と経済外交 ―
著者 田辺 宏太郎
雑誌名 同志社アメリカ研究
号 38
ページ 75‑86
発行年 2002‑03‑20
権利 同志社大学アメリカ研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000001427
はじめに
「寛容と忍耐」「所得倍増計画」の二大キャッチ フレーズを掲げて1960年発足した池田内閣は、
岸内閣時代の安保問題で分裂した国内体制を
「政治から経済への争点移動」によって再び求心 力を高めようとした。「イデオロギー政治から自由 主義経済体制の確立」へと政治アジェンダを転換 させたのである。池田内閣期の外交政策もまた 経済主義的であり、専ら経済面から日本の国際的 地位を向上することにその政策の焦点が向けら れた。ガリオア(占領地救済資金)、エロア(占領 地経済復興援助費)をめぐる対米債務処理協定、
タイ国に対する特別円処理協定などを通して、池 田内閣は戦後日本の対外的な負債処理を決着さ せた。こうして戦後処理を急ぎつつ、1955年以来 の経済発展の実現を背景に、GATT35条(差別 関税の適用)援用の撤回、IMF8条国への移行、
OECD(経済協力開発機構)加盟など西側先進 国の経済秩序・クラブ入りを果たしていったので ある。1
岸内閣期に結ばれた新安保条約の枠組によっ て日米同盟は「形成」されたが、実質的にはいま だアメリカ側に「日本中立化」への危惧が消えなか ったことから「確立」には至っていないという認識 があった。すなわち、日米関係には「摩擦と脆弱 性が存在」2し「我々の主要な課題は〔日本が〕中
立化へ移行するのを防ぐこと」だと考えられてい たのである。3
池田勇人はこのアメリカ側の懸念を発足間もな いケネディ政権との直接会談で「イコールパートナ ーシップ」を再確認して払拭していったのであっ た。それはすなわち、国際環境の変容を取り入 れつつ、岸内閣での経済政策を踏襲しながら国 内における経済体制の再編を主導し、内政と外 交を結びつけることで日本を高度成長へと導いて いったと言えよう。
本稿は、池田・ケネディ会談を契機とした日米関 係の新たな構築が、その後の日本の経済発展・経 済の自由化、つまり、「経済外交」4の内政的基盤と もいうべき「日本国内の経済体制の本格的再編」と どのように結びつき、また結びついていったのかを、
日米双方の資料を用いて明らかにすることを目的 としている。池田はドッジラインでの経験から、産 業部門間では農業の、同一産業部内では中小企
田 辺 宏 太 郎
1. 加藤哲郎「戦後の国際的枠組みの形成と崩壊」
(『シリーズ 日本近現代史 第4巻 戦後改革と現代社 会の形成』(岩波書店、1994年)、371-408ページ。
URL:http://member.nifty.ne.jp/katote/Cold.htmlを参 照(2001年12月31日現在)。
2. “United States Policy Towards Japan, From Mr. Bane and Mr. Parsons,” July 1, 1960, Japan and the United States Diplomatic, Secu- rity and Economic Relations, 1960-1976(Bell
& Howell Information and Learning, 2000), Documents 057-063, Microfiche 10.
3. Memorandum for Mr. McGeorge Bundy, “Prime Minister Ikeda’s Visit to Washington, June 20- 23, 1961,” June 17,1961, Presidential Office File, Box No. 120, John F. Kennedy Library, Boston, Massachusetts, U.S.A.
4.「経済外交」の定義については山本満『日本の経済外交』
(日本経済新聞社、1973年)29ページ、佐藤晋「戦後日本 外交とアジア秩序構想」(慶應義塾大学博士学位取得論 文、2000年)序章を参照。「経済外交という言葉は吉田さ ん[吉田茂元首相、筆者注]が作られたのではないかと 思う」という指摘もある。牛場信彦著『牛場信彦 経済外 交への証言』(ダイヤモンド社、1984年)、4ページ。 佐藤 氏には本稿に様々御指摘を戴いた。記して感謝したい。
業の近代化によって日本の二重構造―先進国的 な経済構造と後進国的な経済構造が並存してい る国民経済―を解消することを第一と考え、自由 化への外圧を契機に、内においては経済自由化 を、外交では国内の自由化を可能にするIMF八 条国移行、OECD加盟などを推し進めた。
戦後政治史研究における1960年代前半につい ては未だ研究の蓄積があまりなく、池田内閣期の 外交政策を扱った先行研究は少ない。主にアメ リカ側からの対日政策形成という側面から「幻影 のパートナーシップーケネディ=池田時代の日米関 係ー」(松岡完)5が、また『戦後政治と日米関係』
(樋渡由美)6『20世紀の国際政治』(松岡完)7が 部分的に池田内閣期の対外政策を扱い、当該期 の軍事防衛政策については「「同盟」と「パートナ ーシップ」のはざまでー池田・ケネディ時代の日米 関係と日本の防衛政策―」(中島信吾)8「池田=
ケネディ時代の日米安保体制」(吉次公介)9などが あるが、その外交を国内経済体制の再編と結び つけて論じた先行研究は管見の限り見つけるこ とが出来ない。また従来の研究では、池田期の 外交政策を米国文書を中心にして考察し、日本側 が受動的に米国側の要求に応える過程を考察し たものが多く、日本の国内政治経済過程と外交政 策の接点を分析した論稿は見あたらない。10
高度成長期を迎えて未だ揺籃期にあった日本 の政治・経済・社会体制が、本格的な経済発展 へ向けて再編されていく過程は、新安保条約の もとで確立された日米同盟の絆という枠組みの中 で達成されたものである。池田内閣期は主に「日 米間は政治的関係より通商的関係が直接的に出 てくる」11という経済政策面での内政と外交の重 畳化への本格的な始動期であり、それは日本の 今日まで続く「吉田なき吉田路線」の定着を見た 時期であったと言えよう。従って、池田内閣期の 経済外交とその国内的基盤である経済体制の再 編成を結びつけて論じることには今日的な意義が あると思われる。12
1.所得倍増論の登場と国内課題
