• 検索結果がありません。

モンゴル語版『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "モンゴル語版『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』について"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

モンゴル語版『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』について

二木博史

はじめに

1.『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の諸テキスト 2.『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の原型 3.『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の性格 おわりに

はじめに

ジェブツンダンバ・ホトクトは、ハルハ・モンゴルでもっとも崇敬された、影響力のおおき かった活仏であり、モンゴルの宗教史のみならず政治史、文化史のうえでも、きわめて注目さ れる。とくにハルハで最初の大活仏たる第1世(1635~1723年)と、独立モンゴル国の王とな った第8世(1869~1924年)のはたした役割は重要である。

「民主化」後のモンゴルにおける“歴史のみなおし”のなかで、仏教がモンゴル文化の重要 な構成要素としてあらためて位置づけられ、彫刻を中心とするザナバザル(ジェブツンダンバ・

ホトクト 1 世)の作品はモンゴルの仏教美術の粋として特別な評価をうけている1)。国外のい くつかの都市における展示によって、ザナバザルの作品はチベット仏教系の美術を代表するも のとして世界的にも認知されている2)

ジェブツンダンバ・ホトクトのモンゴル語の伝記で、ひろく流布しているのは1種類のみで、

ボーデンが1961年に出版したテキストがよくしられており、宮脇淳子などによって利用され てきた3)。この伝記は、写本のみでつたえられてきており、木版本等の刊本は存在しないとか んがえられている。写本の数は、たいへんおおく、図書館に所蔵されるもの、個人所有のもの をあわせると、正確な数字は不明だが、すくなくとも数十に達すると推定される。

ジェブツンダンバ・ホトクト1世の代表的な評伝は、故L. フレルバータル教授によってか かれたが、このなかで、この伝記は主資料のひとつとして、つかわれている4)

ところが、この伝記の著者は不明であり、タイトルも写本によってことなり、確定できてい ない。岡田英弘は1985 年に発表した、5種類のジェブツンダンバ・ホトクトの資料について

(2)

のべた論文のなかで、この伝記にもふれ、咸豊9年(1859年)作としているが、これはボーデン の出版したテキストの記述にもとづくものである5)。2006年に刊行された『内蒙古通史纲要』

も『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』について、きわめて史料価値のたかい伝記作品と評価し つつ、その成立を 1859年としているが、同様にボーデン本によったものだということは、あ きらかだ6)。問題は、ボーデン本がこの作品の原本のすがたをどの程度つたえているかだ。か りにボーデンの出版した写本がのちの時代のものであり、原本の成立が清代後期ではなく、も っとはやいとしたら、作品の位置づけは相当にちがったものになるはずだ。

うえでのべたように、この作品の写本はきわめておおく、そのすべてを検討することは、い まの段階では不可能だが、モンゴルの民主化後におけるザナバザル(ジェブツンダンバ・ホト クト1世)の再評価にともない、いくつかの写本がキリル文字に翻字したかたちで出版された り、影印版が刊行されたりしたこと、筆者自身の文献収集の過程で複数の写本が入手できたこ と等により、原本のすがたを再構成し、その性格をあきらかにすることが、ある程度、可能に なったとかんがえる。

本稿では、諸写本の比較により、『ジェプツンダンバ・ホトクト伝』の原型がいつどのような 意図でつくられ、それがどのように変化したかをあきらかにしようとこころみる。

1.『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の諸テキスト

(1)ボーデン本

イギリスの代表的モンゴル学者チャールズ・ボーデンは、コペンハーゲンのRoyal Library所 蔵の写本写真(MONG. 519.)をローマ字転写、訳注とともにファクシミリのかたちで1961年 に出版した。これは、1938年にグレンベック(K. Grønbech)がフフホトのシレートジョー寺院 の僧トゥメンバヤル所蔵の写本(Ms A)を撮影してもちかえったものである。ボーデンは、こ のA写本を底本に、コペンハーゲンの3写本( B, C, D)、モンゴル国立図書館の4写本(U, V, W, X)、計7種類と比較し校訂をおこなっている。50年まえに刊行されたこのテキストは、モンゴ ル研究のなかで標準的なテキストとしてつかわれてきた。

コペンハーゲンの王立図書館に所蔵される4種類のテキスト(A, B, C, D)の相互関係は、

W.ハイシッヒと C.ボーデンが編纂した同図書館モンゴル文献目録に記述されている7)。B、C、

Dはいずれも不完全なテキストであり、グレンベック、そしてボーデンがテキストAをもとに 研究をすすめたのは、当然のことであった。

他方、モンゴル国立図書館所蔵の4写本(U, V, W, X)は基本的に完全なテキストであるが、写 真の状態はかならずしも利用に適するものではなかったという8)。ボーデンは、これらの 4 写 本について、丁数をのべるのみで、そのタイトルは記述していない。近刊の所蔵写本目録では、

(3)

Öndör bogdyn namtarのタイトルで1写本(1099/96)、Öndör gegeenii namtarのタイトルで3写本

(1091/96, 3801/96, 8107/96)が登録されているが9)、書誌情報がきわめてすくないため、ボーデ

ンが使用した写本との関係を直接しることはできない。

しかし、したでのべるようにU写本は、あきらかにダシバドラフ本のもとになった写本とか んがえられる。

1990年に申晓亭(Shen Xiaoting),成崇德(Cheng Chongde)により「哲布尊丹巴传」のなま えで漢語訳がだされた10)。コペンハーゲン本を底本にし、北京図書館と内モンゴル図書館に所 蔵される、計2点の写本をも参考にして漢語に翻訳し、註もふしたとしているが、誤訳があま りにもおおく、遺憾ながら、学術的な使用にはたえない。

(2)ダシバドラフ本

ザナバザル生誕360周年の記念出版物として、3種類の伝記を合冊したものがÖndör gegeenii

namtruud orshivoiのなまえで刊行された。これにはザヤ・パンディタ・ロブサンペレンレー著

の初代ジェブツンダンバ・ホトクト伝(チベット語)のモンゴル語訳、ダグワジャンツァンが 1912 年にチベット語でかいた伝記のモンゴル語訳とともに、モンゴル語による伝記が Öndör

gegeenii namtarのタイトルではいっている。

編者のD.ダシバドラフは、モンゴル国立図書館、国立中央文書館などに所蔵される約15の 写本のなかから、最良のテキストを選択し、キリル文字に翻字したと、解説のなかでのべてい る。えらばれたテキストは、モンゴル国立図書館所蔵のErdene zuu ba Öndör gegeenii namtarと いうタイトルの、エルデニゾー寺院縁起とウンドゥル・ゲゲーン伝から構成される写本の、ジ ェブツンダンバ・ホトクト伝の部分である11)

この写本が、ボーデンの使用したU本であることは、ボーデンの引用した同本のテキストと の比較により、ただちに理解される。とくにシャンバラ伝説に言及したコロフォンの一致は決 定的な証拠になる。すなわち、U本でもダシバドラフ本でも、筆写者は、ゲレン・ツェンドと なっており12)、両写本がおなじものであることは、あきらかだ。

