においても随所でみられる。また各所で展開される氏の厳しい 諸批判は読者を引き付ける。

「新島襄の母とみの『口述』を改めて聴く―家老尾崎直右衛門父子と媒酌 人岡田源七郎―」の構成は以下のとおりである。

一、「とみの口述」と二十文字の欠落 二、民治に筆録された尾崎家の人びと 三、とみの結婚と二人の直右衛門 四、媒酌人岡田源七郎と新島家

一、は同論の序(問題の所在)である。とみの「口述」とは明治23

(1890)

年新島襄の死後、とみ(84歳)が自分の生い立ちを新島家当主公義に語った といわれるもので、かつて公義が記したものを後年、森中章光氏が書写した ものである。森中氏の書写は洋式ノート(ニットー 規格B6)に筆書き7)、 私の判断では使用の洋式ノートから昭和10年代後半の書写と思われる。ここ には、とみの生家、生い立ち、奉公先、媒酌人のこと等が記されている。

二、三、は安中藩年寄尾崎直右衛門父子について論じたものである。二、

三、に多くの紙面があてられているのは、当該期尾崎家には直右衛門を名の った二人の人物があり、両者の親子関係を論じたことによる。とみが結婚前 同家に奉公した時の当主が父の直右衛門で、新島襄が少年時代に可愛がら れ、彼が尊敬した人物、つまり彼の手記「青春時代」(「私の若き日々」)に 登場するやさしい「家老」が子の直記(のち直右衛門)であることを述べる。

この識別は精緻を極める。同論の前半の論点である。

四、に登場する岡田源七郎は七五三太(のち襄)の烏帽子親として知られ る人であるが8)、新島研究史上ほとんど登場しなかった人物である。ここに いう「媒酌人」とは、天保2年に結婚した七五三太の父民治(同年25歳)と、

母とみ(同年25歳)の媒酌人を指し、同媒酌人をこれまで一部でいわれてい た尾崎直記(のち直右衛門)説を否定し9)、岡田源七郎とする。これが同論 の後半の論点であり、同時に同論の結語でもある。

関口氏が二、三、で述べる二人の尾崎直右衛門の存在、二人が父子である

(5)

ことは、かつて私も考察の視角、方法は異なるが、民治の手習塾の考察で触 れたことがあるので10)、ここでは改めて述べない。取り上げるのは、同論の 後半の論点であり、同時に結語でもある四、氏が媒酌人とみる岡田源七郎と その家族についてである。

二 疑問と意見

関口氏は、新島民治ととみの媒酌人を岡田源七郎と断定する。その根拠と なっているのは、要約すると、①とみ口述にみえる「天保二 廿五歳春二月 二十日新島民治ニ嫁ス 親類岡田氏ノ世話スル処」の記載、②民治が記した 天保3年から慶応2年までの新島家贈答記録である「新島家祝物到来覚帳」

(以下、特別の場合を除き「覚帳」と略)にみる岡田源七郎の贈り物の多さ

(23件(ママ))、③安中藩祐筆として岡田源七郎は民治の「先輩」であるとする三点 である。うち最も重要なキーワードとなっているのは①である。実証を重視 する氏の主張には説得力がある。しかし、氏が提示する史料からは直ちにそ のようには読み取れない。

まず、①とみ口述の「親類岡田氏ノ世話スル処」と記す「岡田氏」が新島 家の親類であるとするなら、論証の手続きとして、その具体的な関係を明ら かにする必要があろう。氏は「どういう姻戚関係なのか不明」としながら、

記されたこの「親類」を重視し、姻戚関係は文政10年、同11年に確認できる とし、また天保5年にもその関係は確認できるとする。いずれも「親類」を 前提としての説明である11)。②の贈り物の多さは「親類」ゆえのもの、あわ せて祐筆として岡田源七郎が民治の「先輩」ゆえのものとする。③岡田源七 郎が「先輩」であったかどうか。氏は「天保十一年十二月安中藩席順帳」お よび「安政四年五月安中藩席順役録」にみる両人の記載順、扶持の高低差か ら、源七郎を「先輩」とみる。私は源七郎がやや年上のように思うが、彼が 媒酌人を務めるほどの年齢差はないのではないか、と考える。

岡田源七郎の贈り物は22件、資料1のとおりである。彼の最初の贈り物は 天保9年4月三四吉(みよ)出産である。「覚帳」の最初の記載は天保3年 11月於 (くわ)出産で、三四吉出産までに7件の贈り物の機会がある。し

(6)

