J・S・ミレ
ノt消極的自由 の社会主義観︵こ
︵一四︶︑自由論︵一九︶1
大 谷 恵教
J・S・ミルは︑その当時のイギリスの社会に満足していなかった︒たとえば︑かれの﹃経済学原理﹄の第二篇第
一章の﹁所有について﹂において︑所有制度1あるいは私有財産制度1について歴史的に簡潔に考察し︑﹁富の分
配は︑社会の法律と慣習とによって宿るわけである︒富の分配を規定する規則は︑その社会の支配層の意見と感情の
ままに形成されるものである︒そしてそれは時代を異にし︑国を異にするにしたがって大いに異なり︑また人間が欲 ︵1︶するならば︑なおそれ以上に異なったものになりうるものである﹂︑﹁社会は自ら最良と考える規則を選び︑富の分配 ︵2︶をそれに従わさぜることができる﹂と述べて︑所有制度は時代と国によって変りうるものであり︑またそれは社会が
選びうるものであることを指摘すると同時に︑ ﹁今日のような時代一今日はあらゆる根本原理をもう一度一般的に
考え直してみることが避けることのでぎない仕事と考えられており︑また受難者となっている社会層が討論の仲間に
加わって発言することが歴史上今までのどの時期よりも多い時代であるが︑このような時代iには︑右のような思
想が広く広く伝播せざるをえないのである︒しかも最近ヨーロッパにおこった革命は︑この種の思索を大いに誘発す
ることになり︑したがって種々様々な形で現われたこれらの思想に対しても︑異常に大きな注意が向けられることと
早稲田社会科学研究 第35号(S62.10)
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なったのである︒そしてこの注意はなかなか弱くなりそうにもなく︑かえって反対にますます強くなりつつあるもの ︵3︶のようであるしと論じて︑ミルの時代のイギリス社会における変化とフランス革命の影響の大なることを指摘して︑
私有財産の原理に反対か異論を唱える共産主義と社会主義に言及している︒
また︑ミルの遺稿である﹃社会主義論﹄においては︑前々回ならびに前回の拙稿のなかで指摘したように︑ミルの
当時のイギリスの労働階級や選挙法改正をはじめとする社会の諸変化にふれて︑ ﹁自分自身の財産というものをほと
んどもたず︑ただそれが一個の公益であるかぎりにおいてのみこの制度︵所有制度一筆者註︶に関心をもつ階級が
議論に参加してくるとぎには︑かれらはなにごとをも正当なこととして許してはおかないであろう︑一1なかでも私
有財産制度の原則は確かに許さない︒そしてその正当性と有用性とは︑労働階級の立場から見る論者の多数によって
否定される︒これらの階級は必ず次のことを要求するであろう︒すなわち︑この問題はそのすべての部分にわたって
根本から考え直されなけれぽならない︒この制度なしでやっていこうとするすべての提案︑および労働階級の利益に
役立つように見えるこのあらゆる様式の諸制度の修正は︑この問題は現在のままであるべきであると決定される前 ︵4︶に︑充分な考察と議論とを受けるであろう︑﹂と述べて︑所有制度の見直しが必至であることを断じると同時に︑当
時のイギリスの社会組織では防止しえない害悪として貧困と人間的非行を挙げ︑それらは︑H多数の人びとにおける
貧困とそれに伴う誘惑︑口是非とも働かなくてはならない情況にない少数の人びとにおける怠惰と無為︑日日と口に ︵5︶おける悪い教育または教育の欠如の三つの原因の一つに帰着させることができると説いて︑これらの三つの原因はい
ずれも社会組織の欠陥から生じるものとみなしている︒このような観点から︑ ﹃自由論﹄にみられるようなミルの一
貫した思想的立場の上に立って︑ミルは共産主義と社会主義に言及するのである︒
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J・S・ミルの社会主義観(一)
ところで︑ミルの社会主義に対する立場に関してはいろいろといわれており︑これを断定するにはなかなか難しい
問題が種々ある︒かれの社会主義に関する見解は︑主として﹃経済学原理﹄︵一八四八︑四九︑五二︑五七︑六二︑六五︑
