日本洋学史 : 日本人と南蛮語学
著者 宮永 孝
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会志林
巻 48
号 1
ページ 1‑100
発行年 2001‑09
URL http://doi.org/10.15002/00020987
日本人の外国語学習の歴史とその受容についての研究は、近年わたしがいちばん関心を寄せているテーマである。外国語といえば、近隣の国々の言語l朝鮮語、ロシア語、中国語、タガログ語(ピリピーノ語)その他があるが、目下のわたしの興味の中心は、東洋系の言語の摂取について究めることではなく、日本人が印欧語族に属するヨーロッパ系の言語とどのように接触し、どのように学んだのかlいわば、日本人の西欧語学習の起源と沿革について研究することである。わが国におけるヨーロッパ言語の研究は、まずポルトガル語、スペイン語、古典ラテン語などを学ぶことからはじまり、イエズス会の布教活動時代にピークにたっし、禁教・鎖国時代をへて、幕末まで細々と命脈をたもつのであるが、ポルトガル人やスペイン人が追い払われた寛永の末(一六四○年代ごろ)から下火となり、代わってオランダ語学の全盛時代が到来し、幕末をむかえる。いまヨーロッパからわが国に入ってきた西欧語を歴史的に概観し、大きく区分すると、およそつぎのようになる。 れられた。 日本人がもっとも深い交渉をもった外国語は、漢語(中国語)である。ついで十六世紀の半ばから約百年間、西ヨーロッパの言語(ポルトガル語、スペイン語)や古典ラテン語などとかかわりあいをもった結果、日本語のなかにもそれらの言葉が少なからず取り入
日本洋学史
(第一期)ポルトガル語・スペイン語および.………・………・十六世紀中ごろから約百年間。 l日本人と南蛮語学
宮永孝
180(1)
日本人がポルトガル語をはじめて音声として聞いたのは、いまから約四五○年まえの天文十年ごろに、ポルトガル人がはじめて鹿児 島や府内(現・大分市)にやって来たときであろう。そのとき島民は、ポルトガル語を単に異国のことばぐらいに考えたにちがいなく、
ポルトガル国やポルトガル人だといっても皆目なんのことか、見当もつかなかったはずである。天文十三年(一五四四)ごろから、ポルトガル船が主として九州の諸港に来航し、ついで同十八年八月十五日(’五四九・七・’二)、
スペイン生れのイエズス会の僧フランシスコ・ザビエルが中国のジャンクにのって鹿児島にやってくるのである。ザビエルの来日をもって、わが国にはじめてキリスト教(旧教)が伝わるのだが、その来航に先だっ二年前l天文十六年(一五四 七)の秋、郷里の薩摩を連れの者二名とともに脱出し、マラッカ(マレー半島の西岸)にむかった日本人がいた。かれらの日本藝名ははっ
(1)きりしていないが、一人はアンジロー〔またはヤジロー(弥次郎)ともいう〕、あとの一一人は同人の兄弟と召使であった。
本稿で取りあげるのは、おもに十六・七世紀のキリスト教の布教および禁教時代(天文~寛永年間)から幕末あたりまでであり、日本人がはじめて西欧語にふれ、それらを学んだ経緯と学習の沿革、展開についてである。日本人がヨーロッパの言語を学ぶにあたって、それを伝え、教えるものがいなくてはならないが、教師はキリスト教の宣教師、教わ
日本人がヨーロッパの一一一一異るものはその信徒であった。日本人がはじめて耳で聞き、》の浸透と発展から述べてみたい。 古典ラテン語(第二期)オランダ語:………・………・………:………十七世紀の初頭から幕末までの約二五○年間。(第三期)英米語・フランス語・ドイツ語………幕末・明治期から現代まで。ロシア語・イタリア語およびその他の言語*
学んだ言語は、南欧系のポルトガル語と古典ラテン語であった。まずポルトガル語との接触と学習、そ
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日本洋学史
(4) 軍つけた。
マラッカにむかう途中、船長のジョルジ・アルヴァレスよりキリスト教徒になることを勧められた。 マラッカに着いたとき、ザビエルは布教のためモルッカ(マルク)諸島(インドネシア東部の諸島)に渡っていたので、同人に会え ず、そのため入信を断念し、ひとまず中国経由で帰国の途についた。 どうにか便船をえて故国にむかったが、船は日本近海で暴風雨にあい、中国のポルトガル船寄港地(マカオ?)に引き返した。その 地でたまたまアルパロ・ヴァスと再会し、その船にのせてもらい、ふたたびマラッカに着いたのは、同年十二月のことであった。 このときはじめてアンジローは、モルッカ諸島から帰っていたザビエルと会うことができ、その勧めにしたがってゴアに行き、翌天 文十七年一一一月(’五四八・四)イエズス会のサゥン・パウロ学院○○一の四・□の田○℃目}・にアンジローと連れの一一人は入った。一五
(3)四八年五月一一十日の聖霊降臨の祝日に、一一一人はゴァの大寺院でフランチェスコ派の大僧正ジョアン・デ・アルプケルケによって洗礼を
アンジローは、 (2)
これら一一一名の日本人を連れて行ったのは、ポルトガル船の船長ジョルジ・アルヴァレスであった。アンジロ1は、当時一一一十五歳位で
うじあったという。同人の氏や素性についてはわからぬ点が多いが、家がらはけっして卑しくなく、資産に富んでいたらしい。 しかし、アンジローは若年より放らつな生活を送った。あるときじぶんの行なってきたことを悔いあらため、|日、仏僧をたずね魂 の救済をもとめた。が、僧はかれに心の安らぎをあたえることができなかった。 折から薩摩に在泊していた、かねて知りあいのポルトガル人アルバロ・ヴァスに相談したとき、インド地方にフランシスコ・ザビエ ルという聖人がいることを教えられた。そのひとはかならずや汝の苦しみを救ってくれるにちがいないといった。 だがその後、アンジローは人と争い、相手を殺してしまい、寺院に逃れた。かれは郷里にいたたまれず、やむなくポルトガル船の船 長ジョルジ・アルヴァレスにたのんで、連れとともに国外に連れだしてもらった。 アンジローのその後の消息だが、薩摩の山川を出帆後、まずマラッカに行き、そこからさらにゴア(インド南西岸lポルトガル領)
におもむいた。178(3)
「ジョアン」と、それぞれ洗礼名をあたえられ、信仰の道に入った。
パードレ入信した日本人の教育を担ったのは、ゴァでイエズス会士となったコスメ・デ・トーレス神父であった。サゥン・パウロ学院で三名の日本人は、他の修道士たちといっしょに暮らし、祈祷書によって祈り、食堂で食事をし、毎土曜日に告白し、日曜日には聖体を桂頑し、二十日間以上もイエズス会の心霊修行をおこなった。(5) (6) みずから”ジッポン人”(日本人)と称していた一二名のうち、明敏な判断力とすぐれた記憶力とまれに見る才気に富み、修道士たち 召使は、 「パウロ・デ・サンタ・フェ」という名を授けられ、同人の兄弟は、
「アントニオ」
有能なアンジローは、みずから、