資料1 「新島家祝物到来覚帳」にみる岡田耕助、岡田源七郎の祝物 整理番号 年月日 新島家の祝儀 岡田耕助 岡田源七郎

天保3(1832).11.18 於 出産 縮緬表地、毛之 −

裏地、扇子一対

(1833).3. 初節句

(1834). 藩主大坂加番に

敬忠・敬徳随行

(1836).1.11 敬徳御徒組除

.2. 於 疱瘡 針箱一、茶わん一

(1838).4. 出火見舞

民二病

(ママ)

気見廻

.4.28 三四吉出産 金壱朱

10(1839).11.22 三四吉疱瘡 鯛張古一、おし鳥一

10 おまき疱瘡

11 10 .12.25 敬忠徒士格 金弐朱

12 11(1840).6.16 おとき出産 鰹節三

13 11 .12.27 おとき疱瘡 菓子

14 14(1843).1.4 〔七五三太〕出生 煮染物、太織縞産衣

15 14 .5. 七五三太初幟 清正人形

16 15(1844).1.11 敬徳徒士小性

17 弘化4(1847).11.15 七五三太袴着初 帯一筋

18 .12.14 〔双六〕出産 煮豆一

19 嘉永元(1848).5. 双六初節句

20 .5.9 敬忠御供 更紗梅一曲、たはこ、

21 (1849).3. 双六疱瘡 塩せんへい

22 (1853).1.11 敬徳中小性格

23 .3.21 敬忠安中表御供 紺足 一

24 安政3(1856).6.11 敬忠草津湯治 小菊十帖、紺足 、

烟草、真綿

(7)

整理番号 年月日 新島家の祝儀 岡田耕助 岡田源七郎 25 .11. おとき奉公 かねわり、しやうこ、

うかひ茶わん1)

26 (1857).12.15 七五三太前髪執 金五拾疋

27 (1858).11.3 内々おます差遣 金弐朱

28 (1859).1.28 七五三太徒組除 金五拾疋

29 万延2(1861).1.11 敬徳中小性

30 文久元(1861).3.11 敬幹初而安中表御供 銀札二

31 おとき婚姻 〔祝物の記載なし〕

32 .11. 双六引移 〔祝物の記載なし〕

33 (1862).3. 表題不明

34 年月日、表題不明

35 年月日、表題不明

36 文久2 .11.12 七五三太備中松山 煙草一玉2)

表へ航海

37 元治元(1864).3.12 〔七五三太〕箱館

表へ修業

38 .5.18 雙六句読師御雇

39 慶応2(1866).1.11 敬忠徒小性

注 1)新島家の返礼(赤飯・銀札二)あり。2)七五三太の土産(柚へし・かき・こんふ)進呈あり。

(8)

かし、この7件には源七郎の名はみえない。新島家の長子はくわである。岡 田源七郎を媒酌人とみるなら、彼の贈り物は媒酌翌年(天保3年)の長子く わ出産からあってもよい。あるのが普通であろう。

とみ口述は「親類岡田氏ノ世話スル処」と記すが、源七郎とは記していな い。氏も指摘されるように「覚帳」には岡田姓を名のる人物に、もう一人、

岡田耕助の名がみえる。岡田耕助の贈り物は2件、天保3年11月くわ出産と 同7年2月くわ疱瘡である(資料1)。二人の贈り物を整理したのが資料1 である。この贈り物の推移を考えると、二人は親子かもしれない。氏もその ように理解されているが、もし親子とみるなら「親類岡田氏ノ世話スル処」、 これを媒酌とみるなら、媒酌人は源七郎でなく、父の耕助と考えられる。二 人の贈り物の推移から考えると、媒酌人は耕助と考えるのが自然であろう。

くわ出産の贈りものは五三人、これは「覚帳」全件のうち最も多い人数で ある12)。長子の出産であり、祝い物は豪華である。なかでも織物が目立つ。

桃色表地、太織表地、緋太織袖口、縮緬表地、縮緬表地・毛之裏地・扇子一 対、絹表地、太織表地、太織表地、山まい太織表・丈はりはこ等が並ぶ。こ のうち「縮緬表地・毛之裏地・扇子一対」の贈り主が岡田耕助である。二人 を親子と考えるなら媒酌人は耕助と考えてもおかしくはない。そう考えるの が自然であろう。

三 岡田源七郎とその家族

岡田源七郎とはどのような人物か。すでに述べたように、これまでの研究 では新島家との関係でいえば、①安政4年12月七五三太の烏帽子親であるこ と、②藩では民治と同じく祐筆であったこと、以外はわからない。生年・没 年も不明である。もう少し調査が必要である。

資料2、3は、いくつか安中藩関係史料をもとに天保10年1月以降の新島 民治を中心とする新島家の男子家族(弁治を除く)と、岡田源七郎を中心と する岡田家の男子家族の各人の経歴をまとめたものである。まず、民治と源 七郎について見てみよう(資料2)。天保9年以前は岡田家の資料を欠くが、