池田内閣の誕生は、秘書官を務めた伊藤昌哉 によれば「一種のブーム」を起こしつつあった。13 岸内閣の強硬な安保改定によって混乱した社会 に経済成長の希望を持たせ、国内の政治的諸課 題を自己の得意な経済政策へ全面的に向かせる には絶好のタイミングであった。岸亜流政権と新 聞記者たちに当初思われていたほどのタカ派・高 姿勢の目立っていた池田が、吉田学校の後輩た ちとも言うべき大平正芳や宮沢喜一たちの教育に よって、「低姿勢」「寛容と忍耐」の政治姿勢に急 5. 松岡完「幻影のパートナーシップ―ケネディ=池田時代の
日米関係―」(麻田貞雄・細谷正宏編『同志社アメリカ研 究 別冊14 日米外交史の研究―外交思想と政策決定
―』(同志社大学アメリカ研究所、1995年)、38-59ページ。
6. 樋渡由美『戦後政治と日米関係』(東京大学出版会、1990 年)、特に第三章を参照。
7.松岡完『20世紀の国際政治―二度の世界大戦から冷戦 の終焉まで―』(同文館出版、1992年)。
8. 中島信吾「「同盟」と「パートナーシップ」のはざまで−池 田・ケネディ時代の日米関係と日本の防衛政策−」『法学 政治学論究』(慶應義塾大学法学部)第46号(2000年秋 季号)、149-181ページ参照。中島氏には本稿に様々アド バイスを戴いた。記して感謝したい。
9.吉次公介「池田=ケネディ時代の日米安保体制」、日本国 際政治学会編『国際政治 第126号 冷戦の終焉と六〇年 代性』(2001年)、37-51ページ。他に金斗昇「池田政権の 安全保障政策と日韓交渉」(日本国際政治学会編『国際 政治 第128号 比較政治と国際政治の間』(2001年)、192- 210ページ。
10. 第一に国内の資料公開が遅れてきたことが原因であ るが、対外政策決定において国内政治過程に焦点を 当てた対外政策決定論の発展が望まれる。五月女律 子「対外政策決定論の再検討」(日本国際政治学会編
『国際政治 第128号 比較政治と国際政治の間』(2001 年)、100-114ページ。
11. 池井優「ライシャワー大使の役割―戦後アメリカ対日政 策の一考察―」、細谷千博編『対外政策決定過程の日 米比較』(東京大学出版会、1977年)、120ページ。
12. 池田自身「私は、外交と内政は本来一体不離のもので あると信じます」と外交政策と内政課題は一体のもの である旨述べている。第36回臨時会施政方針演説
(1960年10月21日)渡邉昭夫・山影進・田中明彦、文部 省科学研究費補助金重点領域研究「戦後日本形成の 基礎的研究」データベース(URL:http://www.ioc.u- tokyo.ac.jp/~worldjpn/)。
13. 伊藤昌哉『池田勇人とその時代』(朝日文庫版、1985年)、 113ページ。
速に変化していった心理は「政権が目の前に見え ていた」池田にとっては当然であったであろう。14
池田政権が誕生した時の内外の状況はどのよ うなものであったのか。急速な戦後復興を遂げる 日本経済は1955年(昭和30年)には前年以来の 不況からの回復過程において輸出が急激に伸び 始め、国際収支の危機は解消し、既に急速な経 済成長は始まっており高度成長が開始されてい た。15翌年10月のスエズ危機で国際経済の動揺 に日本経済も翻弄されたが、12月には積極財政を 持論とする石橋湛山が首相となり経済成長の持 論を展開するため、湛山が第一次吉田内閣で大 蔵大臣の際に大蔵事務次官に抜擢した時からの 縁で「池田君は外交政策では吉田さんの弟子だ が、こと経済政策では私の弟子」16と公言しては ばからなかった池田を大蔵大臣に据え財政規模 の拡大を目指して1000億円減税、1000億円施策 を打ち出したが、激務に健康を害した石橋はわ ずか二ヶ月で潔い辞任をせざるを得なくなった。
しかし注目すべきはここで既に池田の積極財政、
経済論が原型を有していることであろう。
次の首相岸は「当面の経済政策などは、大宰 相の仕事ではない」17と考えていたこともあり、当 初全く関心を示さず、56年6月に総合緊急対策要 綱を決定し、訪米後は蔵相を池田から一万田尚
登に交代させ、政治的には吉田グループに明確 に反主流の立場を取らせたが、経済政策的には 積極財政・積極経済策を、一時的にせよ、放棄し たことを意味していた。18岸政権は58年12月に警 察官職務執行法改定案を第30臨時国会に提出 し、野党のみならず自民党反主流派からも反発を 受け、法案が審議未了となったのみならず、総裁 公選問題で反主流派(池田・灘尾・三木(武夫)) の閣僚が辞任し、政権の危機を迎えてしまう。財 界とのパイプも太い池田が完全に離反してしまう ことを恐れた岸は、池田が強気の経済成長論の 勉強会を「宏池会」19で重ねていたことを利用し、
所得倍増論の実現を任せるという理由を示して5 9年6月18日に池田を通産大臣として閣内に取り 込む。20ここに至り池田の所得倍増計画の基盤 が形成され、デモのなか新安保条約が自然承認 されたことで岸信介が退陣を表明し、池田が満
14. 前掲『池田勇人とその時代』、96ページ。また6月21日に 米国大使館員と接した池田は岸の後任には自分がな ること、総選挙は11月に行うとの見方を既に持ってい た。Telegram, From MacArthur to Department of State, June 21, 1960, 石井修・小野直樹監修『アメリカ 合衆国対日政策文書集成 Ⅲ 日本の国内事情1960 年 第2巻』(柏書房、1997年)、319-320ページ(文書番 号[794.00/6-2160 HBS])。
15. 中村隆英『昭和史 Ⅱ』(東洋経済新報社、1993年)、 468-469、483ページ。
16.『池田勇人先生を偲ぶ』(非売品、国立国会図書館所 蔵、1967年)。しかし、これより前にも経済政策で意見 を異にすることが多々あったようである。『石井光次郎 日記』(未公開文書、1952年8月14日の項参照)。「経済 問題で石橋、池田の意見の差は何とかなるだろう」と の石橋・周東[第二次吉田内閣の農林大臣を務めた 周東英雄か。筆者注]会見があった旨の記載がある。
同日記の閲覧に際しては創価大学季武嘉也教授にご 配慮・ご指導を戴いた。記して感謝申し上げたい。
17. 前掲『昭和史 Ⅱ』、488ページ。
18. 前掲『戦後政治と日米関係』、174ページ。石橋、岸、池 田の間の連続性を重視するものに、空井護「自民党一 党支配体制形成過程としての石橋・岸政権(1957-1960 年)」『国家学会雑誌』第106巻第1・2号(1993年2月)、
107-160ページ、がある。しかし池田と対立する緊縮財 政論者の一万田の蔵相への任命は引き締めに転じる 岸(河野)の思惑があったと思われる。岸が池田蔵相 の「大型減税政策」に消極的なことが池田辞任の要因 であったとする松永安左エ門の証言(浅川博忠『小説 池田学校』(講談社、2000年)、54ページ) 。「頂上をき わめるために、ひと息いれよう」とした一万田政策」と いう言葉も参照。稲葉秀三『激動30年の経済』(実業 之日本社、1965年)、258ページ。