七一年と七版を重ね︑各面︑とくに第三版において大分書き改められている︶︑﹃自伝﹄︵一八七三年︶︑およびかれの死後養女
ヘレン・テイラーの手によって﹃フォートナイト・リビュー﹄誌に発表された未完の遺稿﹃社会主義論﹄︵一八七九年︶
において述べられている︒このうち﹃経済学原理﹄は︑前記カッコ内の筆者註が示すように七版を重ね︑しかも各版
において改訂され︑とくに第三版においては大幅に修正されていて︑初版における見解︵共産主義に対する批判がか
なり強い︶と第三版におけるそれとの比較検討は重要なものとされている︒また﹃社会主義論﹄になると︑未完の稿
であるので検討すべき問題がいろいろ残されているが︑共産主義に対する批判が再び強まっている︒
このように︑ミル自身において共産主義や社会主義に対する考え方の変遷が見られるのであるが︑一体かれは共産
主義と社会主義に対してどのような考えをもっていたのであろうか︒また︑それをどのように解釈したらよいのであ
ろうか︒ ミルは︑共産主義と社会主義に関して︑ ﹃経済学原理﹄のなかで一応区別している︒かれによれば︑ 〃共産主義
とは︑ ﹁私有財産の原理を攻撃し︑⁝⁝︵中略︶⁝⁝生存および享楽の物的手段の分配を絶対平等にしょうという主
︵6︶義﹂であって︑これに属する人としてミルはオーウェン︑ルイ・ブラン︑カベーらを挙げていて︑マルクスの名は出
てこない︒ミルがマルクスを知っていたかどうかという問題についても少々論議のあるところではあるが︑しかし当
時マルクスはロソドソにおいてブリティッシューミューゼアム等で研究中であり︑またその著書もイギリスにおいて
は左程知られておらず︑またイギリスにおいてはマルクスから社会的影響力をほとんど受けていなかったことを思え
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ば︑ミルがマルクスの名を出さなかったことは決して驚くに値しないであろう︒
〃社会主義に関しては︑ミルは︑私有財産の原理は攻撃するが︑しかし分配に関しては﹁不平等を認めるけれど
も︑その不平等は正義あるいは一般的便宜にもとずくところの︑ないしはこのような原理と思われるものにもとずく
ところの不平等でなければならないとし︑現存の社会的不平等の多くのもののように偶然のみにもとずく不平等はこ ︵7︶れを認めない﹂主義であるとしているが︑しかし〃共産主義という言葉は﹁はじめヨー戸ッパに発生し︑わが国に
はいってきたものである﹂が︑﹁〃社会主義という言葉は︑はじめイギリスの共産主義者たちの間でつくられ︑もっ
と広い意味に︑すなわち必ずしも共産主義あるいは私有財産制の全廃を唱えないで︑広く土地と生産要具とを個人の ︵8︶所有とせず︑社会または集団ないしは政府の所有とすべしと要求する主義に対して使われている﹂と述べて︑かれら
の時代には共産主義と社会主義との区別は現在ほど明確なものではなくて︑大体同じ意味に使われていたことを指摘
していると同時に︑以上のように一応両者を区別していて︑社会主義の系列にはサン・シモン主義者とフーリエ主義
者などが属するといっている︒
それでは︑まず共産主義に対して︑ミルはどのような立場をとっていたのであろうか︒
ミルは︑まず﹃経済学原理﹄の初版において︑6労働意欲の極度の減退︵﹁結局は︑すべての人からなされうる以
上の仕事は︑いかなる人によってもほとんどなされないであろう︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝産業的義務の水準は︑それゆえ︑ ︵9︶極度に低く固定されるのである﹂︶︑口競争の制度とは違って︑異質の職業聞の労働の公正な配分が不可能で︑不平等
なこと︵﹁この計画の理論に予期されている完全な平等は実際には達成されえないであろうということが︑さらに考
察されなければならない︒生産物は平等に配分されるかもしれないが︑しかし労働はどのようにして平等に配分され