民治と源七郎の格式、祐筆歴はほとんど同じである。昇進も申しあわせたよ

(9)

資料2 新島民治、岡田源七郎の経歴

新島民治(文化4年生−明治20年没) 岡田源七郎(生年不明−慶応3年没)

天保10.1 御徒士組除 御祐筆見習勤金二分、 天保10.1 御徒士組除 御祐筆見習勤金二分、

金五両外一人半扶持 金五両外一人半扶持

「天保十一年十二月安中藩席順帳」御徒組除、「天保十一年十二月安中藩席順帳」御徒組除、

江戸詰 江戸詰

天保15.1.11 徒小性 金二分増 天保15.1.11 徒小性 金二分増 弘化2.12.5 半扶持増(妻子モ有之ニ付)

嘉永4.7.12 星野閏四郎へ砲術入門起請文

嘉永6.1.11 中小性格 金二分増 嘉永6.1.11 中小性格 金二分増

安政2.2.15 於楽様御縁組御用認物 安政2.2.15 於楽様御縁組御用認物

安政3.12.25 御祐筆首尾克御免、御休息番勤金 其侭

「安政四年五月安中藩席順役録」中小性格 御祐筆 「安政四年五月安中藩席順役録」中小性格 御祐筆 勤金二分、金六両外二人扶持 勤金二分、金六両外三人扶持

安政6.7.8 御休息番首尾克御免、御広間平番 万延2.1.11 中小性 万延2.1.11 中小性

「慶応二年板倉勝殷公分限帳」中小性 御祐筆、金六「慶応二年板倉勝殷公分限帳」中小性、金六両外

両外二人扶持 三人扶持

「明治二年十一月安中藩分限帳」中小性 御祐 筆勤金二分、金七両外二人扶持

注 「天保十一年十二月安中藩席順帳」は「天保十一年十二月改江戸安中席順帳」『群馬 県史』資料編第10近世2、群馬県、昭和53年、所収)の略。「安政四年五月安中藩席順 役録」は「天保四年五月江戸安中諸士席順役録」『安中市史』第5巻、安中市、平成 14年、所収)の略。「慶応二年板倉勝殷公分限帳」は「慶応二年改板倉従五位主計頭源 勝殷公分帳」(筆写本、個人蔵)の略。「明治二年十一月安中藩分限帳」は「明治二年 十一月安中藩席順及分限帳」(筆写本、個人蔵)の略。他は「天保十年正月江戸御在所 諸士明細帳」(筆写本、個人蔵)による。

(10)

うに同じである。関口氏も指摘されるように、扶持に若干の違いがある。源 七郎が少し多いことから、関口氏は源七郎を「先輩」とみる。明治2年ごろ、

民治が記した覚書「安永二巳年 明治二年迄 祐筆名前」によると13)、各人 の祐筆就任・退任年は記されていないが、文政10年以降の就任者として七人 をあげている。「山下林蔵 岡田源七郎 新島民次 森田万之助 青木秀平 高田幸之進 小板橋

(ママ)

」の順となっている。記載は就任順と思われ、祐筆 としては岡田源七郎は民治より先任の位置にあったようである。

しかし、岡田源七郎の祐筆職は、安政3年12月25日で終わる。のち、御休 息番に転じ、また御広間平番に転じている(資料2)。よく知られるように

「安政四年五月安中藩席順役録」では岡田源七郎は民治と同じく御祐筆と記 されている。同帳の記載はその前年の席順であったのか、この齟齬はわから ないが、この時期以降、彼は祐筆職を離れている。

安政期以降、岡田家では思いがけない出来事があいついだ(資料3)。源 七郎には豊次という実子がいた。相続人と思われる。彼の生年はわからない が、嘉永7年1月11日に徒組除、金四両二分一人半扶持で出仕した。この年 17歳とすれば生年は天保9年であり、七五三太より5歳年上となる。しかし、

豊次は2年後の安政3年10月に病死した。一人息子の死亡であったらしい。

「天保十年正月江戸御在所諸士明細帳」によると、岡田家では豊次病死8年 後の元治元年5月に養子岡田耕三郎が徒小性、平番で出仕している(資料3)。 金五両一人半扶持である。旧姓は遠藤という。彼には兄があり、兄は嘉永5 年1月に出仕、同年18歳であるので、耕三郎の出仕も18歳ごろと思われる。