19. 池田を総理大臣にする目的で1957年結成された。桜 田武、永野重雄、小林中、水野成夫ら戦後の若手財 界人の強い支持を受け、多くのブレーンを有して政策 研究を行う集団であった。初代事務局長は大蔵官僚 の田村敏雄、ブレーンには高度成長論の理論的支柱 でもあった下村治、高橋亀吉、平田敬一郎、星野直樹、
櫛田光男など大蔵官僚が多く、異色の存在は企画院 革新官僚であった稲葉秀三(財団法人国民経済協会 理事長)だった。平成13年度には文部省科学研究費 補助金(基盤研究B「宏池会の研究―戦後保守本流 の政策に関する研究―」課題番号11420014、研究代 表:五百旗頭真・神戸大学法学部教授)に常時参加す る機会を得た。本稿の契機を与えて戴いた五百旗頭 真教授に記して感謝申し上げたい。「宏池会」研究に ついては、品田裕・久米郁男「自民党宏池会(池田派)
機関誌『進路』総目次について」『神戸法学雑誌』第51 巻第2号(2001年)、151-252ページ参照。
20. 猪木武徳『日本の近代 7 経済成長の果実1955-1972』
(中央公論新社、2000年)、112ページ。
を持して登場するのである。21
2.池田内閣の登場と国内経済体制の再編
1960年(昭和35年)6月、退陣を表明した岸首相 の後を受けて、自民党内では石井光次郎と池田 勇人が公選を主張し、話し合い決着は困難とな った。その背景には次期総裁を約束する空手形 を岸が複数に出していたことも影響していたが、
いわゆる戦後「官僚派」と戦前「党人派」の対立 があり、結局官僚派を代表する池田と党人派を 代表する石井光次郎の一騎打ちとなった結果、
池田が新総裁に就任したのである。22
時に池田は60歳、京都大学法学部を卒業して 大蔵省に入省後、天疱瘡という難病のために大 蔵省を一時退職していたが復職して、主税畑とい う当時の亜流を歩いてきた結果、主税局長の時 石橋湛山に目をかけられて大蔵事務次官になっ た。49年1月故郷広島から立候補して衆議院議員 に当選し、ただちに第三次吉田内閣の大蔵大臣 に異例の大抜擢を受け、「吉田学校の優等生」と して頭角を現してきたのであった。池田は新総裁 就任後次期政権の首班指名の臨時国会を控えた 同年7月16日には、大磯の吉田元首相を訪問後、
小田原の松永安左衛門を訪問し、また、賀屋興 宣、大平正芳と懇談し、箱根の池田の別邸に籠 もって組閣に着手している。23これは党人派と争
った後の党内人事を第一義に考え、安保改定で 傷ついた対米信用回復外交を当面の使命とする などその党人事、閣僚選任には苦慮していた後 が窺える。24
外務大臣には小坂善太郎、通産大臣に石井光 次郎、経済企画庁長官に迫水久常25、官房長官 には組閣参謀の大平正芳が就任する内閣の発足 となったのである。26この時の事を小坂善太郎27 は「池田勇人さんがよく私に「オレが天下をとった 時は大蔵大臣をたのむぞ」と言った。私は財政が 得意だから、大いにやる気でいたが(中略)外相 に就任した」28「組閣当日、虎ノ門の宏池会事務 所で待機していたのだが、ちっとも呼び出しがか からない。水田三喜男君が呼ばれて蔵相になっ たというから(中略)官邸に電話を入れた。官房長 官になった大平君が出てきて(中略)内示を受け、
思いもかけずに外相に就任することになった」29 と記している。小坂は55年11月に自由民主党が 発足する際に林譲治邸に集まった「吉田直系の1 3人」30の一人であり、47年に小坂が大蔵政務次
24. 朝日新聞、1960年7月17日付参照。23日にはマッカーサ ー駐日大使と箱根で密談を行い、組閣の意図を説明し ている。前掲Telegram No. 200, from MacArthur to Secretary of State, July 19, 1960, Japan and the United States Diplomatic, Security and Eco- nomic Relations, 1960-1976,Documents 057-063, Microfiche 10参照。
25. 池田の一年後輩の大蔵省出身、戦前戦中の革新官僚、
戦後公職追放。池田政権から経済政策の「計画化」が
「本格的」に始まった事を考えればこの人事は非常に 興味深い。
26.『歴代内閣総覧』(1991年)、268ページ。また『内閣制度 と歴代内閣』官邸ホームページURL:http://www.kan- tei.go.jp/jp/rekidai/index.htmlを参照(2001年12月31 日現在)。
27. 小坂善太郎は東京商科大学卒後、三菱銀行、信越化 学を経て政界入りした。第五次吉田内閣労相、第一 次、第二次池田内閣の外相、第二次田中内閣の経済 企画庁長官を歴任、宏池会所属だが後に大平と袂を 分かち三木派に接近した。2000年12年死去。
28. 小坂善太郎『小坂日記 忘れがたきこと』(1990年、信 濃政治経済研究会発行)、25-26ページ。
29. 小坂善太郎『議員外交四十年』(日本経済新聞社、
1994年)、65ページ。
30. 前掲『議員外交四十年』、57ページ。
21.しかしながら、ここで注目するべきは石橋―岸―池田と 続く政権で一万田が蔵相に任命された時期を除いて、
経済政策が石橋時代から「連続」している点であろう。
後に池田は首班指名後初めての記者会見で「石橋内 閣のとき、中小企業には減税を(中略)といったが、そ れがだんだん出来ている」とその「連続性」について言 及している(朝日新聞、1960年7月20日付参照)。宏池 会の主要メンバーはここで政権を取る事には反対であ った。宮沢喜一『戦後政治の証言』(読売新聞社、
1991年)、114ページ。
22. 米国もこの「官僚派」と「政党政治家」の対立に注目し ていた。Telegram No. 200, from MacArthur to Secretary of State, July 19, 1960, Japan and the United States Diplomatic, Security and Econom- ic Relations, 1960-1976,Documents 057-063, Microfiche 10。
23. 朝日新聞、1960年7月17日付参照。
官の時に池田が事務次官、後池田が大蔵大臣の 際には小坂が衆議院予算委員長という仲であっ た事情を考えれば予想外の人事であったと言え よう。31対米重視を鮮明にし、「 慎重配慮 がい る外相」「対米信用回復外交を当面の使命とする 池田内閣」32にとってのこの外相人事(「対米重視」