回目には第一章から終章まですべて暗唱できたという。 と語っている。 かれは鹿児島の山川を出帆して以来、一年ほどのあいだに、船中のポルトガル人からポルトガル語を聞きおぼえ、さらにキリスト教(7) 理についても少しは知識を得ていたとされる。
(8) アンジロー(当時、一二十六、七歳)は、知識欲が旺盛であり、サゥン・パウロ学院にいた八カ月ほどのあいだに、ポルトガル語の読(9) み書きをまなぶことに専念した。かれはポルトガル語のみならず、ラテン語の読み書きもまあどうにかできたらしい。アンジローは非凡な記憶力をもっていたものか、コスメ・デ・トーレス師が二度ほど、聖マテオ福音書について説明したとき、第二 みずから〃ジッポン人”(日本人)と称の称賛をえたのは、アンジローであった。
「わたしはすでにすこしポルトガル語を解し、また数語を話すことができた」
(4)177
06一
この書簡は、コーチン(インド南部、マドゥライの西二○○キロにある港町)から出されたものである。 当時のアンジローの語学力は、まあまあのポルトガル語を話したということであろう。のちにかれはポルトガル語を書くことを覚え、
イルマン書簡を出すにいたるのだが、かれがゴアよりローマにいるイエズス会の創立者ロョラや同会の神父、助修士などに宛てて出した、イン ドに来るまでのいきさつをポルトガル語でつづった書簡(一五四八・二・一一九Ⅱ天文一七・一二・一九付)などは、日本人がはじめ
(、)てヨーロッパの一一言語で、アルファベットを用いて書いた最初の文章とされている。
(Ⅲ)しかし、最近の研究によると、アンジローはたしかにじぶんの体験談をみずからポルトガル壷叩でしたためたが、師のコスメ・デ・トー 史レスの協力を経てなったものらしい。書簡の中に用いられている、ゆたかな語奨や聖書からの引用、接続法や分詞構文などは、かなり 》ポルトガル語の文法に通じていないと書けない表現であることから、自力で書いたとはとても考えられぬ、という。
(腿)日
アンジローのポルトガル垂函の学力のほどについては、はっきりとしたことは判らないが、当時の日本人としてはかなりのレベルに達 ポルトガル語(ルシタニア語)をはじめて学んだ日本人は、だれそれであるとうかつに断定はできないが、すくなくともアンジロー
は、正式に同語を学習した先達のひとりとして記憶にとどめてよいであろう。かれがポルトガル語を学んだことは紛れもない事実であるが、どの程度それに熟達していたものか。じっさいかれの学力はどれほど ザビエルは、新改宗者のアンジローにはじめて会ったときのことを、ローマにいるイエズス会の会友に報じた書簡(一五四八二・
二○付)の中で、つぎのように語っている。 の‐もので堅あったのか。(アンリロー)「そして今度は私に会ふ}」とができたのである。アンヘロの喜びは、実に大きかった。我等の信仰のことを聴きたいと言ふ熱望を持って、私
の所へ来た。が麓窓かひ強トがい鑿諦詮か、松鷲、亙倦予寧含凸慧鳶」(椥紅一議『聖フランシスコ・デ・ザビエル
書翰抄」)注・傍点は、引用者による。176(5)
講義の一部を日本語で筆録した。かれ」〈Ⅳ)があればいつでも師に質問をあびせた。 していたものであろう。
アンジローは、それほど学識の深い人ではなかったようだが、日本で最初のキリシタンとして、数種の著作をしたことは稀有のでき(旧)ごとであった。しかし、かれが書きのこした箸訳書は一つも残存していない。
それらは、 ザビエルは、アンジローらと接することによって、日十がて神の福音を説くための日本布教を思いたつのである。
(い)などであった。 (旧)
かれといっしょに洗礼を受けたアントニオとジョァンも、「すでにポルトガル語を話し、読み、書く}」とを習ひ覚えていた」という。
(M) アンジローは、Jもともとが武士階級の出身であったらしく、「日本文字をひじょうに上手に書くことを知っていた」とザビエルは語っ(旧)ている。が、戦国時代の武士で文武両道の達人は少なかったとされ、アンジローの国語力のほど4もよくわかっていない。、、(肥)アンジローは、トーレス師から聖マーナオ福音書の説明をうけていたとき、その主要なる部分をかなで書きとめ、またザビエルの聖教講義の一部を日本語で筆録した。かれは修道士のような服装をして授業をうけていたというが、単に受け身の受講者でおわらず、疑問
「日本の事情」(一五四九年百「十戒」(大ドチリナの部分訳) 「聖マテオ福音瞥」(日本文字でメモし、記憶したものか)「日本の事情」(一五四九年一月の報告) クレード「信条の個条」(教理問答の抜書Iマラッカにいたときの筆録)「小ドチリナおよび大ドチリナ・キリシタン」(キリスト教教理書l日本語による筆録)
「書簡」(一五四八・一一・二九付と一五四九・一一・五付のものが二通ある) 日本人が学ぶことが好きな国民であり、徳性と英知を有していることを知り、や
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日本洋学史
同年六月二十四日、|行はジャンクにのってマラッカを出帆し、八月十五日(天文一八・七・’二)鹿児島に到着した。アンジローは帰国後、ザビエルをたすけ、使徒らしい熱意をもってキリスト教の布教に大いに努めた。しかし、一身上に何か事情が生じたものか、
ニン教I徐々に信仰にたいする熱意をうしなっていったらしい。その末路についてははっきりしないが、一説によると中国の寧波において盗賊
薩摩の国は山地が多く、食料品の補給を処(別)たものとおもわれる(フロイス『日本史』)。 (蝿)によって殺されたという。 ついに一五四九年四月、にむかった。 またシャルルポワの『日本キリスト教史』(一八二八年)に、「パウロ・デ・サンタ・フェ(アンジローのこと)は、ラテン語とポル(泥)トガル語をひじょうにやすやすと話した」といった記述がみられるが、この》」とは信じがたい。ザビエルは、日本への航海が、台風や海賊船の横行などにより、ひじょうに危険なものであることをじゅうぶんに承知していた。が、ついに一五四九年四月、日本‐布教の途にあがるべくアンジローとその連れの日本人両名をともない、ゴァを出発し、ひとまずマラッカ (皿)る者はほとんどいないまで著し/、上達した」という。 ない。(天地創造、キリストの一エルによって利用された。 (加)またザビエルはアンジローに、「十戒」や「小ドチリナ」(ジョアン・デ・バルシュ編キリスト教教理書)や「キリシタン教義提要」〈地創造、キリストの一代記などをしるしたもの)などを翻訳させたが、アンジローはそれらをローマ字に綴り、説教のさいにザビいずれにせよ、アンジローはサゥン・パウロ学院にいたわずか八カ月ほどの間に、ポルトガル語の修得に大いに専念し、「かれに優
いまかかげたものの中には、日本語やポルトガル語で書いたものが含まれるが、書簡二通(ポルトガル語)をのぞくと、他は現存し
*
ばばんわこう食料品の補給を他国にたよっており、生活苦からかアンジローは八幡船(倭憲の船)にのり、中国に渡航’し