しかし、耕三郎の縁組は長くは続かなかった(資料3)。岡田家ではあら ためて源七郎養子として定五郎を迎えた(資料3)。養子縁組の時期は明ら かでないが、縁組後、定五郎は慶応3年1月に御用部屋書役見習となる。つ づいて同年5月21日に「亡養父跡式」(相続)半扶持増となる(資料3)。源 七郎は「慶応二年板倉勝殷公分限帳」には「中小性 金六両外三人扶持」と 記されており(資料2)、源七郎の死は慶応3年であったことがわかる。養 子定五郎は旧姓を須賀という。安政5年12月、14歳14)、茶之間に出仕、金二 分一人扶持であるので、養子は23歳の時と思われる。

以上が、現在わかる岡田源七郎とその家族の様子である。

(11)

安中藩士岡田源七郎と新島家

資料3 新島家、岡田家の家族(男子)の経歴

新島七五三太(天保14年生〜明治23年没) 新島双六(弘化4年生〜明治4年没) 岡田豊次(年生不詳〜安政3年没) 岡田耕三郎(源七郎養子)1) 岡田定五郎(源七郎養子)2)

嘉永7.1.11 出仕、徒組除、金四両二分一人 半扶持

安政3.10 病死

安政6.1.28 出仕、徒士組除 御広間平番、

金四両二分一人半扶持

文久元.11 引移

文久2.1.28 星野閏四郎へ砲術入門起請文 文久2.1.28 星野閏四郎へ砲術入門起請文 元治元.3.12 箱館表へ

元治元.5.14 出仕、徒小性 平番、金五両 一人半扶持

元治元.5.18 句読師御雇、金三両二人扶持3)

「慶応二年板倉勝殷公分限帳」御徒組除、金 「慶応二年板倉勝殷公分限帳」無格御雇 句 四両二分外一人半扶持 読師御御雇、金三両外二人扶持

慶応3.1.24 御用部屋書役見習 慶応3.5.21 亡養父跡式半扶持増 明治2.1.11 出仕、徒小性 御広間平番、

金五両一人扶持

「明治二年十一月安中藩分限帳」徒小性 御 用部屋書役見習、金五両外二人扶持 注 1)生没年は不明。2)安政5年12月25日14歳、文久2年12月25日14歳とする二つの記載がある。生年は、前者なら弘化2年、後者なら嘉永2年となる。

他は、資料2と同じ。ただし、3)は「新島家祝物到来帳」による。

(12)

1 「双六引移」一件

とみ口述が記す「親類岡田氏」の岡田氏を岡田源七郎の岡田家とみて、具 体的にどのような親類関係を指すのであろうか。難しい課題である。とはい え、とみの口述に誤りがあるとは思えない。ここでは一つの仮説を述べる。

その根拠となる一つの事実とその関連事実について述べる。

話は変わるが、「覚帳」に記された新島家の祝物39件(資料1)のうち、

年次・祝い事不明の3件(整理番号33・34・35)を除く、36件のうち、祝い 事の内容がわからないものがいくつかある。以下の6件(番号は資料1の整 理場号)である。

20 嘉永元年5月9日 敬忠御供ニ而出立 23 嘉永6年3月21日 安中表御供ニ而敬忠相越 25 安政3年11月 おとき奉公

27 安政5年11月3日 内々おます差遣

30 文久元年3月11日 敬幹初而安中表江御供ニ而出立 32 文久元年11月 双六引移

このうち、本稿とのかかわりで気になるのが(32)文久元年11月「双六引 移」である。双六15歳の祝い事である。「引移」とは引っ越しのこと。しか し、「覚帳」はその行先を記していない。到来祝物は計三五人、資料4のと おりである。「覚帳」に記された双六の祝い事・見舞は計5件を数えるが

(資料1)、祝物三五人は最も多い人数である。この到来祝物からどのような ことが読み取れるであろうか。

まず、①気づくのは、贈り主は安中藩士が多いこと、②そのうち祐筆・書 役関係者が目立つ。「銀札七」を連名で贈った森田万之助・岡本 之助・藤 井宗助・青木秀平・田中鎔三郎の五人は祐筆、書役およびその経験者である

15)。「駒下駄一」を贈った田中隆平も書役であり16)、「銀札二」を贈った山下 林蔵も先代山下林蔵が祐筆である17)。祝物の記載はないが岡田源七郎の名も みえる。③三人の新島家親族がみえる。植村新次、速水林治、木村三弥で、

(13)

安中藩士岡田源七郎と新島家

資料4 文久元年11月「双六引移」到来祝物

到来祝物 贈与者

金壱朱 植村新次 (親)

坂本藤太 (安)

足 壱、手拭 橋本嘉一郎 (安)

金壱朱、扇子 速水林治 (親)

金弐朱 長沢衛守

銀札三 柳田傳吉 (安)

壱朱

(ママ)

白井福蔵

紺白足 二 根岸團蔵 (安)