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J・S・ミルの社会主義観(一)
うるであろうか? ⁝⁝︵中略︶⁝⁝結局︑労働の名目上の平等は実質的には非常に大ぎな不平等となり︑それゆえ
それが強制されることに対して正義が反抗するであろう︒すべての人びとがあらゆる労働に等しく適しているとは限 ︵10︶らないのである﹂︶︑日個人の自由が著しく制限されること︵﹁結社が︑その経営機関を通じて︑労働時間の闇︑その
メンバーの各人に対して絶対的な権力をもっているということ︑およびいかなる人もかれが働く仕事やかれが仕事を ︵11︶するときの仲間や仕事をする方法を選ぶことができないであろうということは︑この計画の本質的な事柄である﹂︶な ︵12︶どと︑手厳しく批判している︒
第三版になると︑右のような共産主義に対する厳しい批判も大幅に修正されて︑たとえば労働意欲に関してのよう
に︑ ﹁人類の公共心は︑現代の人びとが可能であると考えているよりも︑はるかに大きくなりうる︒歴史が証明して
いるように︑人間の大きな団体でも︑訓練の如何によっては︑公益を自分自身の利益と感じるようになりうるのであ ︵13︶る︒しかも︑このような感情の成長に適した土壌としては︑共産主義的結社に勝るものはないのである﹂となってい
る︒なお第四版においては︑ ﹁またわれわれは次のようなことも忘れてはならない︒すなわち︑一つの社会制度とし
ての共産主義は今日ただ観念上に存在するにすぎず︑今のところその能力よりもその困難のほうがはるかにわかって
おり︑また人聞の知能ぱ今ようやくこれを組織する方法の細目を構想し︑その一方を克服して︑他方から最大の利益 ︵14︶を引ぎ出そうとしはじめたばかりであるということ︑これである﹂という一見共産主義に好意的と思われるミルの言
葉がある︒
だが︑ ﹃社会主義論﹄にいたると︑共産主義に対して再び手厳しい批判が下されている︒すなわち︑ミルは︑オー
ウェンやルイ・ブランの所説をかなり詳細に紹介した後︑それらに強い批判を加えているのである︒その第一点は︑
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共産主義下においては経営者は企業心を喪失し︑事業はルーティン化し︑独立の行為は難しくなり︑経営者に適任者
をうることが困難になることを指摘して︑ミルは﹁共産主義になれぽ︑このような害悪の根源は一般になくなるであ
ろう︒だが︑そうなれば︑恐らく良い種類のものも悪い種類のものも凡そ企業心というものはなくなってしまって︑一
般の事業はただ杓子定規的なものに変じていくであろう︒そのような社会における義務の履行は外的制裁によって強
制されなけれぽならないので︑各人の義務が一定の規律に明確に決められてしまうほど︑かれにそれを守らせること
がますます容易になるのである︒このような結果が生じる公算をますます大にするのは︑経営者の独立の行為をする
力が制限されているという事情である︒勿論︑かれらはその権威を社会公衆の選挙からうるのであるから︑かれらの
職は社会公衆によっていつでも取り去られる可能性がある︒そのため︑かれらは︑その社会の憲法によって要求され
ていなくても︑事業を遂行する既定の様式になんらかの変化を加える場合︑予めその社会の一般的同意をうる必要が
ある︒多様な人びとを説得してかれらの行い慣れた活動様式に変更を加えることは困難であるために︑1このよう
な変化にはしぼしぼ故障が大きいし︑利益よりも危険のほうがかれらにとって明白に感じられるであろうからt今 ︵15︶まで歩み慣れた道を歩み続けていこうとする傾向が強いのであろう﹂︑﹁他面︑共産主義制度においては︑経営にもっ
とも適任な人びとがその任につくことを争うことが非常にしばしぽであろうといわなけれぽならない︒現在では︑経
営者は︑たとえ傭い人であっても︑その事業にたずさわる他の人よりもはるかに大きな報酬をもらっている︒そして
かれの経営者という地位を一つの踏み台としてさらに昇進できるような︑より高い社会的地位が︑かれの野心の前に