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天文二十一年(一五五二)三月、ザビエルはインドを去り、マラッカを経て中国へおもむこうとするのだが、一五五二年十一一月一一一日
サンチユアン中国潜入をはたす》」となく上川島において四十七歳の生涯をとじた。ザビエルはインド不在ちゅう、ゴァの学院長ガスパーレ・パルゼォ神父に、ベルナルドとマテオの保護と両人をポルトガルヘ出発さ せる世話を依頼した。しかし、マテォはヨーロッパにむけて発つまえに、ゴァの酷暑に耐えきれず、サゥン・パウロ学院において亡く
なった。 両人はポルトガルやイタリアかせてやりたいとおもっていた。 マテオ余を同伴した。 ベルナルドは、のそばを離れず、袋をさげていた。
日本人としてはじめて改心し、キリシタン信徒第一号となったのはアンジローとその連れの二人であったとすると、受洗した第二号
は、鹿児島生まれの日本人ベルナルドであった。同人についても、日本名が何であったのか明らかでない。(妬)ベルナルドは、鹿児島で受礼するまえ、仏僧であったらしい。かれは貧しい妻戸年であった。勇気と高潔な心をもち、つねにザビエル
ほしい
のそばを離れず、鹿児島、平戸、山口、京都へと伝道の旅につきそった。ベルナルドは苦しい旅をいとわず、いつも腰に乾飯をつめた
ザビエルは、この忠実な信徒に期待をかけ、ゆくゆくはじぶんが日本を去ったのち、後事をゆだねるに足る人間とみていた。
よししげ天文一一十年(’五五一)、ザビエルは大友義鎖(宗麟)がインド副王に送った使節(上田玄佐)|行とともにドゥアルテ・ダ・ガマひしのポルトガル船で豊後国の日出港を出帆するとき、 薩摩の人エルマーノ・ベルナルド。ベルナルド
(妬)
マテォは、ゴァの学院にいた数ヵ月のあいだ、その謙譲の徳とたえまない祈腕リの精神によって、神父たちの驚きの的であった。
(山口に生まれ、一五五一年に受洗)(ローマ)を見たい、といった希望をもっており、帰国後は見学したキリスト教国のようすを同胞に間
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日本洋学史
ベルナルドは、看護修士ルイス・クワレスマに付きそってもらって、リスボンよりひとまずコインプラ(ポルトガル中部の古都)におもむき、そこから陸路イベリア半島を横断してローマにむかうことにした。
一(戒正四年七月十七日、ベルナルドはコインブラを出発し、サラマンカ、セゴビア、バレンシアを経て、バルセロナにむかう途中、 真夏の暑さと旅のつかれにより一一度も倒れた。が、休養をとりつつゆっくりと旅をつづけた。そしてバルセロナよりシシリア島に行く
船にのり、同島に立ちより、さらにナポリを経て、ついにあこがれの地であったローマに到着した。(…こみやこ
ローマに着いたのは、翌一五五五年の一月五、六日の}」とである。ローマでは、都見物に数週間すごし、とくに教会や殉教地などを
(”) おとずれ、ザビエルの友人イグナチオ・ロョラをはじめ、枢機卿、司教、その他の重立った教会関係者と〈云って歓待された。ローマでは創立間もないコレジオ・ロマノ(現・グレゴリオ大学)でラテン語や哲学を学んだようであるが、哲学の学習では、師と(釦)ともにその時間をすごすことよりも、聖体祈念で神とともにすごすほうを好んだ。しかし、コレジオ・ロマノの学院での勉学は、長くはつづかなかった。 一五五一一一年三月(天文一一一一・二)ごろ、ベルナルドは、アンドレア・フェルナンデス、アンドレア・カルパリョらとともに、ゴァを出帆する艦隊(六隻)のうち一隻にのり、ヨーロッパにむかった。(”) 艦隊は苦しい、危険な航海をへて同年九月、リスボンに到着した。が、航海ちゅう、僚船を一一隻うしなった。ベルナルドは、もともと頑健なひとでなかったらしく、長い航海ちゅう弱わり、リスボンに上陸すると、すぐ病床に臥さねばならなかった。サント
しかし、リスボンの聖アンタゥン学院○○一の、一○口のm・シロ(山○で数カ月静養するうちに、徐々に体力を回復した。ベルナルドは体が
よくなると、まず主繍文を習った。かれは、ほかのことを習う必要はない。わたしの知りたいことは、すべてこのお祈りの中にある、(蛆)といい、勉強の内容も主麟文だけでじゅうぶんです、と語った。ベルナルドはリスボン滞在中、シモン・ロドリゲス神父をはじめ、イエズス会のだれからも愛され、ドン・ホァン三世の謁見をうけ、ベルナルドはリスボン滞在中、やがてローマにむけて出発した。出来たての学院の経営は苦しく、学生を分散し、スペインやポルトガルの大学に送ることになったからである。
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翌年の元旦にアリカンテ(『的地のリスボンに到着した。 (皿)一五五五年十月十八日、ベルナルKOは聖遺物、聖水、聖画、メダルなどをたずさえ、カマラ神父と十二名の神学生らとともにローマをあとにした。陸路ジェノヴァにむかい、当地には同年十一月二十八日に着き、約一ヵ月ほど滞在したのち、十一一月二十一日出帆し、(弘治二)翌年の元日一にアリカンテ(スペイン南東部、地中海の小湾にのぞむ港町)に着き、そこから再び海路をとり、一五五六年一一月十一一日目
そこから他の神学生とともにコインプラにおもむいた。が、体調がすぐれず、翌一五五七年の新年をむかえるころ、病状が悪化し、(躯)ついに床についてしまった。そして一一月下旬ごろ、病いにより天国へと旅立った。その死因については、明らかでないが、ヨーロッパに来たときすでに肝臓をわずらっており、またローマにむかう途次、サラマンカヘいモム郷)で倒れたとき、高熱と肝道閉塞とに悩まされていたという。(狐)生前、ベルナルドは、吉向き徳性、献身、あつい信仰とによって人々を魅了した。かれは謙譲の美徳の権化であった。慈愛にみち、禁欲家にして寡黙であった。必要なとき以外、めったに口を開かなかった。財産、祖国、いっさいの被造物に目もくれず、ひたすら神に(鍋)仕えるほか他志がないようだった。その士心は、アンジローと大きな隔りがあったという。ベルナルドはある程度、神父よりポルトガル語、ラテン語、哲学などを学んだはずだが、挙曹あようすについてくわしいことはわかっ
ていない。
名(日本人)らと‐
四人の使節とは、 天正道欧少年使節。(鍋)天正十年一月十八日(一五八二・一一・一一○)、九州の一一一大名(大友、有馬、大村)の名代として少年使節ら四名は、宣教師ヴァリニャーノ、ジョルジ・デ・ロョラ(日本人教弟)、ディェゴ・デ・メスキタ(日本語をよくするポルトガル人通訳)、その他氏名不詳の従者二名(日本人)らとともに、長崎を出帆し、ヨーロッパへむかった。
*
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判断から出たものらしい。
モンスーンコレジオ