かれい三 藤田専造 (安)

駒下駄一 田中隆平 (安)

墨三丁、足 一 星野庄右衛門 (安)

小菊五帖、足 壱 鎗田源吉 (安)

半紙拾帖、扇子 飯田丈助 (安)

裏附草リ、半紙五帖、扇子 石井右兵衛 (安)

銀札三 福岡松作

銀札二 市原利八 (安)

銀札三 清原来次 (安)

銀札二 内納周司 (安)

銀札三 丹所太平 (安)

銀札三 河合琢蔵 (安)

銀札二 津金清次郎

銀札三 芳賀彦太郎 (安)

銀札二 山下林蔵 (安)

銀札二 金井郡太 (安)

森田万之助 (安)

岡本 之助 (安)

銀札七 藤井宗助 (安)

青木秀平 (安)

田中鎔三郎 (安)

貝柱一皿 星野閏四郎 (安)

小切少し 楢嶋周吉

銀札二 深川与喜之助 (安)

銀札二 志賀健三 (安)

〆 三拾三軒

岡田源七郎 (安)

帯地 木村三弥 (親)

注 記載順序は原史料のまま。贈与者のうち安中藩士の識別は籠谷の調査による(拙稿

「近世新島家の儀礼と交際の人びと」未発表)。津金清次郎は万延2年(8歳)に新島民 治の寺子となっている。安中藩士の子息と思われる。「新島家祝物到来覚帳」から作成。

( )内「安」は安中藩士

「親」は新島家親族の略

(14)

養子、速水林治は四女ときの夫、木村三弥は長女くわの夫である。この三人 が「覚帳」に登場するのは、植村新次・木村三弥が各3件、速水林治が2件 である19)。三人に共通する2件は「おとき婚姻」(整理番号31)と「双六引 移」である。「双六引移」は、親族には「おとき婚姻」と並ぶ慶事であった と読みとれる。④贈り物には通貨が多い。足袋・手拭・下駄・草履・帯地・

墨・半紙など生活用品が並ぶ。扇子も3件、祝い事にふさわしい贈り物であ る。新島家では翌2年4月4日に餅二斗五升、ささげ五升、餅米一升三合を 用意し、内祝を済ませた20)。ささやかな内祝であるが、祝福されての「引移」

であったことがわかる。

何のための「引移」か。まず考えられるのは修学である。これまでの研究 から、双六の修学として知られているのは、①文久3年9月の下谷御徒士町 の儒者鷲津貞輔方への入門、②慶応3年10月の「聖堂」(昌平坂学問所)留 学、③明治2年10月の「東京昌平坂学問所」入学の3件である。いずれも

「忰稽古修業一件」(民治筆)21)、「新島氏家統記」(民治筆)22)、「新島家起原」

(公義筆)23)が記すところである。過去には、この「引移」を「聖堂」入り と思わせる指摘もあったが24)、典拠の提示はなく、根拠は不明のまま現在に いたる。双六の場合、「聖堂」入りといえば、同所の表記は異なるが、慶応 3年、明治2年以外は考えられない25)

「引移」が修学でないとすれば何か。私は、この「引移」は岡田源七郎の 岡田家入りと考えている。同家との養子縁組と思うのである。その根拠を示 そう。

幕末、安中藩にはすぐれた砲術家がいた。双六のこの「引移」に「貝柱 一皿」を贈っている星野閏四郎(文政2年−明治8年、57歳)である(資 料4)。26)天保末に江戸に出て高島流砲術を学んだ彼は、藩内において多く の弟子を持った。天保13年8月に徒士格として出仕した彼は、弘化4年1 月に炮術修行出精により徒小性となり、嘉永2年1月に炮術執行格別出精 により中小性格、翌3年5月に炮術門弟取立格別出精により中小性となる。

嘉永7年10月、正式に江戸詰となる。万延2年1月に大小性格となり、文 久3年5月に給人大目付助勤となる27)

(15)

砲術指南に際し、入門者は起請文を提出した28)。『安中市誌』によると、

安中藩士二五〇人、他藩士七〇人の起請文が残っているという29)。新島家 でも民治が嘉永4年7月12日に起請文を提出、つづいて七五三太、双六も 文久2年1月28日に起請文を提出している。起請文に記された三人の名前 は、新島民治、新島七五三太、岡田雙六である30)。かつてこの「岡田雙六」

の名を目にされた鏑木路易氏は、「岡田雙六」の記載を「新島襄の弟の双六」

の誤記と疑問視された31)。しかし、同市誌の記載は安中藩士二五〇人の起 請文の中から特筆しての記載であることから、誤記とは考えにくい。同記 載は岡田源七郎の岡田家との養子縁組による改姓と思うのである。誤記で ないとすれば、この時期、双六の養子縁組はどのようにして行われたので あろうか。