横たわっているのである︒共産主義制度においては︑これらのなに一つとしてかれはもたなくなるであろう︒かれは
社会の労働の生産物のなかから︑その社会の他のメンバーと同等の分前しかうることができなくなるであろう︒かれ
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J。S・ミルの社会主義観(一)
は︑もはや︑賃金所得者から資本家の階級へ出世する機会をもたなくなるであろう︒そしてかれは他の労働老よりも
決して裕福であることはできないのに︑かれの責任と心配とははるかに大きいので︑人類の多くの部分のものはもっ
と重苦しくない地位をえたいと思うほどである︒この難点はプラトンによって︑かれの﹃理想国﹄のなかに提案され
た支配階級の間での財貨共有制度に対する反対論として︑予見された︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝恐らく共産主義的経営は私 ︵16︶的経営よりも︑新しい道を切り拓き︑遠い定かでない利益のために当面の犠牲を払うことには不利であろう﹂︑﹁以上
のようなわけで︑一般民衆における動機に関するかぎりでは︑共産主義は私有制財産制度のもとでえられないような
長所をもつものでなく︑他方経営幹部については相当不利な点があるように思われる︒さらにそれは︑それに内在し
ているかのように見える若干の不利な点をもっている︒現制度においてはまずいながらも自然に解釈されていくよう ︵17︶な諸問題を︑この制度では多かれ少かれ恣意的に決定していかなければならないのである﹂などと述べている︒
第二点は︑共産主義体制下では︑異なる労働間の分配の平等化は著しく正義を損い︑かつ分業と協業を困難にして
生産を不利にするのみでなく︑物質的利益から排除された利己的野心は経営上の優位と勢力をめぐる争いを激烈なら
しめる恐れがあるということである︒ミルはこのことを指摘して︑ ﹁その仕事に従事するすべての人びとに平等の支
払いをすることは単純な原則であり︑ある面から見れば公正な原則である︒しかしその仕事もまた平等に分割される
のでなければ︑不完全な正義である︒現在︑あらゆる社会において要求される多くの様々な種類の労働は困難さと不
愉快さとにおいて非常に不平等である︒質と量とを等価ならしめるようにこれらの種類の労働を相互に比較すること
は非常に困難であるので︑共産主義者は一般に︑あらゆる人びとはすべての種類の労働を順繰りになすべきであると ︵18︶提案する︒だが︑そうすれば︑分業の経済的長所はほとんど犠牲にされてしまう﹂︑﹁職業の協働はその労働者の特殊
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な能力資格に幾分かの考慮を払って分配されることを可能にする︒そしてまた︑各労働者は一つの仕事のみに打ちこ
むので︑その仕事についてより多くの熟練と速度を身につける︒それゆえ︑公正な分配に不可欠とみなされる組織
は︑生産の点で恐らく非常に不利なものとなるであろう︒しかもその上︑各人から同量の労働を要求することは︑な
お非常に不完全な正義の標準である︒人びとは精神的にも肉体的にも不平等な能力をもっており︑ある人にとっては
容易な仕事も他の人にとっては背負いきれないほど重荷である︒したがって︑免除権者︑すなわち普通の量の仕事を
免除してやり︑ある程度まで能力に応じて仕事を割りふってやる権限をもつ一個の権力者があることが必要である︒
自ら働くよりも他人から働かされるほうが好きな怠け者や我儘者がいるかぎり︑好意や詐欺により免除をえようとす
る試みが頻繁に企てられるであろう︒しかも︑これらの試みを無効に終らせることは相当困難なことであろうし︑ま
た決して成功するとはいえないであろう︒このような不都合は︑この実験の成功を熱心に希望している優秀な人びと
から成る社会においては︑少くともしぼらくの間は︑ほとんど感じられないであろう︒しかし社会の更生案は普通の
人間を︑否かれらだけでなく多くの下層民をも︑個人的・社会的道徳において平均よりもずっと下にあるものとみな