ダシバドラフは、伝記の成立の時期について、「1774年のジェブツンダンバ・ホトクト3世 の死去に関連するできごとをのべて、おわっているので、18世紀のすえにあらわしたのではな いか」13)と推定している。

編者は出版に際して若干の註もふしており、有益な部分もある。しかし、ボーデンがおなじ 写本を利用しているのにもかかわらず、出版されたテキストとの比較はおろか、言及さえして いない点、年代の計算をあやまり1649年、1650年、1655年をそれぞれ1709年、1710年、

1715年としてしまっている点14)、一部のテキストが脱落している点15)、aildaadとすべきところ

をailtgaad とするような、モンゴル文字からキリル文字への翻字のあやまりがきわめておおい

(4)

点など、いくつかの問題点を指摘しないわけにはいかない。

(3) ツェレンソドノム本

D. ツェレンソドノムは、2007 年に刊行したアンソロジー『モンゴル仏教文学』のなかに Darnat Bogd gegeenii dür dürnii yos todotgolyg üzüülsen sarny gerel hemeegdeh orshivというタイト ルのジェプツンダンバ・ホトクト伝を収録している16)。編者の解説によれば、現在、科学アカ デミー言語文学研究所図書室に所蔵されている、もともとはガンダン寺のエルデネピル・ガブ ジが1950年代につくらせたタイプ版のテキストを、自分の蔵書のなかの1写本(Bogd gegeentenii halh mongol orond anh huvilj shashnyg delgerüülen tör dagaj shid üzüülen amitnyg jarguulan aildagsan tsadig orshiv)と対校しつつ、キリル文字になおしたものである。Ts.ダムディンスレンが、この テキストについて「もっとも詳細で最良の」写本にもとづくものだと、評価したメモをのこし ているという17)

本テキストはあきらかに、下でみるフレルバータルの刊行した写本H2 と、タイトル以外は ほぼ完全に一致する。ただしH2の33 v.の 5行めから52 v.の 3行めまで、すなわちジェブツ ンダンバ・ホトクト2世、3世の伝記の部分は、このツェレンソドノム本では省略されている。

(4) フレルバータル本

2009年にフフホトで刊行された『ウンドゥル・ゲゲーン伝』(Öndör gegen-ü namtar)は、2001 年にオラーンバータルでキリル文字で出版された1世ジェプツンダンバ伝をモンゴル文字に翻 字したものと、4 種類のジェブツンダンバ・ホトクト伝の写本のファクシリミからなる。4 写 本について、監修者オヨーンビリグの序文では、フレルバータルの蔵書がはじめて出版された とのべられているが、著者のフレルバータル自身は、「文献一覧」のなかでいくつかのジェブツ ンダンバ・ホトクト伝写本にふれてはいるものの、4 写本がどれに該当するのかについては、

何の解説もふしていない。

さいわい、おなじ時期に刊行された同氏の論文「ウンドゥル・ゲゲーン・ザナバザルの伝記 の研究」では、11種類の伝記に関する説明がみられるので18)、この説明をてがかりに、刊行さ れた4写本の比定をおこなってみたい。なお、4種類の写本は、掲載順に便宜的にH1, H2, H3, H4とよぶことにする。

a. 写本H1 (pp. 194-244)

タイトルは、Öndör gegen-ten-U namtar orosibai。形態(貝葉タイプ)、冒頭と末尾、丁数(51)

から判断して、論文に掲載されたリストの3番め、モンゴル科学アカデミー言語文学研究所図 書室に所蔵される写本M187(373)ö-1に相違ない19)

b. 写本H2 (pp. 245-305)

タイトルは、Öndör boGda−yin namtar oroSibai。形態(冊子)、冒頭と末尾、丁数(58)からみ

(5)

て、リストの1番めの写本である20)。同リストには所蔵機関はかかれていないが、タイトルと 丁数から判断して、『ウンドゥル・ゲゲーン伝』の「文献一覧」に掲載されている、科学アカデ ミー言語文学研究所図書室所蔵の写本をさすとおもわれる21)。罫線いりの学習ノートにうつし たものなので、比較的あたらしい写本である。印刷が不鮮明なため、利用しにくい。ただ、う えでものべたようにツェレンソドノム本と一致するので、併用すれば、不鮮明な部分を理解し やすい。

c. 写本H3 (pp. 306-386)

表紙の写真からは、タイトルがよみとれない。表紙にはった紙にみられる11-düger (第11)、 冒頭と末尾から、リストの7番めの写本であるのはあきらかだ。リストの記述がただしければ、

タイトルはVcirai Abutai qaGan−u angq−a burqan−u Sajin−u eki oluGsan ba OngdOr gegegen−ten−U namtar orosibaiである。丁数はリストの説明では77だが、実際は80である。故V. MyagmarsUren の蔵書だという22)。1920年の写本から1921年にかきうつしたと明記されている。

d. 写本H4 (pp. 387-444)

タイトルは、BoGda Rjebcundamba qutuG−tu gegen−ten−U namtar−a, cadig, teUke, pangyung oroSibai タイトル、体裁(貝葉形)、丁数(57)から判断して、リストの8番めの写本である。竹ペンで うつした写本であり、フレルバータル教授は「もっとも詳細で、かなりふるい時代のもの」と 推測した。言語文学研究所図書室の所蔵で、整理番号はM187(374)ö-223)。同教授は、リストで はこの写本の冒頭、末尾を記述していない。

(5) フタキ本

筆者が1977, 78年および1990年代以降にオラーンバータルで収集した写本のなかにジェブツ

ンダンバ・ホトクト伝が5種類ふくまれている。形態はすべて冊子である。

a. 写本F1

表紙のタイトルは、+ndOr boGda namtar orosibaiで、コロフォンでのタイトルは=roi−yin degedU Vacirdar−a blam−a−yin kedU kedUn dUri−U namtar (74 r.)。全74丁で、完全な写本である。うつされ たのは、宣統元年閏2月19日(西暦で1909年4月9日)なので(74 v.)、それほどふるいもの ではない。不完全な文章がおおく、よい写本ではない。

b. 写本F2

最初の数丁がかけているので、タイトルは不明である。最後の部分も欠く。全32丁。説明的 なテキストのかきかえが随所にみられる、個性的な写本である。

c. 写本F3

写本自体はタイトルを欠く。ただし表紙をつけて簡単な製本をするときに、ペン書きで Jibjundamba Daranata−yin gegenten−U ekin−U dUri−yin namtarというタイトルがふせられた。完全

(6)

で良好な写本である。全60丁。

d. 写本F4

タイトルはBoGda Jibjundamba−yin namtar orosiba。タイトルページ+51丁。保存状態があまり よくなく、一部破損しているが、全体としては良好な写本である。

e. 写本F5

全30丁のうち最初の5丁が欠けており、タイトルは不明である。ジェブツンダンバ・ホトク ト伝がおわったあと、別の作品がつづいているが、写本の状態がわるく、かつ最後の部分が破 損しているため、その比定は困難である。

以上の写本のほかに、たとえば、ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクトペテルブルク 支部図書館には、10数種類のジェブツンダンバ・ホトクト伝写本が所蔵されているが、本稿で あつかっている作品に直接該当するのは、おそらく5写本である24)