なぜ、岡田家では養子を必要としたのか。もう一度、資料3を見てみよう。

岡田家では、安政3年10月実子豊次の死後、相続人はいなかった。相続人が いないまま時は過ぎていた。かつて源七郎と民治は同じ職場に勤めた同僚で ある。安政4年12月には源七郎は七五三太の烏帽子親となった人でもある。

両家の間は親密であり、藩内における格式も同等である。兄弟二人がいる新 島家に二男双六の養子話がもちあがってもおかしくはない。話は成就したと 考える。文久元年11月「双六引移」がそれである。星野閏四郎への砲術起請 文は、その2ケ月後のことであった。

しかし、のち新島家では事態が一変した。元治元年3月12日、七五三太の 箱館表への旅立ちである。七五三太を水盃で送り出すことになった新島家で は、旅立つ七五三太への思いと同時に、他方では相続問題も浮上した。新島 家にのしかかる大きな苦悩であった。やがて双六の養子縁組は取り消しとな り、重なる相続問題は解消した。解消の時期は特定できないが、元治元年5 月18日には双六は新島家の人となっている(資料3)。きわめて早い対応で あった。

双六の養子縁組の解消により、岡田家でも大きな変化が生じた。源七郎養 子を迎えた。養子は元治元年5月14日に岡田耕三郎として出仕している(資 料3)。養子双六の解消による縁組と思われる。

天保9年4月三四吉出産以来長く続いていた岡田源七郎からの贈り物が文 安中藩士岡田源七郎と新島家

(16)

迎えられ、慶応3年、源七郎の死去にともない、跡式は養子定五郎に継がれ た。さきに述べたとおりである。「双六引移」一件は「双六養子」として新 島家の記録には残らなかったが、新島家には長く記憶に残る出来事であった はずである。

2 とみの記憶

とみの「口述」が行われたのは明治23年6月、襄死亡(1月23日)後のこ とである。とみ84歳であった。関口氏によると、とみは近い将来、自分の葬 儀において朗読されるであろう自分の履歴について、その準備として新島家 の相続者として迎えた公義に話しておかねばならないとして語ったものとい う。もっともな指摘である。しかし、時は明治に入ってからでも、すでに23 年の歳月が過ぎていた。人間の記憶には、過去の記憶を新しい記憶の中で語 ることがある。人にはよくあることである。たとえば、同口述の中で、とみ は自分の生まれを「武蔵国足立郡浦和宿中町中田六之丞女」と語っている。

しかし、父の六之丞が当時、中田と呼んでいたかどうか、疑わしい。民治が 記した「覚帳」には、彼は鍵屋六之丞と記され、六之丞の相続人と思われる 金蔵も鍵屋金蔵と記されている32)。この六之丞の没年は天保12年であり、新 島家「過去帳」(民治筆)は六之丞を「天保十二辛丑年二月八日 実相明影 清信士 武州浦和宿玉蔵院葬 俗名鍵屋六之丞 行年七十二才」と記す33)。 文書史料を見る限り、同家が「中田」と記されるのは明治に入ってからであ る34)。「親類岡田氏」も同様、過去の記憶が新しい記憶の中で語られたと思 うのである。

「双六引移」一件は、後年、民治が記した「忰稽古修業一件」「新島氏家統 記」、公義が記した「新島家起原」など新島家の記録には残らなかった。し かし、とみには忘れられない出来事であり、「親類岡田氏」は、若くして逝 った双六の記憶の中で語られたと思うのである。

関口氏も指摘されるように、私も岡田耕助を源七郎の父と考えるが、現在 のところ文書史料による確認を得ていない。しかし、もしそうだとして「親

(17)

類岡田氏」を岡田源七郎の岡田家とすれば、媒酌人は源七郎でなく、父の耕 助と見るのが自然であろう。

おわりに

本稿は関口氏の所説を批判するものではない。源七郎の父と思われる耕助 が父かどうか、状況としては父と考えるが、文書史料等による確認を得てい ないからである。

関口氏も記すように、「新島家祝物到来覚帳」にみる贈り物の多さが親交 の深さ示すとすれば、岡田源七郎は新島家にとって最も親交深き人である。

近世新島研究ではまず取りあげなければならない人物の一人である。ながく 気づかなかった彼の存在を研究俎上にのせたのは関口氏である。35)同研究に 接し多くの示唆を得ることができた。しかし、氏の史料解釈には疑問があり、

提示される岡田源七郎像を素直に受け取ることができなかった。「新島家祝 物到来覚帳」の翻刻以来すでに5年、私自身なお多くの課題を抱え、岡田の 人物像をとらえるまでにはいたらないが、岡田源七郎と新島家について整理 したのが本稿である。