さなければならない︒このような人を取り扱わなければならない場合には︑仕事の分配から必ず発生する喧嘩や口論
や怨念は︑共産主義者がかれらの団体のなかに見出されるものと期待しているような調和と斉一性とを大いに損うも
のとなるであろう︒そのような融合は︑いかに具合のよい情況においても︑共産主義者が想像しているよりもはるか
に撹乱されやすいものであろう︒この制度は︑物質的利益について争うことがあってはならない︑この面では個人主
義は排斥されるべきである︑と決めている︒けれども︑いかなる制度をもってしてもそれを排除することができない
他の面があって︑そこにおいては依然として名声や個人的勢力をうるための争いは絶えないであろう︒利己的な野心
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J・S・ミルの社会主義観(一)
が︑富や金銭的利益の面一すなわち多くの人びとにあっては主としてこれが働いている面である一から排除され
るとき︑それは一層の力強さをもってなお開かれている領域に赴く︒そして個人的熱情がその普通の通路から外れ
て︑その主たる満足をそのような別の方面に求めるように駆りたてられるとき︑経営上の優位と勢力をめぐる争いは
熾烈なものとなるであろうと︑予測すべきである︒これらの様々な理由から︑恐らく共産主義的社会は︑相互愛と感
情との統一という魅力ある様相︵われわれは共産主義者から︑このようなものを期待してよいとしぼしばいわれてい
るのであるが︶を呈することができないことが頻々としてあるであろうし︑かつまたしばしぼ意見不一致のために分 ︵19︶裂させられ︑そのために破壊されてしまうことも稀ではないであろう﹂と主張している︒
第三点は︑共産主義社会における公権力の支配をミルは指摘し︑かつ自由および実験の必要性を説いて︑次のよう
に論じている︒すなわち﹁その他多くの不和の原因は︑各人にとってもっとも重大な諸問題iこれは現制度では︑
各個人がそれぞれ自分の立場に立って解決してよいことになっており︑また現にそうしている一を一般の意見によ
って決定しなければならないという共産主義的精神に由来する必要に内在している一例として︑教育の問題をとって
みよう︒すべての社会主義者は若い人びとに与えられる教育が非常に重要なことを痛感している︒その理由は単に普
遍的に妥当する理由ばかりではない︒なお︑個々の市民の知性と道徳性とに対するかれらの要求が他の制度のそれよ
りもはるかに大ぎいので︑かれらは他のどんな社会よりも多く︑かれらの教育施設の優秀さに期待するであろうから
である︒共産主義の下では︑そのような設備は各市民のために集産主義的団体︵8一一①9ぞ①σo身︶によってつくら
れなければならない︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝しかし集産主義的団体に属する各成人は︑万人の利益のために設けられた集
合的制度を決定するに当って︑平等の発言権をもつであろう︒かれらが自分の子供のためにしてやりたいと欲する教
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育についてなんらかの意見あるいは好みをもつすべての人びとは︑それをうる機会をうるためには︑かれらが社会の
共同的決定においてふるいうる勢力に頼らなければならないであろう︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝しかし︑発生を予想されう
る意見の不一致でさえも︑すべての個人的意見や願望を多数者の命令の前に屈服させることによってえられる欺購的
な意見の一致にくらべれば︑人類の将来にとってはるかに小さな害悪であろう︒人間の進歩に対する障碍は常に大き
い︒そしてそれに打ち克つのに不可欠な条件は︑人間性が思想においても実践においても︑様々な方向に自発的に発
展することのできる自由をもつべきこと︑人びとは自ら考えかつ自分で実験を試みなければならないこと︑少数者の