中国内にもいくつかのジェブツンダンバ・ホトクト伝が所蔵されているが25)、目録の記述が 簡単なため、比定が困難である。

(6)チベット語によるジェブツンダンバ・ホトクト伝

うえでとりあげたモンゴル語版『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』とは基本的にことなるが、

チベット語でかかれた伝記も簡単に整理しておこうとおもう。これらの一部は、モンゴル語版 の成立にも影響をあたえた可能性がある。

チベット語でかかれた代表的なジェブツンダンバ・ホトクト伝の利用が可能になったのは、

ローケシュ・チャンドラによるインドでの出版(1981、1982年)以降である。

その後、モンゴルのビャンバーが、つぎの11人の著者のジェブツンダンバ・ホトクト伝を影 印版で刊行したので(Byambaa, R. 2004-2006)、利用しうる資料のかずは格段にふえた。

(1) ngag dbang blo bzang don grub (u rga mkhan zur ngag dbang blo bzang don grub)

(2) ngag dbang tshul khrims rgya mtsho (nom kong ni'i tA ra e khe bla ma ngag dbang tshul khrims rgya mtsho)

(3) grags pa rgya mtsho (shar chos rje grags pa rgya mtsho)

(4) ngag dbang ye shes thub bstan (khu re mkhan chen ngag dbang ye shes thub bstan, ngag gi dbang po) (5) ngag dbang don grub (bka' bcu shes brgya ngag dbang don grub)

(6) blo bzang chos 'dzin (khu re chen mo'i chos rje sngags ram pa blo bzang chos 'dzin) (7) dkon mchog bstan 'dzin (yongs 'dzin no mong hang dkon mchog bstan 'dzin) (8) blo bzang 'phrin las (dza ya paNDi ta blo bzang 'phrin las, 1642-1708)

(7)

(9) blo bzang thub bstan dbang phyug 'jigs med rgya mtsho (khal kha rje btsun dam pa 04 blo bzang thub bstan dbang phyug, 1775-1813)

(10) ngag dbang mkhas grub (khal kha mkhan po ngag dbang blo bzang mkhas grub, 1779-1838) (11) bstan pa'i nyi ma (paN chen 04 bstan pa'i nyi ma,1782-1853)

これらのうち、(1),(3),(4),(8)はモンゴル語訳があり、モンゴルではよく利用されている。

もっとも重要なのは、ザナバザルの直接の弟子であるザヤ・パンディタ・ロブサンペレンレ ー作の伝記である。出版は、最初ローケシュ・チャンドラによってなされた(Lokesh Chandra (ed.),

1981)。アカデミー会員Sh.ビラによるモンゴル語訳がある26)

韓国のキム・ソンス(金成修)が、博士論文をもとにした著書『明清之际藏传佛教在蒙古地 区的传播』(2006 年)の付録として、この伝記の漢語訳と、チベット語とモンゴル語訳のテキ ストのローマ字転写を刊行している27)。ただしキム・ソンスはビラのモンゴル語訳を参照して いない。もしこのビラ訳や、それと合冊になったgrags pa rgya mtsho作の伝記を参照していた ならば、キム・ソンスの上記の著作の、ジェプツンダンバ・ホトクトとターラナータとの関係 に関する記述はかなりかわっていたとおもわれる。

ロブサンペレンレーの記述をしたじきにしてかかれたのが、ngag dbang ye shes thub bstan作の 伝記で、やはり最初はローケシュ・チャンドラによって出版された(Lokesh Chandra (ed.), 1982)。 そのモンゴル語訳についてはケンペの労作がある(Kämpfe, Hans-Rainer 1979-1981)。

ngag dbang blo bzang don grub は8世ボグドの時代のひとで、1874年までを記述している。I.

デンベレルによるモンゴル語訳がある28)

grags pa rgya mtshoによる伝記は、1912年にかかれた。ガンダン寺のソニンバヤル師による

モンゴル語訳がある29)

2.『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の原型

前節で記述したモンゴル語によるジェブツンダンバ・ホトクト伝のテキストのうち、末尾の 部分が完全なのは、ボーデン本、ダシバドラフ本、ツェレンソドノム本、フレルバータル本の すべて(H1, H2, H3, H4)、フタキ本のうちの4写本(F1, F3, F4, F5)の計11である。

これらのうち、ダシバドラフ本、H3, F1, F3, F4, F5は、つぎのようなジェブツンダンバ・

ホトクト3世の入寂の記事でおわっている。

「ご逝去のしらせをおききになり、[清の]皇帝陛下は“ああ、活仏はあまりにもわかくなく なられた”と大変おなげきになり、“今後、転生者は[チベットの]ウ・ツァン地方にあらわれる であろう”とおっしゃられたという」(TaGalal boluGsan−u medege sonoscu ayiladduGad boGda ejen

(8)

qaGan ber ay−a qutuGtu neng biciqan jangci qalaba kemen yekede nigUlUsUn ayiladcu odo−a qoyitu qubilGan ni |y−e Jang−du Garqu bui ja−a kemen jarliG baGulGaGsan kememUi. )(F4: 51 v.)

ジェブツンダンバ・ホトクト3世イシダンビーニャムが、15才で入寂したのは、1773年の ことである。

F3では、F4のjarliG baGulGaGsan kememUiのあとにつぎのような、ジェブツンダンバ・ホト クトの長寿、清皇帝の安寧、ひとびとの来世での幸福をいのる祈祷文がつづく。

Arban jUg−Un Gurban caG−un sayibar ajaraGsan ilaGuGsan bUgUde−Un mOn cinartu Sajin−u ejen getUlgegci Vacirdar−a boGda gegen mani altan Olmei olan on−du batudqu boltuGai. MangjuSiri boGda ejen−U altan yeke tOrO tUmen on−du amuGulang aju qotala qamuG amitan bUgUdeger−e engke mengdU jirGaqu boltuGai. EcUs qoyitu qoyar−i OndOr ijaGur−tur tOrOjU Ulesi Ugei nom−un rasiyan kUrtejU degedU oron−u Abida−yin gegen−e emUn−e UjeskUleng−yin badm−a lingqu−a ceceg metU delgerin jirGaqu boltuGai. Manggalam. (F3: 60 r.)