ー行は同年一一月五曰(一一|・九)、マカオに到着した。が、折悪しく季節風を逸してしまっており、やむなくイエズス会の学院(「サゥ
ン・パウロ」)の宿舎に入り、風季がおとずれるまでの約九カ月、同所に滞在した。|行は、マカオにおいて知事のジョァン・デ・アルメイダや司教(レオナルド・デ・サア)をはじめ、神父たちから大いに歓迎され
(兜)た。その間に少年使節たちは、ポルトガル語の文字を書くけいこをし、またラテン語の学習にはげんだ。若い使節らは数日間休養をとったのち、日課としてもっぱら語学の勉強に精をだした。みなひととおりポルトガル語を理解でき、あ
あろうと暗黙の覚悟をした。 二日本人に弓(訂)教事業を盛んにする。 らであった。使節らが、長崎からマカオを目ざして出帆するとき、その近親者らは別れを惜しんで涙をながしたばかりか、無事に帰国できないで 使節にいずれも若者がえらばれたのは、かれらが年配の者とくらべて、体力があり、長途の航海や気候風土の変化にも堪えうるとの 少年使節のヨーロッパ派遣は、ヴァリニャーノが立案し、その勧めによったもので、目的は二つあった。 一ローマ教皇とポルトガル王に敬意を表し、将来日本における布教活動に援助を要請する。 二日本人にヨーロッパのキリスト教文物の盛んなることを実見させ、帰国後その見聞を同胞に吹聴することによって、間接に布
右使右使同副同正
中浦ジュリァン(肥前中浦の生まれ)
原マルチノ(大村純忠の家臣、肥前鈴 ちじわな軸かf千々石、ミゲル(大村純忠と有馬晴信の使者、千々石直員の子) 伊東マンショ(大友義鎖の使者)
ばさみ肥前波佐見の生生謀れ)
170(11)
港地をめざした。 (”) る者はよどみなくカスティーリャ語(スペイン中部地方のことば)を話す}」とができたという。しかし、他国人と会話をするとき日本語で話し、通訳のディェゴ・デ・メスキタがそれをポルトガル語に訳して相手につたえた。ラテン語の力は、ポルトガル語に比べて劣っ(㈹)たものか、あまり進歩はみられなかった。またイタリア語は、ほんの少し知るのみであった。一五八二年十二月三十一日(天正一○・一一一・七)、一行はマカオを出帆し、翌年一月一一十七日にマラッカに到着した。そこからさらに航海をつづけ、やがてコーチン(インド)に着き、大歓迎をうけた。二月二十日(天正一一・一・一一八)同地を出帆し、つぎの寄
語学の学習は、航海ちゅうも日課としてつづけられた。公子たちは、|日の多くの時間を日本語の読み書きにつかい、残りをラテンれんとう語の学習に使った。勉強がおわると、四人とも聖母の連祷(ラダイニャ)やその他のお祈りをとなえ、祈祷の反復復調をお}」なった。(肌)かれらはマタイによる福幸白書をポルトガル人から聴くのが好きであり、とくに第五、六、七章を好み、気に入った節を暗記した。ラテン語の学習には少なからず困難をおぼえ、なかなか進まなかったかも知れないが、すぐれた記憶力をもっていた原マルチノだけは、
その進歩が著しかった。
キリシタン信徒と語学。(枢)日本におけるキリスト教(天主教)の伝道史を概観すると、大きく七期に分けられそうである。
第一期天文十八年(一五四九)~永禄十二年(一五六九)……フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、やがてイエズス会の宣教師が漸次来日するようになり、それが九州や京坂地方にまで広がりをみせ、諸大名の庇護をうけた。約二十余年間。第二期元亀元年(一五七○)~天正十五年(一五八七)……キリシタンの興隆期。室町幕府が滅亡し、織田信長や秀吉の時代が到来する。巡察便ヴァリニャーノが二回目の来日をはたし、京坂でキリスト教が盛んとなり、九州のキリシタン三大名が遺欧使節を派遣する。この間、各
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ポルトガル船がわが国に来航するようになったのは、西暦紀元の十六世紀l室町(戦国)時代から安土桃山時代にかけてのことで(蝿)ある。いま編年史的にその来航をしるすと、つぎのよ・っになる。 第六期寛永末年(一六四○)~安政の開国(一八五○)……キリシタン潜伏の時代。ポルトガル人の来航を禁じ(寛永十六年)、南蛮の商人や宣教師の渡来がとだえた。イタリアの宣教師シドッティが屋久島に来着し(宝永五年)、のち江戸に送られた。まれに日本に潜入をはかる宣教師がいたが、ほとんど捕縛され、拷問にあったり、処刑された。約二十三年間。第七期安政の開国(一八五○)~明治六年(一八七三)……キリシタン復活の時代。慶応元年(一八六五)三月、新たに建立された長崎大浦の天主堂の門前に、かくれキリシタン十五名ほどがはじめて姿をみせた(信徒発見)。のち浦上の大勢のかくれキリシタンらが捕えられ、津和野・萩。福山の三藩に流罪となる(明治元年)。のちキリスト教の信仰は黙許され、宗門禁制の高札が取りはずされる(明治六年)。信教の自由を保障されたのは明治二十二年(一八八九)二月の帝国懲法発布によってである。かくして慶長十九年(一六一四)に家康がキリシタン大追放令を発して二七五年後に、日本人ははじめてキリスト教を公然と信じることができた。 地に天主堂(教会)がつくられ、信徒のための教育機関が設けられる。約二十年間。第三期天正十五年(一五八七)~慶長五年(一六○○)……キリシタンの迫害と禁教の時代。秀吉が禁教令を発し(天正十五年)、九州および京坂地方におけるキリシタンの勢力が一時おとろえた。この間、フランシスコ会、ドミーーコ会、アウグスチノ会の宣教師らが来日し、イエズス会と反目した。長崎においてキリシタン信徒二十六名がはじめて処刑された(慶長元年)。約十五年間○第四期慶長五年(一六○○)~同十八年(一六二)……局部的な迫害はあっても、信徒の数はふえ、キリスト教は九州・京坂地方から関東、東北方面にまでおよんだ。京都や江戸の教会堂が破壊され(慶長十七年)、翌年多数のキリシタンが江戸で処刑された。約十五年間。第五期元和元年(一六一五)~寛永十五年(一六三八)……キリシタン迫害の時代。イスパニァとの国交断絶(寛永元年)。家康はキリシタン大追放令を発し(慶長十九年)、京都のキリシタンが火刑に処せられた(元和五年)。長崎でキリシタン五十五名が処刑された(元和の大殉教)。禁教遂行のため、あらゆる迫害方法を用いた。やがて天草島原のキリシタンが蜂起し、原城に立てこもり幕軍と一戦をまじえ、虐殺された(寛永十四年の島原の乱)。約二十三年。
168(13)
天文十年(一五四一)七月…………シャムより中国にむかうポルトガルの商船二隻は、暴風雨にあい、一隻は鹿児島湾に入り、もう一隻は同(斜)年七月二十七日臼杵湾を経て神宮寺浦(現・大分市の沖)に着く。