「吉田―池田外交の接点」「池田直系」33としての 外相の選任)は新聞評や財界からも概ね好評を 得た。これは第一次池田内閣が選挙管理内閣で あること、当面の課題は内政問題であり、米国の ケネディ民主党新政権樹立を待ってから本格的な 外交問題に取り組もうと考えていた池田が、吉田 茂の意見を採り入れて吉田学校の一員であり池 田直系の小坂善太郎に外交問題の勉強―特に 経済外交―をさせる目的であり、それと同時に、
財界に明るい小坂を外相に据えることで、国内経 済体制の再編・経済自由化を推進するための経 済外交を外交の主軸にしていくための人事であ ったと思われる。34
異例であったのは、他国の一政党の総裁交代 に特別に声明を出すことなどなかった米国国務
省が、7月14日朝に「米政府は日本の新政府と米 国との関係が、前の日本政府と同様に友好的で あると確信する」という声明を出したことであった。
35これは新安保条約改定での反対運動の激化や 日本における中立主義の台頭に加え、岸首相が 暴漢に刺された事件などで日本の政治情勢の前 途に米国政府が不安を抱いていた表れと言える であろう。しかし池田新政権がその期待に応え日 米同盟の絆を確認するには、国内では総選挙に 勝つことが先決であった。36
発足直後の池田内閣の当面の課題は「内政問 題」とくに財政・経済問題であった。これは総選 挙を同年11月末に控え、発足した池田内閣が「選 挙管理内閣」であったこと、また外交問題や治安、
労働対策を大きく振りかざすのは直近の知事選 挙の動向などに鑑みて効果的ではないと考えら れていたからであった。37そのための国内的な最 大の看板が「所得倍増計画」であったのである。
それではこの時期の国内経済はどのような状 況にあったのであろうか。前述のように、池田が 通産相として第二次岸改造内閣に入閣後、その 積極財政経済政策がほぼ全面的に採用され、60 年10月29日政府は「所得倍増計画」を経済審議会
(会長石川一郎)に諮問した。381959年始めから 31. この外相人事には吉田の意向を伴っていた。前掲
Telegram No. 200, from MacArthur to Secretary of State, July 19, 1960, Japan and the United States Diplomatic, Security and Economic Rela- tions, 1960-1976,Documents 057-063, Microfiche 10参照。吉田と善太郎の父順造は浜口内閣で順造が 拓務政務次官、吉田が外務次官の頃から親密な交際 が始まり戦争中近衛の荻外荘で戦後構想を協議、戦 後は吉田の推薦で順造が枢密顧問官に就任、吉田の 依頼で日本発送電総裁に就くなど親密な関係であっ た。三菱銀行勤務などで経済、財政に明るい善太郎を 外相に据え経済外交の推進を図ろうとした、毛並みの 良さを好む吉田の意図が感じられる(朝日新聞、1960年 7月17日付参照)。この時の蔵相には水田三喜男が就任 しているが、水田は東大在学時代、山宣事件で19回検 挙釈放を繰り返す「反逆児」でその頃の仲間に勝間田 清一、稲葉秀三がいた。人の動きという点で注目され る(「この人を評定する―水田三喜男」『エコノミスト』
1960年8月2日号、30-31ページ参照)。 32.朝日新聞、1960年7月17日付参照。
33. 朝日新聞、1960年7月19日付参照。
34. 池田の考えを伝える資料が残っていないことについて、
側近であった宮沢喜一は「あの人[池田の事 筆者注]
は一行も、自分で書いたことはないですから」と述べ ている(産経新聞、1996年12月12日付「樅の木は残っ た 池田勇人(13)」参照)。
35. 朝日新聞、1960年7月15日付参照。
36.1960年7月28日日米協会会長として渡米した吉田元首相 をねぎらう目的でマッカーサー駐日大使ともども帝国ホテ ルで昼食をともにした席上、大使から池田に「今後の国 際信用の回復、政局安定の大前提はきたるべき総選挙 で圧勝すること、大いにがんばってほしい」との報道に も米国側の姿勢が現れている。朝日新聞、1960年7月29 日付参照。
37. 朝日新聞、1960年7月27日、29日付参照。自民党は安保 問題による混乱から自民党支持の知事候補が得票を 減らすのを恐れ、知事選では県政問題に重点を絞っ た結果、青森、埼玉、群馬の3県の知事選挙で事前の 革新政党側有利の見方を覆して、自民系候補が支持 率を下げながらも勝利していた。
38. 前掲『日本の近代 7』、124ページ。翌60年11月1日[選 挙前であることに注意、筆者注]に正式に答申、翌61 年12月27日に「国民所得倍増計画」として閣議決定さ れている。石川は1954年3月経済審議会会長に就任し、
戦後追放されることなく数々の審議会委員など要職を 歴任している。「石川一郎文書」(東京大学経済学部図 書館所蔵)参照。
日本経済は急ピッチで拡大し、国民総生産で前 年度より実質で16%の成長を続け、卸売物価は 約4%しか上昇を見せず、国際収支は1億9200万 ドルの黒字を保つなど、経済は釣り合いを保ちつ つも景気過熱を迎えない絶好調のペースを続け ていた。39これは旺盛な企業の設備投資、好調 な対米輸出、堅調な個人消費などの複数の要因 全てが相互に順調な循環を続けていたからでも あった。つまり既に国内開発を主とする高度成長 が50年代に始まっていたのである。
しかし、この好景気が長く続くものとは考えられ ておらず、今後の課題は国内的には道路住宅な どの公共投資の充実が求められ、対外的には経 済の自由化による日本経済の高い成長率の維持 と「先進国的な経済構造と後進国的な経済構造 とが並存して国民経済をかたちづくっている」40と される「二重構造」を有する経済体制の近代化と 再編が、中長期的に求められていたのである。
3.貿易・為替自由化計画大綱の決定 と池田内閣期の経済外交
日本経済の高度成長を持続させるための池田 内閣の経済政策の二大支柱は、第一に国内向け の「国民所得倍増計画」、第二は日本経済の対外 開放体制政策―輸入自由化促進政策―であった。
41池田のキャッチフレーズである月給二倍論は59年 1月の読売新聞に掲載された一橋大学教授中山 伊知郎による随筆であったとも言われているが、42 池田が首相に就任する際には既に嵐のような高度 成長が眼前に展開されつつあったのである。
しかし、果たして池田が岸時代の政治の時代 から経済への転換を目指したのは安保改定の気 分を一掃することと国内的な好況の端緒をつか み、また輸出を増大させて好景気を満喫する思い