この祈祷文は、ダシバドラフ本およびフレルバータル本H3のテキストともきわめてちかい。

ダシバドラフ本では、写本の筆写者(ゲレン・ツェンド)がくわえた、みじかい第2の祈祷文 がこのあとにつづき、完結し(pp. 38−39)、H3の場合は、かきうつしたひづけ(トリの歳[1921 年]正月13日)の記載でおわっている(80 r.)。

F1も簡略化され、若干表現はことなるが、F3 やダシバドラフ本とほぼおなじ内容の祈祷文 でおわっている(73 v.)。

F5では、「ジェブツンダンバ・ホトクト3代の事績、清皇帝の恩寵について、いにしえの賢

人の伝記のごとくつづった書物をあらたにかきうつした功徳」(30 r.)として、同内容の祈祷文 がかかれている。

これらのコロフォンの記述は、この作品が、もともとは、ジェブツンダンバ・ホトクトの初 世、2世、3世の伝記として成立したことをしめしているとおもわれる。

このことは、ジェブツンダンバ・ホトクト3世の入寂につづく記述を有する諸写本の比較に よって、さらに明確になる。

H1は、ジェブツンダンバ・ホトクト3世の入寂の直前の部分までは、F4と一致するが、う えでひいたTaGalal boluGsan−u medege sonoscu(F4, 51 v.)のかわりに、Basa dOrbedUger gegen−ten−i

namtar anu(H1, 44 v.)ではじまる文章がおかれ、ジェブツンダンバ・ホトクト4世の伝記の記

述にうつる。ジェブツンダンバ・ホトクト4世(44 v.-47 r.)、5世(47 r.-49 v.)、6世(49 v.)、 7世(49 v.-50 v.)に関するエピソードをのべたあと、F3の末尾の祈祷文の変形(50 v.-51 r.)

がおかれて、全編が完結する。ジェブツンダンバ・ホトクト7世は、1849年にうまれ1868年 になくなっているので1868年までの時期があつかわれているということになる。

(9)

H4も基本的にジェブツンダンバ・ホトクト4世(53 v.-54 r.)、5世(54 r.-55 r.)、6世(55 r.-55 v.)、7世(55 v.-56 v.)の伝記をのべるが、H1とは内容がまったくことなり、より事実 に即した記述になっている。たとえば、H4は4世が39歳で五台山で入寂したことをのべるが、

H1にはその記述がない。なお、このH4でも末尾に上記の祈祷文がおかれている。

ボーデンが底本としてもちいた写本Aの場合、ジェブツンダンバ・ホトクト3世の死去の記 事のあと、4世から7世の生年と即位年、清の歴代皇帝の即位年と在位の期間をのべてから、

エルデニゾー寺の重要性を強調し、最後に祈祷文をおいている(46 r.-48 v.)。

H2では、ジェブツンダンバ・ホトクト3世の入寂の記述のあと、F4の祈祷文がおかれ、そ のあとKeyid−Un kOsiy−e cilaGun−u bicig gereltU kOsiy−e temdeg gen−e(寺院の碑文は寺碑という)

という文章がつづく。このあとの部分は、すべてアマルバヤスガラント寺院に関する記述にな っており、ジェブツンダンバ・ホトクト4世、5世の伝記の体裁はとっていない。年代として は、道光12年(1832年)がもっともあたらしい(56 r.)。

うえで検討した4写本のうち、H1, H4, ボーデン本はいずれもジェブツンダンバ・ホトクト

4世から7世までのみじかい伝記をふくむが、それらは相互に完全にことなるテキストであり、

関連性はみとめられない。のこりのH2の場合、ジェブツンダンバ・ホトクト4世以降の伝記 には関心がはらわれていない。

あきらかに、4世以降の時期をもあつかった諸写本は、それぞれ内容がおおはばにことなり、

各写本がいわば、個性をもっている。ボーデン本は、たまたま1859 年で記述がおわっている のにすぎない。したがって、「はじめに」で言及した岡田英弘(1985年)や『内蒙古通史纲要』

(2006年)にみられる「1859年成立説」は、ボーデン本についてのみいえるのであって、モ ンゴル語版『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』全体にあてはまるものではない。

ボーデンが底本としてもちいた写本Aは、全体的によい写本だが、他の写本とくらべて、あ やまりがないわけではない。たとえば、ジェブツンダンバ・ホトクト3世の入寂の部分、すな わち伝記の最後の部分は、ボーデン本のみ、ことなった構成になっている。すなわち、H2, H3,

H4, F1, F3, F4, F5, ダシバドラフ本では、①アルシャーのジャルサライ活仏の「ジェブツンダン

バがチベットに転生」の発言、②熱河でえがかせた3世の肖像画を清皇帝がジェブツンダンバ の弟子たちに下賜、③皇帝の慨嘆と「チベットのウ・ツァン地方に転生」の予言の順番で記述 されているのに対し、ボーデン本のみ①皇帝の慨嘆と「チベットのウ・ツァン地方に転生」の 予言、②熱河でえがかせた3世の肖像画を清皇帝がジェブツンダンバの弟子たちに下賜、③ア ルシャーのジャラサライ活仏の「ジェブツンダンバがチベットに転生」の発言の順番になって いる。この場合、ボーデンの出版した写本Aが不正確と判断するほかはない。

A本を特別視することなく、かつボーデンの研究を基礎にしつつ、今後、あらためて校訂の

(10)

作業をおこなう必要があるとおもわれる。

本稿であつかっている『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』は本来、第1世、第2世、第3世 の伝記と祈祷文から構成されていたとおもわれる。このようなかたちで本作品が成立した時期 については、記載がないので、はっきりはわからない。ここで、ひとつのてがかりになるのは、

4世(1775-1813)に言及したつぎの記述である。

「第2世の霊塔をダンバダルジャー寺院にたてたあと、そこでは天然痘(baraGan ceceg)が でなかったので、3世と4世を、イフフレーで天然痘(ceceg)が発生したときはダンバダルジ ャー寺院にうつしもうしあげたことがあるという」(QoyaduGar dUri−yin Saril suburGan−i Dambadarjiy−a keyid−tU jalaGsan−aca qoyisi tengde yerU baraGan ceceg yabudaG Ugei kemen GurbaduGar dOrbedUger gegen−ten−i Yeke KUriyen−dUr ceceg Garqui−du Damabadarjiy−a keyid deger−e jalaju bayiGsan udaG−a bui kememUi. )(F4, 39 r. −39 v.)30)

チベットのラサでうまれた4世(1775~1813年)は1781年にハルハにむかえられたとされ るので31)、もし上記の記述が正確であれば、伝記は1781年よりあとに編纂されたことになる。

本作品は、4 世の時代にかかれたとかんがえるのが、一応自然だが、もうすこしあとに成立し た可能性も完全には排除されない。

3.『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の性格

祈願文をのぞいた『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』のプロトタイプは、以下のような構成 だったとおもわれる(写本H3の丁数でしめす)。

a. アブタイ・ハーンによる仏教導入

① ダライ・ラマの指導によるアルタン・ハーンの仏教帰依(1 r.-2 r.)

② アブタイ・ハーンとダライ・ラマの会見(2 r.-3 r.)

③ エルデニゾー寺の建立(1586年)と落慶法要(3 r.-3 v.)

④ アブタイ・ハーンのチベットへの旅行とダライ・ラマとの会見(3 v.-7v.)

⑤ ダライ・ラマのハルハへの出現(7 v.-9 r.)

b. ジェブツンダンバ・ホトクト1世の伝記

① トゥシェート・ハーン・ゴンボドルジのもとへのセツェン・ハーンの訪問、王子の誕生(1635 年)(9 r.-12 v.)

② 優婆塞戒をうけザナバザルという法名を獲得(1638年)(12 v.-13 r.)

③ シレートノールで沙弥戒をうけロブサンダンビージャンツァンの僧名を獲得(1639年)(13 r.-13 v.)