天文十二年(一五四三)八月………ポルトガル船、種子島の西之村浦に漂着(「長崎実録大成」第七巻)。と●たか天文十一一一年(一五四四)春…。:……ポルトガル船、種子島の熊野浦に来航。船客のなかに鉄鉋鍛冶がおり、領主の種子島時堯は金兵衛勾情定)に鉄鉋の製造法をまなばせた。同年十一月…………・………:…薩摩にポルトガル船が来航しべ交易をもとめる。天文十五年(一五四六)七月………南蛮船(ポルトガル“ザ.)、豊後国(現・大分県)の佐伯浦・臼杵湾に来航し、交易をもとめる。同年八月………フェルナン・メンデス・ピント、アルヴァロ・ヴァスらマラッカより種子島にくる。のち薩摩の山川、豊後の府中(現・大分市)に寄り、交易する。
天文十八年(一五四九)七月………フランシスコ・ザビエルの一行、薩摩の鹿児島に到着。同年の冬………ポルトガル商船、肥前の平戸にはじめて来航する。天文十九年(一五五○)九月:……・ポルトガル人ドゥァルテ・ダ・ガマの船が肥前の平戸島河内補(現・平戸市の西南六キロ、千里ヶ浜)に(柄)来航。藩主松浦隆信は、交易によって利益を得んとし、通商をゆるす。南蛮通詞を置く。京、堺、その他より商人が平戸に来るようになり、日葡貿易が盛んになる。
ひじ天文一一十年(一五五一)七月’……:ポルトガルの商船、豊後国日出港(現・大分県速見郡日出町I別府湾北岸の町)に来航。同年、周防国山口においてキリシタンのための正規の学校が創られ、語学・神学・哲学・自然科学などを教授する。天文二十一年(一五五二)八月……ドゥァルテ・ダ・ガマの船、鹿児島に来航。同船にはパルタザル・ガゴ、ドゥァルテ・ダ・シルヴァ、ピェール・アルカセヴァらの神父およびポルトガル商人ルイス・デ・アルメイダらがのっていた。この一行は、ザビエルがインドにおいて編成した第二回目の日本派遣の布教団。
弘治元年(一五五五)五月…………ポルトガル船、種子島に来航し、砲術をつたえる。(伯)永禄四年(一五六一)七月・………:ルイス・デ・アルメイダは、肥前の横瀬浦(現・長崎県西彼杵郡瀬川村)に碇泊滞在ちゅうのポルトガル(仰)人とともに大村におもむき、藩主大村純忠と交渉し、横瀬浦をポルトガル貿易の港と定める。
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日本洋学史
来日したポルトガル商人との通商には、お互い意思を疎通するための手段として言葉が不可欠であるが、港に集まってきた諸国商人は、混合破格のポルトガル語を用いていたものらしい。かれらは商品の名称や取引用語などを逸早くおぼえ、交易のさいに用いた。また語学の才のある者も生まれ、通訳の任にあたったかと思える。
とくにポルトガル人のために開かれた長崎では、住民は子供のころからポルトガル語を耳にしていた。ポルトガル人の中には、日本(㈹)女性といっしょに暮らし、家庭をもつ者も少なからずいたから、長崎では早くからポルトガル語が標準ヨーロッパ塞阻として用いられて ポルトガルの商船は、はじめ種子島や鹿児島、どに着き、やがて肥前の河内浦・横瀬浦・福田、崎に入港し、その後はしじゅう長崎に来航した。
また長崎人の多くは、キリシタンであったため、神父の説教を聴き、讃美歌をうたい、宗教上の儀式や行列にも参加した。南蛮貿易に従事する日本商人は、商品の名称、度量衡、貿易用語などをしっかり心得えておく必要があった。長崎人の中には、中国
トンキンのマカオ、ルソン(フィリピン)をはじめ、東京、ジャワ、シャム、マレー半島や南洋諸島と往来するものがおり、かれらはポルトガル語や往った先々のことばにも少なからず通じていた。
長崎においては、南蛮人との間で、ピジン英語なら」 い
た◎
(伯)に渡来するようになった。 これまで日本に来航したポルトガル船は、個人の貿易船であったが、これ以降、ポルトガル政府の官許船が年一回一隻定期的に日本 元亀二年(一五七一)………ポルトガル人トリスタン・ヴァス・ダ・ヴェイガの船一隻とジャンク形船一隻、あわせて二隻、長崎に来
航する。この年より長崎はポルトガル人の貿易港となり、またキリスト教布教の根拠地として発展してゆ
く。
(釦)ピジン英語ならぬ、日本語・ポルトガル語・マレー語などの混〈口語が用いられたようである。ち 山川あるいは坊津あたりにやって来たが、のち豊後の佐伯浦・臼杵・府中・日出になまた島原のロノ津などに来航するようになった。元亀二年(一五七一)にはじめて長
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ローマカトリック教(旧教)が日本にト(皿)方は、およそつぎのようなものであった。 なみに南蛮通詞(事)が任命されたのは、元和二年(一六一六)のことである。ポルトガル語は、宣教師の日常語であるばかりか、伝道のためのことばであり、またラテン語はキリシタン信徒にとって重要な宗教用語であった。
宣教師はまず天地の創造や霊魂の不滅から説きはじめ、ついでキリストの一生(苦難、死去、復活、昇天など)について語り、さら
じつかいに十戒(□の。い一・m。、モーゼがシナイ山の頂上で神から与えられた十カ条の戒め)やふつう用いる祈祷のことばをおしえ、洗礼をうけ
みなさせ、イエス・キリストの御名やマリアの名を唱えれば、天国に行けると説いたようである。(砲)一示教上の理屈は、俗衆にとってむずかしすぎるので、それにはふれず、およその観念をあたえるだけにとどめた。ザビエルは、鹿児島について程なく、アンジローにキリスト教問答(ドチリナ・キリシタン)やキリストの生涯を翻訳させ、ローマ字に綴って説教のさいに用いた。ザビエルは当初、キリスト教の観念を伝えるのに、なるべく仏教用語を使用したが、それだけではじゅ(則)うぶん意が通じないことがわかると、ポルトガル語やラテン語をそのまま用いた。かれが鹿児島で布教をはじめたとき、「神」の}」と(別)を〃大日“(真一一一一口宗でつかう)の語で表現して失敗したので、ラテン語の□の■のを使用することにした。左にかかげた語は、日本文字を用いず、ラテン語やポルトガル語を使った例である。
アニマ
オラシヨカテキズモ
クルス
サセルダウチ (霊魂伺口日日巴(祈とう例日g】。)(教理問答伺日扇、三⑪曰C)(十字架㈹Q目)(司祭㈲の:①a・【の) が日本に伝わったころの布教の方法は、どのように行なわれたのであろうか。キリスト教の教理の教え
●力々でワⅡfカ
キリシタン
コンヒサン
サント アンジョ(天使側目ざ)(カトリック㈲8岳○一]8)(キリスト教信者㈲○ヶ風の国ロ)(告白㈲○・コ{一つ目》○○コ房、山○口)(聖なる、聖人同の目go)
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日本洋学史
れたが、僧侶から読み書きや道巷
きる日本人の多いことであった。 十六世紀の日本には、まだ学校制度がなく、庶民教育は寺院を学校とし、普通教育の萌芽とみるべき小屋(寺小屋)教育がおこなわ(船)たが、僧侶から読み書きや道徳をまなんだ。宣教師が日本にきてまずおどろいたのは、日本人の識字率の盲向さであり、読み書きがで
ザビエルが来日した一五四九年(天文十八年)当初、かれは日本にキリシタンの学校をつくる考えはなく、日本布教の地盤を築くま また外国で用いられている符号(略字)も、そのまま使用した。