安中藩士岡田源七郎を論ずる場合、忘れてはならないのは、岡田耕助のほ か、もう一人、岡田源七郎養子岡田定五郎である。定五郎についてはまだ不 明な点もあり、また本稿では直接のかわりを持たないので、多くは触れなか った。また、本稿で触れた「岡田雙六」についても、「岡田」を岡田源七郎 の岡田家とみるなら、また新たな課題となるであろう。

1) 森中章光氏には以下の研究がある。

『新島襄先生』1巻、洗心会、昭和12年。「新島家の家系」『新島研究』3号、洗心会、

1955年。「新島先生誕生当時の家庭」『新島研究』4号、洗心会、1955年。「新島の姉 弟」『新島研究』50号、同志社新島研究会、1977年。「新島氏家統記」『新島研究』52 号ー56号、同志社新島研究会、1978年−1979年。

安中藩士岡田源七郎と新島家

(18)

宗治編『新島襄の世界』晃洋書房、1990年、所収)「幕末−維新時における新島家の 人々」『新島研究』96号、同志社社史資料センター、2005年。

3) 韮塚一三郎「同志社の創設者新島襄の母とみ」『埼玉の女たち 歴史の中の25人』さ きたま出版会、平成元年増補2刷、所収。同稿は増補1刷(昭和60年)から所収。

4) 竹内力雄『新島雙六のこと』私家版、平成18年。

5) 関口徹「新島襄の母とみの『口述』を改めて聴く」『新島研究』98号、同志社社社史 資料センター、2007年。

6) 拙稿「資料 新島民治筆『新島家祝物到来覚帳』『新島研究』93号、同志社社史資料 室、2002年。以下「覚帳」と略。

7) 「新島家系関係」新島遺品庫収蔵資料、目録上1681。

8) 森中章光『改訂増補新島襄先生詳年譜』同志社・同志社校友会、昭和34年、10頁。

『新島襄全集』3巻、新島襄全集編集委員会、1987年、736頁。松井全「たった一字の ことで、ほか」『同志社談叢』17号、同志社社史資料室、1997年。

9) 前掲『新島襄全集』3巻、736頁。現代語で読む新島襄編集委員会『現代語で読む新 島襄』丸善、2000年、286−288頁。

10) 拙稿「新島民治の手習塾−江戸藩邸内塾の考察−」『同志社談叢』18号、同志社社史 資料室、1998年。

11) 民治の手習塾謝儀記録である「手控」に岡田耕助を名のる人物が文政10年7月に「夏 引一」、同11年12月に「草履下駄一」を贈っている。岡田耕助を源七郎の父と見る関 口氏は、この時期、岡田家に民治の筆子は見あたらないので、これらの贈り物は民治 の手習塾への「親戚としての支援」と解釈する。また氏は天保5年弁治・民治の大坂 加番随行に、新島家に贈られた祝物の返礼のうち、中村良蔵への返礼(箱入猪口十)

を岡田耕助に託していることについて、分別ある人物なら他人に託すことはしないと し、耕助に託したのは「親戚ゆえに」に依頼したと解釈する。ともに「親戚」に引き 付けての解釈である。解釈は証とはならない。

12) 「覚帳」天保3年11月18日於 出産条参照。

13) 「元祖山本先生真蹟」の内包文書、新島遺品庫収蔵資料、目録上811。以下、「内包文 書」と略。

(19)

14) 資料3注2)参照。本稿では安政5年14歳説を採用。

15) 森田万之助は御祐筆(「安政四年五月安中藩席順役録」「慶応二年板倉勝殷公分限帳」

「内包文書」、岡本 之助は安政5年12月に中小性格御書方出役(「天保十年正月江戸 御在所諸士明細帳」、藤井宗助は万延元年12月に御書方出役(同上)、青木秀平は御 祐筆(「内包文書」、田中鎔三郎は御書方書役(「安政四年五月安中藩席順役録」 16) 天保10年御徒士組除御書役「天保十年正月江戸御在所諸士明細帳」

17) 「内包文書」

18) 前掲「新島の姉弟」「新島氏家統記」新島遺品庫収蔵資料、目録上1678。

19) 植村新次の3件は文久元年敬幹安中表御供、同年おとき婚姻、同年双六引移。木村三 弥の3件は文久元年おとき婚姻、同年双六引移、文久2年七五三太松山表航海。速水 林治の2件は文久元年おとき婚姻、同年双六引移「覚帳」