④ チベットを訪問し(1649年)、パンチェン・ラマから具足戒をうけ、ダライ・ラマからジ

(11)

ェブツンダンバ・ホトクトの称号をさずかり(1650年)、先代[ターラナータ]の建立した[チ ョナン派の]寺院で経や仏像を発見(13 v.-14 r.)

⑤ 帰国し、清朝への服属を決定(14 r.-15 r.)

⑥ 2度めのチベット訪問(1655年)とパンチェン・ラマの蘇生と灌頂(15 r.-18 v.)

⑦ チベットからモンゴルへの帰国(18 v.-20 v.)

⑧ 康熙帝のもとで北京滞在中にしめしたかずかずの奇跡(20 v.-33 v.)

⑨ ハルハへの帰国(33 v.-35 r.)

⑩ (2世の父)ダルハン親王の誕生(35 r.-36 r.)

⑪ イフフレーのさまざまな儀礼やしきたりの由来(36 r.-44 r.)

⑫ 北京における入寂(44 r.-45 r.)

c. ジェブツンダンバ・ホトクト2世の伝記

①ダルハン親王の子として誕生(1724年)(45 r.-46 v.)

②雍正帝による活仏の認定(46 v.-48 r.)

③サーダグ・トルゴイでの活仏として即位、1730年の種痘、14歳で北京を訪問し皇帝に会見

(48 r.-51 v.)

④2度めの北京訪問(51 v.-52 r.)

⑤イフフレーにおけるさまざまな奇跡と顕教学堂、密教学堂の創設(52 r.-63 r.)

⑥ダルハン親王の死と2世活仏の入寂(63 r.-66 v)

d. ジェブツンダンバ・ホトクト3世の伝記

①チベットのリタン地方で3世が誕生(1758年)(66 v.-70 r.)

②フフノール、ドローンノールをへて北京に到着し乾隆帝に謁見(70 r.-72 v.)

③ジャンジャー・ホトクトから戒をさずかりイシダンビーニャムの法名を獲得、癸未のとし

(1763年)の即位(72 v.-73 v.)

④イフフレーでのできごと(73 v.-77 r.)

⑤発病と入寂(77 r.-78 r.)

⑥乾隆帝の慨嘆とチベットのウ・ツァン地方に転生の予言(78 r.-79 r.)

この作品のなかに明記されている年代は、上記の要約にしめした 11 がすべてである。本作 品の編者は、具体的な年代の記録にはあまり関心がなかったことがわかる。すなわち編年的に 伝記をかこうという意図はほとんどなかったと判断しうる。

初代ジェプツンダンバ・ホトクトの伝記としてもっとも信頼できるのは、いうまでもなくザ ヤ・パンディタ・ロブサンペレンレーがチベット語であらわした小伝である。この伝記は、事

(12)

実をありのままに記録するという姿勢でつらぬかれており、基本的に直接見聞した情報のみを つたえている。そのことは自身の20 年ちかいチベット留学の期間については、記述を欠くこ とからも確認される。

ロブサンペレンレー著の伝記によれば、エルデニゾー寺院あるいはその周辺で、すくなくと も3度の会盟がおこなわれている。すなわち1653年の[ハルハ左翼]4ホショーの会盟、1657 年、1681年の左翼4ホショーの会盟である32)。当時のハルハはトゥシェート・ハーン、セツェ ン・ハーンを中心とする左翼とザサクト・ハーンを中心とする右翼にわかれていた。トゥシェ ート・ハーン家の王子としてうまれた初代ジェプツンダンバ・ホトクトは、当然のことながら ハルハ左翼とつよいむすびつきを有していた。

他方、本稿で検討しているモンゴル語版の『ジェプツンダンバ・ホトクト伝』には、これら の会盟に関する記述は一切ない。それどころかフレン・ベルチルでのハルハとズーンガルの会 談への参席(1686年)、ガルダン・ハーン軍の攻撃(1688年)によるハルハ人の敗北と避難、

ドローンノールでの康熙帝との会見(1691年)など、ジェプツンダンバ・ホトクトのきわめて 重要な政治的活動や行動に本伝記の著者はまったく興味をしめしていない。著者が関心をしめ しているのは、活仏のおこした奇跡、イフフレーでのさまざまな仏教儀礼の由来、土着のかみ がみが仏教に帰依するにいたった状況などである。

作品の冒頭部分は多少とも編年的記述の要素がみてとれるが、ジェプツンダンバ・ホトクト 1世の2度めのチベット旅行の記述あたりから、説話的になり、北京での生活以降は、由来伝 説の集成のかたちをとっている。このように、この作品はさまざまな性格の情報をふくんでお り、ひとつのジャンルでくくることは困難だ。おそらくは編纂の過程で、複数の種類の資料が つかわれたことも、このような作品になった要因のひとつと推定される。

この作品を、伝記のかたちをとった説話集としてみたばあい、その主要なモチーフは、仏教 による土着の信仰の排除と仏教体系へのとりこみである。すなわち超能力者たる活仏がシャマ ンを退治し、山神、地神を支配するモチーフが全編をつらぬいていることに注目すべきであろ う。

このモチーフは、実は作品の冒頭から登場する。すなわち、トゥメドのアルタン・ハーンが ダライ・ラマ3世ソナムギャンツォの指示で、すべてのオンゴド(シャマニズムの儀礼でもち いる精霊をかたどった人形)をもやし、ダライ・ラマみずからアルタン・ハーンの強力なオン ゴドをもやしたことが、伝記の最初の部分でのべられている(H3: 1 r.-2 r.)33)

さらに、そのすこしあとのアブタイ・ハーンのチベット旅行の部分では、ショーハイイン・

ハル・トルゴイという地でハーンと兵士らが大声でさけび3本づつ矢をはなつと、山神(Gajar−un ejed)が、きずをおいダライ・ラマのたすけをもとめたこと、ダライ・ラマは今後殺生をしな

(13)

いようにとちかわせ、山神に優婆塞戒をさずけたことが記録されている(H3: 4 v.-5 v.)。 シャマンの敗北は、ジェプツンダンバ・ホトクト2世の伝記の部分でもえがかれている。托 鉢僧(バダルチ)が、祈祷により、はるかとおくにいる活仏の指示をあおぎつつシャマンの病 気をなおしたことがつぎのように記述されている。「あるかねもちが、オンゴドの害(ongGod−un

qoorlal)34)によりひどいやまいになった。フレーからきた托鉢僧のうわさをきき、よびにきた。

前回と同様にフレーにいる活仏さまにおいのりして、いくべきかどうか、うかがいをたてると、

やはり前回のように、みみもとで“いきなさい。そのいえの祭壇(qoyimar)にオンゴドがまつ られている(ongGod−un sakiGusu bui)。それをそとにすて、よるねるときに、しきものを何重に もしき、よこになったときに、てにふれたものがあれば、しっかりとにぎりしめ、しきものの したにいれなさい”とささやいた。そのとおりにすると、よくあさ、ひとりのシャマン(bO−ee)