此……ゼスキリシト]冊巨の〔
X……キリシト]の2m○ず国、5
脂……ゼズス D……デウスロの色のまたは。、肱……ゼスキリシト】の⑩Emop1の8 セヨドチリイナまたはドチリナパウチズモ(洗礼㈲ケ、耳一の曰。)
パライゾ(天国御ロ日巴の。)
ビルゼン(童貞女、聖母マリア㈲ご胃、のロ)マンダメント(戒律㈹日:8日の貝。)(開)ロザイロ(ロザリオ、念珠㈲『○の貝一○) ナウステルバウテルまたはパウテルノウステル (空、天、⑤○8)(教理・教義、㈲CO91日)
(主補文同祠呉の『三○巴の『)
ミホヒパ イロイツ サヘデパ
エス タ
パァテレ(神父、父倒己且忌) デウスドミンゴ
(法王(信仰
(予言者
(ミサ (神、天主㈲o2の)(日曜日㈲□・目目o)
同倒勺四日)
伺陣鳥の)伺勺『○日の国)㈲㈹三厨田)
16407)
聖祭補助者、通訳などを養成する必要にせまられた。
(Ⅱ) Jものであった。 (閃)十十リスト教徒の子供たちのための最初の初等学校(教理学校)は、永禄四年(’五六一)豊後の府内(現・大分市)に設けられたカーザ「住院」(教会堂のようなもの)でおこなわれた。ついで翌永禄五年(’五六一一)から同一ハ年にかけて、ルイス・デ・アルメイダによっ(釦)て、横瀬浦、島原のロノ津に4℃おなじような学校が開校した。
イルマン教師は、神父や助修士、日本人の改宗僧、伝道士らであり、教科は、時代やそれぞれの場所によって異なるが、およそつぎのような することが望まれ、イエズス会は教育に着手した。 (師)で、ゴァのサゥン・パウロ学院にキリシタン信徒を派遣Iして、そこで伝道士としての教育をうけさせる考えでいたらしい。
カテキスタ
のちかれは何名かの有能な伝道士を育てることに成功したが、信者の数がふえるにしたがって、さらに布教補助者とIして教理問答士、
とくに語学についていえば、日本においてポルトガル語やラテン語の読み書きが正式に学ばれたのは、イエズス(耶蘇)会の教育機
(銘)日本の仏僧のなかには男色とその他の悪徳に染っている者がおり、無垢な子どもたちを悪から守るために上も、かれらをキリシタンに数学、絵画(油絵、水彩画)、銅版画典礼(儀式)の実習 および仏教大意一善行と愛のおこない」な世讃美歌………「主よわれを憐れみたまえ」「聖母歌」「サルベ・レギナ語学………国語、ポルトガル語、ラテ唱歌および器楽………(ヴィオラ、クラポ)、宗教 パーテル・ノステル公教教理………・…・…・…府内では、生徒は「主繍文」「アヴェ・マリア」「使徒信経」をラテン語で記憶し、「神と教会の誠律」「大罪」および仏教大意「善行と愛のおこない」などを日本語で暗調した。讃美歌………「主よわれを憐れみたまえ」「アヴェ・クルス」「アヴェ。マリアいませり」「アダムの物語」「キリスト受難の秘法」出「サルベ・レギナ」ポルトガル語、ラテン語、ベラ、クラポ)、宗教劇 (随)神学、哲学、論理学など。
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日本洋学史
人の信徒は、天文から慶長年間(一五五○年代~び、さらに学力に応じ上級のラテン語を学習した。 前者のポルトガル語について、それがどんな教材を用い、まだどのように教えたものか明らかでない。しかし、府内の学校に学んだ山口の富裕な商人の子ジョアン・デ・トーレスは、日本人のなかでもっとも巧みにポルトガル語を話すことができる一人であったとさ
イルマン(岡)れ、助修士として知られた。かれは宣教師の董咀学指導をつとめた。また幕府は、元和五年(’六一九)八月二十九日、京都の六條河原においてキリシタン五十七名を焚殺に処したが、そのとき殉教したジュアン太兵衛は、子どものころからポルトガル語を学び、洋書をすらすらと読み、文字とともに徳を、ことに謙遜を汲みとったと 関においてであった。
(例)い》っ。
とくにラテン語は、教会の典礼(儀式)をおこなう必要から、イエズス会の諸学校においては、きわめて重要な科目であった。日本(的)の信徒は、天文から慶長年間(一五五○年代~’六一○年代)にかけて、各地に設けられた学林において古典ラテン語の初歩をまな
イエズス会が日本において創った各種学校は、つぎのようなものである。
(碗)初等学校(セミナリオの予備校のようなもの)……この学校でのおJCな学科は、日本文字とラテン文字の読み書きであった。教場としては、伝道会の建物、寺などを用いた。子どもたちに日本語とラテン語で公教要理書をおしえ、さらに唱歌、算術、作法なども教授した。セミナリオ(神学校、のヨヨロュ・)………一般の信徒に必要とされる宗教教育(キリスト教義、仏教)をほどこし、とくに上流の子弟に学芸一般の教育をさずけた。日本語および日本史、ラテン語・ポルトガル語の読み書き、唱歌と楽器のひき方をおしえた。
ノピシャード(修練院ロ。ご日日・)………じっさい伝道に従事する布教師を養成した。コレジオ(学院8示囚・)………生徒に日本語やラテン語文法のほか、神学・宗教学・民族学・哲学などをまなばせた。日本に新たに赴任した宣教師に日本語を学習させ、また必要な学術をさずけた。その他、宗
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ヴィズィタドール’五七九年七月一一十五日(天正七・七・一一)、巡察便アレシャンドロ・ヴァリニャーノが来日した。かれは島原半島の南端のロノ津において、宣教師会議をひらき、布教のいっそうの発展のために一大計画をたてた。かれは日本の布教区を、 ついで一五六一年(永禄四年)豊後の府内に初等学校が設けられ、十歳前後の少年たちが毎日、四、五十名ほど白衣を着、十字架を胸にかけて学校に通った。少年たちの教育にあたっていたのは、修道士のギリエルメ・ペレイラである。かれは多年にわたってキリスト教の教理(ドチリナ・キリシタン)をおしえたが、子供たちの学習能力は高く、かれらは日本語とう(閑)テン塞胆でそれをわずか数ヵ月のうちに習い覚えたという(フロリス『日本史』)。
ドチリナまたこのころ、平戸において子供たちに教理をおしえていたジョァン・フェルナンデス修道士によると、生徒たちは「パーテル・ノステル」「アヴェ。マリア」「クレド」「サルヴェ・レジーナ」などをラテン語で覚えていたというし、死者を埋葬しに行くとき「ミゼ(的)しし(詩篇五○)」「ヴェニ・クレァトール・スピリトゥス」および連祷も暗記していた(フロイス『日本史』)。ラテン語の発音そのものは、けっしてむずかしくはないが、少年たちは容易にそれになじんだ。しかし、文法のほうは学ぶに困難があったかとおもえる。教理内容は、ラテン語と日本語で譜調させたというから、子供たちはおそらく頭から九暗記したものか。また有馬の子供たちは、「主、述べたまう」(ロ凶(DC目目⑩)、「祝せられ給いし者」(団のロのso白の)、「子らよ、讃えよ」(F且日の目の口)、「讃美せよ」(三猪口風8庁)、「打ちひしがれしイスラエルにて」(旨の〆冒閂の『四の})、「(われら)を憐れみたまえ」(言の①『の『の)、(加)「アヴェ・マリス・ステラ」(少ぐの日日】②の芹の一一四)などの讃歌をラテン語で歌うことができたという(フロリス『日本史』)。 (町)七月の}」とであったらしく、その場所は周防国の山口であった。 日本においてはじめてキリスト教の教理をおしえる学校が設けられたのは、ザビエルが来日して二年後の一五五一年(天文二十年)