からだけであったのであろうか。否、池田は計数 に明るいというだけではなく、大蔵官僚出身者と して国際政治経済の大きなうねりをも認識してい た。43それが貿易・為替の自由化問題であった。
第二次世界大戦後、戦前の不況が保護貿易主 義によって悪化し、ブロック経済化していったこと への反省から、欧米先進国では関税その他も貿 易障害を取り除き、差別待遇を廃止して、自由で 平等な国際貿易を促進することが世界経済の安 定と繁栄をもたらすという考えが強まっていたこと から、GATT(関税・貿易に関する一般協定)はI MF(国際通貨基金)と国際復興開発銀行(いわ ゆる世界銀行)を中心とする国際通貨体制ととも に、世界経済と貿易の安定・発展を目的とするレ ジーム(体制)として発足されていた。44
日本は紆余曲折を経ながらも52年8月にIMF加 盟を果たし、53年10月米国の後押しもあって日本 のガット準加盟国仮加入が承認され、55年6月に はジュネーブで日本の加入条件に関する議定書 調に調印し、9月に発効、10月にはジュネーブでの 第10回ガット総会へ初めて日本は正式代表団を 派遣するまでになっていた。このガット正式加入 によって初めて、「国際金融・通商の両面における 日本の国際経済社会への復帰」45が実現した。ま たこの加盟によって対外信用が高まることや、世 界銀行からも経済復興と開発のための長期資金 の融資を通して自由貿易体制の一員となることが できた。その一方で、日本国内の方針が「貿易立 国を目指す」方針となった以上、世界貿易の80%
以上を占める国々が従う貿易のルールに日本もコ ミットせざるを得なくなったのである。事実、日本 のIMFとガット加盟はその後の日本の高度経済成
39. 昭和35年度『経済白書』参照。また朝日新聞、1960年7 月19日付「特集記事」参照。
40.通商産業省編『通商産業政策史 第8巻 第三期 高度成 長期(1)』(1991年)、37ページ。また、大来佐武郎『所得 倍増計画の解説』(日本経済新聞社、1960年)、93ページ。
41. 前掲『通商産業政策史 第8巻』、43ページ。
42. 前掲『昭和史 Ⅱ』、510ページ。
43. 池田は第一次吉田内閣の石橋蔵相時代に高橋亀吉を 週に一度昼食に招いて、その時々の経済の実態をきくよ うに、と石橋から勧められ、忠実に実行していた。塩口 喜乙『聞書池田勇人』(朝日新聞社、1975年)、8ページ。
44.前掲『日本の近代 7 経済成長の果実』、26ページ。アメ リカがIMF・GATT体制形成に果たした役割は樋渡由 美「IMF・GATT体制と日米関係―1950年代後半の諸 問題―」、日本政治学会編『年報政治学1991』、9-12ペ ージを参照。
45. 前掲『日本の近代 7 経済成長の果実』、26ページ。
長を実現する重要な土台となっていた。46そのた め、日本の経済体制を自由化させることが要請さ れ、国内産業は国際競争力を獲得しながら貿 易・為替の自由化を推進する必要に迫られてい たのである。
貿易・為替の自由化が日本経済に影響を与え るものとして捉えられてきた契機は、58年の終わ りに西欧諸国が通貨の交換性を回復したことに あるとされている。その後59年秋には国際通貨基 金の総会が米国で開催されることとなり、この総 会には日本からも大蔵大臣と日本銀行総裁が日本 政府ならびに金融界を代表して出席することとな っていたが、当時の第二次岸改造内閣期の佐藤 栄作蔵相が出席するにあたって政府では、従来 米国側が日本政府に米国製品の輸入に対して差 別的扱いを廃止して欲しいと言ってきていたこと に鑑み、日本政府(大蔵省、通産省)としてかなり 思い切った体制を示す必要性に迫られていたの である。岸内閣もこの難題の大きさを認識してお り、池田が通産相在職中の60年6月24日、岸内閣 は「貿易為替自由化計画大綱」を作成し、国際競 争力をつけた産業から順々に自由化を進めると いう方針を示していたのである。47この時期の日 本の産業構造はいわゆる中進国型であった。産 業構造の高度化という観点からも重化学工業の 発展を中心とする日本経済の成長が量的拡大を 今後とも持続していくためには、世界市場におけ る輸出力という質的基盤においてなお西欧先進
諸国に著しく劣っていた。西欧諸国の自由化は その重化学工業の著しい生産性の向上とこれを 基盤とする急速な輸出拡大によって支えられてき たことを踏まえれば、今後の日本経済の成長のた めには、産業の質的基盤の強化特にその国際競 争力の培養と伸長が不可欠であり、今後の産業 構造高度化の方向を決定する主要因であること、
また自国は輸入制限を行いながら輸出拡大して いくことに限界があったことなどがあった。48
輸入自由化政策は「直接的にはいわゆる外圧 を契機」49としていたといわれるが、重要な点は この貿易・為替自由化計画策定における池田の 役割である。既に佐藤蔵相の国際通貨基金総会 からの帰国後、日本経済の自由化に対する世界 の厳しい態度を敏感に感じ取っていた池田は、
自由化に消極的な通産省での反対に強いリーダ ーシップを発揮し、59年12月、原綿と羊毛の輸入 をすべて自由化する決定を下したのである。50当 時自由化に対しては未だ弱小な国内産業を崩壊 させるものとして反対論が根強く残っていた中で、
有沢広巳、稲葉秀三、大来佐武郎などが中心と なって作っていた「総合政策研究会」51が既に59 年12月16日に「貿易自由化への提案」を公表し、
政府や経済界に自由化を急ぐ必要性を提言して いた。52この「総合政策研究会」が稲葉を中心に 国内からの経済体制再編へ向けて大きな役割を 果たすのであるが、59年6月に通産省に繊維需給 総合対策懇談会が設けられ自由化が主要議題に なるに及んで、委員の一人であった稲葉は何度 か池田を訪問し池田の腹はどこにあるのか、繊維 原料の輸入自由化にどこまで踏み切るのかを質 46. 様々な国際機構に日本が加盟していった際のアメリカ
の役割の大きさについては「アメリカの好意というか、
アメリカの政策として、日本を早く国際経済社会に復帰 させようと推進してくれたことが大きな要因」という言 葉に集約されよう。牛場信彦『牛場信彦 経済外交へ の証言』(ダイヤモンド社、1984年)、6ページ。
47.「貿易為替自由化計画大綱」は(1)経済の安定を保持 しつつ高度成長を図る、(2)雇用の拡大と流動性向上 に努める、(3)輸出の拡大と経済協力の推進を図る、
(4)自由化の積極的利点を生かしつつ産業構造の高 度化を推進する、(5)農林漁業の体質改善および中小 企業の近代化に努める、(6)企業の体質改善のための 環境整備に努める、(7)産業秩序の整備を図る、(8)関 税率および制度を改正する、という8つの対策を取り 上げていた。通商産業省官房調査課『貿易自由化と 産業政策』(1960年)、18-19ページ。