が大勢にかつがれてやってきて、“お坊さま、おたすけください。しにそうです。あなたさまを のろうことはいたしません(qara sanaqu−i bayisuGai)”といってちかい、たくさんのおくりもの をして、懇願した。例のしきもののしたのものをみてみると、びっこの人形だったので、その てあしをひっぱると、シャマンはもとどおりに回復し、おおいに寄進し跪拝した。托鉢僧がフ レーにもどると、活仏は“これからは、とおくの地をえらそうにうろつくのはやめなさい。お まえがこまっておいのりをしたので、いそいで地神(delekei−yin ejen)から一頭のシカをかり、

それにのっていったのだ”とおっしゃった」(H3: 57 r.-58 v.)35)

うえの部分でもオンゴドを処分することが、シャマンの影響力をよわめるために僧侶がおこ なうべき重要な行為としてえがかれている。この説話につづいて、写本H4は、ジェプツンダ ンバ・ホトクト 2 世の時代におけるシャマンの復活について、他のテキストにはみられない、

貴重な説明をつけくわえている。「この活仏さまが、ちいさいころからヨーガ行者(yogacaris) のおこないをされていたのは、オイラトとモンゴルのあらそいのために(+geled MongGol−un ataG−a temecel−Un ursiG−iyar)、フレーの地では、シャマンののろいによる不浄(bO−e uduGan−u qariyal−un bujar)が蔓延していたので、あらあらしいヨーガ行者のすがたで、それをとりのぞ く必要があったためである」(H4: 41 r.−41 v.)

これは、当時のハルハとズーンガルの戦争のなかでの社会不安をよく反映していて興味ぶか い。またシャマンのちからをおさえる役割が活仏にもとめられていたことの証左にもなってい る。

2世のヨーガ行者ぶりをしめすもうひとつのエピソードは、疱瘡神を調伏したはなしである。

「またあるとき、フレーの僧侶のあいだで、天然痘(baraGan ceceg)36)がひろがり、僧侶たち がなくなった(qoroGdaGsan)37)。活仏さまは、憤怒のさま(kiling dUri)をおしめしになり、す ぐに武器をもったおおくのものをしたがえて、おでましになり、“くろいまだらのラクダ(qara

(14)

qaljan temege)38)にのったものをみかけたら、その場で矢をいなさい。銃でうちなさい39)”と命 じた。そのあと、みずから山でみつけ、おいかけてつかまえ、[ダンバダルジャー]寺院とフレ ーのあいだで、“今後わたくしどもは40)、あなたさまのいらっしゃるところへちかづきません”

というちかいをさせ調伏し、うめ、そこにオボーをたてた。そのオボーはいまものこっている」

(F4: 39 r., 写本の写真参照)41)

うえのシャマンに関する引用では、活仏が眷属たる地神(delekei−yin ejen)のシカにのって 托鉢僧のところへ急行したことになっているが、1世の伝記には、山神自身が故郷に帰還した 活仏をむかえる、印象的な場面がある。すなわち北京で康熙帝の庇護のもとにあったジェブツ ンダンバ・ホトクト1世が、万里の長城をこえモンゴルの地にはいろうとするとき、トラ皮の はいだて(qormoGci)をつけトラ皮のはきものをはき、弓矢をもった武人のすがたで、北方の アルタイ、ハンガイ、ヘンティー、ブレンハン、ハンオール(ボグド山)の五山の神(Gajar−un

ejed)42)がシカにのってでむかえるのである43)。このうちのブレンハンは、そのふもとにアマル

バヤスガラント寺院がのちに建立され、1世の霊塔がたてられることになる。

ハルハにもどったジェブツンダンバ・ホトクト1世が宮中で、献香経の旋律をかんがえてい るときに、南方から白髪の老人があしをひきずりながら、てにヨーグルトいりのうつわをささ げつつ、ちかづいてきた。活仏はそれをみて、おめでたいとよろこび、そのことから想をえて、

旋律をつくったあと、「あれは地神(delekei−yin ejen)だった、吉祥があらわれた」といった44)。 あきらかにツァガーン・ウブグン(caGan ebUgen)と関連を有するとおもわれるこの老人神は

45)、ジェブツンダンバ・ホトクト3世の父親となるダンザンゴンボのゆめのなかにも「ながい 白髪の数珠とつえをてにした老人」としてあらわれ、活仏の誕生の予兆をしめす46)

うえで引用したように、シャマンや、武人のすがたの山神、老人のすがたの地神、ラクダに のった疱瘡神などがたいへん効果的に登場するのが、本作品の一大特色である。

『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』のプロトタイプは伝記、説話集、伝説集の要素をあわせ もっていたが、続編の部分でもこの特徴を保持している写本はH1であり、注目される。

おわりに

本稿では、あらたに刊行されたモンゴル語版『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』の諸テキス トと筆者自身の収集した諸写本の比較分析にもとづき、そのプロトタイプのすがたをあきらか にし、続編を有する写本の性格をも論じた。テキストの原型に関する本稿の結論は、今後、同 作品の多数の写本を整理、記述するうえで有益とかんがえられる。

本作品のプロトタイプが、説話集、伝説集の性格を有すること、とくにシャマンが僧侶に敗

(15)

北し土着の山神が仏教にとりこまれたプロセスをえがこうという意図が作者にあったことが、

ある程度しめしえたとかんがえる。本伝記が、モンゴルの仏教のシンクレティズム的側面に注 目する際に興味ぶかい事例を提供しうることは、いうまでもない。

本稿ではとりあげなかったが、『ジェブツンダンバ・ホトクト伝』では、仏教の護法神のダイ ナミックな活動をえがくことにも重点がおかれている。この点は、本稿の結論を補強すること にもなるとおもわれる。

(付記)

本稿は、科学研究費補助金 基盤研究(A)「世界遺産エルデニゾー僧院に関する総合的研究─過去の復元か ら未来への保存へ─」(課題番号21242022、代表:松川節)の成果の一部である。

1) ザナバザルに対する評価の変遷については、カプロンスキの論考を参照。Kaplonski, Christopher 2004:146- 162.

ザナバザルの再評価のうえでひとつの転換点になった生誕360周年の行事については、拙稿(二木博史 1995) 参照。

2) パリのギメ東洋美術館、サンフランシスコのアジア美術館での展示については、以下のカタログを参照。

Musée national des Arts asiatiques - Guimet 1995. Berger, Patricia A. and Bartholomew, Terese T. 1995 3) Bawden, Charles R. 1961. 宮脇淳子1993.

4) Hürelbaabar, L. 2001.

5) Okada, Hidehiro 1985:232. 宮脇淳子論文も参照。宮脇淳子2005:14.

6) 郝维民,齐木德道尔吉主编 2006:458.

7) Heissig, Walther and Bawden, Charles R. 1971: 24-26.

8) Bawden, Charles R. 1961:3.

9) Ch.ナラントヤー、D.エンフトンガラグ編2011:45.

10) 中国社会科学院中国边疆史地研究中心1990:217-256.

11) Dashbadrah, D. 1995:1-2.

