公家社会と京都
著者 浜中 邦弘
雑誌名 同志社談叢
号 32
ページ 200‑211
発行年 2012‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013071
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公家社会と京都
歴史資料館准教授
浜 中 邦 弘
歴史資料館の浜中です。資料を4枚、準備させていただきました。「公家社会と京都」ということで、主に江戸時代について話をさせていただきます。先程の鋤柄先生のような壮大な話にはならないかと思いますがご了承下さい。また対象とする公家も一般的には地味な感がありますが、京都の歴史において、公家社会は江戸時代、そして現代においても重要な意義をもつものと思います。私自身、同志社女子大学のキャンパスを5年前に発掘調査しました。その場所が二条家という摂関家、他には一条、九条、近衛、鷹司という、公家社会のトップクラスの家々があるんですが、その二条家が女子大学キャンパスの半分を屋敷地としてまして、そのエリアを発掘調査した関係から近世の公家社会について、現在興味をもち研究を進めているところです。私自身はもともとマイナーなところが大好きでして、そういったことも公家社会の研究を進めている理由の一つです。
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にはかつて数多くの公家屋敷が、建っていました。禁裏の周囲に公家が住んでいる。その一帯を学問的には公 主上であったり、そういう言葉で史料には出てきます。その禁裏の御所は現在の京都御所にあたります。周辺 現在の天皇ですね。江戸時代におきましては天皇という言葉はほとんど使っておりません。禁裏であったり、 1は江戸時代の京都の姿で京都市埋蔵文化財研究所が作成した資料です。相国寺、そしてその南側に禁裏、
二〇一公家社会と京都 家町というふうに呼んでおります。そのような禁裏の周りに公家やその他宮家を集中させて住まわせるようにしましたのは、豊臣秀吉が京都を都市改造した際に行われた施策の一つでした。その後の江戸時代の徳川政権も、それを踏襲していくこととなります。この地図をみると、なぜか公家町の範囲が同志社女子大学にだけ入れていますが、同志社大学今出川キャンパス南も実は公家町の範囲にあたります。公家町の大半は今の京都御苑、京都の人たちは御苑全体を京都御所と呼んでおりますが、北一角にその範囲から漏れた部分がありまして、それが現在同志社大学と同志社女子大学になっております。今出川通りに南面して公家の屋敷地が並んでいました。 図 ていません。次の新段階の絵図になると薩摩屋敷が表現されています。同志社大学の位置には公家の中の竹内 ら寺域南西の土地を借りて藩邸をつくっている時期にあたるわけですが、この絵図にはまだそれがもりこまれ 2は文久3年(1863)秋に改正された公家屋敷地の配置図です。文久3年といえば薩摩藩が相国寺か
図1 江戸時代の京都(『京都 秀吉の時代
〜つちの中から〜』財団法人京都市 埋蔵文化財研究所監修2010より)
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図2 京都御所宮家及び公家屋敷
二〇三公家社会と京都 家、徳大寺家、藤谷家、山科家と位は中級クラスの屋敷が並んでおりました。その並びには冷泉家の屋敷があり、今も残っているのです。今出川校地で授業していて「冷泉家の屋敷はどこにありますか?」という質問を学生にしているのですがかなりの学生が答えられません。冷泉家自体は知っていますが、こんな近いところに冷泉家の屋敷があるとは知らないのです。一方、同志社女子大学には広大な屋敷地を占める公家と宮家の家が、かつてありました。伏見宮家と二条家で西半分が伏見宮家で、東半分が二条家の屋敷地です。冷泉家の敷地の 常に大きな敷地です。 10倍くらいの非
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部にあり、大学側からちらっと外観をみることはで 資料等がおさめられている御文庫です。敷地の北東 の屋敷地内で最も重要な建物が「明月記」や和歌の す。江戸後半の面影を色濃く残しています。冷泉家 の公家屋敷として、重要文化財に指定されておりま 3は冷泉家の屋敷地の内容です。現存する唯一
図3 冷泉家邸(冷泉家パンフレットより)
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きますが、そこに重要な宝物が数多くおさめられています。そこへは当主しか入れない。規模はそれほど大きくはありませんが、同志社と近接したところにそうした公家文化の貴重な遺産が存在しているのです。
文献などを見ていきますと、公家の江戸時代の仕事は、天皇を中心として朝廷内のさまざまな仕事をしています。政治に関与しない、関与させないように時の徳川幕府は「禁中並公家衆諸法度」を出します。それによって朝廷を政治にかかわらないような形にした。それが幕末に崩壊し約
まさしくそれにあたります。 関係でいえば、先に少しお話しした薩摩藩邸が 辺にいろいろと点在しています。大学構内との 要な場所が、同志社大学キャンパス含めその周 台になっていきました。その幕末期における重 50年間にわたり、再び京都は政治の舞
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4は朝廷の統制機構図です。江戸時代の朝
図4 朝廷の統制機構図(『朝廷をとりまく人々』高埜利彦編、
2007年より)