48. 通産省産業構造研究会『貿易自由化と産業構造―主 要産業の国際競争力―』(東洋経済新報社、1960年)、 59ページ。石井修監修『アメリカ合衆国対日政策文書 集成 II日米経済問題1959-1960年 第11巻』(柏書房、
1996年)、12ページ。
49. 前掲『通商産業政策史 第8巻』、43ページ。1959年夏 頃からマッカーサー大使によって藤山外相、池田通産 相、岸首相などへ自由化の働きかけが行われていた。
前掲、石井修監修『日米経済問題1959-1960年 第11巻』、 12ページ。
50. 前掲『戦後政治と日米関係』、180ページ。
して、「通産大臣ははっきりと繊維原料の自由化を 実施するのだ、そういう意味で懇談会では自由な 討議をやってもらいたいとの意思表示」53があっ て以降、稲葉や総合政策研究会の動きが活発化 している。通産省や産業界では国内産業の現実 の状況に精通しているために貿易自由化の進展 には消極的であり、通産省では自由化に理解を 示すのが繊維局長一人という有様だった。その ため自由化の進展に慎重であった省庁や財界、
産業界へ自由化の意義を宣伝することもあって、
各種審議会で要職を占めていた稲葉を仲介役と して、池田が国内経済体制再編に向けて布石を 打ったと考えられよう。
池田はまた「マッカーサー大使を通じ、あるいは その他アメリカ高官との会談を通じ、世界の大勢 が貿易・為替の自由化という方向に向かってお り、日本としても思い切って自由化を推進するの でなければ、今後経済の安定的な発展を期待す ることはいよいよ困難になる」54との認識を有して いた。そして佐藤蔵相がIMFの総会から帰国後、
池田通産相、佐藤蔵相、大蔵省、通産省の幹部 は「かなり緊密な連絡をとって、為替貿易の自由 化を推進する役割」55を果たしていったのであっ
た。当時輸入品の金額のうち40%程度が輸入を 自動承認されていたにすぎなかったが、3年後の 63年4月に、80%(石油・石炭を自由化すれば9 0%)に引き上げるという貿易・為替の自由化が 60年1月には決定された。60年6月には、前述のよ うに「貿易為替自由化計画大綱」が決定され、池 田は常に主導権を握った。秘書官の伊藤昌哉や 満枝夫人に岸内閣へ入閣した真意を質された時 池田は「「政治的雑音を聞くのはいやだ」と(中略)
いちずに通産行政に専念」「ドッジラインの頃から 自由化を考えていた」56という。経済の自由化施 策を国内経済体制の再編と経済外交に具現化さ せようとする池田の考えが岸内閣の通産相時代 から継続し、政権取得後国内においては「所得倍 増計画」の推進に、外交面ではケネディ政権との 日米同盟を確認することで国際環境を整え、経済 力を外交の武器とするべく経済外交の推進へと つながっていったのである。
4.池田・ケネディ会談と経済外交の展開
61年1月アメリカ第35代大統領に就任したケネ ディは、若さと知性を全面に押し出した東部エス タブリッシュメントとして登場したが、彼はアメリカ のみならず、日本においてもその清新さが歓迎さ れていた。
このケネディ民主党政権の誕生を待って日本政 府は「日米両国政府の主脳部[原文ママ:筆者注]
が会談し相互の面識を深めるとともに両国が関 心を有する諸問題につき広く意見を交換するこ 51. 主要メンバーには稲葉秀三(財団法人国民経済協会理
事長)、大来佐武郎(当時経済企画庁計画局長)、有 沢広巳(当時法政大学総長)、脇村義太郎(東京大学 経済学部教授)、土屋清(朝日新聞論説委員)、神野正 雄(東京銀行常務取締役)、石丸忠富(通産省参事官)
松尾金蔵(通産省企業局長)、中野正一(経済企画庁 調整局長)、大堀弘(通産省公益事業局長)など有識 者、学者、実業界、官僚など各界の錚々たる顔ぶれが 並んでいる。元来は一万田蔵相の時に「経済ジャーナ リストのベテランによる財政懇談会が生まれ、それが 大蔵省にハッパをかける応援団体」として生まれたも のが母体であるという。鈴木幸夫『現代日本の権力エ リート』(番町書房、1967年)、230ページ。「宏池会」とな らぶ政策集団であった当会の政策立案に果たした役 割の解明は筆者の課題としたい。
52. 総合政策研究会編『自由化計画の問題点と対策』(ダ イヤモンド社、1960年)「はしがき」参照。
53. 前掲『自由化計画の問題点と対策』、60ページ。福良 俊之(当時東京新聞論説副委員長)執筆部分参照。
池田と稲葉を結んだのは複層的であるが、主だった人 物は高橋亀吉であったと推測される。稲葉は高橋に 私淑していた。
54. 前掲『自由化計画の問題点と対策』、56ページ。福良 執筆部分参照。
55. 前掲『自由化計画の問題点と対策』、56ページ。福良 執筆部分参照
56. 前掲『池田勇人とその時代』、83-84ページ。この点につ いては占領期に外資導入を吉田が積極的に推進しよ うとした背景があり、中村隆英が言うように「インフレの 収束よりも、戦後日本の経済体質を築く上で決定的に 重要であった」ドッジラインから既に池田が学んでいた とも考えられよう。五百旗頭真『占領期』(読売新聞社、
1997年)、378ページ、および前掲『昭和史 Ⅱ』、434 ページ。
と」を目的として、1月11日小坂外相がマッカーサー 駐日米国大使に日本政府の考えを伝え、同時に 朝海駐米大使に対して池田首相の渡米訪問の日 程調整を訓電した。57その後日程調整を行った結 果、同年6月19日池田が日本を発ち、6月20、21日 に日米首脳会談を行う日程を確定させ、日本側は 4月17日より都合9回の準備会議を池田、大平、
小坂、宮沢喜一、武内外務次官、島外務審議官 などが参集して鋭意万全を期していた。58
日本側議題案として(1)国際情勢として東西関 係や極東情勢、日韓関係、中共問題、(2)国際経 済として米国の国際収支の問題や国際経済機構 の再編成、後進国援助、(3)日米間の問題として は、日米間の基本的協力体制や日米通商関係、
沖縄、小笠原問題などが挙げられていた。59これ に対して米国側案には「貿易問題」や「経済協力」
「多数国間経済問題」が議題として挙げられるな ど、従来の首脳会談以上に「日米経済」の問題が 大きく、また多数挙げられることとなっていたので ある。60ケネディ政権の最大の関心事は「核戦争と 国際収支問題である」とケネディが側近に語った ように、ブレトンウッズ体制を維持するために国際 収支問題は大きな課題となっていた。61また日本 側では50年代後半以降吉田、石橋、岸と政権は 交代しても、軽軍備、経済発展を重視した「吉田 なき吉田路線」を踏襲し、かつ池田が貿易・為替 自由化と国内経済体制の再編を主導することで、
対外的には経済外交を展開しその路線の定着を