12) Bawden, Charles R. 1961:90. Dashbadrah, D. 1995:39. ただし、ボーデンは、筆写者のなまえCengde(?)をCangda とあやまってうつしている。

13) Dashbadrah, D. 1995: 2.

14) Ibid.:9-10.

15) Ibid.:20. 写本の欠落ではなく翻字のさいの疎漏であることは、脱落部分の一部がボーデンの研究書の註に引

用されていることから確認される。Bawden, Charles R. 1961: 63,74. おそらく、なんらかの理由から2丁分が 欠落した。

16) Tserensodnom, D. 2007:162-187.

17) Ibid.: 187. ダムディンスレン記念館に所蔵されているタイプ本にまったくおなじメモがのこされているこ

とから判断すると、この文献は実際は、言語文学研究所図書室ではなく、ダムディンスレン記念館の蔵書の ようだ。Bilgüüdei, G. 1998: 250, No. 919.

18) Hürelbaatar, L. 2009 :4-7.

19) Ibid.: 4-5.

20) Ibid.: 4.

21) KürelbaGatur, L. 2009:186.

22) Hürelbaatar, L. 2009: 6.

(16)

23) Ibid.

24) Sazykin, A. G. 1988:No. 586-590.

25) A21.23という分類に写本写真をふくめ、8点がおさめられている。Dumdadu Ulus-un erten-U mongGol nom bicig−Un yerUngkei GarcaG−un nayiraGulqu jOblel 1999:880-881.

26) Zaya bandid Luvsanprinlei 1995.

27) 金成修 2006:180-302.

28) Surhan Agvanluvsandondov 1993.

29) Dagvajantsan 1995.

30) ほかにF5: 22 v.,H3: 60 r., H4: 46 v., Dashbadrah, D. 1995:30など。F3は、GurbaduGar dOrbedUgerqoyaduGar,

Gurbadugarとしているが(45 r.)、あきらかに誤記である。

31) Byambaa, B. 2004:61.

32) 1653年の会盟についてビラ氏が4 aimagと訳しているのは(Zaya bandid Luvsanprinlei 1995:10)、不適切とお もわれる。

33) 僧侶によるオンゴドの焼却は、ネイチ・トイン伝の記述がよくしられている。Heissig, Walther 1992:122-124.

34) H2ではongGod−un gem (40 r.)。

35) A: 33 v.-34 r., H1: 33 r.-33 v., H2: 40 r.-40 v., H4: 40 v.-41 r., F1: 53 v.-55 r., F2: 30 r.-30 v., F3: 42 v-44 r., F4: 37 r.-38 r., F5: 21 r.-22 r.

36) H1では、qara ceceg (34 r.)。

37) ダシバドラフは、horogdsond とすべきところをhuragdsandとあやまっている(Dashbadrah, D. 1995: 29) 38) H1では、qara qaliGun temege (34 v.)

39) H2では、「銃でうち、かたなできり、矢でいなさい」(41 r.-41 v.)

40) F5では、「わたくし」となっている(22 v.)

41) A: 34 v.-35r, H1: 34 r.-34 v., H2: 41 r.-41 v., H3: 59 v.-60 r., H4: 44 r., F1: 56 r.-56 v., F2: 31 r.-31 v., F3: 45 v., F5: 22 v.

42) H2のみGajar delekei−yin ejed。H1, H4, F1, F2, F5Gajar−un ejedの語を欠くかわりに「いろいろなけものを つれてきた」「いろいろなけものにのってきた」という表現をともなう。

43) A: 20 r.-20 v., H1: 20 v.-21 r., H2: 26 v.-27 r., H3: 34 r.-35 r., H4: 28 r.-28 v., F1: 33 r.-33 v., F2: 17 r.-17 v., F3: 25 r.-25 v., F4: 22 r.-22 v., F5: 12 v.-13 r. H1はヘンティーを欠く。F1はハンガイを欠く。

44) H1: 25r., H4: 30 v. なおH2: 31 v., H3: 42 r.では単数形(delekei−yin ejen)ではなく複数形(delekei−yin ejed)に なっている。

45) ツァガーン・ウブグンについては、拙稿(二木博史 1997)参照。

46) H3: 68 v.

(17)

写本F4: 39 r.

(18)

. .

. .

参考文献

F1: =roi−yin degedU Vacirdar−a blam−a−yin kedU kedUn dUri−U namtar. Ms. 74 ff.

F2:(タイトル欠)Ms. 32 ff.

F3: Jibjundamba Daranata−yin gegenten−U ekin−U dUri−yin namtar. Ms. 60 ff.

F4: BoGda Jibjundamba−yin namtar orosiba. Ms. 51 ff.

F5:(タイトル欠)Ms. 25 ff.

Bawden, Charles R. 1961

The Jebtsundamba Khutukhtus of Urga, Text, Translation and Notes, Wiesbaden.

Berger, Patricia A. and Bartholomew, Terese T. 1995

Mongolia: the Legacy of Chinggis Khan, Asian Art Museum of San Francisco.

Bilgüüdei, G. 1998

Ts. Damdinsürengiin ger muzein mongol nomyn bürtgel, Vol. 1, Ulaanbaatar.

Byambaa, B. 2004

Mongolchuudyn tövd heleer tuurvisan mongol helend orchuulsan nom zuin bürtgel, Vol. 1, Ulaanbaatar.

Byambaa, R. 2004-2006

Collected Biographies of Jebzundampa Khutukhts of Khalkh, 2 vols. Ulaanbaatar.

Dagvajantsan 1995

Tiin udirdagch Jivzundamba ih erdeniin namtar magtaalyn üg sain huvitny süsgiig sergeegch orshivoi, Ulaanbaatar.

Dashbadrah, D. 1995

Öndör gegeenii namtar, Ulaanbaatar.

Dumdadu Ulus−un erten−U mongGol nom bicig−Un yerUngkei GarcaG−un nayiraGulqu jOblel 1999 Dumdadu Ulus-un erten-U mongGol nom bicig−Un yerUngkei GarcaG, Beijing.

Heissig, Walther 1992

“The Lamaist Suppression of Shamanism,” Schamanen und Geisterbeschwörer in der östlichen Mongolei, Wiesbaden.

Heissig, Walther and Bawden, Charles R. 1971

Catalogue of Mongol Books, Manuscripts and Xylographs, Copenhagen.

Hürelbaabar, L. 2001 I Bogd, Ulaanbaatar.

Hürelbaatar, L. 2009

“Öndör gegeen Zanabazaryn namtryn sudalgaa,” Quaestiones Mongolorum Disputatae, No. 5.

Kämpfe, Hans-Rainer 1979-1981

“Sayin qubitan-u süsüg-ün terge, Biographie des 1. rJe−bcun dam-pa Qutuqtu +ndUr gegen (16351723), verfaßt von Nag gi dban po 1839,” Zentralasiatische Studien, 13, 15.

Kaplonski, Christopher 2004

Truth, History and Politics in Mongolia: the Memory of Heroes, London.

KürelbaGatur, L. 2009

Öndör gegen-ü namtar, KOkeqota.

Lokesh Chandra (ed.) 1981

Collected Works of Jaya-PannΩita Blo-bzan-∆phrin-las, Volume 4, New Delhi.