名において行動しようと多数者の名において行動しようといずれをも問わず︑およそ支配者の掌中に︑自分たちに代
って考え︑自分たちをどのように行動させるべきかを命じるような任務をまかせてはならないこと︑これである︒だ
が︑共産主義社会においては︑私的生活はこれまでにない程度において公的権力の支配の下におかれることになるで
あろう︒そして︑個人的性格と個人的嗜好との発展の余地は︑人類の進歩的分派に属するすべての国家の完全市民の
間にこれまで存在してきたよりは︑狭くなるであろう︒すでにすべての社会において︑多数者による個性の圧縮は大
ぎくかつますます大きくなりつつある一つの害悪である︒共産主義においては︑恐らくそれはもっともっと大きくな
︵20︶︵21︶
るであろう﹂と︒そして第四点として︑ミルは︑共産主義が成功するための必要条件として︑全成員の道徳的知的教育の水準が高く
なければならないことを指摘すると同時に︑それが困難であると断じて︑ ﹁唯一つ確実なことは︑共産主義は成功す
るためには︑社会の全メンバーにおける道徳的および知的の双方の教育の高い水準が必要であるということである︒
⁝⁝︵中略︶⁝⁝生活の営みにおいて誠実勤勉にかれらの役割を果すことを可能にさせるためには︑道徳的教育が必
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J・S・ミルの社会主義観(一)
要である︒そして︑かれらに︑これらの事柄において少くとも善い忠言と悪い忠言とを区別しうるに充分なほどに︑
遠い利益を慮り︑かつ複雑な考察を可能にさせるためには︑知的教育が必要である︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝しかし︑わた
くしは︑それは非常に困難であり︑われわれの現在の状態からそれへの移行は緩慢なものでしかありえない︑と確信
︵22︶するしと述べている︒
このようにミルは︑共産主義社会の実現はなかなか困難だとしながらも︑しかしそれはまだ実験されたことがない
ので︑それは未解決の問題であり︑実験の必要があると同時に︑他方において現行制度もまた改善される必要があ
り︑したがって有利な事態の下での共産主義原理の実験と︑現行制度すなわち私有財産制度の運営において徐々に遂
行されていく改善の両方によって︑新しい光が加えられていくべきだと論じて︑ ﹁わたくしは︑共産主義的生産が近
い将来において︑人類の欲望と情況とにもつとも適した社会形態でありうるという可能性に対して︑なんらかの反応
を引き出そうとしているのではない︒思うに︑これは未だ解決のつかない問題であり︑今後も長くそうであろう︒こ
れに対して︑有利な事態の下での共産主義原理の実験と︑現行制度すなわち私有財産制度の運営において徐々に遂行 ︵23︶されていく改善との両方によって︑新しい光が絶えず加えられていくであろう﹂︑﹁わたくしは︑共産主義の成功の条
件となる道徳的諸教育の諸点においては︑社会の現状は道徳を腐敗させつつあり︑共産主義的社会だけが有効に人類
を共産主義に向くように訓練することができるという主張を認める︒そこで︑共産主義は︑実際の実験によって︑こ
のような訓練を与える力をもつことを証明すべきである︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝実験だけが明らかにしてくれる︒⁝:・
︵中略︶⁝⁝だが︑準備のでぎていない人びとを共産主義社会に強制的に引き入れることは︑たとえ政治的革命がそ ︵24︶のような企てをなす力を与えたとしても︑失望に終るであろう﹂と説いている︒このようなミルの立場は︑異った意
25
見に対する寛容というかれの思想的立場︑ ﹃自由型﹄のなかに一貫して流れている立場が︑かれの終生を通じて貫か
れていることを示しているものであって︑右のようにミルがいったからといって︑それが共産主義に対してかれがと
くに好意的態度を示しているとは︑決して断定できないのである︒