図ろうとした結果でもあったと言えよう。62また自 由化との関連で言えば、経済外交の推進による 日本の国際環境の改善は、輸出振興を図ること で国際収支の均衡を確保する対策の一つであっ て、直接的な輸出振興策以外の重要な政策の一 つであったのである。63
6月20日の第一回池田・ケネディ会談では主に 中共問題、ウイーン会談、ラオス問題、核実験、ベ ルリン問題、韓国問題が話し合われ、6月21日の 第二回(ヨット会談)は、宮沢の回想通り、記録が ないが、日本のOECD加盟や繊維製品問題、安 全保障に関する諸問題が、23日の第三回会談で は日米間の常時協議、韓国問題、核実験再開等 が協議された。64経済問題は議題については、
6月20日午後に行われた池田、ラスク会談(ケネデ ィ大統領、ディロン財務長官、ボール財務次官、ラ イシャワー大使などが出席)で日米経済問題や米 国の国際収支問題が詳細に討議された。65日本 の自由化問題についてのラスク長官への説明要 請に対して、池田は、通産相時代から「多くの反 対を押し切って」自由化を推進してきたこと、「自
57.「池田総理米加訪問に関する報告書」(外務省文書
「米北 61 29」昭和36年8月)「第一部 米国 第一節 招待の経緯」参照。
58. 前掲「池田総理米加訪問に関する報告書」(外務省文 書「米北 61 29」昭和36年8月)「第一部 米国 第一 節 招待の経緯」参照。
59. 前掲「池田総理米加訪問に関する報告書」(外務省文 書「米北 61 29」昭和36年8月)「第一部 米国 第二 節 準備状況」参照。
60. 前掲「池田総理米加訪問に関する報告書」(外務省文 書「米北 61 29」昭和36年8月)「第一部 米国 第二 節 準備状況」参照。
61.ケネディ政権の国際収支問題やドル切り下げに対する 対応は田所昌幸『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論 新社、2001年)、第二章を参照。
62.ケネディ政権が経済問題を重視した理由は第一に国際 収支の赤字をアメリカ経済の拡大を通じて削減しよう としていたからであった。前掲『戦後政治と日米関係』、 201ページ。五百旗頭真は池田政権を「吉田の教え子 による吉田路線の復活」としている。「日本外交インタビ ューシリーズ(1)宮沢喜一」)、『国際問題』500号(2001 年)、56-79ページ。
63. 前掲『貿易自由化と産業政策』、17-18ページ。
64. 外務省『池田総理米加訪問に関する特別報告書』昭 和36年8月、「米北 61 30」。宮沢の回想については前 掲『戦後政治の証言』、119ページ。また前掲『国際問 題』500号で宮沢喜一が五百旗頭真のインタビューに応 えている(注62参照)。
65. 外務省『池田総理米加訪問に関する特別報告書』昭和 36年8月、「米北 61 29」。前掲「米北 61 30」にはこの議事 録は入っていない。両首脳が参加しているにも拘らず、
「池田、ケネディ会談」となっていないのは、ケネディが池 田ほど国際金融、経済問題に通じていなかったこともあ るが、貿易や金融問題が「日本側からのみ」提起された 議題でもあったからであった。米国側にとっては繊維問 題が緊喫の課題であり関心事であった。 “Multilater- al Textile Discussions (The President might wish to raise)” (Sneider起草), June 19, 1960, Japan and the United States Diplomatic, Security and Eco- nomic Relations,1960-1976, Microfiche 18参照。
由化は必ず成し遂げる決意である」旨、また日本 の産業構造の転換が遅く急速な自由化が困難で はあるが、規定の自由化計画を更に促進するよう に努力中であることを説明した。この発言は首相 となった池田が、岸内閣時代の通産相の時代か ら「次」を狙いつつ、経済政策では連続性を有し ていたことを吐露していると言えよう。
その後日米共同声明では、国連の権威を高め ること、アジア情勢の安定化へ向けた日米の緊密 な協議、中共問題、核実験停止協定の必要性な どについて意見の一致や協議の必要性を謳い、
さらに「国際貿易の成長と金融の安定を促進する ための協力の必要性」「日米両国間の貿易が秩序 ある発展を遂げることを期待して両国が自由な貿 易政策をとるべきこと」などを確認した。66ただし、
日米両国には、「貿易為替の自由化とか対米繊維 輸出については双方に技術的な問題や立場とか 国内事情」67などがあり、意見の一致をみなかった 項目もあるにはあったが、ともかくも、池田・ケネディ 会談は、池田にとってその後の日本経済の自由化 の進展への工程表を創り上げる環境を整備する 契機となり、経済に徹した経済外交を日中・日韓関 係や東南アジア歴訪時におけるアジア共同体構想 へと発展させていく原点となったのである。68
つまり、池田・ケネディ会談において国際環境安 定への日米協力の確認とその演出による国内政 権基盤の安定化を確認することによって、米国に 対して自由化への対応を図ることを改めて約束し たのであった。それは、国内的には経済体制再 編を目指して、実質的に経済「計画」が図られる契 機となり69、また、対外的には吉田以来の経済外
交がIMFやOECD、アジア共同体構想などと具 現化する契機となったのであった。
5.池田「経済外交」の成果と国内経 済体制の再編
1962年9月29日、池田内閣は前年にIMFに約 束した「62年10月に自由化率90%」という水準を 満たすため、10月1日から新たに230品目の貿易自 由化を行うことを決定した。日本政府は63年2月、
ガット理事会で国際収支を理由とする貿易制限 禁止の「ガット11条国」移行の決定を通告し、63 年4月には経常取引の赤字を理由とする為替制 限の廃止、差別的通貨措置の禁止、通貨交換性 の回復を義務づけたIMF八条国への移行を実 現するなど、次々に自由化施策の実現を図ってい く。63年10月にはOECDへの加盟が実現し、日本 は先進国クラブの一員として認められ発展途上国 への援助の責任を負うことになる。これは自由化 の推進がIMF8条国移行及びOECD加盟の契機 を果たした事を意味し、また従来の経済成長の
「壁」となっていた国際収支の「壁」が黒字定着化 によって取り払われたことを意味していた。
対外的には、米政府が62年に通商拡大法を 制定し、63年にはGATT閣僚会議で「関税の一 括引き下げ交渉」(ケネディ・ラウンド)が提唱され、
66.6月22日朝海大使発小沢大臣臨時代理宛電信(1699号)