*
教書(キリシタン版)、語学、文単書の編纂と刊行をおこなった。
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日本洋学史
ふだんの食物は、白米を主食とし、汁と魚、その他の菜。日曜日と祝日には、|皿多く出し、果物かなんらかのごちそうを供する。
食事のあいだ、生徒は日本語の読物とラテン語を人に読んでもらって聞く。生徒は畳のうえで寝る。夜通しローソクをともす。夏は一週間に一回、冬は二週間ごとに入浴する。ときどき川か海に泳ぎに行って 修道院には、四、五十名の少年が宿泊できるし生徒は、日本文字の読み書き、ローマ字を習い非キリスト教徒の著書を読ませないようにする。 ヴァリャーノは、第一回目の視察をおえて日本を去る直前の一五八二年二月、「神学校内規」を作製し、発令するのだが、これは当ノゲイシソ時の学林での見習い修道士の生活がどのようなものであったかを明らかにしている点で興味ぶかい。 の一一一教区にわかち、各教区に、神学校上校を、また豊後の府内に学院を設立した。
ト(胴服)をその上に着用する。 は、若い身分のある者だけとする。 下〔肥前〕(大友領を除いた九州一円か)(、)セミナリオコレジオノピシヤードの一二教区にわかち、各教区に、神学校・学院・修練所などの教育機関を分散して設けることにし、まず肥前の有馬と近江の安土に神学
モノコルディオ才能のある生徒は、クラヴォ、一弦琴、ギターIその他の楽器の演奏をまなび、教会の祝祭を盛んにする。
かたびら生徒はこざっぱりとした服装をせねばならない。屋内では、青い木綿の帷子(ひとえもの)を着る。戸外では、青い衣服と黒いマン 生徒の直接の長は、修道士であり、全権を託される。修道士は、生徒に規則を守らせ、外出のさいには同伴する。入信は両親の希望と生徒本人の意志による。永久に教会に奉仕する者だけが入学を許可される。生徒は剃髪する。入学を許可するの その大要をつぎにのべてみよう。
豊後
誰
シモ
五十名の少年が宿泊できるようにする。祭壇を美しくかざり、畳は毎年とりかえる。生徒は机といすで勉強する。の読み書き、ローマ字を習い、ついでラテン語の文章論、道徳、音楽、唱歌をまなぶ。アリストテレス、その他、
[
160(21)
しかし、ヴァリャーノの方針にそってはじまったラテン語教育は、はじめあまり成果をあげなかったようだ。その理由はいくつか考
はちらおセミナリオえられるが、たとえば八良尾(島原北有馬町西正寺名ハ尾屋服田)の神学校のばあい、当初、日本語とラテン語にじゅうぶんに通じた 宣教師がいなかったし、印刷機によって刷られた教科書がなく、生徒は教師がもっているラテン語の聖書や原書を筆写せざるをえなかっ
た。それは辛気なしごとであった。午後一一時から一一一時まで、楽器の演奏、唱歌を練習する。残りの時間は、休養をとる。三時から四時半まで、ふたたびラテン語の教師 のもとに行く。このとき教師は、生徒にラテン文を一つ書かせ、また何か他の文章を朗読して聞かせる。五時ごろまで自由時間とする。
五時から七時までに夕食をとり、そのあと休養をとる。七時から八時まで、ラテン語を学ぶ生徒のために復習がおこなわれる。午後八時に反省をし、夕べの祈りをしたのち就寝する。土曜日の午前中は、その週に学んだラテン語の復習に専念する。日曜日と祝 日は、食後、別荘に行って休養をとるか自由とする。夏季、ひじょうに暑いときは、校長の判断で、生徒を勉学から解放してやり休養
(ね)をとらせる。 夏季は、午前四時半起床。司祭とともに祈り、五時ごろおえる。冬季もおなじ。ただし一時間おくらせることもある。ザシキ
お祈りのあと、ただちにミサ聖祭に与かる。ついで主瀧文を唱え、六時まで座敷をそうじする。六時から七時まで学課の勉強。幼少 の者は、ラテン語の単語をまなぶ。七時から九時まで、ラテン語の教師のもとに行き、宿題をみせる。暗諭したことをおぼえ、教師が
読み聞かせることを聞く。生徒は下級生を試問したり、かれらが書いた答を訂正してやる。午前九時から十一時のあいだに食事をすませ、休養をとる。十一時から午後二時まで、日本語の教師が課す、日本語の書簡をしたた
める。 もよい。生徒は家族の家隆一神学校の時間割について。 生徒は家族の家に行くことを許されない。*
(22)159
日本洋学史
しかし、ヴァリャーノが第二回目の巡察のために来日した一五九五年(文禄四年)になると、生徒たちはマカオから舶載された印刷 機によって刷った教科書が使えるようになり、ラテン語の勉強はすこし楽になった。だからそれまでに見られなかったほどの進歩をみ
(祠)日本各地において印刷された語学書や辞書は、つぎのような4℃のである。
これらのキリシタン版は、日本人がポルトガル語やラテン語をまなんだり、あるいは宣教師が日本語をまなぶさいの教科書や参考書
として編さん刊行されたものである。 (ね)せた(「一五九一二’四年度の年報」)。*マノエル・アルヴァレス両目目:ロの]尉缶]ぐロュ『ラテン語文典」ロの「冨勲旨戴○菖⑩。『§§ロ斡○ロト(ミゴ⑤駒g員信員(。員冒のロロ漏賜凰冒討包ミミ・』目已・員日………一五九四年(文禄三年)天草のコレジォで刊行。マノエル・アルヴァレス冨自Cの]シ]く日の、箸「ラテン・日本・ポルトガル語規則動詞変化」o○尋《にpaCaC功烏さ・ぃ『愚ミヨ⑤②Qヨト§ミ.」go愚鈍⑮ざ軋量西鳥N:…・’五九四年(文禄一一一年)天草のコレジォで刊行。*『ラテン、ポルトガル、日本語対訳辞典』ロ賃一・首aミミドミ冒○ト易冒ミミミ、ロミ』go員・ミョ§」言。『ご恩(n頁のlへご賞己。{ミミョQ鳥目ご愚ミヨ………一五九五年(文禄四年)天草のコレジォで刊行。(泥)「蘭日辞典」ごOBワロ一回1o8-ごm5勺。『旨い口8口:p…棄教者がつくった稿本。『日葡辞典」『Cs盲冒戴・へ:冒陶○口§」gミミ8冒且R冒冒8。⑱ミ始ゴコ侭息切司冒已。「(更、§②串)目『⑤⑭.……一六○三年(慶長八年)長崎のコレジォで刊行。 ヴァリャーノ編『日本のカテキズモ』ogの○三mロ】く⑪○ず1,冒目の臣の旨pcく・ぐの1国⑪……一五八○年末から八十一年(天正八年末~同九年)にかけて府内のコレジオで編さんしたもの。ジュアン・ポニファチオ]ロ自国◎己{四goの.]・著『キリスト教徒子弟の教育』○冒詠曾員、へ:』苫②昏員『・……一五八八年(天正十六年)刊*ドュアルテ・デ・サンデロ巨寓の。①の四目のの.]・箸『遣欧使節見聞対話録』C③ミ厨いざ鳥一品目・ミミ旨已§§切冒ミ……一五九○年(天正十八年)刊