共産主義の成功のための必要条件に関しては︑ ﹃社会主義論﹄よりも共産主義的に対して好意的だといわれる﹃経
済学原理﹄第三版においても︑ミルは言及している︒すなわち︑かれはそこにおいて︑ ﹁われわれはまた二つの条件
iこの二条件が備わっていなければ︑共産主義にせよ︑必ず人類の大衆の生活を零落し窮乏化した生活となさざる
をえないであろうtが実現されてあると仮定しなくてはならない︒この二条件の一つは教育の普及であり︑もう一
つは社会の合の蓄髪制限であ埜と述べ・これらの条件が備わ・ていれば・当時の社会制度の下でも貧困は存在
しえないであろうと論じると同時に︑ ﹁またこのように肯定すれぽ︑社会主義の問題は︑社会主義者たちが一般にい
うような︑今日人類を圧倒している各種の弊害を免れる唯一の避難所に飛んでいくという問題ではなくて︑ただどち
らが優れているかを比較するという問題︑したがって将来がこれを解決すべき問題となってしまう︒われわれは︑最
善の状態における個人制がどのような成績をあげることができ︑また最善の形態における社会主義がどのような成績
をあげることができるかということについては︑目下のところあまりに知るところが少いから︑この二制度のいずれ ︵26︶が人類社会の終局の形勢となるかを決定する資格はないのであるしといって︑やはり共産主義に対してとくに好意的
な態度というものを示さず︑ただ共産主義に関して知るところがあまりに少いので︑最善の状態における個人制と最
善の形態における共産主義とを比較検討すべきだという態度をとっている︒
さて︑この個人制というとき︑それは個人の自由と自主性の最大限の許容尊重を意味するが︑ミルは﹃経済学原
26
J・S・ミルの社会主義観(一)
理﹄においても︑共産主義が標榜する平等に対して︑個人の自由と自主性の尊重という﹃自由論﹄以来の一貫した立
場から強い疑念を懐いて︑個人制と共産主義の二つの制度の選択に当っての基準として自由と自主性の尊重が決定的
なものであることを︑ ﹁もし敢えて推測を試みるとするならば︑恐らく結論を左右するものは︑ただ一つ︑二つの制
度のうちどちらが人間の自由と自主性の最大量を許すかという事柄であろう︒生存を維持する手段が保障された後︑
人間の個人的欲望でこれに次いで有力なものは︑自由である︒そしてこれは︵人間の肉体的欲望は文明が進むにつれ
てようやく穏かにもなり︑制御しやすくもなるものであるが︑この肉体的欲望とは違って︶人間の知性と道徳的能力
が開発されるにつれて︑その強さを減ぜずに︑かえって増加するものである︒社会制度および実践道徳の完成という
ものは︑すべての人びとに対し︑他人に損害を与えないという条件以外のあらゆる条件を除いて︑完全な独立と行動
の自由とを保障するということであろう︒そして世人にかれら自身の行動の自治を捨てて︑ある分量の安楽あるいは
富裕を求めるように教え︑またはこれを要求するところの社会組織というものは︑人間性のもっとも高尚な特性の一
つを世人から奪うものであろう︒それでは︑共産制社会組織というものは︑この特性の保存をどの程度まで許すであ ︵四︶ろうか︒最後にこれを明らかにしなければならない﹂と主張している︒
そしてミルは︑共産主義を含めて社会主義的企画に対して放たれる反対論は誇大なものであって︑ ﹁共産主義にお ︵28︶ける拘束は︑人類の大部分の今日と比べてみるならば︑むしろ自由であろう﹂と一応はいっているものの︑﹃自由論﹄
以来の立場から共産主義に対する不安をぬぐいされず︑ ﹃経済学原理﹄のなかで重ねて︑ ﹁問題となるのは次のよう
な事柄である︒すなわち︑共産主義には個性のための避難所が残されるか︑世論が暴君的栓楷とならないかどうか︑
各人が社会全体に絶対的に隷属し︑社会全体によって監督される結果︑すべての人の思想と感情と行動とが凡庸な画
27
一的なものにされてしまいはしないか一これらのことが問題である︒社会の現状においては︑共産主義的制度の場
合よりも︑教育および職業ははるかに多種多様であり︑全体に対する個人の隷属の度合ははるかに低いが︑その社会