「池田総理米加訪問関係一件(1961.1)共同声明及び ステートメント関係」(外務省記録 A 1.5.2.10-2)、外務 省外交史料館。
67.「日米共同コミュニケに関する武内次官の霞クラブブリ ーフィング記録」(昭和36年6月23日 外務省情文局報 道課、外務省記録 A 1.5.2.10-2)、外務省外交史料館。
68. 当時外相の小坂善太郎は、記者の質問に対して概ね この点を認める発言をしている。「連載 検証戦後日米 首脳会談」第二回『エコノミスト』1991年1月15日号、80- 85ページ。
69.閣内でも自由化について全員の賛同が得られない状 況を踏まえて、池田・ケネディ会談ではケネディ側から自 由化を強く迫り、国内経済体制の再編を急ぐ池田を 側 面 支 援 するよう国 務 省 では 準 備を進 めていた。
Telegram, Ikeda Visit, from Leonhart to Secre- tary of State, June 16, 1961, Japan and the Unit- ed States Diplomatic, Security and Economic Relations, 1960-1976,Microfiche 19。これは首脳 会談での合意を契機(外圧)として国内再編を推し進 め、従来国内の反対勢力によって遅々として進まなか った自由化を一気に進め、日本経済の更なる発展を目 指そうとした池田の意志でもあった。前述の所得倍増
「計画」以後、訪米によって政権基盤の安定化を果た した池田は62年10月「国土計画開発法」(50年5月に公 布されていたが、50年代には計画は策定されていなか った)に基づく日本初の「全国総合開発計画」を閣議決 定し、「経済発展の起動力」である工業中心の特定地 域を地方に分散し、重点的に開発する拠点開発方式 を進めていったのはその証左であろう。
68年頃からケネディ・ラウンドに伴う本格的な貿 易障壁の軽減撤廃が進むという国際情勢に先ん じて、日本は「世界の自由化進展の列車に、きわ めてタイムリーに乗り込んだということを意味」70 していたのである。国内政策面では日本企業が アメリカの巨大資本に吸収合併されるのではな いか、という危機感から、重化学工業の企業を中 心に大型合併による国際競争力の強化が進み、
貿易自由化の進捗は企業の近代化投資を加速 させ、貿易外取引の分野における観光旅行の自 由化や外貨割当制度の廃止も行われ「かっこ付 きのもの」ではあったが自由化が急速に進展し たのであった。71
64年9月、東京でIMF・世界銀行総会が開催 されたとき、池田は胸を張って「国際協力体制に 積極的に尽力いたすこと」を表明し、廃墟から立 ち上がった日本経済の驚異的な発展を世界に誇 ったのであった。72様々な批判が残ったにせよ、
国民個人消費支出は昭和30年度の5兆1千億円 から36年度の8兆9200億円へと、約80%増大し、
民間資本形成は1兆3700億円から5兆1700億円 へと飛躍的に増大した。73所得の増加と中流意 識の一般化に象徴されるように「二重構造」論が 変容していくなど、74池田はドッジライン以来の念 願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさ に一内閣一仕事でやり遂げたのであった。この 後、池田が敷いた路線─経済成長の達成を目標 とする路線、「発展途上国への援助を拡大して世 界の平和と繁栄に応分の寄与」75を行う路線─
をその後の内閣もひたすら追い続けることとなっ たのである。
おわりに
「日本経済の国際化、自由化に半生をささげて きた」76池田はIMF総会と東京オリンピックが開 かれた1964年、癌のため退陣を表明した。池田 は大蔵官僚出身として得意分野の経済・財政問 題で日本の経済体制を自由化によって再編、発 展させることで経済外交に邁進し、佐藤政権の沖 縄返還交渉への内政外交の基盤を作ることとな った。池田の経済外交政策には、GATT35条の 撤回、OECD加盟など西側先進国の経済秩序・
クラブ入りを果たしつつ、同時に国内の産業・経 済体制を再編し、日本経済を持続的な拡大基調
―高度成長 ―にのせるという狙いがあった。池 田の経済外交は、高度経済成長の波に乗り経済 力を充実させ、軍事に重点を置くことの出来ない 日本が、経済を外交の武器に活用するという、そ の後の保守リベラルの日本外交の基礎を形成し たものであった。それは今日まで続く日米同盟の 下での「吉田なき吉田路線」「吉田の教え子によ る吉田路線」として定着していく契機となった。
本論で概観したように、池田の「経済外交」はド ッジラインから50年代後半への貿易・為替自由化 と続く国内経済課題への対応であったのであり、
それはまた池田が強いリーダーシップを発揮して アメリカからの外圧という国際環境の変容をたくみ に利用しつつ、国内経済・産業体制の再編という 国内政策に全ての政策を一体化するという必然 性を「持たせたもの」であった。それは大蔵官僚 出身の池田が財政均衡の枠内から抜け出して計 画経済的な経済運営を取り入れ「計画経済政策 型国内経済運営」77と先進国クラブ入りを目指し た「経済外交」の接点を成す政策展開でもあった。
また、池田・ケネディ会談における「イコール・パ ートナーシップ」という双方の「了解」が日本の経済 成長への環境を準備したのであった。当時の日本 70.前掲『日本の近代7経済成長の果実』、143ページ。
71. 前掲『昭和史 Ⅱ』、532ページ。前掲『通商産業政策史 第8巻』、55ページ。
72. 前掲『日本の近代7経済成長の果実』、204ページ。
73. 稲葉修三『激動30年の日本経済』(実業之日本社、1965 年)、266-267ページ。
74. 前掲『昭和史 Ⅱ』、521ページ。
75.IMF東京総会での池田の演説。前掲『経済成長の果 実』、204ページ。
76.前掲『戦後政治の証言』、129ページ。
77. 大平正芳は「あの人[池田]案外計画的経済が好きで す(中略)政府の介入の必要性とそれに興味を持って いて徹底的な自由主義ではなかった」と回想している。
前掲『聞書 池田勇人』、205ページ。
はまず経済力を充実させることが第一であったに も拘わらず、苦しい中で日本自身の体質改善を図 りながら国際システムの仲間入りを果たしたこと で、戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済 外交面でも創り上げたといえるのである。池田の とった本格的な経済外交の手法は、その後のソ フトパワーとしての経済外交、すなわち経済主義 的手法を重視して軍事に消極的な保守リベラル 路線の日本外交の原型を形成し、「国際社会で生 きる日本」を世界に示したものであったといえよう。