158(23)
いまかかげたキリシタン版のうち、ドュァルテ・デ。サンデの『遣欧使節見聞対話録』は、遣欧少年使節らが帰国の途次、マカオに
(泥)滞在ちゅう、巡察便ヴァリニャ1ノが中国伝道の長老サンデに命じて、使節記をラテン語で書かせたものである。8 サンデはただいわれるままにラテン文を綴っただけで、じっさいの著者はヴァリニャーノであったようだ。本書は稀書であるが、ポ
しげとも
ルトガルのリスボンの国立図書館や国内の各文書館にわずかながら架蔵されている。東洋文庫にも一冊、戦前に幸田成友(’八七二一~ ’九五四、昭和期の経済史家、文化交渉史家、露伴の弟)によって将来されたものがおさめてある。 日本においては、いろいろ制約があるため、キリシタン版の現物をじっさい手にとって見ることは容易ではない。が、わたしはポル トガルのエヴォラ(リスボンの東一○九キロに位置する町)の公立図書館で同書を実見できた。 昭和初期に欧州留学ちゅうの幸田成友も同書をこの町でみている。エヴォラ本は、ヴェラムの元装本である。世界各地にある数少な いキリシタン版は、再製本したものがほとんどであるが、元装のまま見ることができるのは珍しい。 エヴォラ本は、扉にすこし欠損があったり、本を閉じるための皮ひもが二本ともなかったり、虫くいが随所にみられるが、全体から みると、状態はひじょうによく、まるでつい最近刷ったような印象をあたえる。本の天(あたま)および小口(書物の背の部分以外の
三方)は、紫色で塗られているが、その色はいまではややあせている。本の大きさは、たて汕叩、よこ唖、。厚さは約2m、四六版である。本文は四一二頁。索引と正誤表が一二丁(二四頁)ある・用紙 は中国紙を用いており、印刷はじっに鮮明である。が、本文の六頁から一一一一一一頁までと、一一一一六頁から一一二八頁にかけてところどころ虫 『ロドリゲスの日本文典」』『忌目口魯、。p烏冒1sロミ§愚・的日已③』S一雨高『⑤ごロ○用・巳司碕層偶幻ミ侭爵②:。gローヘミ冒烏行②ご旦貫&ミロ
⑱ミミ⑭』『ミご“・………’六○四年(慶長九年)長崎のコレジオで刊行。*マノェル。パヘット田》琶冒鳥岩き□§⑤ミヨ著『聖教精華』国・“、島曾『、荷『針目誌・菖忌②旨冒⑮貴(のCCgミミ『・巴」ヨ⑭崎ミミ詞
弔)富・“C葛3旨ミ目剴冒の“鳥員l旧新約聖書、教会の博士、すぐれた作品から精選した詞華集……一六一○年(慶長十五年)長崎のコレジオで刊行。(24)157
日本洋学史
ブリティッシュ・ライブラリーわたしは一五七一一年刊の初版を見ていないが、英国図書館においてあと版を八冊、じっさい手にとって見る}」とができた。同図書館に架蔵されている、いちばん古いものは、’五九九年(慶長四年)版である。
同書はヴェラム装丁の本である。本の大きさは、たて加叩、よ}」u叩。厚さは約五mである。本文は七四○頁。索引と正誤表が約五
くいがみられる。刊行年は一五九○年(天正十八年)、場所はマカオのコレジオである。マノエル・アルヴァレスの『ラテン文典』は、一五七二年(元亀三年)にリスボンで刊行されるとすぐに好評を博し、イエズス会の学校はこぞって同書を教科書として採用した。この文法書は、各地において続々と版をかさね、その略本を含めると、一五七○年代に
(両)十五種、’五八○年代に十七種、一五九○年代に一一十種の刊行をみ、十七世紀以後はますます盛んとなり、総計三百種類にもなるとい○余ある。 ごつ。
同所のタイトルは、
伊閂国冗員『幻向の。
』三日。z旨く向いF固の臣両
帛z両国。”両Z巴シoシ
○勺向幻鈩 因冨冨シヱご
シいくシ冗局の○○円両,
□向冒のロ『『『『○三国の幻鈩三三シヨ○少 司少目向目印「
倭ロ日一・伜三口、
同国○幻シロ ご向いF固の臣ロメ同シロロ宮、○口向『シ弓同旨同のご(両Z巴シoシロロご畠毎勺宛シ向田同○弓自の『ごロ『。”ご富
一二口、〔『四二・ ご向い閂の
156(25)
内容は、名詞の語尾変化や動詞の活用にはじまり、ギリシャ語の動詞とそのアクセントについての解説でおわっている。 またエヴォラの公立図書館には、天草のコレジォで刷ったアルヴァレスの『ラテン文典』(一五九四年Ⅱ文禄三年刊)が、貴重書と して架蔵されている。わたしは日本では容易におめにかかることのできぬ元装の天草版と同所で出会えるとは、夢にもおもわなかった・
がんぴ
この文法書はこげ茶色の皮装であり、本の大きさは、たて繩、、よ}」噸、。厚さは躯血である。用紙は「鳥の子紙」(雁皮Ⅱじんちよ
とりうげ科の落葉低木の樹皮で製される上等な和紙の一種)である。紙ぜんたいは、淡黄色をしている。ノンブルはなく、七十一頁が最終
あだまこぐちページか。天と小口に朱色が塗ってあるが、色あせている。同書のタイトルは、 である。 同xOEp①ロ呉向日日四口口の】この伊望『口弓竜ロom3bゴ■の。2日菌2-厨(の旨C巳⑩一【o『昌員伜。a曰
(大意)イエズス会のマノェル・アルヴァレスの文法入門(三巻)。Q エヴォラの同学院において、アントーーイ・フェレシがさし絵を入れ増補した’もの。詩歌の印刷技術者エマヌェルが、一五九九年エヴォラにおいて司教の吟味をへて刊行。
固冨冒しzご同‐
ロのシいくシ幻自国、
○弓両目シ弓向同いく
□両目zの目自『ぐ『『。z向 シいくシ幻自国の○‐ 富・ロ〆Q〆.
の詞シ冨冨シゴ○ン 伜。aご口『】】。
(26)155
日本洋学史
みぞエヴォラ本は、あまり状態がよくなく、溝(本の細長ノ、くぼんだ筋)から皮の表紙がとれている。鳥の子は、やや厚手のしっかりとした紙だが、各ページの活字を手でさわると、浮き上がらせるように刷ってあるような印象をうける。
ただおⅡノスポンの初版本と天草版とを比較した土井忠生(一九○○~?、昭和期の国語学者)によると、前者は通巻二四九葉、後者は一七、、(耐)○葉であることから、天草版本は抄本だという。天草版本は、初学者のことを考慮Iして、用語としてはラテン、ポルトガル、日本語が用いられており、とくに動詞の活用表にはラテン語やポルトガル語以外に日本語がそえてある。アルヴァレスの『ラテン語文典』は異本も多いが、みなポケットに入るような小型本である。アルヴァレスはラテン語の文法書以外 門口のみである。
エヴォラ本は、 である。
アルヴァレスの『ラテン文典』の所在がわかっているのは、エヴォラの公立図書館とローマのアンジェリカ文庫国昌・岳の8缶呂の]‐ (大意)イエズス会のマノェル・アルヴァレスの文法入門(三巻)。 胃三○○PP向のロoPgシ○ご‐
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日本語の解説には、動詞の活用を添付した。
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五九四年天草のイエズス会のコレジオで刊行。
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