Lokesh Chandra (ed.) 1982

Life and Works of Jibcundampa 1, New Delhi.

Musée national des Arts asiatiques – Guimet 1993 Trésors de Mongolie: XVIIe-XIXe siècles, Paris.

Okada, Hidehiro 1985

“Five Tibeto-Mongolian Sources on the Rje btsun dam pa QutuGtus of Urga,” Bulletin of the Institute of China Border Area Studies, No. 16.

(19)

. .

. .

参考文献

F1: =roi−yin degedU Vacirdar−a blam−a−yin kedU kedUn dUri−U namtar. Ms. 74 ff.

F2:(タイトル欠)Ms. 32 ff.

F3: Jibjundamba Daranata−yin gegenten−U ekin−U dUri−yin namtar. Ms. 60 ff.

F4: BoGda Jibjundamba−yin namtar orosiba. Ms. 51 ff.

F5:(タイトル欠)Ms. 25 ff.

Bawden, Charles R. 1961

The Jebtsundamba Khutukhtus of Urga, Text, Translation and Notes, Wiesbaden.

Berger, Patricia A. and Bartholomew, Terese T. 1995

Mongolia: the Legacy of Chinggis Khan, Asian Art Museum of San Francisco.

Bilgüüdei, G. 1998

Ts. Damdinsürengiin ger muzein mongol nomyn bürtgel, Vol. 1, Ulaanbaatar.

Byambaa, B. 2004

Mongolchuudyn tövd heleer tuurvisan mongol helend orchuulsan nom zuin bürtgel, Vol. 1, Ulaanbaatar.

Byambaa, R. 2004-2006

Collected Biographies of Jebzundampa Khutukhts of Khalkh, 2 vols. Ulaanbaatar.

Dagvajantsan 1995

Tiin udirdagch Jivzundamba ih erdeniin namtar magtaalyn üg sain huvitny süsgiig sergeegch orshivoi, Ulaanbaatar.

Dashbadrah, D. 1995

Öndör gegeenii namtar, Ulaanbaatar.

Dumdadu Ulus−un erten−U mongGol nom bicig−Un yerUngkei GarcaG−un nayiraGulqu jOblel 1999 Dumdadu Ulus-un erten-U mongGol nom bicig−Un yerUngkei GarcaG, Beijing.

Heissig, Walther 1992

“The Lamaist Suppression of Shamanism,” Schamanen und Geisterbeschwörer in der östlichen Mongolei, Wiesbaden.

Heissig, Walther and Bawden, Charles R. 1971

Catalogue of Mongol Books, Manuscripts and Xylographs, Copenhagen.

Hürelbaabar, L. 2001 I Bogd, Ulaanbaatar.

Hürelbaatar, L. 2009

“Öndör gegeen Zanabazaryn namtryn sudalgaa,” Quaestiones Mongolorum Disputatae, No. 5.

Kämpfe, Hans-Rainer 1979-1981

“Sayin qubitan-u süsüg-ün terge, Biographie des 1. rJe−bcun dam-pa Qutuqtu +ndUr gegen (16351723), verfaßt von Nag gi dban po 1839,” Zentralasiatische Studien, 13, 15.

Kaplonski, Christopher 2004

Truth, History and Politics in Mongolia: the Memory of Heroes, London.

KürelbaGatur, L. 2009

Öndör gegen-ü namtar, KOkeqota.

Lokesh Chandra (ed.) 1981

Collected Works of Jaya-PannΩita Blo-bzan-∆phrin-las, Volume 4, New Delhi.

Lokesh Chandra (ed.) 1982

Life and Works of Jibcundampa 1, New Delhi.

Musée national des Arts asiatiques – Guimet 1993 Trésors de Mongolie: XVIIe-XIXe siècles, Paris.

Okada, Hidehiro 1985

“Five Tibeto-Mongolian Sources on the Rje btsun dam pa QutuGtus of Urga,” Bulletin of the Institute of China Border Area Studies, No. 16.

(20)

Sazykin, A. G. 1988

Katalog mongol’skikh rukopisej i ksilografov Instituta Vostokovedeniia Akademii Nauk SSSR, Vol. 1, Moskva.

Surhan Agvanluvsandondov 1993

Mongolyn soyolyn tüühet dursgaluud, haad, bogd naryn namtar, Ulaanbaatar.

Tserensodnom, D. 2007

Mongolyn burhany shashny uran zohiol, Ulaanbaatar.

Zaya bandid Luvsanprinlei 1995

Jivzundamba Luvsanchoijijaltsanbogiin yördiin tovch namtar, Ulaanbaatar.

Ch.ナラントヤー、D.エンフトンガラグ編 2011

『モンゴル国立図書館所蔵モンゴル語マニュスクリプト目録』(早稲田大学モンゴル研究所紀要 別冊).

二木博史1995

「ザナバザル研究国際会議について」『日本モンゴル学会紀要』26号.

二木博史1997

「メルゲン=ゲゲーン作のツァガーン=ウブグン献香経について」『日本モンゴル学会紀要』28号.

宮脇淳子1993

「ジェブツンダンバ一世伝説の成立――十七世紀ハルハ・モンゴルの清朝帰属に関連して――」『東洋学報』

743・4号.

宮脇淳子2005

「17-19世紀モンゴル史料の分析――年代記と文書」『史資料ハブ 地域文化研究』5号.

郝维民,齐木德道尔吉主编 2006

『内蒙古通史纲要』人民出版社.

金成修 2006

『明清之际藏传佛教在蒙古地区的传播』社会科学文献出版社.

中国社会科学院中国边疆史地研究中心 1990

『清代蒙古高僧传译辑』全国图书馆文献缩微中心.

(21)

On the Biography of the Jebtsundamba khutugtus written in Mongolian

FUTAKI Hiroshi

A manuscript published in 1961 by Charles Bawden has been considered as the most comprehensive text of the Mongolian biography of the Jebtsundamba khutugtus of Khalka.

According to the manuscript, the biography was written in 1859.

In this article the author intended to reconstruct the original version of the biography and analyze the characteristics of the text, using four manuscripts published by Prof. L. Hürelbaatar in 2009 and five manuscripts at his disposal.

By comparison of these manuscripts, it became clear that the original text was composed of the biographies of the First, Second and Third Jeptsundamba khutugtus. Manuscript A, of which photocopy Karl Grønbech took in Kökeqota of Inner Mongolia and presented to the Royal Library of Denmark is actually one of several texts which have an additional description of the following incarnations. Therefore this manuscript should not be treated as most comprehensive or reliable.

The original version of the text was not a typical biography, but a collection of legends. By compiling these legends into a biography, the author tried to show how Buddhist incarnations had purged shamans and incorporated local deities into the Buddhist pantheon.

参照

関連したドキュメント

これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

編﹁新しき命﹂の最後の一節である︒この作品は弥生子が次男︵茂吉

注1) 本は再版にあたって新たに写本を参照してはいないが、

ASTM E2500-07 ISPE は、2005 年初頭、FDA から奨励され、設備や施設が意図された使用に適しているこ

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場