の現状においてさえ︑世論の力や個人の隷属はその著しい弊害の一つとなっている︒平凡人の軌道を逸していること
が非難される社会は︑決して有益な社会だということはでぎない︒共産主義の企画は︑果して人間性の多角的発展︑
種々様々な不等性︑趣味や才能の種々相︑見地の多様性一これらのものは単に人間性の関心事の最大部分をなすば
かりでなく︑入びとの知恵を互いに衝突させて刺戟し︑各人に対し一人では思いつかなかったであろう見解を数多く
示すことによって︑精神的道徳的進歩の根本動力となるものである一と両立するかどうか︑なお将来においてこの ︵29︶点が確かめられなけれぽならない﹂と主張している︒このように重ねて共産主義に対する疑念︑とくに当時のイギリ
ス社会と比較をしてまでの不安を示されると︑ミルが︑﹃経済学原理﹄の初版におけるより三孝のほうが︑あるいは
﹃社会主義論﹄よりも﹃経済学原理﹄の三雲のほうが︑共産主義に対して好意的な立場を示していると果していえる
かどうか︑筆者にはだんだん疑問に思えてくるのである︒たとえば︑﹃経済学原理﹄の第三版は初版よりも確かにい
いまわしは柔くなっているが︑ミルの脳裡にはやはり共産主義に対する疑念や不安が消え去らず︑ ﹃社会主義論﹄に
おける共産主義に対する再度の強い批判に対する布石になっているのではなかろうか︒
なお︑ミルが論じている共産主義は︑冒頭のほうで述べたように︑マルクス主義ではないことを︑ここで再度念を
押しておきたい︒また︑ミルは︑かれが三人の共産主義老のうち︑オーウェンからあまり影響を受けているとは思わ
れない︒このことは︑ ﹃自伝﹄において︑サソ・シモン派を評して﹁これはわたくしには︑オーウェンの社会主義に ︵30︶比べてはるかにまさった種類の社会主義であると思われた﹂というかれの言葉から推してもわかるであろう︒ただ
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し︑かれは﹁サン・シモン派の人びとはオーウェンやフーリエとともに︑将来の世代の人たちによって感謝をもって ︵31︶記憶されるべき十分の資格があるといってよいであろう﹂とはいっているが︒
次回は︑ミルの社会主義に対する立場について論じ允い︒
J・S・ミルの社会主義観(一)
註
︵1︶旨ω・蜜≡℃ユロ9巳︒︒︒o︷勺巳三〇巴国8ぎヨざO巳一①90匹類︒蒔ωoh冒ゴ昌ωε9﹃仲竃≡−︿oど﹃おPおミ噛口巳く・o騰
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︵7︶ 三傷・
︵8︶一σ罠・
︵9︶守写りく︒ピ目℃●鶏①︒
︵10︶ぎ乙二℃・り謡●
︵11︶同げ崔二〇・O刈QQ・
︵12︶ 同様の指摘が山下重一氏によって︑すでになされている︵山下重一﹃J・S・ミルの政治思想﹄︑昭和五一年︑一四六頁
参照︶︒
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︵14︶閣σ置二づ﹄O刈●
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︵16︶ Hσ一畠二弓弓●刈戯一Ib∂・
︵17︶ 岡σ一畠二b・刈戯QO︒
︵18︶ 一ぴ一αこOP刈蔭Qの−縣●
︵19︶ 一σ一住二弓b●刈蔭心−α・
︵20︶ 図瓢仙こb騨刈ら㎝1①●
︵21︶ ﹃社会主義論﹄におけるミルの共産主義のこれら三つの批判点についても︑
れている︒
︵22︶ ︸︒qD︒﹈≦≡りOげ①噂8易︒ωoo㌶=ωヨ噛oO・o搾二唱・刈軽①・
︵23︶ 一ユ住.
︵24︶ 一三仙●
︵25︶ トqo.寓二r℃ユ昌9巳Φωoh男︒躍鉱︒巴国8昌︒ヨざoO・9二く︒ド目・O﹄OQQ・
︵26︶ 一σ崔.
︵27︶ 一三低二つ℃9卜QOoQI¢
︵28︶ 同三侮二や・bりOゆ・
︵29︶ 一σ一ら.
︵30︶ 一・ω・冨二r︸β8三〇〇q戦9℃げ罫︒傷.げ鴫一・望ニニロαqoがH黙ピ℃・HOO・
︵31︶ Hσ一偶二℃・円Oピ 山下氏は前掲書︑一四九一一五〇頁で指摘さ