二〇五公家社会と京都 廷はどのような形だったのか。朝廷は天皇がいまして、その下に親王がおりそれとは別に関白、三大臣そして、他の公家が存在するわけです。公家というのは本来天皇を示すものでして、正確には公家衆もしくは公家中と呼びます。それはともかく、天皇の下に、公家のトップに関白、三大臣は太政大臣と左大臣、右大臣、そして准三宮もそれにありますが、基本的には先の三大臣になります。朝廷は京都にありますが、幕府の中心は江戸です。その中継ぎをするのが京都所司代です。二条城の北側に、所司代の屋敷がありました。この所司代と朝廷とつながりを持つのが武家伝奏になります。公家の中から2名輩出しています。武家伝奏が幕府と朝廷の交渉にあたっていきます。この中に徳大寺、そして西園寺もそうだったと思いますが、位のやや高い家々の人々がかかわっております。武家伝奏になる人物は京都所司代に血判の誓詞をさせられて、それで決まることになっています。その役職につくと幕府から給料が出る。実質、朝廷は幕府の統制下におかれていたことがわかる一例になるかと思います。その下に議奏がいます。武家伝奏を補佐する人々です。そこには4、5名の人がつく。以上は堂上公家と呼ばれる人々から選出されているわけです。堂上公家は昔でいえば殿上人ですが、簡単にいうと、昇殿を許された人、内裏の清涼殿に入ることを許された人を堂上公家と呼んでおります。昇殿を許されない人々は地下官人と呼んでいます。こういった多くの人々によって朝廷が運営されていました。 「江戸は将軍のお膝元。大坂は天下の台所。京都は伝統が重視されて文化が大切なところ」といった感じで教科書には書いてありますが、私は京都は、「天皇のお膝元」と最近思い、そのように命名しています。江戸時代において京都が京都たりえたというのは朝廷があったからにほかならないと思っているからです。 図 田家は百万石、島津、伊達も大々名で、石高は極めて大きいのですが、では公家はどうでしょうか。近衛は公 5は公家の知行高一覧です。寛文5年(1665)のものを載せております。大名家でみていきますと前
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図5 公家の知行高一覧(寛文5年〈1665〉)(『朝廷をとりまく人々』高埜 利彦編、2007年より)
二〇七公家社会と京都 家の筆頭ですが、1800石。この程度しかないわけですね。これらも幕府からいただくわけですが、このくらいしか石高を持っていない。冷泉家は石高300石。武士との比較でみると極めて少ない。公家は石高で見る限り、少ない中でさまざまな方策を講じて生活せざるをえなかったというのが実情だったと思います。公家の中で幕末に活躍した大人物に岩倉具視がいますが、その岩倉家は石高150石しかない。その岩倉具視の懐古談によりますと、毎月3回、祝いの日があるんですが、その時に「ニシンと刻み昆布を炊いて食べた。それが贅沢なものであった」と書いております。そのくらい貧しい生活をしていた。幕末における岩倉の起爆剤はそこにあるのではないかと私などは思っています。公家の大半は、もともと藤原氏です。岩倉は源氏です。今の二条家のご当主に聞きますと「岩倉は源氏だから幕末は成功したんだ」といいます。そんな古い話を、今も引きずっているんだと私なんかはびっくりしたわけですが、そういう方々にとっては、家の系統が重要であるようです。 図 った著名な人物ですが、公望は徳大寺の家から養子に入って西園寺に入った人です。生まれの家は徳大寺家で 寺と西園寺は極めて親しい間柄というのがこの系図でおわかりになるかと思います。西園寺公望は首相にもな には洞院として分かれていく。この会場の西側(現在の図書館)にかつて徳大寺の屋敷がありましたが、徳大 摂家に続いていきますが、師輔の息子の一人である公季の系統が、後に三条、西園寺、徳大寺とわかれ、さら があった西園寺公経も実は藤原氏であります。北家藤原氏の師輔から息子兼家、これが系図の北家藤原氏の五 家に分かれていきます。北家藤原家のトップクラスが、このような形で分かれていった。鋤柄先生からもお話 倉前期に近衛、鷹司、九条、二条、一条、これが後の五摂家になっていきますが、このような形でそれぞれの 6は五摂家の系図です。もともと藤原氏という氏族ですが、鎌倉前期に家として分立していきました。鎌
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図6 北家藤原氏系図(『岩波日本史事典』1995年より)
二〇九公家社会と京都 あり、図書館にあった徳大寺から彼は養子に入ったのです。 同志社の敷地は公家屋敷が林立していた場所になり、大学がこれまで発掘してきたその成果は極めて重要といえます。京都御苑部分はなかなか調査できていません。かつて迎賓館を建設する際に発掘調査が行われ、中級~下級クラスの公家屋敷を調査する機会はありましたが、そのエリアにはハイクラスの屋敷地はありませんでした。そういった中で、同志社女子大学は伏見宮家、二条家とトップクラスの屋敷があり、発掘調査によってその生活の有様がおぼろげながら見えてきています。その一端を今回の特別展示では設けております。 冷泉家の隣の藤谷家、この家は冷泉家から分かれた家ですが、その藤谷家の発掘調査もかつて行われており、その出土遺物もあわせて展示しておりますので御覧いただければと思います。併せて展示している相国寺のほうの展示と違って、公家の文化を理解するには予備知識が多くいるためなかなか難しいかと思いますが、こういうものを、当時の公家たちが使っていたんだということだけでも感じていただければよろしいかと思います。 最後に京都御苑案内図です(図 しています。ここにかつて誰々の邸宅跡であったなどなど。今の京都御苑の姿になりますのは明治 ています。かつてこの御苑内に公家が住んでいたそのあかしとして、環境省は現在立て看板などをつくったり って馴染みのある人々でしたが、この時に切り離されてしまい、現在そのような関係がイメージしにくくなっ へ、江戸城を皇居として移られ、大半の公家も一緒に東京へ移り住むこととなります。公家は京都の人々にと 7が治環境省京東に9)68年(12明つが皇)。治明す。で料資たっく天
77)以降になってからです。明治 10年(18 10年以前の公家たちが住んでいたその名残りが京都御苑なのです。
以上雑駁な話になりましたが、あとは補足を含めて討論でお話をしていきたいと思います。どうもありがとうございました。
二一〇公家社会と京都
図7 京都御苑案内図(パンフレット)
二一一公家社会と京都 ※挿図は、当日のシンポジウムで使用した資料から、適宜抽出し再構成した。