20) 「覚帳」文久元年11月双六引移条。

21) 『安中市史』5巻、安中市、平成14年、918−927頁。

22) 前掲「新島氏家統記」

23) 前掲『安中市史』5巻、906−913頁。

24) 前掲森中『新島襄先生』1巻、81頁。渡辺実『新島襄』吉川弘文館(人物叢書)昭和 41年4版、14頁。渡辺実『新島襄』は昭和34年10月に初版が刊行され、同37年6月に 再版(補正増補)が刊行された。そのため同書には初版と再版以降の版には内容にお いて若干の違いがある。しかし、本稿で疑問視した「双六引移」を「聖堂」入りと思 わせる記載は、初版、再版、3版(昭和38年10月)、4版をとおして変わらない。

25) 双六の修学については竹内力雄氏の研究がある。前掲『新島雙六のこと』

26) 星野閏四郎については『三百藩家臣人名事典』2巻、新人物往来社、昭和63年、に詳 しい。阿部正恵氏執筆、同書180−181頁。

27) 「天保十年正月江戸御在所諸士明細帳」

28) 起請文の文面は以下のとおり(『安中市誌』安中市誌編纂委員会、昭和39年、192頁) 起証文

(ママ)

之事 一、高島流諸大炮之事 一、銃陣之事

一、御流儀に差加え一流を立申間敷事 一、御秘事一切他流之秘事と替々に仕間敷事

安中藩士岡田源七郎と新島家

(20)

右之条々堅可相守候、若於相背者大小神祇宣罰可罷蒙者也 仍如件 年 月 日       姓 名

花押血判 29)・30) 前掲『安中市誌』192頁。

31) 鏑木路易「新島襄の[青春物語

(ママ)

]に見る安中藩の『毀鐘鋳砲』について」『新島研究』

92号、同志社社史資料室、2001年。

同氏は1972年に発表された「高島秋帆と新島襄(下)『新島研究』39号、同志社新 島研究会、1972年)においても同記載を「襄の弟双六のことか?」と記している。長 く疑問視されていたようである。

32) 「覚帳」では「浦和」を冠し、「浦和宿 鍵屋六之丞」「浦和 」「浦和 鍵屋金蔵」

とも記す。

33) 新島家「過去帳」(前掲『安中市史』5巻、所収、903−906頁)

鍵屋の中田姓について、韮塚一三郎氏によると、近世すでに中田姓を名のっていたと いう(韮塚前掲書、277−279頁)。明和3(1766) 年、鍵屋の菩提寺である浦和宿玉蔵院 の家老宮崎喜六が編した『短才見聞録』に中田姓を名のる二人の人物(中田伝十郎、

中田善五郎)が見え、加えて同院周辺図に「鍵屋善五郎」の住まいが見えるという。

同氏はこれを根拠としている。しかし、同氏が使用した『浦和市史』3巻(浦和市、

昭和56年)所収の『短才見聞録』所載玉蔵院周辺図(同書、84頁)は、同氏が記す

「鍵屋善五郎」を「善五郎」と記し、原史料『短才見聞録』からは鍵屋中田姓は読み 取れない。同問題は近世新島研究の課題と思われるので、稿をあらため論じたい。

34) 明治4年作成と推定される新島家家族書上では、とみは「登美」として「武蔵国足立 郡浦和県御支配所同所中田六之丞末女」と記され、つづく明治11年8月作成と推定さ れる家族書上でも、とみは「登美」と記され、「武蔵国足立郡浦和宿農中田六之丞亡 長女」とある(前掲『安中市史』5巻、957−958頁)。前者の家族書上の作成は、竹 内力雄氏によると、明治4年9月から10月中にかけての時期とされ、壬申戸籍作成の ための書上という(竹内力雄「新島襄の『平民』戸籍の創出と平民主義」『新島研究』

97号、同志社社史資料センター、2006年)

35) 岡田源七郎を媒酌人と見る見解は関口氏以前にもあった。昭和60年、韮塚一三郎氏の

(21)

指摘である(韮塚前掲書、276頁)。関口氏は韮塚氏の見解をご存じのはずであるが、

氏の本編にはその記載がない。韮塚氏は「親類岡田氏」を岡田源七郎と指摘するにと どまり、その根拠を記していないので、関口氏の考察は韮塚説をふまえての考察とい うことになる。氏が源七郎に拘泥したのはこのためであろう。

追記 本稿は、さきに翻刻した「新島家祝物到来覚帳」のまとめとして、かねて準備中 の「近世新島家の儀礼と交際の人びと―『新島家祝物到来覚帳』の考察―」の作成過程で 生まれたものである。作成にさいしては多くの方々にお世話になった。史料収集にさいし ては竹内力雄先生、小枝弘和先生からもご支援をいただいた。厚くお礼申しあげる。

安中藩士岡田源七郎と新島家

参照

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